2021/05/06
秋山豊寛「宇宙と大地」農あるくらしへ
岩波書店(1999年刊)
秋山豊寛
1942年東京都生まれ。国際基督教大学卒
1966年(24歳)東京放送入社、ロンドン駐在、外信部、政治部記者、ワシントン支局長などを歴任。
1990(48歳)年12月、日本人初の宇宙飛行士として、ソ連の宇宙船ソユーズ、宇宙ステーション・ミールに搭乗、地球の映像を撮影・生中継した。
国際ニュースセンター長などを経て、1995年12月に退社。翌年1月から福島県滝根町で農業に従事する。
『こちら宇宙特派員!』(毎日新聞社)
『農をめぐる旅』(富民協会)
『農人日記』(新潮社)など
はじめに
自分が心中するつもりもないシステムの中で役割を果たすことが馬鹿馬鹿しくなったと言っては実もフタもないのですが、基本はやはり、自分の一回しかない人生を大切にする方法の一つとして選択が「農のある暮らし」だったのでしょう。
1 なぜ「農」なのか(1)宇宙から見た地球
地球との一体感
地球の青い輝きをきわだたせているのは、大宇宙の闇です。何もかも溶かしてしまうような深い闇を背景に地球が在ります。地球の青は、明るいブルーから紺になり、濃紺になり、黒くなり、漆黒の宇宙の闇に続いています。何処から来て、何処に行こうとしているのだろう、わたしたちは - 。そんな思いを抱かせる光景です。
なぜ「農ある暮らし」を始めたのかを改めて考えてみますと、やはり、宇宙から見た地球の美しさが心に刻んだ「地球との一体感」が大きな要素になっている、という気がする時があります。
地球を包む大気の薄さ
それにしても、地球を包む大気の、何と薄いこと。コバルトブルーの明るい部分は、恐らく地上20キロぐらいまででしょう。直径1万2800キロの地球を取り巻く大気の厚さは、シャボン玉の膜のような薄さです。青い地球というのは、この星、太陽系第三惑星が「大気に包まれた星」だということを本当にストレートに感じさせてくれる光景です。青く輝く、大きな存在感。それ自体が生命のかたまりです。自分が生まれ、育ち、そして死んでいく場所です。その星=地球との一体感のような熱い思いが、身体に、ゆっくりと染みこんでいく時間でした。
地球に戻ったあと、この想いをどう整理し、肉付けするかが、自分にとってのテーマだろうと深く感じていました。
(2)「環境」が問われる時代
地球規模の環境破壊
世界が環境の時代にあることを強く意識する流れの中で、宇宙プロジェクトもまた「環境」がテーマになっていたわけです。それでも、この時期の日本は、環境問題を口にすることは、何か理想主義のことのように受けとられる雰囲気だったような気がします。ゴミの問題にしろ大気汚染にしろ、合成化学物質が大量に放出された結果起こっている生態系の破壊の現状にしろ、放っておいても何とかなると考える方が非現実的であることを、実感としてはほとんど感じていなかったわけです。「地球危機」は、まだまだ、日本では言葉の上でしか存在していませんでした。
こうした中で「行動」こそ必要な時代であり、私自身も行動する時ではないかという思いは強くなりました。私は「農ある暮らし」への準備を始めていました。
(3)テレビ報道は変わった
百万円の売り上げとは
