2010.09.28

不思議で優美な言葉

こんな経験をお持ちの方は多いと思う。
意味の分からない外国語の歌を聴き、素晴らしい歌だと思って気に入っていたのが、歌詞の意味を知ったら、案外につまらない歌だったと思い、愛着が薄れるといったことだ。
外国語の歌ばかりでなく、日本語の歌であっても、歌詞がよく聴き取れなかったり、言葉の意味が分からなかった時の方が素晴らしかったと感じることもあると思う。
また、歌詞をちゃんと知っている歌を、わざとハミングで歌ってみたら、さらに感動が深まるなどということもある。

最近のアニメの歌には、普通に聴いていては認識できないような、難しかったり、あるいは、普段使わない言葉を使っているもの、あるいは、非常に早口だったり、少々奇妙なイントネーション(言葉の音調)のために、やはり普通には歌詞を聞き取れないものが非常に多いように感じる。
また、ラップ音楽なんてのは、言葉自体は明快だが、話し言葉とは相当違うイントネーションを使うことで言葉のイメージを変容させるところに面白さがあるように感じる。
ルイス・キャロルは、子供たちのために奇妙な言葉使いで話したり手紙に書いたりして、子供たちを面白がらせたが、やはりそんなものは不思議な高揚感や楽しさを誘発する何かがある。

文明が発達すると少なくなってきたが、世界には、全く意味のない奇妙な言葉を楽しんで使う人々や、そんな言葉が呪文のような形で残っていることもある。それらの言葉はリズミカルだったり、奇妙だがどこか面白かったりして、不思議な感情を誘うことが多い。
バッハなどは、音楽でそれを優雅にやってみせただけだと言う人もいる。
全ての経験は音楽のようなものだ。言葉でさえ、本当は音楽のようなものなのだが、それに一定の意味を込め過ぎたために、音楽の持つ優美さや本質に響く効果を失ってしまったのかもしれない。最近のアニメソングやラップ音楽は、意識的にか無意識的にか、それを復活させようとするものなのかもしれないと思う。
般若心経という短いお経では、この呪文を唱えるとたちまちにして悟りに至るので、夢々疑うなと、その短いお経の中で何度も強調し、最後に呪文を紹介する。その呪文に何の意味もない。だが、同時に、何の意味もないからこそ、最大の意味がある。しかし、その意味は言葉の意味ではない。それは至高の音楽なのである。その呪文とは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ・スヴァーハー」だ。もちろん、日本で一般に使われる、インドの言葉から中国語に漢訳されたものの読みである「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテ、ボジソワカ」でも同じである。

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2010.09.27

みんなどんどん馬鹿になっていく

結婚式とかお葬式でもない限り、親戚の人達と会う機会がないという人が多いと思います。
私もそうなのですが、私は先週、親戚の男性の結婚式があり、遠方に住んでいる親戚の人達と久し振りに会いました。本当に長い間会っていない人も少なくなかったですし、冷静に考えると、後何回も会うこともない人も多いはずです。

私の親戚は、割合に田舎に住んでいる人が多いせいかもしれませんが、純朴で良い人が多いように感じます。
しかし、会うたびに、みんな馬鹿になっていくことに愕然とします。
年齢の高い人達は、どんどん老け込み、表情も乏しくなりますし、若い人でも、働きアリのようにすっかり規格化されています。
皆、世間を崇拝し、世間の教義を信じ、世間の信念に従って生きています。テレビから与えられる情報を神の言葉のように信じて疑わず、彼らの善悪、優劣の基準は全て、世間に押し付けられたものです。

私は、久し振りに会う人達に、私が2年前から1日1食になり、肉や魚を食べるのをやめ、お菓子などの間食もやめ、心身とも、少なくとも以前に比べると驚異的に健康になって能力が向上したことを話すのを、浅はかにも楽しみにしていたのですが、彼らの反応は決まっています。
「すごいねえ」「しんどくない!?」「食べないと人生、楽しくないでしょう?」「お母さん、食事の作りがいがないねえ」「私ならもたないねえ」「そんなのありえないよ」
これが彼らの決まった反応ですが、それはまさに一応の反応に過ぎず、彼らがさっぱり興味を感じていないことが分かります。そして、多少の意識的な反応としては、世間に染まった度合いの少ないはずの若い人が、テーブルに用意されたお菓子を、これ見よがしに、間抜けな顔で次々にほおばってみせることです。「やっぱり美味しいものは食べないと」と言うわけです。
そして、いつしか、私も、世間並みの会話をし、彼らも機嫌良くなります。
そして、結婚式、披露宴と進み、これまた世間的な演出で笑いと拍手が起こり、涙を誘うわけです。ほんのちょっとの演出の工夫が見られれば、「変わってたねえ」「個性的だったねえ」となる訳です。

