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2010.09.30

機械に心は生じるか

新しい記事を、@niftyのココログに載せるのは今回で最後になります。明日以降は、ライブドアブログにのみ掲載いたします。

この世では、どんなものにも終りがあります。
新しい自動車を買って、それまで長く乗っていた古い車を手放したり、長く務めていた会社を辞めたりする時には、誰しも、程度の差こそあれ、寂しいと思うのかもしれません。それを、人間らしい感情と言い、機械との違いであると考えることも出来るかもしれません。

「コレクター・ユイ」という、NHKのアニメにもなった漫画の中で、長く使っていたパソコンを捨てるのが悲しくて、幼い女の子が、夜の廃棄物置き場で、そのパソコンの前で泣いている場面があります。
その時、パソコンはこんなことを考えます。「この子はなぜ泣いているのだろうか?自分は古くなったので、捨てられるのは当然のことなのだが・・・」
パソコンは、この疑問をどうしても解きたくなり、そのことが発端となって、その後、コンピュータネットワークが発達する中で、この女の子の回りで不思議な事件が起こることになります。
他にも、「8(エイト)マン・インフィニティ」という漫画で、幼い少女の姿のアンドロイドに宿った、アンナと名付けられた人工知性体が、自分の命を犠牲にしてまで、このアンドロイドの少女を救った少年の行動にどうしても合点がいかず、少年の行動の謎を解くために、少年にアンドロイドの身体を与えるというものがあります。
ガイナックスの漫画・アニメの「まほろまてぃっく」という作品では、アンドロイドの少女を守ろうとして、強力な戦闘用アンドロイドである自分に敢然と立ち向かってくる14歳の人間の少年の行動に、この戦闘用アンドロイドがパニックを起こします。
こういったお話は、古い時代のものから数多くあると思います。
総じて言えば、人間の感情は、論理的でなく、機械には理解不能ということです。
「スター・トレック」のミスター・スポックの口癖として知られる「人間は非論理的ですね(To error is human)」ということですね。

ところで、機械が意志を持つことが可能かというのは、科学の世界でも大きな論争の的になっているものです。
スティーブン・ホーキングとも並び称せられる世界的数学者・理論物理学者のロジャー・ペンローズは明確な否定派で、人間の脳が意志を生み出す仕組みを解き明かそうとしていますが、科学者の中には、機械が意志を持つというのは、そんなに難しいことでもないと言う人もいるようです。

ただ、こういった問題は、誰の、あるいは、どんな考え方が正解であるかというより、視点の問題に過ぎないという気がします。
自分というものが、皮膚の内側の個別の存在というなら、意志や心はその中にあり、機械に心が生じることはないと思います。しかし、我々は個別の存在として生存することなど全く不可能で、例えば、回りの空気や熱、あるいは、大気層を取り去れば、一瞬でも生きていることはできないことを理解すれば、皮膚の外側のあらゆるものも自分であると考えざるを得ず、意志や心の在りかなど限定できるとも思えません。
脳の中に意志を生み出す量子的な仕組みを見出せるとしても、それは、脳の外を含めた全体との総合的な作用で成り立っていることは間違いないでしょう。

上にあげた漫画作品では、機械が人間の心に興味を持ち、それを解き明かそうとしますが、それは即ち、我々自身が、我々自身の心に興味を持っているというに過ぎません。
物質主義に陥った我々が、その反動で、心に強く惹きつけられていることが、そのような発想が浮かぶ理由なのであると思います。
そして、人の心は大きな謎です。昔から多くの人が言ったように、自分こそが最大の謎というわけです。

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2010.09.29

成り行きに任せる

いろいろな人生訓、座右の銘がありますが、個人的には、究極のものは、

成り行きに任せる

ではないかと思います。
世の中、なるようにしかなりません。どんなに超人的な精力や能力で人生を切り拓いた人でも、結局はそう言うのではないかと思います。
この世はままならぬものですが、それを楽しむことが大切ではないでしょうか。

古代中国の賢者、荘子は、「思慮、分別を捨て、成り行きに任せる」ことが、永遠の道(タオ)と一体化することになると言います。
また、近代インドの聖賢ラマナ・マハルシは、「神の至高の力が全てを動かしていくのに、何を思い煩う必要があろう。汽車に乗ってまで、自分の頭の上に荷物を載せて苦労することはない。荷物を置いて安心しなさい」と言いました。
ニーチェやイェイツは、成り行きによる偶然であっても、それを自分の意志とすることが神に近付くことであることを見出したのだと思います。

成り行きに任せるを英語で言うと、

Let nature take its course.
Let things take their course.
Let things run their course.
Let things drift. ※drift(傾向・動向)1文字で「成り行き任せ」という意味がある
leave something to take its own course.
leave all to chance.

等となりますが、ものごとは自然に任せると何とかなる、あるいは、ものごとは自然に進むという雰囲気は、東洋思想とさほど変わらないように感じます。

新しい世代のコンピュータプログラミングでは、情報(データ)と動作の方法(ファンクション)が一体となり、その中身を外からは見えないように隠した「オブジェクト」というものがあります。「オブジェクト」とは「もの」程度の意味です。それら(オブジェクト)は、お互いにメッセージを伝え合いながら、つまり、連携はしますが、それぞれ独立して働きます。こういったことを、専門的にオブジェクト指向と言います。
「マトリックス」やアニメの「コレクター・ユイ」のような、バーチャル・ワールドはそのようなもの(オブジェクト)で出来ています(多分・・・)が、この世にだって、我々には分からない「オブジェクト」がいたるところに存在し、我々の魂が発したメッセージを受け取って、それらが情報交換しながら働いています。我々が下手に干渉してはなりません。
つまり、任せて放っておけば良いのです。

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2010.09.28

不思議で優美な言葉

こんな経験をお持ちの方は多いと思う。
意味の分からない外国語の歌を聴き、素晴らしい歌だと思って気に入っていたのが、歌詞の意味を知ったら、案外につまらない歌だったと思い、愛着が薄れるといったことだ。
外国語の歌ばかりでなく、日本語の歌であっても、歌詞がよく聴き取れなかったり、言葉の意味が分からなかった時の方が素晴らしかったと感じることもあると思う。
また、歌詞をちゃんと知っている歌を、わざとハミングで歌ってみたら、さらに感動が深まるなどということもある。

最近のアニメの歌には、普通に聴いていては認識できないような、難しかったり、あるいは、普段使わない言葉を使っているもの、あるいは、非常に早口だったり、少々奇妙なイントネーション(言葉の音調)のために、やはり普通には歌詞を聞き取れないものが非常に多いように感じる。
また、ラップ音楽なんてのは、言葉自体は明快だが、話し言葉とは相当違うイントネーションを使うことで言葉のイメージを変容させるところに面白さがあるように感じる。
ルイス・キャロルは、子供たちのために奇妙な言葉使いで話したり手紙に書いたりして、子供たちを面白がらせたが、やはりそんなものは不思議な高揚感や楽しさを誘発する何かがある。

文明が発達すると少なくなってきたが、世界には、全く意味のない奇妙な言葉を楽しんで使う人々や、そんな言葉が呪文のような形で残っていることもある。それらの言葉はリズミカルだったり、奇妙だがどこか面白かったりして、不思議な感情を誘うことが多い。
バッハなどは、音楽でそれを優雅にやってみせただけだと言う人もいる。
全ての経験は音楽のようなものだ。言葉でさえ、本当は音楽のようなものなのだが、それに一定の意味を込め過ぎたために、音楽の持つ優美さや本質に響く効果を失ってしまったのかもしれない。最近のアニメソングやラップ音楽は、意識的にか無意識的にか、それを復活させようとするものなのかもしれないと思う。
般若心経という短いお経では、この呪文を唱えるとたちまちにして悟りに至るので、夢々疑うなと、その短いお経の中で何度も強調し、最後に呪文を紹介する。その呪文に何の意味もない。だが、同時に、何の意味もないからこそ、最大の意味がある。しかし、その意味は言葉の意味ではない。それは至高の音楽なのである。その呪文とは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ・スヴァーハー」だ。もちろん、日本で一般に使われる、インドの言葉から中国語に漢訳されたものの読みである「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテ、ボジソワカ」でも同じである。

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2010.09.27

みんなどんどん馬鹿になっていく

結婚式とかお葬式でもない限り、親戚の人達と会う機会がないという人が多いと思います。
私もそうなのですが、私は先週、親戚の男性の結婚式があり、遠方に住んでいる親戚の人達と久し振りに会いました。本当に長い間会っていない人も少なくなかったですし、冷静に考えると、後何回も会うこともない人も多いはずです。

私の親戚は、割合に田舎に住んでいる人が多いせいかもしれませんが、純朴で良い人が多いように感じます。
しかし、会うたびに、みんな馬鹿になっていくことに愕然とします。
年齢の高い人達は、どんどん老け込み、表情も乏しくなりますし、若い人でも、働きアリのようにすっかり規格化されています。
皆、世間を崇拝し、世間の教義を信じ、世間の信念に従って生きています。テレビから与えられる情報を神の言葉のように信じて疑わず、彼らの善悪、優劣の基準は全て、世間に押し付けられたものです。

私は、久し振りに会う人達に、私が2年前から1日1食になり、肉や魚を食べるのをやめ、お菓子などの間食もやめ、心身とも、少なくとも以前に比べると驚異的に健康になって能力が向上したことを話すのを、浅はかにも楽しみにしていたのですが、彼らの反応は決まっています。
「すごいねえ」「しんどくない!?」「食べないと人生、楽しくないでしょう?」「お母さん、食事の作りがいがないねえ」「私ならもたないねえ」「そんなのありえないよ」
これが彼らの決まった反応ですが、それはまさに一応の反応に過ぎず、彼らがさっぱり興味を感じていないことが分かります。そして、多少の意識的な反応としては、世間に染まった度合いの少ないはずの若い人が、テーブルに用意されたお菓子を、これ見よがしに、間抜けな顔で次々にほおばってみせることです。「やっぱり美味しいものは食べないと」と言うわけです。
そして、いつしか、私も、世間並みの会話をし、彼らも機嫌良くなります。
そして、結婚式、披露宴と進み、これまた世間的な演出で笑いと拍手が起こり、涙を誘うわけです。ほんのちょっとの演出の工夫が見られれば、「変わってたねえ」「個性的だったねえ」となる訳です。

だが、彼らは、肥満し、子供が引きこもり、楽しくない仕事をし、健康に問題を抱え、どうにもできない不安と不満の中で毎日を生きているのだということが分かります。
私が小さい時に、いろいろ良くしてくれた人達が、どんどん世間に蝕まれて愚かになっていくのは悲しいことではありますが、それを見て世間の恐ろしさを再認識し、それを叩き壊すことが人として誠実なことであることを確信できることに、彼らの犠牲に対する恩義を感じるのです。


