処女崇拝という幻想
処女とは穢れ無きものであるという妄念ほど根深い幻想、あるいは、洗脳は滅多にあるものでない。
そして、処女崇拝をしている限り、幸福になることも、真の力あるものとして自由になることもないことは断言できる。
幸福であるとは、真の力を有し、不安がないので心が平安であり、心からの願いを達成する喜びを味わうことであると思う。
いずれにしても、真の力を持っていることが最も大切なのであるが、力自体は誰でも持っている。しかし、自分の外にある力が自分の力を圧倒するという幻想に囚われて無力感に陥っていることが、大半の人間が不幸である原因である。
自分の外にある幻想の力とは、世間の妄信や因習であり、その多くが権威や伝統、抵抗し難い教義であることを装おっている。そういったものに、力を与えてしまうと、自分の中の力を感じることが出来なくなり、無くなったも同然となるのである。
本物の賢者はただ一人の例外もなく、我々の内に無限の力があると言う。宗教的にはそれを神と言うのであるが、それこそが正しい宗教の教えであろう。
ジョセフ・マーフィーの教えの根本は、潜在意識の中に巣くう民衆の信念や教義をはねつけ、自分の内の無限の力を自分の手に取り戻し、正当な権利のもと、正しく使うことで幸福になることであることは間違いはない。
イエスが「私は世(世間の妄信)に勝った」と宣言したことも、それを示しているのである。
処女とは穢れ無きものであるという、人類的な妄念もまた、我々の内部の力を外の何かに渡しているのである。
かといって、逆に処女を貶めることもまた同じことであることは説明の必要もないことと思う。
では、このどうしようもない見かけの巨大な幻想を利用しようではないか?
女性の価値と、処女かどうかは何の関係もない。それが当たり前に前になるほど進歩した時、人類は神に近付くのである。
【自己信頼】 賢者の中の賢者、ラルフ・ウォルドー・エマーソンが、世間に従うことの愚かさと自分を信じることの貴さを魂の言葉で語っています。1841年出版のエマーソンの随筆集の中にある「自己信頼」の、読みやすい新訳です。 | |
【眠りながら巨富を得る】 本書でも、上記のエマーソンの「自己信頼」が引用されていますが、マーフィーの教えにはエマーソンの思想が生きており、より分かりやすく実践的に示してくれています。 | |
【眠りながら巨富を得る(文庫)】 上記の本の文庫版です。 |
The comments to this entry are closed.
Comments