2010.09.27

みんなどんどん馬鹿になっていく

結婚式とかお葬式でもない限り、親戚の人達と会う機会がないという人が多いと思います。
私もそうなのですが、私は先週、親戚の男性の結婚式があり、遠方に住んでいる親戚の人達と久し振りに会いました。本当に長い間会っていない人も少なくなかったですし、冷静に考えると、後何回も会うこともない人も多いはずです。

私の親戚は、割合に田舎に住んでいる人が多いせいかもしれませんが、純朴で良い人が多いように感じます。
しかし、会うたびに、みんな馬鹿になっていくことに愕然とします。
年齢の高い人達は、どんどん老け込み、表情も乏しくなりますし、若い人でも、働きアリのようにすっかり規格化されています。
皆、世間を崇拝し、世間の教義を信じ、世間の信念に従って生きています。テレビから与えられる情報を神の言葉のように信じて疑わず、彼らの善悪、優劣の基準は全て、世間に押し付けられたものです。

私は、久し振りに会う人達に、私が2年前から1日1食になり、肉や魚を食べるのをやめ、お菓子などの間食もやめ、心身とも、少なくとも以前に比べると驚異的に健康になって能力が向上したことを話すのを、浅はかにも楽しみにしていたのですが、彼らの反応は決まっています。
「すごいねえ」「しんどくない!?」「食べないと人生、楽しくないでしょう?」「お母さん、食事の作りがいがないねえ」「私ならもたないねえ」「そんなのありえないよ」
これが彼らの決まった反応ですが、それはまさに一応の反応に過ぎず、彼らがさっぱり興味を感じていないことが分かります。そして、多少の意識的な反応としては、世間に染まった度合いの少ないはずの若い人が、テーブルに用意されたお菓子を、これ見よがしに、間抜けな顔で次々にほおばってみせることです。「やっぱり美味しいものは食べないと」と言うわけです。
そして、いつしか、私も、世間並みの会話をし、彼らも機嫌良くなります。
そして、結婚式、披露宴と進み、これまた世間的な演出で笑いと拍手が起こり、涙を誘うわけです。ほんのちょっとの演出の工夫が見られれば、「変わってたねえ」「個性的だったねえ」となる訳です。

だが、彼らは、肥満し、子供が引きこもり、楽しくない仕事をし、健康に問題を抱え、どうにもできない不安と不満の中で毎日を生きているのだということが分かります。
私が小さい時に、いろいろ良くしてくれた人達が、どんどん世間に蝕まれて愚かになっていくのは悲しいことではありますが、それを見て世間の恐ろしさを再認識し、それを叩き壊すことが人として誠実なことであることを確信できることに、彼らの犠牲に対する恩義を感じるのです。


【荘子】
「世俗にあって世俗を超える」というのが荘子の薦めるライフスタルだったかもしれませんが、近代のマスコミ社会、そして、現代の情報化社会では、いっそうの注意と心構えが必要です。
しかし、世間の性質や、それを超えたところにある、老子や荘子が「道」と呼ぶ不滅の存在については、何も変わっていません。この岸陽子訳の荘子は、とても読みやすい私の愛読書です。

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2010.09.24

人間してる私、猫してるペット

「私は会社員をしている」「私は弁護士をしている」という言い方はよくするが、「私は人間をしている」とは言わない。
これは、会社員とか弁護士といった社会的立場というものが一時的なものであり、その者の本質でないことを示している。

「女している」というのが、「男している」より比較的よく聞くのは、女らしいという条件が性的魅力に偏り勝ちなのに対し、男らしい条件は地位や財力などで長く保つことも可能だからだろう。
女性は、歳を取っても、出来る範囲で外見に気を配り、細かい心遣いができれば「女している」し、男は若くても逞しさがないと「男している」と言えないかもしれない。

名前がウイリアム・ウイルソンなら、「私はウイリアム・ウイルソンです」とは言うが、「私はウイリアム・ウイルソンしています」とは、まず言わない。
名前というのは、職業と違い、滅多に変わらないからだ。
しかし、世界一のセールスマンであるポール・マイヤーは、世界的事業家になっても、ホテルに宿泊する時の職業欄に「ザ・セールスマン」と書くという逸話があるように、仕事において一流である者は、自分を職業と同一視したがる傾向があるようだ。

さて、男である、女である、新聞記者である、野球選手である、ビリー・ジーンである、王である・・・といったところで、その全ては、我々の本質ではない。
また、ある時代劇で「お前ら人間じゃねえ」と言ったりとか、いつかの麻薬撲滅キャンペーンであった「麻薬やめますか、人間やめますか」といったキャッチコピー(広告。英語では単にコピー)が考えられるように、人間というのも、それほど不変なものでもなさそうだ。

