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2010.07.31

人をランク付けすることの恐ろしさ

人間関係がうまくいかない人というのは、人間をランク付けしない理想主義者なんですよ。
ところが、世間の人間は、強弱の差はあっても、他人をランク付けし、そのランクに従って人を扱います。

理想世界とはどのようなものかと言いますと、誰でもどの家にでも入っていける世界です。
現在は、もちろん、それとはほど遠い世界です。
しかし、それを実現できる可能性があるのは、地球上の生き物の中では人間だけです。

例えば、あなたが、家でソファでくつろいでいるとします。小説や漫画を読んでいるかもしれませんし、テレビを見ているかもしれません。
そんな時、扉が開いて、イエスや仏陀が入って来て、あなたの隣に座ったとします。そんな時、あなたは、「イエスなら間に合ってるよ」と言ったり、「あたしは1人が好きなのに」と嫌な顔をすることは、まあ、あまりないと思います。
「やあ、よく来たね。コーヒーがいいかい?それとも紅茶かウーロン茶?メシはまだだろ?」
といった感じで喜んで迎えると思います。
そして、あなた自身が、どの家に行っても、そういう風に扱ってもらえるなら、それこそが天国だと言えます。

キャメロン監督の「タイタニック」という有名な映画がありますが、あの映画の最後で、百歳くらいになったローズが、莫大な価値を持つ宝石を海に捨てた後、眠って夢を見ます。
タイタニック号の中のホールのドアを入っていくと、1等船室の乗客も3等船室の乗客も混ざり合い一緒になって、笑顔で17歳の彼女を迎えます。その中でジャックが彼女を待っていて、皆で2人を祝福します。
それは、現実世界とほど遠い出来事でした。
ローズが捨てたのは、宝石そのものではなく、宝石にまとわりつく世間の価値観だったと思います。
今、現実世界と言いましたが、実際は、それはやがて消え去る仮の世界です。ローズが夢で見たものが本当の世界です。ローズは不要なものを捨てることで、唯一の本当に必要なものを得たのでしょう。

「ヒマラヤ聖者の生活探求」を書いた、アメリカのベアード.T.スポールディングは、取り立てて財産は持っていませんでしたが、全米中を講演する中で、どの家にも大胆に入って行き、どこでも必ず歓迎されたようです。
もしかしたら、誰でも、心次第で、そうなれるのかもしれません。それならば、今、この世を天国にできるわけです。
宇宙は、どんなレベルで見ても、無秩序ではなく、何かに向かって進化しています。部分的に見ると崩壊に見えるものもありますが、それも進化の中の出来事です。宇宙には、進化のための意識や力が確実にあります。その進化の流れに乗れば恵みが与えられますし、進化を促すなら大きな恵みが与えられるのは、ごく自然なことと思われます。人間に可能な進化を促すことは、上に述べた理想社会を作ることですし、そのためには、悟りを開くことが必要です。そうなれば無限の恵みが得られます。逆に、他人をランク付けすることは、我々が想像する以上に恐ろしいことです。

人間関係がうまくいかない人や、それが極端に現れた人である引きこもり気質の人は、実は正常な人であるのかもしれません。
そんな人は、世間の人の真似をせず、自らが他人をランク付けしないようにすれば、不意に天使のように扱われることになります。それにはまず、自分が劣った存在であるという誤った認識を捨てることが必要です。
コリン・ウィルソンの「超越意識の探求」のあとがきに登場する、劣等感にとりつかれた男が、ほとんど瞬間的に賢者になった実話が、それを見事に現していると思います。

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2010.07.30

久々にTMを行う

最近、目の疲れを感じていたことにより、TM(超越瞑想)を習っていたことを思い出して、久々にやり始めた。
TMは、インドのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが1955年位から教え始めた簡単な瞑想法で、1968年にビートルズの4人がマハリシから指導を受けたことが話題になった。ビートルズとマハリシが決別したという話もあるが、それはよくあるデマと誤解であったようだ。
私は昔、TMを習って2年ほど熱心にやっていたが、成果が認められなかったことと、TMの宣伝に押し付けがましさを感じでやめてしまっていた。
また、TMを続けなかった理由に、政木和三さんが発明したパラメモリ(アルファシータ、バイオソニックもほぼ同じもの)が、TMと同様の効果のあるものだと思われ、こちらの方が手軽だったので、それを使っていたということもあった。ところが、私は、パラメモリにも効果を感じず、政木さんにそう言ったところ、政木さんに「効果を期待するからだ」と言われて納得した。そもそも、十分に恵まれているのに、これ以上何かを求めるのも贅沢というものだろう。それは、金持ちや素晴らしい恋人や配偶者がいる人について言える事ではなく、少なくとも、普通に生活できている人なら誰しもそう思った方が良いことだ。

最近、ポール・マッカトニーとリンゴ・スターがTMの普及活動を行い、TM実践者である映画監督のデヴィッド・リンチがマハリシのドキュメント映画を制作するという話もあるらしい。
クリント・イーストウッドがTM実践者であることは昔から知られていたが、現在も行っているというインタビュー記事もあるようだ。また、「スター・ウォーズ」でレイア姫を演じたキャリー・フィッシャーがTMにより麻薬から逃れることができたとも聞いたことがある。
日本でも、以前は大企業でTMを社員の福利厚生として採用するケースもよくあったが、現在は、不況であることと、このようなものを採用するのには、どうしても「ツルの一声」を発することの出来るカリスマ的指導者が必要だが、そんな人が少なくなったことも影響しているように思うが、下火であるようだ。経済界では、ソニーの井深大さんや京セラの稲盛和夫さん(現日本航空会長)がTMの実践者として知られている。
スポーツ界でもTM実践者は世界的にも多いと思われるが、私の知る範囲ではプロレスのアントニオ猪木さんや前田日明さんが昔から実践しているようである。
もっとも、これら著名人は、特にTMだけというのではなく、いろいろなものに取り組んでいる場合が多く、特に稲盛和夫さんなどは非常に多くのことに取り組み、また、それらの指導者達とも交流が多いと思う。

TMは一度習うと、忘れない限り、いつでも行うことができる。忘れるというのは、マントラという短い言葉のことで、一人一人個別に与えられるものだ。
費用は、大人1人について言えば、年収が5百万円未満なら12万円、1千万円未満で18万円、1千万円以上なら24万円で、高いものではないと思う。
興味があれば、マハリシ総合研究所(株式会社マハリシ総合研究所)のホームページを参照されたい。

私は、特にTMでなくても、岡田式静坐法や、バイオソニックでも良いと思うのだが、岡田式静坐法は、現在では正しく実践を始めるのが難しいと思うし、バイオソニックは今では入手が困難な上、装置の保守はもう無理だろう。
ところで、バイオソニックの原理はヘミシンク効果であるが、最近はヘミシンク音楽のCDがあるようだ。果たして音楽CDでヘミシンク効果が得られるのか私には分からないが、もし、それが得られるならとても良いことと思う。

「魂の体外旅行」には、ヘミシンクの詳しい話がある。

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2010.07.29

目覚め

誰にも、同じような覚えがあると思う。
私は、小学生の時、クラスのあるおとなしい女の子がものすごく好きだったのだが、ある時突然、全く彼女に興味が無くなってしまった。彼女に幻滅するような出来事があったとかいったような原因は何も思い当たらない。いまだ不思議なことだと思う。
また、ある時期までは、ミカンの缶詰が大好物で、天国の食べ物だと思っていたのが、やはりある頃から、嫌いというほどではないが、そんなに美味しいものだと思わなくなった。
「マジック・ストーリー」では、著者とされる男は、ある場所を心地良いと感じ、そこで毎日寝ていたが、ある日目覚めると、「よくこんなところで寝てたものだ」と思ってそこを引き払った。彼は、「文字通り目覚めたんだ」と言う。「マジック・ストーリー」の前半部では、そのような急激な自己変革の話がいくつか紹介される。目覚めた後は別人となり、全く違った人生を送る。

逆に、何かの体験が自分を劇的に変えると期待していたのが、いざやってみると何も変わったこともなく、まるで詐欺にあったみたいな気分になることもあるかもしれない。コリン・ウィルソンは、セックスの体験が本質的にそうであると言う。

でも、結局は何もなし。そうやって、あたしはいつの間にか高校生になっていた。少しは何かが変わるかと思っていた。
~「涼宮ハルヒの憂鬱」より~

このように、「思いもかけずに自分が変わる」ことと「変わると思っていたのに変わらなかった」という、相反することを取り上げたが、それらは見せかけに過ぎない。
好きだった女の子に興味が無くなったが、別の女の子に夢中になる。ある食べ物に興味が無くなったが、別の食べ物が好物になる。
逆に、涼宮ハルヒは、自分は何も変わっていないと思っているが、実はひどく変わってしまったのだ。

変わるのは、表面的な心だ。
言ってみれば、1つの幻想を捨てて、別の幻想を持ったというだけのことだ。それは幻想であるのだから、何ら実態のない夢のようなものだ。
自分では何ら自覚のない幻想もある。いや、幻想そのものは自覚が出来ず、その作用が、場合によっては自覚できることもあると言う方が正しいと思う。「自分が変わった」なんてのも幻想だ。

全て幻 浮かんではまた消えてく
邪念かき消す指先に絡み付いた無色の鎖
もがくほど孤独を編んでいた
~agony(作詞、歌:KOTOKO)より~

富士の高嶺に 降る雪も
京都先斗町(ぼんとちょう)に 降る雪も
雪に変わりは ないじゃなし
とけて流れりゃ みな同じ
~お座敷小唄(作詞者不明)より~

成し遂げるべきは、幻想を捨て去ることだ。
生きている人間が幻想を全て捨てることは不可能だと言う人もいるようだ。それは、ある意味正しい。
ある女の子が好きな自分と、その子に興味を無くし、別の子を好きになる自分。しかし、それは本当の自分ではない。
そんな自分を見ている本当の自分。本当の自分自体は変わらない。そんな神秘な自分に目覚めることが悟りで、その時に、我々は世界の所有者となる。

私は世界の所有者、
七つの星と太陽年の所有者、
シーザーの手腕、プラトンの頭脳の所有者、
主キリストの愛、シェイクスピアの詩の所有者。
~エマーソン論文集「精神について」の第1章「歴史」より~

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2010.07.28

宵越しの銭は持たぬ

「江戸っ子は宵越(よいご)しの銭は持たぬ」という言葉があります。
稼いだ金はその日のうちに使ってしまうという意味で、江戸の男の気っ風(きっぷ。心意気)を表した言葉です。
この言葉を悪い意味に解釈する場合もありますが、明日を心配してケチケチお金を貯めないという気性には、どこか心惹かれるものを感じないでしょうか?
ある、「いい男」で通っている有名人が、「50歳にもなって貯金は百万円もない」ことを、別に恥ずかしいことでもないように言っていたのですが、子供だった私にもそれが印象的だったと見えて、いまだ憶えています。
私が崇拝する、元キックボクサーで、今も武道家である沢村忠(本名:白羽秀樹)さんも、宵越しの銭は持たない男で、収入も凄かったが、それを仲間と楽しく過ごすのに豪快に使ったと伝記に書かれています。

ただ、浪費が良いと言っているのではありません。
潜在意識の法則の教師であるジョセフ・マーフィーは、子供にアルバイトをさせることを勧めていました。苦労もせずに得た金は、つまらないことに使ってしまい、それが人生を台無しにする悪しき習慣になるからです。「おこづかい」を正しく使うよう子供に指導することは難しいのですが、ちゃんと働いて得たお金の場合は、それは易しいのです。だから、たとえおこづかいでも、何らかの仕事の報酬として与えることが絶対に必要です。

ちょっと話を変えましょう。
ジョセフ・マーフィーが、潜在意識を活用してお金を得るうまい方法として紹介しているものに、現在、すでに大金を持っていると思って、それをどう使うか考えるというものがあります。
例えば、1億円としましょう。
ところが、「1億円あったら何に使う?」と聞くと、「貯金する」と答える人が非常に多いのです。絶対に1億円持つことが無いばかりか、あらゆる意味で豊かになることもない人達です。
また、「ポルシェを買って、ブランドものの服やカバン・・・・」と空想する人も多いです。これこそ、まさに虚しい空想です。本当にポルシェが好きで、迷うことなく「ポルシェを買う」と言うなら、非常に良いことですが、「格好が良いから」「自慢できるから」という理由で欲しがる人は、買えないででしょうし、買えたらむしろ不幸です。
ではとばかりに、素晴らしい使い道を考えたとしても、それにリアリティが全くなく、灰色に感じることもよくあります。つまるところ、その人に1億円を持つ器量が無いのです。
マーフィーのこの教えは、富を得る優れた方法であると同時に、自分を認識する方法でもあるのです。
1億円では歯が立たないなら、自分で活用できる範囲で最大限の金額を設定するのが良いと思います。10万円という場合もあると思います。誰だって、最初は10万円の器量もありません。

人気のある優秀な男性ニュース・キャスターが、「50歳までは、入ってくるお金は全て使っていた。しかし、50を過ぎてからは、一部は残しておくようになった」と、自己の成長を語ったことがありました。
しかし、ちょっと修正させていただきたい。正しくは、「50歳まではお金を浪費していた。しかし、50歳からは、かなりお金をちゃんと使えるようになった」ということと思います。
無駄なことに使わなければ、適度にお金は貯まります。しかし、お金を無駄に退蔵(使わずに保持する)、死蔵(活用せずに無駄にしまっておく)してはいけない。それは、必要な金は、いつでも入ってくることを信じていないことになり、実際にそういうことになりかねません。ケチケチ貯めたお金は、不本意なことで無くしたり、騙し取られることもよくあるものです。
ビル・ゲイツは、数百億ドル(数兆円)という資産を有しますが、それを見事に活用しています。それでいながら、現金はそんなに持っている訳ではなく、生活は実に質素です。現在は立場上、難しいかもしれませんが、スニーカーを履き、日本製の車を自分で運転し、大衆食堂で食事をし、飛行機はエコノミーに乗りました。私は昔からゲイツマニアですが、本当に楽しい男であると思います。

