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2010.08.31

心の中の悪魔

あなたは、自分を、正常な人間と思っているだろうか?
正常な人間とは、世間において正常な人間と見なされるよう振舞っているという以上の意味ではないと思う。

何かの本でこんな話を見た覚えがある。
2人の少女がいた。1人は大人びて、心優しい。もう1人は純心で子供っぽい。
2人はとても仲が良いのだが、ある時、子供っぽい少女が、大人びた少女に怒りをぶつける。
「あなたのように心のきれいな人に、私の気持ちなんか分かるはずがない」
大人っぽい少女は、怯えるほど戸惑いながら何も言えない。なぜなら、自分の心の中に、醜く汚いものが恐ろしいまでに渦巻いていることを感じているのだが、それを知られるのが恐いのである。
何の本だったかは覚えていないのは、おそらく、多くの小説や漫画等に同じような話があるからに違いない。
つまり、これが、ありふれた普通のことなのである。
ただ、この大人っぽい少女に心惹かれるのは、彼女がそれを自覚することのできる、極めて「純粋な」心の持ち主であるからだ。

こんな話もある。
清純な妹が、淫乱な姉を嫌い、家を出て行く。
しかし、時が流れ、その妹は、姉以上に淫乱な女になっていたというものだ。
これも、状況には特殊性があるが、傾向としては一般的なことだ。

いずれにしても、これらは、自分というものに対する大誤解が生んだ悲劇、あるいは、喜劇なのだ。
自分を、この世に「生まれ落ちた」存在。つまり、世界と切り離された孤独な存在と思っているから、世間の偽りの絆を持とうとして、奇妙な幻想に囚われ、単に変な欲望に付きまとわれるのである。
我々は、自分が世界そのものであるという自覚を得ることを諦めてはならない。


【桑田次郎アダルト短編集2 感覚転移】
確かにアダルトでエロチックな作品だが、特にR18指定はされていないようだ。
単なるエロスではなく、天才桑田次郎(現在は桑田二郎)の作品だけあり、人間存在の深い洞察に満ちた傑作と思う。
本文で引用したお話(淫乱な姉と清純な妹)もこの中にある。

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2010.08.30

相談メールを送ってこられる方々に

時々、私に相談のメールを送ってこられる方々がいます。
ご本人には深刻と思われる内容が大半ですが、私にはどれも、大した問題とは思えないものばかりです。
しかし、自分の問題は自分で解決するしかありません。

私は、おそらくは、いかなる問題に対する解決方法も分かるのだろうと思います。ただ、それは、単に原則が分かるからで、別に私が優秀な訳ではありません。
しかし、実際は、私にも、家族、親戚といった、ごく近しい人達の問題すら、何一つ解決してやることも出来ません。
彼らに、目の前で解決方法を述べても、彼らはうつろな目でいます。彼らは、自分が取り込まれている世間の妄信の範囲のことしか聞こえないのです。
自分の問題は自分で解決するしかなく、私が解決してやることはできないのですから、これではお手上げと言うわけです。
そして、現代の、欲望を煽られて強固にされた人々の妄信(共同幻想になってしまっています)は、昔、イエスがやったような、たとえ話を使った説法では歯が立たないような気がします。
丁度良い指標としては、24時間テレビ、高校野球の特集番組、NHK青年の主張コンクールなどがあります。これらを見聞して気持ち悪さを感じないなら、かなり世間の妄信に取り込まれていると言えるでしょう。いうまでもなく、それらの個々の内容自体は悪いものではありませんが、それに対する全ての人の反応の仕方を一定の方向に持って行こうとする不気味な意図が存在します。

何か深刻と思える問題を抱えているなら、まずテレビを見ないことです。特に、視聴率の高い番組は絶対に見てはいけません。ニュース番組すら、マインドコントロールが含まれる場合も多いですので注意した方が良いでしょう。「猛暑です」「本当に暑いですね」を連呼するのもそうなのです。私は、日中、外を歩く時でも厚手の長袖シャツと冬のスラックス(ジーンズの場合は夏も冬もありませんが)です。私も暑いとは思いますが、いっこうに平気です。ニュースで言うほどひどいと思っていないからです。早朝によく放送されているテレビショッピング番組は、目覚めのもうろうとした心に幻想を叩き込む恐ろしいものです。
そして、食を慎むことです。これは、心身に極めて良いばかりか、世間の妄信を疑うきっかけにもなります。
少食は私にはできませんという人がいますが、それは、やろうとしないだけのことです。極端な少食は薦めませんが、大食、美食を避けることが出来ないはずがありません。それができないなら、あらゆる問題の解決は諦めるしかないかもしれません。
大人なら間食はせず、決して満腹するまで食べてはいけません。もし、問題を解決したい願望が強いなら、肉食はせず、朝食か昼食の少なくとも1つは抜くべきです。「ドカ喰い」などというものは、人間のやることではなく、ブタのやることとと心得て下さい。実際には、動物だってそんなことはしませんので、ブタ以下というわけです。
こう言うと、「コーヒーやココアは駄目ですか?」「飴はどうですか?」と聞いてくる人もいますが、あきれたものです。彼らには、無制限か全く駄目の両極端しか思い浮かばないのです。何事もバランスです。

幸福はテクニックで得られるはずがありません。
テクニックを求めている自分に気付いたら、その考え方を変えるべきでしょう。
大切なことは、心穏やかでいること、現状のままで幸福を感じることであり、そのためにテクニックなどはありません。ただ、過剰な欲望を捨てれば良いのです。

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2010.08.29

宇宙の驚異と心の驚異

「かがやく夜空の星の光よ」で始まる「星の世界」という歌をご存知の方は多いと思ういます。
これが、元々は「いつくしみ深き友なるイエス」という賛美歌であることをご存知の方も少なくないと思いますが、私は数年前に親戚の女性の教会での結婚式でこの賛美歌を聴いて初めてそれを知り、驚いたものです。
日本人のよく知る「星の世界」は川路柳虹さん(1888-1959)の作詞で、それより先にあった、杉谷代水さん(1874-1915)作詞の「星の界(よ)」という文語体の詩を元に、平易な口語体の詩を作ったのではないかと思います。いずれも、宇宙の神秘の中に希望を観じた感動的な詩と思います。
ことの始まりは、アイルランドのジョゼフ・スクライヴェン(1819-1886)が書いた「絶え間なき祈り」という詩で、スクライヴェンの詩集でこの詩を見て感動したアメリカの作曲家チャールズ・コンヴァース(1834-1918)が曲をつけ、それが今日知られる「いつくしみ深き友なるイエス」となりました。
不思議な縁で、我々日本人にもよく知られる曲が出来たものだと思います。

「星の世界」の歌は、1番と2番共に「のぞめば不思議な星の世界よ」で終わります。
不思議という言葉は不可思議という仏教用語の略で、人智で推し量ることの出来ない大きなものを指します。不可思議は、億や兆といった数の単位の1つでもありますが、億や兆とは比較にならない巨大なもので、10の64乗、あるいは、10の80乗とされます。ちなみに、宇宙全体に存在する原子の数が10の80 乗個であるという説があります。

宇宙に想いを馳せていると、驚異と神秘の念に襲われるかもしれません。
その心こそが、「星の界」および「星の世界」の詩を生み出したのだと思いますが、ここで、あることに気付きます。
それは、宇宙の驚異や神秘を感じる心こそが驚異であり、神秘であることです。そして、そんな心を持っている人間とは、驚くべき存在なわけです。
だってそうでしょう。心が宇宙と同等なものであるからこそ、宇宙に畏怖とか無限を感じることが出来るのですから。これは、他の動物には決して真似できないことです。
セザンヌやゴッホに感動できる人間は、心の中に、それらと同等な精神を持っているはずです。
ある本を読んで、深く感動する人もあれば、つまらない本だったと言う人もいますが、それは、本の内容に見合う精神を、その人が持っているかどうかということです。
だから、宇宙を想って限りない神秘を感じるなら、自分の心も限りない神秘であり、それにもっと驚いても良いはずです。
神や天使は、我々以上に宇宙に感動するかもしれません。
しかし、それは所有する能力の差ではなく、顕現した能力の差です。
芸術作品や優れた文学の価値を認めない人でも、内にある心の光が顕現すれば、やはりそれらの価値を認めるかもしれないようなものです。
人は、本質的に神や天使と同等であり、宇宙そのものである事実を、こんなところからでも探っていけるのではないかと思います。


【宇宙】
宇宙に関する神話から、天文学の研究成果、そして、アインシュタインの相対論、ビッグバン、量子物理学的考察、さらに、未来に向けての展望まで、易しい解説と美しいカラー写真で知ることができます。

【波動の法則】
一般的科学とは異なるかもしれませんが、美しく、実際的な実績も豊富な波動の法則で、この世の真の姿や宇宙の意志を感じることが出来るかも知れません。
時間と空間は同じもの。新しい地球に生まれ変わる時期が近付いていることも語られた、1995年に出版され、2007年に復刊された書。

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2010.08.28

試合に負けても勝負に勝て

地球の気温が上がり過ぎて大変なことにならないよう、CO2(二酸化炭素)の排出量を削減しようということが世界的に訴えられるようになって久しい。
一方で、CO2の排出と地球の気温の上昇には何の関係もないことをデータで明確に示す者もいる。
CO2排出の削減自体は悪いものではないと思うが、それをことさらに取り上げることに意味はないばかりか、逆に極めて深刻な事態を引き起こす。
CO2削減に最も熱心さを示す国である日本は、自動車をどの国よりも沢山作って売り、高速道路無料化を押し進めて大渋滞を頻発させるほど無意味な自動車の使用を促進している。また、食べ物の半分以上を捨てている国でもある。

CO2削減による環境改善の考え方と本質が同じような話は、実はこれまでに沢山あり、全て悲惨な結果となっている。
アメリカではかつて、国民のアルコール依存の防止やギャングの資金源を絶つ目的で禁酒法を制定し、酒類の製造、販売を厳しく制限した。結果、闇バーが蔓延して、深刻なアル中は激増し、ギャングの財源は豊富となった。当たり前だ。禁止された酒は無茶苦茶美味いのである。
日本でも、青少年の凶悪犯罪撲滅のため、子供たちからナイフを取り上げた。いうまでもなく、少年の凶悪事件が激増した。禁止されたナイフはカッコ良く、また、やるなと言われることは何でもやりたがるのが若さである。
淫行条例とかで、実際上は17歳までの一生のうちで最も美しい時期にある女性との恋愛を禁止した結果、援助交際が爆発的ブームとなった。禁断の果実の魅力の前には、法の罰則など取るに足りないものだ。
そういえば、児童ポルノと見られる画像等の所持すら禁止するという法令を制定しようという話もあるが、そんなものが施行されたらどうなるかは考えるだに恐ろしい。

これらは、病気になれば患部を切って捨てれば良いという医療の考え方と同じだ。それは身体や精神のバランスを破壊して生命力を弱め、医療風に言えば、切って捨てなければならない部分が次々に出てくるのである。
一部は全体と不可分の関係にある。食べ物を見つけもしなければ、取りも食べもしない胃に反発して、目や手足や口がストを起こせば、みんなまとめて死ぬようなものだ。
だが、実際には、あらゆる複雑な関係性を理屈で解明することはほとんど不可能だ。しかし、「何が本当に大切なのか」を知る知恵があれば、自ずと行いは正しくなる。現在の人類に欠けるのはその知恵であるが、なぜそうなったのかというと、過剰な欲望のせいで正常な感受性を失ったからだ。

日本最大の決闘である、宮本武蔵と佐々木小次郎の決戦の前に、2人が何か会話をしなかったか興味があるが、そんな記録はない。
良い悪いの話ではなく、武蔵にとって最も重要なことは勝利であったが、おそらく、小次郎にとってはそうではなかった。武蔵に関する唯一の事実が書かれた「五輪書」を読むと、彼が超実際主義者であったことが分かる。「不意を突け、ムカつかせろ。絶対に勝て」という言葉が聞こえてきそうな書だ。戦において、自分より前を走るものはなかったと言い放つ武蔵の、妥協なき哲学がある。
ガイナックスのアニメ「まほろまてぃっく」で、まほろとリューガが、決闘の前に交わした会話が興味深かった。
リューガは、「聖なるものを求めるなら、俗なるものを捨てねばならぬ」と言う。
まほろは、「私は、何かのために、何かを捨てることはしない」と言う。
リューガにとって、人間の中で暮らすことは難しいことだった。しかし、まほろにとって、それは極めて幸福なことだった。
リューガは、自分こそ、俗にまみれていることに気付かなかったのだろう。アニメを見ている私には、笑うほど明らかなのにである。
名高い聖職者が、裏で桁外れにおぞましいことをしていることがバレても、私には、あまりに当然のことに感じるのである。

You say yes, I say no
君が「イエス」と言えば、僕は「ノー」
You say stop and I say go, go, go
君が「止まって」と言うのは、僕に「行け」と言うことでしかないんだ。
~ビートルズ“Hello Goodbye”より~

尚、まほろとリューガの決闘だが、まほろは大きなハンデを背負っており、最初から勝ち目はなかった。しかし、最後にリューガは言った。「私の負けだ」と。
かつて、無敵の柔道家、木村政彦と、無敗のグレイシー柔術家エリオ・グレイシーの決闘で、木村は、「試合に勝ち、勝負に負けた」と言った。
何が本当に大切なのかを知るには、心が、静かな湖面のように、月や雲といった対象物を明確に映せるようでないといけない。心の湖を乱すのは過ぎた欲望である。そして、人の欲望をあおって儲けようという連中は多い。
大切なことは、地球の温度を下げることでも、CO2を出さないことでもない。地球を守るためには、自分を愛するように地球を愛し、地球を愛するように自分を愛することだ。そのための自然な考えや行動ができないように神は人間を作ったりはしていないことは明らかである。


【五輪書】
武蔵に関する真実は、本当は五輪書に書かれたことだけしか分からない。

【葉隠】
三島由紀夫がこよなく愛した書。

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2010.08.27

虹の根元の宝物

「虹の根元には宝物が埋まっている」という伝説があるらしい。「らしい」というのは、私は、これを、立川恵さんの漫画「怪盗セイント・テール」と、そのアニメで知っただけだからだ。
それがとてもロマンチックな話だった。
雨上がりの早朝、空には虹が出ていた。風邪で高熱を発していた14歳の少年アスカJr(ジュニア)は、虹の根元には宝物が埋まっているという話をどこかで聞いたことを思い出す。しかし、科学的に虹の根元などあるはずがないと苦笑しながら、ついに倒れる。ところが、顔を上げた時に、虹の根元の方向に少女が現れる。クラスメイトの芽美(めいみ)だ。驚いて駆け寄る芽美に、意識が朦朧としたアスカJrは普段なら絶対に言いそうにないことを言う。「お前が好きだ。嘘じゃない」。気の強いところもあるが、本質的に純情な芽美は呆然自失し、身動きも出来なくなる。彼女もアスカJrを愛しているのだ。虹の根元には、本当に宝物があったのである。

