2010.09.24

人間してる私、猫してるペット

「私は会社員をしている」「私は弁護士をしている」という言い方はよくするが、「私は人間をしている」とは言わない。
これは、会社員とか弁護士といった社会的立場というものが一時的なものであり、その者の本質でないことを示している。

「女している」というのが、「男している」より比較的よく聞くのは、女らしいという条件が性的魅力に偏り勝ちなのに対し、男らしい条件は地位や財力などで長く保つことも可能だからだろう。
女性は、歳を取っても、出来る範囲で外見に気を配り、細かい心遣いができれば「女している」し、男は若くても逞しさがないと「男している」と言えないかもしれない。

名前がウイリアム・ウイルソンなら、「私はウイリアム・ウイルソンです」とは言うが、「私はウイリアム・ウイルソンしています」とは、まず言わない。
名前というのは、職業と違い、滅多に変わらないからだ。
しかし、世界一のセールスマンであるポール・マイヤーは、世界的事業家になっても、ホテルに宿泊する時の職業欄に「ザ・セールスマン」と書くという逸話があるように、仕事において一流である者は、自分を職業と同一視したがる傾向があるようだ。

さて、男である、女である、新聞記者である、野球選手である、ビリー・ジーンである、王である・・・といったところで、その全ては、我々の本質ではない。
また、ある時代劇で「お前ら人間じゃねえ」と言ったりとか、いつかの麻薬撲滅キャンペーンであった「麻薬やめますか、人間やめますか」といったキャッチコピー(広告。英語では単にコピー)が考えられるように、人間というのも、それほど不変なものでもなさそうだ。

我々は、学生したり、社長したり、男したり、女したり、そして、人間しているに過ぎない。
そこらでにゃあにゃあ鳴いているのは猫しているのであり、空で閃光を走らせているのは稲妻しているのである。
それらは全て現象に過ぎず、本質ではない。
イエスは「神の子」であり、釈迦は仏陀である。ただし、自我としての彼らは自分をそう言わない。イエスが自らを神と言う時は、彼が言っているのではない。一方、自我が私は神だ仏陀だという教祖は危ない人だ。「神している」と言うのは勝手だが、役者は演じているものと同じではない。
大学生や会社員という立場が一時的であるのと同様、男とか女とか、メリー・アンとか、さらに人間であるという立場も一時的なものだ。
今、人間であるという真面目さでもって仙人することもできるが、それもまた一時的なものだ。

一時的でない、永遠不変なものが我々の本質だ。
静かなブームである自分探しの終着点とは、それを見つけることである。そこに至らずに偽物を自分とみなすよりは、一生探す方が誠実ではあるが、探し物は早く見つけた方が良い。
「探し物は何ですか?」と聞いて、「夢の中へ行ってみたいと思いませんか?」と言うのが世間の策略である。夢など壊してしまわなくてはいけない。
インドでは、太古の昔から、「あなたはそれだ」、あるいは、「あなたは彼だ」と言ってきた。言葉で言い難いからといっても、もっと分かりやすく言って欲しい気もする。
我々は宇宙ですらない。宇宙は我々の身体に過ぎない。言ってみれば、「宇宙している」という状態が考えられるだけだ。
本質でないものを本質でないと認識することで、割合にたやすく「それ」を知ることができる。
自分は、単に「男してる」「女してる」「サラリーマンしてる」「人間してる」だけだと認識することだ。
しかし、社会的立場の高い者は気の毒だ。それが一時的で他愛もないものであることを認めたがらない。
イエスも言った。「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と。
金持ちすることが悪いということは決してないが、単に金持ちしているのだということをよくよく忘れないことだ。

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2010.09.22

友達がいないのは恥ずかしいことでない

友達が出来なくて悩む大学生がよくいるらしい。
学食で1人で食べるのが、寂しいのではなく、恥ずかしくてトイレで食べるような人もいると聞く。
この、「寂しいのではなく、恥ずかしい」というのはよく分かる。
幼稚園から大学、さらには、会社でも、常にグループ活動が強いられ、1人で行動することに罪の意識を持つように強要されてきたはずだ。

しかし、そんな人はもう心配無用である。
そんな人の話題が多いということは、「1人ぼっち」である「仲間」が大勢いるということだ。そして、それは、最も正常なことなのだ。
友達がいないからといって、その人に親愛の情がない訳ではない。むしろ、仲良しグループというのは、グループ外の者に非常に排他的、薄情な場合が多いものだ。
友達がいなくても恥ずかしいことではない。これは絶対に間違いない。
友達がいても別に悪くはないが、いないならいなくて良いし、無理に友達を作る必要はない。作為的に友達を作ってもロクな友達はできない。

友達がいないということは、無理矢理徒党を組ませる学校の策略をかわした賢い人であるということだ。
グループ行動をする者の方が奴隷根性を植えつけやすいのだ。学校は奴隷生産工場である。

