2010.09.22

友達がいないのは恥ずかしいことでない

友達が出来なくて悩む大学生がよくいるらしい。
学食で1人で食べるのが、寂しいのではなく、恥ずかしくてトイレで食べるような人もいると聞く。
この、「寂しいのではなく、恥ずかしい」というのはよく分かる。
幼稚園から大学、さらには、会社でも、常にグループ活動が強いられ、1人で行動することに罪の意識を持つように強要されてきたはずだ。

しかし、そんな人はもう心配無用である。
そんな人の話題が多いということは、「1人ぼっち」である「仲間」が大勢いるということだ。そして、それは、最も正常なことなのだ。
友達がいないからといって、その人に親愛の情がない訳ではない。むしろ、仲良しグループというのは、グループ外の者に非常に排他的、薄情な場合が多いものだ。
友達がいなくても恥ずかしいことではない。これは絶対に間違いない。
友達がいても別に悪くはないが、いないならいなくて良いし、無理に友達を作る必要はない。作為的に友達を作ってもロクな友達はできない。

友達がいないということは、無理矢理徒党を組ませる学校の策略をかわした賢い人であるということだ。
グループ行動をする者の方が奴隷根性を植えつけやすいのだ。学校は奴隷生産工場である。

私が幼稚園の時、1人でジャングルジムの天辺に居たら、女性教諭が私を見て、「1人で遊んでるの?」と言った。
見ての通りである。なんでそんなことをわざわざ聞くのだ。
空に太陽がさんさんと輝いている時に「良い天気ですね」と言うのは、暗に雨降りを悪いことであると言っていることであるように、「1人で遊んでるの?」と聞くのは、「友達と遊びなさい」という非難や蔑みを感じさせるものだ。

最初に、学食で1人で昼食をとることを「寂しいのではなく、恥ずかしい」という気持ちが分かると書いたが、私も、ほとんど友達というものを持ったことはないが、寂しいと感じたことはなかった。しかし、学校や会社の中で、「不都合」「辛い」「苦しい」ということは大変に多かった。既に書いた通り、社会というのは、グループ活動をしないと、非常に居心地が悪く、屈辱を与えるところである。奴隷とはグループ活動をするものであり、単独活動してはならないものだ。奴隷でないことは許されないのが社会である。

友達がいないなら、天使と友達になれば良い。
自分が天使になれば天使の友達もできる。別にこれは、メルヘンでも何でもない。
天使とは、仏教でいう菩薩のようなもので、神や仏に近付きつつあるものであり、世間ではなく、宇宙を主と認めているというだけのことだ。
天使になる方法なんて、誰でも一度は目にしたことがあるはずなのだ。
優れた詩や文学やエッセイはもちろん、現代ではアニメの歌なんてのも、宇宙が作者に霊感を与えて書かせているのだから、案外にあちこちに見られる。
それは、簡単に言えば、感情に無防備になることだ。哀(悲)しみ、嘆き、あるいは、怒り、屈辱、羨望といった、日常何度も感じるものに対してだ。
それらをまっすぐに受け止める。すると、心はぐらつく。ぐらつかせておけば良い。やがて抜け落ちる。その時はもう天使になっている。
自分が天使になれば、同じ天使の友達もできるかもしれないし、目に見えない友達も良いものだ。宇宙そのものが親愛に満ちた友である。

時空(とき)を越え刻まれた悲しみの記憶
まっすぐに受け止める君は光の女神(てんし)
~ETERNAL BLAZE(詩:水樹奈々)より~

愛しさに傷ついて 天使に生まれ変わる
哀しみを追い越して 彼女は天使になれる
~いつか天使になれる(詩:田村直美)より~

刻み込まれていた証(しるし)に
導かれまた倒れる時も
見つめ合った一瞬が千年の記憶を越え 光に変わる
~agony(詩:KOTOKO)より~

米国の光明思想家ヴァーノン・ハワードの著書にそういったことが書かかれている。世間の話に慣れた頭には、一見何が書いてあるのか分からないが、実際的なことが詳しく書かれている。

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2010.09.01

「せーの」は偉大なマントラ

「悪魔(デイモス)の花嫁」という漫画は、1975年に連載開始され、いまだ継続中らしい。原作は池田悦子さん、漫画はあしべゆうほさんによる作品だ。
古い時期のお話であるが、悪魔デイモスは、絶世の美少女である女子中学生の美奈子に、死の恐ろしさを見せ付けてから誘惑する。
「美しいお前も、いつかは老いさらばえて死ぬ。私の花嫁になれば、永遠の若さと命を約束する」
しかし、美奈子の迷いは一瞬で消え、明るくおだやかな表情で去る。
「死があるからこそ誕生がある。生まれいずる命は美しい。何にも増して美しい」
美奈子は悪魔に勝ったのである。