あまりに有名な、ジュディ・ガーランドが歌った「虹の彼方(Over The Rainbow)」の古い音源から作られたCDを私は持っているが、虹の彼方には、全ての願いが叶う夢の国があるといった歌と思う。
昔から、人類は虹という神秘的な現象に様々な想いを馳せた(気持ちや考えを遠くに至らせること)ようだ。言い換えれば、虹は人類の想像力を発達させたとも言える。

ところで、虹というのは面白いものだ。
虹は滅多に見られない。もちろん、噴水の近くに言ったり、ホースでシャワー状の水を降らせたり、あるいは、ガラスコップを使えばそこそこの虹を見ることが出来る。だが、最も感動的なのは、予期せずに空に現れる自然現象としての虹で、これに遭遇することはあまりない。一生に何回かしか見られないかもしれないし、「最後に虹を見たのは10年前」なんて人も珍しくはないだろう。
だが・・・。
実をいうと、虹はどこにでもあるのだ。
虹というのは、光(太陽光)と水滴と観測者の位置関係で出現するもので、この3つが存在する時はありふれている。ただ、観測者である人間の位置が悪いだけのことだ。
言い換えれば、虹というものは、人間と関係なく、独自に存在する訳ではない。ある意味、人間が虹の存在に大きく関与している。
それを科学的と言うなら、あらゆる現実に人間が関与しているというのも科学的なことだ。

さて、虹の根元にたどり着こうとしても必ず失敗する。上に述べたような理由で、あなたが動けば虹も動くからだ。
しかし、虹は本当はどこにでもある。なら、今、ここが虹の根元である。それは、ロマンチックな空想ではなく事実であり、幸運も、あると思えばあるというのも、レトリック(美辞麗句。巧言)ではなく、絶対に本当のことだ。
ただ、ちょっとしたコツはある。
最初に私が、長々と「怪盗セイント・テール」の話をしたのも、そのヒントがうまい具合にそこにあったからだ。
アスカJrは高熱のため、芽美は精神的な衝撃のため、いずれも自失、つまり、我を忘れた。
我を忘れる・・・忘我を英語でエクスタシーと言う。数多くの芸術家や賢者、あるいは、最高の科学者は、エクスタシーが人と神が一致する瞬間であることを見抜いていた。その実例だけで私は何時間でも話ができるほどだ。
我を失くせば幸運はいたるところにある。いや、我々自体が幸運なのである。

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2010.08.26

生きるチカラ

私が、これほどの名曲はないと思うのが、時代劇「木枯らし紋次郎」の主題歌として今もよく知られる「だれかが風の中で」だ。
曲も歌も素晴らしいのだが、やはり詩が凄い。詩の内容は、簡単に言うなら、孤独で辛く苦しい人生を送ってきたが、きっとどこかで誰かが自分を待っていてくれるのだというものだが、凄惨さと希望がせめぎ合うような劇的な傑作と思う。それは、もしかしたら根拠のない希望なのかもしれないが、それが人に生きる力を与えるのである。
漫画家の水木しげるさん(「ゲゲゲの鬼太郎」の著者)が、凄絶な戦争体験の中で得た、「見えないものを信じることで精神は安定する」という信念のまさにお手本のようなものに感じる。
「だれかが風の中で」の作詞者の和田夏十(わだなっと)さんは偉大な映画脚本家として知られている大変な女性である(本名は茂木由美子)。

ところで、「だれかが風の中で」に似たモチーフ(主題)を感じる歌に、アニメ「キャンディ・キャンディ」のエンディング曲であった「あしたがすき」がある。こちらは、子供(特に女の子)向けのアニメのものなので、暗さの一切ない明るく希望に満ちた歌だが、日本を代表する児童文学者である名木田恵子さん(「キャンディ・キャンディ」の原作者でもある)による詩は美しい。「あのひと」が私を待っていてくれるに違いない明日を夢見るという、まさに、10歳の夢見る少女キャンディに相応しい詩だ。

さて、光あれば闇ありだ。
内容的には似ているのだが、ただ暗く、陰鬱で悲惨なだけの曲が、ビートルズの「エリナー・リグビー」だ。ジョン・レノンとポール・マッカートニーの合作である。
エリナー・リグビーは女性の名で、老女と見なされるかもしれないが、40代とか50代の女性と思ってもおかしくないと思う。
結婚式の後の教会で米粒を拾うほどの貧しい女だが、せいぜいお化粧をして、窓辺で王子様(歌の中では、単に「誰か」とされているが、雰囲気は王子様と思う)を待ち続けるうちに死んでしまう。

「だれかが風の中で」「あしたがすき」と、「エリナー・リグビー」がなぜ違うのかが分かれば、幸福の鍵もつかめるような気もする。
エリナー・リグビーは、「だれかが風の中で」や「あしたがすき」と同じことを考えていたかもしれないのに、何が悪かったのだろう?
彼女は、本当に王子様を信じていたのだろうか?若くもない彼女がそんなものを信じてどうなるものかどうかは分からないが、彼女は本当は信じていなかったのだろう。
彼女には、明るさ、前向きさがなく、人が生きるために必要な希望を持つことが出来ずに死んだ。見えないものを信じようとして信じることができなかった。

「今の世の中は夢が持てない」と不満を言う者がいる。しかし、夢を持つなんてことは命懸けのことなのだ。それは、心の全ての力を要する激しい活動だ。
それを、待っていれば与えられるとでも思っているのだろうか?

「あしたがすき」は、やはり少女の歌だ。
かつて、37歳のオリビア・ニュートン・ジョンが、恋の苦しさを切々と語る歌を作ったことがある。まあ、彼女ほどの美女ならサマにならないでもなかったが、やはり奇妙だ。どういう経緯で作ったかは分からないが、単なる娯楽用の曲だったのだろう。
本当に信じることができるためには、自我を確立し、自分で個性を育てた大人になる必要がある。それからも、長い間心は揺れ、自我の動揺に苦しむに違いない。だが、希望を見出すのはそんな時だ。
苦しみのない希望はない。苦しみこそ希望の曙光だ。それが分かれば、苦しみもすみやかに去るだろう。

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2010.08.25

神に悪意はない

「神はサイコロを振らない」とアインシュタインが言ったのは、「人間には分からないことがあるが、神に分からないことはない」と言ったような意味と思う。
ところが、W.B.イェイツ(アイルランドの詩人。ノーベル文学賞受賞者)は、戯曲「カルヴァリー」の中で、イエスを磔にしたローマ兵士の口を借りて、神そのものがサイコロであると言わせた。人間から見れば、まさにその通りかもしれない。
サイコロが神であるなら、出た目をどう受け取るかだ。「カルヴァリー」でのローマ兵士は、「予想できないことなら、起こるのが最善」と言い、イエスはその強さに屈服する。
この世は、何が起こるか分からない。そして、大抵の場合、この世はままならぬ。しかし、全て良しとするのである。
これは、ニーチェの考え方でもあると思うが、この生きかたこそ最強で無敵である。

ただし・・・。神というサイコロは、我々の知るサイコロとはかなり異なる。神は、無限の目を持つサイコロである。
どんな目が出るかは、人間から見れば途方もない偶然かもしれない。しかし、その目は、神が選んだのかどうかは分からないが、神はその目を愛しているのではないだろうか?
それは出るべくして出た目だ。もし人が、出た目を自分の意思とするなら、そして、それを愛するなら、その時、人は神になる。

「スピネル、この世で一番楽しいこととは何か知っているかね?」
「何ですか?エリオル」
「予期しないことが起こることだよ」
~CLAMP著「カードキャプターさくら」より~

しかし、予期しない悪いことが起こらないかと人は恐れる。そして、この世はやはりままならず、悪いと思えることは確実に起こる。
そして、人は神を恐れ、神の機嫌をとって、良いことが起こるようにしようとする。そのためには、愛すべき美少女の命を奉げることもあった。また、思い通りの運命を引き寄せる方法といったものを商売にする者はいつの時代にも多い。
だが、最も良いのは、アインシュタインの次の言葉を信じることだ。
「神は老獪(ろうかい。悪賢いという意味)である。だが悪意はない」

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2010.08.24

巨大宇宙船に救われたいか?

2012年、あるいは、そのくらいの時期に、地球の崩壊の可能性も含め、人類に大異変が起こるかもしれないという話は、20世紀末のノストラダムスの予言ブームの頃からもあった。
その中で、地球破滅の際に巨大宇宙船が現れ、優れた人間性の持ち主のみが救助されるという話がある。
その1つが、チリの作家、エンリケ・バリオスが書いた、世界的ベストセラー「アミ 小さな宇宙人」シリーズだ。この小説の内容は、著者はあくまでフィクションであるとしながら、実は本当の話であることを匂わせるという演出を行っている。
「アミ 小さな宇宙人」の新しい版では、さくらももこさんが挿絵を描いているが、さくらももこさんは著者と手紙をやりとりする仲であるらしい。また、世界的画家、イラストレーターの横尾忠則さんは、この小説を絶賛し、旧版で表紙絵を描いたりもしたくらいである。私は旧版で読んだが、確かに面白い内容だった。

さて、「アミ 小さな宇宙人」シリーズでは、宇宙人も含めた人間の精神レベルは数値化でき、千点満点で7百点以上が宇宙レベルに達した高度な精神性であるとされる。そして、地球破滅の際に宇宙から救いに来る宇宙船に迎えられるのも、この精神性数値が7百点以上の人類だけである。
まあ、私は、別に謙遜でもなく、自分がそんな救いの対象になるとは思わないが、何かの間違いで宇宙船に乗せてもらえると言われても、スタンリー・キューブリック監督の映画「ロリータ」のハンバート役を打診された時のケーリー・グラントと同じ答えをするだろう。即ち、「ノーサンキュー」(結構だ)。
私のように人間性が高くなくても、それに私は正直に言って人嫌いなのだが、いかに下らない(ように個人的に感じる)人達とはいえ、彼らが滅びる地球に取り残されている中で、のうのうと救いの宇宙船に乗るなど考え難い。ましてや、本当に人間性が高いなら、たとえ1人でも、そして、それがいかに悪人であろうと、滅びの地に残されているなら、運命を共にしたいと思うのではないだろうか?
「歎異抄」によれば、悪人の方がむしろ仏の救いの対象のはずなのであるし、イエスも悪人のために来たと言っていたと思う。
もし、宇宙船が助けに来てくれるなら、滅びの日だけ教えて欲しい。その日に備え、食を絶ち、ゆるゆると死を迎えたいと思っている。
尚、もし2012年に、アセンションと呼ばれる大異変が起こるとしても、それは、この小説にあるような、通常の物理的な出来事ではないような気がする。それに、本当の意味では人に死はないかもしれない。
私が気に入っているアセンションのシナリオは、1995年に旧版が出版されている名著「波動の法則」にあるものだ。
まあ、何が起こるか、詳しいことはさっぱり分からないが、慌てることも、心配することもない。ただ、見えるものしか信じない人達は、どう言ってやっても無駄なのだ。

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2010.08.23

不幸への道を捨てる

今は、年収200万円以下をワーキングプアと言うらしい。ワーキングプア(working poor)とは、「働く貧困者」という意味で、フルタイムで働いてもまともな生活のために必要な収入がないことのようだ。
私は、年200万円も稼げば十分以上に立派と思うが、都会では住居のための費用が高いのと、携帯電話を始め、人々から金をむしり取っていくことに巧みな仕組みが蔓延し過ぎている等、無駄な金がかかり過ぎるのだと思う。

ところでもし、あなたが、「300万円でどう?」と言われたら、どう思うだろか?
「そんな安い額じゃ・・・」と気落ちしたり怒ったりするかもしれないし、「それだけあれば、ワーキングプアから解放される」と喜ぶかもしれない。
しかし、それが、年棒ではなく、月給であれば(年棒だと3600万円)、大半の人は大喜びするかもしれない。しかし、誰もがそうではないのも確かと思う。

アルベルト・アインシュタインが、ドイツからアメリカに亡命し、プリンストン高等研究所(※1)にスカウトされた時であった(1933年頃)。
※1
正式には「高等研究所」。ニュージャージー州プリンストンにあるのでそう呼ばれる。現在も世界で最も優れた研究機関である。私立研究所。

アインシュタインは、給料の希望を聞かれ、「千ドル」と答えた。
プリンストン高等研究所では、年棒2万ドルを予定していたので、半分ほどである。しかし、相手がアインシュタインでは「そうですか」と簡単に済ませるわけにはいかないし、とはいえ、「安いんじゃないですか?」と言うのも失礼だ。
そこで、担当者が気まずそうに、「間違いないですか?」と尋ねると、アインシュタインも気まずそうに、「5百でいいです」と答えた。
しかも、アインシュタインは、年棒のつもりで言っていたのだ。
いかに世間や金に疎いアインシュタインでも、契約の重要性を知らないような立場ではないし、就職難や安月給に苦しんでいた時もあった。経済観念はしっかりしていたと思う。

しかし、アインシュタインは、大した収入を必要としなかった。
いつも着古したよれよれの服を着て満足していた。靴下を履かなかったことはよく知られている。
区別が面倒という理由で、洗濯石鹸でヒゲを剃った。
質素な食べ物を好み、コーヒーすら飲まなかった。
そして、請われれば、誰にでも気軽にお金をやったりもした。
そんな感じで、お金に不自由はしていなかったが蓄えもなかった。しかし、彼は平気だった。
世界屈指の科学者揃いであるプリンストン高等研究所の研究員の多くは自動車を所有していたが、アインシュタインはそれを買わなかったどころか、勧められても同乗せず、バスにさえ乗らずにかなりの距離を歩いて通勤した。
(研究所員だった矢野健太郎さんは、真似をして道に迷ったと、自分の著書に書いていた)
アインシュタインにとって、物理学は趣味であり、成果を誇ることもなく、実際、自分を重要人物とはみなしていなかったのは確かなようだ。

今の時代は、良い仕事をすれば高収入で当たり前という奇妙な幻想が世界中を覆ってしまっている。
イチローのようなプロスポーツ選手はともかく、アマチュアの立場のスポーツ選手も、若くて人気があれば(誰かが儲けるために過剰に煽った人気なのだが)、特に海外では恐ろしい高収入であることも多い。しかし、それは、彼らを決して幸福にしないばかりか、悲惨の中に叩き込んでいるというのが事実である。
本質的には芸術家であるミュージシャンも、売れてしまって膨大な収入を得ると破綻するのも、いわば当然だろう。ある一流ミュージシャンが言ったように、「ミュージシャンってのは、街角でハーモニカを吹いていれば満足」なもので、それが幸福なのである。

