全ての人間に与えられるのが世間だ。
家族も1つの世間だし、地域や学校もそうだ。
そして、社会や国家といった、より大きな世間がそれを取り囲む。
人間である我々の使命とは、世間を打ち破り、それを超えることなのだ。
優れた文学は、全て、このことを描いている。例外は1つもない。
もちろん、直接的に表現しているものや、婉曲に示唆しているものもあるのだけれど、そのことを描いていない名作文学は存在しない。
もっとも分かりやすいもので思いつくのは、なんといっても、「かもめのジョナサン」(リチャード・バック)や「異邦人」(アルベール・カミュ)、「星の王子様」(サン・テグジュペリ)だ。
家族、学校、社会、国家といった世間は、個人を取り込もうとする。恐ろしく強力に。
人は、成長する中で、家族から学校、学校から社会、そして国家と、次々により大きな、より馴染みのない世間に向かい、これに飲み込まれる。ほとんど抵抗できずに、世間の機能として、栄養分として吸収同化させられる。
世間を打ち破り、それを超えて高く飛ぶことができる者は滅多にいない。
「アルプスの少女ハイジ」に出てきたおじいさんは、世間に背を向けてはいたが、超えてはいなかった。反発することもまた、同化の一種なのだ。本当に世間を超えていれば、普通の人が見て分かるものではない。
引きこもりというのは、一応は世間への吸収同化は免れている。しかし、家族という小さな世間には取り込まれており、その家族は完全に世間に取り込まれている。つまり、結局のところ、二重の強固な牢獄にいるのであり、より状況は悪く、苦しいのである。
引きこもりは、まずは家族という世間を打ち破る必要がある。それができないと、いくら本を読んでも何の役にも立たない。
つまるところ、引きこもりというのは、このように、二重構造の世間に拘束された存在なのである。ライオンから助けてもらうかわりに、ハイエナに喰われるようなものだ。
だが、引きこもりというのは面白い点もある。ハイエナを相手にせず、ライオンを倒せるかもしれない。その可能性はほとんど絶望的だが、それを成し遂げれば英雄である。
現代の、特に日本人は、完全に世間に吸収同化された人間ばかりになってきた。
ちょうど、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」のカオナシ(仮面男)が、そのあたりの状況を描いていた。
人の欲しがるものを出し、人がそれに手を出せば喰ってしまう。我々はカオナシに喰われてしまったのだ。
カオナシに飲み込まれないためには、良さそうなものを差し出されても欲しがらないことだし、一度飲み込まれたら、それを手放すことで解放されるしかない。
ところで、興味深いのは、家族や学校、社会、国家といった世間は傲慢な怪物だが、地域という世間は、必ずしもそうではなかった。慈悲深い近所のおじさんやおばさん、あるいは、おじいさんやおばあさん、お兄さんやお姉さんがかつてはいたものだ。
それで、学校という世間は、子供たちを拘束し、地域からなるべく引き離すようにした。そして、いまや、「隣近所は赤の他人」となっている。尚、一般社会より恐ろしい地域というものが存在する場合もあることを付け加えておく。
あらゆる世間を超えることが悟りなのである。
「荘子」には、世間を打ち破った者を、世俗にあって世俗を超越した者と書かれているし、イエスは、「私は世に勝った」と宣言した。
我々もそうでないといけない。
世間が、ほとんど全ての人を強力に飲み込んでしまった今となっては、滅びは避けられない。それが最初からの決まりだったのだ。
世間を超えるための3冊 |
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2010.06.25
自分や、世の中に起こることで、私が気にするほどのことがどれだけあるだろう?
例えば、昨日は、私が見たり聞いたりしたことで、私が気にするほどのことは1つもなかった。
我々は、どうでも良い下らないことを、凄く重大なことであるかのように思い込まされてきたのだろう。
新製品や新作映画や、評判や流行や、学校の試験範囲やそれに出るかもしれない問題や、スポーツ大会の結果等といったことに。
路上や電車の中で見るマナーに著しく欠ける人間を気にしてしまうことはあるが、本当は、私が気にするほどのことでもないのだ。
中国古典の「荘子」の中に、兀者(ごっしゃ)といって、足(かかとから下だろうか?)を切られる刑罰にあいながら、道を修め、足を切られたことも気にするほどのことと思わなくなった人物が登場する。
足切りの刑罰にあった者自体はそのことを気にしていないのに、彼と同じ師に学ぶ地位の高い男は、足切りの刑にあった者と一緒に学ぶことを気にして嫌がっているのである。足はあっても、もっと重要なものに欠けているのだ。
貧困や飢餓を気にしているが、美味しいものをたらふく食べている者と、別に気にはしないが、必要以上の食べ物を取らない者ではどちらが良いだろうか?
良いことが起こっても、悪いことが起こっても、私が気にするほどのことは1つもない。
好きな人と別れても、理想のタイプの彼や彼女に告白されても、気にするほどのことではない。
もし死ぬとしても、それが運命なのであるから、気にするほどのことでもないのだろう。
何が起きても、何を見ても、「これは私が気にするほどのことだろうか?」と冷静に問えば、ほとんどのことがそうでないことが分かる。
そうして心が澄みきってくると、情や思考を超えたものが現れ、行いは自ずと正しくなり、本人にはそのつもりはなくても、真に人道的な者になっているだろう。
誉められても、馬鹿にされても、彼は気にしない。気にするほどのことでもないからだ。
誤解をされても意に介さない。世界を救いながら悪魔のような者と言われても気にすることもない。そのような誤解を受けている人物は歴史上にも、まだまだ数多くいるに違いない。だから、私は誰も非難しないこととしよう。本当は聖人である者を憎みたくはないからである。
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【アイ・アム・ザット】
「誰かが、あなたの首を鋭利な刃物で切りつけたらどうなるでしょう?」「胴体が首を失う。それだけのことだ。私には何の関係ない」
インドの田舎町で小さな店を営む貧しい老人は、驚くべき偉大な聖者だった。彼の教えを、易しい対話で読める本書は、現代随一の聖典とも言われる。
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2010.06.24
足のかかとの上の腱(骨と筋肉を接合させている繊維)をアキレス腱と言うことや、このアキレス腱が、一番の弱点を意味する言葉として使われていることをご存知と思う。
アキレスとはギリシャ神話に登場する英雄の名で、ギリシャ語らしくアキレウスと言うことが多い。ここでも、以下、アキレウスと書く。
アキレウスは、ホメーロスの「イーリアス」という叙事詩(詩で書かれた物語)で語られたトロイア戦争という、トロイア対ギリシャの大戦争における、ギリシャ最強の戦士だ。
アキレウスの父親は英雄ペリウスで、母親は海の女神テティスである。つまり、アキレウスは、人間と神から生まれたのだが、このような場合は人間になるものらしい。ただ、アキレウスは母神テティスにより、赤ん坊の時に、冥界の河であるステュクスの水に浸けられたことで不死身となった。ところが、テティスがその際にアキレウスの足首を掴んでいたため、足首だけはステュクスの水に触れなかったので、そこだけが普通の人間のままだったのである。
このようにアキレウスは、不死身であったから強かったというのもあるが、実は、重大な事情があった。
母神テティスの予言により、トロイア戦争に参加すれば、英雄と称えられることとなるが死ぬ運命であると言われていた。一方、もし戦争に参加しなければ平凡だが幸福に生きられる運命だった。
慈愛に満ちたテティスは、アキレウスに幸福な長寿を望んだが、アキレウスは英雄の道を選んだ。つまり、不死身のはずのアキレウスは、死ぬつもりでトロイア戦争に参戦したのである。
アキレウスが強かったのは、死を受け入れていたからだった。死を避ける気のないアキレウスは、どんな危険な戦い方も厭わなかった。これは、他のいかなる勇猛な戦士達にも真似ができなかった。
死を覚悟した人間が強いということは、少しでも聞いたことがあるだろう。
死とは、肉体的な死のことだけではない。
愛する人の心、名誉、地位、財産、貴重な宝・・・そういった、自分が大切だと思ってきたものを捨てる覚悟が出来た時、人は不思議な力を発揮することがある。
そして、最も重要な生命の場合はいざ知らず、その他のものは、本当は重要なものでも何でもない。
本当に大切なもののために、他の一切を捨てる。それが、人が人を超える時である。
つまらぬものに執着する限り、人は、いつまでも地上を這い回る虫けらのごとき存在に過ぎない。
そして、自分の本当の信念のために、最も重要な生命すら惜しくないと思った時、人は至高の存在に近付く。
言うまでも無く、支配者により偽りの信念を叩き込まれて生命を捨てたということは歴史的に多いが、その場合もある程度の力を発揮する。だから、支配者は偽の信念を与えるための洗脳技術に強い関心を持つ。
我々は、自己を信頼し、自分の正義である強い格率を持たねばならない。親や学校や国家の教育など捨てて、自分の信念、自分の正義を持たないといけない。
人間は食べないと死ぬが、食べずにいられるのは、何らかの強い思いがあるのである。
それが無ければ、ただ美食、飽食に耽る人間でいるしかない。
よく、少食が出来ない、続かないという人がいるが、それは自分の信念、自分の正義を持っていないからだ。
実際、人は、ごく若いうちは、ある程度は沢山食べるのも自然なのであるかもしれない。その間は、まだ子供であり、何もできない。
人間の生命を、より高いものに昇華し、神秘的な力を現すことができるかどうかは、食を慎めるかで明確に分かる。
食の慎みは、このように、自分の正義の獲得と共にある。
真の英雄への易しい道が食の慎みなのである。
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【精神について】
自分の正義を得るための無上の教えである「自己信頼」を含む、アメリカ最大の賢者エマーソンの至高のエッセイ集。