「自給を目指して食糧を自分で作ろうとしているだけですから〝農業〟というほどのものではありません。それに〝転職〟と言われても、テレビ局は辞めたものの、自分は記者だと思っています」というのが、たいていの場合の答です。税金を払うときの職業の欄には「農業兼著述業」と書いていますから、公の分類ではいわゆる兼業農家にあたります。何しろ農産物の売り上げ収入があります。椎茸を直販しており、この売り上げは百万円以上ですから、お役所の定義である「販売農家(売り上げ50万円以上)」に入ります。
農産物で百万円以上の売り上げをするには、つまり、相当な面積を必要とするわけですが、椎茸の場合、必ずしも広い平地を必要としないし、林間も使えますので、畑地をほとんど持っていない零細農家にとっても、入りやすいわけです。
テレビ報道の変質
51歳になっていわゆる管理職となり、勤務評定や、会議に出ることが主な仕事になったとき、「ああ、もう、この組織にいる意味はない」と思い切ることは自然なことでした。
視聴者が見たいもの、知りたいこと、関心をもつこと、それが必ずしも、自分が伝えるべきと考えていることと一緒とは思えませんでした。
国際ニュースセンター長
いつの頃からか、とにかく長生きして世の中を見続けたいということが、人生の目標のようになっていました。テレビ局入社以来ずっと「記者」のつもりで生きてきた人間にとって「知り」「理解」することの楽しさは、それなしには「生きる」ことではないと感じるほどに、一つの判断基準になっていました。
記者としての私を必要としない組織が、組織にとって必要な存在になるように私に求めたとしても私自身に変わる意志がなければ、お互いに不幸というものでしょう。とにかく、一回しかない人生です。それに五十をすぎた肉体は、遠回りするには時間が限られています。手応えのある人生を過ごすことが可能な場所を捜すことが賢明な選択であることははっきりしています。
人間存在の基本は「食」
人間の存在を条件付けるいくつかの要素がありますが、何より基本は「食」であることは、はっきりしています。
国際ニュースセンター長をやりながら、休みを利用して、日本の農業の勉強をかねて、各地の農家の取材を始めました。私の「農のある暮らし」への第一歩でした。二年ほどの間に、百カ所近くをまわり、稲や麦を始め、さまざまな作物、あるいは過疎の問題、有機農業、減反、特産品、新規就農、農家の主婦、あるいは畜産といった日本の農業をめぐる様々な問題の「とっかかり」をつかむための現場を具体的に取材することができました。この取材をしている間に「作って食べる暮らし」をライフスタイルの基本にする手がかりをつかんだわけです。自ら耕し、その生産物を食するということを基本にすること、大地に足を下ろした暮らしの基礎が、「農のある暮らし」、そのあたりにあると結論が出ました。52歳でした。
要は個人の暮らしのあり方を「自給」と「精神の自在性」という方向から見直し、「地球危機」という自分の状況認識と生き方のつじつまをあわせたいということです。自分にとって「農のある暮らし」は無理のない選択であり、手応えは予想以上でした。
2 時間・労働・豊かさ(1)自給を目指して
三反の田畑があれば
一般的には、十アールの水田があれば、条件の悪いところでも玄米で六俵=360キロは収穫できます。ひとり一年に90キロの米があれば充分です。ちなみに、日本人は大体、年間70キロ弱しか米を食べていないそうです。
合理的な値段で入手でき、田と畑と林がある土地なら、どこでも良かったのですが、最初から農産物は無農薬で作ると決めていたので、無農薬・有機栽培をしやすい地域であることも、条件の一つでした。
いざとなるとイモばかり?