私が幼稚園の時、1人でジャングルジムの天辺に居たら、女性教諭が私を見て、「1人で遊んでるの?」と言った。
見ての通りである。なんでそんなことをわざわざ聞くのだ。
空に太陽がさんさんと輝いている時に「良い天気ですね」と言うのは、暗に雨降りを悪いことであると言っていることであるように、「1人で遊んでるの?」と聞くのは、「友達と遊びなさい」という非難や蔑みを感じさせるものだ。

最初に、学食で1人で昼食をとることを「寂しいのではなく、恥ずかしい」という気持ちが分かると書いたが、私も、ほとんど友達というものを持ったことはないが、寂しいと感じたことはなかった。しかし、学校や会社の中で、「不都合」「辛い」「苦しい」ということは大変に多かった。既に書いた通り、社会というのは、グループ活動をしないと、非常に居心地が悪く、屈辱を与えるところである。奴隷とはグループ活動をするものであり、単独活動してはならないものだ。奴隷でないことは許されないのが社会である。

友達がいないなら、天使と友達になれば良い。
自分が天使になれば天使の友達もできる。別にこれは、メルヘンでも何でもない。
天使とは、仏教でいう菩薩のようなもので、神や仏に近付きつつあるものであり、世間ではなく、宇宙を主と認めているというだけのことだ。
天使になる方法なんて、誰でも一度は目にしたことがあるはずなのだ。
優れた詩や文学やエッセイはもちろん、現代ではアニメの歌なんてのも、宇宙が作者に霊感を与えて書かせているのだから、案外にあちこちに見られる。
それは、簡単に言えば、感情に無防備になることだ。哀(悲)しみ、嘆き、あるいは、怒り、屈辱、羨望といった、日常何度も感じるものに対してだ。
それらをまっすぐに受け止める。すると、心はぐらつく。ぐらつかせておけば良い。やがて抜け落ちる。その時はもう天使になっている。
自分が天使になれば、同じ天使の友達もできるかもしれないし、目に見えない友達も良いものだ。宇宙そのものが親愛に満ちた友である。

時空(とき)を越え刻まれた悲しみの記憶
まっすぐに受け止める君は光の女神(てんし)
~ETERNAL BLAZE(詩:水樹奈々)より~

愛しさに傷ついて 天使に生まれ変わる
哀しみを追い越して 彼女は天使になれる
~いつか天使になれる(詩:田村直美)より~

刻み込まれていた証(しるし)に
導かれまた倒れる時も
見つめ合った一瞬が千年の記憶を越え 光に変わる
~agony(詩:KOTOKO)より~

米国の光明思想家ヴァーノン・ハワードの著書にそういったことが書かかれている。世間の話に慣れた頭には、一見何が書いてあるのか分からないが、実際的なことが詳しく書かれている。

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2010.09.21

悟りの体験はその後が大切

悟りを開くと言いますと、それは物凄い事であると考えられているかもしれません。それは、仏教の考え方の影響があると思われます。
仏教では、悟りを開くことを、解脱と言いまして、この世の束縛を一切超えてしまって、永遠の仏陀になることとされます。
しかし、その考え方はちょっと置いておいた方が良いと思います。
悟りは誰でも開けます。ただし、悟りを開いたからといって、すぐに仏陀やキリストになるわけではありません。

鈴木大拙という著名な仏教学者が、菩提樹の下で悟りを開いた時のお釈迦様の頭の中に、大きなクエスチョンマークがあったと言ったようですが、実際、お釈迦様は、悟りを開いてから、何日もそこに座り続けたと言われます。
それは、悟りの楽しみを味わったというのもあるかもしれませんが、何と言いますか、悟りを定着させるとか、悟りと一体化するとか、現代的に言うと、右脳の強烈な閃きを左脳に移すのに多少の時間がかかったのだと思います。

心理学者のアブラハム・マズローは、至高体験という精神状態を発見しましたが、至高体験は、英語で“Peek(最高の) Experience(体験)”と言い、「至高体験」とはまさにそのままの直訳です。これを悟りと言って良いと思います。なぜなら、悟りこそ最高の体験に他なりませんから。
マズローは、偉大な人間とそうでない人間の「唯一の」違いは、この至高体験があるかどうかだけであるとまで言いました。そして、至高体験を人為的に起こすことは不可能と考え、それを得るには、ただ幸運に頼るしかないと言っていました。
しかし、マズローと交流のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、至高体験は人為的にも起こせるし、ありふれたもので、誰でも体験していることを発見し、マズローも認めるようになったと言われます。