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2010.07.27

食べられない子供たち

私は、一昨年(2008年)の丁度今頃から、不意に間食をしなくなり、1日2食となり、すぐに1日1食になり、それまでは食べていた肉、魚を食べなくなった。
その時まで、相当な飽食で、肉も甘いお菓子も大好きだったが、ほとんど瞬間的に、粗食、少食となったわけである。

そんなことを私にさせたのには、深層心理の中にいつもあったに違いない「マッチ売りの少女」の影響があったのだと思う。高校1年生の時、文庫本で改めて読んで、すっかりとりつかれてしまったようだった。マッチ売りの少女にはモデルになった子供がいたようだが、当時やもっと昔はもちろん、現代ですら、悲惨な状況の子供はいくらでもいる。

何かの本で読んだが、ある日本人が貧困国で教師をしていた。生徒の子供たちはロクに食べていない子ばかりだった。その教師は、ピクニックを企画し、子供たちにお弁当を用意する。見たこともない素晴らしいお弁当を見て、子供たちは狂喜する。しかし、ピクニックに行った場所で「さあ、食べよう!」と言っても、誰も食べない。困惑した教師が尋ねると、子供たちは、「こんな良いものを自分だけ食べるわけにはいかない。持って帰って家族にも食べさせたい」と言う。結局、全員がお弁当を食べずに持って帰った。
やはり貧困国のある学校では、給食が支給されるのであるが、それを持って帰る子供がよくいるのだそうだ。そうしないと、家族が餓え死んでしまうのだ。

2度ほどお会いしたことがあるが、テレビで時々お見かけする、ソフトブレーンの創業者の宋文洲さんは、小学生の頃、10キロ以上歩いて学校に通っていたが、昼食のお弁当は持っていけなかったと言う。
現代の日本でも、こんな話がある。その学校では、給食はなく、生徒は昼食にはお弁当を持ってくることになっている。ところが、教師が、昼食を食べない子がいることに気付き尋ねると、その子は、お弁当を忘れたと言う。しかし、毎日なので、嘘であることは明らかだ。その子は母子家庭の子で、母親は早朝から深夜まで働いていて、お弁当を用意することができないのだった。教師は、自腹でパンを買って与え続けたようだ。しかし、そんな子供は、昔はもちろん、いつの時代も必ず存在するはずなのだ。学校に、そんな子供への対応策が無いというのはどうしても私には疑問である。
作家の太田治子さんは、太宰治が妻とは別の女性に産ませた子で、彼女が生まれた翌年、太宰は自殺している。小学生の時、太田さんは未婚の母と2人で、バラックの2階で間借り生活をしていて、当然貧しかった。彼女は朗読が得意で、学校で、教科書の読みを当てられるのを大変に楽しみにしていた。実は私もそうだったので、その気持ちはよく分かる。しかし、彼女は当ててもらえなかった。彼女の学校には給食があったが、給食費を払えない彼女を、担任の男性教師が差別していたようだった。

経済的には豊かでも、精神的に追い詰められている子供も少なくないだろう。
この世の出来事は、表面的な心で物質的に見るなら全て偶然と言えるが、思考や知覚で計り知ることの出来ないようなレベルの世界のあり様から言えば、全て必然で、宿命や運命というものもあるのだろう。
その不可思議な層の世界では全てはつながっていると感じる。そして、世界の不幸や悲惨が我々と無関係であることはないだろう。一人の心は世界全体に影響を及ぼすのかもしれないし、世界のどこかのことが私に影響を与えることもあるのだろう。
私の心の変化もまた、世界の変化なのである。

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2010.07.26

劣等感を解消する

現代でも、一般庶民には、まだまだ西洋人コンプレックスというのはあると思うし、それは年齢が高いほど色濃いだろう。
昭和40年(1965年)に、漫画家の手塚治虫さんが初めてアメリカに行った時の訪問地が、アメリカ最大の大都市ニューヨークだったが、手塚さんの時代の西洋人コンプレックスというのは半端ではない。
手塚治虫さんは、昭和3年(1928年)生まれで、戦前から漫画を描いていた。戦争中、中学生だった手塚さんは予科練(少年航空兵)を志願させられたが、視力が悪くて合格せず、強制修練所でしごかれたようだが、とにかく、そんな時代の人だ。
手塚さんは当時の日本人の中では小男でもなかったようだが、昔の一般的な日本人的容姿で、しかもひょろひょろしていた。そして、戦後は、あらゆることでアメリカ人に対する恐怖感や立場の差を叩き込まれ、アメリカ人コンプレックスは非常に深いものだった。
それが、ニューヨークに行った途端、コンプレックスは解消した。
みんな背が低く、自分でも見下ろせるような小男がいくらでもいるし、みすぼらしい。そして、まともな英語を喋れる者がほとんどいなかった。スラング(方言)がひどいのだが、なまじ彼らは外国人を特別視せず、平気でスラングで話すので、さらにひどく感じたのだろう。

ただ、アメリカでもヨーロッパでも、手塚さんが驚いたのは、子供の教育が行き届いていることだった。もちろん、手塚さんが訪れたのは、ビジネス相手のそれなりの地位の人の家であったが、とりたてて豪邸でもなく、食事もごく普通だった。 しかし、それらの家の子供たちは皆、礼儀正しく、食事が終わると、すぐに宿題をして9時には寝る。テレビは、子供番組が終わると、自発的にスイッチを切る。
このあたりは、日本人が全く敵わないところだが、それは、手塚さんが亡くなって20年以上経つ今も全く変わらず、むしろ、格段に悪くなっている。

劣等感というものは、人間にとって恐るべき敵である。
劣等感をバネに努力して向上したという話もよく聞くし、それも良い部分もあるのかもしれないが、やはり劣等感は持つべきではない。実際は、劣等感の反動で努力して報われることは少ない。劣等感自体が不自然なものなのだから、それに支えられたものも脆いしいびつだ。
なぜ劣等感を持つかというと、形にとらわれているからである。言い換えれば、物質優先で、心より物に価値を置いているからだ。
ところが、ここに面白い事実が見出せる。それは、物質的、外面的なものに恵まれていても、それによる優越感が大きいほど、実は劣等感が強くならざるを得ないのだ。これは論理的にも確かである。なぜなら、優越感も劣等感も、自然に立脚した感情ではなく、幻想に過ぎないからだ。昔からある言葉で言えば、砂上の楼閣である。それで本当の自信が出来るはずがない。
実に、劣等感と優越感とは同じものなのである。
エマーソンは、内にあるものに比べれば、外にあるものなど取るに足りないと言ったが、それを学ばない間は無用な争いは無くならないし、富もうが貧しかろうが不幸である。
ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則は、精神の価値は物質の価値とは比較にならないものであることを示しているのであり、お金持ちになるかどうかは、実際は些細なことなのだろう。
そういう面に主眼を置かない限り、成功法則や成功哲学が人に幸福をもたらすことはないし、成果の方も出難く、成果があるとしても、一時的なものや、確固たる基盤のない脆いものしか得られないに違いない。
精神の価値は物質とは比較にならない。まずは、これを理解することである。


【眠りながら成功する】
ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則の最も基本的な書で、世界的ロングセラーです。

【あなたも幸せになれる】
マーフィーが75歳の頃の円熟の書。自分の中に無限の力が存在し、それを活用する権利があることを学ぶのに最適な教えと思います。

【自己信頼】
アメリカ最大の賢者エマーソンが説く、絶対の自信に至るための強力な教えです。世間の価値観に翻弄されることを拒否し、偏見、迷妄から逃れる鍵がここにあります。

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2010.07.25

ライバルという幻想

ライバルという言葉に良いイメージを持っている人が多いと思う。
スポーツ選手が、「あいつがいたから俺も伸びた」などと言うのをよく聞く。
ライバルである相手とは普段は仲良しだったり、ある時期は感情的に反発しあっても、やがて肩を組んで笑いあうとかいう話もよく聞くような気がする。
「あしたのジョー」では、丈には力石徹というライバルがいて、2人は仲良くしたことは一度もなかったが、力石が死ぬと丈は心神喪失ともいえるような状態となり、自分でもその理由が分からなかったが、やがて、「あいつが本当の友達だった」と気付く。読者は暗い面を感じながらも、やはり感動するのだろう。

手塚治虫さんに、自分の地位を脅かす漫画家が現れたことがあった。相手の人気はうなぎ上りとなり、手塚さんは全く敵わなかった。
手塚さんは、その漫画家に嫉妬していたことを認めていた。無意識かもしれないが、手塚さんは、漫画の描き方教室の著作で、その漫画家のやり方を無理に否定するようなことを書き、相手にそれを直接指摘された時、自分の妬みの感情をはっきりと理解したと言う。
ところが、ある日、その漫画家が急死する。人気漫画家の仕事は激務だ。それに対する健康管理に失敗したようだった。
手塚さんは、その時、「安堵した」ことを正直に告白している。ただ、手塚さんも、そんな自分をなさけなく感じたようだ。

私には、手塚さんの場合だけが自然に感じられる。
その相手の漫画家は福井英一さんだった。福井さんの自宅には手塚さんの作品の全てが揃っていたことや、彼は自分が手塚さんに勝ったと思っていなかったことを聞かされても、手塚さんは、複雑な心境ではあったのだろうが、福井さんの死に安堵した気持ちを後悔したとは言わないし、おそらくだが、実際に後悔してはいないと思う。

世間で言うライバルとは違うのかもしれないが、私も、争っていた相手が、病気で惨めな状態で死んだり、追われるように去っていった時、やはり安堵した。しかも、手塚さんのように、自分を情けなく思ったかどうかは疑問だ。
美しいライバルというものは世間の幻想だろう。そこに真理はないので、この幻想が良いものをもたらすことはない。だが、これを理解することで、人間の幻想を打ち破るきっかけにできる。
幻想を超え、真理を知ると力を得る。我々は、歩いて移動することが貴く美しいという幻想を持った鷲のようなものなのだ。幻想を破れば飛べる。

ついでの話だが、恨みの念は、相手が同調せず、かわされたら(避けられたら)、自分に返ってくる。それは、事故や病気や、最悪、死となって現れる。
高橋留美子さんの「犬夜叉」で、美しい巫女の桔梗や、その生まれ変わりのかごめが使った「呪い返し」のようなものだ。
スポーツの世界でも、ライバル心が実は悲惨をもたらしていることは、注意してみれば分かると思う。


【ぼくは漫画家】
手塚治虫さんの、とても人間味に溢れた自伝。これを読んで私は、手塚治虫、漫画、アニメ、漫画作品について、ひどく誤解していたことを痛感した。

【スーパーマインド】
アメリカの光明思想家ヴァーノン・ハワードの、幻想を破り、真の自己に目覚めるための教え。意味が分からないのに美しいと感じるのではないかと思う。ゆっくり学んで欲しい。

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2010.07.24

穢れには穢れ

一流の殺し屋の男が、昔の仲間で今は警官になった男と、雨の中、顔を見合わせずに話をしている。
警官は、今も殺し屋をやっている男に「お前も足を洗え。銃に命を賭ける時代じゃない」と言う。
殺し屋は、警官にタバコを差し出して勧めるが、警官は手を出さない。
殺し屋は、「お前はすっかりクリーンになっちまったな」と静かに言う。

「エル・カザド」というアニメの1シーンだ。
ところで、私は、クリーンな人間がいるとは思わないし、この殺し屋の方がずっとクリーンであると感じた。
日本でも、時々、「学園都市」とか言って、主に大学やそれに関係する研究施設の周辺に文化的な街を都道府県などが創ることがある。しかし、立派な街にすればするほど居住者が増えないそうだ。クリーンなものしかない街に人は住まないもののようだ。
最近、米国国防省の中で、軍の機密が含まれるコンピュータにアクセスできる権限を持つ職員が、数年に渡り、軍のコンピュータでインターネットの児童ポルノサイトにアクセスしていたことが明らかとなったという報道があった。軍のモラル的なことと共に、セキュリティリスクにもなるし、また、軍への脅迫のネタにもなりかねない深刻な事件と言われる。
この事件に関し、普通の人は、立派な地位にある人が児童ポルノを愛好していることを特に批判するかもしれない。日本でも、児童ポルノの嗜好を持つ者の存在自体を消去するかのような目的をかかげる人達が、そのための法案を作ろうとしているが、そんなことをやろうとする者の方がよっぽどいやらしいと私は思う。彼らは、自分が児童ポルノよりもっと穢れたものを持っていることを隠したがっているだけだと言えば言い過ぎだろうか?