食糧を自給することを目指して山の中の暮らしを始めてみたものの、日本全体の自給の実情と同じく、米については難しくありませんでしたが、他の作物については、なかなか目処が立ちません。
当初、三年の間に、この標高620mで何が無農薬で作りやすいかを発見して種についても自給できるようにするという目標を立てました。穀類は稲のほか小麦・ソバ・アワ・キビ・大豆各種、野菜はカボチャ・マクワウリ・冬瓜・ナス・トマト・トウキビ・里芋・サツマイモ・山芋・ねぎ・タマネギ・馬鈴薯・大根・ニンジン・エダマメ・レタス・ハクサイ・キャベツなど50種類以上試してみました。その結果、一応すべて作ることは可能ということは分かったのですが、問題は収穫可能な期間です。
秋になってナスなどが終わると、あとは、ネギ・ホウレンソウ・カブ・ニンジン・大根などが残るだけで、急速に野菜の種類が減ります。年が明ける頃は、大根とネギだけです。
大型の冷蔵庫のおかげで、馬鈴薯やカボチャは残っていますが、実に心細い状態です。この心細い状態を変えるには、やはりハウスが必要なようです。
雪は降っても30㎝くらいですから、豪雪地帯ではありませんが、寒さの方は、寒冷地仕様でないと対応できない厳しさです。ボイラー設置とまでいかなくても、ハウスがあれば、相当、自給率は向上します。少なくとも、葉もの類は確保できます。
(2)金を生まない価値
生活のリズムと暦・時刻
晴れた日には、冬の期間を除いて、屋外でする何らかの仕事があります。作業が待っています。雨の日も、家の中でする作業に欠けることがありません。
「晴耕雨読なんですか」と聞かれることもありますが、そんなのんびりした時間は、極めて少ないのが実情です。
日本の旧暦が純粋な太陰暦ではなくて太陽暦との折衷になった理由は、基本的には中国文明の影響でしょうが、もっと現実的には、稲作を中心とした農業が基礎の社会であったことと無関係ではないでしょう。
生活のリズムに合わせて時刻を設定するという発想は、農作業を暮らしの軸にするとよくわかります。江戸時代は、昼夜を「不定時法」による時刻設定があったそうです。朝の日の出、夕の日没を基準にするのだそうです。確かに、夏至の日の出時刻と冬至の日の出時刻では二時間ほども違います。一日で4時間の差になります。これを均等にして「明け六つ」から「昼九つ」を経て「暮れ六つ」にします。ですから、冬の「暮れ六つの鐘」がゴーンは、現在の「定時法」では五時半頃でしょうが、夏の「暮れ六つの鐘」は、現在では七時半すぎというわけです。
良くしたもので、夏は、昼間太陽が高いときは、外で働く気にはなれません。早起きと遅寝のおかげで、昼寝が必要です。
時間を大切にしたい
近代が妙に窮屈で、管理されすぎている気分になってしまう原因の一つに、この時間の問題があるような気がしてなりません。
劣悪といわれた当時のイギリスの炭鉱は、三交代勤務で、本来、人々が眠りに就く日暮れから地底に降りて夜明けまで働く勤務もありました。かつては、いわゆる「生産」の時間でなかった時まで「生産労働」の時間になったことで「富」は蓄積されたのでしょう。
コロンブスが西インド諸島に至り、現地に住む人々は、奴隷になり、金鉱で働かされたそうです。現地ドミニカの金鉱を取材したとき、多くの奴隷が自殺したという説明を聞きました。自分が管理した時間でなく、他人の管理する時間で生きることは、プライドを持つに人間にとって耐えられないことの一つだったのではないかという気がします。
テレビの番組など、30%、40%という視聴率を考えると、何だか妙な気分になります。日本人の三分の一、四分の一が同じ時間に同じように泣いたり笑ったりしていることは、不思議な感じがします。
私自身はといえば、現在、地上波のテレビの電波は受信していません。共同アンテナ組合に入らねば見ることができないという面倒くささもありますが、基本的には、こちらが知っておくべきだと思う情報以外の内容のニュースが少なくないということが、受信したくない理由です。見出しだけで判断できる活字に比べ、テレビは、一定の時間をそのために費やさねばなりません。オレの大切な時間を、こんなことを聞いたり見たりするために使ってはもったいない、という気分になることが多かったのです。