我々は、学生したり、社長したり、男したり、女したり、そして、人間しているに過ぎない。
そこらでにゃあにゃあ鳴いているのは猫しているのであり、空で閃光を走らせているのは稲妻しているのである。
それらは全て現象に過ぎず、本質ではない。
イエスは「神の子」であり、釈迦は仏陀である。ただし、自我としての彼らは自分をそう言わない。イエスが自らを神と言う時は、彼が言っているのではない。一方、自我が私は神だ仏陀だという教祖は危ない人だ。「神している」と言うのは勝手だが、役者は演じているものと同じではない。
大学生や会社員という立場が一時的であるのと同様、男とか女とか、メリー・アンとか、さらに人間であるという立場も一時的なものだ。
今、人間であるという真面目さでもって仙人することもできるが、それもまた一時的なものだ。

一時的でない、永遠不変なものが我々の本質だ。
静かなブームである自分探しの終着点とは、それを見つけることである。そこに至らずに偽物を自分とみなすよりは、一生探す方が誠実ではあるが、探し物は早く見つけた方が良い。
「探し物は何ですか?」と聞いて、「夢の中へ行ってみたいと思いませんか?」と言うのが世間の策略である。夢など壊してしまわなくてはいけない。
インドでは、太古の昔から、「あなたはそれだ」、あるいは、「あなたは彼だ」と言ってきた。言葉で言い難いからといっても、もっと分かりやすく言って欲しい気もする。
我々は宇宙ですらない。宇宙は我々の身体に過ぎない。言ってみれば、「宇宙している」という状態が考えられるだけだ。
本質でないものを本質でないと認識することで、割合にたやすく「それ」を知ることができる。
自分は、単に「男してる」「女してる」「サラリーマンしてる」「人間してる」だけだと認識することだ。
しかし、社会的立場の高い者は気の毒だ。それが一時的で他愛もないものであることを認めたがらない。
イエスも言った。「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と。
金持ちすることが悪いということは決してないが、単に金持ちしているのだということをよくよく忘れないことだ。

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2010.09.17

真の英雄

英雄というのは、プログレッシブ英和中辞典のhero(ヒーロー)の項に書かれているように、「敬慕の的となる立派な人物」のことと思う。
では、どんな人物が、「敬慕の的」であり、「立派」であり、ヒーローと言うに相応しいのだろうか?

それは、最も高い意味で言うなら、「他人を生かす者」であることは間違いないと思う。
最も英雄らしく感じるのは、自分を犠牲にして他人の生命を救う者ではないだろうか?

ある時、スカイダイビングをしていた3人が空中で接近し過ぎ、パラシュートロープが絡まってしまって、1つのパラシュートしか開かなかった。3人が高速度で落下していく中、1人がナイフで自分を切り離し、他の2人を救おうとしたことがあった。人々は彼のやったことを「英雄的行為」と言ったが、まさにその通りであろう。
SF小説の中で、宇宙空間で事故を起こした宇宙船からの救出のため、乗客は宇宙服を着て船外に出なければならないが、宇宙服が足りない中、それを知った者が自分は宇宙服を取らないといった話がよくある。著者は英雄を描いて見せたのだ。

戦争で戦果を上げた者がしばしば英雄と呼ばれる。それは一面的には正しい。確かに、彼の祖国の人達は生きる道を得た。しかし、敵国民にとっては逆のことになるのが普通であろう。トータルで言えば、彼は英雄ではない。

この物理的世界では、場所やエネルギーに限界がある。他の者を生かすには、現実として誰かがそれを譲らないといけない。
もしかしたら、ウォレス・ワトルズやジョセフ・マーフィーの本に書かれている通り、全ての人のために十分なものがあるのかもしれないが、現実には、不公平な配分のせいか、別の理由からかは複雑だが、現状はそうではない。
どうしても譲る者が必要である。

戦争で言えば、戦果を上げるかどうかではなく、戦死した者は、敵味方区別なく、他人に場所を譲った英雄だ。
しかし、それなら、ウイルス感染や病気で死んだ者もまた、他人のために立派に場所を譲った英雄である。

真の英雄である「他人を生かす者」とは、「場所を譲る者」と言えるだろう。
この世では、誰かがいなくなれば、その分、他の者の場所が増える。それが悲しい現実である。
人間以外の動物等の世界では、天敵が存在し、ある種が過剰に増えることは普通はない。ただ、人間だけが他の種を絶滅させても増え続けようとする。
その中で、ウイルス感染、自然災害、あるいは、戦争で亡くなった人というのは英雄であり、その意味で、我々は、その遺族や彼らの同朋を手厚く援助しなければならないのであり、同情からそれを行うのではない。
我々の命は、そんな人達の犠牲に負っているのである。