アインシュタインの人格を疑うようなエピソードを吹聴する者もいるが、誰だって失言や失態はやらかす。それに、私は、別にアインシュタインが人格者だったかどうかに興味はないし、完全な人格者であったとも思わない(そんな人はいない)。
しかし、1セントにもならなくても、中学生の数学の宿題を熱心に手伝って(アインシュタインは頼まれたら気軽に応じ、教え方は解りやすくて評判だった)その親を卒倒させかけように、「サービスには対価が必要」という世間の馬鹿げた信念を持っていなかった、とてもまともで自然な人間だった。
別に、彼のように天才でない、普通の人でも、彼のような生き方をして不幸になるとは思えない。逆に、天才であっても、物にばかり価値を置けば確実に不幸になるだろう。
そして、現代の日本人の大半は、不幸への道を競争して突っ走っているようである。

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2010.08.22

見えないものを信じる

8月13日にNHK-Bshi(NHKデジタル衛星ハイビジョン)放送で、「鬼太郎 幸せ探しの旅~100年後の遠野物語~」が再放送されていたのを録画していたが、昨夜、ようやく見た。
「ゲゲゲの鬼太郎」等の妖怪漫画で有名な水木しげるさんが、柳田國男の「遠野物語」で知られ、神話と妖怪伝説が今も息づく岩手県遠野市を尋ね、人々を取材し、自らの思想を語った内容が実に興味深い。

水木しげるさんは、「見えないものを信じたら、心が安定する」と言うが、これは実に重要なことなので、よければ是非憶えておいて欲しいと思う。
これだけ分かったら、この番組には最高の価値があったことになる。

「見えないものを信じると、心が安定する」ということについてお話したい。
心が安定するとは、不安がなくなるということだ。
逆に言えば、「見えるものしか信じないなら、心は不安定なまま」、つまり、不安に苦しむこととなる。
物しか信じない物質主義、経済主義の世の中で、人々は不安に怯え、不幸で惨めな状態なのである。
水木しげるさんが、見えないものを信じる力を決定的に悟ったのは戦争体験だ。21歳で二等兵(最下級兵士)として召集され、ニューブリテン島のラバウルに遠征。左腕を失うも、九死に一生を得て帰国した。
水木さんは、戦闘の最前線では、何かを信じないと、生きていられないと言う。これは、「正気でいられない」ということと共に「生き抜く力や幸運を持てない」という意味もあるのかなと思う。

山下久美子さんの1983年のヒット曲で、今も人気の高い楽曲である「こっちをお向きよソフィア」の2番の歌詞の、

見えないものを信じたら
向こう側へと抜けるカギが見えるわ
いつも隣にいるよだれか
おんなじ輝く瞳で Ooooh
(作詞は康珍化さん、作曲は大沢誉志幸さん)

という謎めいた言葉を、私は昔、カセットで1回聴いただけで憶えてしまっていた。
それほどの印象があったのは、私の中の高度な心が感応したからであろう。

さて、では、何を信じるかだ。
言ってしまうと、「何でも良い」である。

コリン・ウィルソンの「至高体験」に書かれているが、ロマン・ゲイリの「天国の根っこ」という小説がある(邦訳はないと思う)。
この中で、戦争中、ドイツの捕虜になったフランス軍の兵士は自堕落となり、規律どころか、人間性の崩壊の危機に陥る。その中で、フランス兵の隊長はわずかに残った権威の中で、奇妙な指示を出す。それは、「少女が1人いると想像しろ」だった。
それで十分だった。フランス兵は理性を取り戻し、規律は甦った。ただ、少女が1人いると思っただけで。
フランス兵の異変に気付いたドイツ軍将校は、フランス兵に「娘を引き渡せ」と通達する。彼女を売春宿に売り飛ばすと言うのだ(心理学に通じたドイツ軍将校は、からくりに気付いていた)。フランス兵は拒否し、隊長は独房に入れられる。隊長は独房で死ぬはずであったが、想像の力の偉大さ知る隊長の生命力は強力で、彼は生きて部下のところに戻った。

信じるものは何でも良いのだ。信じることさえできれば。
この小説のような、理想的な少女(フランス兵達も、そんな少女をイメージしたはずだ)でも良い。美少女はその神秘に見合った力を我々にもたらす。
理想的な想像の美少女と区別は付き難いが、天使を想像することだ。哲学者、宗教学者の鎌田東二さんは、塾の講師をしていた時、生徒の中に天使がいたのを見たという。それは想像かもしれないが、空想ではない。想像は現実である。

アニメ「ぴたテン」で、天使の早紗は、妹で落ちこぼれ天使の美紗に言う。
「天使も悪魔も、人の心の中にしか存在できないの」
だが、もっと正確に言うなら、人の心の中以外には、何も存在できない。もしあるとしたら、それは想像する主体だけである(それが神なのだが)。
「ぴたテン」の漫画(著者は、当時は「コゲどんぼ」と表記していたこげどんぼさん)で、魔界の男(クラウス・ローゼンバーグ)は、「天使も悪魔も何もしない。天使は見守るだけで、悪魔はほんの少し幸せの方向に背中を押す」と言う。
何もしないことが最大の力なのではないだろうか?
「攻撃は最大の防御なり。最大の攻撃とは無抵抗なり。つまり、何もしないのが一番強いのさ」
これは、英国のテレビドラマ「ダンディ2 華麗な冒険」の中で、ロジャー・ムーア演じる、英国公爵ブレット・シンクレアが言った言葉である。

何でもいいから、自分が信じられるものを持つことだ。そして、信じるものは、必ず自分で決めることだ。世間の信念や、親や学校に押し付けられた教義は絶対に信じるな。
それができれば、あなたに不可能はない。つまり、無敵である。


【総員玉砕せよ!】
水木しげるさんの、ニューブリテン島遠征の体験を元に描かれた戦争漫画。
軍部の腐敗、兵士達の本当の気持ち、米国軍との食料・装備といった境遇の格差、日本刀で戦車に切り込む日本兵。それをついに描いた水木さんの力作を是非読んでいただきたい。

【至高体験】
心理学者アブラハム・マズローとの交流の中で、コリン・ウィルソンは、人類を救うための「至高体験」を見つめ続けた。これが、ロマン・ロランの大洋感情と似た、あるいは、同じものであることも示唆される。
「アウトサイダー」を超える成果を盛り込んだ、極めて重要な書である。

【見える日本、見えない日本―養老孟司対談集】
養老孟司さんと、著名人達の対談集。水木しげるさんとの対談が非常に面白く、水木さんや妖怪の本質が現れていたように思う。
他にも、荒俣宏さんとの教養溢れる2人の対談は、決していやみでなく興味深い。
さらに、「唯幻論」の精神分析学者、岸田秀さんと、「唯脳論」の養老孟司さんの対決(別に論争してはいないが)は実に感慨深いものであった。

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2010.08.21

メル友こそ本当の友人である

「住所、氏名、電話番号を明記の上」などという文言が、リズムのように頭に染み付いているのではないだろうか?
そのくらいよく使われる言い回しである。最近は、「携帯の電話番号は不可」という注意書きも憶えてこられたかもしれない。
なぜ、こんな文句がそれほど頻繁に使われるのかと言うと、住所が分かれば、いざとなったら踏み込んで強制的に金を取れるからだし、固定電話の電話番号というのは、住所を特定するのに便利なものだからだ。

しかし、ホームレスには住所や(固定電話の)電話番号は無い。
そして、ホームレスは大学に入れないし、ローンも組めない。家や車も買えない。いくら金を持っていてもである。
大学に入ったり、ローンを組んだり、家や車を買う必要など全く無いが、それは置いておこう。
つまり、ホームレスは、人間と認められていないのである。
早い話が、今の世の中は、いざとなれば無理矢理に金を取れる相手が、「ちゃんとした人間」というわけである。
では、世の中に、ちゃんとした人間と認めてもらう必要などはない。

友人、恋人、あるいは、家族なら、メールアドレスで十分である。メールの使い方が分からない場合は別だが、電話番号や住所を知らずにおけないなら、本当の友人、恋人、家族ではない。
つまり、国家にとっても国民は子供ではない。金を取る相手である。
そして、考えてみれば、メル友こそ、本当の友達なのである。(正しくは、「メル友のような友人こそ、本当の友達」と言うべきかもしれない)

私も、欲しくもなかったが、事情があって車を買った。メンテナンスに気を使うのが煩わしいので新車にし、また、面倒なので契約書を交わしたついでに全額現金で支払った。
しかし、もし、私が、契約したが金を払えないなら、無理に私から取る必要なんてないのではないか?私に金がなくても、日本のどこかにはある。どこか他所から取ってくれれば良いのである。
これは、今の世の中では変な考え方になるのだろう。しかし、それは世の中が変なのだ。

仕方なくホームレスをしている人もいるだろうが、好きでやっている人もいる。また、仕方なくやっているように見え、自分でもそう思っているかもしれないが、本当はやはり好き好んでやっていることが多いのである。
別に、ホームレスなんて、全然特殊な人達ではない。しかし、無理矢理金を取るのに不都合という理由だけで人間扱いされないのである。
ホームレスだって、たまにはホテルにでも泊まりたいかもしれない。だが手持ちの現金が全くないとする。なら、市役所かどこかに「支払い代行申し込み所」みたいなところを用意してもらい、代わりに払ってくれるよう申し込めば、それで済むようにしてくれれば良い。まさか、日本のどこにも金がないはずがない。ホテルが営業しているという事実が、どこかに金があることを証明しているのだ。

私だって、友人や家族や親戚や、ましてや可憐な女の子なら別に下心もなく・・・いや、それが誰でも、「可愛いから亀を買ったけど、サイフにお金がない」って言うなら、私のサイフに入ってたら自然に私が支払う。
個人に支払い責任を求めるのは、もう千年も時代遅れだし、また、個人として責任を持たざるを得ないものを持ちたがるのも十分に時代遅れだ。
我々は、いい加減に時代に追いつきたいものである。


【未来改造のススメ 脱「お金」時代の幸福論】
書店でパラパラと立ち読みしたが、内容は既に分かっていることで、読む必要がないので買わなかった。
「住所代わりにメアドで十分」「みんなが働く必要はない。10人に1人が働いて、後はネコになればいい。ネコが働かなくても誰も文句は言わない」などと書かれている。
著者は、オタキングと呼ばれるオタクの権威であり、近年はダイエットで有名な岡田斗司夫氏と、 元オン・ザ・エッヂ取締役の小飼弾氏。私は、昔から岡田氏の洗脳論には感服し、本をよく読んだ。小飼氏は、優秀なオープンソース開発者で、アルファブロガー(影響力あるブロガー)としても知られている。

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2010.08.20

世界劇はどう進むか

我々の状態を、分かり易くたとえで言うと、こんな様子である。

子供が、1人遊びをしている。
お父さん役、お母さん役から始め、お兄さん役、お姉さん役、弟役、妹役、おじいさん役、おばあさん役と広がっていった。
お父さんとお母さんにケンカをさせると本当に悲しくなった。
さらに、友達や先生や近所の人達や泥棒も登場させた。
この劇が面白くあるよう、あまり突飛なことが起こらないようにし、それぞれの登場人物達の性格や能力にもある程度の制限を持たせた。
もはや、それぞれの登場人物は、遊んでいる子供とは独立したような個性を持っているように思われた。
そして、劇が、素晴らしく、美しいものになるようにしたいと思った。
遊んでいる子供は、登場人物達を愛したが、劇全体を美しいものにするためには、時には不幸も起こす必要があった。しかし、それによって、仲が悪かった者達を和解させることもできた。
やがて、幸せにしやすい登場人物と、そうでない登場人物がいることが分かった。
美人だったり、能力の高い登場人物を必ずしも幸福にしやすいわけでもないことにも気付いた。
最も幸福にしやすいのは、我欲が少なく、劇を支配している自分に素直に全て任せてくれるタイプだった。

劇が進み、いろんな人物が登場する中で、劇が複雑になり、まるで劇自体が勝手に進行していくようだった。
幸福な劇にしたいが、なかなかそうはならなかった。
その大きな理由が、登場人物達が、自己本位の考え方を持ち、さらに、人々の間に共同の奇妙な思考パターンが出来上がるからだった。
しかし、遊んでいる子供自身が劇の登場人物になっては、劇が成り立たない。
そこで、子供は考えた。自分の代理として、賢者を登場させ、自分と登場人物達との関係を、人々に教えるのだ。教えられて信じた人達は幸福になったが、そうでない人達は、やはり幸福にし難かった。

登場人物が死ぬこともあった。そんな人は劇の中からは消えるが、遊んでいる子供は彼を忘れなかった。彼の個性は自分の中で生き続け、劇の中に再登場させることもあった。
そして、こんなことが分かってきた。
劇という仮想の世界は、登場人物達が自分勝手な幸福を追求するほど偏った世界となり、そのままだと破綻する。
どこかで変革を起こさないと、美しい劇にならない。
何度も賢者を登場させ、「真理」を教えたりもした。時には、奇跡を起こして、登場人物達の意識をある程度はがらっと変えたりもした。
しかし、思うようにいかないので、大災害を起こして世界を終わらせるのも1つの方法であると思った。
複数の劇を同時に行うようにもなった。それぞれ、かなり異なる世界にすれば、違いを楽しめたし、ある世界を美しくするために、別の世界の在り様が参考になることもあった。そして、異なる世界を交流させるという、新しい遊び方の検討も始めた。

以上は、あくまでたとえを思いつくまま書いたので、だいたいの話と思ってもらえば良い。
賢者は言うのだ。「お前は本当は誰なんだ?」と。
登場人物がそれを悟ると、主催者との間に特別の関係が成立する。登場人物が登場人物として世界を美しくしようとしても、それは複雑で難しい。しかし、自分との強い関係性が成立し、いわば一体化した登場人物は、全てが思いのままなのである。

今回の話と似た趣旨の内容がある本をご紹介する。

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2010.08.19

本物の楽天主義者

楽天主義、あるいは、楽観主義と呼ばれるものは、本来の哲学的な意味ではやたらにややこしいものであるが、一般的には、「ものごとが良い方向に進むと信じる」ことであると言えると思う。
ヘレン・ケラーは、大学生の時に著した「楽天主義(OPTIMISM)」で、楽天主義者の信念を「明日は今日より美しく、明後日はさらに美しい」と表現した。
1897年に出版され、いまも世界で読み継がれる“In Tune with the Infinite”を著したラルフ・ウォルドー・トラインも、この本の中で楽観主義の重要性を強く訴えている。