お金に換算できない労働
農のある暮らしは、その点で、比較的自分が時間の王様になれる暮らしのスタイルです。
自分が手にした時間を、お金に換算しない行為によって満たすことができる暮らしが、仮に「贅沢」なのだとすれば、お金で買える「品物」をたくさん手に入れる「贅沢」に血まなこになったときと同じように、もっと真剣に追求されて良いライフスタイルのはずです。むしろ、お金に換算されない「贅沢」こと本当の豊かさなのではないでしょうか。
(3)安全な食を求めて
空気と水 - 東京から阿武隈へ
環境は、身体の周辺から始めれば、空気であり水であり、食物です。生命体に悪い影響を与える可能性のある大気・水・食物を避けることが必要です。
阿武隈山中に移り住んで、少なくとも水と空気については、東京より条件は良くなっている実感はあります。
食物 - 絶対ではない「許容量」
この、国に雇われた専門家なる人々が「許容可能」と判断した農薬などが、あとになって「危険」と判断を変更されるケースは少なくありません。
科学的知見といって権威あるもののように言われても、決して「完全」ではないわけです。私たちは、専門家といえども実は、知らないことの方が多いのだということに気がつくことが、まず大切なことに思えます。
農薬と添加物
農薬について言えば、殺虫剤にしろ、殺菌剤にしろ、生物の生命反応=生化学反応に介入して、その機能を破壊することが目的ですから、平たく言えば、いわゆる「毒」の一種です。
日本の農家は、いわゆる合成化学物質である「農薬」が登場する以前から農作物を作ってきています。本来、その技術の延長線上に、農業があるべきだったのでしょうが、歴史は、別の道を辿りました。
過去「安全」と言われたたくさんの農薬が現在では使用禁止になっていることについて、かつて「安全」と判断した専門家は、どのような責任を取ったのでしょうか。塩素系農薬、有機水銀系農薬、あるいはDDT、BHC、いずれも使用禁止になっています。現在使われている農薬について「残留性が低く、分解しやすい化合物」と言う専門家は少なくありませんが、たとえば、環境ホルモン、自然生態系への影響について、どの程度、自信を持って「影響なし」と言えるか、疑問です。正直な専門家は黙ってしまいます。
要するに、判断ミスしても「責任」の取りようのない立場の人々が「専門家」として判断しているわけです。自分の生命に関わることを、このような「専門家」の判断にまかせきりにすることは危険極まりないと言えます。
遺伝子組み換え作物
遺伝子組み換え作物についても、自然環境への影響については明確な「安全」確認がないままに、全てを知っているわけではない専門家による判断がゴーサインの根拠にされています。
感覚の世界の拡大
私は「長生き」を目標として安全な食物を確保する過程に、自ら働くという要素を挿入することが大きな意味を持つという仮説をたててみました。自ら作って食べる暮らしのプロセスに、安全と安心が含まれるはずだというわけです。自ら作る、自ら耕す行為は、物理的に自らの肉体の鍛錬になるばかりか、精神を鍛え意識を高めることと一体化しているかもしれないと思い始めたのは、山の暮らしを始めて、およそ十ヶ月後、秋の穫り入れの頃でした。
ふと気がつくと、農作業そのものに、お金に換算されない価値が豊かに偏在していました。早春、乾いた大地を起こす作業中に流れる汗は、生物である自分を心地良くします。早朝の草刈りの甘い香りに値段をつけるのは難しいでしょう。田の草取りの合間に見かける様々な生き物に、視覚そのものが感じる心地よさは、いったい何なのか。安心は、必ずしも結果としての農産物だけが与えてくれるのではなく、そのプロセス全体が与えてくれていたことに気がつきます。
(4)「豊かさ」の中味
猪・山バト・台風
最初の年は、この猪に馬鈴薯を、7アールほど植えて全滅させられました。次の年は5アール、カボチャを植えて、これも被害を受けました。
四年目は油を絞るためにエゴマを5アールぐらい植えました。隣にまいた大豆は、播くタイミングが悪かったのか、発芽した途端に山バトに芽を食べられ、全滅に近い状態です。