生命まで投げ出すことはなかなか出来ないが、可能な範囲で場所を譲ることなら出来るかもしれない。
リストラされた人は、他の人に場所を譲った英雄だ。自分の家の自分の場所を、それを持たない者に少しでも譲ることもまた英雄的行為である。
自分が食べる量を出来る限り慎み、それを他に回すこともまた、心の中の英雄が起こさせるものであるかもしれない。
映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」で、豪華な宮殿の中で広々とした場所を持っていた法王が、フランチェスカに「その貧しさに私は恥じ入るばかりだ」と言ったのは、自然な感覚なのだと思う。

自分が消え去った世界。それを不意に想像すると、悲しく寂しいかもしれない。だが、真の英雄とは何かが感じられるはずだ。
そして、自分が個の存在であるという、人類最大の幻想も消える。自分が消えることで、自分が世界であることを理解するのである。

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2010.09.06

1日1食を2年続けて

2008年8月から始めた1日1食も2年を過ぎた。
始めた最初の頃は、1日1回の食事である夕食も、御飯半合(小さい茶碗に6分程度)と小さなマグカップ1杯程度の大きさの豆腐、漬物、豆が少々といった超少食で、体重は毎週2Kgずつ減り、2ヶ月で20Kg以上痩せたものだ。
一番体重が落ちた頃は、35Kg痩せて59Kgほどになった。現在は、1日1食で、肉、魚を食べず、間食もしないことは変わりないが、夕食は十分に食べるようになり、体重は66Kgで安定してきた(身長は約180Cm)。「十分に夕食を食べる」と言っても、決して満腹するまで食べるのではなく、食後でも、食欲が残るようであることを念のため断わっておく。
健康診断をすれば、以前は病人並の診断結果であったが、現在はオールA判定の超健康体だ。
健康診断の際に、医者が面談指導をしてくれるのだが、私の食生活を話すと、医者は「それは間違いだ」と言いたそうなのだが、結果が良好なので何も言えないその様子がおかしい。医者は、何とか欠点を見出そうと、「しんどくないですか?」「お腹空かないですか?」と尋ねてくる。私の答えは、「非常に空腹だが、大変に元気だ」である。
医者も世間も、空腹というものを悪いものででもあるように思い込んでいるが、空腹を十分に感じることほど良いことはない。空腹なら、それをすぐに解消しなければならないという奇妙な因習が人々を不幸にしているのだ。

最近、悪玉コレステロールが実は身体に悪いものではなく、特に男性では、むしろ、多い方が長命であることや、善玉コレステロールが必ずしも良い作用をしないという研究結果が発表されて話題になっているが、私は元々医学というものはさっぱり信じていないので、何とも思わない。医学の定説が覆るなんて珍しいことではない。しかし、医学の定説は、覆らない間は、後に「とんでもなくひどく、間違っている」とされることが、権威をもって人々に強制されるのである。
医療の強制は恐ろしいものである。
数年前、私はメニエール病の発作で倒れ、私は行きたくなかったが、医療を崇拝する家族の強い要請で病院に行き、点滴治療を受けた。1回行けば十分と思ったが、診断結果を受け取るためにも次の予約を取らされ、再度行くと、「点滴しますか?」と看護師に聞かれたので、即、断わった。しかし、医者が「点滴しよう」と言い、断わり難く、再度点滴を受けた。私は、点滴が気持ち悪くて仕方がないのだ。この私でさえ断われないところに、医療の強制の恐ろしさを感じた。家族は大騒ぎしたが、私は、ここで断固、病院と縁を切った。そして、自然に治ることはないと言われるメニエール病はゆっくりと沈静し、その後、1日1食の生活を続ける頃には、何ら兆候はなくなった。即ち、完治である。

