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2010.01.31

嘘の中の本当

先日、現在の漫画、アニメには非常に精神性の高いものも出てきており、それを見た子供達が宇宙の真理に目覚めてしまうことがよくあると書きました。

ただ、精神性の高い漫画、アニメ作品であったとしても、その作品にも不純物がかなり含まれています。それを調製しながら見ることが出来て初めて、その中にある光に感応できるわけです。
子供の場合、大人が妙な誘導や干渉をしない限り、無意識に難なくやってしまいます。

しかし、そういったことは、漫画、アニメばかりではなく、聖書や仏典なども例外なくそうなのです。
相当な昔から、聖書や仏典、あるいは、その他の聖典も、全て歪められ、不純物が混ざってしまっています。権威あるとされるものほどそうです。
旧約聖書や古事記といった、神話の形で書かれたものは比較的良好な状態で残っていますが、これらは、ある程度の年齢の者が純粋な心で読まないと真の意味が分かりません。

漫画やアニメの場合は、これが商品であるということ自体が悪いということはないのですが、売ることを作品の内容より優先させた場合には作品の質そのものが低下します。作品の周波数が下がるのだと思います。

明治、大正の偉大な教育家、岡田虎二郎が、「聖書よりイソップに良いことが書かれている」と言ったのは、イソップの方が不純物が少ないという事情を言っていたのだと思います。

ただ、我欲が無く、謙虚であれば、何を見ても素晴らしい気付きを得ます。いわゆる「自分以外は皆師」という状態になります。しかし、逆に言えば、我欲が強かったり、謙虚でないなら、何からも学べません。
ニサルガダッタ・マハラジは、まがい物にもいくらかの真理はあると言いました。本の場合、完璧なものは無いでしょうから、良い結果を得るには、やはり我欲の無さや謙虚さが必要ということだと思われます。

世界的ヒットの成功哲学「ザ・シークレット」は素晴らしいものではありますが、当然不純物も多く、ある程度、我欲を抑えた謙虚さを持ち、「賢く」読むことが必要です。
「ザ・シークレット」に対する警句や批判にも、まっとうなものもあります。
「ザ・シークレット」は、「嘘も方便」的なところもあり、善意と思いますが、嘘もあります。
ただ、タオイストの詩人、英文学者の加島祥造さんはこうも言っています。
「嘘のない真理はない」「老子は嘘つきだが、荘子は大嘘つきだ」
もちろん、加島祥造さんは、老子、荘子を敬愛しています。

「あんた自体が1つの大きな嘘」
~アニメ「ノワール」より。ミレイユ・ブーケが夕叢霧香(ゆうむらきりか)に言った言葉~

我欲のない心の純粋さ、謙虚さをもたらすのは、「決心」です。
単に我欲を無くそう、謙虚になろうなどと考えると、むしろ、様々な欲に飲み込まれます。

「俺もな、考えが甘かった。アウトローで働くってことは、俺が考えていたほど生易しいことじゃなかった。だけど、それが何だってんだ。決めちまったものは仕方がないじゃないか」
~アニメ「灼眼のシャナII」より。佐藤啓作が田中栄太に言った言葉~

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2010.01.30

不思議な体調悪化

一昨日の朝、急な腹痛がありましたが、これには、不快というより驚いてしまいました。
何せ、腹痛なんて本当に久し振りだし、もう一生縁が無いと思っていたからです。
私の食生活では腹痛は有り得ませんし、変わったものを食べた覚えもありません。

さらに、腹痛だけでなく、かなり目まいがし、喉が痛い風邪のような症状があります。
そして、脚の筋肉がつった感じがするのには、本当に困惑しました。
私は、毎日肉体のトレーニング(腕立て伏せ、スクワット、腹筋運動等)を欠かしていませんし、急にハードな運動をしたわけでもありません。
正直、病気の前触れではないかと不覚にも少し心配してしまいました。

ところで、このブログでも何度も取り上げましたが、数日前から、足立育朗さんの「波動の法則」を読んでいました。そして、昨日、あとがきにたどり着きました。
なんとそこに、「この本を読み終えた時、目まいがしたり、風邪のような症状が出たり、お腹をこわす人もいます」と書かれてありました。
この本には、内容を理解できたかどうかに関わらず、全てに目を通したら、読者の本質(魂)の周波数が大きく上がるようプログラムされているそうです。
ただし、それは、あくまで、本質(魂)の方の周波数であり、顕在意識の方は自分で変えないと変わりませんので、本質と顕在意識の周波数のズレが体調悪化として現れるのだそうです。
本質の周波数が上がりますと、直観が高まり、良いアイディアが閃きますが、それを行動に移せば、顕在意識の周波数も上がり、体調が戻ります。それだけでなく、本質が大きくなってさらに周波数が上がります。すると、さらに直観が高まり・・・と好循環が起こり続けます。

この本は1995年に書かれたものですが、2012年アセンションを暗示するようなことがかなりはっきり書かれているように思います。
私は、アセンションの時に起こることは、この本に書かれてあることであると思います。
曖昧でなく、はっきり書かれていて、アセンションできない人がどうなるか、また、なぜできないか等もよく分かるように思われます。

尚、昨夜は、久し振りに逢う人達とイタリア料理のレストランに行き、素晴らしいイタリア料理を食べ、リキュールやウォッカ等をかなり飲みましたが、今朝、体調が完全に戻っておりました。
従業員の感じも良いお店で、楽しく会食できました。普段は粗食でも、人との温かい交流の際には素晴らしい料理は良いものであり、適切であると思います。


波動の法則
度々ご紹介しておりますが、大変に重要な本であると思います。実は私は、十数年前に買って一度読み、よく分からず放っておりました。
「ザ・シークレット」も「ザ・マスター・キー」も、この本を読めば、論理的な詳細までよく理解できたと思います。まあ、利益を目的とする本ではありませんので、あまり欲望を持たずに読んだ方が良いのでしょうが、欲望を持たないこともまた、ものごとの成就の秘訣と思います。

真 地球の歴史 波動の法則2
上記「波動の法則」の姉妹編として1998年に出版された本を2009年に改訂復刻したものです。「波動の法則」より、さらに高度な内容となっているように思います。
正直、私には難しいのですが、素晴らしい口絵や本文のイラストを眺めるだけでも大きな価値があるように思いました。

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2010.01.29

世界を変えた少女の決意

昨日、漫画、アニメにより、宇宙の本質に目覚める子供達の話を書きましたが、宇宙の本質に目覚めることで世界を変える力も高まることになります。

成功法則で説かれていることは、よく知られたものに関してはほとんどが真実を様々な形(著者の個性や、著者が特にターゲットに考えている人々に合うような形)で表現しているのですが、その通りにやっているはずが、なかなか成果を得られない人が多いと思います。
いわゆる「何か足りない」ということなのかもしれませんが、実際は、「一番肝心なものが足りない」のかもしれません。
それは、現実には、成功法則の本など見たこともない成功者が多いことからも分かります。

はじめに書きましたが、漫画・アニメには、下手に成功法則の本を読むよりためになることが書かれていたりします。
私は、明治、大正の我が国の偉人、岡田虎二郎が「聖書よりイソップに良いことが書かれている」と言ったことを思い出します。岡田虎二郎は決して聖書の価値をないがしろにしたわけではありません。彼は、ソクラテス、孔子、イエス、二宮尊徳をわが師と思っていました。

では、近年の漫画、アニメ作品を少し例にします。
4つの漫画、アニメ作品の4人のヒロインが、転機となる重要な場面では、ほとんど同じであったことをまず指摘します。

(1)魔法騎士レイアース(CLAMP著)
アニメの脚本も漫画原作者が行った画期的な作品です。
主人公の14歳の少女、獅堂光(しどうひかる)が、まだ何の力も持たない時、強力な魔法の力を持つアルシオーネに殺される寸前になって言います。
「決めたんだ!魔法騎士(マジックナイト)になるって!」
光は、以後、この言葉を何度も言います。
(2)カードキャプターさくら(CLAMP著)
上の「魔法騎士レイアース」と同様、アニメの脚本を原作者が書いています。
主人公の木之本桜は、小学4年生。
彼女もまた、困難な状況の中で常に、「決めたんだもん!カード全部集めるって」と言います。
(3)灼眼のシャナ(高橋弥七郎著)
シャナがまだ名前を持たず、訓練は受けながらも普通の人間だった頃、12歳になるかならないか位の頃でした。
人を分解して消滅させる力を持つ「紅世の徒(ぐぜのともがら)」の1人ウィネに、今にも消滅させられようとしていました。そして、彼女には、それが分かっていました。
しかし、その時だからこそ、彼女は言います。
「決めた!フレイムヘイズになる」
フレイムヘイズとは、紅世の徒を倒す、異能の力を持つ戦士です。
彼女はそれまでも、そう思っていたかもしれませんが、本物の敵と対峙して、初めて本気で決心したのだと思えました。
(4)「涼宮ハルヒの憂鬱(谷川流著)
小学6年生だったハルヒは、初めて野球場に観戦に連れていかれ、大観衆を目にした時、自分のちっぽけさに気付きます。
自分も、自分の生活も、自分の人生も、世界のどこにでもあるありふれたもので、ちっとも特別でない。でも、世界には特別な人生を送っている人が確かにいるはずだ。でも、それは自分ではない。それはなぜだろう?
ハルヒは小学校を卒業するまで考えに考えた末、決心します。
「私は、自分を変えてやろうって思ったの。待ってるだけの女じゃないことを世界に訴えようとしたの」

これらの4つのお話の真意が分かれば、世界はあなたの手の中でしょう。
共通項は何でしょうか?
それは「決心」の一言です。

これまで、数多くの成功法則が登場し、現在は「引き寄せの法則」が流行のようです。その中で、最も成功しているのがロンダ・バーンの「ザ・シークレット」で、これは実に素晴らしいものです。ここには、成功のために重要なことが見事に分かりやすく取り上げられています。
しかし、究極は、既に忘れられた感もある、マイク・ハーナッキーの、文字通りの「究極の秘訣」だと思います。
この「究極の秘訣」は、非常に短い言葉で言えてしまいます。それは、
「何かを成し遂げようとするには、必要なことはすべて進んで実行する自発的な態度が必要である」
です。
言葉の詳しい説明は、彼の「成功の扉」という薄い本に書かれています。
私は、この「究極の秘訣」は、ただ一言、「決心」という言葉で表せると思います。

成功法則の通りにやってうまくいかないのは、最も重要な「決心」に欠けているのです。
それに関しては、マイク・ハーナッキーもちゃんと指摘しているのですが、おそらく、それを実感できない読者が多いのでしょう。
上にあげた漫画やアニメのように、危機的状況でもならない限り、人間はなかなか決心できないからです。
ハーナッキー自身も、原因不明の病気になった時に決心をしたのでした。
皆さんも、病気になったり、リストラされたり、いじめにあったりなどの危機的状況になったことがあるか、あるいは、あまり好ましく思わないかもしれませんが、今後、必ずあると思います。
そんな時が決心する大きなチャンスなのです。
その点、引きこもりというのは、実は決心するチャンスが実は多いのです。少なくとも精神的には、常に危機的状況ですから。
引きこもりが一転、大飛躍をするなんてことは、実はありふれたものになるはずなのです。

決心すれば、それが大きな力になることは、観念的には分かる、あるいは、分かるような気がするという方は多いと思います。
本来は、この観念を最大に重視すれば良く、実際、それで決心の価値を認めた人が大成功したのです。
五感のうち、2つが欠けたヘレン・ケラーが言っています。「五感は幻想だ。観念だけが真実だ」と。
なまじ五感が正常な我々がそれを見逃すのです。
いわゆる「見えるものしか信用しない」という状態です。
現代の文明社会の人間は、「見えないものを信じる能力」に欠けているのです。
例えば、心は見えませんので、現在の人間は、心を本当には信用できません。だから、「見えない」愛情を「見える」プレゼントの金額で計るという奇妙なことが普通になってしまっているのです。

ちょっと難しいですが、決心が力になるという科学的説明は、足立育朗さんの「波動の法則」(PHP)に書かれています。
ただし、現在の地球の科学レベルをはるかに超えた科学での説明になります。
足立さんは配慮して書いてくれているので、誰でもよく読めば分かると思います。


波動の法則
現代科学に適当に詳しい人なら笑うかもしれませんが、科学の最先端にいる人々の中には、この本から真剣に学ぶ人もいます。著者の研究は結果も出しているようです。
著者は、信じる必要も、説得する必要もないと言います。主義主張などないようです。
まあ、著者の本意ではないでしょうが、成功法則などというものも、この本で全て説明できると私は思います。

成功の扉(単行本・古書)
一頃は話題になったこともあると思いますが、後から出てきた成功法則に比べて刺激に欠ける点もあったのか、忘れられてしまった感もあります。しかし、最もシンプルで純粋な成功の掟が述べられています。
古書も残り少ない感じですので、入手をお薦めいたします。

成功の扉(文庫・古書)
上記の本の文庫版です。
私はハードカバー版を持っていましたが、それは人にあげましたので、十数年後、この文庫版を改めて買いました。一度読めば十分な薄い本ですので、美麗な本は必要ないと思います。

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2010.01.28

漫画・アニメも進化の鍵になっている

足立幸子さんの講演録である「あるがままに生きる」の中に、「漫画に刺激を受けて子供が変わってきている。漫画家の中には精神性が非常に高い(波動が高いと表現)方が多く、その作品を見て、宇宙の本質が分かってしまうことがある」といったようなことが書かれていて、非常に納得しました。
もちろん、全ての漫画の精神性が高いわけではなく、単に刺激的で面白いだけのものも多いと思いますが、非常に素晴らしいものが増えてきていると思います。
また、漫画だけでなく、アニメでも、意識の高い制作スタッフが優れた作品を作っている場合があります。確かに、アニメの場合は商業的な事情の影響がより大きく、ある時期まで素晴らしかったのが、時と共に精神性が低下する場合もあるかもしれませんが、昔と違い、最近では、その傾向は少なくなっているように感じます。

世界的にも歴史的作品と言える、武内直子さんの、「美少女戦士セーラームーン」は素晴らしい漫画作品です。
また、アニメの方も作者の意思が尊重され、制作スタッフがこだわりを持って作った素晴らしいものでした。このアニメは5年間で200話が放送されました。1年目のシリーズの最終回に実に印象深い場面があったのを思い出します。
「闇の女王」クイン・ベリルとセーラームーンの最終対決となりますが、セーラームーンはベリルの配下の戦士を全て倒すことと引き換えに、彼女もまた、仲間の全てを失ってしまいました。
ところで、セーラームーンに登場する敵というのは、実は我欲で悪いことをするタイプはいないのです。強い信念に支えられ、ある意味、正しいのかもしれないのです。
クイン・ベリルの圧倒的なパワーの前に劣勢となるセーラームーンですが、気力を振り絞って必死の戦いをします。その時、ベリルは言います。
「なぜ、そこまでして私に逆らう?この世界に守るべき価値があると本当に思っているのか?」
もちろん、セーラームーンに迷いはありません。
すると、ベリルは言います。
「お前もいつかは知るであろう。この世はすでに醜く汚れていることを」
この言葉は、まるでベリルは自分の敗北を予言でもしているようであり、また、単にセーラームーンを惑わそうというのではなく、ベリルの本音のように聞こえます。
いえ、そもそもこれは、制作者のメッセージを感じます。
いっそう苦しい状況に追い込まれるセーラームーンですが、この世界を守ることを改めて決心し、死んでも諦めない態度を見せます。
その時、死んだ仲間のセーラー戦士達の魂が集結し、セーラームーンに力を与えます。

セーラームーンの勝因は、力でも、心の美しさですら無いように感じました。
心の強さや信念でベリルを打ち破ったかのようですが、なぜ、ベリルの心が先に折れたのかに、重要な意味があったように思います。
おそらく、それぞれが守ろうとしたものの違いではなかったかと思います。セーラームーンの方が、大きなものを守ろうとしていたのです。

ところで、アニメ放送が終了しても、セーラームーンのミュージカルは長く続きました。
その中で、このクイン・ベリルが復活し、アニメでは5年目のシリーズに登場する最強の敵である「銀河最強のセーラー戦士」セーラーギャラクシアと結託します(実際は、ギャラクシアがベリルを利用したのですが)。
最後にベリルはセーラームーンの側につき、ギャラクシアに言います。「お前はまだ分からないのか?この世が愛で出来ていることを」
「この世が愛で出来ている」という意味は、非常に難しいかもしれません。しかし、突き詰めて考えるなら、科学的に言ってもそうなると私は思っています。
最後にセーラームーンの恋人タキシード仮面は、セーラームーンに、原作の貴い言葉を言います。「これまで、お前が倒してきた敵は皆、お前と一つになりたがっていたきょうだいのようなものなのだ」
これは、原作では、セーラームーンが自ら悟ったことでした。
セーラームーンに挑んできた敵達は、もともと、セーラームーンと1つでした。それがバラバラになってしまったのでした。それで、もう一度一つになりたくて、セーラームーンに引き寄せられたのだと。

アニメの最終回で、セーラームーンは、悪の根源たるカオスは、本来あるべき場所に戻ったと言います。それは人間の心の中です。
しかし、セーラームーンは明るく言います。「信じましょう!人間を」と。ギャラクシアも笑顔を返しました。

セーラームーンのミュージカルの音楽の作詞は、中森明菜さんの「TANGO NOIR」で知られる冬杜花代子さんですが、私は、非常に霊的な詩人であると思います。
「劇場版美少女戦士セーラームーンR」では、映画館で沢山のお母さんと小さな子供(女の子が多かったでしょうが)が一緒に瞳をうるませて見ていたに違いない感動のクライマックスシーンの背後に、冬杜さん作詞の「Moon Revenge」という歌が流れますが、その詩が恐ろしいものであることに気付いた人はほとんどいなかったでしょう。
「月の愛は、追いかけても、逃げても、死んですら終わらない。なぜなら、それが月の復讐であるから・・・」
セーラームーンの2年目のシリーズである「美少女戦士セーラームーンR」のRの意味は、公式には明かされませんでしたが、普通、ロマンスと解釈されているようです。しかし、冬杜さんはリベンジを当てはめたと言われていたようです。それは彼女の霊的な直観であったように思います。その冬杜さんが2003年に亡くなられていたとは私も知りませんでした。


あるがままに生きる
世界で20万部のベストセラーである、画家の足立幸子さんの講演録です。
甦生化装置の役割をする本として制作されていて、足立さんの素晴らしい作品も表紙および口絵で収められています。
講演のお話、質疑応答が見事な形で文章になっており、素晴らしい内容であると思います。

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2010.01.27

全ては幻(唯波動論)

精神分析学者の岸田秀さんの「唯幻論」という思想に、私は一頃、夢中になったことがあります。
文字通り、「この世の全ては幻(幻想)」という考え方です。
ただ、それ自体は、特に新奇な説というわけではなく、古代インド思想でも、全ては幻(マーヤ)であると言われます。
ところが、岸田さんが大学に勤務されていた時、岸田さんの唯幻論の本を読んだ男性が、「全部幻なら痛くないだろう」と言って、岸田さんを殴りに来たようです。この男には、唯幻論に対する強い反感があったのでしょう。この世の全てが幻であるというのは、かくも納得し難いものでしょうか?

