2019/11/30
本19 川口 由一「妙なる畑に立ちて」
川口由一「妙なる畑に立ちて」野草社
内容(後半)
冬の生命、そして春へ
春は肝臓の働きが中心となっての小さな陽の営みが始まり、生命は開き、精気神気が活動を始め、新生の喜びほのぼのと湧き出づる季節であります。このひと年、そしてこれからの人生の完成へと創造心が芽生え、うれしい希望が全身に広がり、行動への意欲が静かに満ちて発進を始めます。
自然の営みからはずれてはいけません。枝葉末節にとらわれ、つまらぬものに心うばわれ、盲滅法を繰り返し、あらざるものに霊魂を任せてはいけません。最も大切なのは健康な生命であります。健康な体、健康な精神であります。知らず知らずに生命よりもお金を、物を、名を、地位を、権力を、遊びを、仕事を、芸術を、学問を・・・・大切にし、自ら不健康に身を任せ、自らに病気を許すという弱くて、おろかで、悲しい習性・・・・・・・・
目覚めねばいけません。百年の生命を全うすることも、我が人生における役目つとめを全うすることも、青年期の混沌を超えて確立した大いなる志を大成することも、この人生を真に楽しいものとすることも、決して決して成し得ない哀しい人生となり周囲にも取り返しのつかない苦しい悲しい不幸を招き残して、徐々に徐々にと、与えられた生命を食いつぶしつつ朽ちてゆくことになります。
自然の営みを観ずに目標を掲げ、自らに何かを課し、律し、理するあり方。意志力にたのむあり方は、本来本然の生命の営みからはずれて害をまねくことになります。
霊魂の営みに霊魂を注ぐのと同じだけ、我が身体の生命の営みに霊魂を注がれて下さい。絵画、音楽、彫刻、陶芸・・・・・芸術に、文学に、教育に、宗教に、学問に、お仕事に・・・・・心運ばれるのと同じだけ、我が身体の生命の営みに心運ばれて下さい。
身体の病気は生命の病気です。生命の病気が身体の病気です。病気は身体の生命の営みが本来本然からくずれているのです。病気を引き起こすのはカゼウイルス、ガンウイルス、エイズウイルス・・・・ではありません。
心の病気は生命ある身体の病気です。心の悩み多く、心の不安多く、心の苦しみ多きときはそのまま同じだけ身体が病んでおります。
精神の病気は生命ある身体の病気です。いかなる精神の病気も身体の病気であります。身体の病気を治してやらずして、生命の営みを治してやらずして、決して精神病の真の治癒はあり得ません。この理を悟らずして合成薬で、結果であり部分である神経系のみをさわってはいけません。病める人の精神を問い詰めてはいけません。狂となりし人の心を問題にしてはいけません。狂となる身体になっているのです。
僕は四十歳近くまで絵かきになりたく必死でありました。その青年期を中心に約二十年間はすごい混沌に落ち、迷いと誤りの中で心も精神も身体も大きく深く病み、壊してしまいました。それから十年余、それまでの自分の歩みと、芸術と、長い間続けてきた農業と、壊れた我が身体を漢方医学で問い、直し、正してきました。描き創り、迷いに落ち、非人となり、現代美術界をのぞいてさらに混沌が混沌となり、優れた古典を何度も何度もたずねて劣等感に落ち、うちひしがれ、暗闇の中で一人孤独な二十余年間の経験を繰り返しましたあとで、ようやく人本来の真に美しい姿を悟り得た確信であります。僕一人の中に底知れず誤りに落ちる要素がありました。
自然本来の営みからはずれますと身体は病んでいきます。身体が病むと感覚が、心が、精神が、霊魂が病みます。感覚が、心が、精神が、霊魂が病みますと必ず身体が病みます。一方だけが病むということは決してありません。一つのものです。
したがいまして医が非常に大切なのとまったく同じに、文学芸術も非常に大切なものであり、人間を含めてあらゆる生命に深く大きく関わっております。今日までの文学芸術作品が諸々の生命に及ぼしてきた影響は絶大であります。一つの作品が人間の身体、心、精神、霊魂の状態を如実に現しますのはいずれにおいても同じですが、芸術においてはまさしくそのまま、ありのままの内面が現れますので、その影響は直接的であります。