だが、彼らは、肥満し、子供が引きこもり、楽しくない仕事をし、健康に問題を抱え、どうにもできない不安と不満の中で毎日を生きているのだということが分かります。
私が小さい時に、いろいろ良くしてくれた人達が、どんどん世間に蝕まれて愚かになっていくのは悲しいことではありますが、それを見て世間の恐ろしさを再認識し、それを叩き壊すことが人として誠実なことであることを確信できることに、彼らの犠牲に対する恩義を感じるのです。


【荘子】
「世俗にあって世俗を超える」というのが荘子の薦めるライフスタルだったかもしれませんが、近代のマスコミ社会、そして、現代の情報化社会では、いっそうの注意と心構えが必要です。
しかし、世間の性質や、それを超えたところにある、老子や荘子が「道」と呼ぶ不滅の存在については、何も変わっていません。この岸陽子訳の荘子は、とても読みやすい私の愛読書です。

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2010.09.20

真の饗宴

ある種の人間にとって、世間の宴会というのは耐え難い場所であろう。
彼らがそれと似た感覚を感じるものは、きっと、兵隊の行進を見て歓声を上げる大衆の中にいる時のものであろう。

宴会で楽しむ者、兵隊の行進を見て歓声を上げる者。それは、「考える頭を持たない顔」でしかない人間である。
アインシュタインは、行進する兵隊を見てぞっとした。
「きっと神様が間違えて頭をくっつけたんだ」
それは、行進する兵隊達だけでなく、それを見て歓声を上げる大衆に対して特に感じたものであることは間違いない。

宴会とは、自分が、考える頭を持たない顔、神様が間違えてくっつけた頭しかもっていない人間であることを宣言するための場所である。
現在では、結婚式や、主に企業の慰安関係の宴会(社員旅行や新年会など)がそれである。
そこは、世間の幻想の中に完全に飲み込まれている者、すなわち、世間の教義、信念である妄信や偏見を叩き込まれた人間であることを証明してみせる場所だ。
それは、世間に屈した、世間にとって安全な人間であることを宣誓することであり、ちょうど、大国の専制や隷属を受け入れるのと同じである。

饗宴とは、元々は、ソクラテスが、祝宴の中で哲学を説くもののことを言った。
私が目指すのは、神々の宴である。我々の深奥にいる神が、我々の魂の中に溶け入る瞬間を楽しむことが本当の宴、饗宴である。
馬鹿騒ぎも、刺激的なだけの音楽も、大量の酒も料理も必要ではない。
普段着で、日常の買い物ついでに聴きにいくクラシックのコンサートがある国では、少しは饗宴の意味も分かっているのかもしれないが、もちろん、クラシックである必要はない。
大勢で馬鹿騒ぎをするものには、本当の饗宴の価値や美点は一切ない。
頭を持たない顔、神様が間違えてくっつけた頭しか持たない人間であることにうんざりし、無理矢理にそのような者にさせるものに怒りを感じ、世間の幻想を打ち破る意志のある人間になるか、世間に隷属する奴隷であるか、今が決めどころである。

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2010.09.19

真の名言

私は、名演説といったものはほとんど憶えていない。
演説というものは、記憶に残るようなものにしようという作為がある。だからかえって、本当に鮮やかな記憶にはならない。
例えば、米国大統領の就任演説はどれも名演説らしいが、超一流の専門家が関与するそれらの演説は、私にはどれも嘘っぽく感じる。
J.F.ケネディの大統領就任演説の中の言葉、「国が諸君の為に何をするかを考えるな。諸君が国の為に何が出来るか考えろ」とか、「軍備は十分であってこそ使用されない」という言葉は、何度も目にするが故に憶えてしまったが、私の心には全く響かない。

本当に深く記憶に残った言葉というのは、たまたま目にしたり、たまたま耳にしたようなものだ。
また、敢えて、名言、名演説を求めようという気はない。それもまた作為であり、作為は本物ではない。

