本19 川口 由一「妙なる畑に立ちて」

川口 由一「妙なる畑に立ちて」
野草社
妙なる畑に立ちて

内容(前半)

春の生命(いのち)

 耕さず,肥料は施さず、農薬除草剤は用いず、雑草を敵として取り去らずとも、お米や野菜が見事に育ち実りますお話を致します。
 それは僕の小さな智力能力で、思い、考えて作り上げた一農法ではなく、一人の人間の思想、哲学、宗教・・・・・生命観、自然観、宇宙観から形づくり、固定させたものではありません。そうした固定したところから離れ、今までしてきた数多くの余計なこと、耕耘、施肥、施薬、除草、施設、土壌改良等から離れて、天然自然の変わることなき絶対なる法、神ながらの過不足なき営みに任せ、お米自らに備わっています完全な智力能力に任せますと見事に育ち実りゆきますお話です。
 この天然自然の神ながらの営みは真であり、善であり、美であり、妙なるところであります。ここに人間の手を加える必要はありません。加えてはいけません。
 その恵みをいただけばなんともいえずうれしいです。清らかに澄みわたるお米の生命は体内に広がり、人を養う精となり、元気が発するようになります。おのずとありがたい感謝の思いがしみじみと湧き出で、満ち足り、心安まってまいります。

 ここに余計なことをしてはいけません。余計なものを欲しがってはいけません。余計なところに魂を任せてはいけません。
 一枚の田を耕すというただ一つのことだけに、このものすごい準備です。もう気絶してしまいます。そうして耕すことによって得られるものは何もないのです。耕せばたくさん獲れるぞ・・・・・耕耘機を使えば楽だぞ・・・・・と思ってしまったばかりに、限りなく多くの苦労と無駄を重ねます。限りなく多くの準備が必要となり、その結果、限りなく多くの困ったことを次々と招いてゆきます。野に山に、川に海に、宇宙に・・・・・生きている地球を損ね食いつぶし、宇宙をけがし、あらゆる生き物たちの営みの障害を招いていきます。
 肥料におけるも同じです。有機、無機いずれの肥料におけるも、施設作りにおけるもその害と無駄ははかり知れません。動物フン等を多量に投入してはさらにその害ははかり難しです。また堆肥作りと投入による労力の無駄とその不自然から生じる害は大です。しかし、だから農薬、肥料、施設・・・・・を用いてはいけない、やめましょう、というのではありません。いずれも用いない方が見事に育つからなのです。用いなければ本然の生命が、本然の生命で、本然の生命に育つからです。肥料でふくれたお米をウンウン汗して担いで帰り、たくさん獲れたと喜びますが、決して実質は多くなっていません。その生命力は小さいです。生命力が不足しています。大きいから多くの人の生命をやしなえるのではなくて、大きいだけ多くの生命を損ねることになります。農薬の害が恐いから農薬を使ってはいけないという以前に、農薬を必要とするようなお米となりますのはお米の生命力が弱いということです。耕す、肥料を与えることによって弱くなったのです。生命力が弱いということは生命が完全でないということです。何かの不足です。何かの片寄りです。異常肥大です。一つの完全な生命ではないわけです。

 芸術におけるも同じです。真を問い、善を問い、美を問うということを自らに課さず、高き精霊の宿らぬ人となって、人の人たる道を見失い、ちっぽけな自己本位、自己中心の我執に落ち、醜い俗心に心を任せ、名を求め、財を求め、よこしまなる思いに霊を任せ、人に非ざる霊魂、人に非ざる心、人に非ざる感性、感情、感覚から生まれる醜い作品を、人々の前に吐き散らし、毒を出し続けています。その毒気に多くの人があてられています。

 あらゆる生命は一つです。無数にあります生命は同時に一つです。植物の生命なくして、人間の生命ありません。草々の生命なくして虫達の生命はありません。虫達の生命なくしてお米の生命ありません。一つ生命の営みなのです。個々完全な生命でありますと同時に、一つの大きな完全な生命の部分なのです。個々は部分です。部分だけでは生きることのできない不完全な生命でもあるのです。祖のある部分に人間だけが余計な手を下し、殺さずともよい生命を殺しています。人間だけが毒を作り出し、毒を投入し、毒をまき散らしています。限りなくまき散らしています。
 他の生命を食みて今ここにある生命ですが、食むのは最小限、天然自然のうちであらねばなりません。自らの適量を知らねばなりません。