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2010.06.23
自分自身に対する規律や掟を持つことが大切だと思います。
ちょっと難しい言葉ですが、、格率(格律)と言って、カントは、「各人の採用する主観的な行為の規則」の意味で重視しました。
世間の教義や規律ではない、「私の正義」を持つという意味です。
考えようによっては、独断の正義とは恐ろしいものかもしれませんが、それを持たなければ、大衆の正義と呼ばれる狂気に取り込まれてしまいます。
エマーソンは、子供の時、教会の牧師の説教に疑問を感じ、それを牧師に尋ね、牧師に、「その考えは悪魔のものだ」と言われたら、「それが僕の本性なら、僕は悪魔になりきる」と言ったようです。
デカルトは最高の格率を求め続けましたが、それが見つからない間は、一応、現時点で最上と思われるものを仮の格率として採用しました。
「荘子」の中の話ではありますが、孔子は、大泥棒を説教しに行き、泥棒が持つ、「泥棒の正義」に歯が立ちませんでした。
イエスは、人々にモーセの律法(十戒)を思い出すよう、度々訴えました。
律法は、本来、法律のような形式的なものではなく、各人が直接に神と交わす契約であり、大衆に従うことではありません。
もちろん、今の時代、モーセの律法をそのまま受け入れることが出来るかどうかは分かりませんし、当時の人々と異なり、知識のある我々は自分自身の正義を持っても良いと思います。
水野南北の食の慎みは、優れた格率と言えると思います。
これは、決して、大衆心理とはなり得ません。各人が、自分で意識を持って行うしかないという、極めて理想的な格率です。
最高の格率と言って差し支えありません。ただ、その内容は自分で決めるしかありません。
時々、「1日1食が続きません」と訴えてくる人がいますが、それは、自分の正義、自分の格率でなく、人真似だからです。
自分で「1日1食」と決めたなら続くはずです。
水野南北の格率は、「主食は麦、米は菓子でも食べない」「酒は一日一合」といったものでした。
私の場合は、「食事は一日一回」「肉は食べない」「間食をしない。よって菓子は食べない」といったところで、自分で決めたものですから、当然、根性のようなものは不要で、問題なく実施できます。
神人に至るには、この「私の正義」「私の格率」と、「無に至る私の鍵」の2つを合わせ持つことが重要です。まずは、「私の正義」を打ち立てましょう。
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2010.06.22
人生を積極的に生きるには、「情熱」といったものが必要らしい。
情熱は、英語で一般にパッションだが、英語にはエンスージアズムという、これも一種の情熱を表すのであるが、神秘的な雰囲気のある言葉があり、精神的指導者がよく使うことがある。
辞書によれば、エンスージアズムは、単に「神がかり」「熱狂」とあるが、霊感を受けた状態や、天啓を得た時のことを表すと言って良いと思う。
エンスージアズムはギリシャ語に語源があるらしい。ソクラテスも、それを、神の意識が転送されてくるようなことと言ったらしいが、エマーソンも、自分の魂の中に神の魂が流れ込んでくる体験のことを語っている。
なるほど、神秘的なことのようだが、人にはそのようなことがあるのである。
私がよく話題にする、マズローやウィルソンの「至高体験」、ロランの「大洋感情」、イェイツの「エクスタシー(忘我)」、岡本太郎の「爆発」、夏目漱石の「天賓」も、エンスージアズムと同じなのかもしれない。
エンスージアズムを持つきっかけは誰にでもあるのかもしれないが、それを保持できた人は大きなことを成し遂げるようだ。
漫画家の水木しげるさんは、幼い時、おばあさんに子守唄代わりに妖怪の話を聞かせてもらったことがエンスージアズムになったと思う。水木さんは、 65歳を過ぎてから妖怪を描くのがさらに楽しくなったと、何かの対談で言われていたようだが、彼の妖怪に対する情熱はまさにエンスージアズムだと感じる。
ところで、美女が英雄を作ることがあるが、美女を単に性欲の対象にするのではなく、エンスージアズムにまで高めた精神を持つことで男は英雄になるのだろう。
15歳の絶世の美女クレオパトラは、単に地方の武将に過ぎなかった51歳のシーザーを英雄に変えていった。
伝説に過ぎないと考えられていたトロイアの遺跡を発掘したシュリーマンの情熱も異様なものがあったが、彼は、少年の頃からホメロスの「イーリアス」を愛読し、それがエンスージアズムともいえる霊感や天啓を得たのかもしれない。
「イーリアス」はトロイア戦争という、トロイア対ギリシャの大戦争の伝説で、最高の文学と言われる至上の叙事詩である。多くの天才画家もこれを作品の題材とした。
トロイア戦争を起こしたのもまた、ヘレネという絶世の美女だった。
スパルタの王女だったヘレネは少女の時にすでに美女の誉れ高く、12歳の時に、アテナイ王で英雄のテセウスにより略奪されている。
白鳥に化身したゼウスが美女レダと交わる絵画を見た人も多いと思うが、その時のレダから生まれたとされるのがヘレネである。
シュリーマンのことはいざ知らず、「イーリアス」においてヘレネがエンスージアズムを与えることも多いかもしれない。あのモローもヘレネの絵は多く描いており、恐るべき傑作となっている。
今で言う、男にとっての「萌え」や、女性にとっての「イケメン」は、パッションという意味での情熱なら感じさせるかもしれないが、どうせなら、エンスージアズムを得られるような相手があれば良いだろう。しかし、それをもたらすのはあくまで自分である。
クレオパトラやヘレネに逢ったとしても、エンスージアズムを得るのは特別な男なのだ。
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【モロー (新潮美術文庫 35)】
顔のないヘレネーや、亡霊化したヘレネーばかり集めた感もあるが、神秘的である。
白い牛に化身したゼウスが、ヨーロッパの語源にもなった美少女エウローペをさらって風をまいて疾駆する「エウローペの略奪」が表紙になっている(本の中にも掲載されている)。
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【ギュスターヴ・モロー―絵の具で描かれたデカダン文学】
こちらは、顔のあるヘレネーの絵がクレオパトラと隣り合って掲載されている。「レダと白鳥」の絵も多い。
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【イリアス】
1冊にまとまって(複数に分かれた本が多い)、読みやすい文章の新訳によるイリアス。
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2010.06.21
人間が幻想の中で生きているというのは、古代から、特にインドや中国では賢者達が言ってきたことでした。
それを宗教的でなく、ある程度の論理性をもって、歴史的に最初に明確に語ったのがジグムント・フロイトだったように思います。
日本では、思想家の吉本隆明さんや、フロイト派の精神分析学者の岸田秀さんが、個人、家族や会社といったグループ、さらに国家規模の幻想について本に書かれています。
ただ、我々一般庶民が、彼らの本を読んでもあまり役には立ちません。
なぜなら、フロイトにしろ、吉本隆明さんや岸田秀さんも、幻想で一生良い思いをした人達だからです。彼らの人生がいかに辛く厳しいものであったかが、彼らの著書にもつらつらと書かれてあるかもしれませんが、大学に行くこと自体が少なかった時代に一流大学を出て、誰からも先生と呼ばれる立場になり、有名になって財もなした、幻想の中の大成功者だからです。
ひょっとしたら、彼らは「金なんかないよ」と言うかもしれません。そりゃ、ビジネスでの成功者とは違いますし、フロイトの時代は医者も高給取りではありませんでした(フロイトの本業は医者です)。しかし、やはり庶民とは違います。
彼らは、人間が幻想の中で生きているからといって、だからどうしようという動機はなく、ただ思索しただけです。そして、その思索も、規模が大きくなるほど、自然から外れた、それこそ幻想的なものになっているようです。
フロイトが言うのは、人間は他の動物と違い、本能が壊れているので、それを補うために自我を作ったが、その自我は自然に立脚したものではない幻想であるという考え方で、岸田秀さんも、この考え方を受け継いでいるのだと思います。
吉本隆明さんのは、私には難しすぎて全然分かりませんが、国家が幻想で成り立っていることに気付いて愕然としたという表現をしていたように思います。私も、あらゆるグループから国家まで幻想で成り立っていることは気付いていますが、「愕然とする」というのは、随分余裕のあることだと、それについて愕然とします。
私の場合、人間の悲惨さに絶望するのみです。
もちろん、成功者であろうと、幻想のために苦しまない人はいません。しかし、苦しいと言いますか、「マズい」とでもいう立場にあるのは、他人とうまく幻想を共有できない人達で、たとえば、対人恐怖症の人やひきこもりです。
まあ、誰しも大なり小なり、対人恐怖症でひきこもりの要素はあるものだと思いますが、それで明らかに社会的に不都合を起こしている者のみが、人間の幻想に気付いた時、「なんとかしよう」と思います。
まずは、神秘的思想や宗教的思想による解決を試みます。老子、荘子や、古代インド思想を伝える聖者達の本を読むかもしれません。
また、劣勢な立場の挽回のために成功法即に執着する場合もよくあります。そして、若いうちはエネルギーがありますから、無理して世間的成功を目指して異常にがんばる場合もあると思います。
しかし、結局、どうにもならないと絶望します。つまり、世間の幻想の強大さを思い知るわけです。
世の中の原理はこうです。
「共同幻想に融合しないと滅びる。共同幻想に融合すると生き残れる。共同幻想を作り出すと勝てる。」
つまりは、世間に逆らわずに生きるのが一番というわけです。
しかし、それがどうしても嫌だという者がいます。共同幻想に強い恨みを持つ者です。共同幻想のおかげで虐げられてきた人達です。
こんな人達は、仙人か魔法使い、あるいは、神様にでもならない限り満足できないはずです。世間を超えた力なんて、そんなものしかないからです。
変な言い方ですが、諦めて神を目指して下さい。