作品はその人そのものです。いかなる作品も、その人の内面よりのものです。その作者の人間性そのものです。作者の生命であり、身体であり、感覚であり、心であり、精神であり、霊魂そのものであります。
ピカソの晩年の作品に、人間が畜生の心して性欲を満たしたその瞬間を描いた一連の油絵がありますが、その絵の心は美に非ず、人に非ず、畜生に落ちた心であります。
古代ギリシャ、地中海文明の人々、古代インド、古代中国、古代エジプト、古代朝鮮・・・・・の人々に現代人の如く醜く、病んだ心はありません。紀元前後を境として大きく人の心根が変わりました。
善もまた、善だけでは在り得ず、存在し得ず、真であり、美であらねば真の善とならずであり、真、善、美、いずれが欠けても妙とはならずであります。いずれが欠けても非ざるものとなります。
耕すことも必要とせず、肥料を必要とせず、他の草々、虫達の生命を敵とせず・・・・・人々の生命とも一体となって天然自然の営みにある大根や人参、白菜達の生命は芸術の世界における真に美しい花々とまったく同じであります。何ら特殊でなく、大きくなく、多くなく、異常異質でなく、ごくごく静かにあたりまえに・・・・であります。その姿は美しく、妙なる味となっております。
耕すことも必要とせず、肥料を必要とせず、他の草々、虫達の生命を敵とせず・・・・・人々の生命とも一体となって天然自然の営みにある大根や人参、白菜達の生命は芸術の世界における真に美しい花々とまったく同じであります。何ら特殊でなく、大きくなく、多くなく、異常異質でなく、ごくごく静かにあたりまえに・・・・であります。その姿は美しく、妙なる味となっております。
不形式、不技術、不定形
皆様、あなたの身体が、心が、精神が、霊魂が、あなたの田畑の生命を、お米の生命を、野菜の生命を左右し、あなたの田畑に、お米に、野菜に必要なことを悟り知り、底に必要な形や、方法を生み出し、必要な技術を目覚めさせてゆきます。
田畑づくり、お米づくり、野菜づくりの形や方法や技術は外になく、他になく、また固定した形はありません。すべてはあなたの身体、心、精神、霊魂から生まれ出てくるものであり、常に生命の営みにしたがって変化するものです。あなたがあなたのものをつくっていきます。それがあなたの人生です。あなたの農が医が、教育が芸術が文学が、思想哲学宗教が必要なのであります。あなたの身体、心、精神、霊魂が真であり、善であり、美であり、妙なる人本来のものであるならば、然ずと真理にかなったあなたのものが生まれます。
形や方法のみをもとめてはいけません。これらは必ずついてくるものです。
農業は初めてだから・・・・と技術の有無に思い煩うことはありません。絵筆を持つあなたに、技術は一分たりとも必要ありません。 技術半分・・・・・とか、三分とか、技術なくして表現できぬ・・・・というのは考え違いです。表現するのはあなたの霊魂です。心です。技術や形が先にありますと必ず本然本来、本質に至るさまたげとなります。
田畑の生命の営みうばわず
堆肥小屋での堆肥づくりは、この大切な畑の生命の営みをうばうものであり、さらにその堆肥を鋤込みますのは田畑の生命の営みを断ち切るものであります。うばわれた上に、断ち切られて殺されることを一年に二~三回行われますと、田畑はすっかり困り、弱り続けていきます。生命の営みをうばい、断ち切っておいて素晴らしい有機堆肥で田畑の土壌をつくる・・・・・田畑を助けてやる・・・・・は大きな誤りであります。真に非ず、美に非ず、妙に非ずであります
鋤込む堆肥はもちろん真のものではありません。化学肥料、合成肥料ではありませんので生きておりますが、片寄った微生物による異常物です。田畑の土の上で、土の中で、朝昼夕夜、春夏秋冬を営み巡り、太陽や、月や、雨雪風・・・・との営みの中で枝、葉、茎、皮、種子・・・・・地表に、根は地中に還り巡るものとは、まったく異なるものです。全然違うものです。ましてや鋤込みますと、異常ではありましても生きていた堆肥の生命はそれまでです。始めなく終わりなく田畑で巡りにうちにあってこそ本来の生命であります。