私にとっては、全て幻というのは少しも不思議なことではありません。ただ、幻が何を意味することをはっきりさせる必要があると思います。
養老孟司さんの「唯脳論」という、岸田秀さんの「唯幻論」とどっちが先なのか、私もよく分からないものがありますが、知覚の認識なんてのは、全て脳内で起こっているだけのことですから、知覚内容が真実の姿と一致しないという意味では、知覚内容も幻と言えると思います。例えば、催眠術を使えば、実際には存在しないものでも見たり聞いたりさせることができますが、それは、五感を通さずに脳内に直接認識反応を生じさせたということで、まさに幻を見せるわけです。そして、本当の認識と思っているものも、実際は、はなはだ怪しいものであり、デカルトは「確からしく思える程度のものは全て虚偽」と断定しました。言ってみれば、デカルトもある意味、唯幻論者ということになります。ただ、デカルトは、それでも確かなものだって必ずあると考え、それを追求し、最後に、「これも虚偽ではないか?」と疑っている私が存在することだけは確実なものと気付きました。
吉本隆明さんの「共同幻想論」では、幻想を「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」に分けて、個人から国家の規模までの幻想を論じています。吉本さんのベースはフロイト心理学というところは岸田さんと同じなのですが、吉本さんは、岸田さんと違い、フロイト説にはかなり意を唱えています。

しかし、いろいろ研究しましたら、私は、量子物理学の立場や、脳や人工知能の研究、神経科学などの分野の研究でも、行き着く先は、「全て幻」になるように思います。

私は、岸田さんは、「全て幻」の意味を、もっと親切に説明すべきだと思います。なぜ一部の人の中に岸田さんの唯幻論を嫌う人がいるかというと、救いというものが全くないからだと思います。集団がなぜ一緒にうまく生活できるのかというと、たまたま同じ狂い方をしているから・・・といった感じなんですよ。幻想の中に真理は何もない。だから、絶対的真理を語るイエスは大嘘つき・・・それを愚直に捉えてしまう人もいるわけです。
デカルトは、「これも虚偽(幻想)かもしれない」と疑う私の存在だけは幻想でないとしますが、岸田さんの唯幻論では、それも幻想となるのだと思います。

では、「全て幻」の意味を、可能な範囲で説明してみましょう。
我々が現実と感じるのは物質世界です。そして、全ての物質は分子で出来ています。分子は原子から出来ていますし、原子は素粒子から出来ています。そして、素粒子は大きさがあるわけではなく、波動として存在します。
つまり、全ては波動から出来ていて、本当は、赤く見えるものが赤いわけではなく、硬いと感じるものが硬いわけでも、熱いと感じるものが熱いわけでもありません。
五感で感じている様子が、実際の姿とは全く異なるという意味で、全て幻想であるというのは、全く正しいことになります。

しかし、幻想とはいえ、あらゆる生物の中に見られる、自律進化さえ果たす驚異的な構造や機能、複雑で壮大な自然現象の背後に潜む、恐ろしく精妙なカオス理論を見ても分かる通り、それらを創り出す素粒子の波動は、なんとも驚くべきものです。
そして、幻想や夢すら知覚認識させる感覚器官や脳さえ素粒子の波動から構成されています。

こうして見ると、素粒子の働きには、極めて高度な意識や思考が影響していることを認めないわけにはいかなくなります。
そして、そのような意識や思考がどのようなものかは、現在の我々にはさっぱり分からないわけです。
人類というものは、そういった、想像もつかないものの存在を認めず、「無い」としてしまうクセがあります。それが科学的態度であるとし、想像もつかないものの存在を語るのは宗教であるとして、科学と宗教が分離してしまったわけです。
ところが、大胆にも、宗教でしか認めなかったものを有るとするだけでなく、その中に科学的な普遍的法則を見出そうとするのが、錬金術、神仙術、魔法、そして現代では潜在意識の法則や引き寄せの法則です。
古代に書かれた「エメラルドタブレット」は科学かもしれませんが、現在の我々のように、それを全く理解できない者から見れば宗教になります。

幻想というのもそうで、上に見たように、現象世界は素粒子の波動が生み出す驚異的なものですが、その仕組みがあまりにも分からないために、幻想という言い方をするに過ぎないわけです。
以上で、「全て幻」という意味の説明を終わります。

「荘子」には、浅はかでしかない人間の知を捨てれば、本物の知恵である明が現れるとあります。
また、「エメラルドタブレット」を英訳したドリールは、「これを百回も読めば、少しは分かるようになる」と言いますが、それはやはり、通常の知で歯が立つものではないぞと言っているのだと思います。
しかし、荘子もドリールも、我々の内には、全てを理解する高度な知恵があることも暗示しています。
我々が、その知恵の本体そのものになるのは難しいのですが、錬金術や引き寄せの法則などの秘教的技術では、その知恵の本体とのチャンネルを開くことまでを目的とします。そうすれば、世俗で奇跡と言われる程度のことの達成は他愛もないことです。
究極の知恵を体現する聖者、ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシらは、自分達は全くの無欲で、人々にも欲望を捨てることを教えますが、時には願望を叶える方法を話すこともあります。ただ、願望を成就するには、不要な欲望を全て捨てなければならないことも確かなようです。

岸田秀さんの唯幻論が非常に興味深いながらも、殴りに行かなければならないほど嫌われることがあるのは、世界がただ幻であるということで終っているからでしょう。岸田さんは、ニーチェは頭が良過ぎて、幻の奥まで進もうとしたが、いくら賢くても、それは人の分を超えるので発狂したと言います。その通りですが、荘子やドリールの言うように、知を捨てることで、その奥にある高度な知恵に触れられるのかもしれません。


唯幻論物語
岸田秀さんの「唯幻論」の本は何十冊とあり、本来、代表的なものは最も最初の本である「ものぐさ精神分析」と思いますが、入門にはこれが良いかもしれません。私もこれを最初に読みました。
唯幻論というのは、大変に面白いことも確かです。岸田さんはとおに大学を定年退職しておられ、殴りには行けないと思います(笑)。

唯脳論
「バカの壁」などで有名な解剖学者の養老孟司さんの2003年のベストセラーで、養老さんの純粋な思想が感じられる本だと思います。

アイ・アム・ザット 私は在る
本文でも書きましたが、マハラジは庶民を理解する慈愛に満ちた聖者でもあり、至高の知恵を語りながらも、人生が本当は楽であることや、世界は自由に創れることも必要に応じて語ることがあります。
昨今の成功哲学の本質も知ることが出来るかもしれませんが、欲望を持って読むには勿体無いものであると思います。まあ、その判断はお任せしますが。

エメラルド・タブレット
2種類あると言われるエメラルドタブレットのうち、このアトランティス人トートが書き、ドリールの訳したものが純粋なものと言えると思います。
究極の知恵ですので、かなりの心構えを持って読む必要があるかもしれません。

荘子
「荘子」の翻訳も数多いのですが、これは初心者でも非常に読みやすく書かれています。
おそらく、荘子自ら書いたとされる内編と、外編、雑編の中で純粋な荘子の思想に符合すると考えられる重要なものを選んで、1冊にまとめてあるように思います。

共同幻想論
吉本隆明さんの歴史的と言える名著です。改訂して読みやすくしたとありますが、それでも、正直言って分かりやすいとは言い難いかもしれません。
先に、柳田国男さんの「遠野物語」と、「古事記」を読んでおくべきと思います。

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2010.01.26

安らかな超古代文明都市

形態波動エネルギー研究所のWebサイトに、1万年から10万年位前の超古代都市の絵が掲載してあります。
絵は、遺跡を見て描いたものではなく、一級建築士の栗田正樹さんが、心に自然に浮かんだ通りに描いたもののようです。
それらは、現在の地球よりはるかに進歩した文明都市ですが、土や岩や木と共存するとても安らかな風情を感じます。
まるで、中世のヨーロッパの田舎街のように思えなくもないくらいです。

これらの絵をリラックスして眺めるだけで、本質の意識と意思の過去の体験が呼び起こされるとあります。
栗田さんも、自分で見て不思議になつかしい風景だと言っておられますが、私も、強いノスタルジー(郷愁)と高揚感を感じます。

形態波動エネルギー研究所 古代都市の絵のページ

形態波動エネルギー研究所は足立育朗さんが設立したものです。
足立さんの本(2冊あります)は少し難しいのですが、妹の足立幸子さんの本は非常に分かりやすいです。

最近、ロンダ・バーンの「ザ・シークレット」を読んだきっかけで、その本で重要な扱いを受けている、チャールズ・ハアネルの「ザ・マスター・キー」を読みましたが、その素晴らしさに驚きました。
「ザ・シークレット」もこの本の知恵に多くを負っていると思いますが、現在知られる成功哲学の多くもそうなのではないかと思いました。
「ザ・マスター・キー」は決して難しい本ではありませんが、やはり非常に奥深い面もあります。
ところが、足立幸子さんの「あるがままに生きる」という本が、「ザ・マスター・キー」のとても易しい解説書みたいに感じました。これは驚きと共に楽しいことでした。
足立幸子さんは画家です。

「ザ・マスターキー」も「ザ・シークレット」も、トラインやワトルズの本も素晴らしいのですが、1つ残念に思っていたのが、食の慎みについてはっきり書かれていないことでした。
全く書かれていないわけではなく、どの本にも必ず少しは書かれてあり、やはり、人間にとって食は重要なことであることが分かりますが、もう少し詳しく書いても良いのにと思っていました。ただ、これらの本には、食品業界への配慮を感じるところもありました。
しかし、足立幸子さんの本には、食についてもはっきり書かれています。今後、人間はあまり食べなくても良くなる理由も書かれていますが、それと共に、良い食べ方も説明しています。
足立幸子さんは、お医者さんが沢山来られている講演会で「医者は不要になる」と堂々と言うような方ですので、包み隠しなく、分かりやすく書かれています。
それと、セックスに関する話も素晴らしいものでした。山田鷹夫さんという、全く食べずに生きているという人が、著書に「どんなセックスをしているか語れないやつを俺は信じない」と書かれていましたが、それなら足立幸子さんの話が最も良いと思いました。
尚、足立幸子さんは、この本が出る前に若くして亡くなられています。彼女は常日頃、地球での役割を終えたら、別の星で使命を果たしたいと語っていたようです。


あるがままに生きる
1994年出版の足立幸子さんの本を改訂し、2009年に再刊行したものです。コンパクトで非常にセンスの良い装丁の本で、足立さんの素晴らしいカラー画も掲載されています。

波動の法則
1995年に出版された足立育朗さんの本を改訂復刊したものです。

真 地球の歴史 波動の法則2
本文でご紹介しました、形態波動エネルギー研究所のサイトの絵は、この本に収められています。
1998年出版された本を改訂復刊したものです。

ザ・マスター・キー
1917年に出版され、長く発禁となりながらも読み継がれ、ディール・カーネギーやナポレオン・ヒルらに大きな影響を与えました。
「ザ・シークレット」で重要な扱いを受けていることから再び注目を集めましたが、私は、成功哲学では最上の書であると思います。

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2010.01.25

Windows再インストール実施

IT技術者というので勘違いされやすいものかもしれないが、私は決してパソコンマニアではなく、そんなにパソコンに詳しいわけでもない。とはいえ、ハードウェアやソフトウェアの基本的原理には通じているので、そりゃ、普通の人とは比較にならないかもしれないが、サポートセンターにでも聞くように、電話で、パソコンの設定や、エクセルなどアプリケーションの使い方を聞く相手としては全く適切でない。自分でなら、試行錯誤で解決できることでも、瞬間的な返答を期待されても困るし、調べて教えるのも面倒である。

最近、自宅で使っているパソコンがひどく遅くなり、DVDの再生ですらスムーズでなくなった。
動作が遅くなったパソコンといえば、普通はウイルスも疑わないといけないが、まあ今回はそうではなかった。そのあたりの対策はしっかりやっている。
時代と共にパソコンは急速に高性能化したが、ソフトウェアもその能力を目一杯使うようなものが出てくるので、相殺されてしまう。古いパソコンを使っている場合、インターネット経由で「最新のソフトウェアに更新しますか?」なんてメッセージが出て、調子に乗ってアップグレードすると悲惨なことになることもある。ソフトメーカーは、ユーザーが最新かそれに近いパソコンを使っていることが当然という前提であるのだ。それも、1つのソフトならともかく、沢山の(有名無名の)ソフトウェアメーカーが競って自社のソフトを押し付けるのだ。ちょっと古いパソコンになれば、健全さを保つというのは不可能かもしれない。

で、昨日、余分なアプリケーションをアンインストールしまくった。特に、アップル社のマルチメディア関係のソフトウェアは根こそぎ末梢した。
すると、後で調べたら、よくある話のようだが、CD/DVD-RWドライブが認識されなくなった。あるアップル社のソフトをインストールした時点でそうなる場合も多いようだが、私の場合は、アンインストール時にそうなったわけだ。
ドライバーソフトはちゃんとインストールされているのに、ドライブが認識されないという異常事態で、どうにもお手上げである。私がお手上げなら、普通の人なら、さらにそのはずだ。
私は、レジストリの書き換えという、素人は絶対やってはならないことを決行した。そうしたら、CD/DVD-RWドライブの認識は戻ったが、キーボードが認識されなくなった。実は、あまり慎重でなかったことを告白しよう。

最早仕方が無い。OS(Windows)の再インストールを実施することとした。
OSのインストールなんて、数年前にWindows Server 2003のインストールを仕事でやって以来だ。私はその方面の専門家でもないが、一通りは何でも出来る。
昔と比べれば、OSのインストールは随分自動化され簡単であるような気はするが、やはり一般の人には敷居が高いだろうと思う。それに、恐ろしく時間がかかる。

しかし、インストールしたアプリケーションはもちろん、ドライバソフトやOSに近い部分のユーティリティソフトまで残したまま再インストールできてしまうのには、正直驚いた。驚愕というよりは奇跡である。ただ、それも、技術者にして初めて感じることと思う。
サービスパックの導入が終わった頃は午前0時に達していたので、50以上あるWindowsの更新をスタートさせて寝たら、起きた時には無事完了していた。

大変な時間がかかったが、パソコンは素晴らしいスムーズさを取り戻した。今後は必要ない限り、余計なソフトの導入、更新はすまいと思った。


新・思考のための道具
1987年に書かれた古い本ですが、2006年に新訳が出ました。私は旧版を持っています。
コンピュータ社会と言われて久しいですが、コンピュータの本質を深く理解するにはお薦めです。それは、テクノロジの未来に立ち向かうのにも役に立つことと思います。
どんな分野にせよ、本質を知るには、歴史と、それを作った偉人・天才の考えに触れることが一番手っ取り早く、的確と思います。
技術的に難しいという類の本ではありません。

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2010.01.24

真に大切なものが必要なわけ

攻撃は最大の防御と言うが、本当だろうか?
また、米国第35代大統領J.F.ケネディは、大統領就任演説で、「軍備が十分であってこそ、それが使われることはないと確信する」と言ったが、それは本当だろうか?