悟りを開いても、あるいは、至高体験が起こっても、それはすぐにすり抜けてしまうのが普通だと思います。
強烈な悟りや至高体験が起こった時、確かに一瞬、宇宙の真理のようなものを感じ、気分が高揚し、幸福感を感じることがあります。ウィルソンもマズローも、至高体験とは、つまるところ、自分が幸運だと感じることだと言っていたと思います。
しかし、それはすぐに消え、日常の意識が戻ってきます。
それはなぜかというと、こういうことです。
至高体験は、おそらく、ウィルソンも認めていたと思いますが、ロマン・ロランの言った大洋感情と同じものです。それは、自己が全てと一体になった没我の状態です。
至高体験とは、まさに、没我の状態で、英語で没我をエクスタシーと言います。
しかし、自我が戻ってくると、当然、その状態でなくなります。
むしろ、強い至高体験、大洋感情、悟りを体験すると、かえって自我が強くなってしまうことがよくあります。いったん引っ込んで、存続の危機を感じた自我が、しっかりと心に居座ろうとするかのようです。
それが、新約聖書に書かれた、悟りを開いたイエスが悪魔に試されたことであると思います。悟りを開いても、悪魔の誘惑に負け、かえって落ちた人間になってしまうことが多いようです。
だから、巷によくいる「宇宙の真理を見た」なんて人には、よくよく注意しないといけません。
スポーツ選手というのも、悟りの体験が多いものですが、特に現代のように、栄光や金が待っているようなものでは、残念ながらほぼ全て悪魔の誘惑に負けてしまっているように思います。
また、逆に、悟りしかとりえが無いような貧しい宗教家や精神主義者も、悟りによりかえって自我が盛り返して高慢で自己中心的な人間になるものだなあと思うこともあります。難しいものです。

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2010.09.18

人間がいるから宇宙がある

次のような奇妙な話が科学の考え方にある。

人間あってこその宇宙。
人間がいるから宇宙がある。

これを「人間原理(Anthropic principle)」と言う。この言い方では正確ではないと言う人もいると思うが、他のどんなに簡単に書かれた人間原理の説明も、抽象的過ぎて意味が分からない。そもそもが、言葉で正確に説明できるようなことでもないので、これで良いと思う。
ところで、上のようなことを聞いたら、大方の反応は、
「そんな馬鹿な!宇宙に無数にある銀河の中の辺境のこの星に、たまたま生命が生まれ、たまたまこんな形に進化したのが人間だろう?」
といったものであろう。
これは、例えてみれば、サルがデタラメにキーボードを叩いたら、ノーベル文学賞を受賞できる小説になる可能性もゼロではないといった考え方だ。我々は、実はそんな考え方をしているのである。

人間原理と関係あると感じるお話に、インドの詩人タゴールがアインシュタインに言ったものがある。
「人が見ているから月がある」
また、「シュレディンガーの猫」という量子物理学の有名な命題は、
「箱の中の猫が生きているか死んでいるかは、人が箱を開けて確認した時に決まる」
といったものだ。
いずれも、やはり、「正確でない」と言われる書き方だが、他のどんな説明も五十歩百歩(ドングリの背比べと同じ意味)と思う。

タゴールは科学は素人であるが、世界的量子物理学者であるハイゼンベルクはタゴールの教えを受けたことがある。
また、江戸時代の禅僧である道元の「正法眼蔵」を見ると、道元も人間原理を直観で分かっていたように感じる。

さて、人間原理であるが、これを提唱(意見を主張すること)する科学者も、これを「馬鹿な」と反発する方も、半分抜けているように思う。それが、両者の意見が合わない理由のように感じるのである。

人間あってこその宇宙。
人間がいるから宇宙がある。

というのは、当然なのだ。しかし、同時に、

宇宙あってこその人間。
宇宙があるから人間がいる。

というのも正しいのである。
ほとんどの人が、人と宇宙の大きさの違いに騙されているように思う。
早い話が、人と宇宙は同じものなのだ。

我々が誤解したものの見方、考え方をしているのは、イエスの次の言葉の捉え方からも感じるのだ。
「人に悪口を言うのは、天に向かってツバを吐くようなものだ。それは自分に返ってくる」
考え方は正しいが、どうも誤解を生むのである。
実際は、地にツバを吐いても、自分にツバを吐いているのと同じなのである。
だって考えてみると良い。
我々は、皮膚の内側を自分と考えているが、自分の周りの空気や熱や、足元の大地を取り去れば、一瞬でも生きられない。人間は根本的に生命であり、あえて感情を交えずに言えば、死体は物だというなら、周りも含めて自分という人間だ。
エコロジーに関しても、大誤解をしながら色々言ってる人が多いが、人と環境は一体であり、相伴うものであり、もっとはっきり言うなら、環境も自分なのだ。
どの範囲の「周り」「環境」が自分かと言えば、宇宙全体としか考えられない。
だから、宇宙が我々の身体であると言っても、さして違和感は無いと思うのである。


【唯脳論】
我々の現実は、本当は脳で感じることだけであるということを理解すれば、世界は変わると思う。ちょっと難しいが重要な書だ。

【涼宮ハルヒの憂鬱】
この本の中で、ちょっと怪しいイケメン高校生の古泉一樹が、主人公のキョンに人間原理を説明している。キョンの反応は「そんな馬鹿な!」である。

【大きく考えるための小さな本】
世界的量子物理学者、フレッド・アラン・ウルフによる、最も優しく面白い量子物理学の入門書。
ウルフが量子物理学を志すことになったきっかけは、幼い時の超常体験であり、エイリアンとの遭遇だった。

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2010.09.11

本当に2番じゃだめなのか?