大相撲の横綱白鵬の連勝記録がマスコミの話題になっているが、勝利にも色々な形があると思う。
野球では、選手個人に関して、投手以外には正規の連勝はないが、連続安打記録とか、連続試合出場といったものも、1つの連勝と言えるだろう。
米大リーグにおいて、最も偉大な記録は、ジョー・ディマジオの56試合連続安打だと言う意見も多いようだ。
スポーツの世界では、連続試合出場というのも偉大な記録とされるが、連続でなくても、長く続けることで達成される大記録といったものもある。
ただ、それと同時に、大選手の引き際という難しさというものもある。記録にこだわって引退を引き伸ばすと、かえって晩節を汚すことになる。しかし、サッカーの三浦知良選手は、別に記録のためにやっているのではなく、記録が生まれることがあっても、それは本当にたまたまと考えているように思える。そういったところにも、彼が愛される理由があるように感じる。
ところで、引き際ということについて、昔、アントニオ猪木さんが、何かの時にたまたま言ったらしいことを私はよく憶えている。「力があるうちにやめるのはカッコいいですが、マットの埃をいやというほど舐めさせられてやめるというのもありかなと思う」といったようなものだったと思う。
長く続けられるというのは、「マットの埃をいやというほど舐めさせられる」時を引き伸ばす秘訣を持っていることと言える。スポーツに限らず、何かを長く続けられる人は皆そうだ。これほど大切なことはない。
プロレスで74歳まで現役を続け、連勝記録も他を圧倒する936連勝を持つルー・テーズが、特に名言というのではないが、著書に書いていた一言が、やはり私は印象深く憶えている。「何か技を1つと言われたら、ダブル・リストロック」というのがそれだ。一見地味な関節技だが、テーズはこの技に何度助けられたか分からないと言う。彼は、少年時代に、偉大なレスラーであったジョージ・トラゴスに教わったこの技のおかげで、長く栄光ある選手生活を送れたのだろう。
「何か1つ」というのは大いなる秘訣だと思う。イチローの「数字を何か1つと言うなら200本安打」とか、ビル・ゲイツが「私がソフトウェアで実績を1つあげるなら8080BASIC」と言うように、何か1つへのこだわりが力になる。
新渡戸稲造の「武士道」にも、新渡戸稲造が、毎日何かを続けることの威力を語っているが、どんな世界に目を向けても、知られているかどうかの違いはあるが、大きなことを成し遂げた者には、何か1つというものがあるように思う。一見、大したことであるかどうかは重要ではない。日産自動車で16年連続世界一のセールス記録を持っている奥城良治さんは、販売数そのものより、1日百件訪問にこだわり続けた。まあ、1日百件訪問というのは、経験者としも言えるが、1日でも大変なものである。
個人的には、スポーツの記録や、ものを売ることにあまり興味は無いのだが、学ぶべきことは学んでおいた方が良いのだろう。


【強豪セールスの秘密】
下手に熱意ある者が読むと、かえって道を誤る可能性がある。それほどの本である。

【鉄人ルー・テーズ自伝】
「地上最強の鉄人」と言われるテーズは、意外に普通の男のように感じる。
そして、貧しくて高校にも行けずに靴職人になるなど、決して恵まれたスタートではなかった。また、自分では素質的にも大したものではなかったと言う。よって、普通の人にとっても、参考になるところが多いように思う。

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2010.09.16

悪を受け入れる

理想世界とは、悪が存在しない世界ではない。

暴力は悪といえば悪だ。
しかし、若い男同士が、必要なら腕力で決着をつけるというのは正常なことではないか。
暴力のいっさいを禁止するから、大勢で暴行して殺して埋めるなんてことが起こるのである。
動物や虫の世界でも、メスを争ってオスが戦うことはあるが、勝負が付けば戦いは終り、致命傷を与えることはない。
何かの漫画で、いかにも悪そうな学生が、「むしゃくしゃするなら殴り合いのケンカでもやれ。すっきりするぜ」と言う場面を見たことがあるが、健全ではないか。
現代の不良が老人か身障者しか狙わないのは、そんな健全さがなく、負けるリスクを全く受け入れないからではないだろうか。
昔の父親は、いじめっ子に殴られて泣いて帰ってきた息子に「やられたらやり返せ」と言ったものらしいが、そんな当たり前が通用する世界では、いじめっ子の方も限度はわきまえているものである。大勢でマットでくるんで窒息死させるようなことはしないし、確かに弱い子をいじめるのであるが、そんな子が、強くはなくとも健闘すれば認めるものである。どんな世界でも、いじめは決して楽しいものではないが、弱い子が強くなる良い薬ではあるのだ。

ナンパ(軟派。街頭などで男が女を誘うこと)も悪なのだろうが、そんなものがない世の中など考え難い。それを抑えつけるから、無理矢理女性を連れ去ろうとして、挙句、言うことをきかないから殺したなどということが起こるのではないか。
ケンカやナンパなんて、昔から小説や映画によく出てくるが、それを肯定的に扱った素晴らしい作品が多いだろう。
教師が女生徒に猥褻行為を働いたなんて話は日常茶飯事となっているが、あれは、若い頃に「ちゃんとしたナンパ」をしなかった哀れな教師の歪んだナンパなのではないかと思う。実は、そんな教師というのは、40も過ぎた中年になって大真面目にその女生徒に惚れているのである。そして、そんな事件で思うのだが、狙われるのは可愛い子なのだろうから、クラスの男子で、教師を殴って制裁を加えるヤツもいないのかと情けなくなるのである。「教師を殴るなんてとんでもない」というのがとんでもない。教師なんて、ある意味、殴るためにいるのである。