生まれいずる命はなぜ美しいか、ご存知だろうか?
「そんなの当たり前じゃない」と言う向きもあるかもしれないが、本当に分かっているのだろうか?それが本当に分かれば、悪魔にも勝てるし、世にも勝てる。
私などは、赤ん坊が美しいと思ったことなど一度もなかった。そして、そう思う人は大変に多いのだと思う。赤ん坊をコインロッカーに捨てたり、殺したりまではしなくても、さして可愛いと思っていない母親も少なくはない。だから、多くの女性が結婚したがらず、子供を産みたがらないのだろう。もちろん、女性だけでなく、男性も同じ傾向にある。

昨日も書いたが、人がこの世に「生れ落ちる」という言い方に人々の持つ奇妙な幻想が感じられるように思う。
人は生れる時に落ちたりしない。それでは、いかにも、地上というモノの世界に孤独に投げ出される感じがある。
もう少しマシな言い方をするなら、この世に生じるのである。
「運命を背負って生まれた」という言い方もあると思うが、これも、「運命と共に生じた」というのが事実に近い。
「運命」という言い方もまた、それぞれの人が孤独な存在である感じが強い。
最適な言い方ではないが、「関係性と共に生じた」というのがより実際を表しており、命の誕生とは、新しい世界が生じることなのである。
あなたは誰でもない。あなたは関係性の存在である。それは全宇宙との関係性だ。関係性の中には、個別の存在などない。あるのは関係性だけだ。あなたは宇宙全体であると確実に言えるのだ。
あなたは生まれもしなければ死にもしなかった。それが事実だ。

「荘子」の「斉物論」は、そのようなことを言っているのだろうと思う。斉とは、「一斉」という言葉に使われるように、等しいという意味だ。
「せーの」という掛け声は、「斉の」であり、「みんな一緒に」という意味だ。それは偉大なマントラだ。なぜなら、その「一緒」とは、宇宙全体を指すのだから。
自分が世界全体であることを自覚するには、「荘子」の斉物論のアドヴァイスを受け入れることは有益と思う。別に難しいことが書かれている訳ではない。一言で言えば、自然にまかせる、つまり、あるがままに受け入れるということだ。
慣れてしまえば、荘子の言う「一本の指も天下であり、一頭の馬も万物である」というのも、そうぶったまげたことではなく、むしろ、他人を出し抜くという考え方に違和感を覚えるだろうと思う。

「あなたは、この子の命を救うために、次元を超える力が欲しい。そうね?」
「はい」
「それには対価がいるわ。あなたはそれを払う気があるかしら?」
「はい」
「・・・。私はそれが何かまだ言ってないわ。それでもいいの?」
「構いません」
「対価は、その人にとって、最も価値のあるものでないといけない。あなたの対価は、この子との関係性」
~CLAMP著「ツバサ」より ※正確な引用ではありません~

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2010.08.31

心の中の悪魔

あなたは、自分を、正常な人間と思っているだろうか?
正常な人間とは、世間において正常な人間と見なされるよう振舞っているという以上の意味ではないと思う。

何かの本でこんな話を見た覚えがある。
2人の少女がいた。1人は大人びて、心優しい。もう1人は純心で子供っぽい。
2人はとても仲が良いのだが、ある時、子供っぽい少女が、大人びた少女に怒りをぶつける。
「あなたのように心のきれいな人に、私の気持ちなんか分かるはずがない」
大人っぽい少女は、怯えるほど戸惑いながら何も言えない。なぜなら、自分の心の中に、醜く汚いものが恐ろしいまでに渦巻いていることを感じているのだが、それを知られるのが恐いのである。
何の本だったかは覚えていないのは、おそらく、多くの小説や漫画等に同じような話があるからに違いない。
つまり、これが、ありふれた普通のことなのである。
ただ、この大人っぽい少女に心惹かれるのは、彼女がそれを自覚することのできる、極めて「純粋な」心の持ち主であるからだ。

こんな話もある。
清純な妹が、淫乱な姉を嫌い、家を出て行く。
しかし、時が流れ、その妹は、姉以上に淫乱な女になっていたというものだ。
これも、状況には特殊性があるが、傾向としては一般的なことだ。

いずれにしても、これらは、自分というものに対する大誤解が生んだ悲劇、あるいは、喜劇なのだ。
自分を、この世に「生まれ落ちた」存在。つまり、世界と切り離された孤独な存在と思っているから、世間の偽りの絆を持とうとして、奇妙な幻想に囚われ、単に変な欲望に付きまとわれるのである。
我々は、自分が世界そのものであるという自覚を得ることを諦めてはならない。


