2010.08.16

親への恨みは根深い障害になる

多くの宗教で、人間を「神の子」と表現することがある。
そのような場合、当然、神は人間の親であり、実際に神を、「親神様」「親様」「父」「大親」などと呼ぶようである。
しかし、平然とそのような言い方をし、教える宗教は、無配慮な点が無いかと疑問を感じることがある。
人によっては、「親」という言葉に対するイメージがひどく悪く、その言葉が、恐怖や陰鬱の感情を呼び起こすこともある。そんな人は決して少なくは無く、特に、近年の日本では多くなっているのではないだろうか?
親の愛、特に、母親の愛は無条件に素晴らしいと思うのは、あまりにおめでたいことであろう。母親には実は愛はなく、子供を支配するためにそう見せかけているだけであると、それなりの根拠をもって断定する精神分析学者もいるほどである。
それはともかく、親に対する感情の影響は、我々が考える以上に大きい。
「心身医学の父」と呼ばれる、ドイツ人医師ゲオルク・グロデックは、「エスの本」で、母親を憎む女性は子供を産まないと書いているが、全てそうでないとしても、やはり、親の影響は根深いことを思わせるのである。

宗教で言う、人が神の子であるという概念は良いものであると思う。しかし、やはり、それに適応できない者は絶対にいると思う。
ところで、仏教では、人の姿をとって現れた仏を「化身」と呼んでいる。また、キリスト教でも、イエスを神の化身とするのが一般的である。
仏教やキリスト教そのものでは、仏、あるいは、神の化身とされるのは、釈迦やイエスといった、まさに、生き仏、生き神であるが、全ての人間が本質的に仏や神の化身であると言って良い。
神の子という表現に抵抗があるなら、神の化身、仏の化身という表現を使うのも手と思う。

特に宗教的な考え方ではなくとも、宇宙全体が、物質というよりは、精神のようなものと言って良いと思う。いくらかでも科学的に表現したいなら、この精神を情報と呼んでも良いと思うが、精神と言った方がまだ適切と思う。
魂と呼ばれる、我々の精神の本質は宇宙を構成する精神と同質のものであり、この宇宙の精神は、人の表面の精神である心(自我、顕在意識)と潜在意識(無意識)によってつながっている。潜在意識がクリアできれいであれば、人は宇宙全体と一体である。そうなれば、宇宙全体の力、エネルギー、活力、知恵と一体であり、それを自在に駆使できるというのが、ジョセフ・マーフィーやチャールズ・ハアネルの考え方と言って良いと思う。そして、これこそ、人が完全な神の子、仏の子、あるいは、神の化身、仏の化身であることを証明できる状態である。(証明できなくても、本来人は、神や仏の子、あるいは、化身である)
潜在意識をクリアにするというのは、そこに、汚れたものを溜めないことだ。汚れたものとは、偏見や世間の教義といった幻想である。本来、世間のしきたりとかルールといったものは、必要最低限で良く、後はそれぞれの自由意志で思考、行動すれば良いはずなのであるが、一部の人間達が大衆を支配するために勝手なルールを作って人々に押し付けた。それが大衆の持つ根深い幻想であり、人が神である宇宙の精神とつながることを妨げている。今の世界は、これがあまりに進行し、人々の潜在意識はガラクタ置き場、ゴミタメ場よりもひどい状態だ。
潜在意識をクリアにする方法としては、闇に光を当てれば闇が消えるごとく、真理を知ることであり、最も手早いのが、真理が書かれた本を読んだり、真理の教えを聞くことであるが、ご存知の通り、真理の書と称して幻想の本を与え、真理の教えと吹聴して幻想の教えを広める者が極めて多い。ある意味、何も信じないというのは正しい態度である。ラマナ・マハリシは、心自体を根絶する方法を教えた。それが、「私は誰か?」と問う自己探求である。自己が自己を問えば、表面の自己である自我は自ら滅びるのである。潜在意識の中のガラクタは、自我に依存してしか存在できず、それで潜在意識をクリアにできる。日本でも、ある遊女が、仏僧に、ただ「私は誰か?」という想いだけを持てと言われ、それを信じて行ったことで悟りを開いた。そんな話もある。

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2010.08.14

3つのタイプ別の悟り方

釈迦もイエスも、悟りを開けば、万能の奇跡力を自在に駆使できることを、弟子達には教えたが、一般の人々には隠した。
だが、釈迦は弟子にもその使用はほとんど禁じたのに対し、イエスはむしろ弟子が大いに使うことを期待したように思われる。
そして、釈迦の弟子達は、そのことを外部には隠し、一方、イエスの弟子達は福音書に明らかにした。