これも1つの幻想と言われると思いますし、それはそれで良いのですが、幻想を打ち破れば神にもなれます。それこそ、本当に愕然とするかもしれません。
具体的には、明日から少しずつ書くと思います。
今回は、やや悲観的、後ろ向きに思われる内容だったかもしれませんが、実は希望は持っています。
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【共同幻想論】
日本の歴史的名著ですが、私にはほとんど理解できませんでした。正直、言い回しが非常に複雑で、どんな意味にでも取れる記述がよくあります。まあ、私の頭が悪いだけと思いますが。
とはいえ、ところどころ参考になる部分はありました。一度は目を通しておかれると良いかもしれません。
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【ものぐさ精神分析】
こちらは、分かりやすく面白いです。映画監督の伊丹十三さんは岸田さんの幻想理論である唯幻論に心酔したようです。伊丹さんが自殺したこととの関係はよく分かりませんが、私も唯幻論は、ありきたりな思想や自己啓発理論よりははるかに優れたものであると思います。
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2010.06.20
最近、このブログでよく著書を紹介している発明家の政木和三さん(2002年逝去)は、意外に占い好きだった。占いと言っても、世間でよくある遊びのものではなく、科学的実証や古代の叡智に関わると思われるものだった。
(占いという言い方が適切かどうかといった議論はここでは省くので、広い意味で捉えて欲しい)
私が何人かの人と政木さんの研究所を訪ねた時、昼食のために、近くのホテルに行き、そこから戻る時、政木さんは腰に付けていた万歩計を外して数字を示し、こうやって見た時に出ている数字に意味があることを話された。これも一種の占いだろう。
政木さんは自分の発明した「政木式バイオリズム計」を取り出された。非常に精巧なもので、これで、仕事や勉強やスポーツ等のコンディションや、男女の相性を知ることができると言われた。政木さんは、フランスで、これで若い女の子達の測定をした時のことを話された。私は、その日のうちに、これを2つ入手したが、勤務先に持って行って休憩時間に使っていると、会社でも一番と言われる美女が興味を示し、自分も購入したいと言うので1つあげた。おそらく、意中の人でもいて、相性を調べたかったのだろう。
政木式バイオリズム計(Kay所有)
世界的セールスマンでキリスト教徒の夏目志郎さんの本で見たが、彼も含め、クリスチャンの中には、聖書をあてずっぽうにぱっと開き、そこに書かれているメッセージを今の自分への神からのメッセージとすることがあるらしい。言うまでも無く、仏教徒なら仏典で良いし、また、特に宗教の聖典でなくても、自分が信じる書物であれば同じように使えると思う。
中国には、易占いというものがあり、カール・グスタフ・ユングもよく行っていたし、私が尊敬するジョセフ・マーフィーもそうで、易占いの本を書いたくらいだ。尚、ユングやマーフィーが行ったのは3枚のコインを使う方法で、中国に長く滞在したドイツ人宣教師のヴィルヘルムが伝えたもののようだ。ユングは、自分でやってみて、その占いの威力に驚いたようだが、私もそうだった。私が占ってあげた多くの人が、大きな示唆を得ることも多かった。
他に私が凄いなと思った占いは「紅星占命学」という姓名判断で、著名人を占っても、彼らの傾向性を見事に示していたように思われ、知らず知らずのうちに、この占い用に何冊もノートを使ったくらいだった。私の占いで名前を変えた女性も本当にいた。
私は、多くのテレビ局が朝に放送している占いには何の興味もないし、有名な占い師でも、私はあまりこころよく思っていない人もいる。
占いは、本や道具といった何らかのものを使うのだけれども、そのメッセージをどう受け取るかは自分次第である。虚心でいれば、占いも良いものであると思う。
上記に書いたもののうち、政木式バイオリズム計はもう入手不可能と思うが、易占いの本はロングセラーのものなど色々ある。また、上にも書いたように、すぐれた書物を使った「神からのメッセージ」なども試してみられてはと思う。
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【マーフィー博士の易占い】
世界的な潜在意識の法則の教師であるジョセフ・マーフィーによる、コインを使った易占いの本。本書を使って簡単に易を立てることが出来る。
コインを使った易占いは、著名な精神医学者のC.G.ユングも夢中になった。
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【黄小娥の易入門】
1961年に出版された著者の『易入門』の待望の復刊。『易入門』は当時、大ブームを起こし映画にまでなったらしいが、長く絶版になっていた。6枚のコインを使って占う。
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【紅星占命学入門】
私が、あまりの威力に驚き、ボロボロになるまで使った占いの本です。これは姓名判断で、紫微斗推命という占術が元になっているようです。
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【精神エネルギー】
政木和三さんの著書でも名著に数えられる本。
巻末に、今回の記事で書いた政木式バイオリズム計の簡単な説明と共に、誕生日だけで判定する天政法運勢リズムのやり方も載っている。
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2010.06.19
エマーソンは、「ふとした思いの中に神は現れる」と言ったが、私も全く同感だ。
そして、神が現れた時のことは忘れられない。
時間は止まり、風景は色を変え、心は喜びに満たされる。
神が現れるのは、夢中で何かをしている時が多いと思う。
仕事や、スポーツや、読書を無心にやっているような時である。
ただやっている。それだけで満足し、心が澄み切っているような時だ。
似ているように見えても、ゲームや惰性の携帯電話メール、テレビの娯楽番組では心は濁るだけで決して無心にならないし、尚悪いことにその状態が習慣化、慢性化するので絶対にやってはならない。
もし、成功法即を良い意味で言うなら、それをうまくやるのにまず必要なことは、テレビを消し、ゲームをやめ、必要もないメールやチャットやツイッターをやめ、単に娯楽のための読書や映画鑑賞やスポーツ観戦をやめることだ。
つまるところ、幸福の秘訣というのは、「ただやる」ということだし、その時に神は現れる。
政木和三さんの本によく書かれているが、「この世はなるようにしかならないと諦め、ただすべきことをやれ」ということである。
高橋弥七郎さんの「灼眼のシャナ」の中で、高校1年生の坂井悠二が死に際に、「自分が何者でも、どうなろうと、ただやる、それだけだったんだ」と悟る。
「美少女戦士セーラームーン」の中で、絶望的な戦況の中、セーラーヴィーナスが「私達は、私達に出来ることをしましょう」と言い、勝利に結びつくかどうかは分からないが、その場で可能な最大のことを行う。
「ウルトラマン・ティガ」の最終回近くで、ダイゴがレナに「僕は人間だから、やれることをやるだけだ」と言う。
こういった真理の言葉は、ふと目にし、耳にしても憶えているものだ。
問題は、それを何年も眠らせてしまうことだ。今後はずっと憶えていよう。
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【天使の出現】
あまり売れた本ではないと思うが、これほどの本はそうはないと思う。
人生の中の忘れられない瞬間。そんな「天使の出現した」時とはいったい何なのか?
野口悠紀雄氏の恐るべき知識、驚愕の経験と研ぎ澄まされた感性、それらを結びつける連想力が照らし出すエッセンス(本質)。いやはや、これほどの本はそうはない。
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【驚異の超科学が実証された】
最近、この本をご紹介している手前、10年振りくらいに自分でも読み返してみた。
これほどの本はまずない。華々しく宣伝される世界的成功法則の本も、これに比べれば卑小なものに過ぎないとようやく悟った。
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2010.06.18
海外の大物スターが空港ロビーに現れ、ファンが熱狂するという場面がよくテレビ放送される。大変な狂乱振りである。
時代を代表するようなスターというものがいるが、大衆は、時と共に彼らを忘れていく。
彼らは、真に特別な魅力や才能、能力があったのだろうか?
あるいは、プロダクション(興業会社)がマスコミを利用して大衆を洗脳しただけであろうか?
昔の映画だが、薬師丸ひろ子さんが主演した「Wの悲劇」という映画を見たことがある。
セリフを一言もらえるかどうかという端役の若い舞台女優が、大物女優の個人的事情からスターになっていくというものだ。
その若い女優は、別に実力がついたわけでも何でもないのに、大衆はスターとして認めるわけである。
ドラマなどでよく、スターのアイドルに、ディレクターなどが「お前の代わりなんていくらでもいるんだよ」と言う場面があると思うが、人気なんて所詮、洗脳に他ならないという意味なのだろう。
また、実力が必要なはずと考えられている政治家や経営者ですら、下っ端の者がなりゆきで高い地位につくと、駄目な場合もあるが、案外サマになってしまうということも多い。多くの仕事は、個人的能力よりは集団の結束力といった組織力が重要だ。能力は高くてもイメージの悪い者より、最低限の能力のあるイメージの良い者の方が組織のためには有益なのである。
私は芸能界には疎いのであるが、AKB48という、女性アイドルグループが非常に売れているというのは知っている。
そこで実験してみたが、自分の精神を操作することで、彼女達を「たまらなく素敵だ」と思うことも、「いったいどこがいいのだ」と思うことも、ほぼ瞬間的に切り替えて感じることができた。