※“In Tune with the Infinite”の邦訳は、谷口雅春氏による『幸福はあなたの心で』、吉田利子氏による『人生の扉をひらく「万能の鍵」』などがある。谷口雅春氏は、「生命の実相」の中で、この書の原題を「宇宙と調和する生活」と訳しているが、それが適切と思う。

ただ、楽観主義も、使い方の難しさがあるような気がしてならない。楽観主義が現実逃避と混同されていることも多いと感じるのだ。
何の根拠もなく、ただ「大丈夫だよ」「心配いらないよ」とだけ言っていれば良いわけではない。
確かに、一休禅師は、遺言にただ、「心配するな、なんとかなる」と楽天主義の言葉を残したが、それを見るのはあくまで「どうしようもなくなった時」と言ったのだ。
そして、ヘレン・ケラーは、上にもあげた「楽天主義」の中でこうも述べているのだ。
「人生は、恐れを知らぬ冒険か、それとも無かのどちらかである」

楽天主義、楽観主義には、強さが必要なのだ。弱者の現実逃避の道具ではない。
そして、悲観主義が素晴らしいこともある。
五島勉氏の「ノストラダムスの超法則 死活の書」の中にある話だが、美しい姫を争って決闘をすることになった騎士に、ノストラダムスは「決闘相手の方がずっと強い。あなたは負けて死ぬ。姫も決闘相手のものになる」と断言した。天下の予言者にこう言われ、また、決闘相手の力量が自分を上回ることを認識していた騎士もそれを受け入れた。そして、死を覚悟して澄み切った心で決闘に挑み、見事勝利するのである。

だからといって、悲観主義が良いとも言わない。普通は弊害の方が多いかもしれない。
楽天主義とは、つまるところ、自分を信じることであるが、それは、身体や心を超えた高い自分を信じることであるに違いない。よって、身体や心を超えた自分を知らない者が正しい楽観仕儀者になれるはずがない。
それならば、上にあげた、ノストラダムスに死を宣告された騎士のように、全てを捨て、死を受け入れることで、身体や心の自分を超え、真の自分に触れることが必要だ。
本当の自分を知らない者は、本物の楽天主義者にはなれない。
重要なのは、本当の自分を知ることであるが、そのためには勇気が必要である。それが、ヘレン・ケラーの言う「恐れを知らぬ冒険」と思う。
至道無難禅師の「生きながら死人となりはてて、思いのままになすわざぞよき」の意味をよく考えるべきと思う。

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2010.08.18

自我の死と真我の覚醒

死に至る直前に、大きな自己変革を起こした人の話がある。
それは、肉体的な死の場合が多いが、自我としての死の場合もある。しかし、突き詰めて考えれば、それはやはり、肉体の死ではなく、自我の死であることが重要なのだ。

英国の作家コリン・ウィルソンは10代のある日、まさに青酸カリを飲んで自殺しようとした刹那に精神に何かが起こり、一瞬で賢者に生まれ変わった。ただ、その時の彼はまだ若く、知恵を形にするのには経験と精神の成熟が必要だった。そして、彼は23歳の時に書いた「アウトサイダー」で、ほとんど一夜で世界的作家になった。
ラマナ・マハリシは17歳の時、家で退屈な学校の勉強の復習をしていた時、不意に死の感覚に襲われ、それが彼を一瞬で聖者にした。だが、彼も聖なる知恵を確立するために、長い沈黙の行が必要だった。

重病で、医者に余命わずかと診断され、絶望に陥っていた人が、ぼうっと自然の風景を眺めていた時、不意に聖なる光を感じ、病気は消え、まるで別人のように生まれ変わった。
23歳の無敵のプロボクシング世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンは、1974年に、既に盛りを過ぎた元世界王者モハメッド・アリとアフリカで対戦した。フォアマンは圧倒的有利と見られており、アリの挑戦は無謀と思われていた。予想通り、試合は序盤からフォアマンが攻勢で、アリは防戦一方だったが、アリはフォアマンの殺人パンチに耐え続けた。そして、反撃に転じたアリのパンチはフォアマンをマットに沈めた。この試合は、現在でも「キンシャサの奇跡」として知られている。尚、キンシャサは現在はコンゴ民主共和国の首都だが、当時の国名はザイールで、この試合も以前は「ザイールの奇跡」と呼ばれることもあった。自分の敗戦が信じられず、呆然自失となっていたフォアマンは、不意に不思議な光を見る。彼はしばらくはボクサーを続けるが、アリとの再戦を行わないまま、全盛期に引退。宣教師になる。しかし、38歳で現役復帰し、世界王座に2度挑戦するがいずれも破れる。だが、45歳でついにKO勝ちで世界王者に返り咲いた。

肉体的な死の危機が引き金となることもあるが、本質的には、自我の死、心の死というものが、時にはではなく、確実に大きな変革をもたらすと私は思っている。
また、臨死体験という、死の瀬戸際から生還した者の中にも、別人になったと言って良いほどの変革を見せた者もいる。
他にも興味深いのは、極めて異質な世界を体験した場合も、そのようなことになることだ。立花隆氏の「宇宙からの帰還」には、宇宙飛行士が、一度宇宙に出ると、以前と同じ人間であることはできないとまで書かれていたと思う。莫大な費用を払ってでも宇宙飛行を体験したい人が多いのも、直感的にそれを感じるからかもしれない。

我々も、自我の死、心の死を体験し、自己変革を起こすことは素晴らしいことであるに違いない。
ただ、それには、大人の自我を持っていることが必要と思う。上にあげたラマナ・マハリシは17歳の高校生の時に劇的な体験を持ったが、彼の場合は特別な才能を考慮すべきと思う。
自我が十分に確立されていない場合には、その崩壊は危険でもある。しかし、若い場合には、大人にとっては何でもないようなものに大きな感動を覚え、素晴らしい体験になるものである。邱永漢氏も、著書の中で「若いうちに子供を海外に連れて行け。大人になってからエッフェル塔を見ても、当たり前に見てしまう」と書いていたのが印象的だ。
まずは、自我を確立するまで、人としての修練を、家庭、学校、社会で行う必要があるだろう。だが、様々な理由により、普通の生活を送ることに困難があっても挫けてはいけない。全て、今いるその場で出来るに違いない。なぜなら、全ての出来事は神の恩寵であり、必然であって偶然ではないからだ。

ラマナ・マハリシ自身、自我、あるいは、心を消滅させる探求の道を教えている。
ただ、「私は誰か?」と自分に問い続けるのである。それで、心は、真の自己(真我)を残留物として残して溶け去る。
いかなる想いが心に起こっても、その想いを追いかけず、「この想いは誰に起こったのか?」と問う。答えは「私に」であるに決まっている。すかさず、「その私は誰か?」と問うのである。すると、想いは消え去る。これを根気強く続けることで、全ての想いは消滅する。それは心の死である。マハリシは、あらゆる想いを、城から出てくる兵士に例える。それらの兵士を一人ずつ倒せば、やがて城は我らの手に落ちる。探求は、1日中、たゆまず行う必要がある。

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2010.08.17

最大の恐怖は死ではない

演技力があれば、「あなたには不安がありますね」と初めに言えば、占い師でやっていけるかもしれない。
不安のない人間などいないからだ。

なぜ我々は、いわく言いがたい(説明しようのない)不安を抱えているのだろうか?
それは、何かの恐怖感を持っているからに違いない。
人間最大の恐怖は死だと思われているかもしれないが、実は違う。人間は、死そのものではなく、自我の消滅を恐れているのだ。
それは、こう考えれば分かる。肉体が消滅して魂が残るのと、魂が消滅して肉体が残るのと、どちらかを選ぶとしたら、間違いなく、魂が残る方を選ぶはずだ。魂を自我だと思っているからだ。

そして、人間が常に不安なのは、自我とは不安定なもの、つまり、常に崩壊の危機に晒されているからだ。
なぜそうなのかというと、自我というものは、確固たる基盤はなく、ただ、関係性で構築されているからだ。
フロイトは、自我は幻想だと言ったが、それほどあやふやなものであることは確かだ。
自我は、肌の色、住む家、食べるもの、家族との関係、友人、通う学校、仕事、その他、あらゆるものとの関係で成り立っている。その中で、母親との関係性が自我を構築するための根本的な構成要素だ。
だから、母親との関係の薄い人は、自我が不安定だ。それは、その人にとって恐ろしいことなので、自我を強化するために、別のもので補完をしようとする。子供であれば様々なヒーローや、神秘な物語に夢中になったりする。成長するにつれ、武道に憧れたり、ピストルやナイフのような武器に強く惹かれることもあるし、オカルトに傾倒したり、熱心に宗教を信仰する人も多い。俗に言う変わり者には、母親との縁の薄い人や、母親に愛情を注がれなかった人が多い。自我の構成要素の中で最も大きなはずの母親の部分を別のもので埋めているのだから当然である。
特に、日本人は母親の影響が大きいのだから、日本では、母親との縁の薄い人は致命的なまでの変わり者扱いをされる。戦争で死ぬ時、「お母さん!」と叫ぶのは日本人くらいらしいし、乙女が泣きながら「お母さん!」と叫ぶのを可愛いと思うのも日本人くらいだ。
ただ、母親が自我の構築に大きく関与するのは、人間である限り同じで、「母をたずねて3千里」のような物語はどこの国にもある。たとえ立派な大人になっても、母親の顔を知らない人が、なぜか、母親に会いたがるのは、自我の中に母親の締める大きさがいかに大きいかを感じさせる。
おそらく、キリスト教で、信教を自由に選べる立場にあれば、母親との縁の薄い人は、聖母マリアを重要視する教派を選択するか、逆に、マリアのためにキリスト教に反発するかだと思う。

さて、母親というものもひっくるめ、自我の崩壊を恐れることに原因する不安を消すにはどうすれば良いだろう?
普通は、それは不可能で、人間は一生、不安を引きずる。
だが、注目すべきことがある。
それは、自殺をする瞬間に神秘体験をして、生まれ変わることがあるということだ。かのコリン・ウィルソンが世界的な思想家になったきっかけが、まさに青酸カリでの自殺未遂からであったのだ。
自殺とは、自我の消失を自分で引き起こすことであり、自殺に大きな勇気が必要なのは、人間最大の恐怖である自我の消滅を自ら選ぶのだから当然である。いわゆる、「死んだ気になれば何でもできる」の正しい根拠はこれだ。
あるいは、自我を完全に打ちのめされたり、ついに死を受け入れたという時に神秘体験を引き起こすこともある。
昔、無敵のプロボクシング世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンが、モハメド・アリにまさかのKO負けをし、茫然自失した後、神を見て熱心なクリスチャンになったのはそのためだ。
ただ、予想される通り、それは危険なことでもある。
自我を中途半端に破壊すると、最大の恐怖が残り、最悪、発狂する。自殺の場合、下手に恐怖に打ち勝つと、そのまま死んでしまう。
上にあげた、自我の消失で「悟りを開いた」人は、運が良かったというか、それまでの積み重ねがあったのだ。

自我の自主的な抹殺は、正しく行う必要がある。
まず、母親との縁が薄くて、人工的な自我でも良いから、いったん、自我を強く構築しないと、うまく完全に壊れてくれない。
未熟な自我で本格的な修行をする者が常に悲惨な結果になるのはよく知られていると思う。
日本の最高の文豪達・・・芥川や三島等は皆、母親との縁が薄い。彼らは自力で超人的自我を築いたが、その破壊に失敗し、自殺することになってしまった。
至道無難という有名な禅僧の言う、「生きながら死人となり、思いのままに生きる」ことができなかった。イエスの言う、「死に切ることで死に打ち勝つ」ことが分からなかった。天才的に賢い彼らすらそうだった。
だが、我々は、そんな失敗をすべきでない。

今回は、いったんここで切り上げる。

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2010.08.16

親への恨みは根深い障害になる

多くの宗教で、人間を「神の子」と表現することがある。
そのような場合、当然、神は人間の親であり、実際に神を、「親神様」「親様」「父」「大親」などと呼ぶようである。
しかし、平然とそのような言い方をし、教える宗教は、無配慮な点が無いかと疑問を感じることがある。
人によっては、「親」という言葉に対するイメージがひどく悪く、その言葉が、恐怖や陰鬱の感情を呼び起こすこともある。そんな人は決して少なくは無く、特に、近年の日本では多くなっているのではないだろうか?
親の愛、特に、母親の愛は無条件に素晴らしいと思うのは、あまりにおめでたいことであろう。母親には実は愛はなく、子供を支配するためにそう見せかけているだけであると、それなりの根拠をもって断定する精神分析学者もいるほどである。
それはともかく、親に対する感情の影響は、我々が考える以上に大きい。
「心身医学の父」と呼ばれる、ドイツ人医師ゲオルク・グロデックは、「エスの本」で、母親を憎む女性は子供を産まないと書いているが、全てそうでないとしても、やはり、親の影響は根深いことを思わせるのである。

宗教で言う、人が神の子であるという概念は良いものであると思う。しかし、やはり、それに適応できない者は絶対にいると思う。
ところで、仏教では、人の姿をとって現れた仏を「化身」と呼んでいる。また、キリスト教でも、イエスを神の化身とするのが一般的である。
仏教やキリスト教そのものでは、仏、あるいは、神の化身とされるのは、釈迦やイエスといった、まさに、生き仏、生き神であるが、全ての人間が本質的に仏や神の化身であると言って良い。
神の子という表現に抵抗があるなら、神の化身、仏の化身という表現を使うのも手と思う。

特に宗教的な考え方ではなくとも、宇宙全体が、物質というよりは、精神のようなものと言って良いと思う。いくらかでも科学的に表現したいなら、この精神を情報と呼んでも良いと思うが、精神と言った方がまだ適切と思う。
魂と呼ばれる、我々の精神の本質は宇宙を構成する精神と同質のものであり、この宇宙の精神は、人の表面の精神である心(自我、顕在意識)と潜在意識(無意識)によってつながっている。潜在意識がクリアできれいであれば、人は宇宙全体と一体である。そうなれば、宇宙全体の力、エネルギー、活力、知恵と一体であり、それを自在に駆使できるというのが、ジョセフ・マーフィーやチャールズ・ハアネルの考え方と言って良いと思う。そして、これこそ、人が完全な神の子、仏の子、あるいは、神の化身、仏の化身であることを証明できる状態である。(証明できなくても、本来人は、神や仏の子、あるいは、化身である)
潜在意識をクリアにするというのは、そこに、汚れたものを溜めないことだ。汚れたものとは、偏見や世間の教義といった幻想である。本来、世間のしきたりとかルールといったものは、必要最低限で良く、後はそれぞれの自由意志で思考、行動すれば良いはずなのであるが、一部の人間達が大衆を支配するために勝手なルールを作って人々に押し付けた。それが大衆の持つ根深い幻想であり、人が神である宇宙の精神とつながることを妨げている。今の世界は、これがあまりに進行し、人々の潜在意識はガラクタ置き場、ゴミタメ場よりもひどい状態だ。
潜在意識をクリアにする方法としては、闇に光を当てれば闇が消えるごとく、真理を知ることであり、最も手早いのが、真理が書かれた本を読んだり、真理の教えを聞くことであるが、ご存知の通り、真理の書と称して幻想の本を与え、真理の教えと吹聴して幻想の教えを広める者が極めて多い。ある意味、何も信じないというのは正しい態度である。ラマナ・マハリシは、心自体を根絶する方法を教えた。それが、「私は誰か?」と問う自己探求である。自己が自己を問えば、表面の自己である自我は自ら滅びるのである。潜在意識の中のガラクタは、自我に依存してしか存在できず、それで潜在意識をクリアにできる。日本でも、ある遊女が、仏僧に、ただ「私は誰か?」という想いだけを持てと言われ、それを信じて行ったことで悟りを開いた。そんな話もある。

