疑う力と諦める力
ギリシャ神話のオルフェウスの話は、断片的にでも聞いたことがあると思う。
オルフェウスは、死んだ妻、エウリュディケに逢いに冥界(死者の国)を目指し、苦難の末、冥界にたどり着く。
オルフェウスの奏でる竪琴の音は冥界中を感動させ、冥界の王ハーデスは、自分のもとまで見事にたどりついたオルフェウスの心の強さと、竪琴の腕前に免じ、エウリュディケを地上に返すことを約束する。
ただし、地上へは、オルフェウスが先に立って歩き、エウリュディケは黙って後ろからついていくが、地上に出るまで、オルフェウスは決して後ろを振り返ってはならない。
オルフェウスは言われた通り、地上に向かって歩くが、本当にエウリュディケがついてきているのかという疑いの心が起こり、それが強くなってくる。
そして、とうとう後ろを振り返ってしまい、エウリュディケが生き返ることはなくなる。
このお話は、何事であれ、目標を立てたら振り向いてはならないという戒めとして語られることが多い。
人間は、信じて疑わなければ、いかなる望みも達成できる。
しかし、デカルトが「疑っている私は確実に存在している」と言ったように、疑うことこそ人間の本性であるのだ。
神である冥界の王ハーデスは、オルフェウスが振り返ってしまうことなど、最初から分かっていたはずだ。
つまり、オルフェウスには最初から願いを叶える望みなどなかったのだ。
そもそもが、いかに愛する妻とはいえ、死んだ人間を生き返らせて欲しいなどというオルフェウスの願い自体が間違いであった。
ところが、デカルトは「疑っている私は確実に存在する」と言ったが、なぜ疑えるのかというと、自分の中に神がいるからだと言っているのである。
でないと、美味しそうに見える毒キノコをたやすく食べてしまうだろう。
疑うことは、神が人間に与えた最高の能力だ。
しかし、疑うことなく信じなければ願いは叶わない。
神は人間に最大のジレンマ(あっち立てればこっち立たずの状態)の与えた。
だが、解決は意外に簡単だ。
諦めてしまえば良い。
オルフェウスは、もともとが死んだ人間を生き返らせるという願いが無茶なのだから、駄目でも仕方がないと諦めていれば振り返ることはなかったのだ。
美味しそうに見えるキノコも、疑うなら、諦めて捨てれば良い。
政木和三さんがよく言っていた話がある。著書にも書かれていたと思う。
子供が大怪我をして絶望的な状況にある人に、政木さんは、「助からないから諦めろ」と言った。
その上で、「子供が助かり、ありがとうございました」と、過去完了形で祈れと言った。
子供は奇跡的に助かった。
だが、これは、両親が本当に諦めることができたから起こった奇跡だ。欲望のために、諦めたフリをしても駄目である。
諦めるとは、「駄目なら仕方ないじゃないか」という、大いなる開き直りである。
よく、「死ぬ気になれば何でもできる」と言うが、命を諦めることが最大の諦めであるからだ。
そして、食べなければ死ぬのであるから、食べることを諦めることが命を諦めることだ。
少しでも食べることを諦めることで、諦め力とでもいうものを磨けば確実に力を持つようになるのである。
我々の滅びは、命を諦めない限り免れない。
命と引き換えに出来ること。すなわち、叶わぬなら死んでも仕方ないと本当に思えることは何であろう。それが、あなたの真の願いである。
【冥界のオルフェウス】 今回取り上げたオルフェウスのお話や、ニーチェも問題としたアポロン(理性)対ディオニュソス(狂気)を面白く読める「ディオニュソス覚醒」が収められた本巻は、里中満智子さんの漫画ギリシャ神話の中でも最上の1冊と思う。 |
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