人間には穢れた部分、クリーンでない部分が必ずある。
私は、食を厳しく慎むようになってから、穢れの部分が自分で驚くほど消えて行ったが、だからこそ、自分の中の闇の部分を強く感じるようになった。それは強力で、どこまでいっても、全ての闇が消せるはずがない。
最近、ハイヴィジョン放送で全話が放送された「スターウォーズ」では、ジェダイという心身を鍛え上げた超人的戦士の最も重大な問題が、人間としての暗黒面だというのが印象深い。精神をも究極的に磨き上げ純化させた時こそ、人間の中の闇が破滅を引き起こすというのは実にリアルであると思う。
1956年の映画「禁断の惑星」でも、高度に進歩したアルテア第4惑星が滅びた原因は、外側は完璧に進化した人類の心の奥に隠された闇だったのだ。

最近は、マスコミで、大相撲関係で暴力団の話題が多い。暴力団員を一般にヤクザと言うが、ヤクザは侠客(きょうかく)と呼ばれることもあり、侠客とは、任侠道と言う自己犠牲の精神で弱い者を助けることを行う者のことだ。
私は、警察で深い現場経験を持つ、そこそこの立場の人が、「ヤクザがなくなることは絶対にない」と断言し、社会のトップと交流のある人が、「ヤクザは必要」とまで言うのを聞いたことがある。
私自身は偉くないので、詳しいことは分からないが、人間に闇の部分、深い穢れがある以上、それに関わる問題は起こるべくして起き、それを調製しなければならないこともあるはずだということは分かる。その調製をクリーンにやれば必ず歪が起こる。例えば、児童ポルノをクリーンな法で規制しようとすれば、とんでもないことになるが、頭の軽薄な連中にはそれが見えないのだ。
弱い人々を穢れから守るためには、自ら汚れる覚悟を持ち、実際に汚れながらそれを行う者は必要なのだと思う。それが本物の侠客ではないのか?
穢れに対抗するには穢れである。本当に子供を守りたいというなら、自分が汚れないといけないのだ。
自分はクリーンな立場で穢れを払おうなんてのは、傲慢か馬鹿だろう。

最初の「エル・カザド」の話で、私は殺し屋の方がクリーンだと感じたのは自然と思う。「お前はすっかりクリーンになっちまったな」と言われた警官は、自分も殺し屋だったからこそ、本当は今の自分の方がクリーンでないことに気付いているはずなのだ。
クリーンに生きたいなら、一瞬に生きることだ。それしかない。一瞬の中に、美があり、真理がある。一瞬は永遠でもある。変化し、移り変わるこの世の形に真理はない。しかし、時間のない心の奥深くに真理がある。形を求めると穢れに取り込まれ、形を手放すと穢れから解放される。それが分かれば至福に到るだろう。だが、この先も悲劇は多い。哀れ人類よ。死に打ち勝つには、ただ死に切るしかない。


【禁断の惑星(DVD)】
1956年の傑作SF映画。SF映画としての面白さはもちろん、現在のCG映像とは雰囲気の異なる美しくノスタルジックな表現と共に、人間存在の根源についての洞察が込められている。

【誰が子どもを狙うのか】
おめでたい頭では子供は守れない。子供を狙う者は、法の中、クリーンな妄想の中に堂々と存在している。幻想から目覚めて子供を守れ。
穢れに染まったヤバいおじさん達の教えを聞こうではないか。

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2010.07.23

世俗を超える近道

仕事における人的ミスや怠慢、倫理的、道徳的な逸脱による問題・・・それらも、極めて初歩的なものや、幼稚なレベルのものが、あらゆる場所で発生している。
それがなぜかというと、つまるところ、みんな、仕事にやる気がないのである。
ではなぜやる気がないのかというと、そもそもが仕事を選択するときに、「給料が高い」「安定している」「地位が高い、あるいは、見てくれが良い」といった理由で選んだからだ。
稼げるからその仕事を選ぶとしても、起業するとか歩合制セールスマンになるとかならまだ良いが、その場合も、金が主な目的であれば、一時は上手くいってもすぐに破綻する。
才能あるミュージシャンが成功しても、金のために仕事をするようになると、すぐに情熱も失せ、落ちぶれたり、トラブルを起こしたりすることになるだろう。

自分がやりたいことをやっていれば、食べられさえすれば満足で、心も安らかであるが、良い収入のために意に沿わぬ仕事を続けていると、心は澱み生命力は枯渇し、何かあると自殺に至る危険もある。
だが、現在の日本では、人間らしい仕事は極端なまでに収入が低くなっている。農業でも、大規模農業では儲かるものもあるが、人が心を注げるようなものではほとんどが収入は乏しい。
なぜそうなるかというと、経済指向の国家だからであり、税収をもたらすものであれば、法に触れない限り、道徳性や倫理性はあまり問われない。ただし、儲かっても税金を沢山払わない者には、もともとがどうにでも適用できるように作ってある法律で無理矢理に処罰するのである。
現在の日本では、金を稼がないのが幸福への近道ではあるのだが、それに人々が気付くようになると、稼ごうとしないと、極端な貧困となるような仕組みにしてしまった。住むところもない人が増え、深刻な状態でも医療サービスも受けられない人が沢山いる。自殺者の数は世界で「堂々」トップを独走中である。さらに、金がないことは恥ずかしいことであるという偏見も強固に植えつけられている。そうやって国民を脅し、不安にさせ、稼ぐように急き立てる。
その結果が、現在の状態である。
2012年に世界が終焉することになるかどうかはともかく、現在の状態を見れば、破滅までそう遠くはないと考えても少しも不自然ではない。しかし、それは必ずしも悲惨なことではない。
日本は世界大戦で事実上、いったん滅んだのであり、ほとんど公には語られないが、敗戦時、国民の大半はほっとしたのである。

ではどうすれば良いかと言うと、残念ながら他人のことまでは分からないのだけれど、私に関して言えば、食を落としていき、その気になれば食べないことで自然死することに恐怖がなくなれば平和でいられる。
W.B.イェイツの「まだらの鳥」の中で、「身体と魂が離れない程度のパンを食べていれば」、ある神秘な状態に至ると教えられたマイケル少年(イェイツが自分自身を投影した主人公)が、それを行って不思議な世界に参入する様子が描かれるが、それは、現実とは言わないが、空想ではなく、真の想像である。エマーソンが、ギリシャ神話は「想像ではあるが空想ではない」と言ったようなものだ。
だが、イェイツはそれを人々に伝える難しさに気付いたのか、この作品を書き上げることはなかった。
まずは、できる範囲で食を慎むのが最上であると思う。いろいろな意味において、それが世間を超える道を開くと思う。

少食の聖典と思える3冊

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2010.07.22

時間跳躍の方法

学校は夏休みになったようだ。
私は、今でも、夏休み前日の気持ちになると、心の中に至福の感覚を甦らせることができる。
特に夏休みに何かやろうとかいうのではなかった。学校に行かなくて良いことが幸福だったのである。

私は中学1年生の時、筒井康隆さんの「時をかける少女」を読んで強く心を惹かれたが、その時、人は時間跳躍の能力があるのだと直観した。
そして、世間で常識とされる偏見を打ち破ることができれば、そのための大きなヒントが得られると確信し、非常に興奮したものだ。
しかし、中学1年ともなると、かなり世間に洗脳されているものであり、世間の幻想を捨て去るきっかけさえなかなか掴めないことに気付いた。

アインシュタインは、一般の人に相対性理論の説明をする時、「美女と過ごす1時間は短いが、熱いストーブの上に座る10分は長い」と言ったらしい。アインシュタインの言うストーブがどんなものか分からないのだが、感じは分かると思う。
夢中でなにかをしている時の1時間はすぐに過ぎるが、嫌なことをしている10分は苦痛で長いということだろう。
道元は、過去も未来も現在で体験されると言った。それは、一般には、思い出とか、未来の想像とか言うものだが、想起や想像にも、モノクロのものもあればカラーのものもあることに気付く。夢にも、色付きと白黒があるようなものだ。
心の中のカラーの映像には何か意味があるように思える。
今現在というもの、原則的にカラーだが、時に白黒になることがある。心が非常に沈んでいたり、強いショックを受けた時などがそうなる。
自己というものは、「今」「ここ」にあるものだから、現在には生命があり、カラーで感じるのだ。過去や未来にも、自己が存在するなら、やはり生命があり、カラーであり、それは現在と変わらない。逆に、今現在であっても、心が沈んで自己が隠れていれば白黒になり、生命力がない、あるいは、生命力が弱い状態なのだ。
これが時間跳躍の原理なのである。応用すれば、自在に時間跳躍できるし、未来を創造できる。いや、過去すら!

「長門さんは完全な形で時間跳躍できるの?」
「私には必要ではない。情報が行き来できればそれでいい」
~涼宮ハルヒの憂鬱 「笹の葉ラプソディ」より~

批判も多いが、トム・クルーズやジョン・トラボルタなどが熱心な信者であることで知られる新興宗教のサイエントロジーを創ったL.ロン.ハバートは超天才であったことは確かだと思う。ハバートは、想起というのは非常に効率が悪く、もっと完全に過去に戻れる「リターニング」という方法を見つけた。彼は、未来については語らなかったが、過去に戻れるなら未来にも行ける。
だが、過去も未来も心の中に存在する幻想である。実際には現在すら。だが、現在、過去、未来のいずれであれ、生命を与えることもできるし、死の世界にすることもできる。
生命のない豊かさは不幸だが、生命のある質素さは幸福だ。生命が第一なのである。それを忘れた時に虚無に支配されるのである。

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2010.07.21

「のんびり力」を磨け

我々は、子供の時からいつも急き立てられ、せかせかさせられながら生きている。
少しでもぼーっとしてたら、「ぼーっとするな」、「きびきびしろ」と叱責され、「あれをやれ」「これもやれ」と指示された。
しかし、立派にものごとを達成し、幸福になる秘訣はぼーっとすること以外にない。

吉本隆明さんは、子供たちがぼーっとしているのを邪魔するくらいなら、我が国最大の思想家が自ら買い物カゴを持って買い物に行ったと言う。
多くの子供たちが、毎日のように塾やお稽古ごとに行かされ、ぼーっとしている暇もないが、もし行くなら、ぼーっとする稽古をさせてくれる塾にでも行けばいい。何かしていないと不安になるようなら、立派なノイローゼ候補者だ。
ぼーっとした自殺者なんていない。

運気というのが、せかせかしているなど聞いたこともない。
運気はゆったりしている。それにあわせて呑気(のんき)にしないと運気に同調するはずがない。
そもそも、「のんき」の正しい文字は「暖気」で、春のような暖かな気である。それはやわらかく、ゆったりとしたものに違いない。

「善は急げ」とか言う。それはあくまで「善」である場合だ。善とは、例えば、餓えている人に食べ物を持って行くとか、地震の被災者を救援に行くとかである。その時は急ぐべきだ。
しかし、自分のことはゆっくりやれば良い。
コリン・ウィルソンは、右脳に秘められた強大なエネルギーを汲み出すには、左脳のスピードを落とさないといけないとか言い、それについて難しい説明をしていたが、一言、「のんびりしろ」と言えば良いのだ。頭の良い人は、時に困ったものである。

私はコンピュータソフトの開発を仕事にしているが、急いで仕事をした時はロクなことはない。
ほとんどいい加減に、よそ事をやるついでにやったくらいで上手くいく。のんびりしている時に、良いアイディアが浮かんだり、致命的な間違いに気付くのだ。そのアイディアや気付きがなければ、結果は悲惨なものになりかねない。もちろん、設計手法やプログラミングテクニック等はある程度修得しないといけないが、それすら、のんびりやらないといけない。「C言語を1日でマスターした」なんて自慢したがる者はどこにでもいるが、放っておけば良い。ピッチングを1日でマスターした野球投手なんていないのだ。
もう忘れられかけているが、プロレスのジャイアント馬場さんのファイト振りがスローモーなことがよく笑いのネタになった。しかし、ライバルのアブドーラ・ザ・ブッチャーが、「馬場はゆっくりくる」ことを恐れ、かつ、賞賛していた。数少ないが馬場さんが大敗した時なんてのは焦った時だし、名勝負では、相手は馬場さんに焦らされて負けているのだ。勝ちを焦って飛び込んで行く時なんてスキだらけなものだ。

私は、最近、どうやればのん気になれるかばかり考えている。これほど大切なことはないと気付いたからだ。
私が、高校生の時、教師の言葉で唯一憶えているのは、「今の若い者は、『急がば回れ』ということを知らない」だ。私の中にもある叡智が観応したから憶えているのだろう。
ジョセフ・マーフィーがよく、聖書の詩篇にある「私は山にむかって目を上げる。わが助けはどこから来るのだろうか」という言葉を解説なしに引用していた。
正しい意味は知らない(神父や牧師の解説は難解過ぎる)が、「神様を信頼し、のんびり待ってろ」程度に考えている。
無限の力を秘めた無意識には時間はない。だから、夢中になって無意識でいると時間感覚が意識と全く合わない。あっという間に数時間経っていたり、逆に、一瞬の間に濃い体験をする。それは、意識が自分を引っ張り回さない時、つまり、せかせかしておらず、のんびりしている時だ。神がかり的に偉大なことがなされるのは、そんな時である。

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2010.07.20

アヤカ

あやかという名前を持つ女性が時々いるが、果たして、意味を知ってて付けたのか?意識的、あるいは、無意識的にでも。
あやかという言葉の美しい響きだけでも、愛娘に名付ける理由として十分であるが、この名を持つ女性の運命は特異となる。
あやかというのは、特殊な名前であるのだから。

あやかは、「あやかし」でもある。あやかしは、「妖」と書かれることもあり、悪というのではないが、ケルトの妖精のような恐ろしさも感じさせる。
ケルト人の自覚のあった、「20世紀最大の詩人」と讃えられるアイルランドのW.B.イェイツ(ノーベル文学賞受賞者)は、その自伝的小説「まだらの鳥」で、絶世の美少女マーガレットに対し、「過ぎた美しさは、かえって哀れさを感じさせる」と書いているが、あやかしというのは、それとどこか似た雰囲気がある。
実際、あやかとは、究極の美という意味なのだ。