 大切なことが一つあります。僕の言葉に決して執らわれてはいけません。僕の示す数字に執らわれていはいけません。言葉通り、数字通りにおこなってはいけません。言葉、数字の奥にある理に心を向けられて、その理を悟り識ってゆかれて下さい。僕とあなたの違いがあります。同じ一つの生命ですが、個々の違いがあります。僕とあなたの住んでいる場所が異なります。気候風土が異なります。同時に作物個々の性の相違があります。百人百様、百人百態、また一人百様、一人百態となるのが真の姿であり、本来のあり方です。固定したもの、決まったものは何もないのです。天然自然の理を悟ること、自らの内に宿し蔵している神ながらの智力能力を、僕の言葉や数字からの働きかけによって目覚めさせてやることが大切です。僕が発します言葉の生命、言霊が、皆様の内にある霊と共鳴して、目覚めてゆかれることが大切です。


夏の生命(いのち)

 天然自然の営みに任せたお米づくり野菜づくりは誰しも一人で出来ます。僕の言葉にとらわれずに言葉の示す彼方を悟られますとひとりでに出来るようになります。一つの言葉、一枚の写真から真の理を悟り、行えます智力能力は、無差別智の働きによってです。これは誰しもに与えられている智力で、誰しもに働くべく生かされているものです。この智力が働けば簡単に行えます。本当に簡単です。
 描き出します種々の人間の姿は、すべて自分が今日までに経験してきました自分の姿です。
 無差別智が働かなければ天然自然のお米づくり野菜づくりは出来ません。分別智の強く働くところ、世間智の深く働くところでは、決してこの素晴らしい本来、本然、神ながらのお米づくり野菜づくりの喜びを得ることはできません。

 真智 無差別智
 妄智 分別智
 邪智 世間智

 現代社会全体の大きな流れの中で指導的立場にいる人たちの多くは、分別智の世界に住んでいます。この分別智は妄智です。現代社会をリードしている分別智は真理に届かぬ迷妄の智です。決して明からむことのできぬ暗愚の智です。野菜を食べる虫を殺すのは妄智です。殺す薬を開発するのは分別智です。一方明るめば他にとって暗しです。他にとって暗しはやがて我れにとっても暗しです。これは妄智です。お米を食べて生命ある虫、虫の生命によって生命あるお米、お米の生命あるによって生命ある人間、みな一つ生命です。大調和のもとに大いなる大自然の営みです。田畑を耕せばよし、耕耘機を開発すればよし、施設をつくってその中で野菜を育てればよし、有機農法よし、堆肥をつくって鋤込めばよし・・・・・、いずれも分別智の世界に住むところより生まれいずるものであり、真理から遠く離れた迷妄の農業であります。分別智では大自然の営みは観えません。

 お米が病気になり虫におかされるのには原因があります。その原因を取り除かずして次々と農薬を開発します。一方明るめば一方暗しですので次々と新たな病害虫を招き、たま果てしなく病気や虫とたたかわねばなりません。お米はもとより健康な生命として生かされています。病気を招き、虫害を被る軟弱なお米となった原因があります。耕耘であり、施肥であり、お米や野菜が住むに不適な環境となっているからであり、さらに農薬散布、除草剤使用がお米本来の生命を弱め健康を損ねているからです。この原因を取り除いてやればおのずと健康体になります。
 無差別智働かずば、いかに学び、修行し、いかに多くの言葉を得ても、実際にのぞんで我が身体が正しく活動してくれません。だたしい判別、正しい判断、正しい決断、正しい行動となりません。蝶舞いレンゲ花咲く田畑に遊ぶとき、真智、無差別智よく働いております。その状態のときは、蝶舞いレンゲ花咲くその足元に一粒の豆の種子降ろしてやれます。一本のキャベツの苗定住させてやれます。

 真智、無差別智よく働くか働かぬかは、我が人間性、我が内なる心の問題です。ここを解決してゆかずして、いずれの仕事に携わるとも、絶対に真に優れた仕事は出来ません。

 必要なものは今あるこの天然自然界の中に必ずあります。必要を知り、必要なものを見いだし、必要度を知り、必要なものを与える知恵は無差別智です。この智よく働けば必要なものを見いだし得ることができます。大小の別なくですので大きなキャベツをつくろうというふうにはならないわけです。富むも貧しいもまだ分かれぬ所ですので、もっともうけようとか、私は貧しいとか思わないわけです。