【桑田次郎アダルト短編集2 感覚転移】
確かにアダルトでエロチックな作品だが、特にR18指定はされていないようだ。
単なるエロスではなく、天才桑田次郎(現在は桑田二郎)の作品だけあり、人間存在の深い洞察に満ちた傑作と思う。
本文で引用したお話(淫乱な姉と清純な妹)もこの中にある。

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2010.08.30

相談メールを送ってこられる方々に

時々、私に相談のメールを送ってこられる方々がいます。
ご本人には深刻と思われる内容が大半ですが、私にはどれも、大した問題とは思えないものばかりです。
しかし、自分の問題は自分で解決するしかありません。

私は、おそらくは、いかなる問題に対する解決方法も分かるのだろうと思います。ただ、それは、単に原則が分かるからで、別に私が優秀な訳ではありません。
しかし、実際は、私にも、家族、親戚といった、ごく近しい人達の問題すら、何一つ解決してやることも出来ません。
彼らに、目の前で解決方法を述べても、彼らはうつろな目でいます。彼らは、自分が取り込まれている世間の妄信の範囲のことしか聞こえないのです。
自分の問題は自分で解決するしかなく、私が解決してやることはできないのですから、これではお手上げと言うわけです。
そして、現代の、欲望を煽られて強固にされた人々の妄信(共同幻想になってしまっています)は、昔、イエスがやったような、たとえ話を使った説法では歯が立たないような気がします。
丁度良い指標としては、24時間テレビ、高校野球の特集番組、NHK青年の主張コンクールなどがあります。これらを見聞して気持ち悪さを感じないなら、かなり世間の妄信に取り込まれていると言えるでしょう。いうまでもなく、それらの個々の内容自体は悪いものではありませんが、それに対する全ての人の反応の仕方を一定の方向に持って行こうとする不気味な意図が存在します。

何か深刻と思える問題を抱えているなら、まずテレビを見ないことです。特に、視聴率の高い番組は絶対に見てはいけません。ニュース番組すら、マインドコントロールが含まれる場合も多いですので注意した方が良いでしょう。「猛暑です」「本当に暑いですね」を連呼するのもそうなのです。私は、日中、外を歩く時でも厚手の長袖シャツと冬のスラックス(ジーンズの場合は夏も冬もありませんが)です。私も暑いとは思いますが、いっこうに平気です。ニュースで言うほどひどいと思っていないからです。早朝によく放送されているテレビショッピング番組は、目覚めのもうろうとした心に幻想を叩き込む恐ろしいものです。
そして、食を慎むことです。これは、心身に極めて良いばかりか、世間の妄信を疑うきっかけにもなります。
少食は私にはできませんという人がいますが、それは、やろうとしないだけのことです。極端な少食は薦めませんが、大食、美食を避けることが出来ないはずがありません。それができないなら、あらゆる問題の解決は諦めるしかないかもしれません。
大人なら間食はせず、決して満腹するまで食べてはいけません。もし、問題を解決したい願望が強いなら、肉食はせず、朝食か昼食の少なくとも1つは抜くべきです。「ドカ喰い」などというものは、人間のやることではなく、ブタのやることとと心得て下さい。実際には、動物だってそんなことはしませんので、ブタ以下というわけです。
こう言うと、「コーヒーやココアは駄目ですか?」「飴はどうですか?」と聞いてくる人もいますが、あきれたものです。彼らには、無制限か全く駄目の両極端しか思い浮かばないのです。何事もバランスです。

幸福はテクニックで得られるはずがありません。
テクニックを求めている自分に気付いたら、その考え方を変えるべきでしょう。
大切なことは、心穏やかでいること、現状のままで幸福を感じることであり、そのためにテクニックなどはありません。ただ、過剰な欲望を捨てれば良いのです。

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2010.08.26

生きるチカラ

私が、これほどの名曲はないと思うのが、時代劇「木枯らし紋次郎」の主題歌として今もよく知られる「だれかが風の中で」だ。
曲も歌も素晴らしいのだが、やはり詩が凄い。詩の内容は、簡単に言うなら、孤独で辛く苦しい人生を送ってきたが、きっとどこかで誰かが自分を待っていてくれるのだというものだが、凄惨さと希望がせめぎ合うような劇的な傑作と思う。それは、もしかしたら根拠のない希望なのかもしれないが、それが人に生きる力を与えるのである。
漫画家の水木しげるさん(「ゲゲゲの鬼太郎」の著者)が、凄絶な戦争体験の中で得た、「見えないものを信じることで精神は安定する」という信念のまさにお手本のようなものに感じる。
「だれかが風の中で」の作詞者の和田夏十(わだなっと)さんは偉大な映画脚本家として知られている大変な女性である(本名は茂木由美子)。