そして、あやかは、阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)という、日本の神様から来ている。女神としてイザナミより先に存在した天津神(天の神)である。
あやかの性質が現れると、幼い頃から異常な美しさを持つことがある。先に書いた、マーガレットのように。
その美しさには、儚さを感じさせる。なぜ美しいと儚いかというと、この世では、単一の存在としては、美しいものは長くとどまれないからだ。花の命は短い。どんな美少女も、「そのままでは」あっという間に衰える。
今でも、「仮面ライダー」等で知られる漫画家の石ノ森章太郎さんのお姉さんは非常に美しい人だったようだ。まだ幼い姉に、1人の行商人が「この娘は美し過ぎる。美人薄明」と言ったことを、もっと幼なかった章太郎は覚えていた。そして、姉は23歳で亡くなった。
原作者はSF作家の平井和正さんだが、石ノ森章太郎さんの代表作の1つでもある「幻魔大戦」で、主人公の丈(じょう)の姉が、石ノ森さんの姉と関係があるのではないかと思わせる。丈に献身的な愛を注ぎ、死んでからも丈を守り続ける姉である。

しかし、あやかは誰の中にもいる。特に女性はその性質を現すことがある。
コリン・ウィルソンの「賢者の石」という小説で、まるで美しくないただの中年の女性が、あることで驚くべき美女に変貌するが、それは自然にあり得ることだ。
ウィルソンで思い出したが、最近、テレビでハーフと思える非常に(異常に)美しい女性を見た。名はアヤカ・ウィルソンといい、以前からモデルや女優として活躍しているようだが、私は全く知らなかった。誰もがそう思うだろうが、私も一瞬、大人の美女かと思った。しかし、「もしかしたら 12歳くらいかもしれない」と思ったら、本当に12歳だった(来月13歳になる)。宿命的にこの名を背負ったとしたら、心を磨かないと名前を裏切る。
実際の名前はどうでも、人は内にあやかを秘めているのであり、花の命は短いけれども、心を磨けば永遠でもある。上にあげた、「幻魔大戦」の丈の姉のように。


【賢者の石】
考えてみれば、コリン・ウィルソンの小説というのも珍しい。もちろん、ウィルソンが書くのだから、ただのお話ではない。人間の可能性への洞察を神秘的なストーリーに込めた世界的ロングセラーである。

【幻魔大戦】
著者の石森章太郎(後に石ノ森章太郎)さんが、第2の聖書を書く意気込みで描いたという傑作漫画。壮大な宇宙スケールのお話ではあるが、何をやっても駄目で心がいじけかけた主人公、東丈の成長という視点から見ても興味深い。それは我々自身の物語でもある。
原作者の平井和正さんのライフワークともいえる「幻魔大戦」であるが、平井さんも初め漫画家を目指していたそうだ。しかし、平井さんは石森章太郎さんを見て、「こんな天才に敵うはずがない」と思い断念したことがあると聞く。このコンビは、後の「新幻魔大戦」まで長く続く。

【まだらの鳥】
20世紀の詩聖イェイツの未完の小説のバラバラだった原稿をまとめたものだが、苦心のかいあって素晴らしいものとなった。イェイツの偉大な想像力が生み出した幻想的な美の輝きは忘れることが出来ない。

【超訳古事記】
子供の頃、古事記とギリシャ神話で心を救われた著者が、学者らしくない自由訳を行った古事記である。私はこれで、どんな名訳を読むより古事記の本質に近付けたと思う。
著者は、横尾忠則さんのグラフィックアート集「天使の愛」に序文を書かれていたが、天使の存在を感じることが出来る。そんな感性も感じる超訳であると思う。

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2010.07.19

暴力がなぜ悪いか?

暴力がなぜ悪いか・・・なんて馬鹿なことを考えたことがありますか?
暴力そのものが悪いわけではありません。
ボクシングの試合では、むしろ積極的に気合いを入れて暴力を振るわないことは悪いことです。攻撃が消極的だと減点される位です。
また、現実問題として、特に女性や子供、あるいは、老人を守る時には、暴力や、場合によっては殺人も英雄的行為にすらなります。
要は、振るうべき時と場所であるかないかが問題なのです。
セックスも、相手が間違っていればレイプで、厳しく罰せられて当然ですが、正しい相手であれば、非常に良いばかりか神聖ですらあります。
以前、「なぜ殺してはいけないか?」ということが話題になりました。
時と所を間違えた殺人が悪いのです。まあ、ほとんどの殺人は、時と所を間違えたものですし、そうでなくても避けられればそれに越したことはないのですが、現実的にはやむを得ない場合もあるでしょう。

何事もそうです。時と所の問題です。
大事なのは、どうすれば、正しい時と所を選べるかです。
なぜ、間違った時と所を選ぶかと言いますと、過度な欲望のためです。欲望に支配されてしまうのは、言うまでもなく、冷静さを失っているからです。
こんな話があります。
5人の若い男が、1人の少女を無理矢理空き家に連れ込み、レイプしようとしました。
ところが、男の中の1人が、「やめよう」と言い出し、少女は難を逃れました。
男の1人が冷静さを取り戻したのでした。そのきっかけは、少女が自分の妹に似ていると思ったことでした。
精神が未熟で無軌道になりやすい若者すら、冷静さを取り戻すことが出来、そうすれば、正しい判断が出てくるのです。

冷静でいるためには、心に余裕が必要です。
心に余裕を持つためには、普通は、物質的にも、ある程度は恵まれていることも必要です。
何も持たないのに冷静な者はおそらく聖者です。それは理想ではあるかもしれませんが、我々凡人には難しいことです。
心の安らぎを得る目的の範囲内であれば、お金を求めても構いませんし、間違いなく得られるでしょう。
お金を求めて祈ると、それが正しい要求であれば、不意に安らぎを感じ、続いて、お金が入ってきます。
イエスは、願いは叶えられたと思えばそうなると言い、チャールズ・ハアネルも「ザ・マスター・キー」でイエスのこの教えの正しさを強調します。
つまり、先に安らぎの感覚を得てしまえば、望みは叶います。
岡田式静坐法を教えた岡田虎二郎が、「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ます」と言った根拠もそれだと思います。
静坐、座禅、念仏、数息観、スワイソウ、祈り・・・何でもよろしいですが、常にそれを忘れないことで、心が急ぎ過ぎることがないようにすれば、うまくいくでしょう。
「神と和らぎ、平和でいなさい。そうすれば幸福が訪れます」これは、ジョセフ・マーフィーがよく引用した、ヨブ記の言葉です。


【人生に奇跡をおこす】
マーフィーの潜在意識の法則を実践するコツは、出来るだけ欲望を押さえ、淡々とやることです。マーフィー自身も「ソフトタッチが必要」と言います。

【あなたも幸せになれる】
私は、引きこもっていた時期、この本を読み、自分の中に無限の力があることを理解し、以降、お金に困ったことはありませんでした。

【あなたも金持ちになれる】
お金儲けの本でありながら、静寂でノスタルジィを感じるような内容だと思いました。ある意味、お金のことを忘れて読めば真理が見えるかもしれません。

【ザ・マスター・キー】
優れた成功法則の通信講座を書籍にしたものです。内容は東洋の叡智に基いた深遠なものです。ビル・ゲイツも愛読者であったという噂もあるようですが、長くゲイツマニアであった私にも、まんざら嘘でもないと思われます。

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2010.07.18

甘い眠りは地獄の入口

国家、世間、個人の自我は醜い怪物である。
しかし、実に面白いことに、これらは真理をよく知っているのだ。
これらは、真理を知っているがゆえに、真理を破壊しようとするのである。
ならば、真理を知りたければ、国家、世間、自我に聞けば良い。
つまり、国家が弾圧するもの、大衆が糾弾するもの、自我が拒否するものが真理である。
国家が手厚く保護し、大衆が賞賛し、個人がうっとりするようなものは真理ではない。

岡本太郎の芸術は真理にごく近い。
岡本太郎は、芸術とは、

うまくあってはならない
きれいであってはならない
いやったらしくなければならない

と言ったが、うまくもきれいでもなければ、国家も大衆も受け入れない。
国家や大衆が拍手喝采するものが芸術であるはずがない。
そして、個人に関しても、反感を感じないようなものは芸術ではないのである。

宗教の本来の姿である、「理」とか「道」というものがまさにそうだ。
うっとり、心酔しながら聞く教えからは、何にも得られないばかりか、堕落する一方である。
本でも、ムカムカしながら読むくらいのものが丁度良いのである。
岡本太郎は、自分が制作した彫刻をさかんにけなし、文句を言いながら、雨の中、長時間見入っていた人を見て満足したと言う。
甘い眠りは地獄の入口になっている。恐るべき、恐れるべきである。

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2010.07.17

この世の矛盾

つくづく、この世や人間は矛盾したものだなとよく思う。
鋭い感性や洞察力があるなら、愛と憎しみは同じものであることが分かるはずだ。
萩尾望都さんの、わずか15ページの傑作漫画「半神」で、16歳の美少女ユージーは徹底して悟る。

愛よりももっと深く愛していたよ おまえを
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよ おまえを

不退転の決意は素晴らしいものだが、引き時を知ることも大切なのだ。これは時として深刻な矛盾だ。
死ぬほど好きな女の子がいて、不退転の決意でアタックすることは悪いことではないと思うが、所詮、相手にその気がないなら引き下がるしかない。どこまでも引かないと、問題や、場合によっては悲劇が起こる。
「俺は絶対画家になるぞ」と不退転の決意をしないことには画家なんてものにはなれないだろうが、やはり、才能が無いことが分かったら諦めるしかない。
ジョセフ・マーフィーは、潜在意識の力に不可能はないと説くが、女優を目指すある少女が、そのまま願望を貫くことに同意せず、彼女は事務職に付いたが、結局は彼女は幸福になった。

こういったことの矛盾を解消することは一種の悟りとも言えるかもしれない。

ノーベル賞作家アルベール・カミュは、「シーシュポスの神話」で、ガリレイが地動説を取り下げたことについて、「地動説は、命と引き換えにするほどの価値はなかったのだ」と皮肉っぽく書いたが、しかし、それは真理と思う。
どっちがどっちの回りを回っていようが、大したことではない。
もっと大切なのは、地球が丸いと信じている人と、地球が四角いと信じている人が仲良くすることだし、生きることだろう。
スティーヴン・ホーキングすら、この世は亀の背中に乗っていると信じている無学なおばあさんと、自分を含めた現代人に優劣は無いと言う。
地球が丸かろうが、世界が亀の背中の上で、その亀の下がずーっと亀であろうと、どうでも良いことなのだ。

「私と結婚してくれる?」
「いいよ」
「私を愛してる?」
「どうでもいいことだけど、多分、愛していない」
(カミュ「異邦人」より)

つまるところ、難しいことではなく、不退転の決意で挑むべきことと、引くべきこと、言い換えれば、真理とどうでも良いことの違いが解ることが大切なのだ。
そして、不退転の決意を貫くべき真理なんて、そうそうあるものではない。
有名な空手家の大山倍達さんの本で読んだことがあるが、彼の最初の師匠は、彼の家で雇われていた小作人だったが、周りからアゴで使われ、馬鹿にされてもいつも大人しくしていて、子供だった大山さんは初めはちょっと軽蔑していたようだ。
しかし、実は彼は超人的な拳法の達人だということが分かる。
師匠は、大山少年に請われて拳法を教えるようになったが、こんなことを言ったようだ。
「男ってのは、鞘の中の刀さえ磨いていればいいんです。その刀を抜くのは、一生に一度あるかないか。ないに越したことはないんです」

「荘子」では、信念を貫いて死んだ、世に義人(正義を貫いた人)と言われる人達を、全く賞賛しない。それらの人たちの正義よりも命の方がずっと大切だからだ。
命を捨てるに値するようなことも確かにあるかもしれない。しかし、それほどの価値の無いことのために命を落とすのは愚かである。

「ルパン三世」で、本物そっくりの偽ルパンが現れ、2人のルパンのうち一人が次元に言う。
「俺が信じられないなら、俺を撃て」
そう言った方を、次元は迷わず撃つ。
次元は、「本物のルパンなら、泣いて命乞いをするはずだ」と言う。

「美少女戦士セーラームーン」で、みちる(セーラーネプチューン)は、愛するはるか(セーラーウラヌス)を殺そうとする悪者にこう言われる。
「私を攻撃すれば、この壷を壊す。そうすれば世界は破滅する。おとなしく見ていろ」
しかし、みちるは迷わず攻撃し、壷は壊れる。しかし、世界は破滅しない。
「貴様!なぜ嘘だと分かった!?」
「あら、嘘だったの?」
驚く敵にみちるは言う。
「あなた、何か勘違いしてない?はるかのいない世界なんて守っても仕方ないじゃない」

