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2010.05.31

疑う力と諦める力

ギリシャ神話のオルフェウスの話は、断片的にでも聞いたことがあると思う。
オルフェウスは、死んだ妻、エウリュディケに逢いに冥界(死者の国)を目指し、苦難の末、冥界にたどり着く。
オルフェウスの奏でる竪琴の音は冥界中を感動させ、冥界の王ハーデスは、自分のもとまで見事にたどりついたオルフェウスの心の強さと、竪琴の腕前に免じ、エウリュディケを地上に返すことを約束する。
ただし、地上へは、オルフェウスが先に立って歩き、エウリュディケは黙って後ろからついていくが、地上に出るまで、オルフェウスは決して後ろを振り返ってはならない。
オルフェウスは言われた通り、地上に向かって歩くが、本当にエウリュディケがついてきているのかという疑いの心が起こり、それが強くなってくる。
そして、とうとう後ろを振り返ってしまい、エウリュディケが生き返ることはなくなる。

このお話は、何事であれ、目標を立てたら振り向いてはならないという戒めとして語られることが多い。
人間は、信じて疑わなければ、いかなる望みも達成できる。
しかし、デカルトが「疑っている私は確実に存在している」と言ったように、疑うことこそ人間の本性であるのだ。
神である冥界の王ハーデスは、オルフェウスが振り返ってしまうことなど、最初から分かっていたはずだ。
つまり、オルフェウスには最初から願いを叶える望みなどなかったのだ。
そもそもが、いかに愛する妻とはいえ、死んだ人間を生き返らせて欲しいなどというオルフェウスの願い自体が間違いであった。

ところが、デカルトは「疑っている私は確実に存在する」と言ったが、なぜ疑えるのかというと、自分の中に神がいるからだと言っているのである。
でないと、美味しそうに見える毒キノコをたやすく食べてしまうだろう。
疑うことは、神が人間に与えた最高の能力だ。
しかし、疑うことなく信じなければ願いは叶わない。
神は人間に最大のジレンマ(あっち立てればこっち立たずの状態)の与えた。
だが、解決は意外に簡単だ。
諦めてしまえば良い。
オルフェウスは、もともとが死んだ人間を生き返らせるという願いが無茶なのだから、駄目でも仕方がないと諦めていれば振り返ることはなかったのだ。
美味しそうに見えるキノコも、疑うなら、諦めて捨てれば良い。

政木和三さんがよく言っていた話がある。著書にも書かれていたと思う。
子供が大怪我をして絶望的な状況にある人に、政木さんは、「助からないから諦めろ」と言った。
その上で、「子供が助かり、ありがとうございました」と、過去完了形で祈れと言った。
子供は奇跡的に助かった。
だが、これは、両親が本当に諦めることができたから起こった奇跡だ。欲望のために、諦めたフリをしても駄目である。

諦めるとは、「駄目なら仕方ないじゃないか」という、大いなる開き直りである。
よく、「死ぬ気になれば何でもできる」と言うが、命を諦めることが最大の諦めであるからだ。
そして、食べなければ死ぬのであるから、食べることを諦めることが命を諦めることだ。
少しでも食べることを諦めることで、諦め力とでもいうものを磨けば確実に力を持つようになるのである。
我々の滅びは、命を諦めない限り免れない。
命と引き換えに出来ること。すなわち、叶わぬなら死んでも仕方ないと本当に思えることは何であろう。それが、あなたの真の願いである。


【冥界のオルフェウス】
今回取り上げたオルフェウスのお話や、ニーチェも問題としたアポロン(理性)対ディオニュソス(狂気)を面白く読める「ディオニュソス覚醒」が収められた本巻は、里中満智子さんの漫画ギリシャ神話の中でも最上の1冊と思う。

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2010.05.30

新しい世界

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、なぜ14歳で故郷のオーデンスの村を出てコペンハーゲンに行ったのだろう?
女の子のように内気で、ひょろひょろした身体つきのか弱い少年だったのだ。
その時、彼は役者になるつもりだった。しかし、彼に役者の才能は無かったし、彼自身、そう強く役者を志していたわけではないだろう。
こういうことだ。
オーデンセの村で生きる限り、彼は何かの職人になるしか道はなかった。彼は、職人になるのが死ぬほど嫌だったのだ。
ただ、職人という仕事自体を嫌っていたのでは決してない。
職人の徒弟制度を含めた世間のあり様というものを、どうしても受け入れられなかったに違いない。
職人の親方はワガママ放題で、弟子はそれを甘んじて受けるしかない。そうでないと、技術を教えてもらえず、生きていけない。
もし、親切そうな親方がいて、アンデルセンに「僕のところにおいで」と優しく微笑んでいたなら、ハンスは職人になっていたと思う。しかし、幸か不幸か、そんな親方はいなかったのである。
とにかく、彼はそんなところから逃げたかった。それでコペンハーゲンに出たのだ。
役者で生計を立てていくことは無理だということは、やがて彼にも理解できるようになる。
そして彼は詩や小説を書くようになり、才能を発揮し始める。彼は、元々、寓話や神話が好きだったのだ。彼の育った家には、本は1冊しかなかったのだけれども、それでも、幼い頃、母親にその本を繰り返し読んでもらうことを楽しんでいた。

アンデルセンの時代も、現代の我々も根本的には変わらない。
学校や社会が居心地が悪く、辛いというのは、そこにある集団思想にはまり込んでいないのだ。世間の流儀が気に入らないのだし、それに嫌悪感や恐怖や、おぞましさを感じるのだ。
そうでない人間であれば、世間の中でそこそこにやっていける。
世間の中の大衆の妄信、慣習で形成されるものを、共同幻想と言っても良いかもしれない。
アンデルセンは、共同幻想に取り込まれなかった。それは良いことではあるのだけれど、それでは辛い目に遭うのは避けられない。
もちろん、そんな人間が現在の世の中にもいて(多くはないだろうが)、そんな者は引きこもるか、辛さに耐えて平凡な民衆として生き、心を疲れさせ、生命力を使い果たしていくのだろう。

そして、現在は、大衆思想にますますどっぷり浸かる者と、そこから抜け出そうとする者に分かれてきており、後者の人間も増えているのである。しかし、やはり大衆の教義や信念から逃れようとする者は少ないし、それをしようとすると苦しい試練に遭う。
だが、本当は人間はそれをやらないといけないのだ。
残虐な行為や戦争をするのは大衆である。人間は、一人一人は良い人間でも、大衆になると平気で残虐なことをするのだ。
イェイツもエリオットも「大衆に真理はない」と断言するが、それは当然である。
学校で優等生になったり、サラリーマンで出世する者の行き着く先は悲惨しかないことは、ちゃんと見ればもう明らかだ。
世間に反発するのではない。反発すること自体、それに同調するということだ。心を逸らすのだ。距離を置け。そして、冷静に観察しろ。世間と、それに対する自分の反応を。熱狂など必要ない。
大衆幻想を打ち破ると、自分の真の姿が見えてくる。それは消して弱くは無いし、無能ではない。むしろ、恐ろしいほど優秀である。世間で言う意味とは全く違ってね。
人類の次のステージへの進化とかアセンションはそこから始まる。旧時代の人類の滅びはすぐである。とは言っても、それは必ずしも外面的な大変動が起こることを意味はしない。知らないうちに世界が変化してしまっているかもしれない。そんな世界では、あなたは、どの家にも自由に入っていける。自分の家に知らない人が自然に入ってきて、お互い快適である。「そんなの嫌だ」と思う人は、残念ながら旧人類として滅ぶかもしれない。


【アンデルセン自伝―わが生涯の物語】
この本の翻訳者、大畑末吉氏によるドイツ語版からの翻訳は実に昭和11年に出版されており、後に、前半部分をデンマーク語版から訳しなおしたのが本書で、初版は昭和50年。
アンデルセンの自伝は、本人も言うように、それ自体物語(メルヘン)であり、そのつもりで読んでも実に面白く美しいということを言っておきたいと思う。
著名な作家となった後、ひたすら旅を続ける中で、アンデルセンは、バルザック、ユゴー、ハイネ、グリム兄弟らとも出会う。しかし、イタリア、ペストゥームのギリシャ神殿の中で出逢った11歳くらいの絶世の美少女を賞賛する箇所が極めて印象的だった。この盲目でボロをまとった少女をアンデルセンは、『即興詩人』にも登場させる。彼が、美の化身、生ける彫像、女神とまで言った少女は、本当に神殿に住む女神だったとすら思える。

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2010.05.29

人生はなぜ辛いか?

人生は楽しいものだ、良いものだという賛歌には心踊ることもあるのだけれど、そんなものにはどこか嘘っぽさを感じるだろう。
徳川家康は、「人生は思い荷物を背負って遠い道を行くようなものだ」と言ったらしいが、こちらの方が素直に納得できるに違いない。
人生は辛いものだ。
では、なぜ人生は辛いのだろう?
それは、人間は食べなければ生きられないし、着るものや住むところも必ず必要だからで、しかも、それらを十分に得られないと不名誉だからだ。
早い話が、生きていくためには金が必要なのだが、金というのは、沢山あるところから順に回ってくる仕組みになっている。
納税額で日本最高クラスの斎藤一人さんが、「金の良いところは、沢山持っていると嫌なやつに頭を下げなくて良いこと」と述べていたのが、実に生々しい。
逆に言えば、金がないと、嫌なやつに媚びへつらわないといけないのだ。
どんな相手だろうと、金のあるやつには逆らえない。

「神無月の巫女」というアニメで、世間の辛酸を舐めた兄が、何不自由のない生活をしている16歳の弟に言った言葉が、人生の辛さをストレートに表現していた。
「お前は路地裏で残飯を喰ったことがあるか?」
「殺したいほど憎い相手に、はいつくばって命乞いをしたことがあるか?」
他にも、「信頼していたやつに後ろから撃たれたことがあるか?」というのもあったが、それも突き詰めれば人間の弱さが生むやるせない事情だ。
何なら、「心から崇めていた女に裏切られたことがあるか?」とかもあっても良いかもしれない。

なら、話は簡単ではないか?
貧乏が嫌なら金を稼げば良いし、虐げられるのが嫌なら権力側に取り入り、やがては自分が権力者になれば良い。
しかし、それも、表面の意識では気付かなくても、心の奥では辛いことなのだ。
それは、大衆という悪魔にひざまずくことであり、悪魔の本体に近付くほど、金は多く手にするが、辛さも増大する。ある意味、心が強くないといけない。
「鈍感力」なんて本がロングセラーになっているのは、この本には、この悪魔に近付く辛さを忘れる方法が書かれているからだ。金持ちや権力者になりたければ必須の本だ。
だが、鈍感力なども誤魔化しで、辛さは癒えない。
持てる金の量なんて、辛さに耐えられる心の度合い次第であるのだ。
そこそこの辛さに耐えるなら、そこそこに得られるが、その場合は、金のない辛さも同時に味わう。
トータルでは、金持ちも貧乏人もさして変わらない。金持ちと貧乏人に自殺者が多いのは、辛さが一時期にまとめて来る場合が多く、心の耐性の限界を超えてしまうからだ。

こうしてみると、金はあってもなくても辛さは免れないということだ。
もし、真の幸福というものがあるとすれば、金も権力もなくても、衣食住が満たされることだ。そうであれば、精神の向上を図る余裕も出来るかもしれない。
それは夢物語のように感じる。
だが、それを夢物語に感じさせるのが、大衆という悪魔の最大の戦略かもしれない。
人間の嘆きこそが悪魔のエネルギー源である。
我々の視力が、この世に溢れる電磁波のほんのわずかな可視光線しかとらえられないように、世界は普通の人間の常識をはるかに超えている。
感覚を超えた力を得た時に、世界はあまりに広く、自分がこれまで、井戸の中のさらにくぼみの一つともいえないところを世界だと認識していたことに気付く。言い方がないので、その力を超感覚力と呼ぶが、人類を解放するものがそれで、悪魔がひた隠すものもそれである。


【神秘学概論】
超感覚的知覚を得る方法が、出来うる限り易しく書かれているが、普通の人は読み通すのが辛いだろうと思う。得られるものは大きいので、なんとかがんばって欲しい。

【神統記】
神話というのは、宇宙生成論、即ちそれは、精神の成長過程なのだが、それを比喩的に描いたものである。その知恵を借りずに人生に立ち向かうことは愚かしいとさえ言えるかもしれない。
ヘシオドスの神統記は、優雅な詩で書かれたギリシャ神話の真髄と思う。

【超訳古事記】
この著者の感性は凄い。古事記をこれだけ面白く、しかも、真髄をまともにとらえられる文章には驚嘆する。古事記こそ、日本人の知恵の宝庫と思う。

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2010.05.28

聖地巡礼の意味

和歌山県にある熊野那智大社という神社に、平安時代の後白河法皇は33回(那智大社では34回としている)参詣したという。これを、絶対的権力を持った後白河法王ですら不安にかられていたからだろうと言う人もいるが、真相は分からないだろう。
しかし、不必要な権力、地位、富を持てば、必ず不安を抱えるのは当然のことで、それを手放さない限り、安らぎはないだろう。

しかし、神社やお寺に参拝することは良いことと思う。
インドの聖者ラマナ・マハルシ(1879-1950)のアシュラム(道場)には、現在も世界中から多くの人が訪れると聞くが、生前、マハルシに、聖地巡礼は良いことかと尋ねると、マハルシは良いと答えたと聞く。
ベルナデット・スビルーという13歳の少女が聖母マリアと逢い、マリアの指示で掘ったことから湧き始めたというフランスのルルドの泉は、奇跡的な病気治癒の話もあるのだが、別にそれが目的ではなくても、聖地として巡礼する人も多いと思う。

ただ、神社やお寺で、商売繁盛や、受験合格等を祈願する人が多いが、私は、それはあまり良いことと思わない。ルルドに病気治癒等の願いを持って巡礼することについてもそう思う。
私は、聖地巡礼をすることは、聖典や神話を読むことと、本質的には同じ意味だと思う。ただ、聖地巡礼は非常に効果的なのだ。
我々が、神という言葉に違和感や淀んだイメージを感じるとしたら、その原因は大衆意識の歪みや汚れの影響である。本来、神という言葉ほど貴重で優れたものはないはずなのだ。聖地というものは、大衆意識から隔絶させてくれる場所なので、神を意識しやすく、神に近付きやすい場所であるから良いのである。
ただ、有名な巡礼地が、商売に利用されて、大衆意識を持ち込んでしまっている場所も少なくはない。そんなところは、場所そのものが悪いのではないが、巡礼の意味はなくなる危険が高い。イエスが、神殿で商売をしている者達を怒って追い出した理由がそれである。