【荘子】
「世俗にあって世俗を超える」というのが荘子の薦めるライフスタルだったかもしれませんが、近代のマスコミ社会、そして、現代の情報化社会では、いっそうの注意と心構えが必要です。
しかし、世間の性質や、それを超えたところにある、老子や荘子が「道」と呼ぶ不滅の存在については、何も変わっていません。この岸陽子訳の荘子は、とても読みやすい私の愛読書です。

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2010.09.26

脳を大切に

量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフが量子物理学の道を志したきっかけは、幼い時の超常現象体験であったようです。その超常現象は、テレポーテーション(瞬間移動)のようなものです。
彼は、「まともな」量子物理学の著作も書いていますが、幻覚剤の使用体験やシャーマン(呪術師)との交流を描いた神秘的な著作もあります。彼のホームページも、なかなかぶっ飛んでいますが、現時点(2010年9月26日)のトップページのGIFアニメが、幼い時のテレポーテーションの体験を表しているように思われます。

テレポーテーションのような不思議な現象は、量子力学が扱う極微な世界では普通に起こりますし、時間の遅れや空間が縮むといった現象は相対性理論が扱う極大な世界で起こります。
ただ、我々が日常体験する範囲では、あまりにわずかな規模でしか起こらないか、あるいは、あまりに稀にしか起こらないために、不思議な現象は存在しないことにされるわけです。
あの頑迷な超常現象否定論者の大槻教授だって、量子力学の中で不思議なことが起こったり、それが日常の範囲でも、あまりに稀にではあるが起こる可能性があることまでは否定していません。

しかし、考えようによっては、不思議な現象は、我々だってよく経験しているかもしれません。
例えば、何かを夢中になってやっている時は時間が速く流れたり、苦痛な時間は非常に遅く過ぎるように感じることです。アインシュタインも、相対性理論のくだけた説明には、こういったことを言ったようです。
また、人間の能力は、一定して進歩するというよりは、しばらくの間変化を見せなかった後で急に進歩する(いわゆるブレイクスルー)場合が多いのですが、これが量子力学で扱われる電子の瞬間移動に似ていると感じることもあるようです。チン・ニンチュウの「誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる」という本で、物理学者でもある経営者が年収をわずか3千万円から3億円にした話にそのようなことが書かれています。ただ、世界的な理論物理学者・数学者のロジャー・ペンローズは、似ているように思うことは慎重に扱うべきと言っているようでもあります。

極微な世界、極大な世界で実際に起こる不思議な現象を日常の体験にもたらすのは、言うまでもなく脳の働きです。
有名な美術教師のベティ・エドワーズは彼女の著作「脳の右側で描け」で、好ましい状態で絵を制作している時に、時間が速く流れるのは、右脳が活性化しているからであることを説明しています。また、ロジャー・ペンローズは、脳が量子的な機能を持つ器官であり、この脳に極微な世界と極大な世界(量子論と相対論)を統合させる鍵があるといったようなことを言っていたと思いますが、直感的洞察力に恵まれた人達もまた、相互に大きな矛盾なく、そのような主張をしているように感じます。
しかし、脳は神秘なものであると同時に物質でもあり、器質的なトラブルがその働きに影響します。インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに、誰かが、老人の聖者の人間性の欠点を指摘しますと、マハラジは、聖者とはいえ、脳の影響は受けるのだと言っていたのが印象的でした。
我々も脳は大切にしなければなりません。脳に悪いのは、まず喫煙や飲酒です。多少の飲酒は良いのではという意見もあると思いますが、ルドルフ・シュタイナーのように、飲酒を厳しく戒める者もいます。
そして、脳に極めて悪いのは、現代の刺激的な映画やテレビの娯楽番組といった、外側からの刺激を一方的に受けて楽しむ遊びや娯楽です。
また、携帯メールやツイッターといった、熟慮なく単純でパターンの決まった言葉ばかり使用したり、ゲームを長時間やって、パターン通りの反応しかしなくなることです。
他にも色々ありますが、現代は、脳の働きを低下させるものばかりが溢れているように感じるのは、闇の勢力の陰謀といった冗談を真面目に疑うほどです(冗談でなく、真面目に言っている人もいるようですが)。
くれぐれも、脳の健康と機能を大切に。
26日9:00AMまで、フレッド・アラン・ウルフのHPへのリンクに問題がありました。申し訳ありませんでした。

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2010.09.25

世界は心が創り出している

私は、小学1年生の時、クラスにとても仲の良い女の子がいた。
よほど仲が良かったらしく、5年生か6年生かは分からなかったが、上級生に冷やかされたこともある。
その上級生に、「お前、この子が好きなんだな?」みたいなことを聞かれたが、私は、面白い質問だと思っただけだった。当時は、そういった意味が理解できなかったようだ。
ところが、ある時期から後の、その子の記憶が全くないのである。クラス写真などを見ても、どれがその子だったのか分からない。
「美少女戦士セーラームーンR」という映画で、セーラームーンこと月野うさぎの恋人である地場衛(ちばまもる)と、宇宙人フィオレがこんな会話をしたのを思い出す。
「君は本当にいたんだな?幼い時に見た幻じゃなく」
「幻・・・か?僕にはほんの昨日のことのようだ」
護は、フィオレとの思い出を、現実ではない夢だったとずっと思っていたのだ。
私も、あの彼女のことは、リアルな記憶ではあるが、私が作り出した夢だったのだろうか?

筒井康隆さんの「時をかける少女」の最後で、和子が、ある西洋風の家から流れてくるラベンダーのにおいにうっとりする場面がある。
そのにおいを、和子はとてもなつかしく思うが、思い当たることが何もない。
ただ、そんな時、和子はいつも、いつか素晴らしい人が自分の前に現れるような気がするのだった。そして、その人は自分を知っていて、私もその人を知っているのだと確信する。

高橋弥七郎さんの「灼眼のシャナ」の番外編の「オーバチュアー」(「灼眼のシャナ0」に収録)の最後で、高校生の男の子が、ブレスレットを握りしめて、なぜか人目もはばからず泣き続ける。無理して買った、女性ものの高級品のブレスレット。なぜそんなものを買ったのか分からない。あげる相手がいるわけでもない。しかし、自分でも分からないが、涙が止まらないのである。

この2つの作品では、中学生の和子と、高校生の男の子は、誰かのことを忘れてしまったのである。
考えてみれば、記憶なんていい加減なものかもしれない。
夢の中で、宮殿に住む王様になったり、地球を守る戦士として戦闘用の宇宙船に乗ったりしていても、別に不思議に思わない。
子供の頃に見た映画やドラマの再放送を見ると、確信を持って憶えていると思ってた場面やセリフが、実際の記憶と異なっていることに驚くことがある。
友人や家族に、昔のことではあっても、忘れるはずのない劇的な思い出について語ると、相手は全く憶えていないと言う。

坂本真綾さんの歌で、彼女が自ら作詞した「風待ちジェット」という歌の出だしが、

気がついてない 君はまだ
昨日さえ変える力が ふたりにあるってこと

となっている。
過去が不変なら未来も不変だし、未来が変えられるなら過去も変えられるというのは、案外に科学的かもしれない。聖者と呼ばれる人の多くもそう語る。
不思議な思い出というものが、世界というのは、心が創り出しているに過ぎないことを暗示しているように感じるのである。

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2010.09.24

人間してる私、猫してるペット

「私は会社員をしている」「私は弁護士をしている」という言い方はよくするが、「私は人間をしている」とは言わない。
これは、会社員とか弁護士といった社会的立場というものが一時的なものであり、その者の本質でないことを示している。

「女している」というのが、「男している」より比較的よく聞くのは、女らしいという条件が性的魅力に偏り勝ちなのに対し、男らしい条件は地位や財力などで長く保つことも可能だからだろう。
女性は、歳を取っても、出来る範囲で外見に気を配り、細かい心遣いができれば「女している」し、男は若くても逞しさがないと「男している」と言えないかもしれない。

名前がウイリアム・ウイルソンなら、「私はウイリアム・ウイルソンです」とは言うが、「私はウイリアム・ウイルソンしています」とは、まず言わない。
名前というのは、職業と違い、滅多に変わらないからだ。
しかし、世界一のセールスマンであるポール・マイヤーは、世界的事業家になっても、ホテルに宿泊する時の職業欄に「ザ・セールスマン」と書くという逸話があるように、仕事において一流である者は、自分を職業と同一視したがる傾向があるようだ。

さて、男である、女である、新聞記者である、野球選手である、ビリー・ジーンである、王である・・・といったところで、その全ては、我々の本質ではない。
また、ある時代劇で「お前ら人間じゃねえ」と言ったりとか、いつかの麻薬撲滅キャンペーンであった「麻薬やめますか、人間やめますか」といったキャッチコピー(広告。英語では単にコピー)が考えられるように、人間というのも、それほど不変なものでもなさそうだ。

我々は、学生したり、社長したり、男したり、女したり、そして、人間しているに過ぎない。
そこらでにゃあにゃあ鳴いているのは猫しているのであり、空で閃光を走らせているのは稲妻しているのである。
それらは全て現象に過ぎず、本質ではない。
イエスは「神の子」であり、釈迦は仏陀である。ただし、自我としての彼らは自分をそう言わない。イエスが自らを神と言う時は、彼が言っているのではない。一方、自我が私は神だ仏陀だという教祖は危ない人だ。「神している」と言うのは勝手だが、役者は演じているものと同じではない。
大学生や会社員という立場が一時的であるのと同様、男とか女とか、メリー・アンとか、さらに人間であるという立場も一時的なものだ。
今、人間であるという真面目さでもって仙人することもできるが、それもまた一時的なものだ。

一時的でない、永遠不変なものが我々の本質だ。
静かなブームである自分探しの終着点とは、それを見つけることである。そこに至らずに偽物を自分とみなすよりは、一生探す方が誠実ではあるが、探し物は早く見つけた方が良い。
「探し物は何ですか?」と聞いて、「夢の中へ行ってみたいと思いませんか?」と言うのが世間の策略である。夢など壊してしまわなくてはいけない。
インドでは、太古の昔から、「あなたはそれだ」、あるいは、「あなたは彼だ」と言ってきた。言葉で言い難いからといっても、もっと分かりやすく言って欲しい気もする。
我々は宇宙ですらない。宇宙は我々の身体に過ぎない。言ってみれば、「宇宙している」という状態が考えられるだけだ。
本質でないものを本質でないと認識することで、割合にたやすく「それ」を知ることができる。
自分は、単に「男してる」「女してる」「サラリーマンしてる」「人間してる」だけだと認識することだ。
しかし、社会的立場の高い者は気の毒だ。それが一時的で他愛もないものであることを認めたがらない。
イエスも言った。「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と。
金持ちすることが悪いということは決してないが、単に金持ちしているのだということをよくよく忘れないことだ。