ある男のところに、ある日、この世のものとも思えぬ絶世の美少女がやってきて、可憐な花のように恥じらいながら、美しい言葉で婉曲(遠回し)に、私はあなたのものなのだから好きにしていいと言う。
こんなことをやった女神が、ギリシャ神話の美の女神アプロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)だ。
男は英雄アンキーセースである。アンキーセースも、彼女の姿を初めて見た時は、あまりに美しいので、女神か、あるいは、ニンフ(妖精)と思ったが、彼女は、自分はただの人間なのだと言う。
なんと言ってもアプロディーテだ。どんな美少女アイドルだろうと足元にも及ばないはずだ。
神々すら、それも大神ゼウスすら抗うことが出来ないと言われる美の女神に、人間であるアンキーセースなどひとたまりもないだろう。

もっとも、日本の古神道に伝わる話では、神が人間の修行者に術を授ける最後の試験が、長い禁欲を守らせた後に、その者の理想とする女を幻術で創り出して誘惑させ、それに耐えなければならないというものがあるらしい。言うまでもなく、合格者が出たためしはない。

さて、アンキーセースがアプロディーテから感じた美がいかほどのものであったかは想像もできない。
だが、仏教には、それをうまく表現した話がある。
お釈迦様の従弟のアーナンダは、16歳の素晴らしい美少女との結婚を控え、心は浮き立っていた。だが、お釈迦様は、アーナンダに、結婚なんかやめて出家しろと言う。当然、アーナンダにそんなことは出来ない。
そこで、お釈迦様は、雪山にアーナンダを連れて行き、よぼよぼに老いたメス猿を見せ、「お前の妻になる女と、この猿ではどちらが美しいか?」と問う。アーナンダは憤慨して、「私の妻になる女に決まっています」と答える。
次に、お釈迦様は、アーナンダを天国に連れて行って天女を見せ、「では、お前の妻とこの天女では?」と問う。アーナンダは、「私の妻になる女とこの天女では、さっきのメス猿と私の妻になる女ほどの違いがあります」と答える。
「アーナンダよ。出家し、修行すれば、この天女はお前のものだ」
アーナンダが、すぐに出家を決意したことは言うまでもない。

そのものズバリは表現できなくても、何かの比較とで想像をさせる話の技術である。一種の類推(アナロジー)で、説法の名人には、これを上手く使う者が多い。イエスも優れたたとえ話を多用したことは知られているし、「20世紀最大の詩人」と言われるW.B.イェイツも、イエスの比喩(たとえを使った表現)の才能を高く評価していたらしい。

尚、アプロディーテの偉いところは、彼女自身、アンキーセースに恋したのだが、執着しなかったことだ。
彼女は、アンキーセースに「キュテレイア(アプロディーテの別名)と寝たなどと公言してはただではすまぬぞ」と言って去り、この時のアンキーセースの息子で、後のトロイア王アイネイアースを産む。
女神でも、月の女神セレーネは羊飼いの少年エンディミオンに、曙の女神エーオースはティトノスという人間の男に恋し、結局は不幸なことになった。執着したからだ。
(武内直子さんの「美少女戦士セーラームーン」では、セーラームーンことセレニティと、タキシード仮面ことエンディミオンは、このギリシャ神話のお話を基にしている)
アプロディーテもエーオースの失敗を教訓にしたと思われるところがある。
ところで、アプロディーテは、ヘパイストスという夫がありながら、この姿の醜い夫を厭って、男神の中でも1、2を争うイケメンのアレス(英語ではマーズ)と浮気してフォボスとディモスという神を産むが、アレスはエーオースと浮気する。
ギリシャ神話の神々は実に奔放である。

さて、アプロディーテは最も美しく、このお話のように思慮もあるが、神々の王ゼウスの正妻ヘラや、知恵の女神アテーナとなると、その賢さはいかばかりかと思う。
ところが、こんな話がある。
争いの神エリスが、神々の宴(海の女神テティスと人間の英雄ペレウスの結婚式)の中に、黄金の林檎を贈った。「世界一美しい女へ」とのメッセージを添えて。
この林檎を、アプロディーテ、ヘラ、アテーナが争う。「私が一番美しい」と。これがトロイア戦争の原因を作った(実際は、その後の複雑な経緯で戦争に至る)。