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2010.08.15

私(君)のために世界はある

熱愛中の2人には、世界は2人のためにあると感じるものらしい。
何をのぼせ上がってと思われるかもしれないが、物理学、あるいは、哲学において、宇宙は人間のためにありとする「人間原理」という考え方がある。宇宙がこのようなものであるのは、人間が存在するためだという、人間本意の考え方である。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の中で、古泉一樹(こいずみいつき。高校1年生)が、主人公の1人であるキョン(高校1年生)に、この人間原理を長々と説明するシーンがある。古泉はこう言う。「我、観測す。ゆえに宇宙あり」。これは、デカルトの「我、思う。ゆえに我あり」をもじった(真似て言い換えること)ものだろう。

別に難しい話をしようという気はない。そもそも、私は難しい話が苦手だ。
ただ、上に述べた、古泉の「我、観測す。ゆえに宇宙あり」と、デカルトの「我、思う。ゆえに我あり」は非情に面白いものだ。

「我、観測す。ゆえに宇宙あり」と聞いたキョンは、「そんな馬鹿な」と言う。人間が観測しようがすまいが、宇宙は変わらないだろうという考え方だ。
「我、思う。ゆえに我あり」については、英国の作家コリン・ウィルソンは、「思おうが思うまいが、我はある」と著書で書いている。

これに関連した話として、有名なアインシュタインと、インドの詩人タゴールの対話がある。
タゴールは、「人が月を月として認識しなくても、本当に月があると言えますか?」と尋ね、アインシュタインは「ある」と言った。
もっと簡単に言うと、人が見ていない時に、本当に月は存在しているのかということだ。
現代の科学でも、何を観測しようとしているかによって、観測結果が変わってしまうことは明らかになっている。
つまり、人間の意志によって、世界のありようが変わってしまうのだ。
人が、月を月と認識しなければ、月は存在しない。
かっぱ寿司のCMで、グレイ型宇宙人が宙から降りてくるが、人間の若者はそれに全く関心を示さずに、寿司に夢中になるといったギャグがある。しかし、私が子供の頃、天使と話をしていたら、母親は、「あら、お友達?」と言って、無関心に行ってしまったこともよくあった。もっと現実的な話をするなら、コロンブスがアメリカ大陸に到着した時、現地の人には、彼らが船と認識できないコロンブスの巨大な船が全く見えなかった。彼らには、コロンブスの船は存在しなかったのだ。

真に重要な問題は、意志とは、あるいは、意識とは何かなのである。
人間の意志と限定すると、それは、表面の心、すなわち、自我になる。フロイトが確信した通り、自我は幻想である。よって、世界もまた幻想と言わざるをえない。これは、インドでは太古の昔から言われてきたことだ。
だが、著名な心理学者や精神分析学者にも信じない人がいるし、一般にも信じられていないかもしれないが、自我を超えた意識というものがあれば、その意識が観測する世界は幻想ではなく、真の世界である。

吉本隆明氏の有名な「共同幻想論」というものがある。人間は、個人の幻想や、家族など親しい間で共有する幻想の他に、団体、地域、国家、あるいは、人類といった規模で共有する幻想を持つ。そもそも、国家は幻想で成り立っている。
では、その共同幻想を共有する人々の間では、世界の在り様は同じであるが、同じ幻想を持っていない者にとって、世界は異なったものである。

「涼宮ハルヒの憂鬱」では、世界はハルヒという1人の少女の都合によって、このようなものになっている。
ハルヒが考え方を変えてしまえば、世界は全く違ったものになってしまうというわけだ。
おそらく、彼女は、直接的なコミュニケーションを介さずに、世界に共同幻想を送り込む能力でも有しているのだろう。ハルヒってのは、著者も言ってないと思うが、「張る霊(ヒ)」、つまり、膨張する霊だ。春は「張る」から来ている。漢字できれいに書くなら「春陽」だ。実際に、この名前の少女を知っているが、大した名であると思う。
上にあげた古泉は、ハルヒの能力を恐れる者達の1人だ。
だが、私に言わせれば、ハルヒなど全く恐れるに足りない。自我を超えた純粋な意識には、世界の在り様など、些細なことである。マジックショーと言った聖者もいたし、子供の劇だと言った賢者もいた。
あえて言えば、良いマジックショーや劇であるかどうかは、自我のあり方次第である。ちょうど、映画が良いかどうかは、フォルムの在り方次第であるのと同じだ。自我の様子を知るには、自分の世界を見れば良い。
「燃えよドラゴン」で、リーは、「良い戦いは、少人数で真剣に演じる劇に似ている」と言ったのが面白い。「戦い」と限定すれば、ほぼその通りだからだ。
もう少し広く言えば、ビートルズの“Nowhere Man”の歌詞にあるように、“the world is at your command”(世界は君の意のまま)だ。
だが、自我を打ち破るまでは、釈迦も言った通り、この世は縁起で成り立つ。つまり、我々は因果(カルマ)に縛られる。何事も思い通りにならない。だから、自我の奥にある純粋な意識を見つけなければならない。およそ昔からある、宝探しに関するお伽噺や伝説は、全て、この純粋な意識を探す物語なのだ。


【涼宮ハルヒの憂鬱】
本文に書いた、古泉の人間原理の話はこのシリーズ最初の巻である本書に全て収録されている。
50代の、ある大手教育会社の社長は、この本の面白さは認めながら、読み通せなかったそうだ。感性を測る一つのバロメーターであるかもしれない。大人が読んでも良い本と思う。

【共同幻想論】
素晴らしい本だが、はっきり言って、文章的に読みにくい。1つの行でも、その意味を限定できないという箇所がよくある。これをもって、「おそろしく抽象的」と評した人もいる。
「遠野物語」と「古事記」くらいは事前によく読んでおいた方が良い。

【ものぐさ精神分析】
「唯幻論」で有名な精神分析学者、岸田秀氏の代表的著書。
フロイト精神分析学の範囲に限定するなら、人間の持つ幻想に関して興味深く、また、吉本隆明氏の「共同幻想論」と比較にならないほど分かり易く書かれている。
尚、岸田氏のサイトは、以前、トロイの木馬に感染していた。私が発言しなくなってから、あまり更新のないサイトだったが、どうなったのだろう。恐くてアクセスできないのだが。

【方法叙説】
「我思う、ゆえに我あり」という言い方は、どうもデカルトの考えをよく表していないように思う。彼は、神や存在、宇宙に関する、非常に深遠な洞察を行っていたのだ。
おそらく、「方法叙説」は、とても簡明に書かれているのに(デカルトは、12歳の子供に読めるように書いたと言っている)、これまでは学者達が小難しく翻訳してしまい、一般にあまり読まれなかった。本書は読みやすい。ただ、養老孟司氏の解説が長過ぎるように思う。

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2010.08.14

3つのタイプ別の悟り方

釈迦もイエスも、悟りを開けば、万能の奇跡力を自在に駆使できることを、弟子達には教えたが、一般の人々には隠した。
だが、釈迦は弟子にもその使用はほとんど禁じたのに対し、イエスはむしろ弟子が大いに使うことを期待したように思われる。
そして、釈迦の弟子達は、そのことを外部には隠し、一方、イエスの弟子達は福音書に明らかにした。

そういったこと(奇跡力の秘密)が、精神の未熟な人間に知られれば、それを目的に解脱を得る(悟りを開くと同じ)修行をすることになり、間違った方向に行ってしまう可能性が極めて高い。
そのため、イエスは、その力は、あくまで天の父(絶対神)によるものとしたのだが、そのため、人間の本質が神と同じであることが理解されなくなってしまった。
キリスト教では、父なる神と精霊と人が同じであるという三位一体を中心教義としてはいるが、そこでいう人とはイエス個人とされているように思う。つまり、単にイエスは神であると言っているだけで、人間全てが神であるとは言っていないし、そう信じてもいないのだろう。

現代の聖者で解脱者であるラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは、そこらをうまく調和させて教えている。
人が本質で神そのものであること。悟りを開くとは、それを明らかに認識、実感することだが、そうなれば力においても万能となる。しかし、そんな超自然力を意識的に使う必要は全くない。必要なことは無意識に行われるからだ。
つまり、奇跡の力の発揮に自我の関与は無用だし、極めて好ましくない。
このあたりを、ラマナ・マハリシは、イエスは自分が奇跡力を使ったことを知らなかったのだと美しく表現した。
ジョセフ・マーフィーは、そういったことをよく知った上で、人々に願望を達成させる秘法を教えたのだが、自我の強いままの普通の人は成果を収めることができなかった。しかし、以下の方法で精神を精錬すれば願いは叶う。

悟りを開くにも、人には3つのタイプがあり、自分に向いた道を選ぶ必要がある。(ちなみに、血液型などは何の関係もない)
第一は、最も純粋な方法で、自分の内面を探求することだ。常に自分の心の動きと出来事に注意し、真の自己を蒸留して純粋にしていく方法だ。
第二は、何かに情熱を注ぎ込む方法で、例えば、芸術や科学、工芸(実用的であることが芸術と異なる)、スポーツなどである。ただし、富と名声をもたらすものは道を外れやすい。よって、スポーツよりは日陰で行うような武道の実践者に解脱者が圧倒的に多い。
第三は、奉仕活動である。これにより、他者の喜びを自分の喜びとすることで自他の区別を無くしていき、全てが1つであり、それが愛である神だということを悟るに至る。

実際には、どれか1つの道のみということはなく、いくらかは全ての道に関わる。
ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは第一の道で悟ったが、普通、そういった解脱者は無名である。
マザー・テレサやガンジーは第三の道の代表的な体現者である。
アルベルト・シュヴァイツァーは、主には第三の道を行ったが、まずは第二の道で、神学と音楽を極めようとした。次いで、芸術や学問への探求の情熱と世界の不条理の板ばさみとなって、否応なく自己の心を見つめることとなり、第二の道に入り、最後に第三の道に進んだ。彼の悟りは生命の深い洞察として形(生命への畏敬)にもなった。
アルベルト・アインシュタインは、第一の道と第二の道を渾然とさせ、科学の中に霊的叡智を持ち込んだ。そして、最後は、バートラント・ラッセルなどと共に人類奉仕への道を進んだ。完成には至らなかったが、人間として偉大な一生であった。

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2010.08.13

不幸な善人と陽気な悪人

この世は、ままならぬものだ。
嫌なこと、面白くないことばかりが起こり、何事も思い通りにはいかない。
これには、ほとんどの人が同意いただけるのではないかと思う。

アメリカには、成功教の教祖のように思われている高名な啓発家や光明思想家が沢山いる。
「思い通りになるのが人生だ」と力強く説く大富豪でもある牧師や、「人生は、富だけでなく、家庭や健康等、あらゆる面で成功してこそ幸福なのです」と言って、人生の全ての分野で成功するための高価な自己開発プログラムを世界的に普及される大事業家もいる。
しかし、彼ら自身の家庭は悲惨な問題を抱え、実際は何事も思い通りにならず、人生のあらゆる部分で失敗している。最大のセールスポイントである富においてすら、実際は膨大な負債を背負っている場合も多い。
そして、彼らの教えを宣伝し普及させている者達も、上位者になるほど不幸なのである。

あるいは、人々が憧れ羨む芸能界やスポーツ界の有名人達が、ろくでもない問題を隠しているのは当たり前であり、とりたてて特ダネ番組やゴシップ記事で騒ぐほどのことではない。
そして、そんな有名人に対して、有名な宗教家、占い師、自称霊能力者に意見を聞くと、この人はこんなところが悪いからとか、これを止めないといけないとか言う。ところが、そう言っている宗教家や占い師の方も本当は問題だらけなのだ。

さて、人生とか、この世は、なぜかくもままならぬのだろうか?
例えば、泥棒で財を築き、立派な生活をしている人がいるとする。しかし、彼の妻が浮気を繰り返し、子供はちょっと不良になったとしよう。
そんな時、上にもあげたような宗教家や占い師や自称霊能力者に相談し、職業が泥棒であると言ったら、当然、泥棒をしているのが悪いということになるだろう。
泥棒をやるのもまた宿命である。悪いことほど、やるのにエネルギーがいる。無気力なサラリーマンはいても、無気力な泥棒の話など聞いたことがない。
泥棒をやるような者は、天によくよく選ばれて、特別な使命が与えられているのだ。
彼らもまた、世の中はままならぬと思っている。しかし、彼らはサバサバしている場合が多い。いろいろな不運や不幸に対しても、「世の中、ままならぬなあ」と言いながら、特に深刻でなく、笑ってケロケロしている場合すらある。
別に、悪いことをしている罪悪感から、天罰を受け入れるような心がけでいるのでもない。特に、優秀な泥棒というのは、自分の技量に誇りすら持っている。
ある詐欺集団は、長く高収益を続けていたが、そこでは、普通の会社など比較にならないほど厳格に規律が守られ、また、その組織内では皆が公平に扱われていた。ある意味、正義に貫かれていたのだ。そうでないと、こんな難しい仕事がうまくいくはずがない。
最近よく、鉄道会社や郵便事業や医療で、うっかりミスや職員の怠慢による事故の話をよく聞くが、そんな連中では決して勤まらない。

不幸の原因とは、よくご存知の方も多いと思うが、心の中に巣くったネガティブな思いであることは間違いがない。
しかし、問題は、なぜそんな困った想念を持つかである。
不幸な善人、人生を楽しむ悪人。それが世の中である。
そして、興味深いことに、うじうじした善人から大聖者が生まれることは無いが、大悪人は、ちょっとしたきっかけでそうなることがある。