ところで、「だれかが風の中で」に似たモチーフ(主題)を感じる歌に、アニメ「キャンディ・キャンディ」のエンディング曲であった「あしたがすき」がある。こちらは、子供(特に女の子)向けのアニメのものなので、暗さの一切ない明るく希望に満ちた歌だが、日本を代表する児童文学者である名木田恵子さん(「キャンディ・キャンディ」の原作者でもある)による詩は美しい。「あのひと」が私を待っていてくれるに違いない明日を夢見るという、まさに、10歳の夢見る少女キャンディに相応しい詩だ。

さて、光あれば闇ありだ。
内容的には似ているのだが、ただ暗く、陰鬱で悲惨なだけの曲が、ビートルズの「エリナー・リグビー」だ。ジョン・レノンとポール・マッカートニーの合作である。
エリナー・リグビーは女性の名で、老女と見なされるかもしれないが、40代とか50代の女性と思ってもおかしくないと思う。
結婚式の後の教会で米粒を拾うほどの貧しい女だが、せいぜいお化粧をして、窓辺で王子様(歌の中では、単に「誰か」とされているが、雰囲気は王子様と思う)を待ち続けるうちに死んでしまう。

「だれかが風の中で」「あしたがすき」と、「エリナー・リグビー」がなぜ違うのかが分かれば、幸福の鍵もつかめるような気もする。
エリナー・リグビーは、「だれかが風の中で」や「あしたがすき」と同じことを考えていたかもしれないのに、何が悪かったのだろう?
彼女は、本当に王子様を信じていたのだろうか?若くもない彼女がそんなものを信じてどうなるものかどうかは分からないが、彼女は本当は信じていなかったのだろう。
彼女には、明るさ、前向きさがなく、人が生きるために必要な希望を持つことが出来ずに死んだ。見えないものを信じようとして信じることができなかった。

「今の世の中は夢が持てない」と不満を言う者がいる。しかし、夢を持つなんてことは命懸けのことなのだ。それは、心の全ての力を要する激しい活動だ。
それを、待っていれば与えられるとでも思っているのだろうか?

「あしたがすき」は、やはり少女の歌だ。
かつて、37歳のオリビア・ニュートン・ジョンが、恋の苦しさを切々と語る歌を作ったことがある。まあ、彼女ほどの美女ならサマにならないでもなかったが、やはり奇妙だ。どういう経緯で作ったかは分からないが、単なる娯楽用の曲だったのだろう。
本当に信じることができるためには、自我を確立し、自分で個性を育てた大人になる必要がある。それからも、長い間心は揺れ、自我の動揺に苦しむに違いない。だが、希望を見出すのはそんな時だ。
苦しみのない希望はない。苦しみこそ希望の曙光だ。それが分かれば、苦しみもすみやかに去るだろう。

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2010.08.21

メル友こそ本当の友人である

「住所、氏名、電話番号を明記の上」などという文言が、リズムのように頭に染み付いているのではないだろうか?
そのくらいよく使われる言い回しである。最近は、「携帯の電話番号は不可」という注意書きも憶えてこられたかもしれない。
なぜ、こんな文句がそれほど頻繁に使われるのかと言うと、住所が分かれば、いざとなったら踏み込んで強制的に金を取れるからだし、固定電話の電話番号というのは、住所を特定するのに便利なものだからだ。

しかし、ホームレスには住所や(固定電話の)電話番号は無い。
そして、ホームレスは大学に入れないし、ローンも組めない。家や車も買えない。いくら金を持っていてもである。
大学に入ったり、ローンを組んだり、家や車を買う必要など全く無いが、それは置いておこう。
つまり、ホームレスは、人間と認められていないのである。
早い話が、今の世の中は、いざとなれば無理矢理に金を取れる相手が、「ちゃんとした人間」というわけである。
では、世の中に、ちゃんとした人間と認めてもらう必要などはない。

友人、恋人、あるいは、家族なら、メールアドレスで十分である。メールの使い方が分からない場合は別だが、電話番号や住所を知らずにおけないなら、本当の友人、恋人、家族ではない。
つまり、国家にとっても国民は子供ではない。金を取る相手である。
そして、考えてみれば、メル友こそ、本当の友達なのである。(正しくは、「メル友のような友人こそ、本当の友達」と言うべきかもしれない)

私も、欲しくもなかったが、事情があって車を買った。メンテナンスに気を使うのが煩わしいので新車にし、また、面倒なので契約書を交わしたついでに全額現金で支払った。
しかし、もし、私が、契約したが金を払えないなら、無理に私から取る必要なんてないのではないか?私に金がなくても、日本のどこかにはある。どこか他所から取ってくれれば良いのである。
これは、今の世の中では変な考え方になるのだろう。しかし、それは世の中が変なのだ。