国どうしの争いというのもあるのは仕方のないことだ。しかし、勝ってる方はやり過ぎずに情けをかけ、負けている方は引き際をわきまえれば、両者完全ハッピーとはいかないまでも、最悪は免れるのではないか。
戦闘機の大群を繰り出してミサイルを雨あられと降らせ、あげく原爆を使うというのは、やる方もやり過ぎだが、相手にそこまでやらせる方も問題があるのかもしれない。
個人でも、ケンカして負けたら、身体を鍛えて出直すのは良いが、陰湿な手段で復讐すると、さらにその報復を受けるものだ。

害虫や悪性ウイルスに対抗するのは良いことだが、滅ぼしてしまうのはやり過ぎで、必ず恐ろしい報復が別のところからやってくる。
たとえば、よりパワーアップした害虫やウイルスの変種が現れるのである。
実際は、害虫やウイルスに依存している部分も大きいのである。戦争で死ぬことで英雄扱いされるなら、ウイルスで死んだ人間はもっと英雄なのである。

悪は決してきれいなものではない。目を背けたくなるものである。だが、死が無ければ生がなく、闇がなければ光がないように、悪があってこその正義である。
悪と正義は同じものだし、少なくとも、お互いがお互いを伴うものである。
だが、お互いが相手を徹底的に滅ぼそうとするところに問題がある。それは、裏のないコインを作ろうとするようなものだ。
貧乏人あっての金持ちであり、醜男あってのイケメン、ブスあっての美女で、お互い、対極の立場の存在に依存しており、平たく言えば、お互いが大いに世話になっているのである。
それを、頭でなく、腹の底から理解した時に理想世界が訪れるのではないだろうか?


【荘子】
古代中国の賢者、荘子は、正義と悪というのは、立場の違いでしかなく、完成と破壊も、ものごとの捉え方の違いであると言う。
人類は、この2千数百年前の知恵をいまだ得ることができずにいるようだ。

【李陵・山月記―弟子・名人伝】
中島敦の名作短編集。「目と鼻の区別が付かない。善と悪の区別がつかない」。道に至った人間の悟りとはどのようなものか見ていただきたいものである。

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2010.09.15

魂までは奪われていない

地球征服を目論む宇宙人や悪魔や異世界人が、人間の肉体を乗っ取ってすりかわるというお話は昔から非常に多いと思う。
レイ・ブラッドベリの「ぼくの地下室へおいで」(萩尾望都さんが漫画化)や、平井和正さんの「死霊狩り(ゾンビー・ハンター)」(小説より先に桑田次郎さんにより「デスハンター」という漫画になっている)は、いずれも宇宙人が人間にとりつき、人類に気付かれないよう秘密裏に地球侵略を進めるものだ。
ジェリー・アンダーソンの人形劇「キャプテン・スカーレット」では、火星人ミステロンは肉体を持たず、人間の肉体を乗っ取るのだが、逆にキャプテン・スカーレットは肉体を奪い返し、ミステロンの能力をも得たというもので、永井豪さんの「魔王ダンテ」や「デビルマン」は、悪魔が人間の肉体を取り込むはずが、人間が悪魔の身体を奪って悪魔に立ち向かうものだ。

ところで、こういったお話は、空想でも何でもない。
我々はすでに、肉体というか、それを支配するはずの意識をすっかり乗っ取られてしまっているのである。
それは、世間という悪魔によってである。そこに宇宙人や異世界人などの意図があるのかどうかは知らないが、意志を勝手に支配されているのは確かである。
では、同じく意識を乗っ取られているはずの私がなぜこんなことを書けるのかであるが、上にあげた「キャプテン・スカーレット」の制作者ジェリー・アンダーソンの「謎の円盤UFO(原題は“UFO”)」にこんなお話がある。
地球防衛組織「シャドー」の司令官ストレイカーの親友の宇宙飛行士が、宇宙人に精神を奪われて遠隔操作され、ストレイカーを抹殺しようとする。無表情な顔で自分を殺そうとする親友にストレイカーが言う。
「心は奪われても、魂までは奪われていないはずだ」
ストレイカーの言葉が本当であったかどうかは分からなかったし、どう見ても悲観的だった。親友は元に戻らずに死ぬ。しかし、その親友が一瞬、ストレイカー殺害を躊躇したように感じられなくもなかった。
我々も、両親や学校、社会によってほとんど意識は支配されている。しかし、魂までは奪われていないと信じたい。