南無阿弥陀仏といった念仏を唱えることも巡礼と同じことであり、終日(一日中)熱心に唱えるなら、その効果は計り知れない。そこに大衆の妄信が入り込むスキが少なくなるからだ。
念仏もだが、神の名を唱えたり、聖典や神話を読むことと、大衆意識は本来、非常に離れたものだ。しかし、欲を持ってそれを行うから、むしろ大衆意識に強く引き込まれてしまうのである。これを悪霊に付け込まれると言うのである。

巡礼に行くのは好ましいが、時間が無ければ、聖典や神話を無心に読めば、効果は同じである。
欲望を持たずに行う念仏や神の名の称名(本来は阿弥陀仏の名を唱えることで、念仏と同じ意味だが、神の名を心で唱えることも含める)も同様である。法然は、1日6万回「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えたというが、油断なく行えば、人類最大の敵である大衆の妄信や偏見に勝てる。そうなれば、その人は仏である。
仏教の経典のように、詩の形になっているものは大変に好ましい。大衆意識というのは詩やクラシック音楽と無縁だからだ。
だから、ギリシャ神話が、元々吟遊詩人によって伝えられたことは素晴らしいことであった。老子や古事記も、実は本来は詩である。

聖地巡礼に何かご利益がある訳ではないが、それを行う者がご利益の根源そのものになるのである。


【法句経】
非常に古いお経で、釈迦の純粋な教えであると言われる。本書は、平易で美しい詩で綴った名訳の誉れ高いもの。

【老子(全)】
中国語も日本語も自在な詩人によって、美しい詩で表現された老子。挿絵の水墨画も美しい。

【神統記】
ヘシオドスの格調高い詩で書かれたギリシャ神話の名訳。あまり細かなお話ではないが、それがかえって良いと思う。それぞれの神々についての聖い印象を得られるように感じる。

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2010.05.27

本当に大切な力

昔見た日本映画で、こんな場面があった。
炭鉱の経営者が、炭鉱労働者のことを見下してこう言う。
「あいつらは、金も地位も名誉もない。3つともない。これをみっともないと言うんだ」
我々が幼い頃から叩き込まれる信仰がこれである。

梶原一騎の原作による、およそデタラメな漫画が、日本人の心の柱になるほどに支持されたのは、一応は、この世間の信念に逆らっていたからだ。
格闘ものやスポーツ根性(スポ根)ものの作品を通し、「金、地位、名誉より、純粋な肉体の力こそ本物」という単純な主張が、上に述べた世間の大嘘に苦しめられている民衆の心の拠り所になったのだ。
手塚治虫は、梶原一騎の作品を見て、「これのいったいどこが面白いのか、私に説明してくれ」と言ったそうだが、手塚治虫にはそれが分からなかったのだ。あまりに簡単過ぎて分からなかったのだろう。
梶原一騎の作品は、簡単過ぎ、分かり易過ぎて、日本人の進歩を阻んだ。彼の主張もまた嘘だと分かったら、人々には、次に向かう場所が全く分からないのだ。だから、嘘であることに気付いてもそれを認めないのである。

アメリカでは、1950年代の経済バブルの中で心を病んだ人達に、「一番の力は信念なのですよ」と教える人達が出てきた。
しかし、これは失敗だった。それは容易く、「信念の力で、金、地位、名誉を求めましょう」とすりかえられてしまうのだ。それで、人々は、何かおかしいなと感じながらも、ナポレオン・ヒルやポール・マイヤーを崇めることを続けた。言っては悪いが喜劇である。悲惨な喜劇だ。
現在の、「ザ・シークレット」や「引き寄せの法則」が、一抹(ほんのわずか)の真理を含みながらも、人々を幸福にしないのもそのためだ。
しかし、現在の人間はどんどん動物的になってきた。
「金、地位、名誉」だったのが、「金、地位、性的魅力」になっているのだ。

本物の力は、金にも地位にも名誉にも性的魅力にも何の関係もない。
その力は、求めれば必ず得られるのであるが、世間の力を崇める限り得られないものだ。
まずは、偽者の力を手放すしかない。
難しければ、まずは、美味しい食べ物やいい女(男)を世間の人間共に譲るのだ。そうすれば、実に簡単に分かることだ。

そして、神話を読むと良い。
そういえば、素晴らしい古事記の現代語訳を見つけた。
正確な訳ではなく、かなり個人的な意訳で、学術的に正しいとはいえないかもしれない。
しかし、学者の名誉にこだわる者にはできない訳であり、善意と知恵が感じられ、本気で古事記の心を伝えようとするものだ。
天孫降臨までであるが、私は、正直、古事記はそこまででも良いと思う(もちろん、その後も面白いが)。すぐに読み切れ、実によく分かると思うが、肝心なことはむしろ詳しく書かれている。
下にご紹介する。


【超訳 古事記】
鎌田東二著
鎌田東二オフィシャルサイト

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2010.05.26

神話の力

神話というものは、心の中の物語だと思います。神話の神々は、心の1つの特性を表します。
しかし、神話は決して小さなものではありません。なぜなら、心が世界を創るからです。心には創世の力があります。
神話は壮大であると共に、実にリアルなもので、実際、神話に馴染むほど、そう感じてきます。
およそ、偉業を達成した者で、神話に通じていない者はいません。

エジプト、インド、ギリシャ、ケルト、中国、日本などの神話には、驚くほどの類似性がありますが、それぞれの地域の神話が別の地域に伝わったからと言うより、それ以前に、元々同じような神話が各地にあり、それらは容易く融合されてきたのだと思います。
国や時代による、文化や風俗習慣の違いというのは驚くべきほどですが、人間は根本ではやはり同じ心を持っています。
文化の表面的なものは、共同幻想である大衆心理が創ったものかもしれません。しかし、民衆の妄信や偏見を除けば、何も違いはありません。
人間を深く理解するためにも神話を知ることは重要であり、実際、神話に通じていることが知識人の条件であるとみなされることはよくあります。

キリスト教の原罪(人類が犯した最初の罪)は、人間が知恵の木の実を食べたことですが、ギリシャ神話では、人類初の女性であるパンドーラが、神々から贈られた箱(実際は壷に近い)を開けたことでした。パンドーラの箱には、この世の災厄が全て封じられていましたが、それが世の中に出て行きました。しかし、それはあくまで神からの贈り物であり、その中には、希望も入っていました。
CLAMPの人気漫画「カードキャプターさくら」は、このパンドーラのお話を基にしたものと思われますが、災いを味方にしてしまうのもまた心であることを示した新しい神話でした。

悩みや苦難がある時、神話を読んで解決のヒントを得たり、深刻な状況から救われることもよくあることです。
神話は、自分に必要なことをある神の特性としてさりげなく示してくれるからです。
また、人生の目的ともいうものを、やはり、ある神の特性として感じることもあります。
ギリシャ・ローマ神話の人気のある神といえば、やはりアポロンで、人間の1つの理想を示します。しかし、その双子の妹アルテミスともども、美点はあっても決して欠点がないわけではありません。何事にも両面があり、アルテミスは純潔を重んじるあまり、自分を慕う妖精の美少女に絶望を与えたこともありました。
知恵と戦いの女神アテーナーもまた人気のある神で、神々の王ゼウス(ジュピター)に匹敵するほどの力を持つと言われますが、ゼウスもそうであるように、時には不幸な出来事を起こしてしまうこともあります。しかし、それらもまた必然とも言えます。
私の場合、ギリシャ神話のエリゲネイア(曙の女神エオス)に心惹かれるものがあります。天の神々や地上の人間全てに光を与えると言われる神です。私は、エオスを、日本の神では、稚日女尊(わかひるめのみこと)という、天照大神の妹神と結びつけています。若く、みずみずしい女神の光は闇を払う曙の光のように感じます。私は、有名な天照大神の天の岩戸の話で、岩の中に入ったのはむしろ稚日女尊だったのだと思っています。あの出来事は、スサノオの所業で命を落とした稚日女尊の復活の儀式のようにも思います。また、稚日女尊が天照大神自身という解釈も可能で、天照大神の力の復活や、闇を払う曙の光としての権能の象徴にも感じます。

漫画の有り難さを強く感じます。それが、繊細で美しい絵を描くだけでなく、深い洞察力を持った偉大な漫画家の里中満智子さんの作品であるならなおさらです。ヘシオドスの神統記や、その他のギリシャ神話を読む前に読んでおくと、実に分かりやすくなるということもあります。

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2010.05.25

いつも忘れてはならないこと

過去数千年の間、我々がいつも思い出さないといけなかったことは、我々が人間であることだった。
我々は、動物や虫ではない。ましてや、悪魔でも餓鬼でも阿修羅でもない。
我々は人間であることを片時も忘れずにいる必要があった。
それを忘れた者達が、おぞましいこと、無慈悲なこと、あらゆる理不尽や浅はかで卑しいことを平気でやってきたのだ。
1人の人間であるより、大衆であることを選ぶことによって。
1人の人間として目を覚ましていることより、大衆の妄信の中で眠りこけることによって。
イエスは「目を覚ましていろ」と言ったが、弟子達でさえ、起きていることができなかった。

だが、いまや、我々は自分が神であることをいつも思い出さないといけない。
我々自身が神であることを方時も忘れてはならない。
欲望にまみれた大衆には、人間という概念はすっかり堕落し、それは動物以下になった。
だが、わずかではあっても、意識の進化した人間も増えてはきている。そんな者は、仮に大衆の中に居ても、大衆とは決別している。

神話の神々は、神の現れである森羅万象のそれぞれの性質を現している。
そして、全ての神々を統べる神々の王が、神とは何かを示唆している。神話の中ではごくさりげなく。
ゼウスは、美味しい牛肉を人間に配分し、骨を神の食べ物としたではないか?
美味しいが腐る肉は、若い間は強くて美しいが、すぐに老いさらばえ、醜く朽ち果てる人間の食べ物とした。永遠に若く強く美しい神は、腐らない骨を選んだ。
感覚や心の満足を求めるのが人間である。心やモノや時間や空間を超えたものが神の領分である。それが何かは、美味しい肉など、心や感覚を満足させるものを人間共に譲ることで分かる。
だが我々は、美味しい肉や、モノや、わずかな場所や、金や、世間の名誉を奪い合うだけのものに成り下がった。
それで、やむなく、口蹄疫(こうていえき)のような伝染病で、肉を喰う機会を失わざるを得ない状況を作って、人に自分が神であることを考えるきっかけを与える。

自分が神であることを忘れると、世界は暗く、悪いものがはびこり、希望は消える。
だが、自分が神であることを思い出すと、それは曙の光のように全てに光を与え、闇を追い払う。
それを、古事記では天照大神が示し、ギリシャ神話ではエオスに与えられた権能として示した。

まずは、美味しい肉を人間共に譲ることから、自分が神であることを少しでも示し、自分が神であることを思い出そう。常に、美味しい肉を人間共に譲ることによって。
美味しい肉を楽しむかわりに、すぐに腐り、朽ち果てる人間であることをやめる決意をすることによって。
参考程度に言えば、新鮮な野菜なんてのも、人間共に譲れば良いのではないか?
神に近い存在である仙人なんてのも、腐りにくい木の実や種や、挽いた穀物を食べるものだ。
神である自覚があれば、酒なんてのも、確かに百薬の長かもしれないが、人間が飲むなら麻薬でしかない。
食べ物以外に簡単に出来ることでは、電車の席や道を人間共に譲れば良い。我々は、それらも浅ましく奪い合う人間なのであるから。


【古事記】
日本の神々の物語といえば古事記ですが、読み難いものが多いです。この古事記は分かりやすいだけでなく、読ませる配慮があります。そこが一流の作家なのでしょう。決して、現在流行の刺激的な面白さではありませんが、神話を大切に扱った善意ある現代語訳の名著です。

【神統記】
ギリシャ神話も難しい本が多いですが、この詩で書かれたギリシャ神話は心の深奥に響いてくるものです。そして、名訳だと思います。また、神々の系統(親子関係や権能)も分かりやすく書かれています。

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2010.05.24

不思議な出来事が知らせること

昔読んだ、安藤一男さんの『「無意識」の魔力』という本に、服を着ている人の裸体を透視して、ほくろの位置まで言い当てたり、天候まで変えてしまうといった、安藤さん自身が出来る超自然力について書かれているのを見たことがある。
私は別に疑わなかった。私も似たようなことをよくやっていたからだ。
コゲどんぼさんの「かみちゃまかりん」という漫画の第1巻で、小学6年生の花鈴(かりん)という少女が、「自分の中に神様がいる」と感じていた時、「体育の時間に大嵐が来て中止にならないかな」と思う場面がある。彼女は、体育の時間に予定されていたマラソンが苦手だったのだ。すると、本当に嵐になる。私も小学6年生の時、同じことがあった。およそ雨など降りそうもない晴天だったのが、体育の時間の雨を期待したら、その時間の直前に不意に大雨になったのだった。
自分の都合で天候をコントロールすることは好ましいことではないが、例えば他のことでは、何の手段もなしに満天の星の中から土星を簡単に見つけたり、車の流れが多くてなかなか渡れない道路の車を消したりとかは、小さい頃に頻繁にやっていたと思う。

ちょっと余興に、割に最近、私に起こった、奇妙な偶然に感じるような出来事をご紹介しよう。

少し前に、アニメのDVDだが、「涼宮ハルヒの憂鬱(4)」を購入した。
それを手にした時、なぜか、昔、書店で見て、興味はあったが購入しなかった、コリン・ウィルソンによるルドルフ・シュタイナーの評伝「ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン」という本のことを思い出し、それを購入した。下の通り、ピッタリ同じ大きさだ。

Haruhisteiner_2

ところで、このDVDの付録は、いとうのいぢさんによる中学1年生のハルヒ(通常の物語中では高校1年生)のイラストと、コースター(コップ敷き)だった。

Dvdtokuten

このコースターを、この本に重ねて見たら、次の通りであった。

Stach_1 Stach_2

本の表題部分とコースターがまさにピッタリである。そして、この本は、昔のあの時に買っていても、当時の私にはほとんど役に立たなかったことは間違いない。しかし、このように、本のデザインとコースターが見事に一致したように、この本の内容は、まさに今の私が求めていたことにピッタリだった。それだけではない。私は、それまで、シュタイナーの本は何冊買っても、全く読み通せなかったのだが、意外にもウィルソンがそうであったことが、本の冒頭に書かれており、その理由というのが、私の場合とまさに同じだったのだ。
この本は、私がシュタイナーを学ぶのに、素晴らしい導きとなった。