一番にこだわるとロクなことはない。
蓮舫議員の事業仕分けの時の「2番じゃだめなんですか?」として記憶に残ったスーパーコンピュータの研究開発であるが、スーパーコンピュータというのは、クレイ・リサーチ社のシーモア・クレイが徹底して世界最高性能にこだわったことも関係していると思うが、1番には大きな価値が感じられるものである。
ただ、クレイは、天才的な開発者であると共に、事業家であり、研究開発費は自分で賄い、そして破産した。しかし、復活し、さらに開発に情熱を注いだ。そして、彼の業績は偉大であった。彼が1番にこだわったからだ。

蓮舫議員のは、白雪姫の継母の王妃に、魔法の鏡が「1番じゃないといけないのですか?2番じゃだめなんですか?」と言ったようなものだろう。
ちなみに、アーナンダは、修行するうちに天女のことは忘れた。
仏道の修行を積むと、美と醜は同じものであることを悟る。そして、1番は2番と、そして最下位とすら共にあるものであることも理解する。それが分かってこその1番である。


【四つのギリシャ神話】
日本の古事記もだが、ギリシャ神話の神々も実に個性的で人間味に溢れている。特に、こういった伝承の話は面白い。しかし、奥深くもあり、興味は尽きない。ヘルメースの悪知恵は今日の西洋世界に影響しているし、また、ある専制国家が、意外に外交上手なのも、これに学んだとも思えるくらいである。

【あなただけができることをやりなさい ソフトウェア界の偉人23人の名言集】
コンピュータ世界の偉人達の実に興味深い物語である。これを読むと、コンピュータに対する認識が大いに変わり、達人になるかもしれない。

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2010.09.07

われはロボットという自覚

突飛に感じるだろうが、もしあなたが、自分は人間でなく、アンドロイドだということが分かったら、どう感じるだろうか?
ショックだろうか?おそらく、そうだろう。
しかし、なぜだろう?
自分の身体が血肉でない、機械だからか?
それとも、自分の心というものが、コンピュータプログラミングに過ぎないからだろうか?
その身体が、人間以上だとしても駄目だろうか?
心とは、コンピュータプログラミングと比べ、そんなに優るものだろうか?
慶応大学大学院教授で、ロボットや人工知能などを研究している前野隆司さんは、著書の中で、自分が機械だと分かったとしても、どうということはないし、そんな時代は来るだろうと著書に書いている。人の心(クオリア)は、今は作り方が分からないが、そんなに難しいものと思えないという。

1973年の永井豪さんの漫画作品「キューティーハニー」は、何度もアニメ化、映画化される人気作品だが、この作品の画期的なところは、16歳の女子高生である如月ハニーが、ある日突然、自分がアンドロイドだったと知るが、ごく普通の感性を持つ彼女が、ほとんど葛藤を起こさないというところだ。彼の父親は、「ロボットが何だ、人間が何だ。お前は私の可愛い娘だ」と言い、ハニーも納得する。そして、回りの人達や、彼女を愛する人間の青年ですら、全くこだわらないのだ。
一方、古いアメリカのテレビドラマ「トワイライトゾーン」では、やはり、ある日突然、自分がロボットだと知った男は、自分を作った科学者を殺す。
このテーマのお話は、実際は大変に多いのだろうが、ハニー型とトワイライトゾーン型に分かれると言えるかもしれない。すなわち、アンドロイドの心がおだやかである場合と、非常な動揺や葛藤を起こす場合だ。
こういったお話が興味深いのは、そこには、人間の心の奥に潜む、重大な疑問があるからだ。
「私はいったい何者なのだ?」である。

そして、人は薄々は気付いているのだ。自分が本当はロボット、あるいは、コンピュータのようなものであることに。
そんな馬鹿なと思うだろうか?
我々は、自分の心というものが、自分固有の特別な何かだと思っている。考え方、好み、信念、主義こそが自分であり、それは何者にも侵すことのできない大切なものであると。
しかし、それは、ただの作りものかもしれない。普通は、多くの部分を母親が作る場合が多く、その他の家族がいくらかの個性を与え、学校や社会といった世間に押し付けられた考え方や感じ方を保持しているだけのことではないのか?
嫌なことに感じるかもしれないが、その嫌だと感じること自体が、作られた感性だ。あなたに、自分とは、良く言えば独立した、しかし、言い方を変えれば、孤立した頼りない存在だと思わせるのは、単に社会の都合からである。

だが、安心して良い。作り物の個性や自我を取り去ったら、大変なことが起こる。
あなたは、「歓喜の歌」を歌う。それは、ベートーヴェンの名曲にもなったシラーの詩の通りだ。「神の火花、楽園の乙女が、世間が引き割いたものを、再び1つにする」のだ。
私は、自分がアンドロイドであると諦めているのだ。「生きながら死人となり果てて、思いのままになすわざぞよき」(至道無難)である。


【われはロボット】
ロボットに心はあるのか?ロボットと人間の友情や愛情は成立するのかを初めて問うた歴史的傑作。
1950年の作品であるが、その価値は全く衰えないばかりか、現在において、ますます重要になってきたと感じる。

【脳はなぜ「心」を作ったのか】
現代科学が解明してきた脳の働きは意外なところも多く、我々の持つ、思考や感情の概念を修正してくれると思う。それは、一時的にはショックなところもあるが、我々が真の進化をするのに重要なヒントを与えることになるかもしれない。

【脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ】
世界的脳神経学者が説く、脳と心の驚異の新事実。天才、精神病から、聖者の体験まで説明してしまう現代科学は凄い。
しかし、だからこそ、分からない部分の神秘への畏敬は増すばかりではないだろうか?