そういったこと(奇跡力の秘密)が、精神の未熟な人間に知られれば、それを目的に解脱を得る(悟りを開くと同じ)修行をすることになり、間違った方向に行ってしまう可能性が極めて高い。
そのため、イエスは、その力は、あくまで天の父(絶対神)によるものとしたのだが、そのため、人間の本質が神と同じであることが理解されなくなってしまった。
キリスト教では、父なる神と精霊と人が同じであるという三位一体を中心教義としてはいるが、そこでいう人とはイエス個人とされているように思う。つまり、単にイエスは神であると言っているだけで、人間全てが神であるとは言っていないし、そう信じてもいないのだろう。

現代の聖者で解脱者であるラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは、そこらをうまく調和させて教えている。
人が本質で神そのものであること。悟りを開くとは、それを明らかに認識、実感することだが、そうなれば力においても万能となる。しかし、そんな超自然力を意識的に使う必要は全くない。必要なことは無意識に行われるからだ。
つまり、奇跡の力の発揮に自我の関与は無用だし、極めて好ましくない。
このあたりを、ラマナ・マハリシは、イエスは自分が奇跡力を使ったことを知らなかったのだと美しく表現した。
ジョセフ・マーフィーは、そういったことをよく知った上で、人々に願望を達成させる秘法を教えたのだが、自我の強いままの普通の人は成果を収めることができなかった。しかし、以下の方法で精神を精錬すれば願いは叶う。

悟りを開くにも、人には3つのタイプがあり、自分に向いた道を選ぶ必要がある。(ちなみに、血液型などは何の関係もない)
第一は、最も純粋な方法で、自分の内面を探求することだ。常に自分の心の動きと出来事に注意し、真の自己を蒸留して純粋にしていく方法だ。
第二は、何かに情熱を注ぎ込む方法で、例えば、芸術や科学、工芸(実用的であることが芸術と異なる)、スポーツなどである。ただし、富と名声をもたらすものは道を外れやすい。よって、スポーツよりは日陰で行うような武道の実践者に解脱者が圧倒的に多い。
第三は、奉仕活動である。これにより、他者の喜びを自分の喜びとすることで自他の区別を無くしていき、全てが1つであり、それが愛である神だということを悟るに至る。

実際には、どれか1つの道のみということはなく、いくらかは全ての道に関わる。
ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは第一の道で悟ったが、普通、そういった解脱者は無名である。
マザー・テレサやガンジーは第三の道の代表的な体現者である。
アルベルト・シュヴァイツァーは、主には第三の道を行ったが、まずは第二の道で、神学と音楽を極めようとした。次いで、芸術や学問への探求の情熱と世界の不条理の板ばさみとなって、否応なく自己の心を見つめることとなり、第二の道に入り、最後に第三の道に進んだ。彼の悟りは生命の深い洞察として形(生命への畏敬)にもなった。
アルベルト・アインシュタインは、第一の道と第二の道を渾然とさせ、科学の中に霊的叡智を持ち込んだ。そして、最後は、バートラント・ラッセルなどと共に人類奉仕への道を進んだ。完成には至らなかったが、人間として偉大な一生であった。

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2010.08.09

能力の差など些細な問題である

同じ人間でありながら、なぜこうも違いがあるのだろうと思った人は多いと思う。
言うまでもなく、私も散々悩んだクチである。

現在は、宇宙飛行が誰でも出来る時代になりつつあるらしい。
しかし、かつて宇宙飛行士はエリート中の超エリートだった。
学問では全国屈指の秀才、スポーツも万能で何かの競技に集中すればオリンピックも夢じゃない。そして、人間的にも高度な人格と強靭な精神力が要求された。
いわゆる、並の人間とは全く異なる超人と言って差し支えなく、収入も目も眩むほどで、誰にとってもだが、もちろん、女性にとっても憧れの的だった。

一方、学校においては、三流校の中でも成績は最下位あたりで、特技もなく、人間的にもつまはじき者。
社会では、安月給で世間の人に見下される・・・ならまだマシで、仕事も無く、ボロを着、何ヶ月も入浴しない汚れた身体で野外で寝ている者もあれば、社会で勝ち抜き、豪邸に住み、最高に贅沢な生活をする者もいる。
この違いはいったい何なのだろう?