試行錯誤の作付けですが、猪や鳥や台風の被害を受けても、その瞬間は頭に血がのぼって逆上するものの、なぜか、しばらくすると怒りは消えて、山の畑の仕事の楽しさだけが記憶に残ります。
3 はじめての農作業農家になる条件
農地を使うのは「農家」になっています。その「農家」になるには、次の条件を満たす必要があります。50アール以上の経営耕地を準備できることが第一。田でも畑でも良いわけです。次に、年間150日以上農作業に従事できること。その次の条件が少々難しいのです。農業を継続する「意志」と「能力」があること、というのです。この条件にあっているか否かを判断するのは、地元の農業委員会です。
稲を育てる
さて、稲作です。勤め人をしている間に、稲作・稲についての本は二十冊以上眼を通していましたから、理屈だけは十分仕入れてありました。
稲を育てるに当たり、三つの原則を決めました。第一に自分一人で作業できる範囲の規模でやることです。
次に、殺虫剤・殺菌剤・除草剤など、合成化学物質に依存しないこと。
第三に肥料については、できる限り、堆肥や稲わらなど、買うのではなく自分が身体を動かすことで調達できる資材を基本として、購入するとしても有機質の素材に限定すること。つまり化学肥料は使わないことです。
一言で言えば、自分の労力で有機農業をやるという決意です。
野の風に吹かれる心地よさ
一日の大半を外で過ごすことが多くなりますと、それまでの、家の中というか建物の中で過ごすことの多かった勤め人暮らしは、人間の「生物」としての部分の喜びを十分生かしてはいなかったのではないかという気になります。
手を使い、足を使い、腰を使う作業全体が、身体の機能を少しずつ調整していることが感じられます。スポーツの楽しさはスキーと水泳しか知りませんが、そうした筋肉の動かし方とは異なる喜びです。
土が毎年少しずつよくなっていることは、手のひらなり足の裏なりで感じられます。
虫たちの作る世界
田の草取りは、毎日少しずつやっても追いつかないくらいで、六月中旬には、稲の葉は、かがむと、眼の高さに近くなります。ダニ、ドロオイムシ、ユスリカなど、たくさんの虫の世界が見えてきます。
クモが増えるのは、七月になって二回目の除草の頃です。稲の茎は太く、いくつにも分蘖して、丈も30センチ以上になると、何種類ものクモがそれぞれのネットを広げています。
コナギは、可憐な感じの小さな薄紫色の花を、夏の盛りに咲かせる水草の一種です。これが田圃に増えると、稲の生育は極めて悪くなります。
草刈りの「達成感」
はじめは手鎌で刈っていましたが、長時間作業をしますと腰が痛くなるので、エンジンつきの草刈り機を使い始めました。この草刈り機の作業量には目覚ましいものがあります。畝間に伸びた草を刈り倒して、敷き込んでおきます。雑草よけ、保温・保湿のためのマルチがわりになります。
落葉の発酵する熱で
落ち葉集めは、野菜の苗を育てる温床のために重要です。裏山のクリやナラ・クヌギの葉を熊手で集めます。背負子(しょいこ)をかついで、何杯も運びます。 落葉の下の腐葉土層では、小春日和の暖かさで、うっかり草が芽を出したりしています。何だか、落葉という大地の外套を取ってしまったような気にもなります。枯葉と腐葉土の間に、薄い膜状の菌が育っています。枯葉を分解しているようです。この菌を見つけると堆肥の中に入れます。
発芽させるために電気温熱器を使う人もいますが、落葉が発酵する熱を使うこともできます。
ポイントは、熱の放出を少なくとも二週間は持続させることです。発芽後は、あまり暖かいと軟弱な苗にしかなりません。暑すぎると、苗は死にます。発芽はしたけれど、熱すぎて苗を傷めたこともありました。長年やっている人も、けっこう失敗しているらしいようです。このあたりの工夫と経験は、中学の頃の理科の実験をしている時のような、妙に興奮させられるものがあります。
農作業には、けっこうたくさん、仮説を立て、推定し、計算し、法則とまでは行かなくても、一定の約束事を理解し、実験するといった部分があります。自然に任せきり、というわけでもありません。そして又、香りや匂いや臭みや感触といった、官能的な部分も少なくありません。