コリン・ウィルソンは、英国の著名な作家であるが、小説家というよりは、思想家、哲学者であり、人類の救済を志す深遠な人間の研究者で、神秘研究家とも言えるだろう。彼は、世界的な心理学者アブラハム・マズローと深く交流していた。それは、マズローがウィルソンの著作に関する意見を手紙でウィルソンに送ったのがきっかけだったが、ウィルソンは最初、その手紙の内容がよく理解できず、放っておいたらしい。しかし、しばらく経ってから、その重要性に気付いて返事を出し、そこから始まった交流は、マズローの死まで続いた。その1つの成果として書かれたのが「至高体験」だ。
私は、この本と、アイルランドのノーベル賞作家で「20世紀最大の詩人」とも言われるW.B.イェイツの「神秘の薔薇」、そして、武内直子さんの「美少女戦士セーラームーン」14巻の3冊をテーブルの上に重ねたまま長く放っておいた。当時、私は、イェイツについて全く知らなかった。なぜ、「神秘の薔薇」を買ったのか、よく憶えていない。

3books

しかし、「至高体験」の序文に、「また、マクミラン社にたいしては、『W.B.イェイツ全詩集』からの引用を許されたことに感謝し・・・」と書かれていたのを見て驚いた。また、「美少女戦士セーラームーン」の中では、土萠ほたるという愛らしい少女が、イェイツの「再来」という詩を読む場面まであった。こんな偶然は、そうはないだろう。イェイツは、その後、私の人生に深く関わることになる。

Hotaruscomming

ところで、「美少女戦士セーラームーン」は、かつては知らない人はいないほどだったし、今でも大抵の人が知っているだろうが、子供向けの他愛ない漫画だと思っている人も多いと思う。この作品は著者の武内直子さんが23歳位の時に書き始めたもので、武内さんは、当時は既に漫画家に専念していたと思うが、彼女は元々は薬剤師をしながら副業で漫画を書いていた。この「美少女戦士セーラームーン」は、ギリシャ神話を高度にアレンジさせた作品で、単に神話の神様の名前が使われているとか、セレーネー(ギリシャ神話の月の女神)とエンディミオンの悲恋物語を基にしているとかいった単純なものではない大変な作品で、武内さんが天才であることを感じさせるものだと思う。でなければ、世界中で大ヒットしたりはしないはずだ。
また、上に紹介したコゲどんぼさんは、テレビアニメにもなった、彼女の初めての漫画作品「ぴたテン」をOLをやりながら書いていたが、彼女は、一度は漫画家になることを諦めていたようだ。彼女も、大変な創造力と洞察力のある、非常に霊的な作家と思う。
画家で啓蒙的講演活動をしておられた足立幸子さんは、著書「あるがままに生きる」(英語版は“To Live As We Are”)に、漫画家には意識の高い人が多くなっていて、その作品を読んだ子供たちの意識が覚醒していると書かれていたが、実際、そうであることを、私はネット上でも確認してきた。
尚、一部の超自然力の使い方では、ご紹介した、安藤一男さんの本『「無意識」の魔力』が参考になると思う。


【あるがままに生きる】
自分で予言していたようだが、若くして亡くなられた画家であり、啓蒙家であった足立幸子さんのある講演を本にしたもので、彼女の霊的な絵も収録されています。読む人の精神に優れた影響を与えるツールにもなっているようです。

【波動の法則】
上記の足立幸子さんのお兄さんで、建築家で波動研究家である足立育朗さんが、宇宙の高度な存在から得た情報を収めています。現代の我々の科学とはかなり異なっていますが、実に実際的で貴重なものであると感じます。1995年に書かれたものですが、話題の2012年のアセンションを暗示するようなことがかなりはっきり書かれていますし、今流行の「引き寄せの法則」も、欲望まみれのおかしな視点ではなく、自然で明晰な理解が出来るように思います。

【かみちゃまかりん(1)】
アニメのキャラクター(人物)デザインでも知られるコゲどんぼさんの描く絵は一種の神秘と思いますが、「神様とは」「神様が内にあるとは」ということを、子供にも分かるように示唆するような作品だと思います。

【「無意識」の魔力】
無意識(潜在意識)の中に潜む世間の常識を超越した強大の力に目覚めるための、様々な方向からのアプローチが分かりやすく書かれています。この中の、気に入ったもの1つでもモノにすることに大きな意義があると思います。

【至高体験】
ウィルソンは、ライフワークである人類の意識の覚醒について、マズローとの交流により大きく進歩させることができました。マズローの発見した至高体験を我々にも極めて身近なものにし、そこから人間の無限の可能性に至る道を示したと思われます。

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2010.05.23

目覚めのキー、神話の中のBAD達

つくづく、本当につくづく思うことは、一般大衆は精神の牢獄にいるということです。
条件付けられた、限定した考え方しか出来ないよう、強固に、圧倒的に、どうにもならないくらいがっちりと精神を押し固められ、封じ込まれています。
世界はあなたの思う通りのものですが、これでは、限定された、狭苦しい、味気ない、色褪せた、憂鬱な世界しか体験し味わうことができません。
精神の中心の大元が自由であれば、世界は、人生は自由自在で、不可能はなく、鮮やかで楽しい世界であるはずです。

我々が眠り込んでしまった訳は、はっきりしません。
限界のあるフリをするのが楽しそうだと思ったからとか、魂を鍛えて向上するためだったとかいろいろ言われますが、知性で理解できないような大きな目的である場合には、いくら考えても分からないかもしれません。
ただ、イェイツの「再臨」という詩にあるように、「2千年の眠りが悪夢をもたらした」ことは間違いがないようです。

そして、テクニックで目覚めることはできません。
「願いを叶える誰も知らなかった方法」なんてありません。そんな安っぽい世界なんて欲しくはありません。
ただ、牢獄の中にうんざりし、こんな場所は嫌だと心から思い、本気でそこを抜け出す決心をすれば道は開けるはずです。
そうでないなら、人生に生きる値打ちは無いに違いありません。

ラマナ・マハルシは、「宗教は真理の周辺に連れていってくれるが、真理を明かすことはない」と言いました。
当たり前でしょう。しかし、周辺には連れて行ってくれます。言ってみれば、曖昧な探知機です。無いよりはるかにマシです。少し使えば良いでしょう。
芸術は、マスターキーそのものを提供することはありませんが、キーの造り方を教えてくれます。
あまりに精神が歪み、逸脱した人が優れた芸術に無防備に接触するとショックが大き過ぎることがあります。まあ、独裁者くらいに歪んでいる場合ですけどね。彼らが心に鎧を立てているのはそのためです。
そこまででないなら、かなりの爆発を感じはしても、その後沈静化し、新たな地平線に遭遇するでしょう。
ところで、芸術といえば、絵画や彫刻、あるいは、音楽を思い浮かべるかもしれませんが、これらには題材があり、その多くが神話です。エジプト、インド、北欧、中国、日本と、いかなる地域にも必ず神話がありますが、それらには驚くほどの符合があります。それで、古事記を読んでもあまり何も感じなかったのが、その後、ギリシャ神話を読んだら分かってしまったということもよくあるのです。それはともかく、神話を知っておいてから絵画や彫刻、あるいは、音楽を鑑賞すると、当然ながら味わいが深くなります。
とはいえ、それも絶対に必要というわけでもありません、純粋な精神を持っていれば、絵画の方から物語ってくれます。しかし、学校や世間で歪んだ教育を叩き込まれている大多数の人には難しいと思います。そして、学校に反発したから良いというわけでもありません。反発させることもまた、教育の手法です。若い頃のワルが、案外、最も善良な小市民になるのはそのためです。それは、高度で狡猾な教育テクニックです。元ワルの小善人というのは、実は最も始末が悪いのです。
マーティン・スコセッシが監督した、マイケル・ジャクソンの有名な短編映画「BAD」で、「お前らはBADなんかじゃない。何でもないんだ。本物のBADはこれだ」と言って、真実のBADの姿を見せます。まあ、真実が見えるかどうかは見る人次第ですけどね。
本物のBADなら、古事記の中にいっぱいいます。
古事記を読むと良いですよ。子供向けの分かりやすいのでいいですから。
最近の私には、ギリシャ神話の詩である、ヘシオドスの「神統記」がバイブルです。
さっさとみんなで目覚めて、地上を天国にしましょう。


【古事記物語】
モスラ原作者でもある大作家で、本格的な古事記や日本書紀の現代語訳もある福永武彦さんによる、子供でも読める古事記です。

【古事記物語】
明治15(1882)年生まれの著名な童話作家、鈴木三重吉さんによる、子供からお年寄りまで誰でも読め、しかも、高貴で端正な文章の古事記です。

【古事記】
リズムとでも言うものを大切にした、分かりやすく読みやすい古事記の現代語訳の名著です。
上記、「古事記物語」の福永武彦さんによるものです。

【神統記】
詩歌女神(ムウサ)達に詩を教わったという、紀元前700年頃の詩人で、本業は農民・羊飼いであったヘシオドスが詩で語る壮大で優雅なギリシャ神話の名訳です。読みやすく、その気になれば暗記できそうな長さですが、解説も充実しています。

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2010.05.22

神を体験してみる

ある著名な哲学者は、子供の頃にはよく鬼を見たと言う。そして、ある頃から、天使を見るようになったと言う。
正確には、人や植物を通して現れる天使を見るのだということだ。
ただ、実際的には、目の前にいる人間がなぜか天使だと確信し、魂が震えるような感動を得たりする。その人の場合、例えば、ある時、小学5年生の女の子を見てそう思った体験があったようだ。

天使と呼ぶか、神と呼ぶかはどちらでも良いと思う。
人々の中に神がまぎれていることはあるだろう。
自分も見たいと思うなら、自分がなれば良い。
なにごとも体験だ。自分で神(あるいは天使)であることを体験すれば良いのだ。
時間や空間を超えた者として振舞うことがそれになる。

人の中に神がまぎれていたら、それはやたらと譲る者として見えるはずだ。
宇宙を手にする神には、地球上のどれだけの広さも無に等しい。
しかし、人間は、限られた場所(それこそ電車の中の数十センチのスペース)を奪い合う。
そんなちっぽけなものは、神は、限られた空間しか持たない人間に譲るのである。

人間は、美味しい肉を食べたり、いい女やいい男を取り合う。
そんなものも、神は、限られた時間しか持たない人間に譲るのである。
ゼウスが、美味しい牛肉を人間に譲り、骨を神の食べ物としたように。

世間でいう、早い者勝ちや、お得といったものに、神は何の興味も持たない。
そんなものは、わずかな時間や空間に縛られた人間に譲るのである。
人間は、喰らう腹しか持たない、卑しく哀れな存在であるから。
時間や空間、そして、心を超えた神は譲るのである。
無限の代償は有限全てである。
神は小さなものを求めない。大きなもののことを知るからだ。

もちろん、人間が完全に神になれるわけではないかもしれない。
大聖人とか神人と呼ばれる人でも、どこかに人間的な欠点はある。
しかし、神として振舞えば、内にある神の輝きは現れてくる。
そんな者が人の中にまぎれた神や天使である。
こう言うと、ついそれを求めてしまうのであまり言いたくないのだが、世間的な力にも現れてくる。
政木和三さんは、ちっぽけな数千億円を放棄して人間に譲ったが、やはり毎年1億くらいは納税する羽目になっていた。つまり、求めずとも高収入だった。
彼に言われたことがある。近くに奥さんが居られたので(正直、尻に敷かれているように感じたが)、珍しく苦笑しながら、「もてたくないのですが、彼女が百人くらいできてしまうのです」と。神らしく、いい女を人間共に譲りたいのだが、彼が自分で認めていた人間的欠点が引き寄せてしまうのだろうか。

いつまでも、卑しく浅ましい、喰らう腹しか持たぬ人間を続けるのをやめたいと思わないだろうか。
H.G.ウェルズの「宇宙戦争」で、賢い神が創った小さなもの(ウイルス)は宇宙人から人間を護ったが、現実には、今は、神は同じもので、美食に耽る人間に警告を与えている。もう、あまり時間は残されていないようだ。
ベルナデッタ・スビルーのような場合は特別な例で、彼女は生前は、世間的な幸福はほとんど持たず、病苦の中、無償で人々に奉仕した。彼女は神に、「この世では幸せにしてやれないが、あの世で幸せにしてあげる」と言われたという話もある。彼女の、死後百数十年が経っても腐敗しない、若く美しい姿は、彼女が永遠を得たことの象徴として示されたものかもしれない。
だが、我々凡人の特権ではないが、不要なものを求めない限り、必要なものは得られるというのが、イエスも保証したこの世の仕組みであるようだ。


【新世紀版 天使の愛】
世界的美術家である横尾忠則さんの、天使を題材にした、彼の得意なコラージュ作品が満載された、中村じゅあんさんの霊的メッセージ集。
定価2400円は安過ぎたように思う。本日の記事の最初に取り上げた哲学者、鎌田東二さんのお話「天使と水のイノセンス」は、本書の冒頭に収録されている。

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2010.05.21

審判の時

人が神によって最終的に裁かれるという「最後の審判」のことはよく知られている。イエスは、「いつ裁かれても良いように注意しろ」と言う。そして、審判の結果、地獄で永遠の罰を受けるか、天国で永遠の命を得るかだとされていることも、だいたい知られていると思う。

最後の審判を、もっと直接的に言うと、こうなると思う。
それは、「人として滅ぶか、神として永遠に生きるか」である。
それなら、人とは何か、神とは何かをはっきりさせたいと思う。
キリスト教とはいえ、ギリシャ神話の影響は大きいだろうし、ひょっとしたら、根本は同じかもしれない。
紀元前700年頃の詩人ヘシオドスは、詩の女神ムウサにこう言われたとされている。
「喰う腹しか持たぬ者よ」
と。すなわち、人間とはこれである。まさに、現代の日本人を完璧に言い表している言葉ではないだろうか?