医者に「運動していますか?」と聞かれるのも何か嫌だ。医者や世間の言う「運動」とは、広い場所でやるようなイメージのものばかりだ。
私は、畳1枚あれば出来ることしかしない。
昨年8月から腕立て伏せをやっているが、10回から始め、今月は140回になった。毎月、10回ずつ回数を増やしている。詳しく書くと、
・朝
スワイソウ600回(300回×2)
腹筋運動50回(50回×1)
・夜
スワイソウ400回(400回×1)
腕立て伏せ140回(140回×1)
腹筋運動50回(50回×1)
スクワット50回(50回×1)
となる。
以前は、ウォーキングをやっていたが、休日しかできないことや、歩くのに良い場所はやはりウォーキングをする人が多く、人の多い場所が嫌いなので、やめてしまった。しかし、現在のような運動の方が私には向いている。
私は、腕立て伏せは、誰が発明したのか知らないが、神秘的とも言える最高の運動だと思っている。多くの優れた格闘家にも腕立て伏せの愛好家が多いが、スポーツ医学的には、特に、回数の多い腕立て伏せは合理的と見なされていない。だが、毎日やれば、素晴らしさは分かると思う。


【武道の力】
ある超人的な合気道家が、90歳の時に、腕立て伏せを軽々と150回やったという話が紹介されています。
著者(武道家)は、50歳を過ぎ、70回しか出来なかったが、その合気道家の「70歳までは鍛えれば筋肉がつく」という言葉に刺激されて、2年かけて200回出来るようになったと言います。

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2010.09.05

悪い夢は幸運をもたらす

眠りの中で悪い夢を見たから不幸だという人はあまりいない。夢は短いし、忘れやすい。

だが、中国の古典「列子」にこんな話がある。
ある王様は、毎晩、夢で奴隷になるので幸福でなかった。ところが、この王様の奴隷の老人は、毎晩、夢で王様になるので、そんなに不幸でなかった。
王様は、奴隷の仕事を減らして楽にし、贅沢を慎むようにしたら、夜の夢もそう悪いものでなくなった。奴隷の夢は、以前ほど豪華ではなくなったかもしれないが、現実が良くなったのだから悪くはないだろう。

普通は、このように極端ではなく、夢でも現(うつつ)でも、良いことと悪いことが混ぜ合わさって起こる。
大きな幸福と大きな不幸が交互にくる場合もあれば、大きな幸福の中で多くの小さな不幸が起こる場合もある。
いずれにしろ、良いことだけ、悪いことだけということは絶対にない。
良いことだけを求めるのは、昼だけ求めて夜を消したがるようなものだ。しかし、人間は良いことばかり求める。それで、不幸の息の根を止めようとする。敵は殺してしまう。まさに、夜をなくして昼だけにしようとするような愚かなことだ。
その点、虫や動物は賢い。オスがメスを巡って争っても、敵のオスに致命傷を与えるようなことは決してしない。食べるために殺すとしても、必要以上の狩りはしない。肉食動物も草食動物も、餌がなくなれば適度に滅んで、餌にしている動物、植物を繁殖させる。

この世には、良いことと悪いことの両方が必ずある。昔の中国では、この世は光と闇のせめぎ合いで出来ていると言い、易では、明と暗は繰り返すことを教えている。易は最高の運命学である。
そして、中国やインドの賢者達は、夢と現実は等しいものであると言う。ならば、悪い夢は、良い現実をもたらすものとして喜んで良いはずだ。
また、意図的に不幸を作って幸運を呼ぶ方法もある。願いを叶えるためには、犠牲を伴うものだ。ならば、積極的に犠牲を差し出せば良い。成功したければ、遊ぶ時間を犠牲にする。スーパーモデルになりたいなら、甘い食べ物を楽しむことを犠牲にする。
水野南北は、3食のうちの1食を神仏に奉げれば(ただし、食べるのをやめて心で奉げれば良いとした)願いは叶うと請合った。1食の中で、食べたいものを残すことでも良いのだ。
昔、女優の細川ふみえさんは、3食全てそれで良いほど大好きなチョコレートを絶って願掛けをしたことがあるが、良い方法である。これが正しい生贄、犠牲の奉げ方である。

悪いことが起こったら、良いことが起こると喜べば良い。悪いことと良いことは、昼と夜のように、相伴うのだ。
良いことが起こったら、より慎まなければ不幸になると、昔から賢い人は知っていた。
超念力で知られた石井普雄さんは、「難事は良いこと」という至言を残したが、その意味はもう分かると思う。ただ、彼自身は、病人が自分で消すべき病気を消してやり、自分が闇を引き受けてしまって早死にしたのだが。
誰しも、家族、学校のクラスや部活、会社などで、嫌な人がいるものだが、嫌な人こそ、幸運をもたらす福の神である。
顔を合わせるのも嫌な夫や妻なんて最高の天使である。愚か者はすぐに離婚して、どんどん不幸になっていくのだ。

幸福になるなんて実に簡単なことであることが分かると思う。

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2010.08.24

巨大宇宙船に救われたいか?