最近、ブルース・リーの映画が放送されていたので見たが、有名な「燃えよドラゴン」(原題は“ENTER THE DRAGON”)の、最初のあたりの、リーと師匠との会話が興味深かった。

「敵にどう備える?」(師)
「敵はいません」(リー)
「なぜだ?」(師)
「私がいないからです」(リー)
・・・
「チャンスでも私は撃たない。拳自ら撃つ」(リー)
・・・
「表面の幻を破れば、隠れたものが見える」(師)

映画自体は、あくまでエンターテインメント(高度な娯楽)だったが、賢人の話でも借りてきたのだろうか?なかなかのセレクトとマッチングだと思った。
鍵は、良いことか悪いことかは問わぬが、それを誰がやっているかだ。
行為者がいなければ、善事も悪事も存在しない。
誰が行為しているのか?誰が言っているのか?誰が思っているのか?
それは、「私」であるに決まっている。
その私とは誰か(何か)を見出せば不幸は消える。
私とは、思考であり想念だ。そして、それは幻であり、実際は存在しない。
科学的かどうかはともかく、フロイトもそれに気付いてはいた。しかし、彼は頭が良過ぎて、その幻の思考で論を進めたので、全体的には重要な示唆を人類に与えたが、ところどころでけったいな理論を導いてしまったのだ。
ニーチェあたりもそうで、誠実な彼は結局発狂した。発狂してすら、彼は賢かった。ルドルフ・シュタイナーは精神が崩壊した彼の知的な雰囲気に圧倒された。
だが、幸い、我々は頭が悪い。捨てて惜しい知性ではない。その分、腹を創れ。
日本人なら、腹を切って誠意を示した馬鹿な連中を浮かばせてやろうではないか?彼らも、心の奥では気付いていたから、腹を切れたのだ。腹の大切さを。

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2010.08.12

浮世離れこそ貴い

「浮世離れ」という言葉に否定的な感じを受けるのは、我々が奴隷である証拠である。

浮世とは、「儚(はかな)い」「無常の」世の中という意味である。
そして、それは、我々が、「現実の人生」と言っているものだ。

問う。
浮世という言葉には、「辛い世の中」という意味と、「快楽的な世の中」という、相対するような異なる意味があるのはなぜか。
答える。
浮世、即ち、人生に辛いも楽しいもない。それを決めるのは自分であり、文字通り、この世は無常だ。
さらに答える。
「辛い世の中」と「快楽的な世の中」に違いはない。もっと正確に言うなら、「苦痛」と「快楽」に違いはない。単に、あることを、快楽とみなすか苦痛とみなすかの違いである。

浮世とは、我々が愚かにも、勝手に現実だと思っている人生だ。
それは、無常ではかない。
つまり、それは、本当は単に夢であり、幻想だ。

「浮世離れ」こそ、何より貴いのだ。
我々は、敢然と「浮世離れ」しないといけない。

だが、愚かな人間もいるので、余計なことだが言っておく。

問う。
この世が夢なら、殺人やあらゆる暴力、偽証、蔑み、嫌がらせをしても構わないのか。
答える。
その通りである。ただし、殺す相手など存在しない。殺すとは自分を殺すことである。騙すとは自分を騙すことだ。確かに、大半の人間は自分に嫌がらせをしている。あらゆる行為は自分に対して為されるのだ。
逆に、親切にする相手も存在しない。あらゆる親切は自分に対して為されるのだ。
そして、あらゆる行為の対象は自分であると同時に、神に対して為されるのだ。

どんな「浮世離れ」をするかは自分で選べ。
あるいは、「浮世離れ」をせず、この世を崇拝して、鬱(うつ)事に苦しみ続けるのも自由だ。そして、実際は、これを深く深く味わった方が浮世離れし易いのだ。
私は、最高最大の「浮世離れ」を目指す。それは唯一至高の目標である。

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2010.08.11

無茶をする楽しさと引き際

何事も、無理をせず、自然にやるのが上手くやっていくコツだろう。
しかし、そればかりだと、マンネリ(マンネリズムの略。型にはまって、独創性や新鮮味がなくなること)化し、意欲も情熱もなくなって、やり続けることができなくなる。
そんなことを考えてみると、人間に、「無茶をする楽しさ」というものが確実にあるのは、大きな意味があると感じる。
無茶はいけないが、無茶をしない人生など、全然楽しくない。特に、若い時は、無茶をやった思い出が欲しいのだ。

私は、丁度1年前の、やはり8月半ばに、毎日腕立て伏せをやろうと思い立った。
必ず毎日、継続してやることを最重要と考え、無理なく、楽に出来る範囲でやろうと決めた。
10回から始め、毎月10回ずつ回数を増やしていくのが楽しかった。しかし、5月始めに100回に達してから、回数が伸びなくなり、8月に入っても110回のままだったし、それよりも、面白味や楽しさを感じなくなってきていた。
そこで、2日前に何か閃いて、「今日から130回」と決めた。急に20回増やすのはちょっとしんどかったが、直観は確かで、不意に充実感が甦った。
何事もそうだが、自分をあまり甘やかしたり、楽をし過ぎてもいけないのだということを思い出すことができた。
かといって、150回にしていたら、続かなくなったかもしれない。150回にしようというのは、意欲というより、欲なのだと思う。英語では、「欲」はデザイアー(Desire)で、意欲はウイル(Will)と、はっきり異なり、この方がよく意味を表していると思う。日本語の「意欲」は、本来、「意志力」と言うべきなのだろうと思う。
例えば、無理や無茶をすると言っても、「24時間連続でゲームをやる」とか「ハンバーガーを20個食べる」というのは、デザイアー(欲)から来た無茶で何の意味もない愚かなことだが(愚かさを悟るという意味はあるかもしれないが)、「毎日原稿用紙1枚文章を書く」とか「どんなに疲れて帰っても1時間読書する」というのは、ウイル(意志力)である。

無茶というのは楽しいものだ。それは、人間が持つ、愛すべき愚かさでもある。
そして、無茶の限度を知ることが知恵である。この知恵がないと悲惨を生む恐れもある。
「引くべきところは引く」
それが出来ることを、正しい意味での大人というのだと思う。


【会社をやめてどう生きるか】
昭和57年(1982年)初版というから古い本で、とりたてて大した本でもないと感じたのが、いまだロングセラーを続け、私もなぜか書棚の一番目立つ場所におき続けている不思議な本。
著者の本多氏は、才気溢れる人でもなく、人付き合いの苦手な内向型人間で、私には「引きこもり気質」という同類の匂いすら感じる。当然、会社勤めは辛く、職業相談などという看板を出して独立したが1年間お客さんゼロ。暇つぶしに、毎日原稿用紙1枚の文章を書くことをノルマにしていたら、文筆家で成功してしまった。
人付き合いの苦手な人、内向型の人、引きこもりの人にお薦めしたい。
また、脱サラ、いわゆる「独立」するとしても、無理、無茶に見極めが大切なことも現実的に教えてくれる有り難い本だ。

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2010.08.10

異世界に入る

異世界を扱ったお話には、とても美しいものが多くあり、昔から、国や場所を問わず、人々が心惹かれるものであったに違いないと思う。
異世界というのは、物理的なものではなく、精神的な世界と言って良いと思うが、それは単なる空想ではなく、生命ある想像であり、現実以上の現実である。

異世界の世界に入ることに何か意味があるのかというと、恐ろしいほどの意味がある。
現代の、経済主義と言って良い物質主義の世の中では、異世界に入ることに全く目が向けられなくなった。
しかし、異世界との交流を盛んにすれば、心が広がり、新たな力を獲得し、あなたは強くなり、人生は豊かに面白くなる。
当然なのだ。そこは時間のない世界だ。そして、空間の概念の異なる世界だ。そこでは、あなたは身体や心の制約が希薄になる。真のあなたに近くなるのだ。これほどの意義のあることはそうはない。

異世界を扱った、短いが素晴らしいお話に、H.G.ウェルズの「堀についたドア」というものがある。
人生の中でほんの数度、不意に現れるそのドアを潜り抜ければ、別の世界に入っていける。主人公の男性は、子供の頃、一度その中に入り、忘れがたいものを見るのであるが、その後、受験だの仕事だののために、ドアが現れても入ることはなかった。だが、彼の心は、そのドアの中の世界を本当は求めていたのだ。それは当然、悲しい結末につながる。

異世界の中で、あなたはいろいろなものに逢う。真の親しみを持ってあなたを見る友達や、聖母や天使に逢うかもしれない。
おそらくだが、大昔の人々は、そういった世界とごく普通に行き来していたのだ。太古の壁画などに描かれた不思議な光景や、その中の生き物は、異世界で見てきたものかもしれない。
それを想像と人は言うのだろう。しかし、現在の人間は、想像の本当の意味を知らない。想像は現実以上の現実なのだ。

では、どうやれば異世界に入ることができるのだろうか?
そんなのは簡単だ。一瞬で出来る。とはいえ、現在の人間は、想像力が枯れてしまっているので、そう思うようにはいかないかもしれない。しかし、意志があれば出来ないことではない。
幼稚園中退の輝かしい学歴を持つ、優秀な医療エンジニアで思想家だったイツァク・ベントフは、簡単だが重要なアイデアを「超意識の物理学入門」で書いている。
静かに座り、目を閉じて、かつて自分が訪れた風景を思い起こすのだ。そして、ふっと薄目で時計を見る。あなたは、ぎょっとする。時計が止まっているのだ!そこまでいかなくても、時計の針がゆっくり動いていることに気付くと思う。時間の流れが変わっている。
中国には、昔から、これと似た、もっと効果的な異世界に入る方法が伝えられている。子供の時に見た風景を思い出し、その中に意志の力で入っていくのだ。当然、懐かしくて美しい風景が良いだろう。その時、あなたはもう異世界に入っているのだ。
また、絵の中に入っていったり、魚になる想像をして想像の中で海に入っていく方法もある。滝に行けば、滝の裏にある異空間に入るのは面白いものである。
慣れてくれば、より上手く異世界に入れるようになり、貴重な情報や知恵、そして、心のエネルギーを得る。時には、ものを得ることもあるが、それはあまり必要ではないように思う。ものとは、単に想念の固まったものに過ぎない。想念はエネルギーである。
異世界に住むようになる人もいるが、それには条件があるらしく、しばらく居ると、もう帰れとか言われる。もっとも、そこに少しいるだけで生まれ変わるのだから、こちらの世界もそう悪くはなくなる。病気の時などはそれを治すこともできる。姿を消した病気の猫などが元気な姿で戻ってくることもあるのはそのためだ。昔の人は、死が近付くと、割合に頻繁に異世界に入ったので、自分が死んだことに気付かない人も多かったし、実際、生と死の区別がない時代もあったことが、スウェーデンボルグの本などにも書かれている。


【タイムマシン】
H.G.ウェルズは、SF作家という範疇に収まらない、偉大な文豪で思想家だ。この本は、本文で取り上げた「堀についたドア」の他、「奇跡をおこせる男」「ダイヤモンド製造家」「水晶の卵」「イーピヨルニスの島」「タイムマシン」という、驚くべき傑作満載のお得な書である。

【ベントフ氏の超意識の物理学入門】
全く学校に行ったことのないベントフ氏が、この世を「科学的に」鋭く暴いた楽しい本だ。はしがきにあるように、この本を読み通せる科学者は滅多にいない・・・と科学界の権威が述べて本書を推薦しているのが面白い。

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2010.08.09

能力の差など些細な問題である

同じ人間でありながら、なぜこうも違いがあるのだろうと思った人は多いと思う。
言うまでもなく、私も散々悩んだクチである。

現在は、宇宙飛行が誰でも出来る時代になりつつあるらしい。
しかし、かつて宇宙飛行士はエリート中の超エリートだった。
学問では全国屈指の秀才、スポーツも万能で何かの競技に集中すればオリンピックも夢じゃない。そして、人間的にも高度な人格と強靭な精神力が要求された。
いわゆる、並の人間とは全く異なる超人と言って差し支えなく、収入も目も眩むほどで、誰にとってもだが、もちろん、女性にとっても憧れの的だった。

一方、学校においては、三流校の中でも成績は最下位あたりで、特技もなく、人間的にもつまはじき者。
社会では、安月給で世間の人に見下される・・・ならまだマシで、仕事も無く、ボロを着、何ヶ月も入浴しない汚れた身体で野外で寝ている者もあれば、社会で勝ち抜き、豪邸に住み、最高に贅沢な生活をする者もいる。
この違いはいったい何なのだろう?

ところが、こういった優秀な人間と、劣った人間と言われる人達に大した差はない。
喩えてみれば、100キロメートルと1ミリか、100キロメートルと2ミリかの違いといったところである。

フランスのリュミエール兄弟が1900年代初頭に映画を発明し、それが世界中に普及する中で、悟りを開いた聖者達は、世界をよく映画に喩えた。
ラマナ・マハリシもそうだった。
人間の本質は光であり、心がフィルム、世界はスクリーンだ。心によって世界が変わることを端的に示すには格好の喩えだった。
本当の自己は光であるが、人々は、スクリーンを現実だと思い違いをし、自分自身を見ない。自己である光を知れば、心というフィルムが悲惨な内容でない限り、悪い現実は現れないことを了解する。心さえ変えれば、実際は幻影であるが、この世というものは自由に変えられるのだ。
リュミエールという言葉が、フランス語で「光」を意味するのは面白いことだ。

しかし、今では、人と世界の関係はパソコンとインターネットで表現した方が良いかもしれない。
あくまで喩えなので、厳密な話と思ってはいけないが、人はパソコンだ。高性能なパソコンが優れた人間だと思えば良い。最高性能のCPU(頭脳部分)と豊富なRAM(処理用メモリ)、そして巨大な容量の固定ディスク等を備えたパソコンは素晴らしいことができる。一方、20年も前のパソコンのようなスペック(諸元。機能と性能のこと)では、今では使い物にならない。
だが、インターネットの中に、ある想像を絶した親コンピュータがあると考えてみよう。最高のパソコンでも数十億年かかる処理を一瞬でこなせる恐るべき性能のコンピュータだ。そこにつながりさえすれば、パソコンの性能の優劣など、何の意味もない。最高のパソコンが自分でやろうとしたら数年かかることを、最低のパソコンでも、その親コンピュータにまかせれば一瞬でできるのである。
大切なのは、その巨大な性能の親コンピュータとつながることだ。
いかに高性能なパソコンでも、数多くのつまらないサイトに接続し、余計なソフトを走らせると、真に有用なことは出来ない。一方、性能の低いパソコンでも、ただその親コンピュータに接続しさえすれば、その巨大な性能が自分のものになるのである。