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2010.09.04

ニワトリと卵の真相

「ニワトリと卵はどちらが先か?」という歴史的にも世界的にも有名な問題がありますね。
「どっちが先だ」なんて考え方を脱却することが人類の進化です。

「ニワトリと卵のどちらが先か?」なんてのは、「春と秋のどちらが先か?」と言うようなものです。
夜と昼ではどちらが先かなどと言えるでしょうか?

道元は「正法眼蔵」の中で、「薪の後に灰があると思ってはならない」「生の後に死があると思ってはならない」と注意しています。
「薪は薪になりきり、灰は灰になりきっている」
「生は生になりきり、死は死になりきっている」
そのように書かれています。
余計な解説は不要ですが、ただ言っておくと、「薪は薪で固定されたもの」「灰は灰という単独のもの」というのではありません。
「私は私」「あたなはあなた」なんて言いますよね。
英語にも、“I am me”、“You are yoy”という同じ言葉がちゃんとあります。
「自分らしくあれ」という意味なんでしょうが、世間というのは変なところで、そう言っておきながら、「日本人らしく」「クリスチャンらしく」「名門校の生徒らしく」「わが社の社員らしく」「スポーツマンらしく」とか言うのですね。
これは、「自分らしく」の意味を大誤解しているのです。それは何千年も前からかもしれませんけどね。
「ニワトリが先か、卵が先か?」なんて奇妙なことを考えるのも、そんな考え方に凝り固まってしまったことが原因です。

ニワトリはニワトリになりきり、卵は卵になりきっていますが、それらは不可分です。ニワトリは卵を伴い、卵はニワトリを伴っています。同時に存在しています。
夜と昼って不可分でしょう?同時にあるものです。
さらにいえば、夜は世界と不可分だし、昼は世界と不可分です。ニワトリは世界そのもので、卵は世界そのものです。
犯罪者も世界と不可分で、我々とも不可分です。我々もまた犯罪者です。犯罪者が犯罪者を裁けるはずもありません。自分は犯罪者じゃないと思い込んでいる人って、どこかおかしいと思いませんか?

昼と夜では、それぞれが長過ぎて、一緒にあることが分かり難いかもしれませんね。
でも、例えば、光ってのは、明と暗が凄い速さで交互にやってくる波動なんですよ。音は、それよりはずっと遅いですが、同じく波動です。そのゆっくりしたものが海や池の波で、さらにゆっくりなものが夜と昼です。
光なら、明と暗が一体であるということがイメージしやすいと思います。
子供って輝かしいですね。光と同じで、ちゃんと明と暗があるのですが、その交換が速過ぎて光しか見えないからです。歳と共にその交換が遅くなります。
若い頃に光ばかりを求めた人って、老人になると闇だけです。まあ、それが普通ですけどね。
でも、「レ・ミゼラブル」に出てくる、ミリエル司教の妹のバティスティーヌは、若い時ですら美しくなく、ずっと暗でしたから、老人になってから高貴な輝きをまとったのです。
1人の人に関しても、闇を嫌わなければ光を得られますよ。

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2010.09.03

どのくらいの金持ちが幸せか?

ロンダ・バーンの「ザ・シークレット」にもあったが、「請求書を受け取ったら、それと同額の小切手をもらったと思え。そうすれば、本当にお金が入る」というのは、昔からよく聞く教えである。
これは、本当のことである。ただし、そんなことを本当に信じられる者が滅多にいないというだけのことだ。
請求書と小切手が同じもの・・・これは、「荘子」でいう「万物斉同の理」、すなわち、全て斉(等)しいという真理であるが、「荘子」にも、そんなことを理解できる者がいかに少ないかを、実に美しい言葉で表現しているくらいだ。