仕方なくホームレスをしている人もいるだろうが、好きでやっている人もいる。また、仕方なくやっているように見え、自分でもそう思っているかもしれないが、本当はやはり好き好んでやっていることが多いのである。
別に、ホームレスなんて、全然特殊な人達ではない。しかし、無理矢理金を取るのに不都合という理由だけで人間扱いされないのである。
ホームレスだって、たまにはホテルにでも泊まりたいかもしれない。だが手持ちの現金が全くないとする。なら、市役所かどこかに「支払い代行申し込み所」みたいなところを用意してもらい、代わりに払ってくれるよう申し込めば、それで済むようにしてくれれば良い。まさか、日本のどこにも金がないはずがない。ホテルが営業しているという事実が、どこかに金があることを証明しているのだ。

私だって、友人や家族や親戚や、ましてや可憐な女の子なら別に下心もなく・・・いや、それが誰でも、「可愛いから亀を買ったけど、サイフにお金がない」って言うなら、私のサイフに入ってたら自然に私が支払う。
個人に支払い責任を求めるのは、もう千年も時代遅れだし、また、個人として責任を持たざるを得ないものを持ちたがるのも十分に時代遅れだ。
我々は、いい加減に時代に追いつきたいものである。


【未来改造のススメ 脱「お金」時代の幸福論】
書店でパラパラと立ち読みしたが、内容は既に分かっていることで、読む必要がないので買わなかった。
「住所代わりにメアドで十分」「みんなが働く必要はない。10人に1人が働いて、後はネコになればいい。ネコが働かなくても誰も文句は言わない」などと書かれている。
著者は、オタキングと呼ばれるオタクの権威であり、近年はダイエットで有名な岡田斗司夫氏と、 元オン・ザ・エッヂ取締役の小飼弾氏。私は、昔から岡田氏の洗脳論には感服し、本をよく読んだ。小飼氏は、優秀なオープンソース開発者で、アルファブロガー(影響力あるブロガー)としても知られている。

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2010.08.19

本物の楽天主義者

楽天主義、あるいは、楽観主義と呼ばれるものは、本来の哲学的な意味ではやたらにややこしいものであるが、一般的には、「ものごとが良い方向に進むと信じる」ことであると言えると思う。
ヘレン・ケラーは、大学生の時に著した「楽天主義(OPTIMISM)」で、楽天主義者の信念を「明日は今日より美しく、明後日はさらに美しい」と表現した。
1897年に出版され、いまも世界で読み継がれる“In Tune with the Infinite”を著したラルフ・ウォルドー・トラインも、この本の中で楽観主義の重要性を強く訴えている。

※“In Tune with the Infinite”の邦訳は、谷口雅春氏による『幸福はあなたの心で』、吉田利子氏による『人生の扉をひらく「万能の鍵」』などがある。谷口雅春氏は、「生命の実相」の中で、この書の原題を「宇宙と調和する生活」と訳しているが、それが適切と思う。

ただ、楽観主義も、使い方の難しさがあるような気がしてならない。楽観主義が現実逃避と混同されていることも多いと感じるのだ。
何の根拠もなく、ただ「大丈夫だよ」「心配いらないよ」とだけ言っていれば良いわけではない。
確かに、一休禅師は、遺言にただ、「心配するな、なんとかなる」と楽天主義の言葉を残したが、それを見るのはあくまで「どうしようもなくなった時」と言ったのだ。
そして、ヘレン・ケラーは、上にもあげた「楽天主義」の中でこうも述べているのだ。
「人生は、恐れを知らぬ冒険か、それとも無かのどちらかである」

楽天主義、楽観主義には、強さが必要なのだ。弱者の現実逃避の道具ではない。
そして、悲観主義が素晴らしいこともある。
五島勉氏の「ノストラダムスの超法則 死活の書」の中にある話だが、美しい姫を争って決闘をすることになった騎士に、ノストラダムスは「決闘相手の方がずっと強い。あなたは負けて死ぬ。姫も決闘相手のものになる」と断言した。天下の予言者にこう言われ、また、決闘相手の力量が自分を上回ることを認識していた騎士もそれを受け入れた。そして、死を覚悟して澄み切った心で決闘に挑み、見事勝利するのである。

だからといって、悲観主義が良いとも言わない。普通は弊害の方が多いかもしれない。
楽天主義とは、つまるところ、自分を信じることであるが、それは、身体や心を超えた高い自分を信じることであるに違いない。よって、身体や心を超えた自分を知らない者が正しい楽観仕儀者になれるはずがない。
それならば、上にあげた、ノストラダムスに死を宣告された騎士のように、全てを捨て、死を受け入れることで、身体や心の自分を超え、真の自分に触れることが必要だ。
本当の自分を知らない者は、本物の楽天主義者にはなれない。
重要なのは、本当の自分を知ることであるが、そのためには勇気が必要である。それが、ヘレン・ケラーの言う「恐れを知らぬ冒険」と思う。
至道無難禅師の「生きながら死人となりはてて、思いのままになすわざぞよき」の意味をよく考えるべきと思う。