上にあげた、「ぼくの地下室へおいで」を含む、ブラッドベリの傑作SFが萩尾望都さんによって漫画化された「ウは宇宙船のウ」は素晴らしい作品になっている。特に私は「みずうみ」が好きで、これは別の意味で我々自身の魂を取り戻すきっかけになる奇跡的な作品だ。
ジェリー・アンダーソンやレイ・ブラッドベリは、魂までは奪われなかった人間が、我々に貴重なメッセージを送ってくれているのではないかと思う。


【ウは宇宙船のウ】
レイ・ブラッドベリの「ウは宇宙船のウ」「泣き叫ぶ女の人」「霧笛」「みずうみ」「ぼくの地下室においで」「集会」「びっくり箱」「宇宙船乗組員」を漫画化。萩尾さんの繊細で美しい絵と鋭い洞察力による理解によってまさに傑作になっている。

【10月はたそがれの国】
ブラッドベリの傑作19作品を収録。上記「みずうみ」も入っている。

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2010.09.14

女神が舞い降りる時

「ライトノベル」という小説があるのをご存知だろうか。そのままの意味では「軽い小説」だが、高校生位までの若い読者をターゲットに書かれた小説のようだ。ただし、本当にライトノベルといったものがある訳ではないし、そう言われる小説を大人が読んで何か問題がある訳でも当然ない。ただ、表紙や挿絵に、漫画風の、可愛い少女の「ちょっとエッチな」絵が描かれ、いい大人が電車の中で読むのは抵抗があるかもしれない。
ところが、このライトノベルと呼ばれるものに名作が沢山あるのではないかと思う。谷川流さんの「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズもそうで、私には、あれに芥川賞や直木賞が授与されないのが全く理解できないほどだ。

筒井康隆さんの「時をかける少女」は、日本の歴史的小説と言って過言ではないし、あれほど数多く、大作映画やアニメ映画を含め、映像化された小説もないと思うが、あれは元々、中学3年生用の学習雑誌に連載されたもので、今で言えば、ライトノベル中のライトノベルだ。それが、連載開始(1965年)や刊行(1967年)から40年以上経った今も愛読され、実際、素晴らしい作品と思うが、著者は、実は嫌々書いていたという話もある。

意外な経緯で生まれた傑作というものが時々存在する。
人類が続く限り愛唱されるに違いない「きよしこの夜」は、一介の音楽教師が一夜で作ったものだ。
また、世界の国歌の中でも名曲の誉れ高いフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の作曲者の名は、フランス国民ですらほとんど知らないが、これも日曜音楽家が一晩で作ったもので、彼の他の作品は何も残されていない。

池田満寿夫さんは世界的な版画家で、小説でも芥川賞作家であり、その受賞作品「エーゲ海に捧ぐ」を自ら監督を務めて映画化した。
ところが、池田さんは東京芸大の受験を3回連続失敗して諦め、生活のために、いわゆる「街の似顔絵画家」をしていた時は、同業者に、「下手過ぎて我々のイメージが落ちるからやめてくれ」とまで言われた。
そんな池田さんが、大きな絵画展の版画部門に出品した際、全く作品が出来ずに、締め切り間際にヤケクソで三角刀で銅版をひたすらひっかいて猛スピードで仕上げた作品が、海外の美術界の権威の目に留まって賞が与えられたのがブレイクのきっかけだった。

リラックスというか、無欲で臨むのが成功の要因と言えるような気もする。
ただし、「では、成功するには無欲でいけばいいのだな」と意気込むのは、救いようのない勘違いだろう。

筒井康隆さんが「時をかける少女」を、あまりやる気がなかった理由は、彼があまり好きでない学園ものだったということもあるかもしれないが、何と言っても、事実上中学3年生限定という読者対象の狭さが関係ないとは言えないだろう。
SF作家の平井和正さんにも、中学生用か高校生用だったかは忘れたが、昔、学習雑誌からの依頼があり、平井さんは「悪徳学園」という作品を書いたが、すぐに担当者が青い顔で返却に来たらしい。その理由は読めば分かる。昔、マイケル・J・フォックスがまだ健常者で人気絶頂の俳優だった頃、ホンダの乗用車インテグラのCMに出た時のコピーに「エッチにもほどがある」(「エッチ」は、ホンダのマーク「H」にかけた洒落)というのがあったが、この小説もエッチにもほどがあった。今の時代でも掲載不可能と思う。