老子には、意外にも軍備に関する話は多い。
「他国の十倍、百倍の軍事力があっても使ってはならない」とある(80章)。
ただ、使ってはならないが、持ってはならないとは書いていない。
「防衛を主眼とし、こちらから攻めてはいけない」と書かれているが、さりとて、「他国を軽視してもならない」とある(69章)。

ケネディは老子を引用したのではないかと思えるくらいである。
ただ、これらは古い知恵である。
老子は、ただ、当時の世相に合わせて教えたのだ。

1970年代の英国のテレビドラマのたった1つのセリフが、私の心の琴線に触れたことがある。私は小学生だったと思う。
世界的な007俳優になる直前のロジャー・ムーア演じる英国貴族が、家に伝わる格言であろうか、危機的状況でこう言う。
「攻撃こそ最大の防御なり。最大の攻撃は無抵抗なり。つまり、何もしないのが一番強いのさ」
これもまた、老荘思想の「無為の為」を思わせる。
「マスターの教え」という、成功哲学と言ってよいと思うが、著者不明の不思議な物語で、マスターと呼ばれる賢者がこう言う。
「抵抗すれば、相手に力を与える」

抵抗するとか、嫌うというのは、その対象を強く意識することである。
人は意識した相手に力を与えるというのは自然の理である。
真の無抵抗とは、意識を向けないことだ。
そして、大切な意識を、好ましいものに向け、それに力を与えれば良い。

自分が手向かいしていた者を相手にしなくなると、その者は、病気になったり、事故にあったり、場合によっては死んだりすることもある。
いじめというのは、いじめる相手の意識を自分に集め、エネルギーを奪おうとする無意識の行為だ。なぜそんなことをするかというと、いじめる者というのは、自分のエネルギーが枯渇しているのである。
弱い犬ほどよく吼えるとか、弱いものいじめをする者は本当は弱いというのは真実である。

国家間のことはやや複雑な事情を配慮しなければならないが、個人に関して言うなら、意識レベルでの無抵抗が無敵である。
そして、我々は他人からエネルギーを奪う必要はない。大切なものに意識を集めれば、エネルギーは無限に得られるのである。
だから、真に大切なものが無ければエネルギーが枯渇するのである。
家族や子供を大切に思うことですら、強い力が得られるのはそのためである。彼らは言う。「家族は私の命だ」と。命は真の自己である。そして、それと一致する家族に最大の力を向けるということは、真実の自己にいくらか近いものに意識を集中しているのである。
もっとも、その思いが純粋でないなら、トラブルが起こる。そして、世の中には、純粋な想いを利用しようとする者が多い。この世の不幸はこうして起こる。
ただ、真に大切なものを忘れなければ、不幸にはならないはずなのだ。


マスターの教え
世の中を動かし、望みを叶えるための力やエネルギーの使い方を実に分かりやすく説明する著者は、序文にもある通り、確かに賢い人物であるはずです。
しかも、易しく面白いお話として書かれているのは、著者の愛情ある配慮と善意を感じます。斎藤一人さんが自著で重要な部分を引用しているのを見たことがあります。

老子
私は、この、日本語も堪能な中国人の詩人、王明さんが訳した、一切の解説のない、詩で書かれた老子をとても気に入っています。
挿絵の水墨画も幽玄な雰囲気でいっぱいです。

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2010.01.23

偉大なる者

世界に不意に登場し、あっという間に最大の成功哲学の座に就いた印象もあるロンダ・バーン女史の「ザ・シークレット」ですが、私はようやく最近、3回熟読し、DVDも2度見ましたが、素晴らしいものであると思います。
話題のものであれば、当然、批判や懸念も多く、その中には善意ある鋭い指摘や、深い洞察もあると思いますが、それはそれで肯定的に使わせていただけば良いと思います。

「ザ・シークレット」が、そのエッセンスを多く取り入れている原典と言われるのが、ウォレス・ワトルズの「お金持ちになる科学」(邦訳は『富を「引き寄せる」科学的法則』他数冊)と、チャールズ・ハアネルの「ザ・マスター・キー」(原題:ザ・マスター・キー・システム)です。
いずれも、百年近いロングセラーを続ける名著で、確かにその主張に共通点が多く、ロンダ・バーンの言う通り、それがシークレットであるということなのかもしれません。

ところで、「ザ・シークレット」には引用されておりませんが、やはり成功哲学の歴史的名著で、ワトルズやハアネルの著作よりさらに前に、ラルフ・ウォルドー・トラインがわずか30歳で書いた「神と調和して」(原題:In Tune with the Infinite 邦訳は『人生の扉をひらく「万能の鍵」』他)があります。

まとめると、

「神と調和して」ラルフ・ウォルドー・トライン(1897)
「お金持ちになる科学」ウォレス・デロイーズ・ワトルズ(1910)
「ザ・マスター・キー」チャールズ・フランシス・ハアネル(1917)

となります。この3冊の至高の知恵の書が、10年の間に書かれたことは実に興味深いことです。

ところで、この3人の著者すら、畏敬の念を抱いていたと思われる思想家が、アメリカのラルフ・ウォルドー・エマーソンです。エマーソンは、「ザ・シークレット」でも何度か引用されていますが、その原典著作家達自体が、その最高の著書の中で何度も引用する驚愕の賢者です。
ワトルズは、エマーソンを研究したことを序文で明かしていますし、トラインにいたっては、ペンネームをエマーソンと同じラルフ・ウォルドーにしたほどですが、それは尊敬のあまりのことと思われ、著書の中でもエマーソンに最大の敬意を表しています。

また、ジョセフ・マーフィーやクラウド・ブリステルらも、彼らの世界的著作で何度もエマーソンの言葉を引用しています。
まさに、エマーソンこそ、成功哲学、あるいは、シークレットの源流と言えるほどの偉大な賢者ではないかと思います。

ところで、そのエマーソンが、人類史上の偉人・天才を6人取り上げています。それは、

プラトン
スウェーデンボルグ
モンテーニュ
シェイクスピア
ナポレオン
ゲーテ

です。
この中で、一般的にはあまり知られていないと思われるのがスウェーデンボルグです。
しかし、エマーソンがスウェーデンボルグを賞賛する言葉はとてつもないもので、エマーソンはスウェーデンボルグこそ、人類史上最大の知恵の持ち主と考えていたように感じます。

このスウェーデンボルグが、英国に滞在していた時のこと(57歳くらいの時のことと思います)、行きつけの店で夕食(昼食とする翻訳もある)を食べていたのですが、ちょっと食べ過ぎたと思いました。
その時、不思議な人物(翻訳によって、天使、あるいは、「神あるいは自分の中の霊かもしれない」と書かれている)が現れ、過食を戒めました。
以降、スウェーデンボルグは食を慎むようになったと日記に書いています。
スウェーデンボルグは、食を慎むことで浄化されたと明言し、いよいよ、霊界に参入する扉が開かれたのだと思われます。
この話から、食の慎みが人におよぼす影響の大きさを思わずにはいられません。また、これほどの人物が、老齢に近くなってもつい過食するのですから、食の欲望とは大きなものであると思い知ると同時に、我々でも、食を慎みさえすれば、大きな進歩向上が得られるという希望を感じます。


天界と地獄―ラテン語原典訳
スウェーデンボルグの代表的著作の1つで、数多くの翻訳が出ていますが、ラテン語原典から訳された貴重なものです。

自己信頼
1841に出版された『エッセイズ 第1集』に収められたエマーソンのエッセイ「自己信頼」の新訳(2009年)です。現代的な言葉遣いで非常に分かりやすく訳されており、エマーソンの偉大な知恵に親しむ良い機会を得られるでしょう。

人生の扉をひらく「万能の鍵」
百年をはるかに超えて世界中で読み継がれる名著です。フォード自動車創業者のヘンリー・フォードは高度な理念を持った偉大な企業家でしたが、彼は、この本が自分の成功の秘訣と言い、親しい人達に無償で配布したと言われます。

富を「引き寄せる」科学的法則
本書も、数多くの翻訳が出ていますが、それは成功哲学書では非常に異例なことと思います。
著者ワトルズの、「富を得るということに関して、この本以上のものは現在はなく、他の本は一切読んではいけない」という驚くべき警告は、揺るぎない自信と同時に愛情ある善意を感じます。

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2010.01.22

考え続ける力

最近、このブログでもよく話題にする、ロンダ・バーン女史の「ザ・シークレット」には、良い気持ちでいると良い波動を宇宙に放射し、良い出来事を引き寄せるとあります。
このことについて少し考えてみましょう。

ロックを聴いていれば良い気持ちだという若者は多いと思います。
だからといって、ずっとロックを聴いていても、それで豊かになることはありませんし、何か良い事が起こるとも思えません。
ところが、同じくロックに熱中する若者の中に、自ら偉大なミュージシャンになる者もいます。
この違いは何でしょうか?

私が尊敬するジャイアント馬場さんの本を読んでいて、良いヒントがありました。
ジャイアント馬場さんが、最高のプロレスラーだと言ったのは、バディ・ロジャースというアメリカ人レスラーでした。背は高くありませんでしたが(180cm)、素晴らしい肉体美な上、ニヒルな雰囲気の金髪のイケメンで、女性ファンに対する演出にも力を入れました。その成果があって、当時はまだ少なかった女性ファンを激増させ、男性ファンの支持も高かったので素晴らしい集客力を誇りました。
重要なのは、馬場さんはロジャースを、「最高のプロレスラー」とは言いましたが、「最強のプロレスラー」とは言っていないことです。
実力的にも、ロジャースは、当時世界最高峰と言われたNWA世界ヘビーチャンピオンに、実力者パット・オコーナーを破ってなったのですから、間違いなく強かったのでしょうが、強いだけなら、もっと上が沢山いたと思います。(オコーナーがロジャースに敗れたのは事故みたいなところもありました。ただ、曲がりなりにも、その後も長期間王座を防衛し続けました。)
ではなぜ、バディ・ロジャースは最高なのでしょう?
馬場さんは、「彼はいつも考えていた」と言います。
プロレスラーは、試合会場のある都市へ移動する電車やバスの中では、ほとんどが、仲間同士でお喋りしたり、酒を飲んだり、トランプでゲームをしたり、あるいは、眠ったりしていますが、ロジャースはいつも一人で一生懸命考えていたと言います。それはほとんどが試合のことのようでした。馬場さんはロジャースにそのことを聞いてみたのかもしれません。そんなロジャースのことが気になるのも馬場さんの素晴らしいところだと思います。
ロジャースが考えていたのは、試合に勝つための作戦はもちろんですが、どんな試合展開にすれば客が喜ぶだろうかとかも熱心に考えていたようです。馬場さんも、後にプロレス団体の経営者になってからは、ファンを責任を持って満足させないといけなくなりましたので、1人の選手としてそんなことを一生懸命考えていたロジャースに感心したのかもしれません。
馬場さんは、「いつも考えているやつと、そうでないやつでは、そりゃ、差がついてくる」と言います。
ロジャースはとりとめのないことを考えていたのではありません。建設的、創造的なことを考えていたのです。

普通の人は、頭を使って考えることが嫌いです。毎日同じことをやって、ただ反応するだけで生きたいものです。それがある意味、人間の性行です。
しかし、ロックを聴いて喜んでいるだけの者と、同じロックを聴いても何か考えている者ではやはり違ってくるのです。

コリン・ウィルソンは、どうすれば人々が生き生きと情熱的に生きられるのか?惨めな気分を打ち破り、人生を素晴らしいものだと感動しながら生きられるのかと、そればかりを考え続けました。おそらく、10代の頃からです。
それで、23歳の時、「アウトサイダー」を書き、一夜にして世界的作家になりました。
世界的心理学者アブラハム・マズローとも親交が生まれ(マズローがウィルソンの著作を読み、手紙を送ってきた)、大学のマズローの教室で講義し(ウィルソンは15歳で学校をやめています)、自分の目標を大きく前進させました。
このように、何かで成功した人というのは、きっと、自分が使命感を持てる何かについて、そのことばかりを考えているはずです。
イチローなど、ほとんど野球のことばかり考えているに違いありません。

建設的、創造的に考え続けることができるかどうかが重要なのではと思います。


超越意識の探求―自己実現のための意識獲得法
「アウトサイダー」を書いた23歳の時から、70歳を過ぎてこの本を書いた時も、ウィルソンの志は変わらず、人々が真の意識に目覚め、内奥のエネルギーを汲み出し、活発で刺激的な人生を獲得して欲しい・・・そのための、天才ウィルソンが生涯を賭けた研究の集大成とも言えます。私などは、あとがきを読んだだけで、痺れるほど感動しました。

賢者の石
小説にすることで、ウィルソンの自由な発想が最大に活きた作品と思います。老婆のようだった女性が、ある処置を施すことで輝くような美女に生まれ変わるのは、別にこのお話にある乱暴な方法を用いるまでもなく可能なことであり、それが、本書の、そして、ウィルソンの目指す真のテーマであると感じました。また、小説としての面白さも抜群と思います。

ザ・マスター・キー
「考える」ことの価値をこれほど鮮烈に説いた本は見たことがありません。
もしかしたら、ビル・ゲイツは本当に本書をバイブルにしていたのかもしれないと思いました。
「ザ・シークレット」でも、特に重要に扱われていた人類の至宝とも言える、1917年出版のチャールズ・ハアネルの書。

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2010.01.21

若さとは何か?

昨日、人間には甘い食べ物が必要で、岡本太郎の話から、特に若いうちは多く必要なのではないかと書いた。
ところで、「若い」とは何であろうか?
おそらく、最も正しい答は、「自分は若いと思っていること」となるのだろうと思う。
「ザ・シークレット」の中にあるが、著者ロンダ・バーンが、3日で老眼を治してしまったのも、自分は若いと思い始めたからのようだ(本人は1日で治ると思っていたので、3日かかったのは不満だったようだ)。
尚、私は、0.1もなかった近視を1.2にし、眼鏡が不要になった。もちろん、何の医学的治療も視力回復トレーニングもしていない。

さて、では、どんな人が自分は若いと思っていることになるのだろうか?
それは、勇気があることだと思う。
そして、勇気があるとは、リスクを恐れないということだ。
アメリカの作家マイク・ハーナッキーは、人に「作家ですか?うらやましいですね。私も作家になることが夢でした」と言われたら、必ず、「ではあなたもなればいい」と返すそうだ。しかし、「はい、ではそうします」と答える人はほとんどいないようだ。
しかし、ハーナッキーは、安定した仕事(弁護士事務所の弁護士)を突然やめて、何のあてもなく作家になったのだった。
ハーナッキーは年齢的には若くなかったが、リスクを恐れない勇気があった。それは若さを感じることだ。

逆に、年齢は若くても、勇気のない、実質的な年寄りが多くはないだろうか?
常識的に言っても、ある程度の思慮は必要だろうが、若い間は失敗しても失うものが少ない。その意味でも勇気を持ちやすく、やはり、若さと勇気は結びつきやすい。
「欲しがる」のはまだ良いが「失うのを恐がる」どうしようもなく年寄り臭い「若者」だらけのような気がしてならない。

「シークレット」の主張とも一致すると思うが、バシャール(ダリル・アンカをチャネラーとして顕現するエササニ星人)も、「やりたいことをやれば、宇宙がサポートしてくれる」と言うが、年を取れば、そんなファンタジーを信じなくなるし、社会的責任からもリスクをためらうこととなるだろう。
ところで、ハーナッキーに勇気を持たせたのは、「秘訣」だった。ロンダ・バーンの「シークレット(秘密)」と異なるのは、ハーナッキーは自分独自に発見したのであり、極めて短い言葉で言い現せるものだ。
「秘訣」や「シークレット」を知っていれば、結果は最初から分かっているので勇気が持てる。
要は、「秘訣」や「シークレット」を信じられるかどうかだ。
では最後に、信念と妄信の違いを示す話をする。
経営破綻した日本航空のCEO(最高経営責任者)に京セラ名誉会長の稲盛和夫氏が就任するらしい。77歳の稲盛氏に期待できるかどうかの話は置いておくが、彼が京セラの社長だった時、ヤシカという名門企業を買収したことがあった。その時、彼が考え続けたのは、「私心無きか?」だった。私心が無いことが明らかになった時、その買収は正解と確信したので、彼に躊躇いは無かった。そして、両社にとって良い結果をもたらした。
何を望んでも良いが、稲盛氏ほどでなくても、私心だけの望みであるなら、やめておいた方が良いだろう。

マイク・ハーナッキーの「究極の秘訣」はこちらからどうぞ。古書しかないが、その分、安い。

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2010.01.20

人間には甘いものが必要だ

甘いものが嫌いという人が本当にいるのかどうかは分からないが、全く甘いものを食べないということは無いと思う。
人間には、糖分というものは必要なようだ。
岡本太郎は、パリ留学から帰国した30歳位の時に徴兵され、二等兵(最下級の兵隊)として、18~19歳の若者の中に入れられて中国大陸に派遣された。その時、上官には散々に虐められたが、若い兵隊達の間では人気があったという。その理由の1つに、軍隊では、時々、大福やヨウカンといった甘いものが支給されるのだが、岡本太郎は「俺は若いやつらほど欲しくないから」と言って、自分の分を分けてやっていたらしい。
物資に乏しかった日本の軍隊でも、甘いものが支給されるということは、やはり人間には甘いものが必要であると感じさせられる。そして、岡本太郎の話からは、甘いものは、特に若い人に必要なものであるということになる。

尚、私は服役したことがあるわけではないが、刑務所でも定期的に甘いものが支給されるらしい。やはり大福とかが多いようだ。
ところで、刑務所というところは、決して食事の支給が少ないわけではない。戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が服役していた時の日記が公開されているが、食事が多過ぎて食べるのが大変だったと書かれている。私は以前、自衛隊に体験入隊した時、自衛隊の食事のカロリーは非常に多いのだが、刑務所はもっと多いと聞いた。その刑務所でも、甘いものを支給するのだ。何かの本で読んだが、刑務所の看守が囚人虐めをする時、最も効果的なのが、この甘いものを取り上げることで、どんな囚人も参ってしまうようだ。つくづく、人間には甘いものが必要だと感じさせられる。

私は、一昨年の8月に、1日1食のベジタリアンになると同時に、一切の間食もやめたのだが、たまに金時豆のような甘いものを少し食べると、全身が振動するような感覚を感じた。それは、後で考えれば、甘いものに対する過度の渇望であったのだと思う。また、やはり後で考えると、頭がぼうっとしたりめまいを感じたりもしたが、それも甘いものを全く摂取しなかった影響かもしれない。
脳というのは、糖分(正確にはブドウ糖)のみをエネルギーに使用し、しかも、かなり大量のエネルギーを必要とするらしい。血液中の糖分が足りないと、身体のたんぱく質を分解して糖分を作ってエネルギーを作るようだ。だから、あまりに糖分を取らないと、必要な筋肉まで無くなり、いわゆるガリガリになる。
「ほとんど食べずに生きる人」(柴田年彦著)を読むと、柴田氏は、やはり糖分の不足が脳に悪いことを配慮し、最初は角砂糖を持ち歩いて食べていたそうだが、砂糖はあまりに吸収が速いという理由から、バナナに替えたとあった。
尚、白砂糖を目の敵にする人がよくいるが、私は白砂糖が悪いものであるとは思わない。単に過剰に摂取すれば悪いということであり、それはどんな食物でも同じと思う。
私は、お正月だけは、ヨウカンを食べて良いこととしたが、1年振りにヨウカンを食べると、驚くほど心が落ち着き、本当にほっとした。それで、やはり少しは甘いものも食べた方が良いのだと思った。
血糖値が低いのは朝らしいが、低い時に甘いものを摂るのはあまり良くないという話もある。しかし、それもやはり量の問題であろう。私は、朝に少し甘いものを摂ることにしたが、やはり体調がよくなった。まあ、せいぜいがココアかヨウカン、あるいは、ピーナッツバターみたいなものである。ケーキやチョコレートといったものは、大好物だが、今のところ、一生食べないつもりだ。と言っていたら、近く、友人のお誕生日を数人で祝うことになったので、その時は良いとする。ビストロを予約し、ケーキをホール(まるごと)で注文した。もちろん、天下御免で食べまくるつもりはない。

しかし、やはり、大人であれば、甘いものはそんなに必要ないはずだ。
食べるのは、決まった時間に決まった量と厳格に決めた方が良い。その訳は、今は甘いものはどこでも豊富に販売されており、非常に美味しそうなものが多いので、自己制約を強く定めないと、つい過剰に食べてしまうに違いないからだ。特に、私のように本質的に甘いものが好きな人は気を付けないといけない。
もちろん、飲み物やキャンディーくらいなら少しなら余分に摂っても構わないと思う。しかし、ところかまわずおやつを食べている人をよく見るが、あらゆる意味でやめた方が良いと思う。