テレビショッピング、映画の宣伝、政治家に対する意識調査、スポーツの祭典など、世間は洗脳と幻想で造られている。個人や特定の団体の利益とあまりに結びつくことで、幻想はどこまでも堕落していく。それが世界的規模で広がり、すでに限界である。
自分の善悪、好悪の判断、思慮、分別を信用せず、それをしないことで、内側にある真の知を引き出すことをしないと、個人も世界も、もうもたないだろう。それには、欲望から離れることである。
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【老子・列子】
読みやすい現代語訳の老子と、貴重な寓話の宝庫である列子が一緒になった非常に有り難い本だ。
列子は面白い上に、内容として決して老子、荘子に劣らない、道教の優れた聖典と思う。
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【驚異の超科学が実証された】
私は、著者の政木和三さんが発明した神経波磁力線発生器で末期癌が本当に消えた報告を直接聞いたことがある。残念ながら、この装置は現在は入手できない。しかし、本書を理解すれば、もっと大きなことも実現できると私は思う。
驚くべき話が満載であるが、私は、政木さんの親友の科学者から、「私は政木の話は多分、半分以上信じていない。しかし、あいつは嘘を言う男ではない」と直接聞いたことがある。あなたはどう感じるか試して欲しいものである。
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2010.06.17
幼い頃に聞いた話にこんなものがあった。
ある老夫婦が、神様に出会い、事情は分からないが、願い事をいろいろ叶えてもらう。多分、それまでに良い行いをしたのだと思う。
しかし、どんな願いを叶えてもらっても満足できなかったのだろう。老夫婦は、最後に神様にしてくれるよう頼むが、それで見捨てられ、全てを失う。そこまで思い上がることは赦されないということなのだろう。
だが、考えてみれば、神には、その結末は分かっていたはずである。
このお話は、こんな風に例えることが出来そうに思う。
自分が不幸だと思ってる人に、いろいろなことをしてあげる。その人は、何かしてもらう度に喜ぶが、自分が不幸だという思いは変わらない。そしてある時、その人は「私を幸福にして欲しい」と頼む。それは愚かな願いなのだ。
我々も、本当は神であるのに、神にしてくれという願いは赦されるものではない。
だが、そのお話は、こういうことも教えている。
人は、外面的な願いは、どんなに満たされても満足することはない。望みが叶うごとに欲望は増大し、止まることはない。
そして、人の真の願いは、神になることしかない。しかし、その願いは叶わない。なぜなら、最初から自分は神であるからだ。これは極めて困難な逆説で、迷宮に閉じ込められたように感じる。
だがそれは迷宮でも何でもない。言ってみれば、最も簡単なことであり、最も難しいことである。
部屋の中に青い鳥が飛び回っている。しかし、部屋の主は青い鳥を探したいと言う。「そこにいるじゃないか」と言ってやったら、彼は、「是非とも探し出したいと思っているのです」と言い続けるのだ。
彼のやるべきことは、青い鳥を得たいという欲望を手放し、見たままを受け入れるだけである。
同じく、神になるために必要なこともただ1つである。虚心に全てを受け入れるだけだ。是非、好悪の判断をせず、思慮分別を捨て、ただあるがままに見ることだ。肯定も否定もしてはならない。
あれは好き、これは嫌いと思うと、神は離れていく。神に、「これは自分のもの」という思いはない。
あまりに簡単であり、あまりに難しいことである。
神は最も近くにいて、同時に遠くにいる。
ギリシャ神話にヘカテーという名の女神がいる。その名は「遠くにいる」という意味である。しかし、この女神の像は三叉路にあり、どの家の戸口にもいると考えられている。
つまり、最も身近にいる神なのである。
ヘカテーは星の女神アステリアの一人娘で、アステリアは、アポローンとアルテミスの母レートーの姉妹である。つまり、ヘカテーはアポローンやアルテミスの従姉妹である。
アルテミスと同じく、たいまつ持つ月の女神である。アルテミスが新月、ヘカテーが暗い月、セレーネが明るい月と言われることもある。
ヘカテーはゼウスでさえ尊ぶ、三身一体の全能の女神である(3つの顔を持つ像として表されることも多い)。
それほど偉大な女神でありながら、オリュンポスの女神にならなかったのは、姿が小さいからだとも言われる。
近くて遠い。大きくて小さい。
何か非常に感じるものがあると思う。
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【神話学入門】
実に、世界的宗教学者カール・ケレーニイと、偉大な精神医学者、心理学者のカール・グスタフ・ユングの共著である。やや難しいが、恐るべき重要な書だ。
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2010.06.16
戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏さんの本にこんなことが書かれてあった。あくまで彼の見解としてではあるが、幼い頃にあまりに不自然な成長をすると修正のしようのない欠陥が脳機能に生じ、そのために、生涯、勤労意欲を持てなくなる場合があるという。
そういうことも確かにあると思うが、私は、そもそも、勤労意欲の無い人間、即ち、働くことが嫌いな人間というのは、一定数いると思う。
こう言うと、「働くのが好きな人間なんていない。誰も本当は働きたくなんかない」と言う人もいるかと思うが、それは違うと思う。例えば、百人の人間に、衣食住を一生保証して、働くことを禁止したら、少なくとも10人以上の人間は反乱を起こすだろうし、ほとんどの人間はストレスを感じるはずだ。
おそらく、働くのが嫌いな人間というのは、本当はあまり多くない。
だが、この仕事ということに関し、非常に深刻な問題がある。
まず、今の日本には、働き甲斐のある仕事がほとんど全くない。
しかし、働かないとお金が得られず、生きていくために必要なものを得るにはお金が必要な仕組みになっている。
そして、働き甲斐のある仕事というのは、極めて少ないお金しか得られないようになってきている。
従って、今の日本で、働くのが嫌い、あるいは苦痛であるというのは正常なことだ。
細かい議論は抜きにすると、解決策は次のようになる。
まず、住居をシェアすること。どの家でも自由に寝泊りできるようになることだ。これがごく自然に可能になることを人類の進化というのである。
「ヒマラヤ聖者の生活探求」という本を書いたベアード.T.スポールディングという人は、著名な文筆家、講演者であったが、財産のようなものはほとんどなかったという。しかし、どこの地に行っても、どの家にでも平気で入って行ったが、何のトラブルもなく、彼の周りはいつも平和であったと言われる。
まあ、すぐにそこまでいかなくても、住居をシェアできるよう工夫することだ。
そして、あまり食べなくても良くなることだ。やがては、ほとんど食べないくらいにまでなれば良い。
また、世間に蔓延する、過剰な性欲を刺激するものから遠ざかることだ。食を慎めば性欲のコントロールは難しくない。
実際、食欲と性欲を支配できるようにならないと、住居の共有というのも難しいところがある。しかし、江戸時代の長屋なんてのは住居をシェアして生活していたのであり、子供たちは夕食時にいたところで御飯を食べていたものらしい。
政治家の言う強い経済など不要なだけでなく、それが不幸の根源であり、人類が破滅を免れ幸福になる鍵は精神の進化しかない。まずは自分が、食と性の慎みを始めることである。
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2010.06.15
誰だろうと、にっちもさっちもいかないという状況におちいることがある。
にっちもさっちもいかないとは、2でも3でも割り切れないという意味で、ものごとがうまくいかないことをそう言うようになったようだ。
そういう時は、身動きが取れないと感じるものだが、心の方は動き回って、荒れ狂っているものだ。
ところが、古代からのいかなる聖者、賢人であろうと、例外なく、そんな時に心が静かであれば無敵であることを説いている。
その鍵は、全てを虚心に受け入れることであることも間違いない。
荘子は、虚心に見たままを受け入れるなら、鬼神も道を譲ると言う。
荘子はまた、最高の人間の心は鏡のようなもので、来たものはそのまま映すが、過ぎ去ってしまえば何の痕跡も残さないと言う。
ラマナ・マハルシは、賢者はある意味で子供に似ているという。子供は、遊んでいる時は夢中になるが、終わってしまえば忘れているからだ。
ある賢者は、あるがままを肯定しろと言い、またある聖者は、事物や自分の心をただクールに観察しろと言う。それは、外的には非暴力や無抵抗という形になるのかもしれない。
表現は違っても、意味するところは同じことだろう。
そして、やはり、時々、にっちもさっちもいかないような状況にならないと、それを忘れてしまう。
いつもこの心構えを忘れないなら、特にそんな状況を創るつもりもないのだけれど、人間、欲があったり不満を持ったりするものである。
法然が1日6万回も念仏を唱えたのも、そこから外れないためだったのかもしれない。岡田式静坐法を教えた岡田虎二郎が、「生活しながら念仏してはならない。念仏しながら生活するようでないといけない。生活しながら静坐するようではいけない。静坐しながら生活するようでなければならない」と教えたのもそんな意味だろうと思う。
そして、それは弱い状態を意味しない。鬼神は弱い者に道を譲らない。
最も易しく、最も難しいことであるが、憶えておくべきことは少ない。虚心にあるがままを受け入れるということだ。是非、鬼神にひざまずかせようではないか。
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2010.06.14
お伽噺には、魔法の力を使えるツール(用具)がよく登場する。魔法のランプとか、魔法の杖といったものだ。
そして、多くの場合、「魔法が使えるのは3回限り」といったような制限がつく。
では、3回だけ魔法が使える魔法のランプを手に入れたら何を願うだろう?