ところが、こういった優秀な人間と、劣った人間と言われる人達に大した差はない。
喩えてみれば、100キロメートルと1ミリか、100キロメートルと2ミリかの違いといったところである。

フランスのリュミエール兄弟が1900年代初頭に映画を発明し、それが世界中に普及する中で、悟りを開いた聖者達は、世界をよく映画に喩えた。
ラマナ・マハリシもそうだった。
人間の本質は光であり、心がフィルム、世界はスクリーンだ。心によって世界が変わることを端的に示すには格好の喩えだった。
本当の自己は光であるが、人々は、スクリーンを現実だと思い違いをし、自分自身を見ない。自己である光を知れば、心というフィルムが悲惨な内容でない限り、悪い現実は現れないことを了解する。心さえ変えれば、実際は幻影であるが、この世というものは自由に変えられるのだ。
リュミエールという言葉が、フランス語で「光」を意味するのは面白いことだ。

しかし、今では、人と世界の関係はパソコンとインターネットで表現した方が良いかもしれない。
あくまで喩えなので、厳密な話と思ってはいけないが、人はパソコンだ。高性能なパソコンが優れた人間だと思えば良い。最高性能のCPU(頭脳部分)と豊富なRAM(処理用メモリ)、そして巨大な容量の固定ディスク等を備えたパソコンは素晴らしいことができる。一方、20年も前のパソコンのようなスペック(諸元。機能と性能のこと)では、今では使い物にならない。
だが、インターネットの中に、ある想像を絶した親コンピュータがあると考えてみよう。最高のパソコンでも数十億年かかる処理を一瞬でこなせる恐るべき性能のコンピュータだ。そこにつながりさえすれば、パソコンの性能の優劣など、何の意味もない。最高のパソコンが自分でやろうとしたら数年かかることを、最低のパソコンでも、その親コンピュータにまかせれば一瞬でできるのである。
大切なのは、その巨大な性能の親コンピュータとつながることだ。
いかに高性能なパソコンでも、数多くのつまらないサイトに接続し、余計なソフトを走らせると、真に有用なことは出来ない。一方、性能の低いパソコンでも、ただその親コンピュータに接続しさえすれば、その巨大な性能が自分のものになるのである。

言ってみれば、この超高性能な親コンピュータが神様である。そして、最初に述べた通り、パソコンが人間だ。
パソコンの性能の優劣、つまり、人間の能力の優劣など、些細な問題であることが分かる。
人間にとって必要なことは、神様との通信経路をきれいにし、余計な通信(多くの欲をかくこと)、余計な処理(思考)をせず、全てを神様に任せ切ることだ。
もちろん、パソコンとして最低限必要なことはしなければならないが、それは多くはない。ちゃんと神様とつながり、下手でも良いから正しく問題を伝え、送られてきた答えを素直に見ることだ。
もっとも、神様というスーパーコンピュータはあらゆるところに万能で超高性能のインターフェース(感知機能)を持っていて、我々の状況などとっくに、そして、完全に知っている。ただ、我々人間は、潜在意識というインターフェースを通してしか神様とつながることができない。心を穏やかにし、余計な欲望を持たないことで潜在意識をきれいにしておかないと、神様と一体になれないのである。

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2010.08.03

J.マーフィーの読み方

ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則の本を読んでも何ら成果を得られないのは、学校教育で身に付いてしまった本の読み方のせいである。
学生が教科書や参考書を読んだり、練習問題を解く時、「試験で良い点を取るぞ」「入試に合格するためにがんばるぞ」ということだけが目標になっていて、それが当たり前であることを疑わない。科学そのもの、歴史そのもの、文学そのものを味わったり、楽しむということをしないばかりか、教育のせいで、それらを嫌いになってしまうケースが非常に多いのだが、それはむしろ正常な反応に違いない。アインシュタインも、学校教育は子供の知的好奇心を窒息させると言い、彼自身、学校の勉強は大嫌いだったが、現代の日本の学校教育は、まだそこからちっとも進歩していない。
スポーツの練習では、試合に勝つことや大会で優勝することばかりを考える。空手やボクシングをケンカに勝つためにやるようなものである。真に優れた実戦的武道は私闘厳禁である意味を考えたい。

そんな学校教育で身に付いた習慣を持ったまま、マーフィーの「あなたも金持ちになれる」を読むと、お金を儲けることばかりを考え、欲望に支配され、ギラギラした目で読む。潜在意識はそんな時には全く働かない。
マーフィーの本を読む時は、欲望を持たずに、ただ淡々と読むと良い。すると、深い真理を学ぶことが出来る。そうすれば、望まなくとも幸運に恵まれる。