自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか
好評の岡本太郎の痛快な人生論です。
生涯独身だった岡本太郎ですが、パリでは背の低い日本人の彼が、世界中の美女、美少女と次々に同棲しました。しかし、太郎は女性達の名前を憶えないことで有名でした(それだけ数が多かったということか)。
岡本太郎は、決して自分を特別と思ってはおらず、誰でも、心の持ち方で自分のように楽しくアクティブに生きられることを強調します。確かに、読んでいて、悩みが吹き飛び、元気が出るところから、それは本当に違いないと感じます。

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2010.01.19

「ザ・マスター・キー」を読む

世界一のお金持ちである、マイクロソフト社の創業者で会長のビル・ゲイツについて、誰でも名前くらいは知っていると思う。
1980年頃には、アメリカの主要なPCが、マイクロソフトのBASIC言語を標準的に搭載しており、当時20代半ばのゲイツは既に世界的に有名で大金持ちだった。

ゲイツは若い頃は激情家と言われていた。
20歳位の時、初めてBASICを提供することになったMITS社の海軍上がりの超巨漢エド・ロバーツ社長とも、喧嘩としか見えない激論をよくしたようだ。。ゲイツは細身な上、少年にしか見えない程の童顔だった。
マイクロソフトは急成長していったが、ゲイツは社員を面前で、あるいは電話で怒鳴りまくった。後に電子メールが普及すると、毎日大量に送られた「ゲイツメイル」は社員達の恐怖だった。
マイクロソフトを訪れた日本の大企業の幹部は、「マイクロソフトでは1日中、ゲイツに怒鳴られていたよ。私は客だったのだが・・・」と言っていたという話もある。

ある時、取材でゲイツにそういったことについて尋ねられた。
ゲイツは、「そんなに怒鳴ったりしない。ただ、“Let's think harder”(もっとよく考えよう)と言うことはあるよ」と言った。

ところで最近、私は、チャールズ・ハアネルの「ザ・マスター・キー」という本(原題「ザ・マスター・キー・システム」)を読んだが、その本に、ビル・ゲイツがハーバード大学時代(ゲイツは早々に中退した)、図書館でこの本を読み、大きな影響を受けて起業を決意したと書かれていた。ただ、これは「噂話」と断ってある。
しかし、この本を読み、私は、それは本当だと思った。もちろん、これもただの推測である。
この本を読みながら、ゲイツの“Let's think harder”を思い出したのだ。
「ザ・マスター・キー」は、1917年に書かれて大ベストセラーになったが、キリスト教会の教えに反していたため発禁となったらしい。
だが、ディール・カーネギーやナポレオン・ヒルも熱心に学んだと言われ、ロンダ・バーンの大ベストセラー「ザ・シークレット」では、特に重要な扱いで何度も引用されている。
基本的には、「ザ・シークレット」の主張に近いものと思うが、その論理性や緻密さ、思考の重要さを訴える姿勢は、権威ある教師、あるいは、グルの態度とも感じた。
ゲイツは、この本の「よく考えろ」「正確に考えろ」「深く考えろ」「あらゆる面を考えろ」「細かな点まで考えろ」という指示をよく守り、何事も曖昧にせず、鋭く完全に考えていたか、あるいは、それが元々のゲイツの性向であり、ハアネルの本に引き込まれたのではないかと思った。

ただ、「ザ・マスター・キー」は、それほど堅苦しい本でもない。
また、それほど難しいわけではない。そして、理を重んじてはいても、なにか親愛の情すら感じるのだ。
「考えろ」という指示に関しても、普通の人があまりにものを考えない傾向があることから、注意を喚起しているだけのことのようにも思う。
そして、読んでいて、私は何度も「やられた」と思った。
真理を分かりやすい言葉でシンプルに表現するところは、著者ハアネルが「よく考える」人物であることを証明している。
「ザ・マスター・キー」は、元々は書籍ではなく、24週で学ぶ通信講座だったようだ。
24章から成っており、1章を1週間繰り返して読むよう指示されている。1つ1つの章は、序文と、30程度の独立した短い文章が記載されており、非常に読みやすい。その1つ1つの文章が珠玉の教えなのである。

「ザ・シークレット」はそれだけで不足のないものであり、あることについて、「本書から学んだことがこの1つだけであっても良い」とすら書かれている。しかし一方で、ロンダ・バーンは「賢者から学べ」とも書いている。
ロンダ・バーン自身も、数多くの優れた本や人から学び、量子論も深く学んだと書いていたが、確かにその通りと思う。彼女自身、素晴らしい知恵を得ていることは間違いない。
では、「ザ・マスター・キー」であるが、出来れば読んだ方が良いと思う。宇宙の真理をより深く正確に理解できると思うし、それはプラスになるだろう。ただし、やはり深い教えであるので、誤解や曲解があってもならない。本の最初に、誤解は損失をもたらす可能性があるから、きちんと1章に1週間をかけろと指示されている。
世界的な自己啓発プログラムの中には、このように、1章を1週間程度繰り返して読む、あるいは、聞くというものは少なくない。書籍でも、オグ・マンディーノの「地上最強の商人」はその形態である。
ただ、このやり方は、著者の教えを完全に承認し、全く疑うことなく、自分の頭の中に刷り込むことを意味する。いわば、洗脳と言っても間違いではない。
私は、「ザ・マスター・キー」は素晴らしいと認めながらも、そのようなことは好ましいとは思わないので、ただ、最高の知恵の書として、最初から終わりまで順に読み進めた。


ザ・マスター・キー
本文で紹介しました、チャールズ・ハアネルの「ザ・マスター・キー」です。
本物の真理とは、「懐かしい」感じがするものです。なぜなら、我々の本質は既に真理を知っているからです。聖典やインドの聖者の教え同様、とても懐かしく感じる貴い教えを、現代的に学べる大変に有難いものと私は思います。その上、物質的な利益をも無限に保証しています。
ビル・ゲイツが本当に本書を読んだかどうかは知りませんが、ゲイツオタクの私から見ても、彼の思考性質と符合しているように感じます。

ザ・シークレット
紹介するまでもない世界的ベストセラー。シークレットを、これほど分かりやすく、また、親しみやすく書いた本はこれまでなかったことも、本書の成功の要因の1つと思います。

富を「引き寄せる」科学的法則
上記の「ザ・マスター・キー」と並び、「ザ・シークレット」で特に重要な扱いを受けている本です。
ジョセフ・マーフィーの本の中にも、本書の一部がそっくり引用されており、その影響力を感じます。ロンダ・バーンが、「ザ・シークレット」の映画を製作するきっかけになった本とも言われています。

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2010.01.18

結婚活動の真の意味

結婚するために必要な行動を結婚活動、略して婚活と言うらしいが、結婚活動に意味があるのだろうか?

女性には、結婚する気もないのに、しょっちゅうプロポーズされる人もいれば、プロポーズされたくて涙ぐましいまでの努力をしても全く駄目な人もいる。
男性も同様で、金も手間もかけて女性にアプローチしてもさっぱり駄目な人もいれば、じっとしていても女性が次々に寄って来て、女性達が彼とのデートの順番待ちをしたり、取り合いになったりするような人も実際にいる。

結婚活動などで良い結果が出ることは、まあ、あるとは思えない。

単純に言えば、早い話、世話をするのが好きな人は結婚できているが、世話をされるのが好きな人は結婚していない。
世話をするのが嫌いな人がいくら結婚活動をしても結婚できるはずがないし、間違って結婚したら必ず不幸になる。本人も相手もね。
現在の日本で、結婚する人が少なくなってきているのは、人の世話を焼くのが嫌いな人が増え、逆に、一方的に世話を焼いてもらいたがる人が増えているだけのことなのだ。男性には、一昔前からその傾向が多かったので、結果として、女性は自分の意思で結婚しない場合が多かったが、男性の場合は、あきらかに「結婚できない」男性が増え続けていた。しかし、今や、女性も「結婚できない女性」が大勢となり、そんな影響で婚活なんて言葉が出来たのだろう。

ところで、本当は、そもそも人間は結婚する必要はない。
結婚しないと不都合に感じるのは、それが社会の、つまり、国家や大企業といった支配者達の策略だからだ。
社会が、あなたを都合の良い奴隷状態にするためには、庶民同士で結婚させれば良いだけである。
社会の良い奴隷になりたければ、結婚すれば良いのである。
実は、今後は、婚活が実を結ぶように思えることが多くなり、結婚は容易になる。支配者達は奴隷を必要としている。
もともとが、社会は人々の結婚を推し進める性質があった。「結婚しないと一人前でない」、「結婚は素晴らしいことだ」、「結婚してこそ人生や世界が分かる」といった大嘘を宣伝し、人々に信じ込ませ、結婚しないと不安を感じさせるよう仕向けてきたのだ。
しかし、あまりに自己中心的な人間が多くなったことで、そういった策略や洗脳の効果が無くなってきたのだ。
その中で、婚活なんて言葉まで流行らせて、無理に人々を結婚させようとしているのは、実は国家や大企業といった支配者達なのである。
日本のマスコミは国家や大企業の下僕であるので、そういった策略はほぼ成功する。日本人が特に付和雷同(盲従)しやすいのではなく、日本は昔からマスコミによる洗脳社会なのである。

また、法律的にも、日本は結婚しないと、特に子供の養育の点で極めて不利、いや、それどころではない過酷なこととなる。
国民の幸福を考える国では、結婚していなくても子供の養育が容易で、シングルマザーでも不安は少ない。
日本国家は、少なくともこれまでは国民の幸福など全く考慮になかったので、結果として、経済等の問題ではなく、国民の質が悲惨なまでに低下してしまった。国民が国家に頼らず、本当の幸福に対して目覚めなければ、日本に未来はない。婚活なんてものに踊らされている場合ではない。

サルトルは言った。「男は結婚すべきでない」
言うまでも無く、結婚で創造に必要なものの大半を失うからだ。

バーナード・ショーにある人が尋ねた。
「先生、金曜日に結婚すると不幸になるというのは本当ですか?」
「もちろんだとも。金曜日だけが例外であるはずがない!」

サルトルやショーは、歪んだ部分もあったが、真理に対する洞察や直観的感覚においては超天才であった。

嘔吐
サルトル
思想の達し得る限り
原名 メトセラ時代に帰れ
ショウ
アウトサイダー
ウィルソン

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2010.01.17

機械のハート

古くから、人々は、機械に心があるという想いから逃れることができない。

小説の世界で、最も早くロボットを登場させたアイザック・アシモフの「われはロボット(アイ ロボット) 」(1950年)という世界的に有名な作品は、現在でも全く価値を失わず、出版され続けている。
この小説で、ロビィという名の家庭用ロボットは、購入された家の幼い娘の世話をずっとしていて、娘はロビィにすっかりなついていたのだが、ある日、ロビィは捨てられる。その後、その娘がある工場の見学に連れてこられるのだが、そこで事故が発生し、娘に危機が迫る。その時、飛び出してきて我が身を犠牲にして娘を守ったのは、労働用ロボットとしてその工場で稼動していたロビィだった。ただ、それが、ロボットの制御メカニズムのためなのか、ロビィの心によるものかははっきりしないよう書かれている。
このロビィは、小説の中でも伝説的なロボットになっていたが、現実世界でもロビィは歴史的な存在であり、その後のSF映画やSFドラマに登場するロボットの原型となり、ズバリ、ロビィという名前がそのまま使われることもあった。ロビィこそ特にアメリカではロボットの代名詞であった。

2001年版のアニメ「サイボーグ009」で、サイボーグ(本作では、人間を機械化した戦士)の004(アルベルト・ハインリヒ)と009(島村ジョー)がこんな会話をする。
「機械が裏切ることがあることは、身体の半分以上が機械の俺達が一番よく知っているじゃないか?」
「だけど004・・・。その『裏切る』って言い方は、機械を人間扱いしていることにならないか?」
「そうなんだ。いまいましいことに、この機械の身体が期待以上の働きをしてくれた時は、『なんて素晴らしいやつなんだ』って、思わず感情移入しちまうのさ」

町の廃棄物回収場で、小さな女の子が泣いている。
何年も家にあったパソコンが古くなって廃棄することになったのだが、そのパソコンとの別れが辛くて、その前で泣いているのだ。
その時、このパソコンが反応を示す。
「この子は、なぜ泣いているのだろう。私は古くなったから、捨てられるのは当然だ。しかし、この子はなぜ・・・・」
この女の子が14歳になる頃には、コンピュータネットワークが発達したが、ネットワーク内に奇怪な現象が発生しはじめる。そして、それは現実世界にも影響が現れ、なぜか、彼女の大切なものが次々にネットワークを支配するコンピュータによって奪われていく。彼女が心を寄せる、隣の家の男子大学生もまた、ネットワークに取り込まれ、消滅した。
それらは、かつて、彼女の家から廃棄されたあのパソコンの精神が起こしたことだった。このパソコンは、あの時の彼女の涙の意味が知りたくて、彼女の大切なものを奪い続けたのだった。
~「コレクター・ユイ」原作:麻宮騎亜、漫画:岡本慶子~

映画「マニトウ」(1978年)で、アメリカ人の若い女性に、悪霊がとりつく。彼女の恋人は悪霊に対抗するため、インディアンのシャーマンに協力を求めた。
シャーマンは「霊(マニトウ)はあらゆるものに宿っている」と言う。
彼女にとりついた悪霊は強力で、危機的状況となった時、彼女の恋人はシャーマンに尋ねた。
「コンピュータにもマニトウがあるのか?」
シャーマンは「当然だ」と答える。彼らは、コンピュータのマニトウを味方にすることで悪霊を倒す。

1963年に連載が開始された「エイトマン」(原作:平井和正、漫画:桑田次郎)の正統な続編である、2004年連載開始の「8マンインフィニティ」(原作:七月鏡一、漫画:鷹氏隆之)で、とある科学研究所の人工知性体アンナが、人間の感情に興味を示すようになった。
このアンナと交渉し、彼女に人間の感情の秘密を解明させるよう動かしたのは、その時には情報体としてコンピュータネットワーク内に存在していた、かつての8マン、東八郎だった。
アンナは、自分を手近にあったマシナリー(高性能アンドロイド)の電子頭脳にダウンロードし、研究所から新型8マンである8th(エイス)を盗み出して逃亡する。最高性能の8thに、最高の人間の意志を宿らせ、データを取ろうとしたのだった。
優秀なアンナは追撃を巧妙にかわして逃亡するが、敵も無能ではなかった。アンナのミスを誘い、アンナは感電して短時間の稼動停止状態となった。アンナは駅のプラットホームから転落し、そこに電車が来る。アンナは冷静に、計画の失敗を意味する自己の消滅を認識した。しかし、この時、予測不能なことが起こる。1人の少年が、線路に飛び降り、少女の姿のアンナを救おうとした。もう間に合わないことは少年にも分かっていたはずだった。アンナは救出されるが少年は重傷を負い、搬送された病院で死亡する。
東八郎は、この少年の意志を8thの量子脳に移すことを提案する。しかし、少年はアンナが実験体として予定していた最高レベルの天才ではなく、平凡な人間だった。しかし、アンナは、この少年が我が身を犠牲にして(見も知らぬ)自分を救ったことが理解できず、その謎を解明したかった。東八郎は判断をアンナに委ね、結局、アンナは少年の意志を8thの量子脳に転送し、少年は恐るべき性能を秘めたマシナリー、8マン・ネオとして復活する。
この少年の意志は、アンナにも、これらのマシナリーに関係する特別な立場の者達にも不可思議であり、超エリート達の彼らには理解できない出来事が起こり始める。


これらの話が、単なる作り話であるなら、心に感慨や感動を起こしたりはない。
人間の心は、我々が思っているより偉大なのだ。
科学技術がいかに進歩しても、そのようなものは我々の真の存在に比べれば何でもないものだ。科学技術や物質文明に価値が無いというわけではないが、単に二義的(二次的)なものに過ぎないのだ。
エマーソンも言った。「我々の内にあるものに比べれば、外にあるものなど取るに足りない」と。

機械に心があるのだろうか?
答はわりと簡単である。あると思えば当然ある。機械に限らず、人形、芸術作品にも心がある。
もちろん、まず、心とは何かを定義しなければ正確な話とはならないが、それもまた、それぞれの人が心というものをどう考えるかにより、その考えた通りの心が宿るのである。
そして、その宿った心は現実的な働きをする。悪霊だって存在する。

「天使も悪魔も、人の心の中にしか存在できないのよ」
~アニメ「ぴたテン」(原作:コゲどんぼ)、天使の早紗(さしゃ)の言葉~

イツァク・ベントフの「ベントフ氏の超意識の物理学入門」に、岩や木に精神が宿る仕組みが説明されているが、それは量子論と同じ思想である。

それらが、「ちょびっツ」(CLAMP著)の中にうまく説明されている。
人型パソコン(アンドロイドと同じと思って良い)のちぃは、人間の秀樹を愛するようになり、秀樹もちぃを愛していた。
かつて、愛する苦しみに耐えられずに消えたちぃの姉フレイヤが、ちぃに顕現した時、秀樹はフレイヤに尋ねる。
「ちぃに心はあるのか?」
だが、フレイヤは冷たく言う。
「いいえ。ちぃは、ただプログラムされた通りに動いているに過ぎません」
秀樹は一瞬とまどうが、確信を持って言う。
「ちぃの心は俺の中にある」
これは、センチメンタリズム(感傷主義)ではない。単なる事実である。
そして、心は個人的なものとしても現れるが、本来普遍的で大きさのないものであり、宇宙全てを覆おうとも言えるものである。

それを知った上で、「われはロボット」をはじめ、上記の作品を読めば、作者の「心」が我々の中にあることも分かるだろう。


われはロボット 〔決定版〕 アシモフのロボット傑作集
アシモフは1920年生まれのロシア系ユダヤ人で、化学博士号を持つ生化学者でもあります。
アシモフのロボット三原則はあまりに有名ですが、それもこの作品から始まっています。
英国のSF作家H.G.ウェルズ(1866年生)も、科学者で通用するほどの学識を有したと言われますが、共に、その作品はSFというジャンルを超えて、偉大な文学作品であると思います。

ベントフ氏の超意識の物理学入門
天才的な医療エンジニアのイツァク・ベントフが、この世の真実の姿を科学的に解明する。ただ、上のアシモフ博士らと違い、ベントフの学歴は幼稚園中退である(!)。よって、数式など分からなくても問題はない。ただ、感性が無いとさっぱり分からないかもしれない。