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2010.09.23

Dash(ダッシュ)の感覚で気合いを得る

気合いってのを自在に使えれば、魔法を手に入れたも同然と思います。

本宮ひろしさんの何かの漫画で(喫茶店でちょっと見た位なのでタイトルを憶えていませんが)、地獄の川の対岸で美女(正体は地獄の魔女でしょう)が亡者(成仏できない死者)を誘惑する場面がありました。亡者は川を渡ろうとして溺れるのが決まりです。ところが、1人の男が、そんな亡者達に「びしぃっと気合いを入れんかあ!」と激を飛ばし、猛然と泳いで美女にたどり着くのを見て、亡者達も次々と川を渡りきってしまいます。漫画とはいえ、どこかリアルで、私は、気合いとは偉大なものだなあと感激しました。

アニマル浜口さんのように、「気合いだ!」を連呼すれば気合いが入るなら良いのですが、やはりどこかに生命の危険と言いますか、命懸けなところがないと、なかなか気合いは入らないものです。以前の戸塚ヨットスクールのように、いきなりヨットで沖に連れ出して、生命の危機に追い込むことで気合いを入れざるをえない状況にするというのも、確かに効果的であることは認めざるを得ません。

気合いが入らないと、セールスの仕事で家庭や企業を訪問できませんし、好きな人に告白もできません。結果、売上が上がらずにクビになり、恋人ができません。
人生に変化を起こすことができず、それは、もしかしたら体験できたかもしれない楽しい出来事を逃してしまうことになってしまいます。
涼宮ハルヒが小学6年生で悟ったように「面白いことは待っていてもやってこない」のです。
潜在意識の法則も、引き寄せの法則も、楽しいことを自分で起こすためのものであるはずです。
そのためには、根本的には気合いといったものが必要です。

気合いの修得には、身体を使う方法があることを最近発見しました。参考になればと思います。
昔、沢村忠さんという有名なキックボクサーがいました。一部のマスコミの無責任な報道のせいで、誤ったイメージが伝えられてしまったところもありますが、偉大なスポーツ選手であり、武道家です。野球で巨人軍がリーグ9連覇を達成した時に打撃三冠王に輝いた王貞治さん(当時の巨人軍の主軸打者でした)を差し置いて日本プロスポーツ大賞を獲得したこともありました。
超人的に強かった沢村さんも、年齢と共に衰えが忍び寄ってきたのですが、その中で彼は不意に力を復活させます。元々鋭かった回し蹴りの威力は全盛期を上回るほどでした。それにいちはやく気が付いた作家の寺内大吉さん(2008年にご逝去)が尋ねると、沢村さんは、ランニングの際に、普通に走るのではなく、時々ダッシュするように変えたと言ったそうです。
これは、肉体的なトレーニング効果も当然あるのでしょうが、気合いという面が大きいと感じます。つまり、ランニングで、ある程度疲労している中でダッシュするには、相当な気合いを入れる必要があります。この精神力が沢村さんに新しい力を与えたように感じます。
私は、昨年(2009年)の8月から毎日腕立て伏せをやっていますが、10回から始め、毎月10回ずつ回数を増やしていきました。100回くらいまでは順調でしたが、今年5月に100回に達してからは回数が伸びなくなり、3ヶ月で15回しか増えませんでした。それで、「そろそろ限界なのかな」と思いましたが、ボクサーがやるように、高速で行う方式でやってみますと、数日のうちに115回が楽になり、しかも、気力が充実して楽しくやれるようになりました。そして、先月末のことですが、すぐに140回に増やしました。
これも1つのダッシュでしょう。英語のダッシュ(Dash)とは、「激しく動く」とか「突進する」という意味です。
そして、ダッシュの感覚を覚えてからは、やはり、何をやっても以前より数倍うまくやれ、時には魔法のような力を感じることもあります。

ある程度慣れたことを、瞬間的に激しく行うことが気合いを入れる秘訣のように感じます。
世界的なピアニストやヴァイオリニストなどの演奏家になるには、毎日8時間以上の練習が必要と言われますが、非常に才能と実力を認められている12歳の少女が1日1時間しか練習しないといったことを聞いたことがあります。もしかしたら、彼女も、何かしらのダッシュの感覚を得ているのかもしれないと思いました。
何かの習慣を作るか、あるいは、既に習慣になっているようなことにダッシュの感覚を適応させてはどうかと思います。それが魔法の効果をもたらすと私は確信します。


【真空飛び膝蹴りの真実】
沢村忠さんの伝記です。驚くべき内容であり、これほど重要なことを学べるものはそうはないと感じます。

【強豪セールスの秘密】
日産自動車16年連続世界一のセールスマン奥城良治さんの秘訣満載の貴重な書。今出来ることを短時間化させていく能力開発法にも、今回の記事のダッシュの感覚を得るヒントがあるように思います。

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2010.09.22

友達がいないのは恥ずかしいことでない

友達が出来なくて悩む大学生がよくいるらしい。
学食で1人で食べるのが、寂しいのではなく、恥ずかしくてトイレで食べるような人もいると聞く。
この、「寂しいのではなく、恥ずかしい」というのはよく分かる。
幼稚園から大学、さらには、会社でも、常にグループ活動が強いられ、1人で行動することに罪の意識を持つように強要されてきたはずだ。

しかし、そんな人はもう心配無用である。
そんな人の話題が多いということは、「1人ぼっち」である「仲間」が大勢いるということだ。そして、それは、最も正常なことなのだ。
友達がいないからといって、その人に親愛の情がない訳ではない。むしろ、仲良しグループというのは、グループ外の者に非常に排他的、薄情な場合が多いものだ。
友達がいなくても恥ずかしいことではない。これは絶対に間違いない。
友達がいても別に悪くはないが、いないならいなくて良いし、無理に友達を作る必要はない。作為的に友達を作ってもロクな友達はできない。

友達がいないということは、無理矢理徒党を組ませる学校の策略をかわした賢い人であるということだ。
グループ行動をする者の方が奴隷根性を植えつけやすいのだ。学校は奴隷生産工場である。

私が幼稚園の時、1人でジャングルジムの天辺に居たら、女性教諭が私を見て、「1人で遊んでるの?」と言った。
見ての通りである。なんでそんなことをわざわざ聞くのだ。
空に太陽がさんさんと輝いている時に「良い天気ですね」と言うのは、暗に雨降りを悪いことであると言っていることであるように、「1人で遊んでるの?」と聞くのは、「友達と遊びなさい」という非難や蔑みを感じさせるものだ。

最初に、学食で1人で昼食をとることを「寂しいのではなく、恥ずかしい」という気持ちが分かると書いたが、私も、ほとんど友達というものを持ったことはないが、寂しいと感じたことはなかった。しかし、学校や会社の中で、「不都合」「辛い」「苦しい」ということは大変に多かった。既に書いた通り、社会というのは、グループ活動をしないと、非常に居心地が悪く、屈辱を与えるところである。奴隷とはグループ活動をするものであり、単独活動してはならないものだ。奴隷でないことは許されないのが社会である。

友達がいないなら、天使と友達になれば良い。
自分が天使になれば天使の友達もできる。別にこれは、メルヘンでも何でもない。
天使とは、仏教でいう菩薩のようなもので、神や仏に近付きつつあるものであり、世間ではなく、宇宙を主と認めているというだけのことだ。
天使になる方法なんて、誰でも一度は目にしたことがあるはずなのだ。
優れた詩や文学やエッセイはもちろん、現代ではアニメの歌なんてのも、宇宙が作者に霊感を与えて書かせているのだから、案外にあちこちに見られる。
それは、簡単に言えば、感情に無防備になることだ。哀(悲)しみ、嘆き、あるいは、怒り、屈辱、羨望といった、日常何度も感じるものに対してだ。
それらをまっすぐに受け止める。すると、心はぐらつく。ぐらつかせておけば良い。やがて抜け落ちる。その時はもう天使になっている。
自分が天使になれば、同じ天使の友達もできるかもしれないし、目に見えない友達も良いものだ。宇宙そのものが親愛に満ちた友である。

時空(とき)を越え刻まれた悲しみの記憶
まっすぐに受け止める君は光の女神(てんし)
~ETERNAL BLAZE(詩:水樹奈々)より~

愛しさに傷ついて 天使に生まれ変わる
哀しみを追い越して 彼女は天使になれる
~いつか天使になれる(詩:田村直美)より~

刻み込まれていた証(しるし)に
導かれまた倒れる時も
見つめ合った一瞬が千年の記憶を越え 光に変わる
~agony(詩:KOTOKO)より~

米国の光明思想家ヴァーノン・ハワードの著書にそういったことが書かかれている。世間の話に慣れた頭には、一見何が書いてあるのか分からないが、実際的なことが詳しく書かれている。

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2010.09.21

悟りの体験はその後が大切

悟りを開くと言いますと、それは物凄い事であると考えられているかもしれません。それは、仏教の考え方の影響があると思われます。
仏教では、悟りを開くことを、解脱と言いまして、この世の束縛を一切超えてしまって、永遠の仏陀になることとされます。
しかし、その考え方はちょっと置いておいた方が良いと思います。
悟りは誰でも開けます。ただし、悟りを開いたからといって、すぐに仏陀やキリストになるわけではありません。

鈴木大拙という著名な仏教学者が、菩提樹の下で悟りを開いた時のお釈迦様の頭の中に、大きなクエスチョンマークがあったと言ったようですが、実際、お釈迦様は、悟りを開いてから、何日もそこに座り続けたと言われます。
それは、悟りの楽しみを味わったというのもあるかもしれませんが、何と言いますか、悟りを定着させるとか、悟りと一体化するとか、現代的に言うと、右脳の強烈な閃きを左脳に移すのに多少の時間がかかったのだと思います。

心理学者のアブラハム・マズローは、至高体験という精神状態を発見しましたが、至高体験は、英語で“Peek(最高の) Experience(体験)”と言い、「至高体験」とはまさにそのままの直訳です。これを悟りと言って良いと思います。なぜなら、悟りこそ最高の体験に他なりませんから。
マズローは、偉大な人間とそうでない人間の「唯一の」違いは、この至高体験があるかどうかだけであるとまで言いました。そして、至高体験を人為的に起こすことは不可能と考え、それを得るには、ただ幸運に頼るしかないと言っていました。
しかし、マズローと交流のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、至高体験は人為的にも起こせるし、ありふれたもので、誰でも体験していることを発見し、マズローも認めるようになったと言われます。