さて、あなたはこの世の矛盾を解消できるだろうか?
成功を祈る。

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2010.07.16

著者が「読むな」と言った本

今日、名著として知られる本にも、著者は「読むな」「読ませるな」と本気で言ったものがある。
例えば、親鸞聖人の言葉を思い出して弟子の唯円が書いたと言われ、世界的にも賞賛される「歎異抄」は、最後に「外の人に見せないよう」と書かれていた。
親鸞の師である法然の主著とも言われる「選択(せんちゃく)本願念仏集」は、九条兼実(かねざね)という公家の依頼で書いたが、わざわざ最後に、気が進まず書いたと記し、一度読んだら壁底に埋めて、机の上などに置かないようにとまで書いている。
これには、現代では想像も出来ないような当時の事情もあった。それらを外部の者に見られたら、同朋にどんな災いが降りかかるか分からないし、実際、その危険は大きかったはずである。
しかし、理由はそれだけではなく、真理そのものが歪められるのを恐れたとも思えるのだ。

岡田虎二郎は、亡くなる前に書いたものは全て自分で燃やしたという。それで、虎二郎の教えは弟子によって「岡田虎二郎先生語録」として書かれ、一時は書籍にもなったが、現在は普通に入手する術もないと思われる。
アイザック・ニュートンも、数学や物理学関連以外のものは全て燃やしている。ニュートンは、科学はついでにやっていたと言われることもあり、錬金術や聖書の研究の方に熱心だったとも伝えられている。

D.H. ロレンスは、「無意識の幻想」のはしがきで、いきなり「一般の読者は手を触れぬ方が無難」と書き、その後、読むことを断念することを薦める文をしつこいまでに続ける。
「私は一般の読者向けに書いていない」「書いたものが市場に晒されるのは著者の不運」「読む資格があるなどと自惚れるな」「すぐにくずかごに捨てよ」と激しい。「限られた少数の読者」がいることは最後に認めるが、それでも、読まない方がどちらかというと最善であることをほのめかしている。
英文学者、詩人、画家であり、タオイストの加島祥造さんは、「肚(はら)」で「無意識の幻想」を賞賛しており、彼は限られた読者ということであるのかもしれない。確かに彼はそれに相応しいと思う。
ロレンスの場合、逆に、人々に関心を持たせるためのパフォーマンスであると勘ぐる向きもあると思うが、読んでみた結果、絶対にそうでないと思う。普通の人は読むべきでないと断言する。

お釈迦様は、文字自体がない状況であったとも聞くが、伝説によると、お釈迦様は悟りを開いた時、「こんなこと、普通の人に分かるはずがない」と思って入滅(早い話が自殺)しようとしたが、思い直したと言われる。

人々に読ませよう、読ませたい、読まれたい、伝えたい、知って欲しい、理解して欲しいというのは、ある意味、欲望で、そこに何らかの不純化が生じるのは避けられない。
そもそも、言葉というのは不完全で、齟齬や誤解が発生しないと考えること事態が間違っているのも確かだ。

著者が、「読ませない」ことを前提に書いたもの、あるいは、神話のような形で伝わったものの中にこそ本物があるのかもしれない。
カール・ケレーニイが、偉大なホメーロス自体より、名もない詩人がホメーロス風に書いた「ホメーロス讃歌」を重要視するようなことを書いているのを見たことがある。
自分がないこと。それが真理と同等であると私は感じる。
その中で、本というほどのものではないが、法然の遺言ともいえる「一枚起請文」(いちまいきしょうもん)や、一休禅師の遺言といった、ごく短い文こそ、まさに真理の書と思う。

一枚起請文
尚、一休禅師の遺言は、「心配するな、何とかなる」である。いざとなったら開けるようにと、臨終の際、弟子に渡したと言われている。

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2010.07.15

ホームレスにならう

浮浪者という言葉は放送禁止用語であるらしいが、単に「さすらう者」という意味のこの言葉のどこが差別的なのか私には疑問だ。
住居、職業を持たない者を劣った人間とみなすその考え方自体が問題ではないだろうか?
一方、さして意味が異ならないホームレスという言葉はいくらでも放送されるのである。

浮浪者、あるいは、ホームレスと言われる人は、定まった住居がなく、公園や路上などで生活しているのであるが、特に寒い季節は大変だということは誰でも認識できる。
そういう理由もあるが、実際に住居を持たないか、そうでなくても、旅行中、その他の理由、あるいは、特に理由なく、自分の家に居ない人が無料で自由に寝泊り出来る場所なんていくらあっても良いし、あるべきと思う。しかし、世間では、そんな場所があると浮浪者が増えたり、犯罪が発生する原因になるという思い込みがあるのだろうか。あるとしたら、その思い込みはどこから来たのだろう。そう思い込ませたい者がいるのではないだろうか。

ところで、年季の入ったホームレスというのは、着ているものや身体が汚れている場合が多いのは仕方がないとしても、案外に心身が健康で、身体もきれいなものらしい。
年配であっても髪が黒々として美しく、肌もきれいだし、禿げている人も少ないらしい。彼らがシャンプーや石鹸を使うことはあまり無いし、ましてや、経済的に豊かな人達が使う高価なシャンプーや石鹸、あるいは、美しい髪や肌を作るとされる美容品、化粧品、育毛剤に縁があるはずもない。
ホームレスの人達の中には、かつては結構豊かだった人も少なくないらしいが、そんな人達は、シャンプーや石鹸、化粧品などを使わず、水で洗うくらいの方が髪や肌に良いのではないかと感じている人も多いと聞く。
ある著名な作家は、金持ちだが風呂には入らず、石鹸も使わないらしい。野生動物は風呂に入らず石鹸も使わないが健康で美しいし、湯や石鹸などは身体に必要な油分を奪い、風邪をひいたり、(長期間の)化学的な影響でその他の病気の原因になるからだと言う。身体を濡らしたタオルで拭く程度だが、それで綺麗なものだし、相当な年配だが悪い体臭もないらしい。そういえば、今は、電車に乗っても、混んでいたら何ともいえないひどい臭いを感じるが、ほんとんどが、毎日、良いシャンプーや石鹸を使っていそうな、身なりも良い人達ばかりである。
ホームレスになりたての人はそうではない場合が多いが、肥満している者は少ない。深夜に駅の近くを歩いていたら、ホームレス達がダンボール箱の中で寝ていたり、読書しているのを見たが、なんだか皆カッコいい感じだし、電車の中などで見る特に若い人達のように、だらしない姿勢で、落ち着きなく身体をだらだら動かしているようなこともなかった。
ホームレス達が、長く、少食、粗食を続け、余計な菓子類を食べたり、飲料製品を飲まないことも、健康や美容に大いに役立っているに違いない。
また、ホームレスを調査した本を読むと、彼らの多くは、会社勤めによるストレスから解放されていると感じており、それが、心はもとより、身体の健康につながっているのではないかと思う。

冷静に考えれば、家や仕事を持たないことが、不便なことはあっても、悪いことであったり、ましてや、恥ずかしいことであるはずがないと思う。
世間の信念という妄想や偏見が、ホームレスの人達に対し、特定の概念や感情を起こさせるだけである。
良い国家というのは、家や仕事を持たない人達が平和に暮らせる国だ。無用な車が売れまくったり、飽食、美食で肥満になる人々だらけの国ではないし、仕事や生活のストレスで心が病んだ醜悪な表情の人ばかりの国ではない。仕事が好きな人や、立派な家を必要とする生活スタイルが好きな人もいるが、いろんな人がいるのである。


【聖母マリアはなぜ「出現」したのか】
世間の常識を疑うヒントになるかもしれない。
聖体(小さなパン)以外、一切の食物を摂らずに健康に生きた女性テレーゼ・ノイマンの非常に詳しい記述がある。その他のことも、基本的には奇跡を認めない正統なキリスト教会の神父の書であることは異例である。

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2010.07.14

荒ぶる武士の禊

1日のうちに、何度も、怒りや憎しみや嫌悪といった感情が起きる。
時に激しい場合もある。地獄とは地の底にあるのではなく、そんな心のことを言うのに違いない。
そんな嵐のような感情を快感と感じるなら、それは魔道である。
激しく他を非難、批判し、糾弾して醜い喜びを感じている者も少なくはないかもしれない。それは自分を地獄に叩き落すことであるのにである。

怒りや憎しみの対象そのものが嫌なのではない。
本当は、そんな気持ちを起こす自分が嫌なのだ。
だが、そんな心を静める術はない。
せめて醜い感情の炎に自分で油を注がなければ良いのだけれど、なぜか煽り立てずにいられない人が多い。

戦場で武士は自ら花を生け、茶を点(た)てた。
最大の荒ぶる心を起こさないと殺されるし、また、荒ぶらずにはいられない。
しかし、ふと我に帰ると、そんな自分をおぞましく思うのである。
それで、禊(みそぎ)のために花を生けるのだ。

黒住宗忠は、ほんの少し慌てたり驚いたりして心を乱しても神に詫びた。
なぜなら、自分の心は神の心の一部であるのに、心を乱すことで神の心を痛めたことを感じていたからだ。
なら、憎しみや貪欲や怒りがいかほど恐ろしいものか。
そして、我々も、醜い感情が神である自己の本心を汚していることを本当は知っているからこそ、そんな気持ちになることが嫌なのだ。

少女が、好きな男の子が別の可愛い女の子に優しくしているのを見て心を傷つけるという話はよくあるだろう。
「灼眼のシャナ」の中で、一美という清純で優しい少女が、そんな気持ちを適切に表現していた。
「嫌だな。こんな気持ち」
初めて嫉妬という感情を味わった彼女は、嫌なのは状況ではなく、自分の気持ちだと気付いていた。

登る太陽の迷い
偶然は秘かに仕組まれた
いっそ必然
目の前に今晒された
不覚に歪む感情
~“Re-sublimity”より(作詞、歌:KOTOKO)~

心は自分ではどうにも出来ない。
テクニックで感情を支配しようなどという話もあるが、うまくいくことは決してないだろう。
だがそれは、自分の心が神の心の一部であることを感じる機会であることも確かなのだ。
もし、感情や、その原因である出来事が因果によって起こるのなら、それは我々の能力の及ぶ範囲をはるかに超えている。
ならば、神仏にまかせるしかない。自己を超えた何かが、確かに取り計らってくれるだろう。
だが、神の心と一体である自分の心はそれを邪魔することもできる。無力でないことが、かえって仇になるのだ。
あえて邪魔をしないために、1日中何かに熱中できるなら幸せだ。そうでないなら、1日中、腹から力を抜かずにいるか、念仏でも唱えることだ。
道綽大師は1日7万回、法然上人は1日6万回、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えたと聞く。
岡田虎二郎は、1日中、下腹に力を込めよと教えたようだ。
ラマナ・マハルシは、常に「私は誰か?」と問えと教え、ニサルガダッタ・マハラジは、存在の感覚に常にしがみつくように指示した。
それは、神仏に全てをまかせる自己の明け渡しか、心を消してしまうことであるようだ。

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2010.07.13

仏の知恵

最高の女性にプロポーズしたところ、彼女から、以下のような結婚の条件が出されたとしよう。

「超一流大学を出ていること。出来ればハーバードかコロンビア。あるいはケンブリッジ。日本なら東大。
勤務先は官庁、銀行、超一流企業等。」

とてもではないが、条件に合わないと思っていたら、彼女から次善の条件が示された。

「父親が年商百億円以上の企業のオーナーである資産家で、それを将来相続すること。
既に3億円以上の家と一千万円以上の外車も与えられていること。」

この条件もまるで満たせないと思ったが、彼女は別の条件も示した。

「職業が医者か弁護士で年収は3千万円以上。
あるいは、芸術家、スポーツ選手、起業家で、年収1億円以上。」

これも努力してどうなるものでもなさそうだと思ったら、さらに次の条件。

「高度な専門技能を持ち、社交性に優れて人脈もあり、高収入で借金がないこと。」

これも、残念ながら満たせないと考えていたら、彼女は最後に言った。

「私を愛していると感じていること」

これなら間違いなくその通りなので、めでたく彼女と結婚できた。

彼女は、なぜ、いろいろな条件を出したと思われるだろうか?
プロポーズのことではないが、こう考えた賢い人達がいた。
「最も重要なのが愛であることを強調するためである。その他の条件は、どうでも良いつまらないことであり、これらの条件は捨てるために示したのである」

ある仏教の経典の内容だが、悟りを開く方法を聞かれたお釈迦様は、超人的な修行の数々を詳細に示す。それらは、普通の人間には全く不可能と思われた。
しかし、少しずつ易しい方法も述べ、やがて、「良い行いをしろ」程度になる。しかし、煩悩溢れる凡人にはそれも難しい。
さらに、「悪い人間でも良いから、せめてこれだけ」という話になるが、それでもやはり自信がない。
最後にお釈迦様はこう言う。「ただ念仏(南無阿弥陀仏を唱えること)しなさい」
上記は、あくまで、だいたいの話であるが、この経典は「観無量寿教」で、中国の高僧である善導大師は、念仏以外のことは捨てるべき行として説かれたということを、法然上人は「選択本願念仏集」で述べ、完全に同意であるとしている。
これは、非常に深遠な思想であるのだけれど、ただ信じるなら理解したも同じである。イエスは「信じることが出来る者は幸せだ」と言ったが、それは妄信ではなく、何らかの直観を伴うものであると思う。


【浄土三部経〈下〉観無量寿経・阿弥陀経】
平易な口語訳、漢文と書き下し文、そして詳細な解説から構成されている。

【選択本願念仏集】
法然上人の主著を、読みやすく構成した平易な口語訳と適切な注釈で補った良書。美しい原文も収められている。

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2010.07.12

スタートは逆境から

ジョセフ・マーフィーの潜在意識による成功法即を活用する場合、よくよく注意すべきことながら、あまり話題にされないことがあります。
もう一度、マーフィーの本をよく読んで確認する必要があるかもしれません。
それは、マーフィーの本には、多くの成功事例が書かれてはいますが、安穏とした状況から何かを達成したお話などないということです。
どれも、貧困、逆境といった苦難の状況の中から始まるものばかりです。
一見、そうでない場合もあるように思われますが、その場合は、その人に深い信仰があることが分かります。しかし、その信仰を得るまでには、苦難を乗り越えた経験があるはずです。
逆境が力を発揮する原動力になりますが、単なる不満ではそうはなりません。
また、自分では深刻だと思っていても、全くそうでない場合も少なくありません。精神が未熟で幼いと、つまらないものが恐ろしいという場合がよくあります。