【時をかける少女】
「時をかける少女」はもちろんだが、同時収録の「悪夢の真相」「果てしなき多元宇宙」が素晴らしい。

【時をかける少女】
「涼宮ハルヒの憂鬱」「灼眼のシャナ」で有名な人気イラストレーター、いとうのいぢさんの萌え画をカバーイラストにした新装版。同時収録作品は「時の女神」「姉弟」「きつね」になっている。

【悪徳学園】
平井和正さんの有名な「ウルフガイシリーズ」の番外編と言える。中学校が舞台。本文記事に書いたが、猥褻にもほどがある。ただし、私は、これを学習雑誌用に渡した平井さんが嫌いではない。戦後に中学生だった平井さんには、小説の中の話なら慌てることでもないのだろう。

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2010.09.11

本当に2番じゃだめなのか?

ある男のところに、ある日、この世のものとも思えぬ絶世の美少女がやってきて、可憐な花のように恥じらいながら、美しい言葉で婉曲(遠回し)に、私はあなたのものなのだから好きにしていいと言う。
こんなことをやった女神が、ギリシャ神話の美の女神アプロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)だ。
男は英雄アンキーセースである。アンキーセースも、彼女の姿を初めて見た時は、あまりに美しいので、女神か、あるいは、ニンフ(妖精)と思ったが、彼女は、自分はただの人間なのだと言う。
なんと言ってもアプロディーテだ。どんな美少女アイドルだろうと足元にも及ばないはずだ。
神々すら、それも大神ゼウスすら抗うことが出来ないと言われる美の女神に、人間であるアンキーセースなどひとたまりもないだろう。

もっとも、日本の古神道に伝わる話では、神が人間の修行者に術を授ける最後の試験が、長い禁欲を守らせた後に、その者の理想とする女を幻術で創り出して誘惑させ、それに耐えなければならないというものがあるらしい。言うまでもなく、合格者が出たためしはない。

さて、アンキーセースがアプロディーテから感じた美がいかほどのものであったかは想像もできない。
だが、仏教には、それをうまく表現した話がある。
お釈迦様の従弟のアーナンダは、16歳の素晴らしい美少女との結婚を控え、心は浮き立っていた。だが、お釈迦様は、アーナンダに、結婚なんかやめて出家しろと言う。当然、アーナンダにそんなことは出来ない。
そこで、お釈迦様は、雪山にアーナンダを連れて行き、よぼよぼに老いたメス猿を見せ、「お前の妻になる女と、この猿ではどちらが美しいか?」と問う。アーナンダは憤慨して、「私の妻になる女に決まっています」と答える。
次に、お釈迦様は、アーナンダを天国に連れて行って天女を見せ、「では、お前の妻とこの天女では?」と問う。アーナンダは、「私の妻になる女とこの天女では、さっきのメス猿と私の妻になる女ほどの違いがあります」と答える。
「アーナンダよ。出家し、修行すれば、この天女はお前のものだ」
アーナンダが、すぐに出家を決意したことは言うまでもない。

そのものズバリは表現できなくても、何かの比較とで想像をさせる話の技術である。一種の類推(アナロジー)で、説法の名人には、これを上手く使う者が多い。イエスも優れたたとえ話を多用したことは知られているし、「20世紀最大の詩人」と言われるW.B.イェイツも、イエスの比喩(たとえを使った表現)の才能を高く評価していたらしい。

尚、アプロディーテの偉いところは、彼女自身、アンキーセースに恋したのだが、執着しなかったことだ。
彼女は、アンキーセースに「キュテレイア(アプロディーテの別名)と寝たなどと公言してはただではすまぬぞ」と言って去り、この時のアンキーセースの息子で、後のトロイア王アイネイアースを産む。
女神でも、月の女神セレーネは羊飼いの少年エンディミオンに、曙の女神エーオースはティトノスという人間の男に恋し、結局は不幸なことになった。執着したからだ。
(武内直子さんの「美少女戦士セーラームーン」では、セーラームーンことセレニティと、タキシード仮面ことエンディミオンは、このギリシャ神話のお話を基にしている)
アプロディーテもエーオースの失敗を教訓にしたと思われるところがある。
ところで、アプロディーテは、ヘパイストスという夫がありながら、この姿の醜い夫を厭って、男神の中でも1、2を争うイケメンのアレス(英語ではマーズ)と浮気してフォボスとディモスという神を産むが、アレスはエーオースと浮気する。
ギリシャ神話の神々は実に奔放である。