悟りを開いても、あるいは、至高体験が起こっても、それはすぐにすり抜けてしまうのが普通だと思います。
強烈な悟りや至高体験が起こった時、確かに一瞬、宇宙の真理のようなものを感じ、気分が高揚し、幸福感を感じることがあります。ウィルソンもマズローも、至高体験とは、つまるところ、自分が幸運だと感じることだと言っていたと思います。
しかし、それはすぐに消え、日常の意識が戻ってきます。
それはなぜかというと、こういうことです。
至高体験は、おそらく、ウィルソンも認めていたと思いますが、ロマン・ロランの言った大洋感情と同じものです。それは、自己が全てと一体になった没我の状態です。
至高体験とは、まさに、没我の状態で、英語で没我をエクスタシーと言います。
しかし、自我が戻ってくると、当然、その状態でなくなります。
むしろ、強い至高体験、大洋感情、悟りを体験すると、かえって自我が強くなってしまうことがよくあります。いったん引っ込んで、存続の危機を感じた自我が、しっかりと心に居座ろうとするかのようです。
それが、新約聖書に書かれた、悟りを開いたイエスが悪魔に試されたことであると思います。悟りを開いても、悪魔の誘惑に負け、かえって落ちた人間になってしまうことが多いようです。
だから、巷によくいる「宇宙の真理を見た」なんて人には、よくよく注意しないといけません。
スポーツ選手というのも、悟りの体験が多いものですが、特に現代のように、栄光や金が待っているようなものでは、残念ながらほぼ全て悪魔の誘惑に負けてしまっているように思います。
また、逆に、悟りしかとりえが無いような貧しい宗教家や精神主義者も、悟りによりかえって自我が盛り返して高慢で自己中心的な人間になるものだなあと思うこともあります。難しいものです。

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2010.09.20

真の饗宴

ある種の人間にとって、世間の宴会というのは耐え難い場所であろう。
彼らがそれと似た感覚を感じるものは、きっと、兵隊の行進を見て歓声を上げる大衆の中にいる時のものであろう。

宴会で楽しむ者、兵隊の行進を見て歓声を上げる者。それは、「考える頭を持たない顔」でしかない人間である。
アインシュタインは、行進する兵隊を見てぞっとした。
「きっと神様が間違えて頭をくっつけたんだ」
それは、行進する兵隊達だけでなく、それを見て歓声を上げる大衆に対して特に感じたものであることは間違いない。

宴会とは、自分が、考える頭を持たない顔、神様が間違えてくっつけた頭しかもっていない人間であることを宣言するための場所である。
現在では、結婚式や、主に企業の慰安関係の宴会(社員旅行や新年会など)がそれである。
そこは、世間の幻想の中に完全に飲み込まれている者、すなわち、世間の教義、信念である妄信や偏見を叩き込まれた人間であることを証明してみせる場所だ。
それは、世間に屈した、世間にとって安全な人間であることを宣誓することであり、ちょうど、大国の専制や隷属を受け入れるのと同じである。

饗宴とは、元々は、ソクラテスが、祝宴の中で哲学を説くもののことを言った。
私が目指すのは、神々の宴である。我々の深奥にいる神が、我々の魂の中に溶け入る瞬間を楽しむことが本当の宴、饗宴である。
馬鹿騒ぎも、刺激的なだけの音楽も、大量の酒も料理も必要ではない。
普段着で、日常の買い物ついでに聴きにいくクラシックのコンサートがある国では、少しは饗宴の意味も分かっているのかもしれないが、もちろん、クラシックである必要はない。
大勢で馬鹿騒ぎをするものには、本当の饗宴の価値や美点は一切ない。
頭を持たない顔、神様が間違えてくっつけた頭しか持たない人間であることにうんざりし、無理矢理にそのような者にさせるものに怒りを感じ、世間の幻想を打ち破る意志のある人間になるか、世間に隷属する奴隷であるか、今が決めどころである。

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2010.09.19

真の名言

私は、名演説といったものはほとんど憶えていない。
演説というものは、記憶に残るようなものにしようという作為がある。だからかえって、本当に鮮やかな記憶にはならない。
例えば、米国大統領の就任演説はどれも名演説らしいが、超一流の専門家が関与するそれらの演説は、私にはどれも嘘っぽく感じる。
J.F.ケネディの大統領就任演説の中の言葉、「国が諸君の為に何をするかを考えるな。諸君が国の為に何が出来るか考えろ」とか、「軍備は十分であってこそ使用されない」という言葉は、何度も目にするが故に憶えてしまったが、私の心には全く響かない。

本当に深く記憶に残った言葉というのは、たまたま目にしたり、たまたま耳にしたようなものだ。
また、敢えて、名言、名演説を求めようという気はない。それもまた作為であり、作為は本物ではない。

大相撲の横綱白鵬の連勝記録がマスコミの話題になっているが、勝利にも色々な形があると思う。
野球では、選手個人に関して、投手以外には正規の連勝はないが、連続安打記録とか、連続試合出場といったものも、1つの連勝と言えるだろう。
米大リーグにおいて、最も偉大な記録は、ジョー・ディマジオの56試合連続安打だと言う意見も多いようだ。
スポーツの世界では、連続試合出場というのも偉大な記録とされるが、連続でなくても、長く続けることで達成される大記録といったものもある。
ただ、それと同時に、大選手の引き際という難しさというものもある。記録にこだわって引退を引き伸ばすと、かえって晩節を汚すことになる。しかし、サッカーの三浦知良選手は、別に記録のためにやっているのではなく、記録が生まれることがあっても、それは本当にたまたまと考えているように思える。そういったところにも、彼が愛される理由があるように感じる。
ところで、引き際ということについて、昔、アントニオ猪木さんが、何かの時にたまたま言ったらしいことを私はよく憶えている。「力があるうちにやめるのはカッコいいですが、マットの埃をいやというほど舐めさせられてやめるというのもありかなと思う」といったようなものだったと思う。
長く続けられるというのは、「マットの埃をいやというほど舐めさせられる」時を引き伸ばす秘訣を持っていることと言える。スポーツに限らず、何かを長く続けられる人は皆そうだ。これほど大切なことはない。
プロレスで74歳まで現役を続け、連勝記録も他を圧倒する936連勝を持つルー・テーズが、特に名言というのではないが、著書に書いていた一言が、やはり私は印象深く憶えている。「何か技を1つと言われたら、ダブル・リストロック」というのがそれだ。一見地味な関節技だが、テーズはこの技に何度助けられたか分からないと言う。彼は、少年時代に、偉大なレスラーであったジョージ・トラゴスに教わったこの技のおかげで、長く栄光ある選手生活を送れたのだろう。
「何か1つ」というのは大いなる秘訣だと思う。イチローの「数字を何か1つと言うなら200本安打」とか、ビル・ゲイツが「私がソフトウェアで実績を1つあげるなら8080BASIC」と言うように、何か1つへのこだわりが力になる。
新渡戸稲造の「武士道」にも、新渡戸稲造が、毎日何かを続けることの威力を語っているが、どんな世界に目を向けても、知られているかどうかの違いはあるが、大きなことを成し遂げた者には、何か1つというものがあるように思う。一見、大したことであるかどうかは重要ではない。日産自動車で16年連続世界一のセールス記録を持っている奥城良治さんは、販売数そのものより、1日百件訪問にこだわり続けた。まあ、1日百件訪問というのは、経験者としも言えるが、1日でも大変なものである。
個人的には、スポーツの記録や、ものを売ることにあまり興味は無いのだが、学ぶべきことは学んでおいた方が良いのだろう。


【強豪セールスの秘密】
下手に熱意ある者が読むと、かえって道を誤る可能性がある。それほどの本である。

【鉄人ルー・テーズ自伝】
「地上最強の鉄人」と言われるテーズは、意外に普通の男のように感じる。
そして、貧しくて高校にも行けずに靴職人になるなど、決して恵まれたスタートではなかった。また、自分では素質的にも大したものではなかったと言う。よって、普通の人にとっても、参考になるところが多いように思う。

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2010.09.18

人間がいるから宇宙がある

次のような奇妙な話が科学の考え方にある。

人間あってこその宇宙。
人間がいるから宇宙がある。

これを「人間原理(Anthropic principle)」と言う。この言い方では正確ではないと言う人もいると思うが、他のどんなに簡単に書かれた人間原理の説明も、抽象的過ぎて意味が分からない。そもそもが、言葉で正確に説明できるようなことでもないので、これで良いと思う。
ところで、上のようなことを聞いたら、大方の反応は、
「そんな馬鹿な!宇宙に無数にある銀河の中の辺境のこの星に、たまたま生命が生まれ、たまたまこんな形に進化したのが人間だろう?」
といったものであろう。
これは、例えてみれば、サルがデタラメにキーボードを叩いたら、ノーベル文学賞を受賞できる小説になる可能性もゼロではないといった考え方だ。我々は、実はそんな考え方をしているのである。

人間原理と関係あると感じるお話に、インドの詩人タゴールがアインシュタインに言ったものがある。
「人が見ているから月がある」
また、「シュレディンガーの猫」という量子物理学の有名な命題は、
「箱の中の猫が生きているか死んでいるかは、人が箱を開けて確認した時に決まる」
といったものだ。
いずれも、やはり、「正確でない」と言われる書き方だが、他のどんな説明も五十歩百歩(ドングリの背比べと同じ意味)と思う。

タゴールは科学は素人であるが、世界的量子物理学者であるハイゼンベルクはタゴールの教えを受けたことがある。
また、江戸時代の禅僧である道元の「正法眼蔵」を見ると、道元も人間原理を直観で分かっていたように感じる。

さて、人間原理であるが、これを提唱(意見を主張すること)する科学者も、これを「馬鹿な」と反発する方も、半分抜けているように思う。それが、両者の意見が合わない理由のように感じるのである。

人間あってこその宇宙。
人間がいるから宇宙がある。

というのは、当然なのだ。しかし、同時に、

宇宙あってこその人間。
宇宙があるから人間がいる。

というのも正しいのである。
ほとんどの人が、人と宇宙の大きさの違いに騙されているように思う。
早い話が、人と宇宙は同じものなのだ。

我々が誤解したものの見方、考え方をしているのは、イエスの次の言葉の捉え方からも感じるのだ。
「人に悪口を言うのは、天に向かってツバを吐くようなものだ。それは自分に返ってくる」
考え方は正しいが、どうも誤解を生むのである。
実際は、地にツバを吐いても、自分にツバを吐いているのと同じなのである。
だって考えてみると良い。
我々は、皮膚の内側を自分と考えているが、自分の周りの空気や熱や、足元の大地を取り去れば、一瞬でも生きられない。人間は根本的に生命であり、あえて感情を交えずに言えば、死体は物だというなら、周りも含めて自分という人間だ。
エコロジーに関しても、大誤解をしながら色々言ってる人が多いが、人と環境は一体であり、相伴うものであり、もっとはっきり言うなら、環境も自分なのだ。
どの範囲の「周り」「環境」が自分かと言えば、宇宙全体としか考えられない。
だから、宇宙が我々の身体であると言っても、さして違和感は無いと思うのである。


【唯脳論】
我々の現実は、本当は脳で感じることだけであるということを理解すれば、世界は変わると思う。ちょっと難しいが重要な書だ。

【涼宮ハルヒの憂鬱】
この本の中で、ちょっと怪しいイケメン高校生の古泉一樹が、主人公のキョンに人間原理を説明している。キョンの反応は「そんな馬鹿な!」である。

【大きく考えるための小さな本】
世界的量子物理学者、フレッド・アラン・ウルフによる、最も優しく面白い量子物理学の入門書。
ウルフが量子物理学を志すことになったきっかけは、幼い時の超常体験であり、エイリアンとの遭遇だった。

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2010.09.17

真の英雄

英雄というのは、プログレッシブ英和中辞典のhero(ヒーロー)の項に書かれているように、「敬慕の的となる立派な人物」のことと思う。
では、どんな人物が、「敬慕の的」であり、「立派」であり、ヒーローと言うに相応しいのだろうか?