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2010.01.16

正月気分でずっと過ごす

「正月気分」という言葉がありますね。
これは、比較的、悪い意味で使われることが多いのではないかと思います。
しかし、なぜ正月気分が悪いのか、全く疑問です。

正月気分とは、楽しい気分であるはずです。
ご馳走を食べ、酒を飲み、家族が集まり、普段は離れている兄弟姉妹が顔を合わせて楽しく過ごす。
いつもこんな気分で過ごせるなら素晴らしいことであると思います。

あるいは、「クリスマス気分」とかでも良いでしょう。
お正月やクリスマスは、ゴールデンウィークなどの、単なる連休とは異なり、特別な意味を感じる分、さらに気分が良いのではないかと思います。
子供達にとっては、「夏休み気分」が最高かもしれません。日本の大人にとっては、夏休みに相当する盆休みは、色々忙しいこともあり、あまり良い印象がないかもしれませんが、それでも、学校時代の夏休みを思い出せば、悪いものではないと思います。

指摘するなら、お正月、クリスマス、夏休みの特別な気分とは、新しく生まれ変わるということではないでしょうか?
これまでの自分や、それに付いていた不要なものを捨て去り、真新しい存在になれるのです。
これまでの自分は、もはや「それ」なのです。古くからある偉大な言葉、「私はそれではない」は、こうして成就されます。

コリン・ウィルソンの本には、クリスマスや夏休みを、人間にパワーを回復させるヒントを与えるものとして、よく取り上げています。
コリン・ウィルソンの生涯をかけた目的は、人類の人間性の回復という壮大なものです。23歳で「アウトサイダー」を書いて一夜で世界的作家になって以来、70歳をずっと超えた現在も、それは変わりません。
日常の中で、心身共にくたびれ、憂鬱に陥り、活力を失って、人生が重く辛いものにしか感じられず、何のために生きているのか分からない文明社会の人々に、生の本当の意味を取り戻させ、充実した輝かしい人生を生きて欲しいというのが、ウィルソンの願いのはずです。
これをウィルソンは、「疲れ果ててくたくたの状態でも、自分の好みのタイプの女性がヌードで現れれば、たちまち力の感覚が甦るだろう」と極端に分りやすく表現したこともあります。
そして、子供達が、クリスマスの朝にクリスマス用の飾り付けを見た時の瞳の輝きや、夏休みの前日の幸福な表情といったものが示す、喜びや期待感がどれほど重要で素晴らしいものであるかを強調しています。

特に、私のような引きこもり気質の場合は、学校は辛いことが多く、子供の頃の夏休みの前日の気分を思い浮かべると、今でも大きな幸福感が甦ります。
幸福な感覚がどんなものか分かるというのは、実に素晴らしいことです。その気持ちで生きれば、必ず幸福になれます。

それは高揚感という言葉で現すことができるでしょう。
高揚の正確な反意語はありませんが、埋没とか沈み込んだ感じがそれに当たると思います。
天使は高く舞い上がりますが、地獄に落ちることは不幸なものです。
「鳥になる」という言葉は幸福を感じさせます。人が鳥になりたがるのは、重力を解き放って全てを捨てれば幸福になれることを知っているからです。
真実の恋は「陥る」ものではなく、シャガールの絵のように空に舞うことです。陥った恋は不幸の予感かもしれません。

「お正月」「クリスマス」「夏休み」・・・最も幸福に感じることができるもの、あるいは、かつて感じた幸福感を思い出せるもの。それらがもたらすような気持ちを常に持って生きるべきです。


レクイエム
非常に霊的なアーチストである彩月(さつき)さんの「レクイエム」と「鳥になる時」が収録されたCD。作詞、作曲も彩月さん自らが行っています。
不思議なほど明るい感じの「レクイエム(鎮魂歌)」も、「鳥になる時」も、神秘を秘めた驚くべき作品と思います。音楽と言うのは、1曲の中に哲学書1冊を封じ込めることができるとつくづく感じました。
NHKアニメ「コレクター・ユイ」のオープニングおよびエンディング曲です。

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2010.01.15

プラシーボ、大いに結構

プラシーボ(偽薬)とは、何の薬効もない薬のような外観をしたもので、ブドウ糖や乳糖などでできているようです。
あるいは、本物の治療のように見せかけるような行為全般を含めてプラシーボと言うこともあるようです。
そして、プラシーボによる治療成果をプラシーボ効果と言います。

プラシーボは病気に対する治療に効果があるという説が多い反面、それを疑問視する意見もあります。
あるいは、全ての薬効はプラシーボ効果であるという考え方もあるようです。
医師の中には、劇的なプラシーボ効果を見て、医学に対する認識を変えたという者もあると思います。
有名なフランスのルルドの泉水(聖母マリアが14歳の少女ベルナデッタの前に出現した場所から湧いた泉水)では、確率そのものは非常に低いながら、泉水の水で水浴することにより、医学的にはありえないような奇跡的治癒が起こった例が数多くあると言われます。奇跡現象を認めることは極めて稀なキリスト教会も、そのうち67件を奇跡と認定しているようです。それらが本当の奇跡かプラシーボ効果なのかは分かりませんが、プラシーボ効果が奇跡を起こすという考え方があっても良いのではと思います。

政木和三さんは、大阪大学の医学部にいた時、胃潰瘍を患っている患者に、潰瘍は消えたと告げたところ、それが本当に直ちに消えてしまったことがあり、病気を治すのは自己治癒能力でしかないと認識したとよく言われていました。

さて、数日前から、私はトルマリン(電気石)の原石をいつも携帯しています。
トルマリンは熱や圧力を加えると電流を流すことが知られています。発見者はピエールとジャックのキュリー兄弟で、ピエールは著名な物理学者、化学者のマリ・キュリーの夫で、夫婦でノーベル物理学賞を受賞しています(その後、マリはノーベル化学賞を単独で受賞)。
また、トルマリンは自然状態でも微弱な電流を流し続けていることが分かっていて、そのなんらかの効果で、心を静め、生体を活性化させる作用があると言われることもあります。
もちろん、人間の心身に対するそのような効果が科学的に証明された訳ではありません。
しかし、ゲルマニウムの、肩などの凝りを改善したり、血流を良くするなどの健康効果は有名で、ゲルマニウムを使った健康器具は大変に多いのですが、実を言うと、ゲルマニウムに関しても事情は同じで、その効果に科学的根拠はありません。
プラシーボ効果かどうかは分かりませんが、実際にゲルマニウム健康器具で良い効果を感じている人は多いはずです。

医薬品や医療器具として厚生労働省の認可を受けているわけではない飲料水や健康器具で、劇的な治療効果があったと言われるものも数多くあります。
例えば、EM-Xという飲料水(あるいはEM1号という土壌改良用の液体)による、癌を始め、数多くの病気の治療効果に関して、多くの名のある医学者が肯定的な見解を示しています。癌研究の権威と言われるマンディ・ゴーナム博士もそうであるようです。
※EM1号は、飲料用ではなく、土壌改良用資材でありますが、飲んで危険がないことは信頼ある研究機関で確認されていると言われます。

誰も「正式な医学的治療でないなら、私の癌が治って欲しくない」とは思っていないでしょう。
治るなら、プラシーボ効果でも何でも大いに結構なはずです。
しかも、費用や時間がかからず、痛みも副作用が無いなら、医学の出番はありません。
問題があるとすれば、治療方法を選ぶ責任を自分で負うことです。しかし、考えてみれば、医学だって治療結果等に責任を取る訳ではありません。医者にかかって、思わしくない結果になっても、明らかなミスでない限り、医者を責めない態度は必要と思います。
ジャイアント馬場さんは、野球選手時代、脳に悪性の腫瘍が出来、命は絶望と診断されたことがありました。しかし、両親が必死で名医を見つけ、手術を依頼しました。この時、馬場さんが、その医者に「先生、俺の命、保証してくれますか?」と聞きますと、医者は、「医者ってのは、指1本切る時でも命の保証はしないんだ」と答えたらしいです。馬場さんは、その言葉に感激し、本当に偉い医者だと思ったと言います。

余談が長くなりましたが、私の「主観的」トルマリン効果を述べたいと思います。
携帯しているトルマリンは、ただの黒い原石で、4×5×1.5cmくらいのものが1つです。買ったものですが、値段はそれ1個としては数十円程度でした。
仕事中は机の上に置き、かなり頻繁に手で握ったり撫でたりしています。なんとなく楽しいからです。
通勤等、外出時は、普通、ジャケットのポケットに入れています。

最近、パソコンの画面(液晶17~19インチ)を長時間見ていると目が疲れ、頭痛がしたり、肩から背中まで痛みがあることが多く、苦しい思いをしていましたが、それが非常に低減され、実質、ほとんど問題が無くなりました(仕事柄、長時間画面を見ますので、目が疲れることは、やはりあります)。

また、私は、昨年(2009年)の8月半ば頃から腕立て伏せを始めたのですが、最初は10回程度でも苦しかったのが、少しずつ回数を増やし、昨年末頃からは60回を1セットで行っています。
会社に行く平日は、夕食後、午後10時頃に1セット行いますが、仕事や通勤の疲れもあり、最も調子が良い休日の午前中と比べると、かなり身体を重く感じていました。しかし、トルマリンを使い始めて2日目には、平日でも、休日の午前中に近い感覚になったように感じました。70回以上を楽にこなせると思いましたが、回数は徐々に増やす方針なので、3回だけ増やして、その日から63回行うようになりました。

また、精神的には楽観性が高くなり、いつでも心地良く感じることのできる度合いが高くなったように感じます。

これらは、もちろん、正確な実験方法で測定したわけではなく、主観的な印象に過ぎません。当然、プラシーボ効果でしかない可能性もありますが、それでも悪いはずがありません。プラシーボ効果大歓迎です。しかも、お金はほとんどかかっていないのですから。

最初に、あらゆる薬効がプラシーボ効果だという意見があるという話を述べましたが、私は、この世の全てが「思い」で決定されるのであり、ある意味、全てがプラシーボ効果であると思っています。
実際には、トルマリン自体がなくても、同様な効果を得ることができるはずです。
しかし、普通は、人間には意識を向ける対象があった方が便利であることは間違いないと思います。
「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメで、主人公の14歳の少年、碇シンジが父親の碇ゲンドウと一緒に、母親の墓参りをする場面があります。普段、シンジとほとんど会話をしないゲンドウが「私はユイ(ゲンドウの妻でシンジの母親)がここにいるとは思っていない。ただ、心を向ける対象としてここに来ている」と、珍しくシンジに真面目に話します。ゲンドウほどの人間(特殊組織の総司令官で冷徹さの権化と言える)ですらそうであるのが、人間の面白いところです。(墓を無視することができる人間が異常と思うという意味ではありません)


プラチナ
坂本真綾さんが歌う、アニメ「カードキャプターさくら」の主題歌。作詞は岩里祐穂さん。作曲は菅野よう子さん。
CLAMP作品の中でも特に人気の高い「カードキャプターさくら」の世界観を見事に表現した、ぞっとするほどの素晴らしい詩と曲を坂本真綾さんが神秘的に歌い上げています。

歌うように奇蹟のように
「思い」が全てを変えてゆくよ
きっと きっと 驚くくらい

今回の記事のテーマを美しく歌で表現してましたので、ご紹介します。

トルマリン原石1kg(3~6cm)
携帯や遊び相手(笑)には、このくらいの大きさが良いと私は思います。

トルマリン原石1kg(1~3cm)
上記に比べやや小さめ。携帯性はより高いし、用途は広いと思います。

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2010.01.14

心はなぜ世界を創るのか?

当ブログに面白いコメントを貰ったので、それをテーマに書きます。
「心が世界を創るのですが、なぜ心は世界を創るのか?」です。

「そうだ!これを説明しないといけない」と思いました。とても重要なことです。
そういえば、ラマナ・マハルシも、心が世界を創るとは言いましたが、それがなぜかは言ってなかったような気もします。
ちゃんとまとめて本にしたいほどです。どこかの出版社で出してくれてもいいですね。

しかし、「なぜ心が世界を創ったのか?」と聞かれたとしたら、本当は、「アンタ、マジ?」と言いたい気持ちはあります。
世界を創ったのはあなたの心です。なら、自分に聞けばいいじゃないですか、という感じなんです。

まず、谷川流さんの小説「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズを読むことをお薦めしたいですね。面白いだけでは650万部も売れたりしません。1年以上、執筆が中断しており、私にはその理由は当然分かりませんが、それはそれで丁度良いことと思います。
世界を好きなように変える力を持つハルヒが、なぜ自分が面白くないと嘆く世界を創るのでしょうか?私には、彼女が無自覚に面白がっているとしか思えないですね。

世界を創るとは、小説を書くようなものでしょう?
例えば、ヒーローものを書くとしましょう。
スーパーマンのような超人を主役にするとします。あらゆる超能力を備え、肉体は無敵、頭脳も天才で、ハンサムで、人柄も抜群!
楽々と巨万の富を築き、世界から賞賛され、誰からも尊敬され、美女と結ばれて終わり・・・じゃ、何も面白くありません。
「スーパーマン」のお話も、そうではないはずです。
あれほど強い彼が危機に直面し、必死の思いで問題解決します。
つまり、スーパーマンにも欠点があるし、出来ないこともあるし、彼と同等の力を持つ敵が現れたりもするわけです。
ではちょっと小説の世界に入りこむなら、あれはスーパーマン自身が創造した世界と言えるのです。彼は、自分を万能にしなかったのです。なぜなら、「それでは面白くない」からです。

「涼宮ハルヒの退屈」(「涼宮ハルヒ」シリーズ第3巻。アニメでは「涼宮ハルヒの憂鬱」第7話)で、ハルヒは素人チームで野球大会に出場し、大学生の本格チーム相手に苦戦します。無自覚とはいえ、ハルヒの力なら、楽勝できたはずです。しかし、それでは面白くないのです。キョンを4番バッターに仕立てることだけでは力を使いますが、後は一緒に苦労して勝ちたかったのでしょう。

私が時々見るブログでこんなのがあります。
引きこもりだったのが、なんとか就職するも、職場で毎日嫌な目に遭い、仕事はうまくいかず、自分を責め、辛くて苦しくて仕方がない様子を切々と綴っています。
そんな状況を、人によっては、「今生での修行」とか言うかもしれませんが、「アンタ、そんなに修行が好き?」って聞きたいですね。
なぜそんなことをやってるかといいうと、「面白いからに決まってるじゃない」と言ったら、その人に怒られるかもしれませんけど、事実はそうなんです。
確かに、もう少し愉快に楽しめば良いとは思いますけど、後でより大きな喜びを感じたいのかもしれません。苦しいまま一生を終えても、仏教学者のひろさちやさんによれば、そんな人は、仏様から特別なねぎらいの言葉をいただけるようです。一方、端役で良いから、楽しい人生を送りたいという考えもあると思います(笑)。

本来の我々は万能過ぎるんです。思ったことは何でもすぐ実現する力があります。
でも、そんな力をいつも使ったら面白くもなんともない。
それで、自分の力に制限があるフリをして楽しもうと思って生まれてきました。
それと共に、別の目的もあります。「魂を磨くため」なんて真面目なことを言わないで下さい(笑)。まあ、結果としてはそうかもしれませんが、魂を磨くのに本来は苦労なんていりません。
「苦しみを味わってこそ優しくなれる」なんて歌がありましたっけ?しかし、苦しみを味わうだけなら、依怙地で嫌な性格になりますよ(笑)。
クリストファー・リープ主演版の「スーパーマン」で、スーパーマンが自分の意思で力を失うというものがありました。力を失った彼はひどい目に遭ったり、邪悪で強大な敵を相手に絶望的な状況にも陥ります。しかし、彼は力を取り戻す方法を見つけて、再び超人になります。そこで彼は、以前には味わえなかった超人の喜びを謳歌するのです。
我々も同じです。予定通り、もがき苦しみながら、万能の力を取り戻し、自分の本当の力を知って歓喜しなければなりません。
こう言うと、人生はまるでゲームのように感じるかもしれません。実際、その通りです。
そして、この世というゲームの下手なプレイヤーがいるものです。「私は下手なプレイヤーだ」なんてひがまないで下さい。下手なフリも計画通りなんですから。
ゲーム中、万能の力を取り戻すヒントが現れます。それを「光に触れる瞬間」と言う人が時々います。誰だって、光に触れる瞬間があるのです。
しかし、下手なプレイヤーは「楽に願いを叶えてはいけない」という思い込みのために、それを見逃したり、無視します。
ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則や、引き寄せの法則、あるいは、ザ・シークレットを読んでも、「こんな良いことがあるはずがない」と言って、これらを胡散臭く思うのもそのためです。まあ、そう思うのもまた、予定通りなのかもしれませんけどね。
あるいは、妙な形で信じてしまって、新興宗教に金を巻き上げられる人もいますが、それもまた予定通りです。
「無欲」というのもまた、ゲームの強力なアイテムの1つかもしれません。

うまくいかないこと、苦しいことは、決して懲罰的な意味でも、トレーニングでもありません。
楽しいことには思えないかもしれませんが、それが本当に楽しくないのではなく、ちょっとした誤解があって楽しくないだけなんです。
誤解を解けば、それはそれで楽しいですし、それが楽しいことが分かれば、もっと楽しいことを起こせます。

早めに億万長者なんかになると大変ですよ。人生はまだ長いのに、そんなのすぐに飽きますから。
億万長者の苦しみなんて大変なものです。彼らは、誰もやったことのないような、新しい楽しみを見つけないといけません。
自分の全財産を寄付してしまった億万長者の話があります。本にもなってます。
ビル・ゲイツは、新しい楽しみを見つけたようですが、十分かどうかは分かりません。私の知ったことではないですが(笑)。
心が豊かでないうちに金持ちになると、間違いなく苦しみます。まあ、そんな苦しみを知ることにも意味はあるのですが、普通は、心が成長しない間に富を築きにくいのは、わざとそうしているのだと思います。
だから、金持ちになりたければ、先に心を豊かにした方が良い。電車で割り込んで乗って席を取るなんてことをやっている間は金持ちなんかにはなりません。早い話が、損を避けている間は貧乏を楽しんだ方が無難です(笑)。
ダスキンって会社の企業理念って知ってます?その中に、
「自分に対しては損と得とあらば損の道をゆくこと」
というのがあります。社会的常識とは逆ですが、ピンとくるものを感じるはずです。これを嘲笑する間は、貧乏な方がマシです。