大地に触れること、大地を見つめることは、眠りにも似た、癒しの力を持っているのかもしれないという気にもなります。
4 宇宙飛行士として打ち上げの時の事故で死んだら・・・
勤め人暮らしの頃も他の人から見れば、相当言いたいことをズケズケ言って、やりたい事をしてきたように見えるかもしれませんが、私自身としてはかなり譲る場合が多く、不満で、馬鹿馬鹿しいと感じたときでさえ「まあ、いいか」と処してきた記憶が多いのです。精神の自在性といったものが私にとっての価値の基準でしたが、その基準から見ると、全く自在性とかけはなれた暮らしだったような気がしてきました。
そこで考えたことが、もし、この時期を上手に生き抜くことができたら、暮らしの軸を「精神の自在性追求」に置かないと生きている意味はないのではないか、ということでした。「よし、地球に戻ったあとは、その結果がどうなろうと、イヤなものはイヤ、納得できないことは納得できない、という姿勢で生きていこう」と決めました。
このときの決心は、自分の行動の規範としては、宇宙に滞在していた時に感じた様々なインパクトによる影響よりも強いものでした。それでも、宇宙に行くという契機がなければ、こうしたはっきりした「決心」というものはなかったかもしれませんから、この時期に感じたり考えたりしたことも、広い意味での「宇宙体験」の一部と思っています。
確かに、宇宙に行く行かないにかかわらず「決心」できないことではありません。あるいは、本来、人間はこうした「覚悟」を持って生きているべきなのかもしれません。ですから、こうした「決心」は、宇宙と結びつけるべき必要はないのかもしれません。
5 眼差しは大地へ孤立する有機農業
有機・無農薬農業をやろうという人々は、特別のケースを除けば、地域的には孤立します。孤立の雨に洗われることがない自立はありません。
今でこそ、お役所も「環境保全型農業」の推進という言葉を使うようになっていますが、1970年代、80年代に有機農業を志した人々の多くは、さまざまな意味で孤立しました。
地域での孤立を覚悟する勇気は、都会での孤立に比べ、農村地域ではほとんど比較にならないほどの重みです。これは「共同体」の問題と関わっています。なぜ有機農業を始めることが孤立を招くのか。それは、まず現在の農業世界の生産・流通のシステムが、農にかかわる関連産業界の存立基盤である「近代技術」つまり化学肥料と農薬、そして機械化を中心にするシステムと構造的に一体化しているからです。
空から大量に散布する航空防除が、その象徴でもありますが、健康な人間に薬を与えるのが「おかしい」のと同じくらい、健康な植物に薬を与えるのは「おかしい」という道理は無視されます。農薬使用は科学的と強弁されます。異を唱えることは困難です。
一般的に権威ないし権力は、疑問を提示されるのを好みません。そして情報を独占したがります。疑問や質問は、情報の独占を危うくする場合があるので嫌われるだけです。農村で農薬使用が「当然」とされているなかで、「おかしいのではないか」と声を上げるものがいれば、それは権威への「反抗」とみなされます。秩序を乱す者とされます。
そんなことを言うのは「変わっている」とされ、非難され、それでも声を出し続ければ、存在を「無視」されます。要するに孤立します。ですから、有機農業をやると表明し、実践するのは、今でも、地域によっては大変勇気のいることなのです。
異分子 - 幼児体験の記憶
都会の人間にとって、田舎暮らしの厳しさは、決して農作業の辛さや、自然環境が異質であることではありません。むしろ、「社会環境」でしょう。覚悟としては日本語の通じる外国暮らしをすると思った方がよいでしょう。
私の場合は、ロンドンに三年、ワシントン郊外に四年、そしてモスクワ郊外に一年二ヶ月と、異邦人として暮らした経験があるので、大滝根山麓の暮らしは、また異質の文化の中で暮らし始めたのだと、すぐに自分で納得できました。
旅の人として暮らすことになれていたので、何の苦痛もありません。むしろ観察対象としては、日本という現実を構成する素材として、極めて興味深いものがあります。これは恐らく、私の「記者」という職業的な資質も関係している