それは、最も高い意味で言うなら、「他人を生かす者」であることは間違いないと思う。
最も英雄らしく感じるのは、自分を犠牲にして他人の生命を救う者ではないだろうか?

ある時、スカイダイビングをしていた3人が空中で接近し過ぎ、パラシュートロープが絡まってしまって、1つのパラシュートしか開かなかった。3人が高速度で落下していく中、1人がナイフで自分を切り離し、他の2人を救おうとしたことがあった。人々は彼のやったことを「英雄的行為」と言ったが、まさにその通りであろう。
SF小説の中で、宇宙空間で事故を起こした宇宙船からの救出のため、乗客は宇宙服を着て船外に出なければならないが、宇宙服が足りない中、それを知った者が自分は宇宙服を取らないといった話がよくある。著者は英雄を描いて見せたのだ。

戦争で戦果を上げた者がしばしば英雄と呼ばれる。それは一面的には正しい。確かに、彼の祖国の人達は生きる道を得た。しかし、敵国民にとっては逆のことになるのが普通であろう。トータルで言えば、彼は英雄ではない。

この物理的世界では、場所やエネルギーに限界がある。他の者を生かすには、現実として誰かがそれを譲らないといけない。
もしかしたら、ウォレス・ワトルズやジョセフ・マーフィーの本に書かれている通り、全ての人のために十分なものがあるのかもしれないが、現実には、不公平な配分のせいか、別の理由からかは複雑だが、現状はそうではない。
どうしても譲る者が必要である。

戦争で言えば、戦果を上げるかどうかではなく、戦死した者は、敵味方区別なく、他人に場所を譲った英雄だ。
しかし、それなら、ウイルス感染や病気で死んだ者もまた、他人のために立派に場所を譲った英雄である。

真の英雄である「他人を生かす者」とは、「場所を譲る者」と言えるだろう。
この世では、誰かがいなくなれば、その分、他の者の場所が増える。それが悲しい現実である。
人間以外の動物等の世界では、天敵が存在し、ある種が過剰に増えることは普通はない。ただ、人間だけが他の種を絶滅させても増え続けようとする。
その中で、ウイルス感染、自然災害、あるいは、戦争で亡くなった人というのは英雄であり、その意味で、我々は、その遺族や彼らの同朋を手厚く援助しなければならないのであり、同情からそれを行うのではない。
我々の命は、そんな人達の犠牲に負っているのである。

生命まで投げ出すことはなかなか出来ないが、可能な範囲で場所を譲ることなら出来るかもしれない。
リストラされた人は、他の人に場所を譲った英雄だ。自分の家の自分の場所を、それを持たない者に少しでも譲ることもまた英雄的行為である。
自分が食べる量を出来る限り慎み、それを他に回すこともまた、心の中の英雄が起こさせるものであるかもしれない。
映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」で、豪華な宮殿の中で広々とした場所を持っていた法王が、フランチェスカに「その貧しさに私は恥じ入るばかりだ」と言ったのは、自然な感覚なのだと思う。

自分が消え去った世界。それを不意に想像すると、悲しく寂しいかもしれない。だが、真の英雄とは何かが感じられるはずだ。
そして、自分が個の存在であるという、人類最大の幻想も消える。自分が消えることで、自分が世界であることを理解するのである。

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2010.09.16

悪を受け入れる

理想世界とは、悪が存在しない世界ではない。

暴力は悪といえば悪だ。
しかし、若い男同士が、必要なら腕力で決着をつけるというのは正常なことではないか。
暴力のいっさいを禁止するから、大勢で暴行して殺して埋めるなんてことが起こるのである。
動物や虫の世界でも、メスを争ってオスが戦うことはあるが、勝負が付けば戦いは終り、致命傷を与えることはない。
何かの漫画で、いかにも悪そうな学生が、「むしゃくしゃするなら殴り合いのケンカでもやれ。すっきりするぜ」と言う場面を見たことがあるが、健全ではないか。
現代の不良が老人か身障者しか狙わないのは、そんな健全さがなく、負けるリスクを全く受け入れないからではないだろうか。
昔の父親は、いじめっ子に殴られて泣いて帰ってきた息子に「やられたらやり返せ」と言ったものらしいが、そんな当たり前が通用する世界では、いじめっ子の方も限度はわきまえているものである。大勢でマットでくるんで窒息死させるようなことはしないし、確かに弱い子をいじめるのであるが、そんな子が、強くはなくとも健闘すれば認めるものである。どんな世界でも、いじめは決して楽しいものではないが、弱い子が強くなる良い薬ではあるのだ。

ナンパ(軟派。街頭などで男が女を誘うこと)も悪なのだろうが、そんなものがない世の中など考え難い。それを抑えつけるから、無理矢理女性を連れ去ろうとして、挙句、言うことをきかないから殺したなどということが起こるのではないか。
ケンカやナンパなんて、昔から小説や映画によく出てくるが、それを肯定的に扱った素晴らしい作品が多いだろう。
教師が女生徒に猥褻行為を働いたなんて話は日常茶飯事となっているが、あれは、若い頃に「ちゃんとしたナンパ」をしなかった哀れな教師の歪んだナンパなのではないかと思う。実は、そんな教師というのは、40も過ぎた中年になって大真面目にその女生徒に惚れているのである。そして、そんな事件で思うのだが、狙われるのは可愛い子なのだろうから、クラスの男子で、教師を殴って制裁を加えるヤツもいないのかと情けなくなるのである。「教師を殴るなんてとんでもない」というのがとんでもない。教師なんて、ある意味、殴るためにいるのである。

国どうしの争いというのもあるのは仕方のないことだ。しかし、勝ってる方はやり過ぎずに情けをかけ、負けている方は引き際をわきまえれば、両者完全ハッピーとはいかないまでも、最悪は免れるのではないか。
戦闘機の大群を繰り出してミサイルを雨あられと降らせ、あげく原爆を使うというのは、やる方もやり過ぎだが、相手にそこまでやらせる方も問題があるのかもしれない。
個人でも、ケンカして負けたら、身体を鍛えて出直すのは良いが、陰湿な手段で復讐すると、さらにその報復を受けるものだ。

害虫や悪性ウイルスに対抗するのは良いことだが、滅ぼしてしまうのはやり過ぎで、必ず恐ろしい報復が別のところからやってくる。
たとえば、よりパワーアップした害虫やウイルスの変種が現れるのである。
実際は、害虫やウイルスに依存している部分も大きいのである。戦争で死ぬことで英雄扱いされるなら、ウイルスで死んだ人間はもっと英雄なのである。

悪は決してきれいなものではない。目を背けたくなるものである。だが、死が無ければ生がなく、闇がなければ光がないように、悪があってこその正義である。
悪と正義は同じものだし、少なくとも、お互いがお互いを伴うものである。
だが、お互いが相手を徹底的に滅ぼそうとするところに問題がある。それは、裏のないコインを作ろうとするようなものだ。
貧乏人あっての金持ちであり、醜男あってのイケメン、ブスあっての美女で、お互い、対極の立場の存在に依存しており、平たく言えば、お互いが大いに世話になっているのである。
それを、頭でなく、腹の底から理解した時に理想世界が訪れるのではないだろうか?


【荘子】
古代中国の賢者、荘子は、正義と悪というのは、立場の違いでしかなく、完成と破壊も、ものごとの捉え方の違いであると言う。
人類は、この2千数百年前の知恵をいまだ得ることができずにいるようだ。

【李陵・山月記―弟子・名人伝】
中島敦の名作短編集。「目と鼻の区別が付かない。善と悪の区別がつかない」。道に至った人間の悟りとはどのようなものか見ていただきたいものである。

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2010.09.15

魂までは奪われていない

地球征服を目論む宇宙人や悪魔や異世界人が、人間の肉体を乗っ取ってすりかわるというお話は昔から非常に多いと思う。
レイ・ブラッドベリの「ぼくの地下室へおいで」(萩尾望都さんが漫画化)や、平井和正さんの「死霊狩り(ゾンビー・ハンター)」(小説より先に桑田次郎さんにより「デスハンター」という漫画になっている)は、いずれも宇宙人が人間にとりつき、人類に気付かれないよう秘密裏に地球侵略を進めるものだ。
ジェリー・アンダーソンの人形劇「キャプテン・スカーレット」では、火星人ミステロンは肉体を持たず、人間の肉体を乗っ取るのだが、逆にキャプテン・スカーレットは肉体を奪い返し、ミステロンの能力をも得たというもので、永井豪さんの「魔王ダンテ」や「デビルマン」は、悪魔が人間の肉体を取り込むはずが、人間が悪魔の身体を奪って悪魔に立ち向かうものだ。

ところで、こういったお話は、空想でも何でもない。
我々はすでに、肉体というか、それを支配するはずの意識をすっかり乗っ取られてしまっているのである。
それは、世間という悪魔によってである。そこに宇宙人や異世界人などの意図があるのかどうかは知らないが、意志を勝手に支配されているのは確かである。
では、同じく意識を乗っ取られているはずの私がなぜこんなことを書けるのかであるが、上にあげた「キャプテン・スカーレット」の制作者ジェリー・アンダーソンの「謎の円盤UFO(原題は“UFO”)」にこんなお話がある。
地球防衛組織「シャドー」の司令官ストレイカーの親友の宇宙飛行士が、宇宙人に精神を奪われて遠隔操作され、ストレイカーを抹殺しようとする。無表情な顔で自分を殺そうとする親友にストレイカーが言う。
「心は奪われても、魂までは奪われていないはずだ」
ストレイカーの言葉が本当であったかどうかは分からなかったし、どう見ても悲観的だった。親友は元に戻らずに死ぬ。しかし、その親友が一瞬、ストレイカー殺害を躊躇したように感じられなくもなかった。
我々も、両親や学校、社会によってほとんど意識は支配されている。しかし、魂までは奪われていないと信じたい。