成功のノウハウを説くビジネス書の中には、単に現状に不満な者達の欲望を掻き立てるようなものが多くあると思います。
「現状に満足しないで、大きな成功を目指そう」といった類のものです。
いわゆる、いくら実践してもうまくいかないというのは、そんな本の読者ですし、ジョセフ・マーフィーの教えが全く効力を発揮しないのも、そんな場合です。
危機的な状況や深刻な問題があるのでもなければ、現状に満足すれば良いと思います。
人間の心は、物質的なこととか恋愛とかいったものには、いつでも不満を感じるものですが、そんなものの満足を求めるのは虚しいものです。

しかし、誰にでも、いずれ本当の人生の危機は訪れます。
その時には、本物の信念とか信仰が必要になります。
逆境の時に役立つ力を得るには、多少の不満があっても、平和な時に慎んで欲望を持たないことです。
ところが、現在の日本では、十分に満足すべき状況にある者の欲望をあおり立てています。彼らの金が目当てなのです。経済大国とは、民衆の金を搾り取る仕組みの上に成り立つものだからです。
豪華でなくても、ちゃんと食べていけているなら満足し、何も求めないことです。
オールコットの「若草物語」で、マーガレット達の賢い母親は「足りない目くらいが丁度良いのです」と言っていました。私は、ごく小さい頃に読んだのですが、この一文だけはよく憶えています。
慎みを知る者には、苦難や逆境は恐ろしいなりをした天使だということが後で分かると思います。

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2010.07.11

行住坐臥

「これをやるために生きている」というものを持っていることが幸せだし、その人には真の自己への変革が起こる。
それは、「寝ても覚めても」という言葉で言い表せるが、文字通り、起きている時はもちろん、寝ている時も継続しているのである。
ある著名なヨガ指導者が、「常に肛門を締めておけ、ただし、寝ている時は(そうでなくても)仕方がない」と言ったが、なら、肛門を締めることは良い訓練ではあっても悟りへの道ではない。
ある、「スターウォーズ」の熱狂的ファンという男が、「起きている時間は全てスターフォーズのために使っている」と言ったが、それなら、過激ではあっても、やはりただのマニアである。
常に危険の中にいる戦場の兵士や、いつも緊張状態にいる諜報活動員でも、案外に気の抜けた時間があり、特に寝ている時は無防備なのだ。彼らが神になることはない。

コリン・ウィルソンの「右脳の冒険」で、普通の男だが、悟りに達した賢者の話がある。
彼は、精神を病んだ妻を24時間、寝ている時ですら監視し続けたのだ。ウィルソンは、彼の緊張が解けた時に彼に変革が起こったと言うが、逆に言えば、彼の悟りが、平穏な状況をもたらしたと言えるのである。
法然は、師と仰ぐ善導大師の「行住坐臥」、つまり、歩いていても、止まっていても、座っていても、伏せていても、常に念仏を唱えよという教えが最も重要であることに気付いた。岡田虎二郎は、法然の気付きを賛嘆し、自分の静坐も全く同じである、つまり、静坐とは常に行うもので、生活しながら静坐するのでは不十分で、静坐しながら生活するようでなければならないと言った。そして、1日中、怠りなく、下腹の力を抜かないことを教えた。

それぞれが何を行うかは縁の問題もある。しかし、世の中に偶然はなく、縁は必ずある。
寝ても覚めても怠りなくやれることが誰にでもある。
それをしていれば、人間にとって最も恐ろしい敵である世間の幻想を打ち破ることができる。
「歎異抄」によれば、親鸞は、念仏の行者は、「天神・地祇(古事記で言う、天神、国神のこと)もこれを敬い、悪魔も手を出せず、自分の悪い行いの報いも受けない」と言ったようである。この念仏の行者とは、やはり、善導や法然の言う、「行住坐臥」、即ち、いついかなる時も念仏を唱える者のことだろう。
岡田虎二郎は、静坐が健康法や何かの訓練として広まるのを見て世から隠れたのかもしれないと思う。つまり、49歳の若さで亡くなった。著名な作家、D.H.ロレンスは、胃の裏側にある太陽神経叢に、科学の理解を超えた驚異の力があることに気付いていた。虎二郎が言った、常に腹に力を入れよと言ったのは2重の意味で重要なのである。どう腹に力を入れれば良いかは、静坐をすれば分かると思う。

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2010.07.10

人生なんて楽なはず

ラマナ・マハルシが教えた真我を実現する(悟りを開くと同じ)方法は、常に自分に「私は誰か?」と問い続けることです。
これは、それを行う時間にやれば良いのではなく、1日中、いつでもやるべきことです。
ただ、これをやったからと言って、何か得をするとも、世俗的な恵みを得られるとも言われていません。実際、マハルシは、生涯に渡り、ふんどし1本しか所有しませんでした。

ところで、マハルシは、実際には、ほとんど会話をしなかったようです。
だから、マハルシが余計なことを話さずに済んだという面もあり、私が余計なことを言うのもやや気が引けない訳ではありませんが、少し話しましょう。
現世的な利益はなくはなく、また、ないはずもありません。
言ってみれば、潜在意識の法則も、引き寄せの法則も比較になりません。
マハルシは、確かに、自分ではふんどし1本しか持ちませんでしたが、帰依者達が素晴らしい住居や道場を布施し、身の回りの世話を真の敬意をもって丁重に行っていました。贈り物は世界中から引きも切らずで、マハルシは直接には一切受取りませんでしたが、弟子達の配慮でマハルシの生活の潤いとなっていたことはあるかもしれません。

マハルシと違い、ニサルガダッタ・マハラジは、世界中から訪れる来訪者達の質問によく答えていました。
その中で、人生は本来、とても楽なものであることを明かしてしまうこともありました。
もっとも、彼らに全く劣らない日本の聖賢である黒住宗忠は、それをはっきりと教えていました。人生は本来、ただ嬉しく面白いものであるはずだと。

このように、何も求めず、悟りへの道をただ行くことで現世においても恵まれることには確かに原理があります。
これについては、法然や親鸞の念仏の教えの中に、微妙なものではありますが、自然な理として明らかに認められます。シャーロック・ホームズ風に言えば、「純粋にして明晰なこと(だよワトソン君)」です。
もちろん、物質的な利益を求めて悟りへの道を行こうとしてもロクなことにはなりません。とはいえ、熱心にやるなら、自然、正しい方向に向かうこともまた、優れた業法の特質です。
マハルシの教える「私とは?」と問い続けることでも、マハラジの教える存在の感覚にしがみ付くことでも、法然や親鸞の教える念仏でも、道元の座禅や岡田虎二郎の教えた静坐でも、そのために生きていると言えるほど、ただ行えば、いかなる意味においても失望することはないはずです。

Living is easy with eyes closed
(まやかしを見なければ、人生なんて楽なものなんだ)
~ビートルズ“Strawberry fields forever”より~

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2010.07.09

異邦人

私が好きな小説として迷わず上げるのは、アルベール・カミュの「異邦人」だ。
また、私が主人公をこれほど愛せた小説も珍しい。それは、ムルシーという、一見平凡で、たいした見所も無い青年だ。
「きょう、ママンが死んだ」
という、冒頭の言葉は有名であるらしい。邦訳は昭和29年(1954年)に出版されている。
ムルソーは、ママンが死んだのは昨日かもしれないと思うが、それはどうでも良いことらしい。ママンは養老院にいて、彼はあまり面会にも行かなかった。養老院までは遠いし、休日を「ふいに」するほどの価値はないからだ。
葬式のために養老院に行くのさえ「おっくうな」雰囲気で語られる。ママンの顔を見ようとしないことで守衛の男を驚かせ(ついに見なかった)、通夜や葬式の様子を淡々と倦怠感をもって描写する(結構面白い)。
ムルソーがママンを養老院に入れたのは、ママンに必要な介護人をつけるだけの収入がなかったからだし、それよりも、一緒にいて話すことが何もなかったからだろう。
だが、彼は、「ママンのことは多分好きだったと思う」と言う。
リリィという、若くて美しい女性がムルソーに、「私と結婚してくれる?」と尋ねると、ムルソーは「いいよ」と即答する。しかし、「私を愛してる?」と聞かれると、「どうでもいいことだけど、多分、愛してない」と言って、リリィを戸惑わせる。
しばらくして、リリィが「結婚しましょうね」と言うと、ムルソーは「君が望むならいつでも」と答える。それでもリリィを愛しているわけではないのだが、いつもリリィに自然な気遣いも見せるのである。

ムルソーは冷血漢でも情緒欠落症でもない。
誰もが嫌って避ける、落ちぶれ果てた薄汚ない老人が、長年飼っていた犬(病気でとても汚い)がいなくなって狼狽していると、彼をアパートの自分の部屋に呼び、老人がいつまで居ようと構わない様子だった。

コリン・ウィルソンは、彼をほとんど一夜で世界的作家にした「アウトサイダー」で、この「異邦人」のいくつかの場面と共に、ヘミングウェイの「兵士の故郷」のこんな場面を取り上げている。
私は「兵士の故郷」を読んでいないし、「アウトサイダー」の記憶もおぼろなので正確ではないが、こんな感じだったと思う。
若い兵士が、母親のいる故郷の家に帰るが、何か気まずい雰囲気ででもあるようだった。母親が、「ママを愛しているかい?」と聞くと、彼はすぐに「いや」と否定する。しかし、母親が泣くか、泣きそうになるかすると、彼は「冗談だよ」と言う。
だが、母親が一緒にひざまずいて祈ろうと言っても、それだけはどうしても出来なかった。

ウィルソンも、サルトルも、「異邦人」について何か難しいことを書いているし、カミュ自身の「シーシュポスの神話」自体が「異邦人」の解説らしが、これも小難しい。
私に言わせれば、ムルソーは意識的にか無意識的にかはともかく、大衆思考に飲み込まれるのを嫌っただけだ。もっと的を得た言い方をするなら、世間の人々が共有する幻想を持っていないし、持つことを拒否しているのだ。
私自身がそうであるし、ムルソーが私自身であると疑うことなく確信できるからだ。
イェイツが「大衆の中に真理はない」と言い、エリオットが作品中で「やつらが求めているのは愛なんかじゃない、憎しみなんです」と書いていたことを思い出す。
戦争中、日本の兵隊は、一人一人はとても良い人なのだが、集団になると残忍なことも平気で行った。それは、どの国でも似たようなものと思う。ただ、日本人の兵隊は極端であったとは思う。

世間・・・学校や会社や社会、あるいは、民族や国家は醜く汚れて歪んだ幻想で出来ている。
世間で成功するためには、このおぞましいものと迎合しなければならないし、それをただ拒否すれば引きこもりになるしかない。
だが、悟りを開けば、荘子が言うように、「世俗にあって世俗を超える」ことができる。
苦しい人は良い位置にいるのだ。よほど苦しくないと、悟りへの道に向かおうとしない。それは浄土仏教で「白道の教え」として示されていることで、法然の「選択本願念仏集」で分かりやすく語られている。
ムルソーがいかにして悟りを開くかを見て欲しいものである。

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2010.07.08

幸運の原理

極めて重要な仕事のために人を雇うとします。
雇われた人達が立派に仕事をやったなら、大きな報酬が支払われることでしょう。
ところで、それが本当に大事な仕事であるなら、雇い主は仕事が終わるまで仕事をする人達を放っておきはしないと思います。
彼らの心身が健やかであるように便宜を図り、保護するはずです。

この世の原理。
取るに足らないかもしれませんが、幸運の原理というのは、こういうものであると思います。
上の喩えの意味はこうです。
最終的な報酬は人間の究極の目標です。
そして、仕事が確実に行われるよう与えられる様々な計らいが幸運です。

人間の最終的な目標は、悟りを開いたり、本来の姿である神仏と一体となることかもしれません。
それは、各個人の願いであるかもしれませんが、宇宙全体にとって望ましく、また、それが実現されることが強く期待されているに違いありません。
なら、そのための確実な方法を取っている限り、必要なものは望まなくとも与えられます。
その確実な方法は、法然や親鸞の浄土系仏教では念仏を唱えることであり、ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と自己を問い続けることであり、荘子では、心を虚しくしてあるがままを受け入れることとされています。
道元の座禅や、岡田虎二郎の静坐では、ただ坐ることです。水野南北なら食の慎みです。
これらのことをやったからとて、現世利益みたいなものがあると直接には言われませんが、これらのことを行うのを妨げられないために必要なものが与えられることはいずれも保証しているのです。

成功法則や成功哲学の根本原理もこれと全く同じなのですが、この最も大切なところが忘れられているため、良いことが起こらず、悪いことが起こる訳です。
考えてみれば、ごく簡単なことですが、欲に目が眩むと真理が見えなくなります。
幸運は求めずとも得られます。それは、我々が気にするようなことですらありません。幸運を与える者が誰か分からないかもしれませんが、喩えて言えば、大金持ちのお父さんが、心がけの良い子供にプレゼントを与えるようなものです。そして、良い心がけとは、子供が立派な大人になるために必要なことをすることです。

