なぜ、ありがたいのか?
「ありがたい」という言葉に奇跡を起こす力があることを示す事例を、奇跡的なものまで含め数多く挙げることができると思う。
奇跡目的、ご利益目的というのも何であるが、私には、「ありがたい」という言葉の力は当然のことのように思う。
本来理屈は不要だが、この言葉になぜ奇跡的な効果があるかを簡単に説明した上で、より効果的に使うための方法を少し言っておきたい。
私は、1日中でも、「ありがたい」と唱えている。私の場合は心の中でだが、口で言うのが好きなら、もちろん、そうすれば良い。
実際、唱えるのは1日の特定の時間、あるいは回数を唱えるのではなく、いつでもどこでもが良い。
誤解してはいけないのは、良いことがあった時にだけ「ありがたい」と言うのではないということだ。
面白くないことや、被害的な状況でも「ありがたい」と言わなければならない。
それについても、誤解してはならないのは、悪いことを良い風に解釈して「ありがたい」と言うのではないということだ。全て有り難いと「思わねばならない」のではなく、全て有り難いと「知らないといけない」のだ。
なぜ、どんなことでも良いことで有り難く、幸せなのであろうか?
この世というのが、実体のない幻のようなものであるのは間違いないのだが、メキシコのナワール(シャーマン)であるドン・ミゲル・ルイスの言うように、芸術品と言えるかもしれない。
この世に起こる全てのことは偶然ではなく必然で、それはある力が起こすのであるが、その力を神と言って良いと思う。神という字は、「申して示す」という意味で、人生で起こることとは、神の示すことなのである。神が無駄なことを示すはずはなく、また、神は限りなく慈悲深い存在であるのだから、それは全て貴く有り難いことであるはずだ。
人の人生なんて、神の示すことに対し、どんな思いをするかだけのためにあるのである。
荘子は、「全て虚心に受容し、一切の思慮分別をしてはならぬ」と言った。神の示すことをそのように受け取れるなら、確かに至人、神人の名に相応しい。
だが、凡人には、あるがまま虚心に受容するのは難しい。それで、自分自身に、どんな出来事も「ありがたい」と念押しするのである。
1日千回を目標に「ありがたい」を唱えていれば、出来事に文句を言う暇が、ちょっとは少なくなる。悪いことが起こっても「ありがたい」と言うようになる。不愉快なことが起こった時こそ、「ありがたい」と言わなければならない。むしろ、悪く見える出来事の方がありがたいものなのである。
不愉快なこと、憂鬱なこと、困ったことが起こらない人生はないが、そういった出来事こそ、神の心尽くしであり、真に良いことである。なぜなら、それを受容してこそ、より神に近付くのであるから。
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Comments
悲しいことも
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楽しいことも
苦しいことも
有り難い!って思えるようになりたいです
Posted by: 祈り | 2009.09.21 04:58 AM
★祈りさん
なりたいって言われても・・・
嫌なことを言いたくはないのですが、あなたのコメントって、いつもそんな感じなんです。
Posted by: Kay | 2009.09.21 09:36 AM
そうですか??
文の最後にありがとうございますと付け加えるのを忘れてました \(~o~)/
Posted by: 祈り | 2009.09.21 05:44 PM