言ってみれば、この超高性能な親コンピュータが神様である。そして、最初に述べた通り、パソコンが人間だ。
パソコンの性能の優劣、つまり、人間の能力の優劣など、些細な問題であることが分かる。
人間にとって必要なことは、神様との通信経路をきれいにし、余計な通信(多くの欲をかくこと)、余計な処理(思考)をせず、全てを神様に任せ切ることだ。
もちろん、パソコンとして最低限必要なことはしなければならないが、それは多くはない。ちゃんと神様とつながり、下手でも良いから正しく問題を伝え、送られてきた答えを素直に見ることだ。
もっとも、神様というスーパーコンピュータはあらゆるところに万能で超高性能のインターフェース(感知機能)を持っていて、我々の状況などとっくに、そして、完全に知っている。ただ、我々人間は、潜在意識というインターフェースを通してしか神様とつながることができない。心を穏やかにし、余計な欲望を持たないことで潜在意識をきれいにしておかないと、神様と一体になれないのである。

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2010.08.08

時空を超えるマントラ

インドの貧しい老人、ニサルガダッタ・マハラジはよくこう言った。
「あなたは、身体も心も超えた存在。時間も空間も超えた存在」
世界中から、わざわざ彼を訪ねて、インドの片田舎の裏通りの彼の小さな家にまで来た人すら、その言葉に戸惑ったことだろう。
ましてや、ごく普通の人が、彼のその言葉を本で読んだら、反発を覚える可能性が高い。しかし、反発するとしても、それは妙な感じのする反発かもしれない。心の奥では、それが真実だと知っているからだ。

私は、身体も心も超えている。
私は、時間も空間も超えている。
私には、子供の頃には、それは当たり前のことだった。あなたもきっとそうなのだ。

1978年に、NHKが「キャプテン・フューチャー」というSFアニメを放送していた。
原作は、同タイトルのエドモント・ハミルトンの世界的なSF小説で、私が持っている「キャプテン・フューチャー全集1」の版権表示を見ると1940年となっている。
私は、この本の表紙の、鶴田謙二さんによるイラストの女性に惹かれて思わず買ったのだ。少女に近い雰囲気の伸びやかな四肢の女性が、ボディ・ラインを露にしたタイトで露出の高い衣装で両手首を後ろで拘束され、少し振り返る後姿。しかし、その表情には不安も絶望もなく、意志の強さを感じる。
さて、アニメの「キャプテン・フューチャー」の主題歌「夢の舟乗り」は、山川啓介さんの詩だ(作曲は大野雄二さん)。
山川啓介さんといえば、数多くのヒット曲があるが、「銀河鉄道999」(日本語詩。英語詩は奈良橋陽子さん)で知られ、また、矢沢永吉さんの代表曲「時間よ止まれ」の作詞者でもある。
「夢の舟乗り」の出だしはこうだ。

子供の頃は空を飛べたよ
草に寝ころび 心の 翼ひろげ
どこへだって行けたぼくだった
君を愛した時忘れてた 翼が
もう一度 夢の空飛ぶことを教えた

私の場合は、別に草に寝転ぶ必要はなく、トリップが始まるのは授業中の教室が圧倒的に多かった。
自分で心の中でデザインした宇宙船に乗り、どこまでも宇宙を旅した。あるいは、スーパーマンになって、高く高く飛び、そこから地球を眺め、月に行き、太陽系の惑星なら頻繁に訪問した。何ともリアルな思い出だ。
また、ウミガメになって海に潜り、難破船に忍び込んだこともあった。熱帯地方の島を空から見下ろした時は鳥になっていたのだろう。青い青い空を感じていた時は、高いところに吹く風だったに違いない。
さらに、ちょっと不気味に感じる生物を隠した海だけが広がる太古の地球や、膨張した太陽が地球を飲み込む未来さえ見た。

それは全て生き生きとした現実だった。鮮やかな色彩に溢れていて、「私はそこに在(い)た」。片や教室はモノクロの死んだ世界だった。そこに私は在(い)なかったのだ。
私が、身体も心も超え、時空を超えていたことは明らかだ。

マハラジはこうも言った。
「あなたが確信できることは、『私は存在する』ということだけだ」
「『私は在(あ)る』が至高のマントラ(呪文)である」
夢のツバサをひろげれば、時間も空間も超えて旅し、その色のある光景の中に「私は在(あ)る」
「今、ここに」在る私は、個我(エゴ)としての私である。だが、私が輝きをまとった時、「今、ここ」は消える。一瞬は永遠になる。私は宇宙になる。
マハラジの教えは究極には1つだ。
「常に(何をしている時でも)、存在するという感覚に注意していなさい。それが無意識への扉を開く」
ならば、マハラジの言う究極のマントラ「私は在(あ)る」の助けを借りよう。


【恐怖の宇宙帝王/暗黒星大接近! <キャプテン・フューチャー全集1>】
キャプテン・フューチャー全集1。今回の記事でご紹介したイラストが表紙の本である。小説も、時代を超えて読み継がれる傑作である。

【アイ・アム・ザット 私は在る】
私は、これを読んだ時、一生この1冊で良いと思った。聖者の中にも、そう感じた人は多いようだ。

【コロムビア・サウンド・アーカイブス キャプテンフューチャー オリジナル・サウント・トラック-完全盤-】
本文でご紹介した「夢の舟乗り」の出だしの部分は、ここで、タケカワユキフデさんとヒデ夕樹さんの歌で視聴できる。

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2010.08.07

そんなに暑いですか?

テレビは、もう頻繁に、「記録的な猛暑です」「今日も暑い1日でした」「明日も猛暑が続くでしょう」と、猛暑であることを、しつこい宣伝のように訴えてくる。
人々は、顔を合わせるごとに、「暑いですねえ!」と言い合う。

私も、会う人ごとに「暑いですねえ!」を言われる。そんな時は、仕方なく、「そうですね」と答えるしかない。
ある時、そう言われて私は、「今日は少し暑いですね」と答えたら、「毎日じゃないですか!?」「滅茶苦茶暑いですよ!」と言い返されてしまった。
ずっと年下の女性とかであれば、こちらから話しかけないと気まずいので、私はふと「今、暑いのですか?」と聞いたところ、「あなたは(暑いと)感じないのですか?」と、変なことを言う人だという感じで、質問に質問で返されてしまった。

私だって、別に暑くないわけではない。しかし、大騒ぎするほどのこととは思わない。
そして、私は、長袖の、それも厚手のワイシャツを袖もまくらずに着ているし、スラックスも冬と同じものを履いている。それは、私には、電車やオフィスのクーラーが寒いという理由もある。
テレビなどは、まるで、暑いと思わないと異常であるといわんばかりである。それで人々も過剰に暑いと思い込んでいるのではないだろうか?
やれ、熱中症で倒れた、お年寄りが亡くなった、困った、大変だとずっと騒ぎ立てる。
あげく、クーラーのあるところに行け、水分を補給しろと強要するかのように訴える。
私など、わざわざクーラーを避けて外のベンチに座って本を読んだり瞑想することもあるくらいだし、最近は、暑さに関係なく水分を控えるようになった。水分の取り過ぎがむしろ害があると分かったからだ。
「暑いときこそしっかり食べろ。朝食をちゃんと食べ、肉類など栄養のあるものを」と言う声もよく聞くが、私は、朝、昼は食べないし、間食もせず、夜も肉、魚を食べず、かといって、決して野菜を沢山食べたりもしない。特にこだわらない簡素な食事を、適切な量(満腹しないよう)食べるだけである。

多くの人が1日の大半をクーラーの効いた所で過ごしている。それでそんなに暑いと騒いでいたら、外で仕事をしている人はどうなるのだ?私自身、1日の大半を外を歩き回るセールスマンの仕事をしていたこともあるし、その後、システムエンジニアになったが、これも案外に外に出ることが多い。学生の時の警備員のバイトでは、真夏の日中ずっと外で交通誘導をしたもので、夏の暑さはよく知っている。

暑さの影響も、心の持ち方次第である。
私のように、「暑いことは暑いが、別に少しも困らない」と思っていれば、どうということもないのである。
テレビなどに、困った暑さだと思い込まされることで困ったことになっているだけだと思われてならない。
暑さだけではない。テレビがサッカーワールドカップだと言えばそれに大騒ぎをし、石川遼が今何位だと言われればそれが気になり、不況だと言われれば暗い気分になる。いつも外からコントロールされている。それに慣れてしまっている。
私は、何をどう感じるかは自分で決めるし、何に興味を向けるかも自分で選ぶ。外の世界の全てが自分には関係ないとは言わないし、それどころか、上に述べた雑音でしかない世間のものごとも自分の心の反映であることを認め、むしろ、それを反省している。
私には、外の世界はどんどん希薄になっていくだろう。以前に比べると、はるかにそうなってきたと感じる。それと共に、内なる世界の輝きは増し、安らぎは広がり、愉悦が高まるのである。
それは、世間に踊らされる者達には見ることも出来ない、未知の世界に入ることである。

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2010.08.06

父母を敬うという意味

人が生きる上で従うべき規範というのは、そんなに多くないに違いない。
イエスはモーセの律法を取り上げたが、その内容は、「殺すな」「盗むな」「性の快楽に耽るな」「偽証するな」といった、ごく基本的なことだ。
しかし、「父母を敬え」が出てきたところで、ちょっと抵抗を感じる人もあるのではないかと思う。
そして、多くの宗教的、あるいは、道徳的な教えでは、この父母への敬いが強く主張されている。

父母とは敬うべきものだろうか?
その前に、「敬う」とはどういう意味だろうか?
それは、王様扱いして、何でも言うことを聞いたり、その者の考え方を何でも正しいと肯定するという意味ではない。
無条件に崇めて尊敬することでもない。そもそも、家族ほど、お互いの人間的欠点が目に付くものである。特に、父親は、悪い面ばかりを見られると思って間違いない。
もし、父母が立派だとしても、それが分かるのは、死んでからという場合が圧倒的だろう。この点は、父母の方でも最初から諦めた方が良い。

オールコットの「若草物語」をご存知と思う。原題は“Little Women”で、「若草物語」というタイトルはかなり作為的だが、完全に定着した感じである。
この4人の姉妹の母親は素晴らしい大人の女性であり、また、長女メグも、16歳の若さで優れた人間性を備えつつあり、自然で理想的な結婚話まで起こるほどである。
メグは、賞賛すべきことに、母親を本当に敬愛しているが、そのメグにしたって、母親を悪く言う場面もある。ただ、批判し切ることもない。

敬うとは、おそらく、非難しないことだろう。それは、言葉にしないだけでなく、心の中からでなくてはならない。つまり、蔑(さげす)まないことだ。
自分の父母や、妻あるいは夫、子供というものは、欠点ばかりが目に付き、放っておいたら、蔑み勝ちなものだと思う。悪い点を感じるのは仕方がないが、あえて蔑まないことが敬うということだと思う。
人間は、良いことをするのが望ましいが、悪いことをしなければ一応合格とすべきだろう。

現代の日本では、他人を敬う者がほとんどいなくなったように思われる。それは、心の中で他人を蔑んでいるのである。そしてそれは、自分が優れたものであるという幻想に囚われた傲慢さから起こっている。
他人を蔑まなければ、穢れた幻想も消えるだろう。その根本は、最も蔑みやすい父母をあるがまま認めて批判しないことだ。すると、あらゆることがうまくいくようになるだろう。

「考える」とは、「考えてはならない」という幻想を打ち破ることだ。つまり、世間の妄信に従うことを拒否することである。
「敬う」とは、「蔑みたい」欲望に打ち勝つことだ。つまり、あるがままに認めて非難しないことだ。
それを成就することが悟りなのである。


【若草物語】
やや古い本ですが、私は、この恩地三保子さんの訳が好きです。

【大きな森の小さな家】
恩地三保子さん訳の、アメリカ初とも言えるキャリアウーマンとして知られるローラ・インガルス・ワイルダーの幼い日々の物語。生き生きと描かれた自然の森の中での暮らしがとても興味深い。
ガース・ウイリアムズの素晴らしい挿絵も有名である。

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2010.08.05

やせ我慢は高貴な魔法

やせ我慢こそ、人間に与えられた特権であり秘法でもある。
それは、限りない進歩への鍵であり、欲望に打ち勝つ手がかりを与え、神に近付くことを容易にし、自信を生み出し、人生から喜びを引き出す。
それを使わない人間に可能性はない。

やせ我慢とは、苦しい時に平気な様子を装うことだ。
不快な時に、明るい顔でいることである。

寒い時に、女の子に自分のジャケットを無造作にかけて、自分は寒いのに平気な顔をしている男がいるのは、もう古い映画のお話かもしれない。
炎天下に、お気に入りのスーツをびしっと決めて、涼しい顔でいる男や、足を踏まれて、飛び上がるほど痛くても、全く乱れず、「今のは全然痛くなかったよ」という顔をする男もいなくなった。
国や時代が変わったって、そういうものが、ほっとするような、懐かしいような、妙に心をくすぐる不思議な光景を作り出すのだ。
見栄や虚勢と混同されやすいが、微妙な一線が高貴な輝きを与える。その違いは、心の純粋さだ。

ところが、今の日本では、男も女も、そして、嘆かわしいことに若い人がやせ我慢の美学を忘れてしまい、本当に格好の良い人を見なくなった。
やせ我慢とは、不自然なことをするのではない。
むしろ、あえて作為せず、心のささやきに従うことだ。それは最も自然な振舞いであり、ものごとをあるがままに受け入れ、どんなことも自分に起こることを赦すことだ。その態度には鬼神も敬服して従い、神は恩寵を与えずにはいない。
対して、本能や欲望のままに動く者は低次の霊に弄ばれ、いやらしさと浅ましさの厚みばかり増していき、自ら醜い世界を求め、美しい世界の存在を知ることもないだろう。

幸福になりたいなら、やせ我慢の練習をすることだ。
電車の中では、やせ我慢をしてでも座ることを諦め、立ってても座っているのと同じ快適さを感じている雰囲気を見せることだ。
暑くても、寒くても、痛くても、痒くても平気な顔で微笑んでいることだ。
食べたくても、平然として求めないことだ。
美少女と2人きりでも、輝く星や美しい花を見るような態度で接することだ。
不満を感じたり、犠牲者の気分でいては駄目だ。ある意味、自分の心すら騙すのだ。そして、低い心を去らせるのだ。すると、澄んだ心が鏡のように真の自己を映し、自分がどんな値打ちのある存在かも分かるようになる。

やせ我慢をすることを我慢しないことだ。
世間が「我慢するなよ」と言っても、本当のあなたは美しい我慢をしたいのだ。
やせ我慢せずに豚になるか、やせ我慢して天使のようになるかである。豚は豚で悪いものではない。豚は豚として良い扱いを受けるべきだ。ただし、人として扱うわけにはいかないのが、この世の掟である。