無一文の億万長者
本文でもご紹介しました、誰にも知られずに、膨大な財産のほぼ全てを寄付した大富豪の話。
幸福な成功者になるためには、人生の各分野でバランスよく成功することが大切で、大抵の場合は、いびつな歪んだ形で成功する(経済的には成功しても家庭的に失敗する等)ので、平凡な人以上にみじめで不幸になります。
まあ、富豪になる前に読んでみて下さい。

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2010.01.13

「引き寄せ」「シークレット」が人を救う条件

武道家の堀辺正史さんの本に「誰でも3度のメシより好きなものがある。私の場合は喧嘩だった」と、武道の道に入ったきっかけが喧嘩であると正直に書かれていました。
このように、もしかしたら世間的には立派なものではないかもしれませんが、誰でも寝食を忘れるほど夢中になれることが必ず1つはあると思います。
言うまでも無く、世間での評価に意味はなく、自分の心が躍り、血が燃えるような、わくわくする、本心から楽しいものであれば、それは立派なものです。
また、すぐに目標が見つからなくても、「漫画を読む」「石を眺める」などでわくわくできるなら、そこから目標につながる可能性があります。堀辺正史さんも、喧嘩そのものが目標ではなく、そこから武道に導かれ、さらには心身の開発法の道に進んでいます。

ところが、現代の日本では、空腹でもないのに時間だからと食事をする場合が非常に多くなってしまい、「3度のメシ」の有り難さがなくなってしまっていると思われます。そして、おかしなことに、そうなるのに合わせるように、大半の日本人には自分のやりたいことが分からなくなり、機械的に人生を生きるようになってしまっているのではないかと感じます。

栄養を取り過ぎ、それを消費する機会もないと、余った過剰なエネルギーは、異常な性欲、物欲、傲慢、あるいは攻撃性として噴出し、変態化、俺様化、凶悪化に突き進むしかありません。
いかなる生物も、過剰な栄養は悲惨な結果を導きます。そして、人間は知性がある分、さらに深刻なことになります。
理性が強い本能的衝動を抑えることは絶対に不可能で、しかも、歪んだ理屈や計算と結びついて凶悪なことをやれば世界を滅ぼすこともあるわけです。

飽食、美食を続けるなら、潜在意識の法則も、引き寄せの法則も、シークレットも人を救うことはありません。
しかし、食を慎みさえすれば、そして、限度を超えない限りは、慎めば慎むほど、本能は正常化し、思考はクリアとなり、やりたいことも分かり、自分の気持ちが理解できるようになります。
そうなれば、人類には、数少ないながら、太古から賢者が現れており、その教えは我々を正しく導き、幸福にすることは難しいことではありません。

フロイトや、フロイト派の精神分析学者の岸田秀さんは、人間の本能は壊れていると主張します。
アーサー・ケストラーは、人間の脳は出来損ないであると悲観して自殺しました。
彼らの考え方は、現代の社会や人間を外側から見ると全く正しいのですが、悲観するにはおよばないと私は思います。
確かに、人間は大脳が発達した分、本能の役割の一部を知性が分担することになりましたが、本能の異常は飽食、美食が原因と思います。変態、狂暴、傲慢は、過剰な栄養摂取から起こるのだと思います。
エマーソン、トライン、ワトルズなど、真の賢者達は、必ず食の慎みについても語っているものです。


人生の扉をひらく「万能の鍵」
1897年に書かれ、現在も世界中で読み継がれるロングセラー。この非常に純粋な成功哲学は、陽気で楽観的な雰囲気のある楽しいものでもあります。本書にも書かれているように、80歳過ぎの女性でも25歳以下にしか見えないようになる秘訣を得られると思います。
フォード自動車創業者のヘンリー・フォードは、当時から、正しい販売とサービスに基く事業を主張し、金融による実態のない利益を戒めました。そのフォードが自分の成功の要因がこの本であることを明かし、親しい人達に無償で配布しました。
本書にも、飽食の害が取り上げられ、優れた人間は食を慎むことが説かれています。

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2010.01.12

魂の誕生日

江戸末期の神道家で、黒住教開祖の黒住宗忠は、観相家(人相等で鑑定する占い師)に見てもらったところ、観相家に「貴殿は阿呆(アホウ)の相」と言われました。
普通なら怒るところかもしれませんが、宗忠は、「長年の阿呆になる修行の成果がいよいよ出た」と大喜びしたようです。
この話を「太陽の神人 黒住宗忠」で読んだ時、私は非常に感激しました。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人も、自らを「愚禿親鸞」と名乗りました。愚禿(ぐとく)とは、「愚かなはげ頭」という意味です。
良寛さんは、号(道号)を大愚と言い、大愚良寛が僧としての正式名です。どんな経緯からこうなったのかは分かりませんが、自らの意思であったことは間違いないと思います。

宮沢賢治は、有名な「雨ニモマケズ」の詩で、

ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ

と詠んでいます。

アルベルト・アインシュタインも阿呆を自覚していました。
彼は難しいことは一切苦手で、洗濯石鹸でひげを剃り(石鹸の使い分けは複雑過ぎると言いました)、靴下を履かずに靴を履き、いつもヨレヨレの服を着て満足していました。
再婚した奥さんは、学歴はなく世間的な教養はなかったかもしれませんが、アインシュタインは奥さんの方が自分よりずっと賢いと思っていました。自分には難し過ぎるエレベーターの操作を簡単に行う奥さんを敬服していました(彼の最初の奥さんは数学者でした)。

一休さんは、「狂雲子」と名乗り、アイルランドの大詩人イェイツは生涯、不良老人であり続けようとしました。
荘子は、世間の人々が有用な者であろうと願う中で、無用であろうとする者達を聖人と称えます。

私は、およそ、本物の教えの中で「阿呆になれ」以外のものは無いことに気付きました。
「阿呆」と「馬鹿」の違いなんて小賢しいことはあまり言いたくないですが、阿呆は、自然や宇宙、あるいは、神仏を信頼し委ねきって、楽しく面白く生きることと思いますが、馬鹿は小知のことです。小知は損を極端に嫌がり、いつもクヨクヨし、後悔や不安を免れません。

ただ、学校や企業で強制される「愚者」には決してならないように。
大企業やマスコミに扇動された馬鹿にもならないように。

簡単になれるものかどうかは分かりませんが、私も今後は阿呆を目指そうと思います。
そう決心した2009年1月11日は、まさに、魂の誕生日になったと思います。


太陽の神人 黒住宗忠
「阿呆の相」と観相家に言われて喜んだ黒住宗忠のエピソードはこの本で見ました。
もちろん、宗忠は馬鹿ではありませんが、彼の愛すべき阿呆振りを見て、明るい心になっていただけるのではないかと思います。

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2010.01.11

キュリー兄弟と電気石

昨夜、家族がつけっぱなしにしていたテレビをたまたま見ていると、キュリー夫人(マリ・キュリー)とその娘イレーヌの話が放送されていました。

マリ・キュリーはノーベル物理学賞を夫婦で、ノーベル化学賞を単独で受賞しており、女性初のノーベル賞受賞者であり、ノーベル賞の物理学賞と化学賞を受賞した唯一の人物です。
彼女の娘イレーヌ(長女)もノーベル化学賞を受賞。次女エーヴは芸術家で、2007年に亡くなっています。
貧しかったマリがソルボンヌ大学に入学したのは25歳の時でした。
(上記は放送内容ではありません)

放送内容は、マリの長女イレーヌの教育に関して注目したもので、母親が子供と密に接することが子供の知育のポイントであり、1946年に世界的に注目を集めることになる著書で放任主義を提唱したベンジャミン・スポック博士は、30年後、自分の間違いを謙虚に認めたようです。

ところで、実は、私は、放送とは異なるお話を書こうと思います。
たまたま、キュリー家族のテレビ放送を見たのは、面白いシンクロニシティーでした。
この日の昼間、私に、トルマリンの原石が届きました。
トルマリンは電気石とも呼ばれ、熱や圧力を加えると電気が発生することが分かっていますが、それを発見したのが、マリ・キュリーの夫ピエールと、その弟ジャックのキュリー兄弟でした。
また、トルマリンは永久帯電し、自然状態でも微弱な電流が流れていることが分かっています。
トルマリンはオパールと共に10月の誕生石とされ、石言葉は「希望」です。

トルマリンがマイナスイオンを発生し、脱臭効果や生体の活性化効果があるとされるのは、科学的には疑問があるとされています。
よって、以下はごく主観的な話です。
生体の神経や細胞の働き、ましてや精神作用は現在の科学をはるかに超えたものです。政木和三さんは「どんなに科学が進歩しても、神経と同じものは絶対作れない」とよく言われていました。
トルマリンは精神の安定や身体の活性化に効果があります。
自然に発生する極微弱な電流というところがむしろ重要です。
イタリアの社会学者フランチェスコ・アルベローニの著書に「生きるとは希望をもつこと」がありますが、私も正に同感で、トルマリンの石言葉が希望であることもただの偶然とは思われません。
尚、この本の原題はズバリ「希望」です。
この宇宙は電気的な性質で支配されています。引力や精神すらそうですが、その働きがあまりに微妙なため、隠れてしまって見えないこともよくあります。
ロンダ・バーンの「ザ・シークレット」にも、希望は愛だと書かれていますが、引き寄せの法則も究極には電気的なものです。現在の科学は電気に関して十分に解明しておらず、その働きをよく理解しておりません。
むしろ科学界と無関係、あるいは、異端とされるところで、神秘的な活用をして効果をあげている場合があります(もちろん、まやかしも多いかもしれませんが)。病気治療に奇跡的な効果をあげるMRTでは、電気の働きの面である磁気を説きますが、同じことであると思います。
トルマリンを身近に置くことは良い効果をもたらすでしょう。自然状態に置くだけで良いですが、熱や圧力が効果を高めますので、時々、軽く振ったり、手で握って温めると良いでしょう(ポケットに入れておくと、自動的に振られ、温められますが)。
湯船に入れると身体に良いというのは、客観的にも割に簡単に確認できると思います。
人間には趣味的な要素も必要ですので、成形したり研磨したトルマリンのアクセサリーを持つことも良いことですが、安価に入手できる原石でも十分です。私は5cm程度の原石を常に携帯しています。


トルマリン原石1kg
丁度良い大きさ(3~6cm位)のトルマリン原石1kgです。10数個くらいだと思います。

キュリー夫人伝
次女エーヴによる、マリ・キュリーの感動的な伝記です。

生きるとは、希望をもつこと
原題は「希望」。
イタリアの世界的社会学者フランチェスコ・アルベローニのエッセイ集。アルベローニは、「人間とは何か」を解明する天才的な思想家であると思います。


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2010.01.10

神秘との遭遇

チャネリングという言葉をご存知でしょうか?
それは、死者の霊や宇宙人の精神体等といったものと意思の交信をすることで、チャネリングを行う能力を有する者をチャネラーと言うようです。
このような現象、能力は、古くからシャーマニズムとして知られており、その能力者はシャーマンと呼ばれていました。
ただ、言うまでも無く、死者や宇宙人の精神体との交信以前に、それら神秘的存在が実在するという証拠はほぼ無いと言わざるを得ず、一般的な認知を求めるわけにはいきません。
ものごとは、「存在しないことが証明できないなら存在する」という主張は決して成り立たず、あくまで、有ることを主張する側がそれを証明する必要があります。例えば、日本が核兵器を保有しないことが証明できないなら、日本がそれを保有しているという奇妙な主張はできません。もし、それを主張したいなら、主張側が日本の核兵器保有の証拠を示す必要があるのは当然のことです。「無い」ことの証明など最初から不可能です。「百本脚のカエル」がいないことを証明したければ、世界中、あらゆる場所を調査しなくてはなりませんが、だからと言って、それが存在するとは決して言えず、「百本脚のカエル」はいないと言って差し支えありません。
チャネリングが真実であるという証拠の提示も、少なくとも現状は不可能ですので、誰もチャネリングを真実であると主張することはできません。それは承知の上での話とします。

今回は、シャーマニズムや霊媒現象も、チャネリングという言葉で統一し、よって、それを行う者もチャネラーで統一します。
宇宙人とのチャネリングでよく知られているのは、ゼータ・レチクル星人のバシャールと交信するとされるダリル・アンカだと思います。また、リサ・ロイヤルという女性もバシャールと交信するとしています。
日本では、日本列島の北の端、青森県の恐山にいるという、死者の霊とチャネリングを行うイタコという女性達のことがよく知られています。

チャネリングに関しては、頭から完全に否定する人も多いですが、高い常識を有していたり、社会的にも信用があると言える人達の中にも、真面目に考える人も少なくないと思います。
また、精神分析学や神経科学、あるいは、その他の分野も含む非常に広い科学知識等から、チャネリングを合理的に説明しようとする者もいると思います。
特に芸術家の中には、その鋭敏な自らの感覚や直観を信じ、たとえ他からの承認が得られないとしても、これを肯定する信念の持ち主もいます。
あるいは、量子物理学や哲学的な認識論から、チャネリングの真実性を否定できないとする考え方もあると思います。

ところで、チャネリング自体は存在すると認めてはいても、必ずしもあるチャネラーの交信相手が、そのチャネラーや彼が行うチャネリングを信じる人達が主張するような高度な存在とは限らないと言う者もいます。
たとえば、2012年アセンション等で知られるエハン・デラヴィは、上にあげたバシャールの存在は否定しないが、あまり高度な存在とは思わないと本に書いています。
しかし、このエハン・デラヴィや、「神々の指紋」等で世界的に知られる作家、グラハム・ハンコックは、覚醒剤(正確には覚醒作用のある植物)を使ったチャネリングを一般の人にも薦めているように思いますが、彼らが交信する異次元生命体は、ヘビの形態や、その他、奇怪な形態のもので、これらの中には攻撃性を持つ存在もいたりと、もしかしたら、彼らこそ低レベルな存在専門に接触してはいないかと疑問を持たれるかもしれません。
世界的量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフもまた、覚醒剤を使ったチャネリングを経験していることを著書で明かしています。ただ、ウルフの場合、(外見ではなく)本質的な部分で優れたシャーマンの指導の元で実践しているようで、良いチェネリングをしているように感じました。

実は、私にもチャネラーの知り合いがいます。
1人は、もう亡くなられました、政木和三さんです。政木さんの著書には、神的な存在と交信する徳の高い人物が登場しますが、政木さん自身も、ある時期から神様と何度も接触しておられたようです。また、政木さんに宇宙人からの手紙を見せてもらったこともありますし、政木さんがそのことを本に書いてもいます。
ある日、政木さんと2人で昼食をした後、宇宙人と交信するチャネラーについてどう思うか尋ねてみたことがありますが、機嫌が良さそうだった政木さんは、笑いながら、ただ、「みんな本当は宇宙人なんですよ」と言われました。

もう1人のチャネラーは画家、陶芸家の方です。ただ、もう長く逢っていません。
彼が描く絵の分野は日本画で、霊的な雰囲気のあるものです。
お名前は一応、伏せさせていただきます。
画家としては、立派な自宅や工房を持ち、車も大きなものを持っておられ、海外の美術館にも作品が所蔵される等、社会的にも認められた立派な芸術家だと思います。
ただ、人間的には大人しく穏やかな人ですが、風変わりなところもあり、目付きも鋭く、時々は険しい表情も見せます。
彼は、宇宙人とチャネリングしますが、その時は宇宙語を話します。
ある時期から、彼の奥さんもチャネリングが出来るようになり、彼の宇宙語を同時通訳するようになりました。
彼らのチャネリングを直接見たことはないのですが、録音したものを聞かせてもらったことがあります。
一度、彼の家に電話をして、奥さんと話したことがあるのですが、非常に大人しい感じの声の方でした。しかし、宇宙語を翻訳する時の彼女は実に雄大な声で、朗々と話すので驚きました。
長いメッセージで、一度聞いただけのこともあり、細かい内容は憶えておりませんが、非常に心地良いメッセージだったように思います。
よく憶えていたのは「おだやかでありなさい」という、平凡ながら、その声の雰囲気からも、非常に重要に感じた言葉でした。
また、「想いを宇宙にぽーんと投げなさい。そうすれば、応えてもらえます」という言葉をよく憶えています。

ポール・マッカートニーの“Let it be”という歌では、深い苦しみの中にいたポールに聖母マリアが現れ、彼女から「あるがままに(Let it be)」という貴い言葉を与えられたことが描かれています。
また、「ルルドの泉水」で知られるルルド(フランスとスペインの国境近く)で、ベルナデッタという14歳の少女に聖母マリアが出現したという世界的に知られることに関し、ベルナデッタが聖母マリアの指示で掘ったことから発生したとされる泉水で奇跡的治癒があったことは、異例なことですがカトリック教会も認めています。
ベルナデッタの前に現れた聖母は他の人間には見えなかったと言われ、これらもチャネリングと考えられるかもしれませんが、それならば、チャネリングの印象も随分と変わるように思います。
尚、聖母の奇跡と言われるものは、1928年から1975年の47年の間に、世界で200件以上の報告があると言われます(下記、参考書籍より)。
あるいは、「虫の知らせ」とか、不意に心の中に浮かんだ強い想いとかアイディアなどでしたら、多くの人の経験していることで、これらがチャネリングである可能性もあるのかもしれません。


聖母マリアはなぜ「出現」したのか―いま、キリスト教に起きている超奇跡
正統なカトリック司祭であるセラフィノ・フィナテリが聖母マリアの出現という奇跡現象を語ることは、本人が「タブーへの挑戦」と言うとおり大変なことです。
非常に慎重な語り口ではありますが、真実性を否定できないと考えているようにも思われます。
この本では、当時も継続的に続いていたと言われるユーゴスラビアのメジュゴルユェの聖母出現を詳しく取り上げています。6人の少年少女達の前に現れるという聖母マリアは、ほとんどの大人達は見ることができませんでしたが、本書にも掲載された聖母の前に跪く少年少女達の神々しいばかりの表情は非常に印象的です。もちろん、彼らが共同幻想を見ているという可能性があるとも言えますが。

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2010.01.09

仕事で成功する方法

希望の職業でうまくやっていけると思う方法を述べたいと思います。
それで大成功して大金持ちになれるかどうかはその人次第と思いますが、必要な心構えであるとは思います。
私の場合は、ほんのわずか実践しましたが、大幅な収入増や有力者との交流、セミナーや講演の実施、テレビや新聞への紹介、その他多くの結果が得られ、大変に良い思いをしました。
超一流の人物でなく、私のような平凡な人間の話の方が、多くの人の役に立つのではと思います。