美しき花園の生命達
始めなく終わりなく巡るあなたや私の生命。
数十年前から始まり数十年後に終わるあなたの生命、私の生命。
自他の別なき一つ生命のあなたや私や、お米や木々草々の生命。
個々別々の一つしかないあなたという生命、私という生命、お米という生命。
個々個々部分部分ではあり得ないあなたや私や、お米や木々草々の生命。
個々部分部分完全であるあなたという生命、私という生命、お米という生命。
ゴッホはある時期に、日本の浮世絵に接して深く感ずるところあり魅せられております。遠近なく明暗なく光と影なく立体感なく・・・・主客の別なく、ただ一本の線で描き、平面的に一色で塗りつぶした浮世絵に、未だ至れず描けず、求めてやまない信の世界が見事に描き出されていたからです。しかし自らはついにこの世界に入ることが出来ませんでした。
芸術、文学、宗教、思想、哲学、医学・・・・において、ある時期から西洋的とか東洋的とかに分かれてしまいましたが、さらに過去にさかのぼれば、東西を問わず本体本理に添っていたことを知ることができます。東西を問わず過去の人たちは芸術の世界において、医の世界において、人としてのあり方において、あるいは農において、あらゆることにおいて、決して本体からはずれることなく、唯一絶対の境地に住み本理本営を営む天然自然人として全うしていたのであります。
主流の現代芸術現代文学が、現代医学が、現代農業が、諸々の宗教が、現行の教育が、また反対に、亜流の芸術が、諸々の民間医療、漢方、鍼灸治療、健康法が、有機農業、酵素農法、自然農法・・・・・が、食養法が、あちこちで生まれている新しい教育法、いろいろのフリースクールが、果たして本理のよりのもの、真に優れたものであるかどうかを明らかとし、あなたが果たして本理に添うものかどうかの確認が、是非に大切であり必要であります。
田畑に草々虫達の生命栄えれば田畑の生命栄える。雑草は田畑の養分をうばい取るに非ず、草々虫達然ずから田畑を養う
本理の営みに任せ、本理を営む野菜や田畑の完全な働きに任せます。必要あって生命の営みを損ね、壊します場合は最小とします。目的とする野菜の生命が他の草々の生命に負けぬようにしてやることが最も大切な作業となります。特に幼きときの数日間が大切です。草々が一生を全うして閉じるときに野菜の生命が始まる場合は、その必要がありません。自然のうちに交替していきます。そうでない場合、野菜も草もまだ幼きときは草を根っこから引き抜き、その場に置きます。根は細く小さいので土が動くことはありません。野菜の生長を妨げるところにある草のみで、離れている草は生長に任せます。草がすでに生長している場合は、茎と根の接点から小さなカマで切ってやり、その場に置きます。根は土中にそのままです。
野菜がすでに生長している場合、ツル性で姿の高い野菜、雑穀類の如く硬い強い場合は、草々の茎から小さなカマでサッサッと刈ってその場に敷いておくだけで充分です。秋に入って生命の盛りを終え、成長の後半に入っている草はそのまま放っておいてやってもいい場合が多いです。これらの見分けは数年の繰り返しのうちに然ずからつくようになります。作物の生長の妨げにならない場合は出来る限り、草々の生命もその場で一生を全うして自然のうちに実り種子残して土に還り巡るに任せてやります。種々雑多な、いろいろの草々の生命が田畑で巡る方が土の生命は健康であり、そこで育つ野菜も健康であります。
楽園に生かされる生命
このお話を始めまして約二年、いろいろのお言葉が届くようになりました。これらの言葉は決して多くの量が獲れた喜び、多くの収入を得ることが出来た満足からのものではありません。また生まれて初めて、お米の種子を大地に降ろしてやった感慨の域を超えたところのものであり、「芽が出るだろうか」、「育つだろうか」、「穂が出るだろうか」、「花が咲くだろうか」と次々と心配した我れをいとおしみ、暑い夏、全身に汗流して他の草々の生命に負けぬように手を貸してやり、水の面倒を見てやり、あれこれと苦労し努力した我をたたえ、この時代に真実を求めて実行した我をほめるという、小さな我が心の域を超えたところよりのものであります。