私は子供の時、即座に「魔法が無限に使えるように願う」と考えた。しかし、親や学校の教師が言うには、それは反則なのだそうだ。
だが、それは正当なのだ。
魔法のツールに魔法の力を与えたものは、どこか別のところにいるはずだ。その存在にとっては、魔法の使用制限を外すことも可能なはずだ。
それこそ、魔法のツール無しで無制限に魔法が使えるようにすることも出来るはずだ。背後にいる魔法のロード(支配者)はツールなんか使っちゃいない。
潜在意識の法則や引き寄せの法則をうまく使えば、金でも地位でも名誉でも手に入るかもしれない。
しかし、私が用があるのは、潜在意識の法則や引き寄せの法則の力のロードだ。
魔法のツールを与えられた者が幸福になったという話は無い。
あるのは、それを持ったばかりに不幸や悲惨に見舞われる者の話だけだ。
少し考えれば、引き寄せの法則や潜在意識の法則に本当に効力があれば、それは不幸や悲惨をもたらすということが了解できるはずだ。
古代から、実際に力のある魔術というものは、厳しい掟が伴っていた。そして、全ては秘儀とされた。だが、秘密が漏れ、掟を知らぬ者が力を僅かでも使えば、ほとんどの場合は、不幸がその者を襲った。
賢い人は、秘密とは漏れるものだと心得ていた。だから、秘法は、表面的には他愛ない物語の形で誰にでも伝えたのだ。
そして、贋物を「表だった秘法」として伝えた。手の込んだことである。いわゆる、「誰も知らなかった秘法公開」というのは、嘲笑すべき愚かな贋物の宣伝である。しかし、人々はそれに群がるのだ。
(特に秘法とは言わない潜在意識の法則には穏やかな効力があるとは思う)
背後に隠れた力のロードにのみ関心を持つことだ。
そして、自身がそれであることが分かった時が真のゴールであるが、その時は何も望まなくなるであろう。
そのためには、欲望を捨てる以外に方法はない。食欲と性欲に勝利するのがもっとも早い道のように思う。
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【驚異の超科学が実証された】
欲望を捨てればこの世に不可能はないというのが政木さんの教えの真髄であった。この本にあるパラメモリ(記憶力増強装置。後のアルファシータやバイオソニック)はもう入手が難しいが、本書を読めば、特に必要はないと思う。
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【波動の法則】
力の法則を正しく伝えているのは、世間的な成功法即ではなく、この本だと思う。本質的には、上記の政木和三さんの考えと通じるものがある。
これを書いていて、上に紹介した政木さんの本と表紙のデザインが似ていることに気付いた。これもシンクロニシティだろう。
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2010.06.13
強大な秘法というものは、他愛ない物語の形で伝えられているものである。
しかし、それらの物語の真意を掴むのは容易なことではない。
だが、もはや我々にそんなに多くの時間があるわけではない。
こんなお話がある。
大昔の話だが、長い航海での仕事を終えて故郷に向かう船を、光明神アポローンが奪い、神の力を示して船員達を恐れさせた。
アポローンは、風の神の力を借り、船を自分の島に到達させた。
アポローンは船員達に言った。
「お前たちは、懐かしい故郷や愛する家族の元に帰ることはもうない。この島で永遠に私の神殿を祭れ」
しかし、その島は岩場だらけで、作物が実ることもなく、羊を飼うこともできそうもなかった。
そのことをアポローンに訴えると、アポローンは人間の愚かさを戒めたが慈悲も示した。
「何の心配もいらない。お前たちは、ありあまるほど与えられる」
このお話の作者は不明だが、神が人に教えたものに他ならない。
アポローンが人間達に「戻ることはできない」と言った故郷とは、世間や家族の中の教義や信念のことである。
アポローンの神殿を祭るとは、我々自身の中にある神殿を尊び護ることである。我々の中にある神殿とは、神の座である純粋な心である。
そうすれば、世界は神の光の反映であるのだから、求めずとも与えられ、何の不安もないのである。
このお話は、「ホメーロス風賛歌」の中の「アポローンへの賛歌」として伝わるものだ。
偉大な詩人ホメーロスの名を冠してはいるが、作者は不明と言われている。
「ホメーロス風賛歌」は、数多くの神を賛美した歌だが、その中でも長い詩である、デーメーテール、アポローン、ヘルメース、アプロディーテーらへの賛歌を収めた「四つのギリシャ神話」が現在も出版されている。
いずれも、お伽噺のような叙事詩(詩で表現された物語)の中に、偉大な叡智が秘められている。
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2010.06.12
私は、1ヵ月程前に、たまたまギリシャ神話に関心を寄せ、本を読み始めたら、たちまち引き込まれた。
しかし、ギリシャ神話は、すごく面白いというお話では無いし、教訓を学ぶようなものでもない。もしロマンがあるとしても、それは世間で言うロマンとは全く異なるものだ。
ギリシャ神話の映画化は昔から何度もあったが、どんなにカッコよく美しい俳優を使い、どんなに素晴らしい映像を作っても、観客は映画自体は見ていないのである。
ギリシャ神話の映像化は別に悪いことではないが、なるべく素朴に作るべきだし、むしろ舞台の方が向いていると思う。観客の意識を無理矢理に惹きつけようとするケバケバしい映像や音楽などの表現は決してあってはならない。
ギリシャ神話は、詩で表現することが最も好ましいし、気品ある絵柄の絵本や漫画も良い。気品とは慎みをちょっと違った角度から捉えたものに過ぎない。気品とは空気のようなものだ。
絵画や彫刻でも、昔からギリシャ神話は芸術家達の好む題材であった。私は、以前は、芸術家達がギリシャ神話を題材にした作品を創る理由がよく分からなかったし、せいぜいが、故郷の様子を描くように、幼い頃からの馴染みのイメージを創作するのだと思っていたが、それは全く違っていた。ギリシャ神話を描くことは宇宙を描くことなのだから、無限のインスピレーションを芸術家達に提供し、今後も作品が途絶えることはない。ただし、世間に迎合しようとする作品がこれほど下品になってしまう題材もない。
ギリシャ神話を知ることは自己を知ることだ。
自己とは本来、神であるのだから、自己を知ることは神を知ることであるし、神の現れである世界を見ることでもある。
自己を知れば、世界は自己に他ならないことが分かる。
世俗的にも、ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則は、心の奥深くの想いは実現するというが、今ここで全ての想いは完全に実現しているのである。
我々の周りの世界は、まさに我々の想いの反映である。
エマーソンは、どんな人達が会話をしていても、その背後でジュピター(ゼウス)がジュピターに頷いているのだと言う。
だが、ジュピターを背後に遠ざけていないで一体となれば、神が世界を創り出す様子も分かるし、神である自己が世界の所有者であることも分かると思う。
誰しも、神に限りなく近付く瞬間はある。それは、偶然を自己の意思とする時で、ニーチェはそれを、専横(わがまま勝手)な偶然をもっと専横に迎えることだと言う。すると、偶然はたちまちひざまずくのだ。
難しいことではない。あなた自身の物語であるギリシャ神話を読めば勝手に分かることだ。
もちろん、我が国の古事記やインド、エジプト、中国、あるいはケルトや北欧の神話でも同じことであると思うが、ギリシャ神話ほど意図的な教義の色の無いものは珍しい。学説にする術もないほど曖昧であることも幸いした。ある意味、あくまで伝説でしかない。グリム童話の場合は、子供向けにするために書き直された方が主流になってしまった。ペローは、教訓の部分を強調するために、かなり加筆や修正をしたかもしれない。しかし、ギリシャ神話にはもともと教訓なんてない。グリム童話のような残酷さはあっても、それを包み込んでしまう大らかさもあるので、作為的な改変は行われなかった。
もう一度言うと、神である自己を知るために、あなた自身の物語であるギリシャ神話を読むことは薦められる。あなたはゼウスとして話し、アポロンとして歩き、アテナとして思索し、アルテミスとして輝くだろう。
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【ギュスターヴ・モロー―絵の具で描かれたデカダン文学】
1826年生まれのフランスの画家モローの絵画と解説。モローは、聖書やギリシャ神話を題材とした作品が多く、写実的だが幻想的な作品や、非常に抽象的な作品まである。
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【水の女 溟き水より From the Deep Waters】
水に関わる乙女達を題材にした絵画を集めたユニークな画集。各国の神話や、水の乙女といえば欠かせないオフィーリアの作品も多い。
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【ギリシアの神話 (神々の時代) 】
世界的宗教学者カール・ケレーニイによるギリシャ神話の詳説。物語を述べたというよりは、それぞれの神についての伝説や異説を紹介し、その意味を洞察したもので、理屈っぽく感じる部分はあるが、そこはケレーニイであるだけに鋭く深い。
ケレーニイは、カール・グスタフ・ユングとの共著で「神話学入門」を執筆している。
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2010.06.11
空想は心の表面でぼんやりと行うものだが、想像とは魂から発するものだ。
子供が、心の中で思考を楽しんでいる時、「空想を楽しんでいる」とか言うが、目がぼんやりとしていれば、それは空想だし、目が輝いていれば想像だ。
空想は、妄想とか空見(そらみ)と言う方が相応しいが、想像は神の精神が流れ込んでいる状態だ。
一流の文学は想像で書かれたものだが、単なる流行小説は空想で書かれたものだ。
空想は実現しないが、想像は実現する。
空想は大衆意識の中の亡霊だが、想像は人類の共通の意識の中で生き生きと踊っている。
坂井泉水さんの「突然」という歌の詩にある「この仕事(ゆめ)はどんな状況(とき)も笑っているよ」はそんな意味と思う。
大衆意識は妄信と偏見に満ちているが、人類の共通の心は宇宙の中心だ。
エマーソンは、ギリシャ神話は、想像ではあるが空想ではないと言った。
なぜ神話は不滅で偉大か?
空想の中でさ迷う、ぼんやりとした行き場のない心を想像の源に引きつけてくれるからに他ならない。
そこで心は純化され、力の輝きを発することになる。
神話を空想として捉えれば何の意味もないが、想像として捉えれば貴い聖典である。
学校で教える神話や、表面的に記述した神話は空想のものだ。イエスが言った「塩味のない料理」だ。
H.G.ウェルズのSF(サイエンス・フィクション)は、空想科学小説ではなく、想像科学小説だ。フィクションとは本来、想像であり、空想とはデイドリーム(白日夢)やファンタジーだ。
想像作品を選び、空想作品を避けよう。それが本物を選ぶという意味だ。
空想をやめ、想像しよう。
空想はゴシップと誤解しか生まないが、想像は洞察と希望を生む。
空想に満ちた世界は滅びを避けられない。滅びはそこまで来ているが、それを免れるには想像力を取り戻すしかない。
とりあえずは、想像の宝庫である神話を読むのが良いと思う。読みやすいもので、特に優れたものを下にご紹介する。
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2010.06.10
永遠に繰り返される苦しみを地獄の責め苦とか言う。
ギリシャ神話のタンタロスという男の刑罰も悲惨だ。彼は泉の中にいるのだが、水を飲もうとすると水が引き、岸辺に実る美味しそうな果物に手を伸ばすと、それがあっという間に遠くに行ってしまう。
飢えと渇きに苦しむだけでなく、それが目の前にあるのに得ることができないという壮絶な苦しみだ。
実に、英語のタンタライズは「見せびらかしてじらす」という意味である。
しかし、我々の状態とは、まさにタンタロスのようなものではないのだろうか?
渇望するものを見せ付けられているのに、それを得ることができないことに苦しんでいるのだ。
素晴らしい豪邸や高級車、好みのタイプの美女を見せつけられはするが、まるで手が届かない。
引き寄せの法則なんてものが流行っているかもしれないが、タンタロスに教えてやりたいだろうか?それは、希望を持たされたタンタロスにさらに大きな失望を味あわせるだけのことだ。
「かもめのジョナサン」で、ジョナサン・リヴィングストンという若いかもめは、一時は親の言うことを受け入れ、他のかもめと一緒に、漁船の周りをぎゃあぎゃあ鳴き声を上げて飛び、撒き散らされるパンくずを奪い合った。
しかし、ある時、パンくずをキャッチしたジョナサンは、追いすがってくるかもめにそれを投げ、高く高く飛び、曲芸飛行の実験に取り組んだ。
ジョナサンには、タンタロスの刑罰は通用しない。ジョナサンはこの世の地獄に勝ったのだ。
「あしたのジョー」で、丈は、韓国の金竜飛(きんりゅうひ)との戦いで苦戦する中、なぜかこいつにだけは絶対に負けてはいけないという奇妙な感覚に戸惑う。そして、その答を得る。「金は食えなかったが、力石は自分の意志で食わなかった」
我々はタンタロスで、この世は地獄だ。岸辺の果物は、自分が食べなければ誰かが食べると思い、譲れば良いのだ。
そう決意した時、ペルセポネはネクタル(神酒)を差し出し、ヘカテーは微笑むだろう。冥界の王ハーデスも、膝をつくかもしれない。
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【かもめのジョナサン】
リチャード・バックの永遠のロングセラー。滅びを迎えた今の時代に是非読んでおきたいと思います。
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【マンガギリシア神話 (3) 】
ハーデス、ペルセポネ、ヘカテーについては、この里中満智子さんの素晴らしい漫画で。
また、この本に収録されているディオニュソスやオルフェウスのお話はよく知られているものだが、深遠で、あらためて読むと実に面白い。
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【神統記】
ヘシオドスの素晴らしい詩の名訳でギリシャ神話を味わえます。女神ヘカテーの偉大さも十分に語られています。
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2010.06.09
経験の力の大きさが強調されることはよくある。
特に職業においてはそうだと思う。私も、コンピュータソフト開発者として、経験の重要さを痛いほど実感していたつもりだ。
しかし、最近は、それを疑うようになった。
これは、意識の大変革、コペルニクス的発想の転換と言っても決して大袈裟ではない。私自身、かなり頑強な経験主義者だったからだ。
世の中には、経験を傘に威張っている者は多い。しかし、それはとんでもないまやかし、ハッタリ、見掛け倒しではあるまいか?