2012年、あるいは、そのくらいの時期に、地球の崩壊の可能性も含め、人類に大異変が起こるかもしれないという話は、20世紀末のノストラダムスの予言ブームの頃からもあった。
その中で、地球破滅の際に巨大宇宙船が現れ、優れた人間性の持ち主のみが救助されるという話がある。
その1つが、チリの作家、エンリケ・バリオスが書いた、世界的ベストセラー「アミ 小さな宇宙人」シリーズだ。この小説の内容は、著者はあくまでフィクションであるとしながら、実は本当の話であることを匂わせるという演出を行っている。
「アミ 小さな宇宙人」の新しい版では、さくらももこさんが挿絵を描いているが、さくらももこさんは著者と手紙をやりとりする仲であるらしい。また、世界的画家、イラストレーターの横尾忠則さんは、この小説を絶賛し、旧版で表紙絵を描いたりもしたくらいである。私は旧版で読んだが、確かに面白い内容だった。

さて、「アミ 小さな宇宙人」シリーズでは、宇宙人も含めた人間の精神レベルは数値化でき、千点満点で7百点以上が宇宙レベルに達した高度な精神性であるとされる。そして、地球破滅の際に宇宙から救いに来る宇宙船に迎えられるのも、この精神性数値が7百点以上の人類だけである。
まあ、私は、別に謙遜でもなく、自分がそんな救いの対象になるとは思わないが、何かの間違いで宇宙船に乗せてもらえると言われても、スタンリー・キューブリック監督の映画「ロリータ」のハンバート役を打診された時のケーリー・グラントと同じ答えをするだろう。即ち、「ノーサンキュー」(結構だ)。
私のように人間性が高くなくても、それに私は正直に言って人嫌いなのだが、いかに下らない(ように個人的に感じる)人達とはいえ、彼らが滅びる地球に取り残されている中で、のうのうと救いの宇宙船に乗るなど考え難い。ましてや、本当に人間性が高いなら、たとえ1人でも、そして、それがいかに悪人であろうと、滅びの地に残されているなら、運命を共にしたいと思うのではないだろうか?
「歎異抄」によれば、悪人の方がむしろ仏の救いの対象のはずなのであるし、イエスも悪人のために来たと言っていたと思う。
もし、宇宙船が助けに来てくれるなら、滅びの日だけ教えて欲しい。その日に備え、食を絶ち、ゆるゆると死を迎えたいと思っている。
尚、もし2012年に、アセンションと呼ばれる大異変が起こるとしても、それは、この小説にあるような、通常の物理的な出来事ではないような気がする。それに、本当の意味では人に死はないかもしれない。
私が気に入っているアセンションのシナリオは、1995年に旧版が出版されている名著「波動の法則」にあるものだ。
まあ、何が起こるか、詳しいことはさっぱり分からないが、慌てることも、心配することもない。ただ、見えるものしか信じない人達は、どう言ってやっても無駄なのだ。

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2010.08.13

不幸な善人と陽気な悪人

この世は、ままならぬものだ。
嫌なこと、面白くないことばかりが起こり、何事も思い通りにはいかない。
これには、ほとんどの人が同意いただけるのではないかと思う。

アメリカには、成功教の教祖のように思われている高名な啓発家や光明思想家が沢山いる。
「思い通りになるのが人生だ」と力強く説く大富豪でもある牧師や、「人生は、富だけでなく、家庭や健康等、あらゆる面で成功してこそ幸福なのです」と言って、人生の全ての分野で成功するための高価な自己開発プログラムを世界的に普及される大事業家もいる。
しかし、彼ら自身の家庭は悲惨な問題を抱え、実際は何事も思い通りにならず、人生のあらゆる部分で失敗している。最大のセールスポイントである富においてすら、実際は膨大な負債を背負っている場合も多い。
そして、彼らの教えを宣伝し普及させている者達も、上位者になるほど不幸なのである。

あるいは、人々が憧れ羨む芸能界やスポーツ界の有名人達が、ろくでもない問題を隠しているのは当たり前であり、とりたてて特ダネ番組やゴシップ記事で騒ぐほどのことではない。
そして、そんな有名人に対して、有名な宗教家、占い師、自称霊能力者に意見を聞くと、この人はこんなところが悪いからとか、これを止めないといけないとか言う。ところが、そう言っている宗教家や占い師の方も本当は問題だらけなのだ。