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2010.08.18

自我の死と真我の覚醒

死に至る直前に、大きな自己変革を起こした人の話がある。
それは、肉体的な死の場合が多いが、自我としての死の場合もある。しかし、突き詰めて考えれば、それはやはり、肉体の死ではなく、自我の死であることが重要なのだ。

英国の作家コリン・ウィルソンは10代のある日、まさに青酸カリを飲んで自殺しようとした刹那に精神に何かが起こり、一瞬で賢者に生まれ変わった。ただ、その時の彼はまだ若く、知恵を形にするのには経験と精神の成熟が必要だった。そして、彼は23歳の時に書いた「アウトサイダー」で、ほとんど一夜で世界的作家になった。
ラマナ・マハリシは17歳の時、家で退屈な学校の勉強の復習をしていた時、不意に死の感覚に襲われ、それが彼を一瞬で聖者にした。だが、彼も聖なる知恵を確立するために、長い沈黙の行が必要だった。

重病で、医者に余命わずかと診断され、絶望に陥っていた人が、ぼうっと自然の風景を眺めていた時、不意に聖なる光を感じ、病気は消え、まるで別人のように生まれ変わった。
23歳の無敵のプロボクシング世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンは、1974年に、既に盛りを過ぎた元世界王者モハメッド・アリとアフリカで対戦した。フォアマンは圧倒的有利と見られており、アリの挑戦は無謀と思われていた。予想通り、試合は序盤からフォアマンが攻勢で、アリは防戦一方だったが、アリはフォアマンの殺人パンチに耐え続けた。そして、反撃に転じたアリのパンチはフォアマンをマットに沈めた。この試合は、現在でも「キンシャサの奇跡」として知られている。尚、キンシャサは現在はコンゴ民主共和国の首都だが、当時の国名はザイールで、この試合も以前は「ザイールの奇跡」と呼ばれることもあった。自分の敗戦が信じられず、呆然自失となっていたフォアマンは、不意に不思議な光を見る。彼はしばらくはボクサーを続けるが、アリとの再戦を行わないまま、全盛期に引退。宣教師になる。しかし、38歳で現役復帰し、世界王座に2度挑戦するがいずれも破れる。だが、45歳でついにKO勝ちで世界王者に返り咲いた。

肉体的な死の危機が引き金となることもあるが、本質的には、自我の死、心の死というものが、時にはではなく、確実に大きな変革をもたらすと私は思っている。
また、臨死体験という、死の瀬戸際から生還した者の中にも、別人になったと言って良いほどの変革を見せた者もいる。
他にも興味深いのは、極めて異質な世界を体験した場合も、そのようなことになることだ。立花隆氏の「宇宙からの帰還」には、宇宙飛行士が、一度宇宙に出ると、以前と同じ人間であることはできないとまで書かれていたと思う。莫大な費用を払ってでも宇宙飛行を体験したい人が多いのも、直感的にそれを感じるからかもしれない。

我々も、自我の死、心の死を体験し、自己変革を起こすことは素晴らしいことであるに違いない。
ただ、それには、大人の自我を持っていることが必要と思う。上にあげたラマナ・マハリシは17歳の高校生の時に劇的な体験を持ったが、彼の場合は特別な才能を考慮すべきと思う。
自我が十分に確立されていない場合には、その崩壊は危険でもある。しかし、若い場合には、大人にとっては何でもないようなものに大きな感動を覚え、素晴らしい体験になるものである。邱永漢氏も、著書の中で「若いうちに子供を海外に連れて行け。大人になってからエッフェル塔を見ても、当たり前に見てしまう」と書いていたのが印象的だ。
まずは、自我を確立するまで、人としての修練を、家庭、学校、社会で行う必要があるだろう。だが、様々な理由により、普通の生活を送ることに困難があっても挫けてはいけない。全て、今いるその場で出来るに違いない。なぜなら、全ての出来事は神の恩寵であり、必然であって偶然ではないからだ。

ラマナ・マハリシ自身、自我、あるいは、心を消滅させる探求の道を教えている。
ただ、「私は誰か?」と自分に問い続けるのである。それで、心は、真の自己(真我)を残留物として残して溶け去る。
いかなる想いが心に起こっても、その想いを追いかけず、「この想いは誰に起こったのか?」と問う。答えは「私に」であるに決まっている。すかさず、「その私は誰か?」と問うのである。すると、想いは消え去る。これを根気強く続けることで、全ての想いは消滅する。それは心の死である。マハリシは、あらゆる想いを、城から出てくる兵士に例える。それらの兵士を一人ずつ倒せば、やがて城は我らの手に落ちる。探求は、1日中、たゆまず行う必要がある。