正反対に見えるものが実は同じものであるというのは、道元の「正法眼蔵」には一貫して見られると感じる。当然、道元はこのことをよく分かっていて、それをなんとか理解させようとしたのかもしれない。
良寛さんが、縁あって「正法眼蔵」を読んでいたことはよく知られている。当時の日本では、本といえば書き写すしかなかった時代で、良寛さんは大ラッキーだった。
良寛さんは、「荘子」すら読むことができた。
しかし、良寛さんは、ある時期まで、万物斉同の理を完全に悟っていなかった。
真理の理解というのは、練習問題を解いて達成できるものではない。その理解は自然に生じるものであり、直観であり、それを悟りという。
あくまで聞きかじりであるが、良寛さんが悟った様子を書いてみる。
良寛さんが子供好きで、子供たちと一緒に遊んでいたことはご存知と思う。ところが、昨日までそこにいた女の子が今日はいなくなっているということがよくあるようになる。貧しさのために、親に身売りさせられたのだ。
良寛さんは、自分の無力さを嘆き引き篭もって、苦しみ続けた。
そんな時、良寛さんに、「正法眼蔵」の教えが浮かぶ。光と闇は同じもの。コインの裏表は一体であることを、苦しみの中で理解する。
私は、この話を聞いた時、「なぜ、コインの表裏が一体ということと、身売りされた少女のことが関係あるのか」と思ったが、大抵の人もそう思うだろう。しかし、それが理解できるのは悟りによるしかない。
悟りには、苦しむことが必要かもしれない。
それは、強烈な心の不安定を調製するような、大きな反動かもしれない。

万物斉同の理を理解すれば、こういうことが分かると思う。
例えば、あなたは大富豪になれるかどうかだ。大富豪とは、数百億円といった資産持ちのこととするが、そうなることは、可能性はあるが確実ではない。
だが、確実と言うなら確実とも言えるのだ。それはこういう訳だ。あなたが、大富豪を目指して達成できなくても、世の中には大富豪は必ずいるし、これからも現れる。それは確実なのだ。
「そんなんじゃ嫌だ。自分が大富豪にならないなんて」と思うだろうか?しかし、誰が大富豪になっても同じことなのだ。
大富豪なんてのは、そんな良いものじゃない。ウォレス・ワトルズの本にも書いてあるが、お金持ちの大半は悲惨なものだ。特に、家庭や健康に大きな問題を抱えているのが普通だ。必ずしも、金持ちが家庭や健康を損なう必要があるわけではないが、万物斉同の理を理解していないので、そういった問題に対処できないのだ。
かつて、邱永漢さんは「賢者は中金持ちをめざす」(1984)という本で、30年ほど前の時代で、使える現金が月に百万円くらいがベストと書いていた。それは税金の問題もあるが、普通の人間の器では、平安でいられるよう対処できるのは、その程度までと悟っていたのだと思う。
私なら、大富豪にしてやると言われても断わりたい。ビル・ゲイツは数兆円相当の資産があるといっても、それを自分のものとは思っていない。しかし、彼は、 17歳の時からフルタイムで働き、あらゆる苦難に挑んできたし、これからもそうするだろう。しかし、私ならまっぴら御免である。そんな器ではない。
だが、それなりに苦労を知る人なら、数千万円から数億くらいなら、バランスを取りながら持ち続けることも可能かもしれない。それでも、煩い事は多いかもしれず、無い方が良いかもしれないのだ。

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2010.08.29

宇宙の驚異と心の驚異

「かがやく夜空の星の光よ」で始まる「星の世界」という歌をご存知の方は多いと思ういます。
これが、元々は「いつくしみ深き友なるイエス」という賛美歌であることをご存知の方も少なくないと思いますが、私は数年前に親戚の女性の教会での結婚式でこの賛美歌を聴いて初めてそれを知り、驚いたものです。
日本人のよく知る「星の世界」は川路柳虹さん(1888-1959)の作詞で、それより先にあった、杉谷代水さん(1874-1915)作詞の「星の界(よ)」という文語体の詩を元に、平易な口語体の詩を作ったのではないかと思います。いずれも、宇宙の神秘の中に希望を観じた感動的な詩と思います。
ことの始まりは、アイルランドのジョゼフ・スクライヴェン(1819-1886)が書いた「絶え間なき祈り」という詩で、スクライヴェンの詩集でこの詩を見て感動したアメリカの作曲家チャールズ・コンヴァース(1834-1918)が曲をつけ、それが今日知られる「いつくしみ深き友なるイエス」となりました。
不思議な縁で、我々日本人にもよく知られる曲が出来たものだと思います。

「星の世界」の歌は、1番と2番共に「のぞめば不思議な星の世界よ」で終わります。
不思議という言葉は不可思議という仏教用語の略で、人智で推し量ることの出来ない大きなものを指します。不可思議は、億や兆といった数の単位の1つでもありますが、億や兆とは比較にならない巨大なもので、10の64乗、あるいは、10の80乗とされます。ちなみに、宇宙全体に存在する原子の数が10の80 乗個であるという説があります。