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2010.07.07

エネルギーはこうやって引き出す

アントニオ猪木さんの「元気があれば何でもできる」という言葉はよく知られていますし、それは当たり前なほど確かです。しかし、ではどうやれば元気が出るかと言いますと、猪木さんは、それはそれで立派なものですが精神論だったり、身体を鍛えろとか、あるいは、闘魂注入とか言いまして、自らビンタを叩き込んだりされますが、そういったものに付き合おうという人は、元々、元気がある人でしょう。
私も、本当に元気のない人をよく知っていますが、彼らは必ずしも何もせずじっとしているわけではなく、楽しそうに遊んだり、美味しいものを食べたり、音楽を聴いたり、ファッションに熱心だったりしますが、心や身体にとって辛いことがありそうなことは絶対にやろうとしないのですね。彼らは、年が若いとしても老人だし、心が死んでしまっているのを感じます。

プロレスといえば、年を取っても強い人がいるようです。それは、体力はもちろんですが、気力の違いのように思います。
大相撲の元横綱である千代の富士が引退会見の時、「体力の限界、気力もなくなり・・・」と言っていたのが印象的です。
ところで、プロレスで、いつまでも強かった人を見ると、身体の特徴として、下半身が引き締まっているように感じます。具体的には、やや内股で、尻が上がっています。
典型的なのが「地上最強の鉄人」ルー・テーズです。彼のファイティング中の画像を見ると、まるで乙女のように内股です。
また、「人間発電所」と言われ、ジャイアント馬場さんのライバルだったブルーノ・サンマルチノは、見事にヒップアップしていました。
別にプロレスラーでなくても、若い人の身体の特徴は下半身の引き締まりにあると思います。
中年過ぎて痩せている人でも、若い人のような身体とまるで違うのは、やはり下半身の締まり方です。
もし、下半身が引き締まっていたら、実年齢がどうであっても、その人は若いですし、逆に実年齢が若くても、下半身が緩んでいれば若くありません。

静坐、座禅、呼吸法などで、腹に力を入れろというようなことが言われることがあり、それはもちろん、非常に大切なことと思いますが、考えてみれば、どうやれば腹に力が入るのかさっぱり分からないと思います。腹を引っ込めるとか、膨らませるとかなら分かりますが、果たしてそれと同じでしょか?もし同じなら、「腹に力を入れる」なんて言わずに「腹を引っ込めろ」と言えば良いのですが、やはりちょっと違うようです。
心臓を直接速く動かすことができないように、腹に直接力を入れることはできないように思います。
そして、ヨガ、仙道、武道など、いろいろ研究しておりましたら、肛門を引き締めることがそれに通じることは間違いないように思います。有能な指導者達が、なぜ肛門の重要性を強調しないのか不思議なくらいです。
誰が言っていたのかすっかり忘れたのですが、「若いとは肛門の力が強いことだ」というのをよく憶えています。ちょっと目にしたり、耳にしたことで強い印象を憶えることは、エマーソンも言うとおり、内なる神のメッセージである場合がよくあります。
肛門を引き締めることは意識的にできますし、そうすると、腹に力を入れる感覚も分かるのではないかと思います。
死んで生命力がなくなると肛門が開いてしまうそうです。私は見ていませんので、「おくりびと」という有名な映画で描かれていたかどうかは分かりませんが、死体を整えるには肛門を塞ぐことが特に大切と思います。
肛門を常に引き締めていると、自然に内股になり、尻も上がってくるのだと思います。本当に若い身体になります。そして、腹に力が入り、元気も出てきます。
浄土宗の教えでは、念仏というものは常に唱えることが、岡田式静坐法では、常に腹に力を入れることが大切だそうですが、同じように常に肛門を引き締めることの効能は計り知れないものであると思います。


【現代仙道百科―心身改革の秘法体系】
仙道の鍛錬法を写真入りで分かりやすく解説した本格的な実践書。必要な理論や思想も、一般的な言葉で丁寧に書かれています。
長年月を費やし、普通の人々が取り組みやすいよう熟慮して書かれた労作であることは間違いないと思われ、信奉者を多く持つ確固たるロングセラーである訳が分かるように思います。

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2010.07.06

憧れと正義

アメリカで、1929年に漫画が発表され、1930年代からは映画、1960年代にテレビアニメが人気となり、2004年には3DCG映画にまでなった「ポパイ」の主人公であるセーラーマン(水兵)ポパイは、かつてアメリカのスーパーヒーローだった。
ポパイはほうれん草を食べると凄まじくパワーアップするという設定で、子供たちがポパイのおかげでほうれん草を食べるようになったと言われる。以前は、私もそれを良い方法だと思っていたが、今は違う。そんなに嫌なら食べなければ良いし、食べたくないのには何か理由があるはずだ。それは、お菓子の食べ過ぎとか、大人自体に偏食が多いとかで、そちらを先に解決すべきだろう。
ポパイが食べるなら食べるなんていうのは、一種の洗脳手法だし、ポパイが独裁者を崇拝すれば、そのような思想を子供たちに叩き込めるはずだ。そのようなことはいろいろな国で行われてきており、ポパイも戦争崇拝や敵国(日本やドイツ)への敵愾心(憤りや闘争心)を煽ることに一役買っていたと思う。もちろん、日本でも、同じような手法で子供たちを教育していた。現在は、露骨な国家崇拝や戦争賛美を行う国は少ないかもしれないが、根本はそう変わらないかもしれない。
日本では、戦後、鉄腕アトムは、国家や軍のためでなく、正義のために戦っていたが、それは一面的な正義であった可能性が高い。正義の名の下に、アトムは絶対的な暴力を振るって敵を葬った。

正義と言うのは、多分に個人的なものであることを自覚した方が良い。決して普遍的、絶対的正義などない。
CLAMPの「魔法騎士レイアース」のテーマは実は、この世に絶対的正義や絶対的悪はないというものだったようだ。
武内直子さんの「美少女戦士セーラームーン」では、セーラームーンの敵たちは、本当はセーラームーンの恋人のようなもので、かつては1つであったとされていることは、あまり知られていない。
タツノコプロの「キャシャーン」(1993)では、キャシャーンは、ブライキング・ボスとの最終決戦に及んだ時、「俺の憎しみのためにお前を倒す」と、戦いの動機が個人的であり、「俺は俺の手で新しい世界を創る」と宣言する。
同じタツノコプロの「新破裏拳ポリマー」で、ポリマーと戦って破れた女戦士は、最後にポリマーの命を救うと、「あなたの正義、もう少し見ていたい」と言って去る。
しかし、こういったものも、日本人の精神に変革をもたらすことはほとんどなかった。

ギリシャ神話には、デーメーテールという農耕の女神がいる。神々の王ゼウスの姉で、オリュンポス12神の1柱である大女神だ。
デーメーテールは、訳あって、老婆に身をやつして、ある国に入る。人々はみすぼらしい姿の彼女を蔑(さげす)み嫌うが、自分で水汲みをするこの国の王女達は彼女に親切にし、城に連れて行く。このような王女達の母である王妃も優れた人間で、乞食のような老婆の姿であってもデーメーテールを一目見て、にじみ出る気高さを感じて恐れ、自分の席をデーメーテールに譲るが、デーメーテールは応じない。デーメーテールはぶどう酒を勧められるがこれを断わり、挽いた大麦を水で溶かした飲み物を要求し、それを飲んだ。
デーメーテールとその娘コレー(ペルセポーネ)を信仰する人々は、この神話に基き、大麦の粉を溶かした飲み物を飲むようだ。
また、この神話の中で、デーメーテールやコレーは、神の食べ物であるアンブロシアや飲み物であるネクタールを長く絶ったことから、断食も行うようである。
実は、私も、朝、ブラックコーヒーを1杯飲んでいたが、はったい粉(大麦の粉)を湯で溶いたものに換えた。
さて、これはポパイのほうれん草のようなものか?
そうでもあるし、そうでもないとも言える。


【四つのギリシャ神話】
ホメーロス風の詩体で無名の詩人が書いた神々への讃歌の中から、デーメーテール、アポローン、ヘルメース、アプロディーテへの讃歌を取り上げたもの。
誰が書いたものかは分からないが、世界的宗教学者カール・ケレーニーは、このホメーロス風讃歌をとても重視していた。

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2010.07.05

肚(はら)

本物の賢者達の教えを顧みると、神というのは、外のどこかにいるのではなく、我々の内にあることは間違いないように思う。
そして、肉体ということで考えれば、神は頭にいるのではないと思われる。
神が胸にいると思えることもあるが、むしろ、胸は中継点であるように感じる。人間的な思考である頭と神は胸で交わるような気がする。
大自然を司る神は、人体でいうなら腹部にいるのだ。それが、丹田なのか、臍なのか、仙骨なのか、胃の裏側の太陽神経叢なのかは分からないが、むしろ腹部全体が光の球ででもあるようであり、あまり細部にこだわることもないのではと思う。
それよりも、各自で腹の感覚を掴む方が良いと思う。

私は、1年ほど前から、毎日腕立て伏せをやることを日課とし、ほとんど1日も欠かさずに続けている。
あくまで気楽に、軽くできる範囲でやっているが、最初は10回から始め、月に10回ずつ回数を増やしていき、今は110回になった。
70回くらいになった頃は、人の頭が重いことを実感しはじめ、首の疲れを感じた。90回に達するあたりでは、血が首から上に行きにくいためか、頭がぼうっとするし、しんどさも感じてきた。
しかし、数日前から、腹に意識をおいてやってみると、身体が軽く、楽にやれることを発見した。
私の場合、体力強化の意味もあるが、腕立て伏せは、腹感覚の把握のためにやっていたのではないかと思われ、1年近くやってようやく少し分かったようだ。
別に腕立て伏せに限らず、立って両腕を前後に振るスワイソウという軽い運動でも、意識は丹田(臍下10センチくらいの腹の内側)に置くらしい。私も、毎日合計で千回くらいやっているが、腹を意識すると、脚が温かいし、淡々とやるよう心掛けると無心になる。

日本人は、昔から腹というものの重要性をよく理解していた。
ところが、現在、電車の中で座っている人を見ると、大半が尻を前に突き出し、腹がふんぞり返り、背中が曲がっている。これは、腹を捨てているような姿勢であると感じる。
かつて、日本人は、椅子に座っていても、背もたれにもたれず、背筋が伸びていることで世界的に有名だった。
正座ではもちろんだが、たとえ胡坐をかいていても、何かにもたれず、やや前かがみで背筋が伸びているものだった。それだけで自動的に身体が鍛えられていたものである。
現代の日本人は、どうも飽食、美食で腹が出ているので、前かがみになりにくいのも、ふんぞり返りたがる原因であるように思う。
しかし、神である自然と結びついているのは肉体的には腹であり、腹が出来ていないと元気も出ないし、勇気も沸かない。
腹が出来ていないと、頭で考えてばかりであるが、その内容は空虚なもので、結果、不安や不満で一杯になる。姿勢の悪い人の表情を見ると、それがあまりに露骨に表れている。

その気があれば方法は無限にあるので、日本の腹文化を見直し、腹を鍛えることで力をつけ、人生を楽しいものにできると思う。
推薦書を以下にご紹介する。


【肚(はら)】
英文学者、詩人、画家でタオイストである加島祥造さんが、病気をきっかけに腹意識を考えるようになった。広大な彼のバックグラウンドから深く洞察したものだが、分かりやすく書いてくれている。
入門用にも最適と思う。

【静坐のすすめ】
現在では忘れられているが、明治、大正の教育家で、知る人には、釈迦、キリスト以来の偉人と崇拝される岡田虎二郎の思想を、直接に指導を受けた柳田誠二郎さんが分かりやすく説く。
若い頃、ひ弱だった柳田さんは、心身とも強壮となり、日銀副総裁、日航社長などを歴任し、百歳で亡くなるまで、岡田式静坐法を熱心に続けたようである。

【肚】
ドイツの哲学者、心理学者、心理療法家であるカールフリート・デュルクハイムが、日本の腹を説いた世界的名著。デュルクハイムは、日本で禅、弓道、茶道などを学んで腹の意義を悟り、座禅と岡田式静坐法を本国での療法に活かした。
やや難しいが素晴らしい本である。

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2010.07.04

一日中やること

新渡戸稲造は「武士道」で、毎日、必ず実行する修行のようなものを持つことが大切であると言う。
そう言われれば、一流の人物には、単なる日常の習慣や生業とは別に、特別に行う何かを持っているのではと思う。
新渡戸稲造自身は、水行(冷水を浴びること)と決めたが、風邪をひいて高熱のある日も休まずに実行して医者に怒られたというが、そのくらいの心構えは必要と思う。