特に変化の激しい時代では、経験がむしろ邪魔になる場合が多いことは、普通にも理解されていると思う。
さらに、実際には、経験というものは何の役にも立っていないと思えることがある。
今、石川遼という18歳のプロゴルフ選手が大変に人気がある。プロデビュー前から大活躍し、17歳で賞金王となり、経験を積めば末恐ろしい選手になると言われている。しかし、本当だろうか?案外に、今以上にならないのではないだろうか?もし、本当に偉大なプレーヤーになるとしても、それは経験の力であろうか?
プロ野球など、スポーツ界では、一流選手でも、ルーキーイヤーの成績をなかなか、あるいは、最後まで超えられない選手はザラだ。あの清原和博さんもそうだった。
プロボクシング界で有名な亀田兄弟も、若くして世界王者になったりしているが、将来、今以上になる保証はないし、実際、その見込みは薄いと感じる。
大相撲では、ルーキーが最初から活躍することはまずないが、それは経験というより、体力の問題と思う。大相撲式の訓練や食事でないと、あの化け物じみた体力が付かないのだ。しかし、力士の選手寿命は短い。そして、経験で勝つことなど、まあ無い。
漫画界では、巨匠と言われる漫画家でも、代表作は20代の頃の作品である場合が圧倒的に多い。あの石ノ森章太郎さんも、生涯活躍はしたが、オリジナルのまま何度もアニメ化される代表作は26歳で書き始めた「サイボーグ009」だった。
年を取ってから、さらに躍進する人というのは、経験の力を発揮した人ではなく、むしろ、経験を捨てた人だ。
仕事の求人でも「経験者募集」とされていることは当然多い。しかし、それは、本当に仕事の経験を求めているというよりは、「面倒でない人が欲しい」という程度の意味でしかない。
実際には、経験豊富な人間というのは煙たいもので、本当に期待されるのは、素直な人間であろう。最近は、家で甘やかされ過ぎた若い人の方が素直でないことが多く、年を重ねてやっと素直さが身に付いた人間の方が有り難い場合が少なくない。
古事記を読むと、赤ん坊で生まれてくる神様というのは実は少ない。天照大神の孫で、天孫降臨をしたニニギの子供くらいからで、しかも、彼らは神の特権である不老不死の力を失っているのだ。
ギリシャ神話では、神様も生まれてくる時は人間に近いが、知恵の女神アテナは成人した姿で生まれるし、知恵は知恵でも悪知恵の神ヘルメスは、生まれてすぐアポロンの牛を盗み、しかも、策略を巡らしてアポロンと対決する。何と産衣のままで。そして、ゼウスはむしろそんなヘルメスを誉めるのだ。
中国の老子は、生まれた時はすでに齢80を超えた老人だったという伝説になっている。
もちろん、これらは歴史的事実ではないだろうが、経験など卑小なものに過ぎず、それをはるかに超える大きなものがあることを示唆しているように思う。
少なくとも、経験がないことで萎縮したり弱気になってはならない。もちろん、傲慢ではもっといけないが、経験というものなら、深い意識の中に人類共通の巨大なものがあり、素直であればそれに通じることができる。また、DNAの中にだって、太古からの膨大なものが記録されているし、記録されているからにはそれを利用できるに違いない。それこそ、人の一生の経験などたかが知れている。
どれほどの経験でも、それが卑小なものであると感じるほど大きなものが我々の中にある。それを手に入れることの方がはるかに重要なのである。
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2010.06.08
悩み苦しんでいた時、何かの文章や詩を読んだり、あるいは、絵画や彫刻を見て、不意に心に不思議な変化が起こって、気分が晴れたり、活力が湧いてきたり、あるいは、大きな幸福や安らぎを感じ、さらには、別の人間に生まれ変わった感じがしたりすることがある。
そういった時、人は自分を忘れた、いわゆる忘我という状態にあり、万物と自己が一体化したように感じ、また、自分が幸運であることに気付く。
忘我とは英語のエクスタシで、イェイツは芸術の目的はそれであると言った。ロマン・ロランは、この万物との一体化の意識を大洋感情と言い、おそらく、それらと同じものを指すと思われるマズローやウィルソンの至高体験とは、つまるところは、自分が幸運であると感じることであると言う。
しかし、それは啓示なのだ。
人は自分の中に神がいる。真理や真実の美を前にすると、内なる神が顕れささやく。それは、神の精神が流れ込んでくる瞬間のようにも感じる。
神はいつでも一緒なのだが、日々の煩いの中でそれが分からなくなっている。しかし、それでも神は常にあり、我々は教えられなくても真理を知っているに違いない。
こう言うと、日々の煩いが悪いもののようではあるのだけれど、それがあるからこそ、感動的な啓示もあるのかもしれない。
どこに行こうと、どれだけ成功しようと、人は生きている限り煩いから逃れることはできない。だが、啓示を得ると、それはもう些細なことになってしまい、どうでもよくなる。心を傷つけられることもなくなる。
最近、「四つのギリシャ神話」という本を読んだ。これは、ホメーロス風賛歌と言って、名もない詩人が、あの偉大なホメーロスの詩の形を借りて神を賛美した叙事詩(詩で表現した物語)である。
ホメーロス風賛歌全部は膨大なので、特にドラマチックに書かれた、デーメーテール、アポローン、ヘルメス、アプロディーテーの4神についての物語を取り出したのが「四つのギリシャ神話」だ。
名もない詩人の作品とはいえ、実に素晴らしいもので、それゆえ後世に残されたのだろう。
私は、最初のデーメーテールのお話に非常に感動し、ある意味、啓示を得た。
これを読まれる方に、少し予備知識を与えたい。
デーメーテールは、オリュンポスの十二神という、特に偉大な12の神に名を連ねる女神である。
この女神は、神々の王ゼウス(ジュピター)の実の姉で、農耕の神だ。尚、オリュンポス十二神は、美と愛の女神アプロディーテーを例外として、全てゼウスの兄弟姉妹かゼウスの子である(アプロディーテーをゼウスの子とする説もあるが、それが定説でないことでやはり例外と言って良いだろう)。
ゼウスの正妻ヘーラーもまたゼウスの実の姉だ。ゼウス達の両親もまた、実の姉と弟であるレアーとクロノスだ。
デーメーテールは、弟であるゼウスとの間に、コレーという娘を生んでいる。コレーは非常に愛らしい乙女の神で、言うなれば、乙女の中の乙女であり、デーメーテールはコレーに無上の愛情を注いでいた。
このコレーに一目惚れしたのが、ゼウスやデーメーテールの兄弟である冥界の王ハーデスだ。いわば、コレーの叔父で、ハーデスから見ればコレーは姪である。
ハーデスは、弟であり、神々の王であるゼウスに、コレーとの結婚の許可を願い、ゼウスはこれを許した。その際、力ずくでコレーを奪っても良いとゼウスが言ったため、ハーデスもつい、コレーを略奪してしまう。
ハーデスによるコレーの略奪の場面については、数多くの名画や彫刻が残されている。
デーメーテールへの賛歌は、このコレー略奪のあたりから始まる物語だ。
尚、コレー略奪の物語については、里中満智子さんの漫画である、マンガギリシャ神話の第3巻「冥界のオルフェウス」が素晴らしい。
コレーは愛らしく、デーメーテールにあしらわれ、ヘラーにおびえ、ハーデスに妙な恋愛のアドバイスをするゼウスが面白い。また、ハーデスを純情でハンサムな青年に描いたところが新鮮だ。
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2010.06.07
荘子は、船を盗まれないかと心配する者に、「天下の中に天下を隠せば盗まれることなどない」と言うが、これは難解かもしれない。
私なら、「盗人も含めて全て私のものだ」と言う。
では、盗人に対して「返せよ」と言う権威が無いことを恐れるのだろうか?