さて、アプロディーテは最も美しく、このお話のように思慮もあるが、神々の王ゼウスの正妻ヘラや、知恵の女神アテーナとなると、その賢さはいかばかりかと思う。
ところが、こんな話がある。
争いの神エリスが、神々の宴(海の女神テティスと人間の英雄ペレウスの結婚式)の中に、黄金の林檎を贈った。「世界一美しい女へ」とのメッセージを添えて。
この林檎を、アプロディーテ、ヘラ、アテーナが争う。「私が一番美しい」と。これがトロイア戦争の原因を作った(実際は、その後の複雑な経緯で戦争に至る)。

一番にこだわるとロクなことはない。
蓮舫議員の事業仕分けの時の「2番じゃだめなんですか?」として記憶に残ったスーパーコンピュータの研究開発であるが、スーパーコンピュータというのは、クレイ・リサーチ社のシーモア・クレイが徹底して世界最高性能にこだわったことも関係していると思うが、1番には大きな価値が感じられるものである。
ただ、クレイは、天才的な開発者であると共に、事業家であり、研究開発費は自分で賄い、そして破産した。しかし、復活し、さらに開発に情熱を注いだ。そして、彼の業績は偉大であった。彼が1番にこだわったからだ。

蓮舫議員のは、白雪姫の継母の王妃に、魔法の鏡が「1番じゃないといけないのですか?2番じゃだめなんですか?」と言ったようなものだろう。
ちなみに、アーナンダは、修行するうちに天女のことは忘れた。
仏道の修行を積むと、美と醜は同じものであることを悟る。そして、1番は2番と、そして最下位とすら共にあるものであることも理解する。それが分かってこその1番である。


【四つのギリシャ神話】
日本の古事記もだが、ギリシャ神話の神々も実に個性的で人間味に溢れている。特に、こういった伝承の話は面白い。しかし、奥深くもあり、興味は尽きない。ヘルメースの悪知恵は今日の西洋世界に影響しているし、また、ある専制国家が、意外に外交上手なのも、これに学んだとも思えるくらいである。

【あなただけができることをやりなさい ソフトウェア界の偉人23人の名言集】
コンピュータ世界の偉人達の実に興味深い物語である。これを読むと、コンピュータに対する認識が大いに変わり、達人になるかもしれない。

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2010.09.10

本物の騎士が優雅な理由

誰しも、一度は、コンピュータウイルスを作る者がいるから、ウイルス防御ソフトの開発、販売会社が成り立っているのではないのかと考えたことがあると思う。
ところが、その考え方に、奇妙な違和感や、何か釈然としないおかしな気持ちを持ったと思う。
しかし、いったい、なぜそんな感情を持つのだろう?
泥棒がいるから警察があるのは当たり前である。しかし、泥棒あってこその警察と言わないところに人々の幻想がある。

テレビのニュース番組で、裁判の話題では、裁判長や裁判官のいかめしい顔がよく映し出される。なんであんな尊大(高慢、横柄)な顔をするのだろうと思うが、彼らも、嫌でもそんな顔をしないといけないのだろう。
裁判官は罪人との立場の差を見せ付けなければならない。しかし、罪人あっての裁判官だ。裁判官の存在価値は犯罪者の存在に負っている。本当は両者は同等なものだ。少なくとも、裁判官も、場合によっては被告人席にいる可能性があると思ってこそ、良い裁判が出来るのではないだろうか。

スーパーマンは「自由と正義とアメリカンウェイ」のために戦うらしいが、それなら、「専制と悪とアメリカ的でない思想」あってこそ活躍できるのである。
仮面ライダーは、ショッカーに逢ったら、「いつもお世話になっております」と言った方が良い。そうしていれば、もっと良い世の中になるかもしれない。
「ゲキテイ」と言われて、それが、「サクラ大戦」というアニメ(ゲームから始まっている)の主題歌「檄!帝国華撃団」を略したファンの間での一般的な呼び方であるとは分からない人が多いだろうが、原作者(広井王子さん)自らの手によるその歌詞の中の「悪を蹴散らして正義をしめすのだ」という勇ましい歌詞は良いのだが、それは1番で、同じ部分が2番では「悪を滅ぼして正義をしめすのだ」となる。しかし、悪を滅ぼしてはいけない。悪を滅ぼせば正義も、そして、世界も滅びる。悪に負けてはいけないが、限度を知らないといけない。
「悪は滅ぼすもの」というのは、現代人に刻み込まれた極端で硬直した思想であり、幻想、洗脳と言って良いものだ。
だが、夜を滅ぼして昼がないように、波底(波の谷)がなければ波頭がないように、悪がなければ正義もない。
「セーラームーン」は、「愛と正義のセーラー服美少女戦士」だったが、原作では、セーラームーンは、これまで戦ってきた敵は自分のきょうだいのようなものと悟る。彼らが自分に引き寄せられたのは、愛する人を求める気持ちと同じだと気付き、愛おしさすら感じる。アニメの方では、「悪の根源たるカオスは、本来あるべき場所に戻った。それは人の心の中」と言うにとどめたが、それでも大進歩である。後の舞台(ミュージカル)では、原作通りのことが言われたが、見ていた小さな子供たちの意識の底に残っただろうか?