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2010.08.04

余計なことを考えない

自信を持って断言するが、古代から現代にいたるまで、そして、未来永劫同じと思うが、本物の聖者、賢者の教えの絶対的に共通することは、「思考を止めろ」だ。
ただ、彼らは、この同じことを、ほんの少しずつ異なった表現をする。
宗教的な聖者は、概ね、「心を静めよ」という言い方を好む。
ちょっと理屈を言いたい者は、「頭の中のおしゃべりをやめろ」と言う。
さらに理屈っぽくなると、「左脳を止めろ」と言う場合もある。
「腹を創れ」とか「腹で考えろ」というのも、つまるところ、頭の思考を止めろという意味だ。

「思考しなければ頭がボケる」と心配する人も多いと思う。私もそう思うことがある。
しかし、思考しないことでボケたりしない。下らないことを考えることでボケるのだ。
「よく考える」というのは、本当は「余計な思考を頭から追い出す」ということだ。理屈っぽく言うなら、意識できない右脳、あるいは、潜在意識の情報を左脳に伝えるということだ。左脳(顕在意識)がつまらないことを考え過ぎると右脳(潜在意識)の情報が入ってこないのだ。
本来、思考というのは、直観や内奧の叡智の受信機能として少し必要なだけである。
もちろん、世の中には理屈で考えないといけないような仕事も沢山ある。しかし、そんな仕事はストレスがたまり、やがて心が壊れる。それは、「風の谷のナウシカ」のように、毒のある空気の中で行動するようなもので、そこそこにやるとか、毒を防ぐ工夫をしないと死んでしまう。人間らしくない仕事をやるなら、いい加減にやるか、他人にでもなったつもりでやることだ。でないと、人間性が破綻する。

さて、思考を止める優れた方法が瞑想だ。
そして、瞑想というのは、思考を止めるために行うのでなければ意味はない。
座禅の流派によっては、公案と言って、座禅中に考える問題を与えられ、一見、座禅(瞑想と言えると思う)中に懸命に考えているようであるが、公案というのは、考えても答が分からない問題であり、思考が停止した時に答が分かるよう工夫されたものだ。いずれにせよ、素人には難しく、真面目にやると害になる、つまり、考え過ぎてしまう恐れがある。これを禅病と言い、そんな言葉が出来るほどよくあることのようだ。
TM(超越瞑想)という瞑想は、思考を呼び起こさない短い言葉(マントラ)を心の中で反復することで思考を止めるという論理的なものだ。そのマントラは指導者から一人一人に適切なものが与えられないといけない。ただ、やってみれば、確かに、想念を起こす恐れのないマントラが与えられていることが分かり、その唱え方も細かく指導してもらえるので、手っ取り早く間違いのない瞑想をやりたいならTMをやれば良いのではないかと思う。

「ナ・ダーム」という本がある。人間の潜在力を発揮させる方法について書かれた本で、奇跡的な事例が示されている。例えば、メスで患部を開いた医者が、即座に助手に縫合を命じた・・・つまり、一瞬で見放したほどの末期癌患者を、薬も手術も無しで、全く正常な状態にするような話がある。この本では、何の想念も起こさせないマントラとして、研究の末、「ナ・ダーム(NA-DAHM)」を選んだ。面白いことに、翻訳者の川口正吉氏の考案と思われ、この本には書かれていない方法なのだが、息を吸いながら「ナー」と(心の中で)唱え、息を吐きながら(同じく心の中で)「ダーム」と唱えるという方法が実に良い。これは、いつでもどこでも出来るし、実際、思考が停止することで、心も身体も爽やかになる。私に関して言えば、コンピュータプログラミングで疲れた視神経が癒され、その影響で重かった頭がすっきりした。川口氏を賞賛したい。

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2010.08.03

J.マーフィーの読み方

ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則の本を読んでも何ら成果を得られないのは、学校教育で身に付いてしまった本の読み方のせいである。
学生が教科書や参考書を読んだり、練習問題を解く時、「試験で良い点を取るぞ」「入試に合格するためにがんばるぞ」ということだけが目標になっていて、それが当たり前であることを疑わない。科学そのもの、歴史そのもの、文学そのものを味わったり、楽しむということをしないばかりか、教育のせいで、それらを嫌いになってしまうケースが非常に多いのだが、それはむしろ正常な反応に違いない。アインシュタインも、学校教育は子供の知的好奇心を窒息させると言い、彼自身、学校の勉強は大嫌いだったが、現代の日本の学校教育は、まだそこからちっとも進歩していない。
スポーツの練習では、試合に勝つことや大会で優勝することばかりを考える。空手やボクシングをケンカに勝つためにやるようなものである。真に優れた実戦的武道は私闘厳禁である意味を考えたい。

そんな学校教育で身に付いた習慣を持ったまま、マーフィーの「あなたも金持ちになれる」を読むと、お金を儲けることばかりを考え、欲望に支配され、ギラギラした目で読む。潜在意識はそんな時には全く働かない。
マーフィーの本を読む時は、欲望を持たずに、ただ淡々と読むと良い。すると、深い真理を学ぶことが出来る。そうすれば、望まなくとも幸運に恵まれる。

政木和三さんは、パラメモリ(後にアルファシータ、バイオソニックという新しい装置になった)という、人間のあらゆる能力を向上させる装置を発明したが、私はそれを使っても効果を感じられなかったので、政木さんにそう言うと、政木さんは「それは、あなたがこの装置で何かしてやろうという気持ちがまだあるからです。欲望を捨てないと効果はありません」と教えてくれた。
お金について言うと、政木さんは「私はお金なんてちっとも欲しくないのです。だから、毎年1億円も納税することになってしまうのです」と言う。
政木さんのこんな言葉に、純粋に「然り」と思えるようになれば、お金は、必要ならいくらでも降って来るようになるに違いない。
くれぐれも、お金と引き換えに心を病み、そのために身体を損なうようなことになってはならない。学校から始まる世間で成功するとはそのような愚かなことである。学校というものは、ただ、不条理な世間で生きるための練習場と見なせば良いかもしれない。

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2010.08.02

夢はまこと

「夢で逢いましょう」あるいは「夢であいましょう」というタイトルの歌やテレビドラマやバラエティ番組が沢山ある。
「夢で逢えたら」など、類似のタイトルのものも含めると、相当な数になると思う。
しかし、そう簡単に夢で逢えたりはしない。
つまり、見たい夢など、そうそう見れるものではない。

中国の古典の「列子」にこんな話がある。
ある王様が夜の夢ごとに奴隷となり、ある奴隷は毎夜の夢で王様になった。
王様は夢の中で苦しみ、奴隷は夢の中で幸福だった。
実際、このように、夢とは自分の意志とは関係なく見るもので、自由に夢を変えることはできない。

インドの聖者達の中には、現実もまた夢であり、眠っている時に見る夢となんら違いはないと言う者もいる。
江戸川乱歩は、夜見る夢こそ本当で、現実こそ夢だと言い続けたようだ。

夢の中では空を飛べるが、現実ではそうではないので、夢と現実は違うと考えるかもしれない。
しかし、それは大した違いではない。
現実でしかやったことのないことの方がはるかに多いはずだからだ。

夢も現実も、作り方は同じだ。そして、どちらも、自分の自由にはならない。
「美少女戦士セーラームーンSuperS」の映画で、人間に自由に楽しい夢を見せる能力を持つ敵が現れる。なるほど、それは確かに強敵だ。もし、そんなことができれば、人間は永遠に眠り続けるだろう。
しかし、そんな夢の中に取り込まれても、セーラームーンは「思い通りにならないし、嫌なことがあるとしても、現実の方がいい」と言って、自分の意志で夢を打ち破って現実に戻ってくる。大変な精神力である。
一方、「スタートレック」のあるお話では、スポックの元上司は、自由な夢を見る装置による夢の中で永遠に幸福に過ごすことを選択する。彼は、事故で肉体的に大きな障害を持っていたのだ。

白昼夢というものもある。
現実の感覚を残しながら夢を見るのであるが、多くの白昼夢はリアルだ。
「マッチ売りの少女」が見たものも、普通は白昼夢と見なされるのだが、作者のアンデルセンはなぜか、少女が死んだことよりも、少女が美しいものを見たことを強調する。「みんな知らないんだ。少女が見た美しいものを」と。

夢と現実のどちらが本物で、どちらに価値があると見なそうが、そんなことは問題ではない。
どちらも夢である。
大切なのは、夢を作る「あるもの」である。それを大切にしなければならない。
自由な夢を見ることは楽しいことであるが、夢自体を求めてもそれは得られない。
我々にとって、夢を作るそれは隠れている。
それを見出すことが何より重要なのである。
「マッチ売りの少女」に美しい夢を見せたものは何だろう?身体が衰えたことは、その引き金であったのだが、彼女は醜い夢ではなく、美しい夢を見たのだ。アンデルセンはそう言ったのだ。
美しい夢は清い心から生まれる。だが、美しい夢は快楽の夢ではない。
美しい夢を見れるようになることだ。そうすれば、夢を作り出すものにも出逢えるだろう。
さっき取り上げた「列子」では、王様は奴隷の仕事を減らすと、夢の中の奴隷である自分も楽になったとある。王様が贅沢を慎めば、さらに夢は楽しく、そして美しくなっていくだろう。
懺悔や悔い改め、あるいは、禊は、醜い夢を壊し、美しい夢をもたらす。そして、全ての創造主に出逢うのである。


【老子・列子】
道教の書としては、老子や荘子に隠れることも多い列子だが、その価値は全く劣らないと思う。そして、とても面白い伝説の宝庫である。

【あなたも幸せになれる】
あらゆるところに偏在する宇宙の活力は、我々の意志に呼応し、いかなる現実でも創造する。そのための、実際的な方法を世界的な潜在意識の教師であるジョセフ・マーフィーが易しく語る。

【誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる】
好きな夢を見ることができれば、現実も思うように出来る。苦難の少女時代を経て、事業家、作家として世界的な名声を得たチン・ニンチュウの、人生の深い洞察に満ちた教えは圧巻である。

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2010.08.01

寄るなら本物の大樹

誰もが大好きな「幸運」は、辞書には書かれていないかもしれませんが、「思いもよらない良いこと」のはずです。
この、「思いもよらない」という部分に注意しないと、幸運の原理や、それを得る秘訣が分かるものではありません。
つまり、幸運というのは、自分の意志や力ではなく、他者の意志や力の働きによりもたらされるものです。
あなたに幸運をもたらす、身近で分かりやすい存在は、父親やボスや王様ですが、彼らは気紛れですので、昔から人間は神様まで気紛れだと思ってしまい、機嫌を取るのに必死になることがよくありました。
しかし、人間でも、本当に立派な父親やボスや王様は気紛れではありませんので、ましてや、神様が気紛れなはずがありません。

絶大な権力や財力を持つ父親が、彼の子供にとても大切なことをさせる時、その子供がそれを行うならば、父親はその強大な力でもって、ありとあらゆる援助をして子供を守るはずです。子供は、自分がどうやって援助されるかは、父親にまかせればよく、自分は知る必要がありません。その援助は、思いもかけない方法で、適切なタイミングでもたらされます。
これが幸運の原理です。

イエスや黒住宗忠やラマナ・マハルシは、神様に全てまかせれば、万事うまくいくと教えましたが、「全てまかせる」とは、完全に信頼するという意味ですが、それがなかなか難しいのです。
誰かがイエスに、「律法の中で一番重要なものは何ですか?」と聞きましたら、イエスは「神を一番に愛すること」と即答しましたが、それが難しいのです。凡人は、見えない神様より、見えるお金や美女やご馳走が好きなものです。
中国では、荘子は、「全てなりゆきにまかせ、自分で何かしてはならない」と常に強調しました。これも、イエスらの教えと同じなのですが、やはり実践は難しいのです。
「神様に全てまかせる」「神様を一番に愛する」「無為自然」というのは、仏教で言うなら、悟りを開くことです。簡単なはずがありません。

ところで、亡くなられたプロレスの三沢光晴さんが、入門テストで言っていたことを思い出します。
入門テストでは、大変な回数の腕立て伏せやスクワットが要求されますが、三沢さんは、「出来るかどうかではありません。やろうとする気持ちを見ています」と言いました。
上に述べたことで言えば、父親は、子供が、大切なことを達成した時に援助するのではなく、達成しようとしている時に援助するわけです。
このあたり、イエスも荘子も宗忠も、結果(達成)を重視しているように感じますが、ここらが、彼らの教えが難しく思われてしまう原因かもしれません。
そこにいきますと、法然やその弟子の親鸞、あるいは、彼らに影響を与えた中国の道綽(どうちゃく)やその弟子の善導(ぜんどう)らは、人間のそんな弱さをよく分かっていたし、そもそも、お釈迦様が一番よく分かっていたのですね。
それで、彼らは、人々に、悟りそのものではなく、悟りを開こうとする気持ちが本当は一番大切なんだと明かし、そのために誰でもできる簡単な方法を教えたのですが、それが、「南無阿弥陀仏」の念仏です。

悟りを開けば、自分自身が神や仏ですから、自分の力で何でも可能です。
しかし、悟りを開く気持ちさえあれば、今は、自分とは異なるもののように感じている神や仏が援助してくれますから幸運が得られます。
それを、「観無量寿経」というお経では、「仏(阿弥陀仏)を思念したり、その名を呼ぶ者のところに、菩薩(観音菩薩と勢至菩薩)が行き、いつも身近にいて最大の思いやりを持って世話を焼いてくれる。さらに、阿弥陀仏は、沢山の仏や菩薩を派遣し、VIP待遇で援助する」といった感じで表現しています。
それを絵にしたのが、阿弥陀二十五菩薩来迎図です。
念仏で悟りに向かうというと、絵空事のように感じるかもしれませんが、よく考えると、自然で論理的、つまるところ、当たり前とすら思えます。
岡田虎二郎は、岡田式静坐法で、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーは、TM(超越瞑想)で、悟りに向かう、簡単で確実な方法を教えたわけです。これらの実践者が幸運に恵まれることは、自然なことのように思います。
水野南北は、何も持たず、何も知らなくても出来、しかも絶対確実な方法として、食の慎みを教えました。これはまた後日述べますが、強力な方法であると同時に、例えば、ジェダイの騎士になるように危険な面もあるものです。
神仏にとって、人が悟りを開くことは、実に嬉しく喜ばしいことのようです。なら、我々が、歩みは遅くとも、そのための確実なことをやるなら、恵みが与えられないはずがありません。いかに凡人でも、少なくとも、悟りと反対のことは慎みたいものです。ただ、その悟りと反対のことをやる者やさせる者が多くなってしまいました。しかし、そのために災厄が起こるとしても、悟りに進む者には影響はないでしょう。

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