さて、人生とか、この世は、なぜかくもままならぬのだろうか?
例えば、泥棒で財を築き、立派な生活をしている人がいるとする。しかし、彼の妻が浮気を繰り返し、子供はちょっと不良になったとしよう。
そんな時、上にもあげたような宗教家や占い師や自称霊能力者に相談し、職業が泥棒であると言ったら、当然、泥棒をしているのが悪いということになるだろう。
泥棒をやるのもまた宿命である。悪いことほど、やるのにエネルギーがいる。無気力なサラリーマンはいても、無気力な泥棒の話など聞いたことがない。
泥棒をやるような者は、天によくよく選ばれて、特別な使命が与えられているのだ。
彼らもまた、世の中はままならぬと思っている。しかし、彼らはサバサバしている場合が多い。いろいろな不運や不幸に対しても、「世の中、ままならぬなあ」と言いながら、特に深刻でなく、笑ってケロケロしている場合すらある。
別に、悪いことをしている罪悪感から、天罰を受け入れるような心がけでいるのでもない。特に、優秀な泥棒というのは、自分の技量に誇りすら持っている。
ある詐欺集団は、長く高収益を続けていたが、そこでは、普通の会社など比較にならないほど厳格に規律が守られ、また、その組織内では皆が公平に扱われていた。ある意味、正義に貫かれていたのだ。そうでないと、こんな難しい仕事がうまくいくはずがない。
最近よく、鉄道会社や郵便事業や医療で、うっかりミスや職員の怠慢による事故の話をよく聞くが、そんな連中では決して勤まらない。

不幸の原因とは、よくご存知の方も多いと思うが、心の中に巣くったネガティブな思いであることは間違いがない。
しかし、問題は、なぜそんな困った想念を持つかである。
不幸な善人、人生を楽しむ悪人。それが世の中である。
そして、興味深いことに、うじうじした善人から大聖者が生まれることは無いが、大悪人は、ちょっとしたきっかけでそうなることがある。

最近、ブルース・リーの映画が放送されていたので見たが、有名な「燃えよドラゴン」(原題は“ENTER THE DRAGON”)の、最初のあたりの、リーと師匠との会話が興味深かった。

「敵にどう備える?」(師)
「敵はいません」(リー)
「なぜだ?」(師)
「私がいないからです」(リー)
・・・
「チャンスでも私は撃たない。拳自ら撃つ」(リー)
・・・
「表面の幻を破れば、隠れたものが見える」(師)

映画自体は、あくまでエンターテインメント(高度な娯楽)だったが、賢人の話でも借りてきたのだろうか?なかなかのセレクトとマッチングだと思った。
鍵は、良いことか悪いことかは問わぬが、それを誰がやっているかだ。
行為者がいなければ、善事も悪事も存在しない。
誰が行為しているのか?誰が言っているのか?誰が思っているのか?
それは、「私」であるに決まっている。
その私とは誰か(何か)を見出せば不幸は消える。
私とは、思考であり想念だ。そして、それは幻であり、実際は存在しない。
科学的かどうかはともかく、フロイトもそれに気付いてはいた。しかし、彼は頭が良過ぎて、その幻の思考で論を進めたので、全体的には重要な示唆を人類に与えたが、ところどころでけったいな理論を導いてしまったのだ。
ニーチェあたりもそうで、誠実な彼は結局発狂した。発狂してすら、彼は賢かった。ルドルフ・シュタイナーは精神が崩壊した彼の知的な雰囲気に圧倒された。
だが、幸い、我々は頭が悪い。捨てて惜しい知性ではない。その分、腹を創れ。
日本人なら、腹を切って誠意を示した馬鹿な連中を浮かばせてやろうではないか?彼らも、心の奥では気付いていたから、腹を切れたのだ。腹の大切さを。

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2010.08.12

浮世離れこそ貴い

「浮世離れ」という言葉に否定的な感じを受けるのは、我々が奴隷である証拠である。

浮世とは、「儚(はかな)い」「無常の」世の中という意味である。
そして、それは、我々が、「現実の人生」と言っているものだ。

問う。
浮世という言葉には、「辛い世の中」という意味と、「快楽的な世の中」という、相対するような異なる意味があるのはなぜか。
答える。
浮世、即ち、人生に辛いも楽しいもない。それを決めるのは自分であり、文字通り、この世は無常だ。
さらに答える。
「辛い世の中」と「快楽的な世の中」に違いはない。もっと正確に言うなら、「苦痛」と「快楽」に違いはない。単に、あることを、快楽とみなすか苦痛とみなすかの違いである。