 農夫が、私がお米を健康にするのではありません。医者が病者の健康体をつくるのではありません。もとよりそのように生かされているのです。どうか皆様の心が、真を好み、善を愛し、美を友とする人となられ、真の智、無差別智よく働く人となられ、素晴らしいお米づくり野菜づくりをされて下さい。私たち人間は小鳥達、木々草々達と同じ妙なる花園に生かされている妙なる人であります。

田畑の姿形づくり、畝づくり
 栽培場所以外の畦、水路などをおろそかにしてはいけません。畦草、農道の草は時々刈ってやり常に草々元気に育っているようにしてやります。めんどうだからと除草剤で枯らしたり、草やわらを積んでおくと草が育たなくなり、草の根なくなれば自然の力で畦は崩れ、やがて田畑の姿形もくずれてゆきます。常に季節季節の花咲く自然の美しい姿にしてやります。
 田畑の外が整いましたら畝づくりです。これは同時に排水のため、水はけのための溝づくりでもあります。これは一度だけ行えばいい作業です。耕してはいけませんで、毎昨毎昨作り替えることは致しません。
 一番の問題となりますのは水との関係です。土地の乾き具合と湿り具合です。もう一つは日当たり具合です。これらと作物の性質とを考え合わせて畝づくりをします。が、個々の性質や状態を分析したり、専門学的に調べてはいけません。その土地にたてば分かるものですし、栽培を数年重ねていればわかってくるものです。自らの生活の中で出てきた答えは最も確かなもので、素晴らしい結果につながります。常識や習慣や既成の判断から入るとしても、いずれはそこから出られて下さい。最初から既成の考えを超えて試みられることも大切です。

水田地に野菜を栽培する場合の畝づくり
 毎作耕し作りかえていれば、自然の生命の営みが破壊されて、草々、作物、虫達、小動物達の営みが繰り返せませんので、肥料を必要としない畑になっていかないわけです。無駄な労力であり、してはいけない作業です。初めにいろんな畝をつくっておいて、その畝に適した作物をこそに選んでやります。一作一作野菜の性質にぴったりの形にしてやらねば・・・・・と考えなくても大丈夫です。生命力は強くたくましく、その広さはゆったりあった方が健康に育ちます。
 いずれの場合も出来る限り土は掘り起こさぬように心がけ、必要あって畝形、大きさを変える場合は、すぐ自然の姿に戻してやります。土を裸のままに放置せず、刈草をふっておいたり、稲わら、野菜屑を一面にふっておいて一日も早く草が生え、虫達が生活できる状態にしておいてやります。

畑地の場合の畝づくり
 乾地ですので畝づくりはうんと軽くなります。
 ミツバ、フキ、ミョウガ、ジネンジョ等は畝を必要とせず、果樹の下の半日陰でまったく自然に芽を出し生育を繰り返します。
 特に乾燥地を嫌うものにナス、ピーマン、トウガラシ、ハトムギ、サトイモなどがあり、特に湿地を嫌うものにトマト、トウモロコシ、粟、キビ、ジャガイモ等です。
 
秋の生命

 お米は花咲き終えて実を結び続けております。畑ではサトイモ、サツマイモ達が子どもを太らせており、冬の大根、人参、白菜達が成長を始めております。人の生命も静まり秋の営みとなりました。すべてが秋です。秋の営みです。引き締まり、集め、結び、実り、実らせ、新たな生命へとゆわえ、つなぐ営みです。秋の三ヶ月間を容平ともいいます。容は形づくるの意です。生命が姿を現し形を定める季節です。
 この秋の季節にありて、四季を巡り、一日を巡る自然の営みから外れ、心乱し、夜更かしにおち、眠らせてやらねばならぬときにも床につかず、朝、東の空に太陽の昇るのを見ず、草々に朝露の輝けるを知らず、新しく生まれる朝の気、朝の水、朝の野菜達の生命を食まず、我が新生の生命の鼓動を聞かずして床に心身を眠らせておれば、生命養われず、精神養われず、衰えていくばかりです。畑にある大根、田にあるお米、夜明けと共にさえずり日暮れと共に巣に帰り眠る小鳥達は、決してこの天然自然の営みからはずれません。