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2010.08.17

最大の恐怖は死ではない

演技力があれば、「あなたには不安がありますね」と初めに言えば、占い師でやっていけるかもしれない。
不安のない人間などいないからだ。

なぜ我々は、いわく言いがたい(説明しようのない)不安を抱えているのだろうか?
それは、何かの恐怖感を持っているからに違いない。
人間最大の恐怖は死だと思われているかもしれないが、実は違う。人間は、死そのものではなく、自我の消滅を恐れているのだ。
それは、こう考えれば分かる。肉体が消滅して魂が残るのと、魂が消滅して肉体が残るのと、どちらかを選ぶとしたら、間違いなく、魂が残る方を選ぶはずだ。魂を自我だと思っているからだ。

そして、人間が常に不安なのは、自我とは不安定なもの、つまり、常に崩壊の危機に晒されているからだ。
なぜそうなのかというと、自我というものは、確固たる基盤はなく、ただ、関係性で構築されているからだ。
フロイトは、自我は幻想だと言ったが、それほどあやふやなものであることは確かだ。
自我は、肌の色、住む家、食べるもの、家族との関係、友人、通う学校、仕事、その他、あらゆるものとの関係で成り立っている。その中で、母親との関係性が自我を構築するための根本的な構成要素だ。
だから、母親との関係の薄い人は、自我が不安定だ。それは、その人にとって恐ろしいことなので、自我を強化するために、別のもので補完をしようとする。子供であれば様々なヒーローや、神秘な物語に夢中になったりする。成長するにつれ、武道に憧れたり、ピストルやナイフのような武器に強く惹かれることもあるし、オカルトに傾倒したり、熱心に宗教を信仰する人も多い。俗に言う変わり者には、母親との縁の薄い人や、母親に愛情を注がれなかった人が多い。自我の構成要素の中で最も大きなはずの母親の部分を別のもので埋めているのだから当然である。
特に、日本人は母親の影響が大きいのだから、日本では、母親との縁の薄い人は致命的なまでの変わり者扱いをされる。戦争で死ぬ時、「お母さん!」と叫ぶのは日本人くらいらしいし、乙女が泣きながら「お母さん!」と叫ぶのを可愛いと思うのも日本人くらいだ。
ただ、母親が自我の構築に大きく関与するのは、人間である限り同じで、「母をたずねて3千里」のような物語はどこの国にもある。たとえ立派な大人になっても、母親の顔を知らない人が、なぜか、母親に会いたがるのは、自我の中に母親の締める大きさがいかに大きいかを感じさせる。
おそらく、キリスト教で、信教を自由に選べる立場にあれば、母親との縁の薄い人は、聖母マリアを重要視する教派を選択するか、逆に、マリアのためにキリスト教に反発するかだと思う。

さて、母親というものもひっくるめ、自我の崩壊を恐れることに原因する不安を消すにはどうすれば良いだろう?
普通は、それは不可能で、人間は一生、不安を引きずる。
だが、注目すべきことがある。
それは、自殺をする瞬間に神秘体験をして、生まれ変わることがあるということだ。かのコリン・ウィルソンが世界的な思想家になったきっかけが、まさに青酸カリでの自殺未遂からであったのだ。
自殺とは、自我の消失を自分で引き起こすことであり、自殺に大きな勇気が必要なのは、人間最大の恐怖である自我の消滅を自ら選ぶのだから当然である。いわゆる、「死んだ気になれば何でもできる」の正しい根拠はこれだ。
あるいは、自我を完全に打ちのめされたり、ついに死を受け入れたという時に神秘体験を引き起こすこともある。
昔、無敵のプロボクシング世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンが、モハメド・アリにまさかのKO負けをし、茫然自失した後、神を見て熱心なクリスチャンになったのはそのためだ。
ただ、予想される通り、それは危険なことでもある。
自我を中途半端に破壊すると、最大の恐怖が残り、最悪、発狂する。自殺の場合、下手に恐怖に打ち勝つと、そのまま死んでしまう。
上にあげた、自我の消失で「悟りを開いた」人は、運が良かったというか、それまでの積み重ねがあったのだ。