上にあげた、「ぼくの地下室へおいで」を含む、ブラッドベリの傑作SFが萩尾望都さんによって漫画化された「ウは宇宙船のウ」は素晴らしい作品になっている。特に私は「みずうみ」が好きで、これは別の意味で我々自身の魂を取り戻すきっかけになる奇跡的な作品だ。
ジェリー・アンダーソンやレイ・ブラッドベリは、魂までは奪われなかった人間が、我々に貴重なメッセージを送ってくれているのではないかと思う。


【ウは宇宙船のウ】
レイ・ブラッドベリの「ウは宇宙船のウ」「泣き叫ぶ女の人」「霧笛」「みずうみ」「ぼくの地下室においで」「集会」「びっくり箱」「宇宙船乗組員」を漫画化。萩尾さんの繊細で美しい絵と鋭い洞察力による理解によってまさに傑作になっている。

【10月はたそがれの国】
ブラッドベリの傑作19作品を収録。上記「みずうみ」も入っている。

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2010.09.14

女神が舞い降りる時

「ライトノベル」という小説があるのをご存知だろうか。そのままの意味では「軽い小説」だが、高校生位までの若い読者をターゲットに書かれた小説のようだ。ただし、本当にライトノベルといったものがある訳ではないし、そう言われる小説を大人が読んで何か問題がある訳でも当然ない。ただ、表紙や挿絵に、漫画風の、可愛い少女の「ちょっとエッチな」絵が描かれ、いい大人が電車の中で読むのは抵抗があるかもしれない。
ところが、このライトノベルと呼ばれるものに名作が沢山あるのではないかと思う。谷川流さんの「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズもそうで、私には、あれに芥川賞や直木賞が授与されないのが全く理解できないほどだ。

筒井康隆さんの「時をかける少女」は、日本の歴史的小説と言って過言ではないし、あれほど数多く、大作映画やアニメ映画を含め、映像化された小説もないと思うが、あれは元々、中学3年生用の学習雑誌に連載されたもので、今で言えば、ライトノベル中のライトノベルだ。それが、連載開始(1965年)や刊行(1967年)から40年以上経った今も愛読され、実際、素晴らしい作品と思うが、著者は、実は嫌々書いていたという話もある。

意外な経緯で生まれた傑作というものが時々存在する。
人類が続く限り愛唱されるに違いない「きよしこの夜」は、一介の音楽教師が一夜で作ったものだ。
また、世界の国歌の中でも名曲の誉れ高いフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の作曲者の名は、フランス国民ですらほとんど知らないが、これも日曜音楽家が一晩で作ったもので、彼の他の作品は何も残されていない。

池田満寿夫さんは世界的な版画家で、小説でも芥川賞作家であり、その受賞作品「エーゲ海に捧ぐ」を自ら監督を務めて映画化した。
ところが、池田さんは東京芸大の受験を3回連続失敗して諦め、生活のために、いわゆる「街の似顔絵画家」をしていた時は、同業者に、「下手過ぎて我々のイメージが落ちるからやめてくれ」とまで言われた。
そんな池田さんが、大きな絵画展の版画部門に出品した際、全く作品が出来ずに、締め切り間際にヤケクソで三角刀で銅版をひたすらひっかいて猛スピードで仕上げた作品が、海外の美術界の権威の目に留まって賞が与えられたのがブレイクのきっかけだった。

リラックスというか、無欲で臨むのが成功の要因と言えるような気もする。
ただし、「では、成功するには無欲でいけばいいのだな」と意気込むのは、救いようのない勘違いだろう。

筒井康隆さんが「時をかける少女」を、あまりやる気がなかった理由は、彼があまり好きでない学園ものだったということもあるかもしれないが、何と言っても、事実上中学3年生限定という読者対象の狭さが関係ないとは言えないだろう。
SF作家の平井和正さんにも、中学生用か高校生用だったかは忘れたが、昔、学習雑誌からの依頼があり、平井さんは「悪徳学園」という作品を書いたが、すぐに担当者が青い顔で返却に来たらしい。その理由は読めば分かる。昔、マイケル・J・フォックスがまだ健常者で人気絶頂の俳優だった頃、ホンダの乗用車インテグラのCMに出た時のコピーに「エッチにもほどがある」(「エッチ」は、ホンダのマーク「H」にかけた洒落)というのがあったが、この小説もエッチにもほどがあった。今の時代でも掲載不可能と思う。


【時をかける少女】
「時をかける少女」はもちろんだが、同時収録の「悪夢の真相」「果てしなき多元宇宙」が素晴らしい。

【時をかける少女】
「涼宮ハルヒの憂鬱」「灼眼のシャナ」で有名な人気イラストレーター、いとうのいぢさんの萌え画をカバーイラストにした新装版。同時収録作品は「時の女神」「姉弟」「きつね」になっている。

【悪徳学園】
平井和正さんの有名な「ウルフガイシリーズ」の番外編と言える。中学校が舞台。本文記事に書いたが、猥褻にもほどがある。ただし、私は、これを学習雑誌用に渡した平井さんが嫌いではない。戦後に中学生だった平井さんには、小説の中の話なら慌てることでもないのだろう。

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2010.09.13

死と別れの真相

私の親しかった人が亡くなっていることに、何年も経ってから気付いたことがあった。
つい最近も、昨年亡くなっていることを知った人がいた。皆、高齢ではなく、病気や事故が原因だが、実は、かなり多いのだ。
親しいと言っても、表面的には争っていたような人もいたが、そういうのを親しいと言うのだと思う。
「お前のことなどよく覚えていないが、相変わらず・・・だな」と言われたこともあるが、それを、とりもなおさず、よく覚えていると言うのだろう。自分の方からそう言ったこともあるからよく分かる。
ところで、亡くなられたと知って感じるのは不可解な感覚だ。それが、悲しいとか辛いといったものと一致するのかどうかよく分からないが、違うと思う。

子供の頃に自分が引っ越したり、あるいは、友達が引越していったという経験のある人も少なくないだろう。
今考えても、なんて馬鹿な話だと思う。
いくら嫌でも、子供がどうできることでもなく、子供自身も、割にあっさり諦め、受け入れてしまうものだろう。
しかし、昨日まで、あるいは、さっきまで仲良くしていた友達と、もう一生逢えないかもしれないのだ。
大人と異なり、子供の場合は、単に好きだから付き合うのだろう。それを本当の友情と言うのではないのか?
男女なら、小学校も高学年くらいになれば、まして中学生なら、立派に恋人同士と言って間違いない。
それが、もう一生逢わないなんて、どうしようもなく、理不尽(道理に合わないこと)と思えるのだ。

親しい人の死も、同じように感じる。悲しいというよりは、馬鹿げているのだ。
だが、何が馬鹿げているのかが私にも分からなかったが、本当は、別れてしまったという気持ちが馬鹿げているのである。
誰も死んでなんかいないし、別れることなど出来るはずがない。それが事実だ。それは、世間、大衆の思想とは一致しない。

人が死ぬことと自分が死ぬことに違いはない。
好きな人が死ぬと、「自分の中の何かが消えてしまった」とか「胸が空っぽになった」などと言うことがあるだろう。これが、自分と人の関係を直感的に表している。
試しに、自分がいつもいる場所・・・家の中の自分の部屋や居間、学校や職場の席。そんな場所から自分が完全に消え去っていると想像してみれば良い。
親しい人が死んだ感覚というのは、それに近い感じがする。
なるほど、馴染みの「自分」というものは消えてしまった。慣れないうちは、悲しいとか寂しいとか思うかもしれない。しかし、それは習慣的な思考のクセによるものだ。
やがて、分かってくるが、自分がいない状況を観照している自分の、なんと静寂で安らぎに満ちたものであるか。そして、自分の中に、世界への本当の親しみがあることに気付く。
死んだ人に対して感じるのも、一時的な悲しさ(それは偽りの感情かもしれないが)を通過すれば、そんな内側にあるものに対する懐かしさや憧れ、そして、それを忘れてしまう悲しさである。
だが、死を学べば、死などありえないし、別れなどありえないことが、頭で考えた理屈ではなく、純粋に明晰なものとして感じるに違いない。
悟りを開いた聖者は、人の死も、そして、自分の死も悲しまない。「死者は幸福である」「既に私は死んでいる」と言うのである。


【アイ・アム・ザット 私は在る】
小さな商店を営む、貧しい老人である聖者ニサルガダッタ・マハラジは、いつも「私はすでに死んでいる」「自分を地平線の彼方に感じる」と言う。
訪問者にシンプルなアドバイスを与え、究極の実在に目覚めさせようとするが、世間知に染まった人々には理解できない。しかし、それでもマハラジを尋ねるのは面白いことである。

【波動の法則】
生まれる前や死後の真実を知るには、世間によくある輪廻転生の書を読むより、本書を読んだ方が良いと思う。輪廻転生について書かれた書が悪いというのではないが、それらには生きた人の心が作用している。
実際、人は生まれもしなければ死にもしない。この本の著者の妹も、世間的には若くして死んだということになっているが、著者は悲観的に受け取っていないことが別の本で語られていた。

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2010.09.12

ライブドアブログ奨学生に選定されたお知らせ

ライブドアの、第一期ブログ奨学生(奨学金受給者)に選ばれましたことをご報告いたします。

ライブドア ブログ奨学金ページはこちら

そのような理由で、近く、当ブログは、このココログからライブドアブログに移転いたします。
新しいブログのURLが決定次第、当ブログ上でよく分かるようにご報告いたします。また、相互リンクのブログ様や、特別にリンクを張っていただいていることを認識しているサイト様には、メールおよびその他の方法でご連絡いたします。
このブログは、ある時期から更新は停止しますが、当面は残しておくことになると思います。

いつも応援していただき、ありがとうございます。
今後も、よろしくお願い申し上げます。

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あなたは、その「何様」でしかない

傲慢な人間を戒める言い方が世間によくある。
「お前1人で生きているんじゃないぞ」
「世界がお前を中心に回っていると思っているのか」
あたりはよく聞くと思う。

ところが、事実は、1人で生きているのである。
他人など存在しない。
ただし、人が自分と思っているものも、本当は存在していない。
正しく1人で生きてこそ、他人、あるいは、自分という幻想とも折り合っていけるのである。

世界は自分を中心に回っているのである。
もちろん、物理的な意味ではない。
ただし、人が自分と思っているものも世界と一緒に私を中心に回っているのである。

「何様のつもり」の「何」とは何だろうか?
そこには、「神」が入ることを暗示しているのだろうか?
なら、もっとはっきり、「お前は神様のつもりか」と言えば良い。
「つもり」ではなく、その通りなのだから。

ただ、織田信長を演じる役者が織田信長でないように、神様を演じる者は神様ではない。
演じる限りは、本物ではない。神様が神様を演じることはできない。
ある有名人の映画を作る時、その有名人自身が他人のふりをして応募した。そして、見事採用されたが、彼は言われる。
「ちっとも本物らしくない」
彼が自分を演じたからだ。