本来本然の自分に出会った魂は二度と自分を見失うことなく、喜び、楽しみ、平安のうちに人生を全うしてゆくでしょう。
僕は僕の魂の救われることを求めてきただけでありますのに。
僕は僕の人生のことをひたすら考えてきただけでありますのに。
僕は幸せであります。
他の世間智に左右されず
邪智に惑わされず
他の分別智に流されず
妄智にふり回されず
大切な大切な私の人生なのですから。
他の真智の声、無差別智よりの説示に耳傾け
絶対の音、天の声、神の言葉を聴くこと忘れず
天然自然界の織りなす妙なる姿を観ることおこたらず
真を愛し、善を喜び、美を友とし、妙なる自由を楽しむところから離れず、
本理本営の大調和を悟り
神の親心、天の親心、父母の親心、師の親心、先人の親心に心を安らかとし
大地のぬくもりに生命を休め
諸々の気に魂を休め
天地のスキマ、空間に楽しく我が人生の絵を描き
総てのもの一つ生命の営みを識り
我もまた人として完全な生命、全知全能を喜び
隣人、同人のいることの意味をよく識り
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姿、形、体は生命です、心です、魂です、姿、形、体は生命、魂、心の表情を致しております。今あるあなたたの姿、形、体はあなたの魂の姿であります。今あるあなたの田畑の姿、形、体はあなたの魂の姿であります。今あるあなたの生活の姿、形、体はあなたの魂の姿であります。今描いたあなたの作品の姿、形、体はあなたの魂の姿であります。
いろんなことがありました
それはただの道草でした
道草の続きから離れましょう
道草を思い起こして繰り返すことからも離れましょう
そうして本当に最初から私の欲しかったものを私にたずねましょう。
たずねあてた私が安らかでありましたら私はそこに住みましょう
お米を食べる害虫を食べてくれる新種の虫を、虫達の生命の誕生の際に遺伝子を操作して作り出す・・・・というこの恐ろしき人間本位の大オロカゴト、知恵者顔してそれにたずさわる我が大オロカなる姿に気づかん。人間の都合で新しい種類の生命つくれば不用、無用ですまず、必ず悪しきことの招きとなるなり。
私たちも他の生命とともに一日を巡り、一年を巡り・・・・・さらに大きな巡りを営み続けております。僕は五十回ほど四季を巡りました。青年時代はうつろとなってさまよい、真の魂、真の体、真の人生の形を得ることが出来ず、多量の化学肥料、農薬、除草剤を用いる農業で多くの生命を損ね殺し、共に生活する家族の魂を傷つけ、自らは大きく心身を病み、疲れ、損ねて自然本来よりも老化の早い巡りであります。余命は多く、強くないのは自ら招いたことでありますが、決して自分だけに害をとどめること出来ぬ一体の営みであり、他の多くの人たち、諸々の生命達と共の生活であります。多くの生命を傷つけ損ね殺してきました。
今、母は78歳です。39歳のとき夫を亡くしております。そのとき5人の子どもがおりました。長男の僕は小学校6年生でした。父は農夫でした。先祖代々の小作農民です。僕は中学卒業と同時に農業を引き継ぎました。お盆と正月とお祭り以外は朝から晩まで田畑で農作業、雨の日は雨の日の仕事があり、冬の農閑期はソーメンづくりや、山仕事を家族全員でしないと食べていけない小農家でした。
すべての生命あるものは他の生命を食べて生命ながらえ、全ういたします。他の生命を食べずして我が生命ありません。天然自然界においてはこの食べて、食べられて、生命から生命に巡る営みがそのまま大調和の営みであります。これは一個の生命から一個の生命、部分の生命から部分の生命へと巡る一つ生命、一つ身体の大いなる営みでもあります。
僕はようやく他の生命に生かされているこの生命であることに気づけるようになりました。
他の生命あることによって僕の生命もあることを悟れるようになりました。
他の人々の働きによって今日も事無く生活できていることに気づけるようになりました。