昼は夜を伴い、波頭は波底を伴い、愛は憎しみを伴い、快楽は苦痛を伴い、幸福は不幸を伴うように、正義は悪を伴う。
武士道というのは、太平の世でありながら、働きもせず厚遇される武士の後ろめたさが生み出した奇妙な道徳だという考え方があるらしいが、西洋の騎士道というのは、高貴さの中にも遊び心を持ち、悪は叩くが、やり過ぎは品格のないこととして戒めるところがあると思える。テレビで見る裁判官の顔は、どう見ても騎士の顔ではない。騎士の本当の優雅さは、この世の真の姿をそれなりに悟った大人の雰囲気なのだろう。


【半神】
わずか15ページの中で、愛と憎しみが全く同等であることを劇的に示した萩尾望都さんの傑作漫画。野田秀樹氏により舞台化され好評を博した。

【名人伝】
弓道を極めた名人は、「善と悪の区別が付かない」と言った。世間を超えた者の姿を見てどう感じるかは読者次第である。

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2010.08.30

相談メールを送ってこられる方々に

時々、私に相談のメールを送ってこられる方々がいます。
ご本人には深刻と思われる内容が大半ですが、私にはどれも、大した問題とは思えないものばかりです。
しかし、自分の問題は自分で解決するしかありません。

私は、おそらくは、いかなる問題に対する解決方法も分かるのだろうと思います。ただ、それは、単に原則が分かるからで、別に私が優秀な訳ではありません。
しかし、実際は、私にも、家族、親戚といった、ごく近しい人達の問題すら、何一つ解決してやることも出来ません。
彼らに、目の前で解決方法を述べても、彼らはうつろな目でいます。彼らは、自分が取り込まれている世間の妄信の範囲のことしか聞こえないのです。
自分の問題は自分で解決するしかなく、私が解決してやることはできないのですから、これではお手上げと言うわけです。
そして、現代の、欲望を煽られて強固にされた人々の妄信(共同幻想になってしまっています)は、昔、イエスがやったような、たとえ話を使った説法では歯が立たないような気がします。
丁度良い指標としては、24時間テレビ、高校野球の特集番組、NHK青年の主張コンクールなどがあります。これらを見聞して気持ち悪さを感じないなら、かなり世間の妄信に取り込まれていると言えるでしょう。いうまでもなく、それらの個々の内容自体は悪いものではありませんが、それに対する全ての人の反応の仕方を一定の方向に持って行こうとする不気味な意図が存在します。

何か深刻と思える問題を抱えているなら、まずテレビを見ないことです。特に、視聴率の高い番組は絶対に見てはいけません。ニュース番組すら、マインドコントロールが含まれる場合も多いですので注意した方が良いでしょう。「猛暑です」「本当に暑いですね」を連呼するのもそうなのです。私は、日中、外を歩く時でも厚手の長袖シャツと冬のスラックス(ジーンズの場合は夏も冬もありませんが)です。私も暑いとは思いますが、いっこうに平気です。ニュースで言うほどひどいと思っていないからです。早朝によく放送されているテレビショッピング番組は、目覚めのもうろうとした心に幻想を叩き込む恐ろしいものです。
そして、食を慎むことです。これは、心身に極めて良いばかりか、世間の妄信を疑うきっかけにもなります。
少食は私にはできませんという人がいますが、それは、やろうとしないだけのことです。極端な少食は薦めませんが、大食、美食を避けることが出来ないはずがありません。それができないなら、あらゆる問題の解決は諦めるしかないかもしれません。
大人なら間食はせず、決して満腹するまで食べてはいけません。もし、問題を解決したい願望が強いなら、肉食はせず、朝食か昼食の少なくとも1つは抜くべきです。「ドカ喰い」などというものは、人間のやることではなく、ブタのやることとと心得て下さい。実際には、動物だってそんなことはしませんので、ブタ以下というわけです。
こう言うと、「コーヒーやココアは駄目ですか?」「飴はどうですか?」と聞いてくる人もいますが、あきれたものです。彼らには、無制限か全く駄目の両極端しか思い浮かばないのです。何事もバランスです。

幸福はテクニックで得られるはずがありません。
テクニックを求めている自分に気付いたら、その考え方を変えるべきでしょう。
大切なことは、心穏やかでいること、現状のままで幸福を感じることであり、そのためにテクニックなどはありません。ただ、過剰な欲望を捨てれば良いのです。

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