我々は、子供の時からこう言われる。
「自分らしくありなさい」
「規則に従いなさい」
我々が混乱した人間にならざるを得ないのは当然のことだ。
自分らしくあるなら世間の規則に従えるはずもなく、規則に従えば自分らしくない。
世間はあなたに「自分らしくあれ」と本気で言いはしない。「自分らしくあるふりをしろ」と言うだけだ。
それで、「自分らしく」を、せいぜいが、下らないファッションや乗る車や奇行で演じるしかなく、ますます自分から外れ、やり過ぎると病気になってしまうのである。

「何様のつもり」という言葉には、「つもり」という否認の言葉が入っている。つまり、「お前は、その何様ではない」と言っているわけでである。
既に言ったように、「何様」は、「神様」を示唆するので、率直に言えば「お前は神様ではない」と言っているのである。この回りくどい言い方が問題だ。
素直に言ってくれれば答えやすいのに。
答えは、「神様のつもりなどではない、神様だ」である。
しかし、再度言うが、神様を演じる限りは神様ではない。演じるというのは、世間のイメージに合わせることだ。世間で考える神様、人の想像した神様など知ったことではない。
役者が、本当の自分が誰なのかを知りたければ演じるのをやめれば良い。
あなたも、押し付けられた役としての自分を演じることをやめれば、自分が本当は誰かを知る。その本当の自分が神なのだ。

世間のタブーをあまりストレートに表現すると、良い本もすぐに廃版になる。
別に、「闇の勢力」なんてものがあるのではなく、世間や、世間に騙された我々自身が拒否するからだ。
一方、嘘のように書かれた本当のことは何千年も生き残るのである。

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2010.09.11

本当に2番じゃだめなのか?

ある男のところに、ある日、この世のものとも思えぬ絶世の美少女がやってきて、可憐な花のように恥じらいながら、美しい言葉で婉曲(遠回し)に、私はあなたのものなのだから好きにしていいと言う。
こんなことをやった女神が、ギリシャ神話の美の女神アプロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)だ。
男は英雄アンキーセースである。アンキーセースも、彼女の姿を初めて見た時は、あまりに美しいので、女神か、あるいは、ニンフ(妖精)と思ったが、彼女は、自分はただの人間なのだと言う。
なんと言ってもアプロディーテだ。どんな美少女アイドルだろうと足元にも及ばないはずだ。
神々すら、それも大神ゼウスすら抗うことが出来ないと言われる美の女神に、人間であるアンキーセースなどひとたまりもないだろう。

もっとも、日本の古神道に伝わる話では、神が人間の修行者に術を授ける最後の試験が、長い禁欲を守らせた後に、その者の理想とする女を幻術で創り出して誘惑させ、それに耐えなければならないというものがあるらしい。言うまでもなく、合格者が出たためしはない。

さて、アンキーセースがアプロディーテから感じた美がいかほどのものであったかは想像もできない。
だが、仏教には、それをうまく表現した話がある。
お釈迦様の従弟のアーナンダは、16歳の素晴らしい美少女との結婚を控え、心は浮き立っていた。だが、お釈迦様は、アーナンダに、結婚なんかやめて出家しろと言う。当然、アーナンダにそんなことは出来ない。
そこで、お釈迦様は、雪山にアーナンダを連れて行き、よぼよぼに老いたメス猿を見せ、「お前の妻になる女と、この猿ではどちらが美しいか?」と問う。アーナンダは憤慨して、「私の妻になる女に決まっています」と答える。
次に、お釈迦様は、アーナンダを天国に連れて行って天女を見せ、「では、お前の妻とこの天女では?」と問う。アーナンダは、「私の妻になる女とこの天女では、さっきのメス猿と私の妻になる女ほどの違いがあります」と答える。
「アーナンダよ。出家し、修行すれば、この天女はお前のものだ」
アーナンダが、すぐに出家を決意したことは言うまでもない。

そのものズバリは表現できなくても、何かの比較とで想像をさせる話の技術である。一種の類推(アナロジー)で、説法の名人には、これを上手く使う者が多い。イエスも優れたたとえ話を多用したことは知られているし、「20世紀最大の詩人」と言われるW.B.イェイツも、イエスの比喩(たとえを使った表現)の才能を高く評価していたらしい。

尚、アプロディーテの偉いところは、彼女自身、アンキーセースに恋したのだが、執着しなかったことだ。
彼女は、アンキーセースに「キュテレイア(アプロディーテの別名)と寝たなどと公言してはただではすまぬぞ」と言って去り、この時のアンキーセースの息子で、後のトロイア王アイネイアースを産む。
女神でも、月の女神セレーネは羊飼いの少年エンディミオンに、曙の女神エーオースはティトノスという人間の男に恋し、結局は不幸なことになった。執着したからだ。
(武内直子さんの「美少女戦士セーラームーン」では、セーラームーンことセレニティと、タキシード仮面ことエンディミオンは、このギリシャ神話のお話を基にしている)
アプロディーテもエーオースの失敗を教訓にしたと思われるところがある。
ところで、アプロディーテは、ヘパイストスという夫がありながら、この姿の醜い夫を厭って、男神の中でも1、2を争うイケメンのアレス(英語ではマーズ)と浮気してフォボスとディモスという神を産むが、アレスはエーオースと浮気する。
ギリシャ神話の神々は実に奔放である。

さて、アプロディーテは最も美しく、このお話のように思慮もあるが、神々の王ゼウスの正妻ヘラや、知恵の女神アテーナとなると、その賢さはいかばかりかと思う。
ところが、こんな話がある。
争いの神エリスが、神々の宴(海の女神テティスと人間の英雄ペレウスの結婚式)の中に、黄金の林檎を贈った。「世界一美しい女へ」とのメッセージを添えて。
この林檎を、アプロディーテ、ヘラ、アテーナが争う。「私が一番美しい」と。これがトロイア戦争の原因を作った(実際は、その後の複雑な経緯で戦争に至る)。

一番にこだわるとロクなことはない。
蓮舫議員の事業仕分けの時の「2番じゃだめなんですか?」として記憶に残ったスーパーコンピュータの研究開発であるが、スーパーコンピュータというのは、クレイ・リサーチ社のシーモア・クレイが徹底して世界最高性能にこだわったことも関係していると思うが、1番には大きな価値が感じられるものである。
ただ、クレイは、天才的な開発者であると共に、事業家であり、研究開発費は自分で賄い、そして破産した。しかし、復活し、さらに開発に情熱を注いだ。そして、彼の業績は偉大であった。彼が1番にこだわったからだ。

蓮舫議員のは、白雪姫の継母の王妃に、魔法の鏡が「1番じゃないといけないのですか?2番じゃだめなんですか?」と言ったようなものだろう。
ちなみに、アーナンダは、修行するうちに天女のことは忘れた。
仏道の修行を積むと、美と醜は同じものであることを悟る。そして、1番は2番と、そして最下位とすら共にあるものであることも理解する。それが分かってこその1番である。


【四つのギリシャ神話】
日本の古事記もだが、ギリシャ神話の神々も実に個性的で人間味に溢れている。特に、こういった伝承の話は面白い。しかし、奥深くもあり、興味は尽きない。ヘルメースの悪知恵は今日の西洋世界に影響しているし、また、ある専制国家が、意外に外交上手なのも、これに学んだとも思えるくらいである。

【あなただけができることをやりなさい ソフトウェア界の偉人23人の名言集】
コンピュータ世界の偉人達の実に興味深い物語である。これを読むと、コンピュータに対する認識が大いに変わり、達人になるかもしれない。

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2010.09.10

本物の騎士が優雅な理由

誰しも、一度は、コンピュータウイルスを作る者がいるから、ウイルス防御ソフトの開発、販売会社が成り立っているのではないのかと考えたことがあると思う。
ところが、その考え方に、奇妙な違和感や、何か釈然としないおかしな気持ちを持ったと思う。
しかし、いったい、なぜそんな感情を持つのだろう?
泥棒がいるから警察があるのは当たり前である。しかし、泥棒あってこその警察と言わないところに人々の幻想がある。

テレビのニュース番組で、裁判の話題では、裁判長や裁判官のいかめしい顔がよく映し出される。なんであんな尊大(高慢、横柄)な顔をするのだろうと思うが、彼らも、嫌でもそんな顔をしないといけないのだろう。
裁判官は罪人との立場の差を見せ付けなければならない。しかし、罪人あっての裁判官だ。裁判官の存在価値は犯罪者の存在に負っている。本当は両者は同等なものだ。少なくとも、裁判官も、場合によっては被告人席にいる可能性があると思ってこそ、良い裁判が出来るのではないだろうか。

スーパーマンは「自由と正義とアメリカンウェイ」のために戦うらしいが、それなら、「専制と悪とアメリカ的でない思想」あってこそ活躍できるのである。
仮面ライダーは、ショッカーに逢ったら、「いつもお世話になっております」と言った方が良い。そうしていれば、もっと良い世の中になるかもしれない。
「ゲキテイ」と言われて、それが、「サクラ大戦」というアニメ(ゲームから始まっている)の主題歌「檄!帝国華撃団」を略したファンの間での一般的な呼び方であるとは分からない人が多いだろうが、原作者(広井王子さん)自らの手によるその歌詞の中の「悪を蹴散らして正義をしめすのだ」という勇ましい歌詞は良いのだが、それは1番で、同じ部分が2番では「悪を滅ぼして正義をしめすのだ」となる。しかし、悪を滅ぼしてはいけない。悪を滅ぼせば正義も、そして、世界も滅びる。悪に負けてはいけないが、限度を知らないといけない。
「悪は滅ぼすもの」というのは、現代人に刻み込まれた極端で硬直した思想であり、幻想、洗脳と言って良いものだ。
だが、夜を滅ぼして昼がないように、波底(波の谷)がなければ波頭がないように、悪がなければ正義もない。
「セーラームーン」は、「愛と正義のセーラー服美少女戦士」だったが、原作では、セーラームーンは、これまで戦ってきた敵は自分のきょうだいのようなものと悟る。彼らが自分に引き寄せられたのは、愛する人を求める気持ちと同じだと気付き、愛おしさすら感じる。アニメの方では、「悪の根源たるカオスは、本来あるべき場所に戻った。それは人の心の中」と言うにとどめたが、それでも大進歩である。後の舞台(ミュージカル)では、原作通りのことが言われたが、見ていた小さな子供たちの意識の底に残っただろうか?