僕はようやく「ありがとう」と言えるようになりました。
地球は神々の楽園、宇宙の楽園
大いなる宇宙は
大いなる神は
大いなる創造主は
我が子人間の老死 我が子地球の老死を黙して見つめるのみ
悲しまず 止めようとせず 止めることできず 自らも止まること出来ず
ひたすら黙して 運行また運行
地球の生命 一時の生命なり
人の生命 一瞬の生命なり
なれど神の親心は決して安易に非ず
無目的、放任に非ず
しかも神に宇宙に絶対の性質あり
神は宇宙は 善を好み悪を嫌う
善を行う人を助け悪を行う人を退ける
真において美において正においてしかり
天然自然の心に添う人なお助け
はずれる人なお退ける性なり
一寸の狂いなくゆるぐことなく
時と共に我が性質を実行する
すべて神の子宇宙の子なれど
一人のために宇宙は非ず
人間のために神は非ず宇宙は非ず
神は宇宙は自らの我が心我が生命の実行実現なり
地球の上に毒をつくることなかれ
毒をまき散らすことなかれ 汚すことなかれ
神の子地球に住むあらゆる生き物をおかすことなかれ 殺すことなかれ
山を森を野を田畑を
海を川を湖を空を
木を草を鳥ケモノを
水を土を空の気を
おかすことなかれ殺すことなかれ 我が生命人間の生命 我が心人間の心
損ね病ましめることなかれ殺すことなかれ
わがもの顔で住むことなかれ生活することなかれ
人間だけのためにつくられたに非ず
人間だけに都合の良いものを神はつくらず
知るべし悟るべし
田畑において耕さず、肥料農薬除草剤を用いず、雑草を敵とせず、害虫益虫の別なく、他の多くの生命達虫達草達と共にあるお米や野菜を少しいただいて、田畑の生命減らず衰えず、人も田畑も草々虫達お米野菜達、常に栄えて巡るその姿を写真で示し、必要な時ほんの少し手を貸してやるすべを話してまいりました。
このあり方で決して不足することなく人間の健康にとっても適量であります。また人間の生命を養ってくれる食べ物としてこの上なき本来本然の生命力をもち、神の神気宿し宇宙自然の精気を宿すお米であり野菜であります。すべて他の生命のいただきかたは同じ理であります。悟られてその理のもと、そのすべてを身につけられて下さい。
知らず知らずについ
他の生命を殺してしまう性
他の存在を認めること出来ない性
他を肯定できない性
他を否定してしまう性であります
この性を超えることが出来なければ、他も生命があることを知ることが出来ず、他の生命を生かすことが出来ず、他の生命を育てることが出来ず、他の生命の育つのを見守ること出来ず、他の生命の育つのを正しく手を貸してやること出来ず、他の素晴らしい生命力、智力能力を尊重すること出来ず・・・・・ということになってしまいます。
個々人がそうすることが出来てはじめて幸福な人間生活地球生活が実現致してゆきます。自分だけが、我が家だけが、我が国民だけが、人間だけが幸福になることは決してなく、宇宙はそんなふうには成り立っていないわけであり、生命はそんなふうには営まないわけであります。
でありますから、私の生命を私が支えて生きなければならない自他別々、個々別々の世界に住むときは、自分だけの幸福、自分だけの喜び、自分だけの人生・・・・・の追求となっていはいけません。自分の生きがい、自分の生きる道、自分は食べていけるか・・・・・等を考えるとき、自分のことだけ考えていては決して食べていける道は得られません。自分からスタートするのは当然自然でありますが、いつまでも自分だけのところにとどまっていては、決して道は明らかとならないで苦しみます。いかに聖業につくとも同じです。自分の人生の喜び、生きがいを求めてはダメであります。〝私の喜び〟〝私の生きがい〟〝私の願い〟〝私の人生〟〝私が生きる〟ことは捨てないと〝他が喜び〟〝他が生きられる〟〝他の願いが成就する〟ということが実現しないわけであります。
水田にお米が元気に生きていることを喜ぶ
畑に大根が元気いっぱいに生きていることを喜ぶ
子供が健やかに育っていることを喜ぶ
地球が元気に息づいていることを喜ぶ