盗まれたわけではない。盗ませたのだ。権威をもって盗ませた訳ならあるのだろう。
エマーソンは言った。「私は世界の所有者」であると。星も季節も全て私のものだと。
シーザーの手腕も、プラトンの頭脳も自分のものであると。
人は損をすることを嫌がる。特に現代の日本人は極端だ。
損とは、自分のものであるはずのものが他人のものになることなのだろう。多分。
しかし、他人のものであるはずのものが、たまたま自分のものになることを得と言い、それは嫌わない。不思議なものだ。
しかし、良いものも、それを奪う他人も全て自分のものだ。
それは練習しないと分からないかもしれない。
美味しい肉は自分のものだが、同じく自分のものである人間共に譲ってみれば良い。
電車の席も人間に譲ってしまえば良い。人間共も、そして電車も自分のものだ。
死の床にある者に誰かが聞いた。
「死ぬのは嫌かね?」
「いいえ」
「神の思し召しだからか?」
「いいえ」
彼のその後の説明自体に意味はないが、彼は、自分は神に限りなく近付く瞬間があると言ったような気がする。
きっと、死も自分のものであることを知っていたのだろう。
小智ということになるが、損を恐れなければ、案外に損をしないことを昔の人は知っていた。
そんな人はいつもあせらず、のんびりしていて、どっしりと落ち着いている。
だが、現在の日本人は、そんな小さな知恵ですら忘れてしまい、あくせくしながらいつでも大損をして嘆くのだ。
大昔のギリシャ人は、アテナの知恵、アポローンの理性、アルテミスの澄んだ意識に憧れ、それは強いものだった。
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2010.06.06
ちょっとお金を手にした事業家やミュージシャンなどが、美食にふけり、色欲に走り、高級品を買い漁り、別荘を建て、挙句、退屈から麻薬に手を出して破滅する話をよく聞く。
一方、世界最高の富豪ビル・ゲイツは若くしてとてつもない大金を手にしたが、心身を損なうことは全くない。
ゲイツは、大金持ちになっても、食事は大衆食堂でとったり、ハンバーガーやピザで済ませた。若い頃でも、事務員が買って持ってでもいかないと昼食をとらなかった。飛行機はエコノミーに乗り、日本製の車を自分で運転した。学生時代から数えても、彼と付き合った女の子なんて何人もいない(何人かはいるらしいが)。肥満にも縁がなく、常に健康で毎日フルタイムで働いている。
私は、ゲイツが成功者だから偉いとは少しも思わないが、あれほど成功して平和であるのは大したものだと思う。
彼は、事業家である限り、決していつも優しいいい人ではなく、冷酷な部分も必ずあるはずだと思う。しかし、あれほど快楽的な欲望を持たない人は稀で、だからこそ破滅を免れ、繁栄を続けるのだろう。
だが、普通の人が彼の真似をして禁欲的に生きようとすると、たちまち抑圧の反動で、かえって快楽に走ったり、心身に破綻をきたすものだ。
また、理性を使って、そこそこの快楽にとどめようとしても、普通の人ではそれが次第にエスカレートし、やはり最悪の結果は免れない。
ゲイツは理性を磨き上げると共に、高度な精神コントロールの秘法をマスターしたとしか思えない。
しかし、あれほどの富を持っていてすら、欲望を持たないことで平和が得られるのであれば、我々のように金の無い者が欲望を捨てて幸福でいられないはずがない。
心が貧しくない限り、幸福には金持ちより貧しい方が有利なのである。
しかし、世界的不況と言われるものの中で、あらゆる国の「生活に困窮している人達」の特集番組がテレビで放映されることも多く、私も何度か見たが、金に困っていることを訴える人達が、皆、おそろしいまでに肥満している。ゲイツの何倍も食の快楽を得ているなら、別に不満など持たなくて良いのにと思う。彼らの問題は金がないことではない。欲望を制御する理性を鍛えていないことだ。
ギリシャ神話のディオニュソスは、快楽による心の解放を説いたが、それはあくまで、アポローンの理性を伴ってこそだ。
ただ、逆に言えば、アポローンの理性も、ディオニュソスの快楽への欲望を素直に認めてこそ意味があり、ただ抑圧するだけではむしろ最悪な反動となることは長い歴史の中でも証明されている。
もし人が、適度な量の適切な食事をとることができるなら、平和と幸福は約束されていると思う。
実をいうと、人類最大の聖者の一人ラマナ・マハルシが最上の方法と言ったのも「清らかな食事を適切な量食べること」だった。
アブラハム・マズローは、偉大な人間と平凡な人間の違いは、至高体験を持つか持たないかの違いだけであると言ったらしい。
快楽をはるかに超えた楽しさを知れば、快楽をもたらすものを他人に譲ることができる。そんな者が偉大でないはずがない。
至高体験とは、ロマン・ロランの大洋感情や、イェイツのエクスタシー(忘我)、あるいは、岡本太郎の爆発、夏目漱石の天賓と同じで、ドストエフスキーやエリオットの小説にもその状態を表す記述がよく見られる。
エマーソンは「自分の魂の中に神の魂が流れ込んでくること」と言った。
だが、はっきりと言っておくが、これらを得るのに金は絶対に必要でない。もちろん、最低限の金まで無用とは言わないが、高い金で得るものは欲望である。悟りを求めてかえって餓鬼道に陥る原因はそれである。
急いで神になるつもりなら、聖書でも古事記でもギリシャ神話でも良いから千回くらい読めば良いのではないかな。あるいは、絶対に何の期待もせずに、ジャパ(神の名を言葉や心で唱えること)や、念仏やマントラを百万回くらい繰り返せば良いのではと思う。
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2010.06.05
1960年代の作品ながら、21世紀になっても劇場作品が制作されている、藤子・F・不二雄さんの「パーマン」という漫画・アニメがある。
ご存知の方も多いと思うが、パーマンというのは、「パーマンセット」と呼ばれる、マスク、マント、バッジなどのアイテムを装着した者のことである。
そのアイテムの1つであるパーマンのマスクは、それを装着した人間の筋力を6600倍化するという夢のアイテムである。
こういった、装着することで人間の体力を補助して強化するものを一般的にパワードスーツと言い、昔からSF作品などでよく登場するが、現実にも、医療分野や軍事分野などで研究が進み、何らかの形で実用化されているものもあると思う。
ところで、パワードスーツのように主に筋力を補助するのではなく、精神の力を強化して発揮させるというアイディアも、やはりSFの世界などにある。
単に記憶力や計算力を高めるということであれば想像もしやすいのであるが、考えたことを現実化する装置というものも考えられてきた。
1960年代の平井和正さん原作の桑田次郎(現在は桑田二郎)さんの漫画・アニメ「8マン」には、イメージコピーと呼ばれる、思考内容を現実世界に出現させる装置が登場する。ただ、この作品では、現実に出現させる物の分子結合力の問題で、せいぜい見えるだけであるというのがどこかリアルで面白い。2004 年の正当な続編漫画「8マン インフィニティ」では、物理的にも強化された現実を出現させる装置が登場する。
考えたことを出現させるというのは魔法と考える場合が多いと思う。
ところが、そういった魔法が科学の力で実現したらどうなるかを真面目に考えたSF映画の傑作が、今も人気の高い、1956年の米国映画「禁断の惑星(Forbidden Planet)」だ。半世紀も前のこの作品は今でも見応え十分で、私もDVDを所有している。
この映画では、地球よりはるかに進化したある星の人類は、その装置の発明により滅亡してしまう。ところが、装置は残されており、それを発見した地球の人間達も一人を除いて全て死ぬ。残った一人は、自分を救助に来た地球の宇宙船に来るなと警告する。
ところが、古来からも、人間には元々、考えを現実化する力があることが言われてきたし、今でも潜在意識の法則などでよく知られていることである。特に近年では、量子物理学の考え方が導入される等で現実味が強くなってきた感じもある。
その中で、なかなか願望を実現させることができない者が多いし、実際には、あるレベル以上の想いを現実化できる者はほとんどいないと言って良いくらいである。
しかし、もし、科学の力で、考えを現実化する装置ができたら、「禁断の惑星」の映画のように大惨事となることは容易に予想できると思う。
人間にとって、神のように、思うがままに全て実現することがいかに恐ろしいものであるかは子供でもない限り想像できるはずだ。
そして、神にそれが出来るのは、人間とは比較にならない、精神を制御する能力を有しているからに違いない。
実のところ、神とは、心を支配する強力な能力を有する存在のことを言うのかもしれないのである。現実を支配する能力という点から言うなら、人間は本来、神である。しかし、世界の秩序を維持する法則により、心の未熟な人間が発揮できる力は大きくない。言い換えれば、心の支配力に伴って発揮できる力が大きくなるのである。これは絶対に間違いのないことだ。
ならば、自由自在の存在になりたければ、心を支配する能力を得れば良いという結論に簡単に至るはずだ。まず、ここをはっきりと認識すべきなのである。これが、人が本来の姿である神になるための必須にして最短の道とは言えまいか。
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【禁断の惑星(DVD)】
やや当時のアメリカの流行が入っているが、「父親以外の男を見たことがない」という無垢で妖精的な美女アルティラが美しい。フロイト心理学のまっとうな部分を導入した雰囲気もあり、壮大なSFでありながらリアルなところもかなりあると思う。歴史的傑作と言って良いと思う。ストーリーはもちろん、映像も今見ても非常に素晴らしい。
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【信念の魔術】
1948年に出版され、いまだ読み続けられる、思考の現実化を説く心の科学の書。著者は、疑うことが仕事とも言える事件記者で鍛えられ、その後、実業界でも大成功を収めた経験からも確信を持って主張することで、人々に現実味と好感を持って受け入れられるのだろうと感じる。
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2010.06.04
「長く苦しい戦いの末、ついにわれらは世界を手中に収めた」
私が非常に印象深く憶えているこの言葉は、1993年のタツノコプロ制作の4話完結のアニメ「キャシャーン」の中のブライキングボスというアンドロイドの言葉だ。
アンドロイドが「苦しい戦い」というのも妙であるが、それだけに世界征服とは大変なものであることを感じたものだ。
我々は、外の世界を征服する必要はないが、内なる世界である心を征服しないといけない。そして、それはやはり、長く苦しい戦いであらざるを得ない。
人類最大の賢者の一人、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、「内にあるものに比べれば、外のものなど取るに足りない」と言ったが、世界を創るのは心なのであるから当然と思う。
心はたやすく征服されはしない。
ジョセフ・マーフィーは、旧約聖書の「ヨブ記」は、人が必要とする心の能力を鍛え上げ、世間の妄信に打ち勝ってサタンを退け、世界(心)の支配者となるまでの壮大な物語を比喩で言い表したものであると言った。
私は、古事記やギリシャ神話も同じであると思う。神話というものは、そのことを忘れないために物語にしたものだろうと思う。神話が滅びた国が滅ぶのは当たり前のことである。