浮世とは、我々が愚かにも、勝手に現実だと思っている人生だ。
それは、無常ではかない。
つまり、それは、本当は単に夢であり、幻想だ。

「浮世離れ」こそ、何より貴いのだ。
我々は、敢然と「浮世離れ」しないといけない。

だが、愚かな人間もいるので、余計なことだが言っておく。

問う。
この世が夢なら、殺人やあらゆる暴力、偽証、蔑み、嫌がらせをしても構わないのか。
答える。
その通りである。ただし、殺す相手など存在しない。殺すとは自分を殺すことである。騙すとは自分を騙すことだ。確かに、大半の人間は自分に嫌がらせをしている。あらゆる行為は自分に対して為されるのだ。
逆に、親切にする相手も存在しない。あらゆる親切は自分に対して為されるのだ。
そして、あらゆる行為の対象は自分であると同時に、神に対して為されるのだ。

どんな「浮世離れ」をするかは自分で選べ。
あるいは、「浮世離れ」をせず、この世を崇拝して、鬱(うつ)事に苦しみ続けるのも自由だ。そして、実際は、これを深く深く味わった方が浮世離れし易いのだ。
私は、最高最大の「浮世離れ」を目指す。それは唯一至高の目標である。

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2010.08.10

異世界に入る

異世界を扱ったお話には、とても美しいものが多くあり、昔から、国や場所を問わず、人々が心惹かれるものであったに違いないと思う。
異世界というのは、物理的なものではなく、精神的な世界と言って良いと思うが、それは単なる空想ではなく、生命ある想像であり、現実以上の現実である。

異世界の世界に入ることに何か意味があるのかというと、恐ろしいほどの意味がある。
現代の、経済主義と言って良い物質主義の世の中では、異世界に入ることに全く目が向けられなくなった。
しかし、異世界との交流を盛んにすれば、心が広がり、新たな力を獲得し、あなたは強くなり、人生は豊かに面白くなる。
当然なのだ。そこは時間のない世界だ。そして、空間の概念の異なる世界だ。そこでは、あなたは身体や心の制約が希薄になる。真のあなたに近くなるのだ。これほどの意義のあることはそうはない。

異世界を扱った、短いが素晴らしいお話に、H.G.ウェルズの「堀についたドア」というものがある。
人生の中でほんの数度、不意に現れるそのドアを潜り抜ければ、別の世界に入っていける。主人公の男性は、子供の頃、一度その中に入り、忘れがたいものを見るのであるが、その後、受験だの仕事だののために、ドアが現れても入ることはなかった。だが、彼の心は、そのドアの中の世界を本当は求めていたのだ。それは当然、悲しい結末につながる。

異世界の中で、あなたはいろいろなものに逢う。真の親しみを持ってあなたを見る友達や、聖母や天使に逢うかもしれない。
おそらくだが、大昔の人々は、そういった世界とごく普通に行き来していたのだ。太古の壁画などに描かれた不思議な光景や、その中の生き物は、異世界で見てきたものかもしれない。
それを想像と人は言うのだろう。しかし、現在の人間は、想像の本当の意味を知らない。想像は現実以上の現実なのだ。

では、どうやれば異世界に入ることができるのだろうか?
そんなのは簡単だ。一瞬で出来る。とはいえ、現在の人間は、想像力が枯れてしまっているので、そう思うようにはいかないかもしれない。しかし、意志があれば出来ないことではない。
幼稚園中退の輝かしい学歴を持つ、優秀な医療エンジニアで思想家だったイツァク・ベントフは、簡単だが重要なアイデアを「超意識の物理学入門」で書いている。
静かに座り、目を閉じて、かつて自分が訪れた風景を思い起こすのだ。そして、ふっと薄目で時計を見る。あなたは、ぎょっとする。時計が止まっているのだ!そこまでいかなくても、時計の針がゆっくり動いていることに気付くと思う。時間の流れが変わっている。
中国には、昔から、これと似た、もっと効果的な異世界に入る方法が伝えられている。子供の時に見た風景を思い出し、その中に意志の力で入っていくのだ。当然、懐かしくて美しい風景が良いだろう。その時、あなたはもう異世界に入っているのだ。
また、絵の中に入っていったり、魚になる想像をして想像の中で海に入っていく方法もある。滝に行けば、滝の裏にある異空間に入るのは面白いものである。
慣れてくれば、より上手く異世界に入れるようになり、貴重な情報や知恵、そして、心のエネルギーを得る。時には、ものを得ることもあるが、それはあまり必要ではないように思う。ものとは、単に想念の固まったものに過ぎない。想念はエネルギーである。
異世界に住むようになる人もいるが、それには条件があるらしく、しばらく居ると、もう帰れとか言われる。もっとも、そこに少しいるだけで生まれ変わるのだから、こちらの世界もそう悪くはなくなる。病気の時などはそれを治すこともできる。姿を消した病気の猫などが元気な姿で戻ってくることもあるのはそのためだ。昔の人は、死が近付くと、割合に頻繁に異世界に入ったので、自分が死んだことに気付かない人も多かったし、実際、生と死の区別がない時代もあったことが、スウェーデンボルグの本などにも書かれている。