政木和三さんは、パラメモリ(後にアルファシータ、バイオソニックという新しい装置になった)という、人間のあらゆる能力を向上させる装置を発明したが、私はそれを使っても効果を感じられなかったので、政木さんにそう言うと、政木さんは「それは、あなたがこの装置で何かしてやろうという気持ちがまだあるからです。欲望を捨てないと効果はありません」と教えてくれた。
お金について言うと、政木さんは「私はお金なんてちっとも欲しくないのです。だから、毎年1億円も納税することになってしまうのです」と言う。
政木さんのこんな言葉に、純粋に「然り」と思えるようになれば、お金は、必要ならいくらでも降って来るようになるに違いない。
くれぐれも、お金と引き換えに心を病み、そのために身体を損なうようなことになってはならない。学校から始まる世間で成功するとはそのような愚かなことである。学校というものは、ただ、不条理な世間で生きるための練習場と見なせば良いかもしれない。

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2010.07.28

宵越しの銭は持たぬ

「江戸っ子は宵越(よいご)しの銭は持たぬ」という言葉があります。
稼いだ金はその日のうちに使ってしまうという意味で、江戸の男の気っ風(きっぷ。心意気)を表した言葉です。
この言葉を悪い意味に解釈する場合もありますが、明日を心配してケチケチお金を貯めないという気性には、どこか心惹かれるものを感じないでしょうか?
ある、「いい男」で通っている有名人が、「50歳にもなって貯金は百万円もない」ことを、別に恥ずかしいことでもないように言っていたのですが、子供だった私にもそれが印象的だったと見えて、いまだ憶えています。
私が崇拝する、元キックボクサーで、今も武道家である沢村忠(本名:白羽秀樹)さんも、宵越しの銭は持たない男で、収入も凄かったが、それを仲間と楽しく過ごすのに豪快に使ったと伝記に書かれています。

ただ、浪費が良いと言っているのではありません。
潜在意識の法則の教師であるジョセフ・マーフィーは、子供にアルバイトをさせることを勧めていました。苦労もせずに得た金は、つまらないことに使ってしまい、それが人生を台無しにする悪しき習慣になるからです。「おこづかい」を正しく使うよう子供に指導することは難しいのですが、ちゃんと働いて得たお金の場合は、それは易しいのです。だから、たとえおこづかいでも、何らかの仕事の報酬として与えることが絶対に必要です。

ちょっと話を変えましょう。
ジョセフ・マーフィーが、潜在意識を活用してお金を得るうまい方法として紹介しているものに、現在、すでに大金を持っていると思って、それをどう使うか考えるというものがあります。
例えば、1億円としましょう。
ところが、「1億円あったら何に使う?」と聞くと、「貯金する」と答える人が非常に多いのです。絶対に1億円持つことが無いばかりか、あらゆる意味で豊かになることもない人達です。
また、「ポルシェを買って、ブランドものの服やカバン・・・・」と空想する人も多いです。これこそ、まさに虚しい空想です。本当にポルシェが好きで、迷うことなく「ポルシェを買う」と言うなら、非常に良いことですが、「格好が良いから」「自慢できるから」という理由で欲しがる人は、買えないででしょうし、買えたらむしろ不幸です。
ではとばかりに、素晴らしい使い道を考えたとしても、それにリアリティが全くなく、灰色に感じることもよくあります。つまるところ、その人に1億円を持つ器量が無いのです。
マーフィーのこの教えは、富を得る優れた方法であると同時に、自分を認識する方法でもあるのです。
1億円では歯が立たないなら、自分で活用できる範囲で最大限の金額を設定するのが良いと思います。10万円という場合もあると思います。誰だって、最初は10万円の器量もありません。

人気のある優秀な男性ニュース・キャスターが、「50歳までは、入ってくるお金は全て使っていた。しかし、50を過ぎてからは、一部は残しておくようになった」と、自己の成長を語ったことがありました。
しかし、ちょっと修正させていただきたい。正しくは、「50歳まではお金を浪費していた。しかし、50歳からは、かなりお金をちゃんと使えるようになった」ということと思います。
無駄なことに使わなければ、適度にお金は貯まります。しかし、お金を無駄に退蔵(使わずに保持する)、死蔵(活用せずに無駄にしまっておく)してはいけない。それは、必要な金は、いつでも入ってくることを信じていないことになり、実際にそういうことになりかねません。ケチケチ貯めたお金は、不本意なことで無くしたり、騙し取られることもよくあるものです。
ビル・ゲイツは、数百億ドル(数兆円)という資産を有しますが、それを見事に活用しています。それでいながら、現金はそんなに持っている訳ではなく、生活は実に質素です。現在は立場上、難しいかもしれませんが、スニーカーを履き、日本製の車を自分で運転し、大衆食堂で食事をし、飛行機はエコノミーに乗りました。私は昔からゲイツマニアですが、本当に楽しい男であると思います。