 お米の実りの少なきをなげき、収斂結実を営むこの季節にありて、あの作業この手入れと秋の季節にあらざる思いに心とらわれ、精神乱し、心急がせ、さらに多くを求め、さらに他を求め歩いてはいけません。
 自然の営みそのものである人の生命は、この理から免れることはできません。決してです。多くの場合、この理を悟らず知らぬままの日々を重ね、四季を繰り返し、尊い生命を無駄に燃焼消滅させて我が人生、我が仕事を全うすることなく、ただやみくもに一生を終えてしまいます。不幸なことです。寂しい恐ろしいことです。四季を巡り、一日を巡り、一人の一生を巡る自然の営みのうちに完全があり、人間本来本然の姿があります。
 心と体は一つです。二つに分けることは出来ません。本体は完全な一つです。生命の営みは二つに分かれることなく、一つとなっての営みです。自然の営みから外れてはいけません。あなたも僕も天然自然です。お米も野菜も天然自然です。お米や野菜は天然自然を知っています。教えられずとも知っています。間違えることなく、はずれることなく、抵抗することなく、逆らうことなく、わがまますることなく、むやみやたらと頑張り力むことなく、自然のままに生かされるままに我がお米の一生を全う致します。

 多量の化学肥料、動物フン、堆肥、お化け酵素を持ち込まれ、耕された田畑の土は、動物植物たちとの一日の営み、四季の営みをうばわれて病んでおります。このようにして病んでいる生命の所に自然にあらざる農薬や土壌改良剤を多量に与えられ、一段と自然の営みを損ねられ、あえいでおります。

 夏の生命は夏を営んで健康であります。心臓の働き最も盛んとなり、身もも心も夏を営んで、長じ、躍動し、栄え開いて、陽を発しきってはじめて健康な生命が、冷房冷房で夏を営めなくなり、心神の衰弱を招き、損ね傷つけております。そのとき病まなくても秋に冬に病気となり、老化を早め、短命化へと輪をかけます。夏の冷害にあって実らぬお米の生命と同じです。

 皆様、人間の最高の智力であり、真の智である無差別智よく働かせて、天然自然の営みを悟り、本来本然の自然の道を取り戻されて下さい。そうして、真に優れた誠のお仕事、誠の素晴らしい人生とされていって下さい。特に、農、医、教育、芸術、日々の人間の食にたずさわっておられます専門家の方達、澄みたる無差別智よく働かされて、この僕にとらわれず、僕の言葉にとらわれず、言葉の指し示す彼方を察知されて下さい。

 自然を科学するということは、自然のいのちを観ないということです。科学すると見失うのです。科学する目は決して、いのちを観れない目なのです。科学する目は肉眼であり、見えるのは物質であって生命ではないのです。科学を絶対視する人間、信じて疑わぬ人間がダメなのです。
 天然自然の営みは、科学する肉眼では決して見えない、すべてがある生命の営みの世界です。科学する世界、肉眼で見ている世界は、今はあるがやがてなくなる物質の世界です。現代人の多くが陥っている物質中心の世界です。お金しか信じられず、物しか信じられず、我が肉体しか信じられぬ、物に執着した暗き悲しい不幸の人生に陥っている人間と、同じところにあるのがこの現代医学です。
 学校教育も、科学を絶対視したところから始まり、生命の営みは観ない方向にあります。生徒の個々の生命を観ず、個々の心を観ず、個々の精神を観ず・・・・。内容においては、生命を問わず枝葉を科学して知識化しております。自然の生命の営みを観ずして、一本の花の生命を観ずして、何科の植物・・・・、いつの季節に咲く植物・・・・、葉脈がこのような列をした植物・・・・・、葉がこのようにつく植物・・・・と知識させる教育。
 百人百様の生命の営みを観ずに、同物同質同量を百人の生命に強いるというおろかさに陥っております。

不施肥
 この田畑に栽培されたお米や野菜達は、土に降ろされ芽を出し長じ、花咲き実り結びて・・・・の営みの中で、人が手を貸してやらなければならないことは、種子を地に降ろしてやることと、幼き季節に他の草々に負けないように、草々の生育を押さえ、遅らせてやること、育つに適した環境であるように心配りしてやることと、収穫貯蔵です。同時に、次の年の種子の保存です。これだけです。育てるのは天然自然です。

 この多くの生命達は相応じ相交わりて営んでおります。人もその中の一つです。その数々の生命達の中を巡る生命は一つ生命です。一つ生命の営みです。どの部分の生命が欠けても在り得ない一つの生命であり、個々個々では生きられない一つ生命です。人間だけで生命なく、お米だけで生命なく、草だけ土だけ虫だけでの生命はなく、あらゆる生命みな集いそろいて営める一つ生命です。その上にたっての個々の生命です。人間は人間の生命であり、大いなる一つ生命の部分であります。