別に宗教的概念を借りなくても、人は本来、神のようなものであることに気付いている人もいて、彼らが、それとなく言うこともよくある。
しかし、多くの人は、神として生きるにはどうしたら良いのかが分からないのであるし、分かると困る連中もいるのだろう。
今は、大衆に向かって、「お前は神だ」という弱い声と、「お前は喰う腹しか持たぬ人間だ」という大音響があるといった状態である。
神として生きるとはどういうことか?
ゼウスは、一応は、プロメテウスに騙されたという形にはしたが、牛の肉は人間に、骨は神にと配分した。しかし、ゼウスはわざと騙されたのだろう。なぜなら、このことでゼウスは、直接にはプロメテウスを罰しなかったのだから。ゼウスの気性から言って、それは考えられない。
喰う腹しか持たぬ人間に美味しい肉を与え、神は骨を取ることにしたのだ。
つまり、肉食を貪るのが人間で、美味しいことは知っていてもそれを人間共に譲るのが神である。
もちろん、譲られたからには、肉食を楽しんでも良いのだろうが、度を過ぎると、いろいろな問題が起こり警告される。かなり以前から世界中で頻発している、鳥や豚や牛のウイルス感染などは、最終警告に近いものである。
美味しい肉は、動物的な人間、喰う腹しか持たぬ、哀れで卑しい人間に譲ろうではないか?

さて、ギリシャ神話でも、日本の古事記でも、神様というのは、そんなにお堅い方々ではない(お堅い方もいるが)。
ただ、よく見ると、確かに人とは異なるところがある。
全ての神には役割があり、それに対して完璧な使命感を持っていることが分かる。
決して世間から押し付けられたものではなく、やるべきことを自分で見つけ、自分で決心してそれを果たしていくことである。
そして、それを見つけるにあたって、美味しい肉は人間に譲れ。
哀れで卑しい人間に使命など無いのであるから。
審判を行うのはまさに自分で、その時は今である。


【神統記】
紀元前700年頃の、農民である詩人ヘシオドスが美しい詩で語ったギリシャの神々のお話です。
丸暗記も可能な長さと簡明さです。

【だまってすわれば】
水野南北は、荒行の末、伊勢神宮の外宮に祭られたトヨウケビメ(豊受大神)に、「食が全て」の啓示を受けた。
チンピラヤクザの南北が、天下に鳴り響く観相家となり、天皇に貴族にまで叙せられ、幸福に長命を得た。見事な時代考証をもって書かれた水野南北の伝承は見事と言うしかない。

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2010.05.20

神酒(ネクトール)

大昔から、強大な権力を持った王は、不老不死を求めてきた。
有能で疲れを知らぬ探険家に、地の果てまで不老不死の妙薬を探しに行かせ、天才の頭脳と飽くことなき探究心を持った学者や錬金術師にそういった薬を作らせようとした。
しかし、それに成功したという話はない。
一方、中国には、不老不死の薬を持っていたり、その作り方を知る仙人の話があったり、あるいは、食べ物によって不老不死を得ている仙人の言い伝えもある。
ギリシャ神話では、人間でありながら、美の女神アプロディーテと競うほどの美しさであったプシュケーは神の仲間になったが、そのために、彼女にはネクトールという神酒が与えられたのだった。

はてさて、そのような、人間の憧れである不老不死をもたらす薬や酒や食物があるのだろうか?
あるとしても、それは、現在の一般的に言われる意味での薬や食べ物の効果によるのではない。
少し知られている概念で言えば、風邪の特効薬であると言われて、ただの砂糖の粒を与えられてそれを飲んだらめざましい効果を示すといったプラシーボに似ている。
外的現象などというものは、心の反映であり、信念が生み出すものである。
ネクトールだと信じて飲めばネクトールだし、不老不死の妙薬、あるいは、食べ物と心から思えばそうなるだろう。
不老不死の妙薬とは、物質的な薬ではない。心との相互作用で作り出すものである。昔の王様にそれを教えてやる者がいなかったのだろうか。

ただ、不老不死の食べ物を作るのは心だが、その効果を発揮させるのも心だ。
心は欲望が混ざると、その神秘の力を発揮しない。それが、煩悩多い王に不老不死を教えることが出来なかった理由でもある。

神々の王ゼウスは、牛の食べ方についてこう決めたのだ。
美味しい肉は人間に。そして、骨を神々の食べ物とすると。
肉は美味しいが腐る。限りある寿命しか持たない人間が、束の間楽しむのに相応しい。
しかし、永遠に生きる神々には、腐らない骨が、その食べ物として相応しいからである。
もちろん、これは比喩であり、快楽が老化をもたらすことを言っているのだ。
肉食者は早熟であるが、老けるのも早い。菜食者は、肉体的成熟は遅くても、いつまでも若々しい。
さらに、仙人は、種や球根といった、植物の中でも特に若いものや、ある種の無機物を少量服用することで長寿と若さを得ている伝承が多い。
自分で工夫をして、ネクトール(神酒)や神の食べ物と定めて食べることが若さと健康をもたらすだろう。
神酒や神の食べ物に相応しいものを、相応しい食べ方で食べることによってである。


【列仙伝・神仙伝】
不思議な存在である仙人、神仙、導師達のロマン溢れる伝承であり、彼らの不老不死や神秘の力の秘密も垣間見える。歴史に名高い劉向 、葛洪の書。

【ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻】
永遠に壮年、あるいは、少女の姿で生きる神秘の存在達が数多く登場するが、確かに彼らの生き方には、一般大衆と大きく異なるものがある。意志を持つ生き物を食べないことや、ナッツを特に食べることなども私には興味深かった。

【健康と食事】
ゲーテ研究の世界的権威。神秘学者。農業、医療、建築にも大きな業績を残し、特に教育分野で世界的に知られるシュタイナーの食の教えは極めて重要である。

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2010.05.19

人類に何が起こるか?

私は、今は洗脳される恐れがないので、世間の観察のためにテレビや新聞やインターネットポータルサイトを見ることがあるが、正直、見ていられない気分だ。
イエスはさかんに「悔い改めよ」と言っていたが、我々は何を悔い改めれば良いのだろうか?
それは3つである。
飽食と夜更かしと性欲過剰だ。
現在の大半の人間が、この3つにすっかり耽ってしまい、おぞましい状態にある。
神からますます遠い存在となり、自己中心的な考え方と行動しかできないが、それでいて不満だらけで、無力感と不安に苦しんでいるのである。
しかし、逆に言えば、飽食、夜更かし、性欲過剰を改めるなら、全て魔法のように解決する。

現在は、日本に良いビジネスはほとんど無いので、まともな人間が大成功することは少ないのであるが、ある調査では、社長が朝7時半までに出勤する会社が倒産した例はないらしい。
別に不思議なことではなく、当たり前のことと思う。
個人であっても、朝、5時までに必ず起床する人間が良くならないというのは考え難い。

数年前から、世間では、草食系、肉食系という言葉が流行っているようであるが、早い話が、肉食系とは性欲過剰な人間を言うのだろう。
そして、性欲過剰な肉食系というのはもう時代遅れなのだ。
こう言うと、「性欲がなければ子供が出来ない」など、極端なことを言い出す者もいるが、性欲が悪いのではなく、性欲過剰なのが悪いのである。
もうかなり以前から、性においても、進化した人間と時代遅れの人間の組み合わせの問題は珍しくはなかった。
足立幸子さんの本にも書いてあったが、夫が進化した人間で、肉体的な性交渉は、もうどうでもよくなっているのに、妻が古い種族に属する場合、妻が進化しない場合、別れるしかない。
進化した人間は、エネルギーの交感だけで満足できるのである。

CLAMPの漫画で、アニメにもなった「ちょびっツ」という作品で、この作品では人型パソコンと呼ばれていたアンドロイドのちぃ(外見は15歳くらいの少女。元々の名はエルダ)の双子の姉フレイヤが、ちぃを愛する秀樹(大学浪人生)に問う。「ちぃとしたい?」と。
しかし、ちぃはセックスすると記憶が全て消去される。秀樹も、そして、ちぃも、2人の思い出を失うわけにはいかなかった。
アニメでは、おそらく、このあたりの表現のニュアンス(微妙な意味合い)を変えたのだろうと思うが、秀樹は、「幸せっていうのは、一緒にいることなんだ」と言う。
秀樹は、肉体的な性の満足は捨ててちぃを選ぶ。別に不自然なことではない。事実として、もっと大きな満足があるのだ。ちぃに実際の心が無いことすら問題ではないのである。
作品の最後は、キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」のラストのようなことが起こる。何かが起こったのだが、「2001年」同様、それをわざわざ明かすことはない。だからこそ、純粋に感じることが出来るのだ。我々が新しい段階に進むことが。
しかし、キューブリックやアーサー・クラークの希望と違い、現在は、そこからどんどん離れていく状況だ。美食・飽食、性欲刺激ビジネス、夜更かしによって。
食を慎めば、性欲のコントロールは容易くなってくる。睡眠時間も少なくて良くなる。しかし、極端な短時間睡眠は良くない。それをそそのかす者もいるが、自然に睡眠時間が短くならない限り、ある程度は眠る必要がある。これに関しては、ルドルフ・シュタイナーの「神秘学概論」を読めば分かると思う。

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2010.05.18

エオスと和らぐ

オリコンチャート(株式会社オリコンが作成・発表するヒットチャート)で、最も多く1位を獲得した楽曲は、1968年にリリースされた「恋の季節」(ピンキーとキラーズ)らしい。
作詞は、1916年生まれの伝説的な作詞家、岩谷時子さんである。
この歌の中で、

夜明けのコーヒー ふたりで飲もうと
あの人が言った 恋の季節よ

という歌詞があるが、好意を持たれている場合は最高の口説き文句だ。
ややくだけた定番では「僕と一緒に夜明けを迎えよう」となる。
素直に「一緒に夜明けを見よう」でも良いだろう。

小説・アニメ・漫画「灼眼のシャナ」で、シャナ(外見は11~12歳の少女)が、悠二(高校1年生男子)を、早朝にせかしてある場所に連れて行く場面がある。
そこは、シャナが見つけた、曙光(しょうこう)が最も美しく見える場所で、悠二もそれを見て感動する。シャナに悠二を口説く意図はなかっただろうが、結果として2人の心を強く結び合わせることになったはずだ。

単に恋愛のことでなくても、人がいかに暁を愛するかは感じることが出来ると思う。

昨日も書いたが、暁、あるいは、曙の力は凄い。
ギリシャ神話の曙の女神エオスは、地上の人間と天の神々に光を与えると言われている。
早朝の日拝こそ、健康、幸運、幸福の秘訣であると言う者は多いが、それは確かであると思う。

岩谷時子さんが作詞した、本田美奈子さんが歌う「つばさ」は伝説的な名曲として知られる。
詩の一部に、

私希望があるの 心からかがやいて
夜明けの色 夕日の色に
つばさを染めて 飛ぶのよ

とあるが、ここでも、暁が美しく表現されている。また、夕日は死を暗示するが、滅びがあるからこそ誕生がある。そこに希望がある。
生まれ直すためには、いったん、全て捨ててしまうことが良いこともある。
エオスと和らぐことが、個人あるいは人類の希望となる。

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2010.05.17

早起きは三千両の得

朝日とは良いものだ。
日の出の太陽を拝する(おがむとか、敬意を持って慎んで見るという意味)風習というのは世界中にあるようだ。
食の慎みを、幸福のための必要にして十分な絶対条件とした水野南北(江戸中期の観相家)も、朝日を拝することが健康と長寿の秘訣と言ったようだ。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、病床で死を覚悟した時、朝日を拝して天照大神の生命をいただき、奇跡的回復を見せたばかりか、神人というしかない者となったが、その後も朝の日拝を重要なこととしていた。

日本では、日の女神である天照大神が天界である高天原を統べる最高神であり、黒住宗忠も、天照大神を宇宙をあまねく照らす絶対神とみなして崇拝していた。
宗忠は、人は天照大神と一体であると言う。宗忠に、ただそう言われて奇跡を得た者もいた。

ところで、ギリシャ神話では、太陽神はヘリオスであるが、曙の女神としてエオスがいる。ヘリオスとエオス、そして、月の女神セレネはきょうだいである。
エオスは、地上のすべての生き物と天上の神々に光をもたらすとされ、ギリシャでは、朝日を非常に大切なものであると考えていたようだ。
日本でも、古事記には名前が出ないが、稚日女尊(わかひるめのみこと)という、天照大神の妹神と言われる、みずみずしく若い日の女神がいる。ギリシャ神話のエオスを感じさせるように思う。

朝日がどう良いかについては、諸説あるが、うなづけるものが多い。
生物学的に言っても、早起きは健康のために良いと思われ、また、あらゆる点での効能が感じられるので、優れた人間の多くは早起きを薦める。夜型人間や、起きるのが遅い人間は総じて曇りを感じる。

人生好転のためには、まず早起きではないかと思う。
日本人は昔から、早起きは三文の得とか言ったが、三文どころではない。早起きは三千両の得と言って良いと思う。
毎朝、見るかどうかはともかく、私は、稚日女尊、あるいは、エオスを感じようと思う。


【新修 南北相法・修身録】
食が全て。他はどうでも良いとまで説いた水野南北は、若い頃はチンピラやくざであったが、食を慎み、天下に鳴り響く観相家となり、天皇に貴族にまで叙せられた。また、大長者ともなり、当時では異例の78歳まで幸福に生きた。その南北の教えのエッセンスである修身録ほど重要な書は滅多にあるものではないと思う。

【いのちの教え】
30代半ばで生きる気力を失くし、死の直前までいった宗忠は天照大神の生命をいただくことで、キリストにも匹敵する偉大な神道家となった。宗忠の教えは実に庶民的で、易しく、そして実際的と思う。
これほどの人物が、日本でさえあまり知られていないことが残念でならない。

【神統記】
詩人ヘシオドスが詩で語るシンプルだが雄大なギリシャの神々の物語。神々の系譜の分かりやすさでも評判である。
女神ヘカテーを非常に貴く謳っていることから、ヘカテーのファンには特にお薦めできる。

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2010.05.16

労働せずに生きる人達

童話作家のアンデルセンは、生まれは貧しく、14歳で故郷のオーデンセを出てデンマークにやって来てからも長い間苦労した。やがて才能が花開き、詩や小説が認められ、それが海外でも出版されるようになったが、当時は印税だの著作権だのがあったわけでもなく、相変わらず貧しかった。しかし、名声だけは得られたので、ある時、国家から年金の支給が認められた。大した額ではなかったが、アンデルセンは働く必要がなくなり、鉄道や船でヨーロッパ中を旅し続けた。