自我の自主的な抹殺は、正しく行う必要がある。
まず、母親との縁が薄くて、人工的な自我でも良いから、いったん、自我を強く構築しないと、うまく完全に壊れてくれない。
未熟な自我で本格的な修行をする者が常に悲惨な結果になるのはよく知られていると思う。
日本の最高の文豪達・・・芥川や三島等は皆、母親との縁が薄い。彼らは自力で超人的自我を築いたが、その破壊に失敗し、自殺することになってしまった。
至道無難という有名な禅僧の言う、「生きながら死人となり、思いのままに生きる」ことができなかった。イエスの言う、「死に切ることで死に打ち勝つ」ことが分からなかった。天才的に賢い彼らすらそうだった。
だが、我々は、そんな失敗をすべきでない。

今回は、いったんここで切り上げる。

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2010.08.16

親への恨みは根深い障害になる

多くの宗教で、人間を「神の子」と表現することがある。
そのような場合、当然、神は人間の親であり、実際に神を、「親神様」「親様」「父」「大親」などと呼ぶようである。
しかし、平然とそのような言い方をし、教える宗教は、無配慮な点が無いかと疑問を感じることがある。
人によっては、「親」という言葉に対するイメージがひどく悪く、その言葉が、恐怖や陰鬱の感情を呼び起こすこともある。そんな人は決して少なくは無く、特に、近年の日本では多くなっているのではないだろうか?
親の愛、特に、母親の愛は無条件に素晴らしいと思うのは、あまりにおめでたいことであろう。母親には実は愛はなく、子供を支配するためにそう見せかけているだけであると、それなりの根拠をもって断定する精神分析学者もいるほどである。
それはともかく、親に対する感情の影響は、我々が考える以上に大きい。
「心身医学の父」と呼ばれる、ドイツ人医師ゲオルク・グロデックは、「エスの本」で、母親を憎む女性は子供を産まないと書いているが、全てそうでないとしても、やはり、親の影響は根深いことを思わせるのである。

宗教で言う、人が神の子であるという概念は良いものであると思う。しかし、やはり、それに適応できない者は絶対にいると思う。
ところで、仏教では、人の姿をとって現れた仏を「化身」と呼んでいる。また、キリスト教でも、イエスを神の化身とするのが一般的である。
仏教やキリスト教そのものでは、仏、あるいは、神の化身とされるのは、釈迦やイエスといった、まさに、生き仏、生き神であるが、全ての人間が本質的に仏や神の化身であると言って良い。
神の子という表現に抵抗があるなら、神の化身、仏の化身という表現を使うのも手と思う。

特に宗教的な考え方ではなくとも、宇宙全体が、物質というよりは、精神のようなものと言って良いと思う。いくらかでも科学的に表現したいなら、この精神を情報と呼んでも良いと思うが、精神と言った方がまだ適切と思う。
魂と呼ばれる、我々の精神の本質は宇宙を構成する精神と同質のものであり、この宇宙の精神は、人の表面の精神である心(自我、顕在意識)と潜在意識(無意識)によってつながっている。潜在意識がクリアできれいであれば、人は宇宙全体と一体である。そうなれば、宇宙全体の力、エネルギー、活力、知恵と一体であり、それを自在に駆使できるというのが、ジョセフ・マーフィーやチャールズ・ハアネルの考え方と言って良いと思う。そして、これこそ、人が完全な神の子、仏の子、あるいは、神の化身、仏の化身であることを証明できる状態である。(証明できなくても、本来人は、神や仏の子、あるいは、化身である)
潜在意識をクリアにするというのは、そこに、汚れたものを溜めないことだ。汚れたものとは、偏見や世間の教義といった幻想である。本来、世間のしきたりとかルールといったものは、必要最低限で良く、後はそれぞれの自由意志で思考、行動すれば良いはずなのであるが、一部の人間達が大衆を支配するために勝手なルールを作って人々に押し付けた。それが大衆の持つ根深い幻想であり、人が神である宇宙の精神とつながることを妨げている。今の世界は、これがあまりに進行し、人々の潜在意識はガラクタ置き場、ゴミタメ場よりもひどい状態だ。
潜在意識をクリアにする方法としては、闇に光を当てれば闇が消えるごとく、真理を知ることであり、最も手早いのが、真理が書かれた本を読んだり、真理の教えを聞くことであるが、ご存知の通り、真理の書と称して幻想の本を与え、真理の教えと吹聴して幻想の教えを広める者が極めて多い。ある意味、何も信じないというのは正しい態度である。ラマナ・マハリシは、心自体を根絶する方法を教えた。それが、「私は誰か?」と問う自己探求である。自己が自己を問えば、表面の自己である自我は自ら滅びるのである。潜在意識の中のガラクタは、自我に依存してしか存在できず、それで潜在意識をクリアにできる。日本でも、ある遊女が、仏僧に、ただ「私は誰か?」という想いだけを持てと言われ、それを信じて行ったことで悟りを開いた。そんな話もある。

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