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2010.07.26

劣等感を解消する

現代でも、一般庶民には、まだまだ西洋人コンプレックスというのはあると思うし、それは年齢が高いほど色濃いだろう。
昭和40年(1965年)に、漫画家の手塚治虫さんが初めてアメリカに行った時の訪問地が、アメリカ最大の大都市ニューヨークだったが、手塚さんの時代の西洋人コンプレックスというのは半端ではない。
手塚治虫さんは、昭和3年(1928年)生まれで、戦前から漫画を描いていた。戦争中、中学生だった手塚さんは予科練(少年航空兵)を志願させられたが、視力が悪くて合格せず、強制修練所でしごかれたようだが、とにかく、そんな時代の人だ。
手塚さんは当時の日本人の中では小男でもなかったようだが、昔の一般的な日本人的容姿で、しかもひょろひょろしていた。そして、戦後は、あらゆることでアメリカ人に対する恐怖感や立場の差を叩き込まれ、アメリカ人コンプレックスは非常に深いものだった。
それが、ニューヨークに行った途端、コンプレックスは解消した。
みんな背が低く、自分でも見下ろせるような小男がいくらでもいるし、みすぼらしい。そして、まともな英語を喋れる者がほとんどいなかった。スラング(方言)がひどいのだが、なまじ彼らは外国人を特別視せず、平気でスラングで話すので、さらにひどく感じたのだろう。

ただ、アメリカでもヨーロッパでも、手塚さんが驚いたのは、子供の教育が行き届いていることだった。もちろん、手塚さんが訪れたのは、ビジネス相手のそれなりの地位の人の家であったが、とりたてて豪邸でもなく、食事もごく普通だった。 しかし、それらの家の子供たちは皆、礼儀正しく、食事が終わると、すぐに宿題をして9時には寝る。テレビは、子供番組が終わると、自発的にスイッチを切る。
このあたりは、日本人が全く敵わないところだが、それは、手塚さんが亡くなって20年以上経つ今も全く変わらず、むしろ、格段に悪くなっている。

劣等感というものは、人間にとって恐るべき敵である。
劣等感をバネに努力して向上したという話もよく聞くし、それも良い部分もあるのかもしれないが、やはり劣等感は持つべきではない。実際は、劣等感の反動で努力して報われることは少ない。劣等感自体が不自然なものなのだから、それに支えられたものも脆いしいびつだ。
なぜ劣等感を持つかというと、形にとらわれているからである。言い換えれば、物質優先で、心より物に価値を置いているからだ。
ところが、ここに面白い事実が見出せる。それは、物質的、外面的なものに恵まれていても、それによる優越感が大きいほど、実は劣等感が強くならざるを得ないのだ。これは論理的にも確かである。なぜなら、優越感も劣等感も、自然に立脚した感情ではなく、幻想に過ぎないからだ。昔からある言葉で言えば、砂上の楼閣である。それで本当の自信が出来るはずがない。
実に、劣等感と優越感とは同じものなのである。
エマーソンは、内にあるものに比べれば、外にあるものなど取るに足りないと言ったが、それを学ばない間は無用な争いは無くならないし、富もうが貧しかろうが不幸である。
ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則は、精神の価値は物質の価値とは比較にならないものであることを示しているのであり、お金持ちになるかどうかは、実際は些細なことなのだろう。
そういう面に主眼を置かない限り、成功法則や成功哲学が人に幸福をもたらすことはないし、成果の方も出難く、成果があるとしても、一時的なものや、確固たる基盤のない脆いものしか得られないに違いない。
精神の価値は物質とは比較にならない。まずは、これを理解することである。


【眠りながら成功する】
ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則の最も基本的な書で、世界的ロングセラーです。

【あなたも幸せになれる】
マーフィーが75歳の頃の円熟の書。自分の中に無限の力が存在し、それを活用する権利があることを学ぶのに最適な教えと思います。

【自己信頼】
アメリカ最大の賢者エマーソンが説く、絶対の自信に至るための強力な教えです。世間の価値観に翻弄されることを拒否し、偏見、迷妄から逃れる鍵がここにあります。

