人間してる私、猫してるペット
「私は会社員をしている」「私は弁護士をしている」という言い方はよくするが、「私は人間をしている」とは言わない。
これは、会社員とか弁護士といった社会的立場というものが一時的なものであり、その者の本質でないことを示している。
「女している」というのが、「男している」より比較的よく聞くのは、女らしいという条件が性的魅力に偏り勝ちなのに対し、男らしい条件は地位や財力などで長く保つことも可能だからだろう。
女性は、歳を取っても、出来る範囲で外見に気を配り、細かい心遣いができれば「女している」し、男は若くても逞しさがないと「男している」と言えないかもしれない。
名前がウイリアム・ウイルソンなら、「私はウイリアム・ウイルソンです」とは言うが、「私はウイリアム・ウイルソンしています」とは、まず言わない。
名前というのは、職業と違い、滅多に変わらないからだ。
しかし、世界一のセールスマンであるポール・マイヤーは、世界的事業家になっても、ホテルに宿泊する時の職業欄に「ザ・セールスマン」と書くという逸話があるように、仕事において一流である者は、自分を職業と同一視したがる傾向があるようだ。
さて、男である、女である、新聞記者である、野球選手である、ビリー・ジーンである、王である・・・といったところで、その全ては、我々の本質ではない。
また、ある時代劇で「お前ら人間じゃねえ」と言ったりとか、いつかの麻薬撲滅キャンペーンであった「麻薬やめますか、人間やめますか」といったキャッチコピー(広告。英語では単にコピー)が考えられるように、人間というのも、それほど不変なものでもなさそうだ。
我々は、学生したり、社長したり、男したり、女したり、そして、人間しているに過ぎない。
そこらでにゃあにゃあ鳴いているのは猫しているのであり、空で閃光を走らせているのは稲妻しているのである。
それらは全て現象に過ぎず、本質ではない。
イエスは「神の子」であり、釈迦は仏陀である。ただし、自我としての彼らは自分をそう言わない。イエスが自らを神と言う時は、彼が言っているのではない。一方、自我が私は神だ仏陀だという教祖は危ない人だ。「神している」と言うのは勝手だが、役者は演じているものと同じではない。
大学生や会社員という立場が一時的であるのと同様、男とか女とか、メリー・アンとか、さらに人間であるという立場も一時的なものだ。
今、人間であるという真面目さでもって仙人することもできるが、それもまた一時的なものだ。
一時的でない、永遠不変なものが我々の本質だ。
静かなブームである自分探しの終着点とは、それを見つけることである。そこに至らずに偽物を自分とみなすよりは、一生探す方が誠実ではあるが、探し物は早く見つけた方が良い。
「探し物は何ですか?」と聞いて、「夢の中へ行ってみたいと思いませんか?」と言うのが世間の策略である。夢など壊してしまわなくてはいけない。
インドでは、太古の昔から、「あなたはそれだ」、あるいは、「あなたは彼だ」と言ってきた。言葉で言い難いからといっても、もっと分かりやすく言って欲しい気もする。
我々は宇宙ですらない。宇宙は我々の身体に過ぎない。言ってみれば、「宇宙している」という状態が考えられるだけだ。
本質でないものを本質でないと認識することで、割合にたやすく「それ」を知ることができる。
自分は、単に「男してる」「女してる」「サラリーマンしてる」「人間してる」だけだと認識することだ。
しかし、社会的立場の高い者は気の毒だ。それが一時的で他愛もないものであることを認めたがらない。
イエスも言った。「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と。
金持ちすることが悪いということは決してないが、単に金持ちしているのだということをよくよく忘れないことだ。
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