そして、万能の神ゼウスでさえ、世界を支配下に収めるには、長く苦しい戦いを強いられた。しかし、ゼウスの勝利は始めから定められていたようにも感じる。我々の勝利も本当は予定されているはずなのだ。
神話に、外の世界を支配するための教訓を求めるのはおかしなことかもしれないが、それは、内なる世界を治めるインスピレーション(ひらめき、霊感)を与えてくれる貴いものである。
さっき、神話の滅びた国は滅ぶと述べたが、逆に言うなら、それは我々一人一人が滅びから逃れるための大いなる力にもなる。
ただし、現在の日本では神話は滅び、民族の集合意識は愚かな妄信に支配されている。ミヒャエル・エンデが「はてしない物語」(ネバー・エンディング・ストーリー)などの作品で述べたように、世界は滅びの危機を迎えている。
さて、外国のことは知らぬが、今の日本では大半の人間はもう救いようのないところまで来ており、滅びはそう遠くはない。だが、悲観することもない。一人の心の中に神が完全に立ち現れるなら世界すら支配する。荘子が「大火にも燃えず、大水にも濡れない」と書いた通りである。
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【モモ】
ミヒャエル・エンデによる現代の神話「モモ」。文庫版。
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【モモ】
「モモ」の単行本。私が愛読するのはこれです。
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【モモ】
「モモ」の豪華愛蔵版。豪華本にする価値はあります。愛ある贈り物にも良いと思います。
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【神統記】
ゼウスの世界統一の物語を、ヘシオドスが美しい詩で語ったものです。短いものですが、それぞれの神々についてもよく分かります。世界的神話学者カール・ケレーニイも、ヘシオドスによる神々の説明を重視しているように感じます。
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【超訳 古事記】
もっとも面白く、心に響く古事記であると思います。
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2010.06.03
「ギリシャ神話」の本は大変に多い。
書店で、そんな中の1つである、日本人著者によるものを見ると、序文に、「ただのお話なんだから、ここから何か教訓を得ようなんて思わないでくれ」といったことが書かれていた。
それはその通りと思う。
一方では、膨大な自己啓発関連の本を出している大学教授が、「ギリシャ神話は生き方を教える最高の本」と、これが実用的な啓発書であると説く。
まあ、それはそれで1つの個人的考え方として尊重する。
しかし、著名な神話学者であるカール・ケレーニイが著書に書かれているように、ギリシャ神話は、伝記でもメルヘンでも教訓書でも啓蒙書でもない。
いわば、もっと、はるかに深遠なものである。
もし、これを、伝記や教訓書として読むなら、これほど馬鹿げたものはないだろうし、啓蒙書にしてしまえば独断と偏見に満ちてしまう。メルヘンというなら、もっとマシなものがいくらでもある。
それは、古事記や旧約聖書も全く同じである。
しかし、フロイトやニーチェもだが、およそ人間に関する天才的洞察力を持つ者で、ギリシャ神話を軽く扱う者もいないし、ヨーロッパあたりでは知的な人間の必須の教養と考えられることもあるが、学校で学問として学ぶようなことでは決してない。
ギリシャ神話にこんな話がある。
大神ゼウス(英語ではジュピター)の孫である王妃ニオベは、ゼウスの息子アムピオン王との間に7人の娘と7人の息子を生む。ニオベもアムピオンも人間である。
女神レトは、ゼウスの姪であるが、ゼウスとの間にアポローン(英語でアポロ)とアルテミス(英語でダイアナ)という名高い双子の神を生んだ。
ニオベは、自分はゼウスの子孫を14人も生んだのに、レトは2人しか生んでいないのだから、自分の方がレトよりはるかに偉大であると言う。
母親であり、オリュンポスの女神であるレトを侮辱されたアポローンとアルテミスは怒り、ニオベの14人の子供を全て殺害し、さらに、その報復でアポローン神殿を焼き払おうとしたアムピオン王も殺す。
普通に読めば、人間が神を侮辱したという罪を責めるとしても、そこまでやるのも度を超えていると思うだろう。
だが、旧約聖書でも、古事記でも、3人の娘だとか、7人の息子といった言葉がある時には、それは、人間の持つ何らかの性質を現しているものだ。
ニオベの14人の子供も、男性的な7つの欠点と女性的な7つの欠点を指し、理性の神アポローンと純潔の女神アルテミスがそれを滅ぼしたと見るべきだろう。
また、傲慢というものを徹底して戒めるという思想も感じさせる。神道においても、慎みこそ人間の最大の徳と考えることもあり、理解できることと思う。
誤解を恐れず言えば、ギリシャ神話は人間に大いなる力を与えると思う。
旧約聖書と異なり、ギリシャ神話や本来の神道は宗教ではないので、意図的に歪められることも支配者に利用されることもなかった。その分、後の多くの作家や詩人により加筆、修正があったことは確かだが、本質はむしろ生き続けたと思う。
また、ある不可思議な理由で、ギリシャ神話には貴重で有益なことがあるが、それは言わない方が良いかもしれない。
ホメーロスの「イーリアス」や「オデュッセイア」が長過ぎるなら、ヘシオドスの「神統記」や、「四つのギリシャ神話」(「ホメーロス賛歌」より4つの話を抜粋したもの)をお薦めしたい。尚、「ホメーロス賛歌」は、ホメーロスの著作ではなく、ホメーロス風の詩で神々を褒め称えたもので、作者は無名の詩人(実際、名前は分からない)であるが、これが非常に味わい深いものである。
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【神統記】
格調高く易しい詩で、宇宙の生成からゼウスによる世界の統一を雄大に語ります。著者ヘシオドスは紀元前700年頃の詩人ですが、普通の農民でもありました。神々の系統や権能についてもよく理解できるお薦めの書です。
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【四つのギリシャ神話】
ホメーロス風賛歌より、デーメーテール、アポローン、ヘルメース、アプロディーテーの4つを取り上げたものです。優雅な詩で、それぞれの神の特質もよく分かると思いますし、実に感慨深いものがあります。例えば、愛と美の女神アプロディーテーのお話はかなりエロチックですが、芸術的エロスと言えると思います。
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2010.06.02
人間の最大の弱点は劣等感である。
劣等感とは、自分には価値がないという思い込みのことを言うのだろう。そして、それはあくまで思い込みである。
劣等感というものは不必要であるばかりか、それを捨てれば、即時にあらゆるものが得られる。聖人にすらなる。
コリン・ウィルソンの「超越意識の探求」という本のあとがきに、その端的な例がある。
劣等感に凝り固まった男に、友人が「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」と言う。この一言が、彼には天啓だった。数日で彼は偉大な賢者に生まれ変わったのだ。
もし、劣等感という、おそらくは、両親か学校に植えつけられた思考パターンを持っているなら、あなたもこの言葉について真剣に考えば良い。
インドのニサルガダッタ・マハラジは、貧しい農夫をやめ、街に出て働くが仕事は長続きせず、中年に差し掛かる頃には下手な商売人に落ち着き始めていた。
そんな時、彼はある聖者に、「あなたは至高の実在だ」と言われ、ただ、その言葉を忘れなかったというだけで数年後には偉大な聖者になった。彼は、何の努力もしなかったと自分で言う。
ただ、至高の実在とは何とも難しい言葉だ。おそらく、彼にも影響のあった民衆の意識に配慮した言い方だったのではないかと思う。至高の実在とは神のことだ。英語でもSupreme being(至高の存在)は神を指す。
つまり、自分が神であるということをただ覚えていたというだけで、彼は偉大な変容を果たしたのである。かかった期間は4年ほどだったという。
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2010.06.01
人生を充実させる唯一の方法は、目標を設定することであると言われる。
しかし、目標を設定してはみても、すぐに意欲がなくなり、その目標について考えるだけで憂鬱になるのではないかと思う。
そして、本当に燃え続けられる目標を探してはみるのだが、どれもだめで、あげく、「自分探し」などという訳の分からないことをやりだす。
なぜそうなるのかというと、我々はすっかり洗脳されていて、極めて制限された思考しかできないからだ。我々の立てる目標なんて、恐ろしいほど限定された種類のものでしかない。
学校では、小さい頃から「将来は何になりたい?」とか聞かれ、お決まりのパターンの返事をするよう矯正されていくことに気付いているだろうか?
専制国家では、「国王を守る勇敢な兵士になります」とか言うと賞賛され、すっかり洗脳された奴隷になるのだが、日本も本質的にはちっとも違わない。
学校で、うっかり本当に素晴らしい人生目標なんてものを口にしようものなら、たちまち問題児扱いされ、かなり辛い目に遭わされる。
イジメってのも、統制された考え方に同調しない子を叩く行為である。頭に枠をはめ込まれた子供には、そうでない子が目障りで仕方がないのである。そして、イジメをする子供達の行いは、学校や教師の教育目標と一致するので黙認されるのである。
精神分析学者の岸田秀氏が著書で、イジメは子供による秩序維持行為であり、教師も黙認すると書いていたが、表面的にはそうなのだが、その本質は私が書いた通りである。
洗脳と言うとかなり陰鬱であり、闇の支配者とかいったものの存在を仰々しく持ち出す連中も多いが、それは置いておこう。世間そのものが大きな嘘なのだ。
ほぼ全ての人間が、大衆の妄信や偏見にどっぷり浸かっており、それは、飛ぶ翼があるのに、地面を這い回る鷲のようなものだ。空を飛ぶなんて言おうものなら、仲間の鷲に袋叩きにされ、教師の鷲には「幼い考えはもうやめようじゃないか」と諭されるのである。
世間の妄信や偏見の中で幸福になれるなら、それも手かもしれない。しかし、それは不安だらけで、意味のない恐怖に苦しめられる生きる価値のない人生だ。あらゆる病気は、そんな人生からの脱却をうながす、魂からの警告だ。世間の成功者は、実はみんな病気を抱えていることをご存知か?若い頃には、アトピーなどの皮膚病として現れることが多いが、年がいくともっと深刻な病気になるものだ。
さて、ではどうすれば良いかというと・・・それをいきなり言うと、洗脳されている者は笑ったり、馬鹿にしたり、呆れたり、良くても驚くか、無理に冗談にしたりするのだ。
しかし、そこにヒントもある。
世間の人に本当に馬鹿にされる目標、嘲笑される目標、呆れられる目標を立てることだ。
プロサッカー選手とか金メダリストとか、世界的歌手なんてのは、まだまだ世間的目標であり、そう本気で馬鹿にしてはくれない。その程度では駄目だ。
本当に馬鹿にされ、見下され、拒絶される目標。しかし、魂の目標。それだけが本物である。
ヒントを得られる本を以下に2冊ご紹介する。
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