【タイムマシン】
H.G.ウェルズは、SF作家という範疇に収まらない、偉大な文豪で思想家だ。この本は、本文で取り上げた「堀についたドア」の他、「奇跡をおこせる男」「ダイヤモンド製造家」「水晶の卵」「イーピヨルニスの島」「タイムマシン」という、驚くべき傑作満載のお得な書である。

【ベントフ氏の超意識の物理学入門】
全く学校に行ったことのないベントフ氏が、この世を「科学的に」鋭く暴いた楽しい本だ。はしがきにあるように、この本を読み通せる科学者は滅多にいない・・・と科学界の権威が述べて本書を推薦しているのが面白い。

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2010.08.07

そんなに暑いですか?

テレビは、もう頻繁に、「記録的な猛暑です」「今日も暑い1日でした」「明日も猛暑が続くでしょう」と、猛暑であることを、しつこい宣伝のように訴えてくる。
人々は、顔を合わせるごとに、「暑いですねえ!」と言い合う。

私も、会う人ごとに「暑いですねえ!」を言われる。そんな時は、仕方なく、「そうですね」と答えるしかない。
ある時、そう言われて私は、「今日は少し暑いですね」と答えたら、「毎日じゃないですか!?」「滅茶苦茶暑いですよ!」と言い返されてしまった。
ずっと年下の女性とかであれば、こちらから話しかけないと気まずいので、私はふと「今、暑いのですか?」と聞いたところ、「あなたは(暑いと)感じないのですか?」と、変なことを言う人だという感じで、質問に質問で返されてしまった。

私だって、別に暑くないわけではない。しかし、大騒ぎするほどのこととは思わない。
そして、私は、長袖の、それも厚手のワイシャツを袖もまくらずに着ているし、スラックスも冬と同じものを履いている。それは、私には、電車やオフィスのクーラーが寒いという理由もある。
テレビなどは、まるで、暑いと思わないと異常であるといわんばかりである。それで人々も過剰に暑いと思い込んでいるのではないだろうか?
やれ、熱中症で倒れた、お年寄りが亡くなった、困った、大変だとずっと騒ぎ立てる。
あげく、クーラーのあるところに行け、水分を補給しろと強要するかのように訴える。
私など、わざわざクーラーを避けて外のベンチに座って本を読んだり瞑想することもあるくらいだし、最近は、暑さに関係なく水分を控えるようになった。水分の取り過ぎがむしろ害があると分かったからだ。
「暑いときこそしっかり食べろ。朝食をちゃんと食べ、肉類など栄養のあるものを」と言う声もよく聞くが、私は、朝、昼は食べないし、間食もせず、夜も肉、魚を食べず、かといって、決して野菜を沢山食べたりもしない。特にこだわらない簡素な食事を、適切な量(満腹しないよう)食べるだけである。

多くの人が1日の大半をクーラーの効いた所で過ごしている。それでそんなに暑いと騒いでいたら、外で仕事をしている人はどうなるのだ?私自身、1日の大半を外を歩き回るセールスマンの仕事をしていたこともあるし、その後、システムエンジニアになったが、これも案外に外に出ることが多い。学生の時の警備員のバイトでは、真夏の日中ずっと外で交通誘導をしたもので、夏の暑さはよく知っている。

暑さの影響も、心の持ち方次第である。
私のように、「暑いことは暑いが、別に少しも困らない」と思っていれば、どうということもないのである。
テレビなどに、困った暑さだと思い込まされることで困ったことになっているだけだと思われてならない。
暑さだけではない。テレビがサッカーワールドカップだと言えばそれに大騒ぎをし、石川遼が今何位だと言われればそれが気になり、不況だと言われれば暗い気分になる。いつも外からコントロールされている。それに慣れてしまっている。
私は、何をどう感じるかは自分で決めるし、何に興味を向けるかも自分で選ぶ。外の世界の全てが自分には関係ないとは言わないし、それどころか、上に述べた雑音でしかない世間のものごとも自分の心の反映であることを認め、むしろ、それを反省している。
私には、外の世界はどんどん希薄になっていくだろう。以前に比べると、はるかにそうなってきたと感じる。それと共に、内なる世界の輝きは増し、安らぎは広がり、愉悦が高まるのである。
それは、世間に踊らされる者達には見ることも出来ない、未知の世界に入ることである。

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