今の日本で、それなりの期間働いてきた者にとって、働かずに生きていくことは1つの理想であり、憧れだろう。
人間が生きていくためには、衣食住が必要である。誰かが、食べない身体になれば働かなくてよくなると本に書いていたが、日本では、食以外に、衣料はともかく、住居には相当お金がいる。その人は、田舎に家があったのである。
今をときめく脳機能学者(その他のことでも超優秀である)の苫米地英人さんは、生きていくのにお金は必要でないと著書に書かれているし、その言わんとすることも理解できるのであるが、ごく普通の人に、彼の言う通りに実践せよというのも酷であるかもしれない。

それはともかく、もののついでに、働かずに生活の糧を得られる人の話を少ししよう。特別な人間ではなくて良いものだ。
1人はイエス・キリストだ。イエス自身は特別であるが、ちょっと待って欲しい。
聖書を読んでいない人にもよく知られている話であるが、イエスは、弟子達に、数千人の群集に食事をさせなさいと言う。弟子達には、パンと魚が少しあるだけで、お金もそれだけの人を食べさせるほどなかったろうし、たとえあっても、今のようにいたるところにコンビニエンスストアがあるわけでもない。弟子達が困惑していると、イエスはそのパンと魚を手に取り、次々に弟子達に渡していった。すると、群集を満腹させた後、残ったパンを集めると、カゴがいくつも一杯になった。
別の時に、またイエスが大勢の群集に食事をさせろと言う。弟子達が以前と全く同じように困惑すると、イエスはまた、少しのパンと魚を増やした。
しかし、また別の時に、弟子達がパンが1つしかなくて困っているのを見て、イエスは嘆き、彼らを叱った。イエスは、自分のやったことは誰にでも出来ると言っており、弟子達すら自分と同じことをやろうとしなかったことに失望したのかもしれない。
イエスが海の上を歩いた時、弟子のペテロが意欲を示して、一瞬、それを行ったが、心が折れて沈みかけた時も、イエスはペテロを叱っている。この程度出来なくてどうするんだといった感じだろう。
イエスは、山を動かして海に飛び込ませることすら誰にでも出来ると言っているのであるから、およそ人間に不可能はないはずだ。
尚、イエスのような奇跡を起こした人の伝承は世界中に少なくはない。日本でも、割に近代では、江戸末期の神道家、黒住宗忠が、まじないによる病気治療や、嵐を鎮めたという話が知られている。
1900年代初頭に、アメリカの極東調査隊員であった、ベアード.T.スポールディングは、そこでイエスのような奇跡を行う人達や、イエスそのものに逢い、その時の記録を「ヒマラヤ聖者の生活探求」として出版している。
グリム童話にある「星の銀貨」は、元は民間伝承で、パン1つしか持っておらず、住むところもない少女が、餓えた人にそのパンをやり、凍えた子供に着ている服を全部与えてしまうと、神様が銀貨を沢山くれたというお話である。単なるお伽噺であるが、霊的知覚を働かせると、実に意味深い話である。
尚、先の「ヒマラヤ聖者の生活探求」では、大師(高度な境地に達した人達のこと)達は、食べ物もパンだけでなく、調理された美味しい食事を出したり、快適な住居すら「生やして」、人に与えることすらあった。

まあ、一般の人には馬鹿話か、せいぜいが面白い作り話であろう。「ヒマラヤ聖者の生活探求」を書いたスポールディングは、誓って、見た通りを調査隊の義務と流儀を護ってそのまま記載したし、自分達の見た奇跡現象が催眠術であった可能性も検討し、そうでないことを確認したのではあるが、判断は読者に任せるとしている。尚、この本に登場する大師達は、自分達のやったことは、誰でもすぐにできることであるとしている。
我々に、彼らのようなことができないのは、ひょっとしたら、ものの考え方に問題があるだけで、実はとても簡単なことかもしれない。実際、そんなことはよくあることではないだろうか。


【新約聖書 福音書】
私が知る限り、最も分かりやすい福音書です。まあ、著者は8歳の自分の娘に分かるものにしたようですから当然かもしれません。しかし、決して子供用というものではありません。

【目で見るグリム童話】
19世紀の画家によって描かれた素晴らしい1枚絵とともに語られたグリム童話を再現。美しい情感溢れる絵は見事で、私の宝物です。
「星の銀貨」も、もちろん、1枚絵(4つの部分で構成)と共に収録されています。

【ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻】
普通の人には、にわかには信じられない内容かもしれませんが、著者の誠実さは感じられるものだと思います。
個人的には、そう驚くほどではないと言うか、驚きたくないですね。

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2010.05.15

利用された二宮尊徳

老荘思想と言われる、老子、荘子の教えの根本は「無為自然」です。人間的な作為および思慮分別をせず、全てを天の法則に任せることで、究極の平和や調和である「道(タオ)」と一体化できるというものです。
もちろん、これを世間的解釈でとらえるなら、これほど馬鹿げた教えはないでしょう。
しかし、そこにおぼろにでも、何か大切なことがあるということは、誰しも感じるのではないかと思います。もっとも、今は、食欲と性欲だけでやっている人が多いですから、必ずしもそうとは言えないかもしれません。

ところで、老子の無為自然に敢然と異議を唱えたのが、二宮尊徳です。
二宮尊徳という人には、複雑な感情を持たざるを得ません。
第二次世界大戦後、アメリカは、彼を日本人の思想統制に大いに利用し、日本政府もこれに従いました。ただ、それについては深入りしないでおきましょう。

二宮尊徳は、本当は無為自然の貴さをよく知っていたのだと思います。
しかし、今回はそれにも目をつぶり、決して彼への批判ではなく、当時の彼の教えを、ただ話のテーマとして借ります。
尊徳は、無為自然では駄目で、人の作為が大切であると説きますが、その理由は以下の通りです。
田畑を手入れせず、自然に放置すれば、雑草が生え、土地は荒れ、作物は採れなくなってしまいます。
家だって、常に掃除をしたり、修理をしないと、すぐにあばら家になり、やがて崩れてしまいます。
人が手を加えてこそ、全て立派になるというのは自明ではないかということです。
そのため、人の行いの効果を大きくするために、勉学に励むことや勤労を何よりも貴いとしました。

もちろん、これらは一面の真理であり、否定はできません。しかし、否定できないからこそ、思想統制に利用されれば簡単に人民を洗脳・奴隷化できるわけです。

この、田畑や家を良く保つ教えを、人間の身体に置き換えてみましょう。
手入れせずに放置すれば駄目になる田畑や家とは、すなわち、人間で言えば死体です。
死体は、そのまま放置すれば、腐敗し崩れ、おぞましい状態になるでしょう。
しかし、生きた身体であればそうではありません。
このことから分かることは、人間はただの物質ではないということです。生命がその本質です。生命が去ると、たちまち身体が崩れるのですから、生命がいかに偉大で神秘であるかが分かります。
いかに科学が進歩しても、生命を解明することはできません。DNAなどが分かったところで生命そのものは分からず、かえって生命の謎は深まるばかりです。
真面目に考える限り、神としか言いようがないものの存在を認めないわけにはいかなくなります。

アンデルセンの「絵のない絵本」の中で、少女は占いをして、愛する人が生きていることを信じた時、心が、そして命が燃え立ちました。
何より大切なことは生きるということです。
そして、生物としての命を超える命があるのですが、それを知るためにも、生物としての命を大切にしなければなりません。

身体にとっても、田畑や家にとっても、大切なことは生命を保つことです。
田畑の生命を保つためには、雑草や害虫を除く必要があります。いくらちゃんと水を与え、肥料が足りていても、それはかえって雑草や害虫を肥え太らせ、一瞬で田畑の生命を奪います。
人間も同様です。世間の妄信や偏見を除かないと、あっという間に、本当の命を失います。
田畑に水をやることや、人間が食べ物を食べることも大切です。しかし、もっと大切なことがあります。
「花もまた魚」と言います。身体にとって魚という食物が必要なら、心にとって花は栄養です。心の栄養がないなら、身体が生きていても意味はありません。

言葉で述べれば万巻を要することですが、あまり言葉を費やすとかえって分からなくなります。
とはいえ、言葉が足りなかったのも事実ですが、欲望を捨てるとよく分かるようになります。
今は、テレビCMでも、インターネットの広告でも、食欲と性欲を煽るものがほとんどです。それらは、人々の命を奪っています。本当の命を失いたくないなら注意して欲しいと思います。


【荘子】
荘子は実際は膨大な書です。内編、外編、雑編の3つからなりますが、外編、雑編は、後の世の人が書き加えた部分が多くあると想われます。本書は、荘子自身によると考えられる内編と、外編・雑編でも純粋に荘子の思想を表しているものを収録し、1冊にしたものです。
数多くある荘子の現代語訳の中でも、非常に読みやすく癖のないものだと思います。

【老子・列子】
こちらも読みやすい老子です。
ところで、私は、お伽噺のような列子が大好きです。研究者によっては列子を軽視する者もありますが、賢者達はよく列子を引用します。よく読めば、その簡明で面白いお話の中に恐るべき知恵があります。それは、老子、荘子に優るとも劣りません。

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2010.05.14

希望があれば生きられる

人生は楽しいことばかりしか無いなどという人は、まあ、いません。
一時的には、人生は面白いなあと思う場合はあります。しかし、ビジネスで大成功して大金持ちになったり、スポーツの世界チャンピオンになったとしても、それはいつまでも続きません。
全ての人が、不安、恐怖、後悔、不満、恨み、その他、ありとあらゆるものに苦しんでいます。それは決して否定できません。
ギリシャ神話では、初めての人間の女であったパンドラが人間界に入るとき、ゼウスは彼女に、神々の贈り物が入った箱を渡します。その箱の中に、さっき述べたような、不安や恐怖といった、この世のあらゆる災いが入っていて、パンドラが箱を開けた時に、それらが世の中に出て行ってしまったとされています。ただ、箱の底には、希望も居ました。人は、希望さえあれば生きていられるからでした。

辛いことや嫌なことがないと、人は、貴いものを求めようとはしないものです。
逆に言えば、苦しみに耐えられなくなった時に、人は、真に大切なものを探し始めます。
ところが、今の世の中は、人々は苦しいのに、まがい物の価値に目を向けさせられて破滅寸前といったところです。実際、もうすぐ破滅します。
世間の信念(妄信)、世間の教義(偏見)を信仰するのをやめ、自分の内にある真に貴いものに目覚めることで、初めて世界や人生を天国に出来るのだと思います。なぜか、それを絶対にさせないという世間の圧力や攻撃は凄まじいのですが、我々がそんなものに力を与えない限り、まあ、恐るべきものではありません。この世には、ただ1つの力しかなく、それは人の内にあります。

人の本当の希望とは、自分の中に無限の力が存在し、それが自分のものであるということです。
その力を使う方法というのがまた、実に美しいものです。それを魔法というか何と言うかはともかく、分かってくると、そのあまりの見事さに驚くことでしょう。
それは、世界一の美術品を見に行くより楽しく価値のあることに違いなく、それを知らずに人生を終えるのは、あまりにもったいないことです。
究極の楽しみが得られるという希望を胸に、そのためにあらゆることをするなら、それは得られるでしょう。それが人生の本当のシナリオであるからです。まあ、一種のお芝居ですね。


【生きるとは、希望をもつこと】
人間というものを深く理解するイタリアの天才的な社会学者フランチェスコ・アルベローニが、希望の原理、本質、そして、それを育てる方法を実際的に説いた極めて重要な書です。

【眠りながら成功する】
自分の中に強大な力があり、それを使う権利があること。そして、それは難しくないことは大きな希望です。私は、マーフィーの本で、実際に引きこもりのニート状態を簡単に脱しました。

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2010.05.13

神話に秘められた力

神話というものは、心の世界を現しているとも言えます。それは、1人の人間の心であるとも、人類全体の太古から未来までのものであるとも言えます。
肉体的にも、人間は母親の胎内で魚のようであるところから、爬虫類や動物のようになり、そして人間らしくなります。人類の歴史そのものを1人の人間の中で再現しているかのようです。
精神においても、人類が現在のようになるには、気が遠くなるほどの年月を要したのですが、それもまた、幼児から大人になる中で、1人の人間の中で再現されます。
神話は、人類の、あるいは、個人の心の進化を表現したものでもあり、神々は、人の心の何らかの特徴をそれぞれ現しています。ただ、それは小さなものではありません。人の心は宇宙そのものでもあるからです。
また、それぞれの神は、それを通して、宇宙全体ともつながるようなものでもあるようです。
神話というものは、極めて貴重なものです。決して忘れてはならないもので、神話が滅びた国は現実にも崩壊します。
優れた人間は神話に通じていることがよくあります。いえ、なんらかの意味で、必ず神話に通じています。

神話に通じるには、何よりも神様に興味を持ち、意識することではないかと思います。
古来から多くの聖者達が、神の名を常に想うことを教えています。
ヨブ記の22章21節に「神と和らぎ平和でいなさい」という言葉がありますが、神と和らぐ(簡単に言えば仲良くする)には、その名前を呼びかけるのが最も簡単であり、根本です。
好きな神様の名前を心の中で唱えることに良い効果がないはずがありません。
日本では、神様のお名前を唱える際、まずは身体を清め、場所、服装、姿勢、そして、唱え方を細かに定めることもあるようですし、それは貴いことでもあるのですが、それではなかなか実行できず、また、続かないものです。それに、世界的に見ても、特に決まりはなく、神の名を唱えるのも、声に出すよりは心の中で唱えることを教えることが多いようです。つまり、決まった時間にそうするのではなく、常に行うことが大切と考えるのです。
特に現代では、いつでもどこでも、心の中で神の名を想う、唱えることの方が良いことであると私は考えます。

神の名を唱えると言うと、どうも宗教的で抵抗があったり、笑う人も少なくないと思います。
しかし、それはもったいないことかもしれません。それに、そのために宗教団体に入ったり、何か特定の教義を受け入れる必要もありません。
自分が好きな神の名前を唱えることで、その神が現す性質、特徴、力を自然に想い、そこから意識が心の深奥におよび、さらに広がっていき、宇宙を動かすこともあるでしょう。
神の名と言いましたが、神という言葉自体に力があります。
これに関しては、ベアード・スポールディングという、アメリカで1900年代の前半に非常に尊敬されていた啓蒙家が書いた「ヒマラヤ聖者の生活探求」という本の第3巻で、イエスが詳細に説明しています。イエスは、このことさえ分かれば、他は忘れて良いとすら言っています。内容については、もし私に効果が確認できればお伝えすることもあるかもしれませんが、私もまた、神の名を心の中で唱えながら生活しようかと思っています。それは、よく考えれば、科学的なことでもあると思います。