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2010.07.21

「のんびり力」を磨け

我々は、子供の時からいつも急き立てられ、せかせかさせられながら生きている。
少しでもぼーっとしてたら、「ぼーっとするな」、「きびきびしろ」と叱責され、「あれをやれ」「これもやれ」と指示された。
しかし、立派にものごとを達成し、幸福になる秘訣はぼーっとすること以外にない。

吉本隆明さんは、子供たちがぼーっとしているのを邪魔するくらいなら、我が国最大の思想家が自ら買い物カゴを持って買い物に行ったと言う。
多くの子供たちが、毎日のように塾やお稽古ごとに行かされ、ぼーっとしている暇もないが、もし行くなら、ぼーっとする稽古をさせてくれる塾にでも行けばいい。何かしていないと不安になるようなら、立派なノイローゼ候補者だ。
ぼーっとした自殺者なんていない。

運気というのが、せかせかしているなど聞いたこともない。
運気はゆったりしている。それにあわせて呑気(のんき)にしないと運気に同調するはずがない。
そもそも、「のんき」の正しい文字は「暖気」で、春のような暖かな気である。それはやわらかく、ゆったりとしたものに違いない。

「善は急げ」とか言う。それはあくまで「善」である場合だ。善とは、例えば、餓えている人に食べ物を持って行くとか、地震の被災者を救援に行くとかである。その時は急ぐべきだ。
しかし、自分のことはゆっくりやれば良い。
コリン・ウィルソンは、右脳に秘められた強大なエネルギーを汲み出すには、左脳のスピードを落とさないといけないとか言い、それについて難しい説明をしていたが、一言、「のんびりしろ」と言えば良いのだ。頭の良い人は、時に困ったものである。

私はコンピュータソフトの開発を仕事にしているが、急いで仕事をした時はロクなことはない。
ほとんどいい加減に、よそ事をやるついでにやったくらいで上手くいく。のんびりしている時に、良いアイディアが浮かんだり、致命的な間違いに気付くのだ。そのアイディアや気付きがなければ、結果は悲惨なものになりかねない。もちろん、設計手法やプログラミングテクニック等はある程度修得しないといけないが、それすら、のんびりやらないといけない。「C言語を1日でマスターした」なんて自慢したがる者はどこにでもいるが、放っておけば良い。ピッチングを1日でマスターした野球投手なんていないのだ。
もう忘れられかけているが、プロレスのジャイアント馬場さんのファイト振りがスローモーなことがよく笑いのネタになった。しかし、ライバルのアブドーラ・ザ・ブッチャーが、「馬場はゆっくりくる」ことを恐れ、かつ、賞賛していた。数少ないが馬場さんが大敗した時なんてのは焦った時だし、名勝負では、相手は馬場さんに焦らされて負けているのだ。勝ちを焦って飛び込んで行く時なんてスキだらけなものだ。

私は、最近、どうやればのん気になれるかばかり考えている。これほど大切なことはないと気付いたからだ。
私が、高校生の時、教師の言葉で唯一憶えているのは、「今の若い者は、『急がば回れ』ということを知らない」だ。私の中にもある叡智が観応したから憶えているのだろう。
ジョセフ・マーフィーがよく、聖書の詩篇にある「私は山にむかって目を上げる。わが助けはどこから来るのだろうか」という言葉を解説なしに引用していた。
正しい意味は知らない(神父や牧師の解説は難解過ぎる)が、「神様を信頼し、のんびり待ってろ」程度に考えている。
無限の力を秘めた無意識には時間はない。だから、夢中になって無意識でいると時間感覚が意識と全く合わない。あっという間に数時間経っていたり、逆に、一瞬の間に濃い体験をする。それは、意識が自分を引っ張り回さない時、つまり、せかせかしておらず、のんびりしている時だ。神がかり的に偉大なことがなされるのは、そんな時である。

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2010.07.17

この世の矛盾

つくづく、この世や人間は矛盾したものだなとよく思う。
鋭い感性や洞察力があるなら、愛と憎しみは同じものであることが分かるはずだ。
萩尾望都さんの、わずか15ページの傑作漫画「半神」で、16歳の美少女ユージーは徹底して悟る。