環境汚染をどうするか
私も、環境汚染源となる道具を農作業で使っています。それはほとんど全て化石燃料の使用と関連する道具であり、資材です。耕耘機はガソリンエンジン、軽トラックもガソリンエンジン、草刈り機はガソリンと灯油の混合。運搬機とパワーシャベルはディーゼルエンジンですから軽油です。また、椎茸発生用のハウスは塩化ビニール。生椎茸を消費者に送る箱は発泡スチロール。
合成化学肥料と農薬は使っていないものの、こうした道具類と資材を使うことで、地球環境への汚染という意味では、私の手も汚れています。この汚れは、いずれ洗い流したいとは願っていますが、私個人の選択の問題としては、解決は難しい。
ライフスタイルの変更を
この地球上に60億以上の数になった大型哺乳類であるヒトは、二十世紀に「人類」という意識を普遍化しました。二十一世紀は、この「人類」という意識から「地球生命」という認識、「地球意識」の獲得が求められるはずです。
宇宙船地球号は、現在、様々な部分がいたみかけています。より遠くまで飛ぶためには、修理が必要です。先進国のライフスタイルの変更こそ、その第一歩でなければならないのではないでしょうか。
(評)
元宇宙飛行士の秋山豊寛氏が農業をやっているというので興味を抱いて、最初に手にしたのが「鍬と宇宙船」という本だった。このとき最も私の関心を引いたのは、宇宙飛行を経験した彼がなぜ農業にとり組むことになったのか、という理由だった。しかし、「鍬と宇宙船」には、そのことについて、ほとんど触れてなかった。 次に読んだのが昨年の暮れに出たばかりの、「来世は野の花に 鍬と宇宙船(2)」という本だった。これは東日本大震災と原発事故に遭った著者が、福島脱出を余儀なくされた一部始終をドキュメント風にまとめたものだった。これにも先のいきさつについては書かれていなかった。
そして、今回この本を、熊本県立図書館で見つけたのである。この本にそのことがすべて書かれていた。
これによると、彼はいつの頃からか、とにかく長生きして世の中を見続けたいということが人生の目標になっていたようである。しかし、ただ生きるのではなく、暮らしの軸を「精神の自在性追求」に置かないと生きている意味はないのではないか、と思うようになっていた。彼は、選ばれたごく少数の人間にしか経験できない宇宙飛行を前にして「地球に戻ったあとは、その結果がどうなろうと、イヤなものはイヤ、納得できないことは納得できない、という姿勢で生きていこう」と自ら決心したのである。このような決心は、宇宙飛行をしようがしまいが、常にその覚悟で生きるべきだから、この決心と宇宙飛行とを結びつける必要はないかもしれないと書いている。しかし、一つ間違えれば、スペースシャトル「チャレンジャー」のような事故が起こる可能性もあるのである。このような大きなイベントに参加するという特異な状況に置かれたときの精神状態の高揚とでもよぶべきものがあってはじめて、このような決心をするという心の高みに到達しうるのだという気がする。
そして、地球に帰ってきてからは、TBSでは管理職になったが、そのかたわら、休みを利用して、日本の農業の勉強をかねて、各地の農家の取材を始めた。二年ほどの間に、百カ所近くをまわり、さまざまな作物、あるいは過疎の問題、有機農業、減反、特産品、新規就農、農家の主婦、あるいは畜産といった日本の農業をめぐる様々な問題をつかむための現場を取材していった。この取材をする中で、「作って食べる暮らし」をライフスタイルの基本にする結論を得たという。そのとき52歳だった。
彼にとって、個人の暮らしのあり方を「自給」と「精神の自在性」という方向から見直し、「地球危機」という自分の状況認識と生き方のつじつまをあわせたとき、彼ににとって「農のある暮らし」は無理のない選択だったということである。
やはり、宇宙飛行が彼の行動に与えた影響は大きいと思う。もし、彼が宇宙飛行士に選ばれていなければ、彼はTBSで管理職になっていたとしても、ならなかったとしても、他の多くの職員と同じように、TBS職員として定年退職までの道を選んでいただろうと思うのである。
平成24年2月