私の仕事は、コンピュータソフト開発です。
別に、その方面の大学や専門学校を出た訳でもなく、企業の研修所で本格的に教育されたわけでもありません。
自宅のパソコンと、書店で売っている書籍を使って勉強しただけでした。
私以上の条件で勉強したり訓練を受けた人はいくらでもいますし、仕事においても私の数倍努力したり、私よりずっと優秀で知識もある人は多いはずですが、大半はむしろ私程度の成果も得ていないのではと思います。
私がうまくやれた理由が1つ思い当たります。
そしてそれは、おそらく、他の仕事、例えば、コピーライター、スポーツ選手、音楽家、科学者、作家、その他何でも有効と思います。

私がコンピュータソフト開発でそれなりに成功できたのは、まず時代の巡り合わせがあります。これは、今の時代は更に有利です。
昔であれば、コンピュータのプログラミングをするには、学校や企業の中にある、非常に高価(億円単位)な大型コンピュータを利用しなければならず、そのためには、コンピュータを保有する学校や企業に入り、面倒な使用手続をし、順番を待たなくてはなりませんでした。ちょっと試しにやってみるという訳にはいかなかったのです。
その後、安価なミニコンピュータ(ミニと言っても数千万円はしました)が登場し、いくらかマシにはなりましたが、個人ではどうにもなりませんでした。あのビル・ゲイツは、高校生の時、このミニコンピュータを利用する機会を得て、コンピュータの面白さを知ったということだったと思います。
1974年に、アメリカのMITSという会社がアルテアというマイクロコンピュータを開発し、400~500ドルで発売しました。史上初のパソコンと言えると思います。しかし、これで何が出来るかというと、36個のLED(発行ダイオード)のいくつかを発光させることができるだけでした。プログラミングはマシン語(8080マシン語)という、数字だけ(しかも2進法)で行う難しい方法でしなければなりませんでした。しかし、全米から注文が殺到しました。多くの人が、個人で自由に使えるコンピュータを求めていたのです。
ビル・ゲイツは友人のポール・アレンと、このアルテア用のBASIC言語を開発し、その販売のためにマイクロソフト社を設立したのでした。
ビル・ゲイツは、ビジネスの目的について、一貫したポリシーを持っていました。それは、「誰でも使えるコンピュータを作る」でした。自分のおばあちゃんでも使えるものにしたいとよく言ってました。そのためには、使いやすいことはもちろん、安価でないといけません。マイクロソフト社はコンピュータメーカーではなく、ソフトメーカーですが、実はパソコンのハードウェア設計にも深く関り、安価で使いやすいコンピュータの夢を実現させていきました。
ビル・ゲイツのポリシーは、コンピュータユーザーのためであると共に、誰でもソフト開発者になれる機会をもたらしました。昔のパソコンは現在よりはやや高価でしたが、学生でもアルバイトをすれば買える程度でした。それで、多くの若者がソフト開発の技術を身に付け、ある者は趣味として、ある者は職業としてそれを行うようになりました。

こういった経緯から、私はビル・ゲイツには大変に感謝しています。
彼のような人が、パソコンの普及に強力に関わっていなければ、パソコンはかなり違ったものになっていたかもしれません。
また、ビル・ゲイツは、自分達が最初に開発したBASIC言語に愛着を持ち、他の優れたプログラミング言語がパソコンで使えるようになっても、主力言語としてBASICを採用し続けました。BASICは易しく、ビジネス目的に適っており、私がソフト開発者になるのに非常に都合が良かったのでした。BASICはパソコンソフトの開発では常に最も多く使われることとなりました。
私は、ゲイツがBASICを守り続けたことにも感謝しているわけです。

さて、BASICに関して、他にも感謝すべき人達がいました。
それは、ダートマス大学の数学教授であった、ジョン・ケメニーとトーマス・カーツです。
2人は、文系の学生にコンピュータプログラミングを理解させるため、科学技術計算用のFORTRAN言語を基にしたBASIC言語を開発したのでした。1964年のことです。
そして、2人はBASICをパブリック・ドメインと言う、著作権を放棄したプロダクト(製作物)として公開しました。ビル・ゲイツは、そのおかげで、無償でこのBASICを利用してパソコン用BASICを開発できたのでした。
(オープンソースとパブリックドメインは正確に言うと違うものですが、似たようなものと考えても良いと思います)
ジョン・ケメニーとトーマス・カーツがこういったことをしていなければ、やはり私はソフト開発者になっていなかったと思います。
よって、この2人にも大変に深く感謝しています。

私のようなのは低レベルなのですが、いかなる分野でも、成功している人は、その職業における偉大な先達に感謝し、敬意を払っているものであると思います。
当然、その職業の歴史にも興味があり、ある程度は詳しいはずです。
例えば、歌手になりたいという人で、現在の歌手が活躍できる状況を切り開いた過去の歌手やその他の貢献者達、自分が取り入れたい技法の開発者などについて知らないなら、成功の望みはまずないと思います。

アイザック・ニュートンは、自分の成功について、「フックの法則」で知られる同時代の英国の物理学者ロバート・フックに「私は過去の巨人達の肩に乗れただけ」と手紙で伝えたと言われます。
また、アルバート・アインシュタインも、このニュートンはじめ、過去の偉大な科学者達に感謝をしていました。

※尚、このニュートンの「巨人達の肩」の話は、ライバルであり、仲が良くなかったフックが小男であったことをからかったものだと言われることもありますが、ニュートンがデカルトなどの先達に感謝していたことは間違いないと思います。

心理学者のアブラハム・マズローは、ジグムント・フロイトを快く思っていない一面も確かにあったと思われますが、マズローは彼の代表的著作である「完全なる人間」の中で、「精神の研究は全てフロイトから始まっており、自分は決してフロイトを否定しておらず、それどころか、自分の仕事の全てはフロイトの深い意味の探求であった」と述べています。

私の一番最初の仕事はセールスマンでしたが、性格的には全く向いていなかったにも関わらず、ポール・マイヤーや夏目志郎さん、奥城良治さんら有名なセールスマンの本を読み、彼らには感謝していたので、セールスコンテストに優勝したり、定着率10パーセント未満の完全歩合制の中でやっていけました。
大きな世界で言えば、現在の日本人大リーガーは皆、野茂英雄さんに感謝しているはずです。
このように、先駆者や先達に感謝することが、その仕事をする上で必要な心構えであると思います。


セールスに勇気がわく本
夏目志郎さんの本。
セールスマンは、今でも比較的就き易い職業ですが、その厳しさは経験しないと分かりません。挫けそうになる心を支えてくれたり、うまくやっていくノウハウを得られる本だと思います。
また、大変にロマンを感じる本でもありました。

強豪セールスの秘密―日産16年連続トップの極意はこれだ
奥城良治さんの本。
現在では時代錯誤と言われかねませんが、あらゆる仕事に通用する心構えを教えてくれる名著中の名著です。
激しく生きる男のロマンにも溢れています。

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2010.01.08

宇宙は5分前に出来た?

「世界五分前仮説」という、とても奇妙に感じるかもしれない哲学の仮説があります。
この世界は実は5分前に出来たのではないかという仮説です。
提唱者は、数学者、哲学者、論理学者のバートラント・ラッセルです。ラッセルは、アリストテレス以来の最大の論理学者とも言われ、また、人道的活動家として有名です。1950年には、数学者でありながらノーベル文学賞を受賞しました。

さて、世界が5分前に出来たという「5分」は、もちろん、「つい最近」といった程度のもので、特に意味はありません。
谷川流さんの人気小説「涼宮ハルヒの憂鬱」では、世界は涼宮ハルヒによって、3年前に作られたのではないのかという可能性が提示されます。

そういった話があると、当然、ほとんど全ての人には、「しかし、私には5分前(あるいは3年前)より以前の記憶がある」といった反論ができるわけですが、その記憶が偽物でないことを証明する術はありません。実際、偽の記憶を作ることは、やり方が分かれば難しいことではないと思います。
また、現実では庶民である人間が、夢の中で宮殿に住む王様になったとしても、その人は自分が宮殿にこれまでずっと住んでいることを疑いません。記憶、あるいは、過去が存在するという思いがいかに頼りないものであるかが分かると思います。
他人と記憶を共有しているとしても、その他人の記憶も、ついこの瞬間に出来たものかもしれませんし、そもそも、その他人が、あなたが思っているような存在であるという保証もありません。そして、他人との記憶の整合性がなかったり、曖昧であるということも少なくはなく、それどころか、自分の記憶が誤っていることが分かって驚いたということもよく経験しているかもしれません。

デカルトは、いっさいのことは疑えるとし、疑えない唯一のことは、「疑っている私が存在していること」だけであると結論し、「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉を残しました。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは「あなたが確信できる唯一のことは、『私は在る』ということだけだ」と言います。

私は、世界は5分前に出来たどころか、一瞬前に出来たに過ぎないと考えています。
記憶もまた、一瞬の間に心に刻まれるだけです。多分、心が世界と記憶を瞬間に作り出しているのでしょう。
なぜそんなことが言えるかといいますと、私には、偽りの記憶を抹消する能力があるからです。世界が作り出される過程を覗き見ることすら出来ます。世界は、まことにもって幻に過ぎません。
もし、心を完全に停止させることができれば、おそらく、そういったことがはっきり分かると思います。なぜ「おそらく」と言うかといいますと、私もまた、心を完全に停止させるまでには至っていないからです。
心がどのような世界を創り出すのかについては、心の潜在的傾向性に基きます。
心の潜在的傾向性がどう形作られるかは分かりません。ただ、それによって、各個人がどんな世界を創るかが決まるということだけが分かります。
聖者は、世界を単なるマジックショーと見なします。彼らは、世界は心が作り出す幻であることを知っているので、それにこだわらないのです。
しかし、非常に強い潜在的傾向性によるもの以外は、世界は割に自由に変えられます。
本当は強い潜在的傾向性でも変えられるのですが、強い潜在的傾向性には意味がありますので、変えない方が良いということもあります。

心の潜在的傾向性の影響を免れたいなら、死んだように生きることです。
至道無難という禅僧が、「生きながら死人となりはてて、思いのままになすわざぞよき」と言ったのも、そんな意味かなと思います。
簡単に死んだように生きるには、生命を育てる基である食を慎むことです。
水野南北は、観相という、顔や身体の相で鑑定する運命学の達人でしたが、どうしても観相での鑑定が外れることがありました。しかし、その人の食生活で鑑定したところ、万に1つの間違いもなくなりました。
いかなる運命(心の潜在的傾向性)であっても、食を慎むと必ず幸運となります。
食を慎むと、生命に依存する心の潜在的傾向性が弱くなり、ことによっては消滅するからです。そうなれば、後は心の想いのままの人生ですが、生命は自己の幸福を願うものですので、自然に幸福になります。

実は、呼吸を制御するとか、強いイメージを描くというのも、生命を危機に追い込む方法なのです。
呼吸はともかく、なぜイメージが・・・という疑問を持たれると思いますので、最後に少し説明します。
例えば、月給20万円の人が、月給100万円の自分を強くイメージしたとします。すると、その人にとって、月給100万円の強いリアリティができ、月給20万円では生命にとって都合が悪いのです。そこで、その人を構成するエネルギーは、その人を月給100万円にしてしまいます。
苫米地英人さんが説くホメオスタシスの働きによる成功法は、おそらく、基本的にそんなものだと思います。これは、昔、中山正和さんが本に書いていたことです。


瞑想と潜在能力―"直観瞑想"で眠れる才能を呼び醒ます
30年も前に、中山正和という天才は、「ザ・シークレット」など、21世紀に世に知らされる法則を論理的に解明していたように思います。
さらに、この本では、とても面白い禅問答を使って、心の潜在的傾向性をクリアにすることが可能です。なんとも貴重な本と思います。

新修 南北相法・修身録(全)
何度もご紹介しますが、特にこの本の後半部の「相法修身録」の価値は実に大きなもので、これを読み、少しでも食を慎む意味を知るなら、人生に雲泥の差が生まれるに違いないと私は思います。

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2010.01.07

窮屈な味

「ちっちゃな雪使いシュガー」というアニメで、主人公の11歳の少女サガが、アルバイトをしていた喫茶店に来店した、劇団員でピアニストのヴィンセントという青年にコーヒーを入れる場面がある。
一口飲んだヴィンセントに、「どうですか?」と尋ねるサガ。サガは全力を尽くして入れた(煎れた)のだった。

サガは、どうもヴィンセントが気にかかる様子だが、好意的というよりは抵抗がある感じである。
幼くして両親を亡くし、祖母と暮らすサガは非常にしっかり者で、年齢に似合わないほど何事もきっちりとしている。一方、ヴィンセントは、肩の力が抜けた気楽な人間で、有名なオーケストラのピアニストを辞め、旅回りの劇団にいた。サガの母親は優れたピアニストだった。その母親を早くに亡くしたサガはピアノを神聖なものと考える傾向があるが、ヴィンセントは音楽とは楽しいものだと考えているようだった。このあたりにも、サガがヴィンセントに違和感を感じる理由もあるようだった。

サガにコーヒーの感想を聞かれたヴィンセントは、「なんだか、窮屈な味だね」と言う。
サガは、それがいつまでもとても気になり、ある時、ヴィンセントにその意味を尋ねるが、ヴィンセントに「そんなこと言ったっけ?」と言われてしまう。
お気楽を通り越し、いい加減な男と見なされたヴィンセントはサガに嫌われてしまう。ヴィンセントはそれに気付いているかどうかは分からないが、気にした様子もない。
だが、ヴィンセントの力が抜けた雰囲気は心の広さから来るもので、それは心の強さをも意味していた。そして、彼は本当は純粋な心を持ち、優しく温かい人間だということをサガも理解し、最後はヴィンセントを好きになる。それは、恋心にも近い雰囲気もあったが、まだサガは幼かった。実際、サガがもう少し大きかったらお似合いのような気はした。

これらのことが、私には印象的でよく憶えている。
ヴィンセントの「窮屈な味だね」は、その時のサガの様子をそのまま口にしたのではないかと思う。
ヴィンセントは、頑張り過ぎるサガに、「もっと力を抜けよ」とでも言いたかったのだろう。

お釈迦様は若い頃、悟りを求めて、激しい苦行を行っていた。しかし、その最中、1人の村人が「琵琶の弦は締め過ぎると切れるし、緩め過ぎると音が悪くなる」という意味の歌を歌うのを聴き、快楽はもちろんだが、度の過ぎた苦行も正しくないと悟って苦行をやめる決意をする。仏教の、極端を戒める思想は中道として知られる。これはバランスを意味する。中庸と同意としても良いが、仏教学者のひろさちや氏は、昔の本であるが、中庸はぬるま湯であるとして区別していた。
徳川家康の「過ぎたるはなお、およばざるがごとし」も同じ意味と考えて良いと思う。

で、このブログでもよく取り上げる食の慎みの話であるが、少食の実践に取り組む人の中には、あまりに厳格な少食にこだわる人もいれば、少し食を慎んだかと思ったら、大食いしたり、かなりチョコレートを食べたりとバランスの悪い人が多いのではないかと思う。
まあ、私も最初の頃はやり過ぎたクチで、やはり「窮屈」だったかもしれない。
私は、食の慎みについては、いくつかの、あまり極端でない決まりごとを作り、それだけをしっかり守れば良いと思う。
私の場合は、食事の時以外は食べないこと。つまり、間食をしないこと。肉やお菓子を食べないことが決まりごとである。
ただし、飲み物は適度であれば甘いものでも良いし、朝やお昼に、ハチミツや黒砂糖、あるいは、キャンディ程度のものであれば、少しなら良いとしている。少しとは、ハチミツなら小さじ一杯。黒砂糖なら1かけら、キャンディは1個とかであるが、それも厳格でなく適当で良い。
ただ、今のところ、1日1食にだけはこだわっている。しかしそれも、お正月や来客時だけは守らなくて良いとしている。

「ちっちゃな雪使いシュガー」のテレビ放送終了から1年数ヶ月後、特別編が2話制作された。その最後の方で、16歳になったサガが、11歳の時と同じように塔を駆け上がる場面があった。以前と同じように、管理人のヘンリーに、ポットに入れたコーヒーを届けるためだった。
あまり変わらない雰囲気ではあるが、少し柔らかく落ち着いた声になったサガ。窮屈さはもうなく、もしヴィンセントと逢えばロマンスが生まれるかもしれないと一瞬思ったが、やつには勿体無いという親心を抱く私であった(笑)。

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2010.01.06

本人が認識しない超能力

真偽の程は分かりませんが、何かの雑誌で、著名な経営コンサルタントの船井幸雄氏がご夫人の不思議な能力のことを話されていた記事を読んだことがあります。船井氏は、奥さんがなぜ自分と結婚してくれたかが謎だったようです。結婚した時、船井氏は、もう中年近い年齢で頭も薄くなりかけており、先妻との間の子供もいて、当時は金持ちでもなかったそうですが、奥さんはまだ非常に若かったようです。船井氏が言うには、奥さんは神様と話が出来、その神様が船井氏との結婚を勧めたようです。ところで、奥さんは、神様と話ができるというのは特別なことではなく、誰でも出来ると思われていたようです。

そういえば、テキサスの大富豪ロス・ペローも、「大富豪ロス・ペローという男」という本の中に、ペローの語録として、「妻がなぜ私と結婚してくれたか?それは今でも謎だ」と書かれていたように思います。ロス・ペローはとても背の低い男で、自分では醜男だと思っているようです。まあ、女性に限りませんが、結婚相手を選ぶ時、世間の常識に反していても、勘やフィーリングで決めた人も多いようで、それを即ち、神様のお導きというのかもしれません。政木和三さんは、「女性は結婚相手を勘で決めて良い。それを、収入だの学歴だの身長だのと考えるから失敗する」とよく言われていたと思います。
尚、聞こえるはずのない声を聞くという人は実際には割合に多いかもしれず、それが必ずしも病気というわけではありませんが、精神医学でも、そういった例が取り上げられることはよくあると思います。また、NLP(神経言語プログラミング)や、悪評もありますがトム・クルーズが信仰するサイエントロジーという宗教の教祖であり、世界的SF作家、教育家で、日本でも教育界のかなりの要職の方にも信望者のいるL.ロン.ハバートの世界的ベストセラー「ダイアネティックス」に、ありえざる声がはっきり聞こえる仕組みが書かれています(ここでは、あまり良いこととはされていないと思います)。