【ヒマラヤ聖者の生活探究 第3巻】
著者スポールディングが調査隊の隊員として東アジアにいた時の体験を綴った書です。驚くべき内容でありますが、著者はその解釈・判断を読者に全面的に委ね、なんらの主張もしておりません。

【ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力】
断わっておきますが、今は言いませんが、かつて、私はサイババをいかさま奇術師とセミナー等でも言っていました。実際のところはどうなのかは知りませんが、政木和三さんに、彼には、悪い部分もあるかもしれないが、良い部分もあると言われたことがあります。実際、この本には、心惹かれるものがあります。

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2010.05.12

神という言葉を取り戻す

ジョセフ・マーフィーの潜在意識の成功法則には、神という言葉がよく出てきます。マーフィー自身が牧師であり、マーフィーの潜在意識の法則の教えが、純粋な精神分析学ではなく、聖書の教え(ただし、伝統的なものではない)なのですから当然なことです。
そして、マーフィーの本の翻訳書には、翻訳者があとがきなどに、「神という言葉に違和感があれば、法則など、別の言葉で置き換えて下さい」などと書いています。しかし、私はそれはどうかと思います。神を置き換えることができるような言葉があるとは思えません。なんと言っても、神というのは全ての全てですから、本当は極めて重要な言葉です。むしろ、神という言葉を貶めているのは、大衆心理の中にある妄想や偏見です。純粋な神という言葉を取り戻すなら、これほど強力な言葉はありません。
神という言葉が宗教的で抵抗がある人は多いと思います。しかし、それは宗教団体の問題で、本来は宗教は良いものだったはずです。宗教の兄弟であるはずの芸術も、権威的立場の人々によって歪められてきました。岡本太郎をエキセントリックに感じる場合もあるでしょうが、実はあれで正常なのだと思います。確かに、汚れてしまった芸術界を革新させるには、それなりの喧騒も起こさざるをえませんでしたが、岡本太郎を異端視しているようではいけないと思います。岡本太郎が全てではありませんが、少なくとも、彼の芸術なごくまっとうなものの1つですし、芸術とは、絵や彫刻といった作品を指すのではなく、本当はもっと日常的なものです。宗教も、教会や神社の中にあるのではなく、生活の中にこそあるべきで、その点、日本の神道は、本来は自然を崇拝し、空気のような存在であった優れたものでした。そういえば、ルドルフ・シュタイナーは、良い教師は空気のようなものと言っていたと思います。
第二次世界大戦により世界恐慌を完全に脱し、繁栄を謳歌していた1950年頃のアメリカでは、実は国民はストレスと不安に苦しめられていました。そんな時には、自由の国とはいえ、国家の思想統制は厳しいものでした。そんな中、1952年に出版された、ノーマン・ビンセント・ピールの「積極的な考え方の力」という本が驚異的なベストセラーとなり、現在に至るも読み続けられています。この本の最後にこう書かれています。「なぜ神の力を求めないのか?」
神という言葉に深くまとわり付く偏見、迷妄、逸脱を壊せば、それが我々の内にあり、宇宙で唯一の力であり、一切の一切であることが純粋に分かるかもしれません。


【積極的考え方の力】
1952年にアメリカで出版され、3年間ベストセラー最上位を記録しました。日本では1964年に初版が出版されました。

【あなたも幸せになれる】
ジョセフ・マーフィーも、ノーマン.V.ピールと同じ1898年の5月生まれです。また、この本も「積極的考え方の力」と同じく桑名一央さんが翻訳されています。
まずは、この本で、自分が無限の力を持ち、それを使う権利があることを知ることが大切と思います。世間や学校はそんなことは決して教えてくれませんので。

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2010.05.11

シンシア

シンシアという女性名には不思議なほど良い響きがあるようだ。
私は、岡崎律子さん(2004年に若くして亡くなられた)の「シンシア 愛する人」という歌が好きであるが、「うるわしのシンシア」で始まるこの歌のシンシアが誰なのかは全く分からなくても、美しい詩と曲が、この名前と調和するから不思議なものだ。
シンシアというのは洗礼名でもあり、歌手の南沙織さんは、この洗礼名でよく知られているが、それは、やはりこの名の響きが良いからであるのかもしれない。

シンシアは、ギリシャ語のキュンティアで、これは月の女神アルテミスの別名であるようだ。
キュンティアは、「キュントス山の」という意味で、キュントス山はエーゲ海のキュクラデス諸島の中のデロス島の中にある。デロスとは「光に満ちた」という意味である。
女神アルテミスは、太陽神アポロンの双子の妹で、2人はこのデロス島で、女神レトから生まれた。この島をアポロンが祝福したことで、「光に満ちた」という名の島になったと言われている。
アポロンもまた、別名をキュンテイオスという。
アルテミスは、アポロンの双子の妹だけあり、極めて美しいのだが、実は男が大嫌いで永遠に結婚する気もなく、男と交わることもおぞましく思っているようである。こういったことが、アルテミスの、ひいては、シンシアの清らかで美しいイメージになっているのかもしれない。アルテミスが男嫌いなのは、父ゼウス、兄アポロン共に部類の女好きで、女神、人間の女と見境なく手を出しては、場合によっては相手の女を苦しませるのを見ているからだと言われている。母レトも、大変な苦難の末、孤独にアポロンとアルテミスを出産したのである。

ギリシャ神話と日本の神話である古事記はよく似たところがあるが、特に、神々があまりに人間臭いところが共通しているようである。
ところが、決定的に違うのは、ギリシャ神話では人間は神が創ったのだが、古事記では、人間は神の子孫であることである。
ギリシャ神話では、人間を創ったのはプロメテウスだが、彼は男だけを創った。人間の女は、アフロディテの夫のヘパイストスが創ったパンドラという絶世の美少女から始まっている。
もっとも、ギリシャ神話でも、人間に命の息を入れたのはゼウスであり、その中に神の生命を宿しているということでは、さほどの違いはないのかもしれない。

心が静まれば、我々は内に神を感じるのではないかと思う。そして、心を静めるとは、世間の喧騒から退き、民衆の妄信や因習を捨てることである。
世に打ち勝ち、高貴な孤独の中にある時、人は神と一体であり、神そのものであるのだと思える。

偉大なる漫画家である、里中満智子さん、永井豪さんが描くギリシャ神話、古事記は、生き生きとした躍動感のある素晴らしいものだと思います。

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2010.05.10

聖書や古事記のどこが良いか?

聖書や古事記の存在は、ほとんど誰もが知っているだろうが、実際に読んだことがある人は、かなり少ないと思う。
多くの人達が、これらを読もうと考えることに何か奇妙な抵抗を感じたり、また、これらを読んでいる人に違和感を感じたりすらするのである。

ところが、聖書や古事記が素晴らしいと聞き、期待をして読み始めると面食らうことがある。
古事記の漫画まで描いた石ノ森章太郎さんすら、「古事記は漫画だ」と言ったくらい、古事記も、そして、聖書も、一見、奇妙奇天烈なお話なのである。
これがギリシャ神話のように、最初から「ただのお話」と認識して読む場合は良いのだが、聖書や古事記には、重々しく、高尚なイメージがあるので、おかしな感じがするのである。
実際、旧約聖書、古事記、ギリシャ神話はよく似ているし、不思議なほど符合する部分も少なくない。

聖書や古事記は、本当に良いものなのだろうか?少なくとも、読む価値があるのだろうか?
答は、恐ろしく良いである。あまりに良いのである。
ただ、なぜ良いかの理由は、ちょっと保留したい。もし、神様に逢う機会でもあれば聞いてみて欲しい。
1つ言うなら、書かれている内容が良いというのとは少し違うかもしれない。内容そのものは、上記に書いた通り、奇妙でおかしなものかもしれない。また、長い歴史の間に、誤訳、改ざんも実際に多く行われているだろう。
その一見奇妙な内容の裏に秘められた真理に価値があるのかというと、それもそうなのだが、あまりそこを強調する気もない。
そして、聖書や古事記には数多くの現代語訳があるが、本当に良いものを慎重に選ばないといけないかというと、どうでも良い。せいぜいが、読みやすいものを選んでいただければ良い。
ところで、聖書や古事記以外でも良いかというと、他のものでも良い場合もあるのだけれど、聖書や古事記が最も間違いが無い。
その理由はさっきも述べた通り、伏せておきたいが、それを聞いたら、それこそ奇妙に思うような理由だ。しかし、読めば分かると思う。
ただ、ギリシャ神話も悪くないし、バガヴァッド・ギーターも良いと思う。これらが読みやすいなら、。それでも良いと思う。

こんな説明で良いのかと思うのだが、読んでみていただけたらと思う。
家に、本は聖書しかなかったという人が、それを繰り返し読み、偉大になったという話は少なくない。それは、もしかしたら、聖書の内容の素晴らしさより、上に述べた理由からかもしれない。
(ミルトン・エリクソンは、家にあった聖書と辞書のうち、辞書の方を選んで世界一の精神科医になったのだが、別の意味で、それも非常に良いことと思う)


【新約聖書 福音書】
大正時代の終りに始まり、第二次世界大戦中に完成したという、最も分かりやすい新約聖書の福音書の口語訳。

【現代語訳 古事記】
非常に読みやすい古事記の口語訳の名著。

【古事記物語】
1882年生まれの童話作家、鈴木三重吉による、子供でも読めるが、大人が読むにも不足のない、端正で高貴な文章で書かれた古事記。

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2010.05.09

人類の不幸の原因

日本人の大半は不幸であるが、その日本にいる我々に想像も出来ない程、世界は悲惨だ。
なぜ人類はこんなに不幸なのだろう?

1969年に連載が開始された「デス・ハンター」という漫画がある。
原作はSF作家の平井和正さん、漫画は桑田次郎(現在は桑田二郎)さん。このコンビでの作品で有名なものに「8マン」がある。
平井和正さんの作品には、総計2千万部を超える「幻魔大戦」があるが、漫画原作やSFといった世間で評価され難い分野にいるせいか、平井さんは正当な評価を得ていないような気がする。
(「デス・ハンター」は、後に、「死霊狩り(ゾンビ・ハンター)」として小説版も出版されている)

さて、「デス・ハンター」は、簡単にいえば宇宙からの侵略者と、人類のエイリアン対抗組織との戦いの物語である。
宇宙人との戦いといえば、1898年に英国のH.G.ウェルズが「宇宙戦争」を書いて以来、高度な科学力を持つ宇宙人に決死の戦いを挑む人類というイメージが出来上がってしまった感がある。「デス・ハンター」当時には、同様のテーマである英国の人気テレビドラマ「謎の円盤UFO」(原題は「UFO」)が日本も含め世界で放送され、さらにその観念を強めたかもしれない。
しかし、平井和正さんは、「デス・ハンター」で、それを旧式なものに変えてしまった。そして、この作品の結末は、驚愕の大ドンデン返しとなる。

「デス・ハンター」では、人類の不幸の原因は、弱さであるとする。
私も同感であり、強くなれば不幸は去る。
ただし、その強さとは、大会社の社長になって巨富を得たり、スポーツや芸能界の大スターになるというのとは、全く、質もレベルも異なる。そういった世間的強さは本物ではなく、ある意味で秘密を明かせば、世間強さを保つ秘訣とは、自分の弱さとの折り合いを付けることなのである。だが、それでは、やはり弱さに苦しみ続け、いつか破綻することに違いはない。

「デス・ハンター」のラストで、世間的強さの象徴とも思えるシャドー(宇宙人対抗秘密組織の総司令官)に、元々はシャドーの部下だった青年、田村俊夫が引導を渡す。
全く理想的なプロポーションの田村とリュシール・ブルーエという名の少女が全裸でシャドー達のところを去って行く。
(桑田次郎さんは、元々は、当時誰もがそれに習った手塚治虫風の画を描いていたらしいが、その脱却のため、本格的にデッサンを研究したようだ。)
それは、世間的強さという大衆の幻想の終焉である。

もちろん、「デス・ハンター」の最終場面を、そのまま受け入れても、あるいは、これをシンボル(象徴)や比喩と捉えても良いが、いずれにせよ、我々は、世間の教義、信念といった妄信や因習、偏見に満ちた幻想を打ち破ることで真の力を得なければ滅びを迎える瀬戸際に来ているのである。
人類の、ひいては、世界の平和は、それが出来てこそ実現する。
当ブログのテーマもそれであり、それは確実に可能である。

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2010.05.08

英雄

あなたは、心に英雄(ヒーロー)を持っているだろうか?
どんな英雄を、どのように心に受け入れているかは、人が神的な強さを持つために非常に重要なことだ。

純粋に心惹かれる英雄がいればと思う。
世界中の、伝説、神話の中には、様々な英雄が存在する。また、歴史の中には実在の英雄がいるし、特に英雄時代の英雄は、本来は我々の心を震わすものである。
また、優れた作家が創造した英雄には、神の叡智が働きかけて生み出されたものもあり、傑出した人物の一生の英雄となった場合も少なくはない。
しかし、たとえ人々の目からはさほどに評価され得ない存在であっても、その人にとってヘラクレスやアーサー王に優るなら、それが真の英雄なのである。
ただ、現在は、スポーツや芸能界のスターを英雄扱いすることも多く、それも決して悪いことではないのだが、もっと桁外れな英雄を崇拝すべきなのである。
あるいは、古代ギリシャの神々とか、中国の仙人というものの中から、自分で1つのイメージを作り上げても良いのである。葛洪(抱朴子)は、中国に古代から伝わる書物を読んで仙人に対する憧れを持ち、彼の著した「神仙伝」に登場する仙人や導師のような存在の実在を信じていたのだと思う。

さて、次に英雄をどう捉えるかである。
英雄について知るのは、書物を読むか、幼い頃に誰かから語り聞かされることによってであろう。
映画などの映像の場合もあるのだろうが、それはあまりにイメージが固定化しやすく、外的存在となってしまい、心の英雄にはなりにくい。ただ、柔軟な想像力があれば、それを自分で新たな英雄像に昇華することも出来るだろう。
国家や世間の推奨する英雄や、大衆に流行の英雄は、それと同じような理由と、不純なものが混じっている場合が多いという理由で、注意した方が良い。
そして、大切なことは、書物で読んだり、語り聞きの記憶の英雄のことを考える時、それを自分のことと考えることだ。英雄の物語を読むとき、それは自分について書かれていると知らないといけない。
それは、遊びでも妄想でもなく、真実なのである。
そうやって、我々は英雄の心と身体を持ち、世間の因習や偏見に惑わされず、独立して立ち、人生を自由に変えていく力を持つのである。