天然自然の営みに肥料は不要です。過不足なく誤ることなく、天然自然が用意しております。増えず減らずの営みです。ところが、畑を焼かれたり、田畑を耕されて人に壊されると、この田畑でこの完全な天然自然の営みが営めなくなり、諸々の生命、土も野菜も草々、虫達、蝶、蜂達の生命みな衰え、壊れ病み死してゆきます。それで土が痩せたから、他から肥料を持ち込めば・・・・と言うことになるのですが、それはダメです。化学肥料はもちろん、酵素も石灰も炭酸カルシウムもマグネシウムも鉄も・・・・、有機物だからと堆肥も、動物フンも、草木灰も・・・・、いずれもみな同似の非自然であり、反自然を行う毒となります。肥料を持ち込まれると、田畑の生命は自然の営みをさまたげられ、本来本然のものとなりません。肥料を・・・・との小さな知恵が、耕せばとの分別智がダメなのです。
 天然自然の営みに戻してやればいいのです。戻すの人ではありません。天然自然が行います。田畑の生命が行います。ですから実に簡単です。何もしなくてもいいのです。したらいけないのです。任せればいいのです。そうして、どこまでも任せ続けるといいのです。それ以上に多くのものを・・・・と思ってはいけません。決してそれ以上にはなりません。それ以上のものは必要ないのです。それで足りるのです。不増不減、決して増えないのです。大いなる生命の営みにどんどん増え続けることはなく、完全な生命の一定量があり、一定量の生命が増えず減らず営んでおります。肥料で増やせば毒となり、片寄った異常肥大で物質のみがふくれた病んだ生命となります。したがいまして、決して他から持ち込んではいけません。自然の営みの妨げとなります。持ち出してもいけません。田畑にある生命は、その田畑に返してやらなければなりません。
 お米の実を食べて、皮やぬか、茎や葉を他所に持ち出すとダメです。草々は邪魔と抜き取り他所へ捨てるとダメです。虫は敵と殺して田畑にいなくするとダメです。
 例えば、十人家族と十羽のニワトリと一羽のウサギの生命は、二反歩の水田と一反歩の畑にある野菜や米麦達の生命と相交わりて営まれており、田畑の生命食んで出した大小便は、他所に持ち出さず、三反歩の田畑に返して過不足なく増えず減らず、巡って常に円満相の営みであります。返すのは冬季休作地が最適です。直接野菜達に肥料として用いてはなりません。


不耕起
 決して耕してはいけません。耕すと自然の営みが大きく全体に壊れてしまいます。耕さなくても自らの営みで自ら住み心地良い状態にしてゆきます。絶対に誤ることなくです。ここに人智を入れてはいけません。自然の営みを人間は作れません。天然自然が田畑を生かして育て養っております。サトイモ掘ればすぐ土を戻して、枯れ草などを上に戻し、後は自然に任せ、必要あって畝づくりすれば、草やわら等ふりまいて、後は自然に任せます。
 ひたすら任せておくことです。人間は一握りの土とて生かすことはできません。土に生命を与えることはできません。
 今日まで耕し続けて肥料を施して・・・・の田畑も、このように致しますと三年すれば田畑の自然の営みが目でも見えるようになり、五年もすれば地表も地中も素晴らしい自然の営みをするようになり、十年もすれば実に妙なる営みとなり、田畑の生命達と一つ生命の我が生命をも識り、喜ぶようになります。

(後半につづく)

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Author:blogst66
 教職在職中に木村秋則氏の「奇跡のリンゴ」を読んで感銘を受け、無農薬農法に関心を持ち、200冊以上の農業書を読み漁りました。本を読んで農業の知識が深まるにつれ、自分でも農業をやってみたくなり、一年早く教職を退き就農しました。(2013年)
 農業は8年間続けることができましたが、持病の腰痛の悪化により、農業活動を継続することが難しくなり、一線から退きました。(2021年)
 一昨年から趣味として「個別株投資」を始め、ブログの中身も投資に関することが増えてきました。投資はまだわからないことが多く、初心者が陥りやすい失敗例などを発信しながら経験を積み上げていこうと思っています。(2022年)
 2年半続けた個別株投資に限界が見えてきました。しばらく個別株投資に距離を置きます。(2023年6月)
 植物の写真集「みちばたの花」をはじめました。過去に散歩の途中で撮った植物の写真の中から、毎日ひとつずつ紹介します。(2023年6月)

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