確かに、こういったことの効果は大きいのではと思うが、さらに先に進み本物になるには、一日に一度の制限付きでやるのではなく、一日中やることが大切である。
毎日、瞑想をする習慣があるのは良いことであるが、それがそんなに良いと分かれば、一日中やらないといけない。
この意味は難しいかもしれない。
岡田式静坐法を創案した岡田虎二郎は、静坐は一日中やるもので、生活しながら静坐するようでは駄目で、静坐しながら生活するようでないといけないと言った。
いくらか具体的には、一日中、腹に力を入れろと言ったという話があるが、これには意味するところがあるのだろう。
岡田虎二郎は、腹に力がつけば金はいくらでもできると(おそらくどうでもいいことのように)言ったが、それは直感的にも正しいと思う。
その虎二郎も崇拝した法然は、念仏の教えを説いたが、やはり一日中、実際に念仏を唱え、その数は一日6万回であったという。まさに、念仏しながら生活していたと言うか、生活イコール念仏であった。
また、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、常に下腹に力を入れていたことが伝えられている。
腹に関しては、常に丹田(へその下10センチ程度の内側あたり)に意識を置けと言う者もいるし、内海康満さんは、意識すべきは本当は仙骨であると言う。
また、胃の裏側の太陽神経叢という者もあれば、臍であると言う者もいる。足立育朗さんは、意識を集中しろと言ったのではないが、潜在意識は膵臓(すい臓)にあると言う。
いずれにしても腹なのだ。アイドル歌手の中にだって、腹に手を当てると落ち着くので、歌う時も腹に手を当てると言う人が昔からよくいたし、そんな人は本当に魅力があった。あなたもやると良い。
武士はなぜ、腹を切ることで誠意を示したのかにも意味があるはずだ。

ラマナ・マハルシは、真我を実現する(悟りを開くとか、真の自己である神であることを実現するといった意味と思う)には、「私は誰か?」と自己を問い続けることが重要だと言うが、それは常に行わなければならない。
ある教養のない女性がマハルシに「私でも真我を実現できる方法を教えて下さい」と尋ねると、マハルシは、常に自分に向かって「私」と心で言い続けなさいと答えた。「私」というのは、最高のマントラ(呪文)であり、「オーム」というマントラでさえ2番目なのだと言う。
あるいは、「どんな想いが起こっても、その想いを追いかけず、『この想いは誰に起こったのか?』と尋ねよ。答えは、私にであるに決まっている。そこですぐさま、『私は誰か?』と尋ねよ」と言う。
マハルシの場合、身体の中で重要な部分はハートの座で、それは両方の乳頭の中心から指2本分右にあると言う。

禅の極意とは、やはり一日中やることであるらしい。飯を食うことも禅なら、寝ることも禅、女を抱くことも禅である。
心の一部の力を使って行うことにあまり意味はなく、大きな成果もない。心の全てを使った活動こそが我々を高みに押し上げるのだと思う。

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2010.07.03

ガーディアン(守護者)

有名な精神科医のフロイトは、心の中には、自我とは別に超自我というものがあると言っていました。
超自我とは、道徳的、倫理的な心です。例えば、サイフを拾った時、「誰も見ていない。もらっておこう」と思っても、「そんなことをしたら落とした人が困るし、そもそも人の道に外れている。持ち主に返せ」という考えを起こさせたり、お腹一杯なのに、美味しそうなケーキがあるので食べようと思っても、「食べ過ぎだ。我慢するんだ」という気持ちにさせたりするのが超自我です。
ただ、フロイトの言う通り超自我というものがあったとしても、超自我のあり方によっては、あまりに融通の効かない偏屈な人間になったり、あまりに潔癖症になったりという弊害もあるのかもしれません。
ところで、守護霊と言いまして、自分の先祖の中で高度な精神に達した霊が導いてくれると言う人々がいます。アメリカでは、半数以上の人が守護天使(ガーディアン・エンジェル)の存在を信じているという調査結果があるようです。
人間とは弱いものであるが、自分以上の何かが自分を導いてくれるという思いが、実感としてもあると感じているということと思います。
しかし、激情や強い欲望に駆られてしまった人間には、守護霊や守護天使の導きも聞こえないようです。

私は、守護霊、守護天使、あるいは神であったとしても、それは自分の外にある第三者ではなく、自分の内にあるものだと考えます。
ところが逆に、それらが、物理的にも自分の外に見出される場合もあります。
ラマナ・マハルシはこう言っています。
「師(グル)は人の姿をとって現れることもある。しかし、師は自己と異なるものではない。師は真我(本当の自己)である」
なぜそんなことが起こるかというと、人が煩悩の中で苦しみ、どうにもならない状態の時に、慈悲深くも神が人の姿で現れるということです。ただそれは、必ずしも人としてではなく、出来事として現れることもあると思います。

守護霊、天使、神、グル・・・いろいろな呼び方をしても、同じものと思います。それらは、我々の中にいます。また、それは自分自身の本質であり、自己と異なるものではありません。
そして、心が静かになれば、それは自然に現れます。
荘子が言うのは、そんなことだと思います。荘子は、心を静かにするために、思慮分別を離れ、判断せずにものごとをあるがままに見ろと言います。
賢い人が到達する結論とは、それしかないようです。
まあ、凡人たる我々としては、あまり欲をかかず、慎みを持つよう心掛けることが肝心と思います。
しかし、言うのは簡単ですが、実行するとなると難しい。
現在は、欲望を強く肯定し、慎みを馬鹿げていて恥ずかしいことであると言わんばかりの風潮が強くあります。それは当然で、それでないと、国家が目指すように、経済が過度に(不必要に)発達しないからです。
しかし、そんなものに取り込まれて悲惨を味わった末に滅亡する必要はありません。
食を慎むと、欲望を押さえることが簡単になります。食べ過ぎた余分なエネルギーが、異常な食欲や性欲になるのだからです。
ただし、あまりに極端な食の慎みも、それによって過ぎた何かを得たいと言う欲望です。あまり良い結果になりません。せっかく食を慎んでいるのに、心が歪んでいたり、自我の強過ぎる人、あるいは、無気力な人もいます。
質素なもので十分に美味しいと感じるように食べればと思います。
ラマナ・マハルシでさえ、必要とされることは、適度な食事、適度な睡眠、適度な会話と言ったようです。彼は菜食者ですが、極端な少食者ではありませんでした(現代の日本人に比べるとかなり少食でしょうが)。
守護霊、守護天使、神と感じられるものと一体になれば、望まなくても幸運に恵まれるでしょう。いえ、望まない方が良いようです。


【フロイトの精神分析】
絵を多用し、平易な文章でフロイト理論を分かりやすく説いた良書です。
私はフロイト主義者ではありませんし、フロイト理論には批判もあるのですが、概要としては知っておくべき貴重なものと確信します。
フロイトと決別した感もあるアブラハム・マズローも、自分の仕事は、フロイトの深い意味の探求であったと言います。

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2010.07.02

悪魔封じの意味

法然や親鸞は、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えさえすれば、死後、極楽浄土に生まれることが出来ると説きました。
これは、心に安らぎを得、幸福になれるということです。なぜなら、人間の幸福とは、心の平和に他ならないからです。
そして、その意味する究極のところは、念仏を唱えれば仏になれる。つまり、悟りを開けるということになります。悟りを開くというのは、仏教における最高の目標でしょうが、それが念仏を唱えさえすれば達成できると言う訳です。

法然や親鸞の教えは、つまるところ、これだけです。
では、その根拠、つまり、なぜ、念仏を唱えさえすれば悟りが開けるのでしょうか?
これを探ると、とても面白いのです。
親鸞の場合は、「だって、私の先生の法然がそう言ったから」です。
それなら、法然の根拠が最も重要となりますが、それについて、法然は、結局のところ、「経典にそう書いてあります」と言っているに過ぎません。
ただ、経典というのは、そう素直に書かれているわけではありません。しかし、長年に渡る自身の研究や、先達の偉い僧侶の研究から、間違いなくそう言えますと、法然は言うのです。

これだけでは、どうも釈然としません。
それは、現代の情報を沢山持てる我々だけでなく、当時の知識層からも、そう思われたのだと思います。
ところが、それに対する法然や親鸞の弁明がまた、とても面白い。
「だって、私にはそれ以上のことは出来ませんから」
と言うのです。
「他のことをやる能力が私にあれば、そりゃ、やるかもしれませんよ。しかし、私は駄目なやつでしてね。これしか出来ないが、これなら出来るから、ただこれだけやるんです」
ということなのです。
ただ、これは庶民のために言ったと考えることができます。
法然も親鸞も、おそらく天才です。法然は幼い頃から神童の誉れ高く、親鸞も、極めて高度な著作を書くなど、実際は2人ともただものではありません。
しかし、その彼らが、「私には他には何もできません。唯一、私にだって可能な念仏をやるだけです」と言えば、誰もが安心して念仏にすがれるのです。

まだ納得できない人が多いでしょう。いえ、全く納得できないのが普通かもしれません。
しかし、大変なことがあります。
それは、法然や親鸞は、本当にそれを貫いたということです。
法然は1日6万回、念仏を唱え、死の直前、「私には念仏しかない」という断言と保証を書いて残したくらいです。
親鸞も、常日頃、それを証するような生き方をしていました。

確かに、念仏の教えというのは、良く言えば方便(便宜的手段)ですし、言ってしまえば幻想です。
しかし、人間というものは、幻想の中でしか生きられません。
なら、念仏という強い幻想を作って、全ての幻想をその中に封じ込んでしまえるのかもしれません。
これは、念仏だけではなく、あらゆる宗教的な教えや信仰といったものは、本当は、そのためにあるのかもしれません。
人間を支配する幻想が悪魔であるなら、「毒をもって毒を」、「目には目、歯には歯」とばかりに、「幻想には幻想」で、魔を持って魔を封じる悪魔封じは、そんな原理に則っているのだと思います。

後は、効率の問題です。
ラマナ・マハルシは、最大の幻想は、「私」という想いであることに気付き、それを絡め取ってしまうのが一番早いと確信したのだと思います。


【あるがままに】
ラマナ・マハルシの教えを読むなら、この本がお薦めです。
巻末には、マハルシが沈黙の行を行っていた若い時、質問者に砂の上に指で書いて答えた教えで、後にマハルシ自身、「真我を実現(悟りを開く)するために十分」と言った小文「私は誰か?」を収録しています。

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2010.07.01

子供たちのための学校と教師

学校では、試験で良い成績を取るためにがんばることが、当然良いことであり、正しいことであるという絶対的前提を強要する。
しかし、私は、ごく幼い頃からそれを疑い、中学に入る頃には全く信用しなくなり、現在も自分が正しいことを確信している。
もちろん、計算が出来たり、算数や数学の便利な方法を知っていたり、将来、歴史や文学や科学等に興味を持った時にスムーズにそれに取り組める基礎を持っておくことは良いことだということまで認めないわけではない。
だが、そのために必要な範囲は、現在の学校の履修内容よりはるかに少ないことは間違いが無い。
そして、いろいろなことに興味を持てる感性を破壊するような学校教育になっているなら、それは完全に間違いであるが、アインシュタインはそうなってしまっていることを指摘していた。
アインシュタインは、子供の頃から、現在の日本とほぼ同じと思える学校教育に反発し、教師の迫害を受けると沈黙で応えた。ガンジーの無抵抗主義のようだ(ガンジーに関して、無抵抗主義というのは間違いで非暴力主義と言うのが正しいという方も多いと思うが、私はどちらも正しいと思っている)。
しかし、8歳で学校を自主的に退学したエジソンは、特に大学は無用であると、経験と実績をもって断言したが、アインシュタインは、自分で考える場であればという前提で大学の価値は認めていた。
幼稚園中退のイツァク・ベントフは優れた医療機器エンジニアだったが、真理は自然の中にあると言い、自然に学んで、優れた医療製品を開発した。政木和三さんも、自然の中にある驚くべき叡智に比べれば、人間の知恵など取るに足らないと言う。
神道やギリシャ神話には、自然崇拝の信仰が強く感じられ、科学はなくとも、これにより人々は偉大な知恵を得ていたと思う。

最低限の読み書き計算は修得する必要があるが、後は、成績は悪くて良いし、試験のことなどどうでも良いので、自分が良いと思うことを勉強すれば良いと思う。
私は、中学2年からは学校の授業には一切参加しなかったが、元々が授業を聞いて何か解ったという経験がなかったので、迷わずそうした。
1つには、学校は年長の子供が年少の子供を教えるような場にしないといけない。もちろん、やりたい子がやればよく、現在の学校らしい画一的な強制は無用だ。教えるのが好きで上手な子は多いし、教えることで学ぶことは非常に多い。
アインシュタインは、彼の偉さを知らない子供に学校の宿題を手伝ってくれるよう頼まれると、喜んで強力し、自分も多くを学べたことを感謝していた。
教師は、ルドルフ・シュタイナーが言うように、空気のような存在で良い。
フランス最大の作家の1人であるアルベール・カミュは子供の頃、家が貧しく、勉強に身を入れることができない境遇にあったが、彼の教師であったルイ・ジェルマンはアルベールの才能を惜しみ、特別に個人教授を施し、奨学金を得られるよう推薦し、アルベールはリセ(日本の高校にあたるフランスの学校)に入学できた。後にノーベル賞を受賞したカミュは、出版されたその時の講演録をジェルマンに奉げ、深い感謝を表した。
アインシュタインも、1人、非常に感謝していた科学教師がいたのだが、教師の方はアインシュタインのことを忘れていたようだ。
優れた教師が空気のようであると言うシュタイナーの言葉が少し分かるような気がする。


【アインシュタイン物語】
最も簡易で読みやすいアインシュタインの伝記。

【ベントフ氏の超意識の物理学入門】
科学者には読み通せないという、学校のものとはまるで異なる物理学。
西洋の科学と東洋の叡智を融合し、宇宙の真理に迫る。多少の科学的概念は出るが、ベントフ氏は幼稚園中退であり、それ以上の学歴があれば問題ないだろう。

【瞑想と祈りの言葉】
神秘学者であると共に、万能の天才ともいえるルドルフ・シュタイナーの、宇宙と響きあうマントラ集。
教育者としても世界的に知られるシュタイナーの、学びや生活における自然で美しい規範にもなっている。

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