【新約聖書 福音書】
福音書とは、人類最大の英雄であるイエスについて、4人の高弟により描かれた言行録だ。
その福音書の中でも、驚くほど分かりやすく書かれたのが、この塚本虎二の翻訳だ。それには、想像を絶する苦労があったのだが、その成果であるこの貴重な作品は、もっと評価されるべきと思う。

【列仙伝・神仙伝】
数多くの仙人、導師、神仙について書かれたロマン溢れる書。あちこちに仙人になるためのヒントも見つけることができるかもしれないが、文の中に秘められた霊感を感じることこそ、その道であるように思う。

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2010.05.07

不安を滅ぼす

不安なしに生きている人なんていないのではないかと思う。
そもそもが、人が何かをする理由なんて、不安をなくすためであるようにさえ思う。楽しもうという行為も、不安を紛らわすためのものである。
社会の中で偉くなり、金持ちになれば不安は無くなるかというと、金持ちも自分ではそう思っているかもしれないが、実際は、金を持つほど、不安はますます大きくなっているのである。
一流企業の幹部になり、人も羨むような高給取りになったとしても、突然リストラされたり、会社が倒産することもある。そんな人は、多額のローンを背負っていたり、本人や家族も、収入が減っても、それまでの生活水準を落とせない。そして、家族は破綻する。
そして、社会で成功している人でも、自分の立場が実は危ういものであることは、心のどこかでは知っているのである。そして、その不安は百パーセント実現する。
「消費意欲の拡大」なんてのは、人を破滅に追い込む恐ろしい言葉であることに気付かないといけない。それは、大衆の心を貧しくして、際限なくモノを欲しがる状態にするということである。これが、不安を低レベルの欲望を満たすことで紛らわせようとする哀れな行動に人々を駆り立てる経済至上主義社会のカラクリである。我々は、すっかりそれにはめ込まれているのである。今すぐ脱出する決心をしないと、待っているのは悲惨だけである。

不安を消す唯一の方法は力を得ることであるが、まがいものの力の獲得に突き進ませようとするのが、国家や大企業、そして、その下僕である学校やマスコミの使命である。
偽者の力は、得れば得るほど、逆に不安は強くなる。本物の力を得なくてはならない。
(偽者の力の獲得に失敗することを世間では落伍者と言い、その意味での落伍者にはただ消費者の役割を押し付け、消費者にもなれないと、自主的にアル中になったりするのである。)
本当の力は外側にはない。内側にある。ところが、内側にある本物の力は存在せず、それがあると考えることは恥ずかしくて滑稽であると我々は思い込まされているのである。
本来は、そんな誤りを正して人々を啓蒙すべきはずの宗教は堕落し、芸術も金儲けに利用され、本当の役割を果たし難くなっている。
しかし、大衆の教義や信念を疑い、これを打ち破ることに全力を尽くせば、内側の力に目覚める道は開ける。
テレビのアナウンサーの言うことや、CMの宣伝文句を疑わないといけない。それらは、現在ではほぼ全て嘘と思っても間違いはない。
世間や学校、会社の常識や決まりごとを無思慮に受け入れないこと。これらは、全て悪とは言わないが、少なくとも、あくまで二次的(二義的。根本的でないこと)であり、決して自己の信念にしてはしてはいけないことを忘れてはならない。


【自己信頼】
あらゆる賢者達が崇敬する最大の思想家、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの代表的なエッセイ。世間の教義、因習ではなく、自分自身こそ信頼すべきであることを至高の叡智でもって語る。

【アシュターヴァクラ・ギーター】
古代よりインドに伝わる真の自己に目覚める教えをシンプルな言葉で語っている。ラマナ・マハルシやその他の優れた聖者の教えの精髄である。

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2010.05.06

庶民の中のクラシック

ヨーロッパの大学で教える指揮者がこんなことを言うのを聞いたことがある。
日本では、クラシック音楽を聴く人はあまり多くないが、海外にはバレエやクラシック音楽が庶民に馴染んでいる国も多く、日常の買い物に行くついでに親子でクラシックの演奏会を聴きに行ったり、夕食の場で、最近見たバレエのことを語り合ったりする文化があり、大変に羨ましいと。
最後の羨ましいという言葉には、演奏家の経済面での事情もあると思う。日本では、相当なレベルの演奏家でも収入が低い場合が少なくない。それも、一般の人が芸術的な音楽の演奏会を聴きに行かないからだろう。

庶民がクラシック音楽やバレエに馴染むことは、良いことではあるのだけれど、そんな民衆が幸福であるかは疑問もある。
実際は、民衆に馴染んでいる国でも、誰もがクラシックやバレエを愛好しているという訳でもないとは思うが、その割合がある程度大きくなると、それが民衆意識を形成する。その中で、因習や教義といったものが構築され、それは容易く妄信や偏見になる危険がある。
大衆の中に真理は無い。個人では善良な人が集団になると残虐にもなる。
特に、日本人は付和雷同(他人に同調しやすい)する性質があると言われ、何か流行ると盲目的に従う傾向が強いと言われるが、これは明治政府以降の思想統制の影響が大きいかもしれない。
日本の学校教育では、文学や絵画といった芸術においても、皆が同じ感想を持つよう子供たちを誘導する。いかなる場合でも、個性的であったり、まして風変わりであることは赦されない。
芸術には個人的な部分が必要である。この個人的という意味は、他を排斥するということではなく、まさに、大衆から独立するという意味である。
大衆の教義、信念を打ち破り、自己の存在の中心に目覚めることが芸術の本来の目的である。その芸術が、大衆の妄信に引きずり込むものになってはいけない。岡本太郎が、芸術は、「きれいであってはならない」「うまくあってはならない」「心地よくあってはならない」と言った訳もそこにあると思う。大衆心理とは、きれいで、小賢しく、心地良いものである。
私は、素晴らしいクラシックやバレエは、個人で静かに楽しむこととしている。演奏家やバレエダンサー、あるいは、あらゆる芸術やそれらに関わる方々の経済面は、何か方策があればと思う。


【コッペリア[DVD]】
パリの名門バレエ学校の生徒による「コッペリア」の公演。若いダンサーの軽快な動きや可憐さが素晴らしい。
「コッペリア」は、ホフマンの「砂男」という怪奇小説が原作であるが、バレエでは喜劇的なものになっている。
コッペリアは自動人形の少女で、バレエでも可愛い女性が人形っぽい動きも見せるのが見所でもある。原作小説では、オリンピアという名の極めて美しい少女で、主人公の青年は彼女が自動人形であることに気付かない。ホフマンは「くるみ割り人形」の作者としても有名である。

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2010.05.05

ただ1つのルール

2000年に、プロレスラーの桜庭和志さんと、ブラジルのグレイシー柔術のハイアン・グレイシーの試合が行われたが、ハイアンは試合の2日前、練習中に腕を損傷していた。それは大怪我であり、とても試合が出来る状況ではなかったが、ハイアン側のメッセージが印象的だった。それは、大体の内容として、「何の支障もないので試合は行う。なぜなら、これは闘いであるからだ」といったものだったと思う。
当時は感動したが、今思うと少し違うと思う。もし、この試合がルール無しの本当の闘いであれば、その通りかもしれなが、実際は、かなりのルールの制約を受けた「試合」だ。
著名な空手家で、極真会館の創始者である大山倍達氏は、常々、空手最強論を唱えていたと思うが、何かの著書に、空手が最強である理由として、目潰し攻撃と金的(格闘技においては、男性性器、特に睾丸を指す)攻撃があるからだと書かれていたが、およそいかなる格闘競技においても、この2つは間違いなく禁止される。これが、競技としての試合と闘いの違いをよく現していると思う。
タイ王国にムエタイという有名な格闘技があるが、元サッカー選手の中田英寿さんが、タイでこれをやっている映像を見た人もいると思う。日本が相撲なら、タイならムエタイというほどの国技である。昔、タイでムエタイを見たボクシングジム会長の野口修氏が、その迫力に感動し、日本で試合を見せたいと思った時、対戦相手は日本人でなければならないと、上記の大山倍達氏に弟子を出場させて欲しいと頼んだが、大山氏は断わった。ムエタイをよく知る大山氏は、それと戦える弟子はいないと言ったようだ(ただ、大山氏は、著書に、もしムエタイに金的攻撃があったら、ムエタイの最大の特徴である派手な回し蹴りは不可能と書かれていたが)。困った野口氏は、学生空手で無敵だった白羽秀樹氏に相談し、白羽氏は空手選手を用意したが、出場予定の空手選手達は、ムエタイ選手の練習を見て、恐れをなして逃亡したらしい。白羽氏はやむなく自分が出場して勝利する。この白羽氏が、後に「キックの鬼」として知られる、キックボクサーの沢村忠だ。
キックボクシングを、キックありのボクシングと思っている方が多いだろうし、それで良いのかもしれないが、私は子供の頃、これのルールを聞いた時、そうではなく、いくつかの禁止事項以外は何をやっても良いので、自然、あんなスタイルになったのだと思ったが、実際はそうではないかと思う。ただ、それは、キックボクシングというよりは、ムエタイについて、より当てはまることかもしれない。この2つは、似てはいても異なる格闘競技だ。沢村忠が、タイに遠征し、ムエタイのチャンピオンと戦った際、やはりルールの調整に困難があったようだ。沢村は、タイの英雄である、その超人的な王者と大熱戦の末、引き分け、格闘家としての地位を確立したと言われる。

スポーツの場合は比較的分かりやすいが、およそ、人間のやることは、いかなることにもルールがある。
ビジネスにも、当然、厳格なルールがあるが、それを破る者が後を絶たないことはご存知と思う。人間は、恐ろしい貪欲の克服には、まだまだ程遠く、醜いルール破りは続くのかもしれない。
ところが、面白いことに、ルールを取り決めるはずのない動物や昆虫の世界をよく見ると、実際はルール無用の何でもありというわけではないと感じさせられる。動物や虫は、メスを巡ってオス同士が戦うことは珍しくは無いが、殺したり、致命傷を負わせることは滅多に無いらしい。まるでルールでもあるかのように、勝ち負けが一定の方式で決められており、その戦いは、終始、実にクリーンだ。
だからといって、人間は動物を見習えというのではない。動物は、別にルール遵守の精神があるのではなく、本能に従っているだけだ。人間は、知恵があるので、ルール破りといった弊害も大きいのであるが、それがフロイトが言うような「本能が壊れているという欠陥」とはとても思えない。知恵の欠点を乗り越えることで、人間は向上できる可能性があり、それは素晴らしいことであるはずだ。それは、必ずしも良い結果が得られるとは限らないというリスクがあるゆえに、進歩の可能性も大きいのであるが、現状は、あまり芳しい様子ではなく、人類の滅びも近いのかもしれない。

2007年に亡くなったアメリカの作家カート・ヴォネガットの最後の著書「国のない男」で、カートはこう書いている。
「私が知っている決まりはたったひとつだ。ジョー、人にやさしくしろ!」
キリスト教には、ゴールデン・ルール(黄金律)という、素晴らしいルールがある。「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ」である。
カート・ヴォネガットは、これは本当は孔子の言葉だと言う。イエスは、孔子より、たった5百年ばかり年少だと思うが、「論語」を読んだとも思えないイエスも、確かそんなことを言っていると思う。いや、実際は、「して欲しいことをしろ」か「して欲しくないことをするな」の違いはあっても、多くの宗教で説かれていることである。
そして、それを端的に言えば、「人にやさしくしろ」であると思う。
ラマナ・マハルシは言う。「全ては神の現われであり、自分もその中に含まれる。なら、施しをせずにいられようか?」
実際、人に施すことは自分に施すことである。人に優しくすることは自分に優しくすることである。人を傷つけることは自分を傷つけることである。これは絶対的事実である。
ジョセフ・マーフィーの教えの要諦もこれである。願いが叶わないと嘆くなら、このあたりを振り返ると良いかもしれない。

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2010.05.04

月光は真理の反映

古来より、秘法とか秘教というものがあり、あまりに強力で高度なことは門外不出の秘密とされた。
なぜ秘密にするかというと、悪人に利用されることを恐れるというのとは違うと思う。
本当は、そのような秘密を全ての人々が知ることは良いことなのかもしれないが、無闇に公開すると、この秘密の効力が発揮されない事態となり、さらに、その偉大な力が長く、あるいは、永遠に失われる可能性があるからなのかもしれない。
その秘密を知り、使用することに関し、本来は修行も特別な勉強も必要ないかもしれないが、秘密が、一般大衆とは言わないまでも、霊的には拓けていないリーダーに知られた文明はことごとに滅んでいると思われるのであるから、やはりあまりに危険なものなのであろう。
しかし、人類は、この秘密と縁を切ることは絶対にできない。それは人類の終焉を意味することになる。
そこで、知恵ある人々は、秘密を直接には教えず、特別な弟子や学ぶ意志のある者達が自ずから発見できるように導くのだろう。

世の中で、「これこそ究極の秘法」とか「隠されたシークレットをついに公開」とか言われることがよくある。それらが完全な嘘であるとは思わないが、やはり直接的な秘密ではないのである。
よって、単にそれらを知り、書かれているとおりにやったところで顕著な効果が発揮されることは、実際の話としてほとんどない。しかし、やはり、全く価値のないものでもないのである。
効力がどのくらい発揮されるかは、切実さや心の純粋さにかかっている。大衆心理に飲み込まれないほどの切実さや心の純粋さである。
例えば、私はひきこもり気質の強いニートで、一生働く可能性はないと確信していたが、ジョセフ・マーフィーの本を読み、富豪とは言わないまでも、それ以降、職と金に困ったことはない。私は、子供の頃から精神的に学校を脱走し続けてきたので、世間の教義や信念の影響が他より少なかったのが幸いしたのかもしれない。

さて、真の秘法の、水滴に映った月のごとく、ほんの僅かな反映を取り上げる。
正しく解釈されないまま、なぜ聖書がかくも大きな影響を持ちつつ、絶えることがなく、これからも絶えないのだろうか?
日本では、古事記が、ほとんど顧みられていないように見えるに関わらず、なぜ全ての日本人の心の奥にあるのだろう?
世俗においても、ノーマン・ビンセント・ピールの著書が爆発的に売れ、トラインやワトルズの著書が百年を超える長命を保ち、陰りも見られないのはなぜだろう。あえて言えば、単に、内容の優れた本なら、他にいくらでもある。
日本にも、歴史的に数多くの大天才が出現し、偉大な書を残したが、私なら、正しく解釈できなくても古事記を薦める。原文ではあまりに退屈であろうから、現代語訳を薦めるが、どの現代語訳が良いかは、根本的に言うなら、どうでも良いのである。
これらのことからも、真の秘法を感じることもできるかもしれないのである。
我々の見る秘法は、月光のように反射された光だ。だが、そのしじまを友にすれば真実を知ることができる。