愛よりももっと深く愛していたよ おまえを
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよ おまえを

不退転の決意は素晴らしいものだが、引き時を知ることも大切なのだ。これは時として深刻な矛盾だ。
死ぬほど好きな女の子がいて、不退転の決意でアタックすることは悪いことではないと思うが、所詮、相手にその気がないなら引き下がるしかない。どこまでも引かないと、問題や、場合によっては悲劇が起こる。
「俺は絶対画家になるぞ」と不退転の決意をしないことには画家なんてものにはなれないだろうが、やはり、才能が無いことが分かったら諦めるしかない。
ジョセフ・マーフィーは、潜在意識の力に不可能はないと説くが、女優を目指すある少女が、そのまま願望を貫くことに同意せず、彼女は事務職に付いたが、結局は彼女は幸福になった。

こういったことの矛盾を解消することは一種の悟りとも言えるかもしれない。

ノーベル賞作家アルベール・カミュは、「シーシュポスの神話」で、ガリレイが地動説を取り下げたことについて、「地動説は、命と引き換えにするほどの価値はなかったのだ」と皮肉っぽく書いたが、しかし、それは真理と思う。
どっちがどっちの回りを回っていようが、大したことではない。
もっと大切なのは、地球が丸いと信じている人と、地球が四角いと信じている人が仲良くすることだし、生きることだろう。
スティーヴン・ホーキングすら、この世は亀の背中に乗っていると信じている無学なおばあさんと、自分を含めた現代人に優劣は無いと言う。
地球が丸かろうが、世界が亀の背中の上で、その亀の下がずーっと亀であろうと、どうでも良いことなのだ。

「私と結婚してくれる?」
「いいよ」
「私を愛してる?」
「どうでもいいことだけど、多分、愛していない」
(カミュ「異邦人」より)

つまるところ、難しいことではなく、不退転の決意で挑むべきことと、引くべきこと、言い換えれば、真理とどうでも良いことの違いが解ることが大切なのだ。
そして、不退転の決意を貫くべき真理なんて、そうそうあるものではない。
有名な空手家の大山倍達さんの本で読んだことがあるが、彼の最初の師匠は、彼の家で雇われていた小作人だったが、周りからアゴで使われ、馬鹿にされてもいつも大人しくしていて、子供だった大山さんは初めはちょっと軽蔑していたようだ。
しかし、実は彼は超人的な拳法の達人だということが分かる。
師匠は、大山少年に請われて拳法を教えるようになったが、こんなことを言ったようだ。
「男ってのは、鞘の中の刀さえ磨いていればいいんです。その刀を抜くのは、一生に一度あるかないか。ないに越したことはないんです」

「荘子」では、信念を貫いて死んだ、世に義人(正義を貫いた人)と言われる人達を、全く賞賛しない。それらの人たちの正義よりも命の方がずっと大切だからだ。
命を捨てるに値するようなことも確かにあるかもしれない。しかし、それほどの価値の無いことのために命を落とすのは愚かである。

「ルパン三世」で、本物そっくりの偽ルパンが現れ、2人のルパンのうち一人が次元に言う。
「俺が信じられないなら、俺を撃て」
そう言った方を、次元は迷わず撃つ。
次元は、「本物のルパンなら、泣いて命乞いをするはずだ」と言う。

「美少女戦士セーラームーン」で、みちる(セーラーネプチューン)は、愛するはるか(セーラーウラヌス)を殺そうとする悪者にこう言われる。
「私を攻撃すれば、この壷を壊す。そうすれば世界は破滅する。おとなしく見ていろ」
しかし、みちるは迷わず攻撃し、壷は壊れる。しかし、世界は破滅しない。
「貴様!なぜ嘘だと分かった!?」
「あら、嘘だったの?」
驚く敵にみちるは言う。
「あなた、何か勘違いしてない?はるかのいない世界なんて守っても仕方ないじゃない」

さて、あなたはこの世の矛盾を解消できるだろうか?
成功を祈る。

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2010.07.12

スタートは逆境から

ジョセフ・マーフィーの潜在意識による成功法即を活用する場合、よくよく注意すべきことながら、あまり話題にされないことがあります。
もう一度、マーフィーの本をよく読んで確認する必要があるかもしれません。
それは、マーフィーの本には、多くの成功事例が書かれてはいますが、安穏とした状況から何かを達成したお話などないということです。
どれも、貧困、逆境といった苦難の状況の中から始まるものばかりです。
一見、そうでない場合もあるように思われますが、その場合は、その人に深い信仰があることが分かります。しかし、その信仰を得るまでには、苦難を乗り越えた経験があるはずです。
逆境が力を発揮する原動力になりますが、単なる不満ではそうはなりません。
また、自分では深刻だと思っていても、全くそうでない場合も少なくありません。精神が未熟で幼いと、つまらないものが恐ろしいという場合がよくあります。