また、1980年代にメキシコの「ノーシス」というスピリチュアル思想を日本に伝えたメキシコ人ミゲル・ネリの本に、幽体離脱(精神が肉体を離れて活動すること)が出来る少女の話がありましたが、彼女は、それは誰でも出来ることだと思っていたとありました。

もしかしたら、不思議な能力の持ち主は、自分の能力を特別と認識しておらず、敢えて話しもしないので人に知られないということもあるのかもしれませんね。
で、実を言うと、この私にもあります。
ただ、私もまた、いまだそれが特別なことであるという思いがあまりありません。
よく考えれば、常識的には確かに不思議です。しかし、単なる偶然かといえば、あまりに起こる可能性が低い上、かなり頻繁に起こっていました。
それは、今風に言えば「引き寄せ」となります。昔は、牽引の法則とか言われることもありました。
私は、アポーツという物品引き寄せの超能力が情報や状況に対して起こったものだと考えていた時期もあります。
あるいは、シンクロニシティー(共時性。意味のある偶然の一致)やセレンディピティー(幸運な偶然)を意図的に起こしたと考えられるかもしれません。
簡単な例では、小学生の時、広い図書館で本を探す時には、何も考えずに気の向くままに適当な書棚に歩いて行けば、そこに目的の本がありました。
天体望遠鏡にも思い出があります。雑誌で、天体望遠鏡の記事があり、欲しいけど高いなと思っていましたら、1ヵ月後、誰かに何かを言ったわけではありませんが、急に従兄が自分の望遠鏡を譲ってくれました。それだけではありません。天体望遠鏡を持ったら、月の次は土星を見たいと思うのは、よくある発想と思います。しかし、私は土星の見つけ方など全く知りませんでした。ところが、土星を見たいと思い、夜空の星の中から、適当に選んで覗いてみたら、必ず、土星でした。同じように、木星、金星、火星を観測しました。中学生の時は、夏休みの自由研究で、木星とその衛星の観測記録を行いましたが、その時も、木星を見つけるのに天球図のようなものは一切使いませんでした。
また、何かもっともな原因があったのかもしれませんが、天体観測をしながら猫を集めたことがあります。猫を集めようと思って、ちょっと猫の鳴きまねをしたら、庭一杯に猫が溢れました。普通、さして上手くも無い猫の鳴きまねをちょっとやったくらいで、猫が何十匹も集まったりはしないと思います。
これらはまだ、比較的平凡な例で、もっと強烈なものもあります。
こうした現象は、年齢と共に、知識が増えたり、常識が身に付いたりすると発生しなくなるものもありますが、現在でも様々な形で続いています。例えば、つい最近のことですが、何年も逢っていない人に逢いたいと思っていると、帰宅途中にバッタリ出逢って驚いたことがあります。
再度言いますが、これらはほんの一例で、しかも、比較的穏やかな類のものです。

これらのようなことは、あまりに当たり前に思え、さして不思議だとも思っていませんでしたが、どう考えてもただの偶然ではないと思います。
どんな時、そんな現象が起こるのかと言いますと、強い願望があるか、あるいは、そうなれば楽しいなと思っていた場合であると思います。そして、あまり論理的に考えない時に起こります。後で論理的に考えると、絶対にあり得ないことでも、その時は論理的に考えずに引き寄せることができました。
ただ、いわゆる欲望ギラギラという場合は何も起こらないか、歪んだ形で現れるように思われ、駄目でもともとという、ちょっと醒めたところがあった方が良いような気もします。それで思い出すのは、美空ひばりさんの「柔」という歌にある「勝つと思うな 思えば負けよ 負けてもともと・・・」という歌詞です。作詞は関沢新一さんという、脚本家、写真家でもある人で、数多くの名曲の作詞や、有名なSF映画の脚本を書いている大変な人です。

ただ、自分で状況を引き寄せたということは、やはり誰にでも覚えがあるに違いがないと思います。
その感覚を思い出せば、望みのものは何でも引き寄せることができると思います。


マスターの教え
この本に登場する、富豪で、人生のあらゆる状況を支配する力を持つマスターは、「不思議なことはよく起こっている」と言い、その原理を明かします。
マスターは、自分が使う成功の技術は、自分の家に伝わるものであり、何ら特別なものでないと言いますが、それは「ザ・シークレット」で言われる「シークレット」のようにも思われます。そういえば、本書も「ザ・シークレット」も翻訳者は山川夫妻です(「ザ・シークレット」は他に佐野美代子さんが加わっています)。「シークレット」を使い込んだ者の指導書とも言えるかもしれません。斎藤一人さんも、著書で、この本の内容を引用しておられました。

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2010.01.05

一番優しい人

あなたが、「一番優しい人」と思うのは誰でしょうか?
私なら、小説の中の人物ですが、ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」に登場するミリエル司教です。私は、小学5年生の時にこの小説を読んだ時、ミリエル司教の行いに、おそらくは畏敬(心から恐れ敬うこと)に近いものを感じたのだと思います。
「第2の聖書」とまで言われるこの歴史的名作の重要な部分であるミリエル司教のお話は、ご存知の方が多いと思いますが、簡単にまとめると以下のようなものだったと思います(正確でないかもしれません)。

貧しさから、家族のためにパン1つを盗み、なまじ高い身体能力と家族を思う心を持っていたことから何度も脱獄を企てたために19年も牢に入った後、放免されたジャン・ヴァルジャンは、懲役人用の通行証のため、民家はもとより宿屋にも泊めてもらえず、長い道を歩き続け、寒さと空腹に疲れていた。野宿するにも雨が降りそうだった。その中で、1つの家の門を叩くと、中に入れてもらえた。ジャン・ヴァルジャンは、その家の者に、いきなり自分の素性を話して聞かせた。食事と宿を得る寸前に、素性を聞かれて追い出されるということを何度もされたので、どうせなら、最初から追い出されようと思ったのだ。
しかし、その家の主、ミリエル司教はそれを聞いても何事もないように、使用人にただ、「食事をもう1人分」と言い、さらに寝所の用意を指示した。使用人もただ淡々と従う。
驚き、感激するジャン・ヴァルジャン。しかし、ジャン・ヴァルジャンはその夜、この家から銀の食器を盗んで逃げる。だが、逃亡中、憲兵に目を付けられ、調べられて銀の食器が見つかってしまう。ジャン・ヴァルジャンは、苦しまぎれに、銀の食器はミリエル司教にもらったというが、憲兵にミリエル司教のところに連れて行かれてしまう。また牢に戻ることになるしかないという絶体絶命の状況の中、なんとミリエル司教は、銀の食器は確かに自分がジャン・ヴァルジャンに譲ったと言い、さらに、銀の蜀台もあげたのに忘れていったので困っていたのだと言って、それもジャン・ヴァルジャンに渡した。

ミリエル司教の行いについては、甘過ぎるなどの批判もあると思います。
ジャン・バルジャンが心を入れ替えたのは、あくまで小説の中のこととも言えます。
それについては何も言わないでおきましょう。

私の知る限り、人として最も優しいのがこのミリエル司教としても、それを上回るかもしれない存在が仏教の浄土教(浄土宗、浄土真宗、時宗の3つの宗派を合わせて、ここではこう書きます)の仏である阿弥陀如来です。
阿弥陀如来は、別名、無量寿仏(無限の寿命を持つ仏)、無量光仏(無限の光を持つ仏)とも言われます。
この阿弥陀如来は、ただ自分の名を呼びさえすれば、いかなる大罪でも赦され、死後は極楽浄土に生まれることができることを保証しています。これは、浄土教の聖典である阿弥陀三部教の1つ、「観無量寿教」に書かれてあることです。
ローマ・カトリック教会式のキリスト教はもちろん、仏教でも他宗の場合のような、天国や極楽浄土(極楽浄土は天国よりはるかに良い処とされる)に入るための厳しい制約は何もなく、懲罰的なものも一切認めないのが阿弥陀如来の絶対的ポリシーであり、このように、阿弥陀如来は限りない慈悲の心を持った存在です。

さて、この世、人生、宇宙、神・・・何と呼んでも構いませんが、それは、あなたにとって、ミリエル司教や阿弥陀如来のように優しいでしょうか?
この世は厳しいと思っているなら、その人にとって、この世は厳しいかもしれません。
人生はままならぬと信じているなら、人生はままならぬものではないかと思います。
あまり普通の人は、宇宙がミリエル司教や阿弥陀如来のように優しいとは思っている人はいないはずです。だから、世界は辛いものに満ちているのでしょう。
ミリエル司教は、人として神に最も近い存在であり、阿弥陀如来は宇宙の力そのものであると思うなら、質問に対する答はきっとイエスでしょう。

人は思うままに良いことや悪いことが出来るわけではないかもしれません。
それをさせるのは因縁の力であり、我々にはどうすることもできないかもしれません。
もしそうであるなら、罪は憎んでも、罪人を憎むことはできず、赦す力があるなら罪人を赦すのではないかと思います。
浄土教の「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀如来に全てお任せしますという意味で、自分の力ではどうにもならないことを阿弥陀如来を信じ、命を預けるという意味です。
私は、別に何かの宗教教団に属しているわけではありませんが、自分の行いや思いを支配する限界を感じることがよくあります。そんな時は、大いなる力に全て任せる合図として、念仏や特別な呪文も必要なのかなと思うことがあります。
南無阿弥陀仏やアーメンでも良いですし、「ザ・シークレット」に書かれていたアインシュタインの秘法「宇宙は友人のように優しいか?」という自問でも良いと思います(答は「イエス」ですね)。


あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
マハルシの最大の教えは「私は誰か?」と常に自分に問い続けることでした。しかし、もっと易しい方法として、神への全ての明け渡し、すなわち全託を薦めています。人生の全ての責任を神様に持ってもらうというものです。神は安心して全託するに足る、強大にして万能、そして、限りなく優しい存在であるということと思います。
ラマナ・マハルシを最大の聖者と見なす人は、あらゆる立場の人に沢山いて、死後半世紀以上を過ぎても、世界中から、彼の過ごしたアシュラム(宿泊所を兼ねた道場)を巡礼する人は絶えません。

いのちの教え―黒住宗忠に学ぶ自然体の生き方
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠の教えもまた、神様に全て任せ、日々、面白く過ごせば面白いことばかり、有り難いで過ごせば、有り難いことばかりが顕れるというものでした。

ザ・シークレット
最近、よくご紹介する本です。
今回のブログ記事の中で取り上げました、アインシュタインの秘法の自問は、もちろん、この本の中に書かれてありますが、偉大な考え方であると思います。

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2010.01.04

私がいるから世界は在る

日本人が、神様にお願い事をするのは、初詣と七夕が多いのかなと思います。
その時、願い事を絵馬や短冊に記して、はっきりと示したりもします。まるで子供が親に何かをねだるようなもので、日本人にとって神様がいかに親しいものであるかが分かります。
さて、願いが叶うなら、あなたは何を願うでしょうか?

谷川流さんの人気小説「涼宮ハルヒの退屈」(「涼宮ハルヒ」シリーズ第3巻)で、主人公の女子高校生、涼宮ハルヒは、七夕の願い事として短冊に「世界があたしを中心に回るようにしなさい」と書きます。
時期的にそれより少し前、シリーズ第1巻の「涼宮ハルヒの憂鬱」で、ある異常事態の中、もう1人の主人公であるハルヒのクラスメイトの男子キョンはハルヒに言っています。「世界はお前を中心に回っていたんだ」と。

世界が自分を中心に回るとは、世界中の出来事が全て自分のために起こるという意味でしょう。
太陽は自分のために登り、星は自分のために輝き、雪は自分のために降り、オリンピックは自分のために開催され、国連は自分のために運営される。
もっと規模を小さくしても、会社や学校は自分のためにあり、電車は自分のために走り、お店は自分のためにものやサービスを売っている。

かつて、インドの詩人タゴールは、アインシュタインにこう言ったそうです。「人が月を月と認識しなければ、月が存在できますか?」
「涼宮ハルヒの憂鬱」でも、超能力者、古泉一樹は、「人間原理」としてこう言います。「我、観測す、ゆえに宇宙在り」
物質的な欲望を全く持たないインドの聖者ニサルガダッタ・マハラジですらこう言います。「宇宙は私のものだ」
これらは、私がいるから世界は在るという意味です。

おそらくは、私達は何も願う必要はなく、ただ、世界が自分を中心に回っていることを楽しめば良いだけのことかもしれません。


大きく考えるための小さな本
今回のお話のようなことを、世界的量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフが、専門の量子物理学で、しかし、分かりやすく教えてくれます。

涼宮ハルヒの憂鬱
シリーズ650万部以上の発行数とも言われる涼宮ハルヒシリーズの第1巻。若者向きと侮るなかれ。この中で説かれるこの世の法則は妙にリアルです。

ザ・シークレット
上で紹介した「大きく考えるための小さな本」の著者フレッド・アラン・ウルフ(本書ではウォルフ)も登場する、古代からの叡智を、様々な方面の高度な専門家が普通の人になんとか理解させるよう、あらゆる工夫をしたような本と思います。
ある意味、涼宮ハルヒの力を得る方法と言えなくもないと思います。

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2010.01.03

食の慎みは明るく楽しく

私も、お正月だけは1日1食でも、粗食、少食でもありません。
なぜそうするのかと言いますと、お雑煮やおせち料理くらいは家族に付き合わないと・・・とか、来客があるので一緒に食べないといけないし・・・とかは言い訳のように感じます。やはりお正月料理は美味しいのと、私が本当は食い意地が張っているせいでしょう。私は生来の少食では決してありません。
また、お正月だけは、お菓子を食べても良いとしていますのですが、わざわざ良い栗きんとんやヨウカンを用意しており、まあ、かなり存分に食べております。
ただ、満腹するまで食べることや、1日2食を超えることだけはなんとか避けています。4日からは、普段の食事に戻すつもりですので。
そして、食べた分は運動しています。
毎日、腕立て伏せを3百回。それに、ウォーキング、スクワット、腹筋運動も出来る限りやっています。
特に昨日は来客と一緒にご馳走を食べましたので、腕立て伏せは軽く5百回を超えました。ちなみに、私は腕立て伏せ愛好家です。
おかげで、正月休みですっかりたくましい身体になってしまいました。

もし、食事の時以外に食べることをせず、毎回の食事をちゃんと節制できるようであれば、3食食べても良いと私は思います。
しかし、私にはそのような器用な真似は難しいです。だから、1日1食とし、その1食を出来る限り節制することで、食の慎みを実現しています。
それに、1日1食で、しかも満腹を避けていると、その食事が実に美味しいからそうしているというのも本当のことです。しかも、食費は安価で済みますし、身体に良いシンプルなもので十分満足できることも大きなメリットです。
私の少食、粗食は決して苦行でなく、明るく楽しいものです。
明日からは、1日1食に戻し、空腹を喜びたいと思います。

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2010.01.02

年賀状が来ないということについて

もし、自分に来る年賀状の数が少ないことを恥ずかしいと思っている人がいるなら、とんでもない思い違いです。
もちろん、沢山来るのは良いことですし、そこそこに来るのも良いことです。
しかし、ほとんど、あるいは、全く来ないことも良いことです。

私の親やきょうだいには、毎年、大量の年賀状が届きました。
私に来るのはほんの僅かでした。ところが、親はいつまでも居間で年賀状をいじりながら、それについて話し続けていますので、昔の私はいたたまれなかったものです。
1枚も来ないなら、まだマシなのですが、なまじ数枚来るから余計に恥ずかしい気がしたように思います。

しかし、年賀状が来ないということは、世俗を超えていることの証明です。それは素晴らしく良いことです。
年賀状に必ずしも心がこもっているとは限らず、むしろ、単に表面的な儀礼でしかないかもしれません。
本当の心の交わりがあれば、むしろ、それを示す形は本来は不要なものです。
もちろん、心に不安を抱える普通の人にとっては、親しさや愛情を形や言葉で示すのは良いことです。しかし、それは個人的、独自なものであるはず。
西洋では、恋人、夫婦、親子が度々、愛していると言葉で言い、キスをします。そうやって愛情を確認しないと不安だからです。そして、それが形式化した時、夫婦は別れ、家庭は崩壊します。
愛情表現が派手で、経済が豊かな国では昔から離婚は大変に多く、そんな国の真似をしているうちに日本の離婚も非常に多くなってきました。日本人は、世間体を重視してなるべく離婚したがらないことを考えると異常な数と言っても良いと思います。
ある調査では、米国の家庭の85パーセントは崩壊状態であるらしい。残り15パーセントは健全であるのではなく、単に崩壊している証拠が無いというだけのことです。
電車の中など、人目のある場所でこれ見よがしに愛情表現をするカップルはすぐ別れるのではと思います。アメリカあたりでも、まともなカップルの愛情表現は、古い日本人が見ても、微笑ましい程度のものです。
親愛を形式で示すことは、実は恐ろしいことであるかもしれません。
シェイクスピアの「リア王」の教訓を思い出すことも良いと思います。

大切なのは、もっと違う親愛や優しさを知ることです。
今後、そんなお話をしていきたいと思います。

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2010.01.01

良い予感

元旦早々、私が目標として心に置きたいものが浮かびました。
それは、「無批判」というものです。
何物も何事も批判しない。自分すら!
心が宇宙を作り出す仕組みが分かれば、論理的にもそれが良いことであると思います。
心は、批判、非難するものを創り出します。
しかし、批判しないと思っただけではうまくいきません。心は批判が大好きです。だから世間も批判が大好きなのです。
批判、非難、あるいは憎しみの想いは必ず顕れます。それをうまく処理する方法を知っていれば、人生、勝ったも同然です。
尚、自分が批判されることについても正しい考え方が必要です。
それは、「本物は必ず(世間に)批判される」です。
間違っても、批判に批判で応えてはいけません。ただ、幸い、それは私にもできるようになったと思います。
後は、何も批判しないこと。さらに批判するものを創り出さないことです。

ポール・マッカートニーは、悩み苦しんでいた時、聖母マリアが顕れ「あるがままに」という警句を与えられたと“Let it be”で歌っていますが、私の場合は「捨てよ」という声を聞きました。
同じ意味であると思います。
「あるがまま」は止揚、「捨てよ」は分別の放棄。いずれも、批判を超えることから始まります。

胸の紅蓮を貫いた 彼女の声はepigram
~KOTOKO“Sociometry”より~

良い年になりそうです。

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