宇宙に想いを馳せていると、驚異と神秘の念に襲われるかもしれません。
その心こそが、「星の界」および「星の世界」の詩を生み出したのだと思いますが、ここで、あることに気付きます。
それは、宇宙の驚異や神秘を感じる心こそが驚異であり、神秘であることです。そして、そんな心を持っている人間とは、驚くべき存在なわけです。
だってそうでしょう。心が宇宙と同等なものであるからこそ、宇宙に畏怖とか無限を感じることが出来るのですから。これは、他の動物には決して真似できないことです。
セザンヌやゴッホに感動できる人間は、心の中に、それらと同等な精神を持っているはずです。
ある本を読んで、深く感動する人もあれば、つまらない本だったと言う人もいますが、それは、本の内容に見合う精神を、その人が持っているかどうかということです。
だから、宇宙を想って限りない神秘を感じるなら、自分の心も限りない神秘であり、それにもっと驚いても良いはずです。
神や天使は、我々以上に宇宙に感動するかもしれません。
しかし、それは所有する能力の差ではなく、顕現した能力の差です。
芸術作品や優れた文学の価値を認めない人でも、内にある心の光が顕現すれば、やはりそれらの価値を認めるかもしれないようなものです。
人は、本質的に神や天使と同等であり、宇宙そのものである事実を、こんなところからでも探っていけるのではないかと思います。


【宇宙】
宇宙に関する神話から、天文学の研究成果、そして、アインシュタインの相対論、ビッグバン、量子物理学的考察、さらに、未来に向けての展望まで、易しい解説と美しいカラー写真で知ることができます。

【波動の法則】
一般的科学とは異なるかもしれませんが、美しく、実際的な実績も豊富な波動の法則で、この世の真の姿や宇宙の意志を感じることが出来るかも知れません。
時間と空間は同じもの。新しい地球に生まれ変わる時期が近付いていることも語られた、1995年に出版され、2007年に復刊された書。

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2010.08.20

世界劇はどう進むか

我々の状態を、分かり易くたとえで言うと、こんな様子である。

子供が、1人遊びをしている。
お父さん役、お母さん役から始め、お兄さん役、お姉さん役、弟役、妹役、おじいさん役、おばあさん役と広がっていった。
お父さんとお母さんにケンカをさせると本当に悲しくなった。
さらに、友達や先生や近所の人達や泥棒も登場させた。
この劇が面白くあるよう、あまり突飛なことが起こらないようにし、それぞれの登場人物達の性格や能力にもある程度の制限を持たせた。
もはや、それぞれの登場人物は、遊んでいる子供とは独立したような個性を持っているように思われた。
そして、劇が、素晴らしく、美しいものになるようにしたいと思った。
遊んでいる子供は、登場人物達を愛したが、劇全体を美しいものにするためには、時には不幸も起こす必要があった。しかし、それによって、仲が悪かった者達を和解させることもできた。
やがて、幸せにしやすい登場人物と、そうでない登場人物がいることが分かった。
美人だったり、能力の高い登場人物を必ずしも幸福にしやすいわけでもないことにも気付いた。
最も幸福にしやすいのは、我欲が少なく、劇を支配している自分に素直に全て任せてくれるタイプだった。

劇が進み、いろんな人物が登場する中で、劇が複雑になり、まるで劇自体が勝手に進行していくようだった。
幸福な劇にしたいが、なかなかそうはならなかった。
その大きな理由が、登場人物達が、自己本位の考え方を持ち、さらに、人々の間に共同の奇妙な思考パターンが出来上がるからだった。
しかし、遊んでいる子供自身が劇の登場人物になっては、劇が成り立たない。
そこで、子供は考えた。自分の代理として、賢者を登場させ、自分と登場人物達との関係を、人々に教えるのだ。教えられて信じた人達は幸福になったが、そうでない人達は、やはり幸福にし難かった。

登場人物が死ぬこともあった。そんな人は劇の中からは消えるが、遊んでいる子供は彼を忘れなかった。彼の個性は自分の中で生き続け、劇の中に再登場させることもあった。
そして、こんなことが分かってきた。
劇という仮想の世界は、登場人物達が自分勝手な幸福を追求するほど偏った世界となり、そのままだと破綻する。
どこかで変革を起こさないと、美しい劇にならない。
何度も賢者を登場させ、「真理」を教えたりもした。時には、奇跡を起こして、登場人物達の意識をある程度はがらっと変えたりもした。
しかし、思うようにいかないので、大災害を起こして世界を終わらせるのも1つの方法であると思った。
複数の劇を同時に行うようにもなった。それぞれ、かなり異なる世界にすれば、違いを楽しめたし、ある世界を美しくするために、別の世界の在り様が参考になることもあった。そして、異なる世界を交流させるという、新しい遊び方の検討も始めた。

以上は、あくまでたとえを思いつくまま書いたので、だいたいの話と思ってもらえば良い。
賢者は言うのだ。「お前は本当は誰なんだ?」と。
登場人物がそれを悟ると、主催者との間に特別の関係が成立する。登場人物が登場人物として世界を美しくしようとしても、それは複雑で難しい。しかし、自分との強い関係性が成立し、いわば一体化した登場人物は、全てが思いのままなのである。

今回の話と似た趣旨の内容がある本をご紹介する。

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