成功のノウハウを説くビジネス書の中には、単に現状に不満な者達の欲望を掻き立てるようなものが多くあると思います。
「現状に満足しないで、大きな成功を目指そう」といった類のものです。
いわゆる、いくら実践してもうまくいかないというのは、そんな本の読者ですし、ジョセフ・マーフィーの教えが全く効力を発揮しないのも、そんな場合です。
危機的な状況や深刻な問題があるのでもなければ、現状に満足すれば良いと思います。
人間の心は、物質的なこととか恋愛とかいったものには、いつでも不満を感じるものですが、そんなものの満足を求めるのは虚しいものです。

しかし、誰にでも、いずれ本当の人生の危機は訪れます。
その時には、本物の信念とか信仰が必要になります。
逆境の時に役立つ力を得るには、多少の不満があっても、平和な時に慎んで欲望を持たないことです。
ところが、現在の日本では、十分に満足すべき状況にある者の欲望をあおり立てています。彼らの金が目当てなのです。経済大国とは、民衆の金を搾り取る仕組みの上に成り立つものだからです。
豪華でなくても、ちゃんと食べていけているなら満足し、何も求めないことです。
オールコットの「若草物語」で、マーガレット達の賢い母親は「足りない目くらいが丁度良いのです」と言っていました。私は、ごく小さい頃に読んだのですが、この一文だけはよく憶えています。
慎みを知る者には、苦難や逆境は恐ろしいなりをした天使だということが後で分かると思います。

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2010.06.04

長く苦しい戦い

「長く苦しい戦いの末、ついにわれらは世界を手中に収めた」
私が非常に印象深く憶えているこの言葉は、1993年のタツノコプロ制作の4話完結のアニメ「キャシャーン」の中のブライキングボスというアンドロイドの言葉だ。
アンドロイドが「苦しい戦い」というのも妙であるが、それだけに世界征服とは大変なものであることを感じたものだ。
我々は、外の世界を征服する必要はないが、内なる世界である心を征服しないといけない。そして、それはやはり、長く苦しい戦いであらざるを得ない。
人類最大の賢者の一人、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、「内にあるものに比べれば、外のものなど取るに足りない」と言ったが、世界を創るのは心なのであるから当然と思う。
心はたやすく征服されはしない。
ジョセフ・マーフィーは、旧約聖書の「ヨブ記」は、人が必要とする心の能力を鍛え上げ、世間の妄信に打ち勝ってサタンを退け、世界(心)の支配者となるまでの壮大な物語を比喩で言い表したものであると言った。
私は、古事記やギリシャ神話も同じであると思う。神話というものは、そのことを忘れないために物語にしたものだろうと思う。神話が滅びた国が滅ぶのは当たり前のことである。
そして、万能の神ゼウスでさえ、世界を支配下に収めるには、長く苦しい戦いを強いられた。しかし、ゼウスの勝利は始めから定められていたようにも感じる。我々の勝利も本当は予定されているはずなのだ。
神話に、外の世界を支配するための教訓を求めるのはおかしなことかもしれないが、それは、内なる世界を治めるインスピレーション(ひらめき、霊感)を与えてくれる貴いものである。
さっき、神話の滅びた国は滅ぶと述べたが、逆に言うなら、それは我々一人一人が滅びから逃れるための大いなる力にもなる。
ただし、現在の日本では神話は滅び、民族の集合意識は愚かな妄信に支配されている。ミヒャエル・エンデが「はてしない物語」(ネバー・エンディング・ストーリー)などの作品で述べたように、世界は滅びの危機を迎えている。
さて、外国のことは知らぬが、今の日本では大半の人間はもう救いようのないところまで来ており、滅びはそう遠くはない。だが、悲観することもない。一人の心の中に神が完全に立ち現れるなら世界すら支配する。荘子が「大火にも燃えず、大水にも濡れない」と書いた通りである。


【モモ】
ミヒャエル・エンデによる現代の神話「モモ」。文庫版。

【モモ】
「モモ」の単行本。私が愛読するのはこれです。

【モモ】
「モモ」の豪華愛蔵版。豪華本にする価値はあります。愛ある贈り物にも良いと思います。

【神統記】
ゼウスの世界統一の物語を、ヘシオドスが美しい詩で語ったものです。短いものですが、それぞれの神々についてもよく分かります。世界的神話学者カール・ケレーニイも、ヘシオドスによる神々の説明を重視しているように感じます。

【超訳 古事記】
もっとも面白く、心に響く古事記であると思います。

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