【新約聖書 福音書】
大正の終わりごろ、あるきっかけで、聖職者でない著者による、誰でも理解できる福音書の口語訳という、半生をかけた大事業が始まった。著者の8歳の娘にすらよく分かったような翻訳は困難を極めたと思うが、第二次世界大戦中には完成したようである。ただ、事情があり、出版までには年月を要した。我々がこれを読めるのは、大変な幸運であるかもしれない。

【古事記物語】
明治15年(1882年)生まれの、児童文学者、小説家である鈴木三重吉による、子供からお年寄りまで読める、分かりやすい、しかし、端正で高貴な文章の古事記の名著。ハードカバー。

【古事記物語】
鈴木三重吉の古事記物語の、PHP研究所による新書。解説が充実している。

【あなたも幸せになれる】
本文でご紹介した、私をニートから脱出させたジョセフ・マーフィーの潜在意識活用の名著。顕著に真の秘法を反映している月光のような本だ。

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2010.05.03

陽気なアウトサイダー

アルベール・カミュという、アルジェリア生まれの作家がいる。1913年生まれで、1957年にはノーベル文学賞を受賞した。
「シーシュポスの神話」などで、人間存在の不条理(道理が立たないこと)を徹底追求しているが、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」にも、カミュの「異邦人」が引用されている。
「アウトサイダー」は、それまでルンペン同様だった、中卒の肉体労働者であった25歳のコリン・ウィルソンを、ほとんど一夜で世界的作家にした作品である。
この作品でのアウトサイダーとは、冒頭で「世をしのぶ片隅の人」であると難しいことが書かれている。まあ、社会規範に外れた人間であることは間違いないのであるが、全編を通し、ひどく病的に扱われている。
私、Kayが目指すのは、陽気なアウトサイダーである。

カミュの「異邦人」という作品は、1943年、カミュ30歳の時の作品だが、現代の我々がもっと注目すべき作品だと思う。
ある若い男の、養老院に住む母親が死ぬところから始まる。
大した年ではないはずの母親は、養老院に来た当初は毎日泣いていたらしいが、やがて慣れたという。男は、はじめの頃はよく母親を訪ねたが、そのうちさっぱり行かなくなる。1日がかりになってしまうので、休日が潰れてしまうからだ。
母親が死んでも、男には大した感慨は無いように見える。そもそも、小説の出だしが、ウィルソンも引用しているが、「今日、ママが死んだ。いや、昨日かもしれない。」である。どうでも良いのだ。
男は、彼の母の死を知る周囲の人達が、彼に同情の態度を示すのが心地悪くて仕方が無い。居眠りしながら養老院に行き、母親の顔も見ずに葬儀を始めて終える。葬儀の間中、イライラと憂鬱を感じる。
だが、彼は、「ママのことは多分好きだった」と言う。男は、葬儀のすぐ後で、若い娘を口説いてデートし、一緒に寝るが、このことで災難に見舞われる。

「異邦人」の主人公の男は、ウィルソンも指摘する通りアウトサイダーである。
だが、ウィルソンの「アウトサイダー」は難し過ぎる。
私流に言えば、アウトサイダーとは、一般大衆の妄信や偏見に反発する者だ。だが、そんな者は、確かに陰鬱にならざるをえない理由はある。
人間は、生きていくには衣食住が必要だが、それらを得るには、大嫌いな大衆にかなりの割合で埋もれないといけない。衣食住もだが、大衆から外れると、名誉まで失う場合がほとんどで、それが自我にとって苦痛である。
芸能界やスポーツの大スターが大衆から離れているなんてことはもちろんない。マスコミが持ち上げる人気者は決してアウトサイダーではない。彼らが虚像のアウトサイダーである場合はあるが、そんな場合でも、実態は「モロ」にインサイダーだ。
「異邦人」の主人公は、普段は低い地位に甘んじることで大衆心理から距離を置いていたが、母親の死により、強制的に大衆の教義や信念に引きずり込まれたのだ。

吉本隆明さんの「共同幻想論」によれば、人間は、国(あるいは社会、地域、団体)など大きな範囲の中の人間で共有する「共同幻想」、家族(あるいは恋人などの親しい間柄)で共有する「対幻想」、そして、「個人幻想」の中で生きている。
個人幻想はまあ良いが、ほぼ全ての大衆が「共同幻想」と「対幻想」の中で生きており、そこから外れると、いろいろ苦しいことになる。
「唯幻論」の、岸田秀さんによれば、人間が幻想を免れる術はないようだ。「全て幻」と言うわけだ。

しかし、そんなことはないと私は大胆に宣言する。
我々は、大衆心理という幻想から逃れることは可能だし、そうしなければならない。
容易いことではないが、そうしなければ、本当の安らぎや真の歓喜ある平和は得られない。
繰り返すが、私の目指すのは、陽気なアウトサイダーだ。そして、もはやアウトサイダーはアウトサイダーでなくなる。太古の平和な時代にはアウトサイダーなどいなかったに違いない。
もし、古代文明が滅びたというなら、明確なアウトサイダーを生み出す土壌である大衆の妄信が現れたからだ。そして、同じ理由で、今の世界は滅びる運命にある。
イェイツは、世界を滅ぼし、再構築する者は陽気だと言った。
陰鬱に世をしのんでいてはならない。陽気に世を滅ぼし、新しい世界を創ることができる。
イエスは、「私は世に勝った」と宣言したが、我々も、今すぐそう言わなければならない。


【異邦人】
昭和29年初版。軽く百回を超えて版を重ねている。戦乱と闘争の中で生き、人間を深く洞察するカミュの代表作である。

【超越意識の探求】
25歳で「アウトサイダー」で世に出たコリン・ウィルソンの75歳の作品。生涯のテーマは「アウトサイダー」の時と全く変わらないと言う。
私は、あとがきに大いに感動した。もちろん、ウェルズ、ゴッホ、ベケットなどの「アウトサイダー」を鋭く洞察した内容も素晴らしい。

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2010.05.02

天使のささやき

サッカー選手や女優になりたいと思っている人も多いだろうが、その大半は、幼い自我が生じさせた願望だろう。
そのようなものになる運命にあれば、極端に言えば、嫌でもなってしまう。
表面的に見ると、偶然の成り行きで、世界最高の医師や大統領になったような人も実際にいる。

だが、幼い自我の願いの中にも美しいものはある。
年少者に大きな夢を持つことを薦めることにも意味はある。世間常識を超えた夢を持つことで、妄信や偏見の渦巻く大衆心理から外れることができるからだ。
本来は、人間はどんな荒唐無稽な夢も実現する力がある。それには、自己の内にある無限の力を発見しなければならないが、それは、幼い自我による行為と一見似てはいるが、実は高度に洗練された自我の行為である。
そのためには、まず、世間の教義や信念と戦わなければならない。それは、非凡な人間が必ず出逢う試練である。

では、幼い夢を使って自己の内にある広大無辺な力を汲み出したお話を取り上げよう。
お釈迦様は、従弟のアーナンダに天女を見せ、仏道の修行をすればこの天女はお前のものになると言った。天女の美しさは想像を絶するものであり、アーナンダは修行に励むが、やがて、仏道が目的となり、天女のことを忘れる。
このお話は、分かりやすいものであるが、それこそ、自我の幼い人には納得し難い部分もある。
むしろ、次のお話の方が分かりやすい。
1960年代の終りに「妖怪人間ベム」という人気アニメがあった。
妖怪人間とは、妖怪の身体の中に人間の心を持った生き物である。妖怪の身体は、人間の能力をはるかに超え、この世の陰に潜んで人間を苦しめる妖怪と戦うことが出来るが、その姿は人間にとっておぞましいもので、妖怪人間達は、普段は人間の姿に擬態(なりすますこと)し、本当の姿を隠していた。彼らは、人々に嫌悪や恐怖の感情を起こさせるその身体を持つことに苦しみ、人間になりたいと願う。
そして、彼らは、なぜかこう思う。
「人間のために良いことをしていれば、いつかきっと人間になれる」
そして、彼らは、悪い妖怪達を相手に、何度も死にそうな目にあい、傷付きながらも戦い続ける。しかし、考えてみれば、そんなことをして人間になれるという根拠は実はどこにもない。
だが、彼らは、ついに人間になる方法を発見する。
ところが、その時、彼らは激しく望み続けたその夢を放棄する。
この世に、悪い妖怪は沢山いる。自分達が人間になったら、そいつらと戦って人間を守ることが出来なくなる。人間になるために人間を守ってきたのが、人間を守ること自体が本当の願いであることが分かったのだ。自分達を迫害さえした人間をである。
この場合、幼い自我の願望が人間になることで、洗練された自我の目的が人間を守ることだったのである。

先のアーナンダの場合、アーナンダを導いたのはお釈迦様だった。だが、妖怪人間達に「良いことをすれば人間になれる」という導きを与えたのは、おそらく高次の霊的存在であろう。そして、そういった天使のような存在は、我々にもささやいているのである。
あなたの知っている物語にも、上記の解釈を作用させると、その真の意味が見えてくるはずだ。
そして・・・静かなひらめき、あるいは、天使のささやきを大切に。


【人生に奇跡をおこす】
幼い自我を成長させて幸福を得たり、世間の妄信を打ち破ることで広大無辺な力を味方にする潜在意識の法則を、世界的な潜在意識の活用法の教師ジョセフ・マーフィーが易しく教えます。
実例について、本人の許可を得たものは実名と住所入りで掲載されますが、これらには我々にも身近な問題が多く、特にあなたの役に立つかもしれません。

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2010.05.01

来るべき世界

シャドーロールというものをご存知だろうか?
競走馬の顔に装着し、視野を制限することで、決まった方向に効率良く走らせるための道具だ。特に足元を見えなくするらしい。
会社や学校が連休になると、商戦という言葉が踊るのを見ると、日本人はシャドーロールを装着された国民であると思うことがある。こんな世界は楽しいだろうか?

理想的な世界とはどんなものだろう?
「来るべき世界」という古い映画がある。原題は“Things to Come”で、原作は「宇宙戦争」や「タイムマシン」で有名な英国の作家H.G.ウェルズの“The Shape of Things to Come”という長編小説だ。
ウェルズ自身が脚本を書いたという貴重な1936年の映画で、2040年位までの世界を描いている。
原作小説は、ウェルズを予言者として有名にしたことで知られ、未来の世界的な出来事を見事言い当てていると言われたものだ。ノストラダムス同様、こじつけの解釈はあったかもしれないが、やはりノストラダムス同様、人間をよく知る者が未来の傾向性を正しく言い当てたことは評価すべきだろうと思う。
「来るべき世界」では、科学技術の進歩を押し進めてきた未来の人類は、「このまま行くか、元に戻るか?」で悩む。1つの結論は「当たり前が一番だ」である。あまりに当たり前のことだろう。
当たり前とは、自然ということだ。

何が人々にとって、あるいは、世界にとって自然なのだろう?
デカルトも言った通り、人の心の中には神のような完璧な何かがある。指針はそこに尋ねると良い。不自然なことをしていると、心は落ち着きを失くし不安になる。何とも分かりやすく素晴らしいナビゲーターではないか?
こんな素晴らしい内蔵器官をなぜもっと活用しないのだろう?その理由は、人々を奴隷状態に置くことで欲望を満たしたい連中が、我々の眼を内側でなく、外側に向けさせたからだろう。

古代の平和な世界では、人々に、「自分のもの」という感覚はあまりなかった。
家族というものはあっても、家の門は開放され、誰でもどこの家にでも自由に出入りできた。
いまの世界では、子供部屋にも鍵がかかり、偉い僧侶達は自分達だけ宮殿に住む。

岡本太郎が言うところでは、西洋で女性のヌード画が発達したのは、暑い夏など、部屋に鍵をかけてしまえば誰かが入ってくる心配がないので、女性は安心して裸になれたかららしい。それで、日本でヌードを描くことの滑稽さを指摘する。「あんたのねーちゃんやかーちゃんが、ふすまで区切られた家の中で裸でコロコロしてるのか?」ってね。
ところが、少し昔の日本ではそんな感じだったのだ。
江戸時代以前には、銭湯は混浴が普通だったし、軒先で若い娘が裸で身体を洗っていても、別段不都合もなかったらしい。本当にそうであったとしても、私は別に驚かない。
庶民の住居である長屋というのは、他の家との区切りは大したものはない。子供たちは自然、集まって仲良くなるし、食事時になるとそのまま、よその家で食べる。親の方も、食卓に現れたら、どこの子供にも普通に食事を与えた。実際は、どれが自分の子か分からないということも珍しいことではなかったという。家も、子供も、旦那、妻も、自分のものというはっきりとした区別がなかったのだろう。
都会の長屋でなく、家が個別化された農村でも、家の中に、父親の違う子供がいてもおかしなことでなく、本物の父親も平気でやって来て「おいせがれ、元気か?」などと言っていた。もちろん、その家の主人とも仲良しである。それで、農繁期になると、妻や娘と親しいよその家の男達が積極的に手伝いに来る。そんな村は平和で活気がある。

しかし、そんなことでは、さぞ風俗が乱れていたかというと、風俗が乱れたのは、明治政府がこういったことを取り締まるようになってからだ。そもそも明治政府の目的は、性風俗店からの税収であった。そして、金が絡むと社会に闇の部分が生まれ、それは人々の欲望を喰って肥大し、不幸な女性が増え、風俗は乱れに乱れることになった。そして、明治政府は豊かになって軍備の拡張を押し進めたのである。
アメリカの禁酒法が密造酒や闇バーを蔓延らせてギャング達の資金源になったように、権力の取締りがロクな結果を生むことはない。近年の日本でも、淫行条例が出来てから援助交際が爆発的に増え、しかも陰湿なものばかりになった。今懸案の2次元ポルノ規制法ができたら、子供たちはより悲惨となることは、まあ、間違いが無い。

金持ちになって、大きな屋敷でも建てたら、人々に解放すれば良い。国家に宮殿を与えられる身分になったら、当然のこととして難民に解放すれば良い。
まずは、そういった「簡単なこと」から始めなければならないし、それが出来てこそリーダーであろう。「レ・ミゼラブル」のミリエル司教のようにね。
「来るべき世界」とは、人間が「自分のもの」という意識をあまり持たない世界であることを願っている。

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