友が大いに智力能力を発揮していることを喜ぶ
この心があたりまえに働くようになれば素晴らしい世界が実現していきます。私の喜びを求めているときは、他が喜ぶようには処してゆけないわけです。決して私が喜ぶために他があるのではなく、他が喜んで私も喜べるわけです。私が喜べるところは他も喜べるところなわけですが、私のことを考えているときは他のことは考えられなくなるわけです。
皆様、時同じくしてこの世に生命を得ました。それぞれに、それぞれの役目つとめを負って生かされております。役目つとめのない人はありません。大いなる天命を背負っている人もあります。それぞれ我が役目つとめ、そして天命をも悟り識って自覚、覚悟して、それを果たしきる人生であってはじめて、我が生命、我が魂の大いなる喜びがあります。果たせないと生命は、魂は救われません。果たせるべき道を得るまで、そして歩み出すまで魂は苦しみます。果たすべき道明らかとなって魂は喜び、果たすべく道についてはじめて魂は大いに働き始め、果たすべき一生となって魂は満ち足りて帰って行きます。果たすべき事が成就して魂は大いに楽しみます。
ところでこの役目つとめ、天命を正しく果たせるには〝他に捧げてこそ〟であります。それは私の人生を天命に捧げきって、私の日々をつとめに捧げきって、私の生活を使命を捧げきって、私の天命を自覚覚悟してそこに私の心を捧げきってはじめて、役目つとめ天命を果たすに必要な智力能力、生命力が働くれるからであります。
私たち人間はその地その地の諸々の生命によって最高、最善、最適・・・・・に生かされております。その国その国の厳しくも思える天候、気候、土質・・・・・にも耐えて自然のまま見事に育ち実るものをいただくことによってはじめて、その国その地のきびしい天候の中で人間が生きてゆくに必要な生命をいただけるのであり、身体健やかにして心康けく生活してゆくことが出来るのであります。したがいましてそのきびしい天候、気候、土質・・・・のもとで、自然に育ち実ることが出来る作物を栽培し、食生活の基本とすることが重要であります。
適度を知れば、常に海に魚にぎわい、野山に木々草々にぎわい、田畑にお米野菜にぎわい、人々の生命安らかに栄えて寿しくであります。
この豊かな恵みの中で家畜の必要度はほんの少しであります。飼いすぎますと本当に困ったことを多く招いていきます。地球上に、人々の上に、多くの自然界の生命達に及ぼしていきます。
耕起、施肥、施薬、施設農業は、地球の大損害
皆様、一人一人がそれぞれ後で、それぞれの村で、それぞれの国で、それぞれの島で、それぞれの家で、神々の親心悟られて、地球生命に添い、天然自然の営みに任せられての、自給自足を基本とした生活を是非確立されて下さい。是非に大切な大切なことであります。その上で是非に是非に助け合い、補い合い、それぞれの役目つとめを引き受けあって、楽しい楽園での生活とされてゆかれて下さい。是非そうあってほしく思います。
あとがき
父母、祖父母・・・・・先祖代々の小作農民の長男として生まれましたので、農家の生活や農作業のことは心身に浸み渡っていたと思います。また幼くして父を亡くしておりますので、早くから農にたずさわってまいりました。当初はスキ、クワで田畑の隅から隅まで何度も何度も耕し続け、草を取り続ける農業でありました。やがては世の流れと共に多量の化学肥料、農薬除草剤、耕耘機使用・・・・・等の農業を約二十年間、そしてその誤りに気付いて不耕起、無肥料、無農薬、草々虫達を敵とせぬ農業を十数年間やってまいりました。
人々が、あらゆる人々が、健康で楽しく平和に暮らしてゆける道への案内書ともなることが出来ましたらうれしいです。
また、それぞれの天命を悟られ、役目、使命を自覚されて、我が生命を、我が人生を、そこに捧げてゆこうとされておられます方達、すでに捧げてお働きの方達、人として我が一生を全うしてゆこうと歩まれておられます方達と響き合えます書ともなってくれますならば、なお一層うれしいです。すでに心のはずむものを感じております。
1998年12月2日 川口由一
平成22年3月