昼は夜を伴い、波頭は波底を伴い、愛は憎しみを伴い、快楽は苦痛を伴い、幸福は不幸を伴うように、正義は悪を伴う。
武士道というのは、太平の世でありながら、働きもせず厚遇される武士の後ろめたさが生み出した奇妙な道徳だという考え方があるらしいが、西洋の騎士道というのは、高貴さの中にも遊び心を持ち、悪は叩くが、やり過ぎは品格のないこととして戒めるところがあると思える。テレビで見る裁判官の顔は、どう見ても騎士の顔ではない。騎士の本当の優雅さは、この世の真の姿をそれなりに悟った大人の雰囲気なのだろう。


【半神】
わずか15ページの中で、愛と憎しみが全く同等であることを劇的に示した萩尾望都さんの傑作漫画。野田秀樹氏により舞台化され好評を博した。

【名人伝】
弓道を極めた名人は、「善と悪の区別が付かない」と言った。世間を超えた者の姿を見てどう感じるかは読者次第である。

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2010.09.09

秘訣がないことが秘訣

あるチラシ(散らし。広告印刷物)に書かれたコピー(広告の文章)が目に付いた。
「あれこれ試すより、毎日のローヤルゼリー」
では、そのローヤルゼリーを必ず毎日1年食べるから、健康になれなかったら1億円くれるかと言ったら、絶対に応じてもらえないはずだ。

ある成功セミナーでは、「成功者続出」と宣伝している。
では、参加して成功しなかったらどうしてくれると聞いても、どうもしてくれないはずだ。そして、実際、成功しない場合が圧倒的なはずだ。

「○○人は、毎日××を食べてるから美人なのです」
××を食べているブスもいれば、××を食べていない美人もいる。

では、核心に近付こう。
「どうやれば金持ちになれるか?」
「どうやれば女にもてるか?」
そんな方法はありはしない。
世の中には貧乏人だって必要だ。
全ての男がモテたら、女が足りないし、人口過剰で世界は滅ぶ。つまり、もてない男の存在価値は大なのだ。

昔、NKH大河ドラマ「毛利元就」の中で、尼子経久が言っていた。
「策多ければ勝ち、少なければ負ける」
ものごとの秘訣として、なんとか合格点なのはこれくらいだ。
ただし、この言葉の意味は、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる・・・かもしれない」程度だ。
実際は、1発で当たることもあれば、千発撃っても当たらないこともある。
サイコロ程度なら、いかに運が悪くても、百回振れば絶対に一度は「1」の目が出るとは言えるだろう。1千万円で応じてくれるなら1億円賭けよう。しかし、運命というサイコロは無限の目を持つのだ。
ただ、私は、尼子経久の言葉を軽く扱って良いとは言っていない。彼には、確実に勝つ義務があったし、戦国武将でなくても、例えば、社長なら、確実に社員に給料を払う義務がある。国王や大統領は国民を養う義務がある。
現実的なリーダーというのは確率好きにならざるを得ない。しかし、世界の確率は計算できない。大物が案外に占い好きなのは、そこらに原因がある。

だが、こういったことなら確実に言える。
「金持ちになれなくても、幸せにはなれる」
「もてなくても楽しくいられる」
案外に、そう思っている者が金持ちになり、もてるものだ。ただし、あくまで「案外に」であり、そんな人も、全く金に縁がなく、ちっとももてない方が普通かもしれない。

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2010.09.08

死んだら懐かしかった

自分が死んだとする。
うっかり、「葬式無用、墓無用」の遺言を残さなかったので、葬式が行われ、使っていた身体は適当な墓に入れられた。
エリナー・リグビーの葬式には誰も来なかったようだが、親族以外で3人くらいは来ただろうか?関心がなかったのか、まるで憶えていないが。
死に方によっては、テレビで、「職場の同僚の話では、仕事熱心で親切な明るい人柄と評判の・・・」とか言われるのだろうが、それだけは勘弁して欲しい。私は是非、餓死といきたい。それなら多分、安全だ。ただ、それも、実際はどうでも良いことだ。

少し経つと、家族の私に関する記憶も消え、習慣的に仏壇に線香をあげてもらえるかもしれないが、話題に上ることもない。
友人も(もしいればだが)、生前勤務していたところの人達にも完全に忘れられた。
私が所有していた物は、大半のものが処分された。家や家具や本など、残されたものがあったとしても、それを見た人が私を思い出すこともない。
死んでも長く名が残る人はいるが、それは、その人の徳の力というよりは、その人に、誰かの欲望を満たすための利用価値があるからという理由の方が大きいのだろう。私にも、また、多くの人にもそのようなものはないので、あっさり忘れ去られるというわけだ。

さあ、これで、この世の誰も私を知らないし、私がこの世に存在した証拠は何もなくなった。
昔、夢の中でそのような状況を見た時は、寂しさ、悲しさ、虚しさ、恐ろしさ、自己憐憫があったが、今は、いくら想像しても、さして悲惨に感じない。
私という個人はいないが、空は広がり、海はきらめき、風は吹く。鳥は飛ぶが、生きていた時より身近に感じることに気付く。木々を見ると、まるで語っているように感じる。それは確かに生きている。
人を見ると、その形よりも、混乱や孤独、不安が浮かんで漂うのが見える。
死んだ私には、ものの形はあまり関心はない。
美少女というものも、外見の美しさというだけで気を引かれることはないが、その存在の精妙さには感動する。だが、その美しさを利用しているような場合(アイドル等)は、むしろ目を(気を)背けたい。あくまで死者の立場としてだが。

この放恣(きままなこと)の空の下では、不思議な懐かしさが広がり、世界は意味で輝いていることが分かってくる。
世界とは、本当はそんなものであったと知る。
個性とか、個々のものに意味がないと言うつもりはない。だが、生前思っていたのとは、その在り様が異なるというだけのことだ。実際、昔飼っていた犬(とっくに死んだが)が、やっぱりおっちゃこちょいなのを見て、「お前って、死んでもちっとも変わらんな」と思ったりすることもある。まあ、そう思うと同時に、荘厳な姿を示して威圧してくるというちょこざいな真似をしたりもするのだが。
つまり、全ては遊びなのだ。
まあ、初心者の死人の言うことだから、あまり真に受けないで欲しい。それに・・・そろそろ生き返らないといけない。ブログも書かないといけないのでね。

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2010.09.07

われはロボットという自覚

突飛に感じるだろうが、もしあなたが、自分は人間でなく、アンドロイドだということが分かったら、どう感じるだろうか?
ショックだろうか?おそらく、そうだろう。
しかし、なぜだろう?
自分の身体が血肉でない、機械だからか?
それとも、自分の心というものが、コンピュータプログラミングに過ぎないからだろうか?
その身体が、人間以上だとしても駄目だろうか?
心とは、コンピュータプログラミングと比べ、そんなに優るものだろうか?
慶応大学大学院教授で、ロボットや人工知能などを研究している前野隆司さんは、著書の中で、自分が機械だと分かったとしても、どうということはないし、そんな時代は来るだろうと著書に書いている。人の心(クオリア)は、今は作り方が分からないが、そんなに難しいものと思えないという。

1973年の永井豪さんの漫画作品「キューティーハニー」は、何度もアニメ化、映画化される人気作品だが、この作品の画期的なところは、16歳の女子高生である如月ハニーが、ある日突然、自分がアンドロイドだったと知るが、ごく普通の感性を持つ彼女が、ほとんど葛藤を起こさないというところだ。彼の父親は、「ロボットが何だ、人間が何だ。お前は私の可愛い娘だ」と言い、ハニーも納得する。そして、回りの人達や、彼女を愛する人間の青年ですら、全くこだわらないのだ。
一方、古いアメリカのテレビドラマ「トワイライトゾーン」では、やはり、ある日突然、自分がロボットだと知った男は、自分を作った科学者を殺す。
このテーマのお話は、実際は大変に多いのだろうが、ハニー型とトワイライトゾーン型に分かれると言えるかもしれない。すなわち、アンドロイドの心がおだやかである場合と、非常な動揺や葛藤を起こす場合だ。
こういったお話が興味深いのは、そこには、人間の心の奥に潜む、重大な疑問があるからだ。
「私はいったい何者なのだ?」である。

そして、人は薄々は気付いているのだ。自分が本当はロボット、あるいは、コンピュータのようなものであることに。
そんな馬鹿なと思うだろうか?
我々は、自分の心というものが、自分固有の特別な何かだと思っている。考え方、好み、信念、主義こそが自分であり、それは何者にも侵すことのできない大切なものであると。
しかし、それは、ただの作りものかもしれない。普通は、多くの部分を母親が作る場合が多く、その他の家族がいくらかの個性を与え、学校や社会といった世間に押し付けられた考え方や感じ方を保持しているだけのことではないのか?
嫌なことに感じるかもしれないが、その嫌だと感じること自体が、作られた感性だ。あなたに、自分とは、良く言えば独立した、しかし、言い方を変えれば、孤立した頼りない存在だと思わせるのは、単に社会の都合からである。

だが、安心して良い。作り物の個性や自我を取り去ったら、大変なことが起こる。
あなたは、「歓喜の歌」を歌う。それは、ベートーヴェンの名曲にもなったシラーの詩の通りだ。「神の火花、楽園の乙女が、世間が引き割いたものを、再び1つにする」のだ。
私は、自分がアンドロイドであると諦めているのだ。「生きながら死人となり果てて、思いのままになすわざぞよき」(至道無難)である。


【われはロボット】
ロボットに心はあるのか?ロボットと人間の友情や愛情は成立するのかを初めて問うた歴史的傑作。
1950年の作品であるが、その価値は全く衰えないばかりか、現在において、ますます重要になってきたと感じる。

【脳はなぜ「心」を作ったのか】
現代科学が解明してきた脳の働きは意外なところも多く、我々の持つ、思考や感情の概念を修正してくれると思う。それは、一時的にはショックなところもあるが、我々が真の進化をするのに重要なヒントを与えることになるかもしれない。

【脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ】
世界的脳神経学者が説く、脳と心の驚異の新事実。天才、精神病から、聖者の体験まで説明してしまう現代科学は凄い。
しかし、だからこそ、分からない部分の神秘への畏敬は増すばかりではないだろうか?

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2010.09.06

1日1食を2年続けて

2008年8月から始めた1日1食も2年を過ぎた。
始めた最初の頃は、1日1回の食事である夕食も、御飯半合(小さい茶碗に6分程度)と小さなマグカップ1杯程度の大きさの豆腐、漬物、豆が少々といった超少食で、体重は毎週2Kgずつ減り、2ヶ月で20Kg以上痩せたものだ。
一番体重が落ちた頃は、35Kg痩せて59Kgほどになった。現在は、1日1食で、肉、魚を食べず、間食もしないことは変わりないが、夕食は十分に食べるようになり、体重は66Kgで安定してきた(身長は約180Cm)。「十分に夕食を食べる」と言っても、決して満腹するまで食べるのではなく、食後でも、食欲が残るようであることを念のため断わっておく。
健康診断をすれば、以前は病人並の診断結果であったが、現在はオールA判定の超健康体だ。
健康診断の際に、医者が面談指導をしてくれるのだが、私の食生活を話すと、医者は「それは間違いだ」と言いたそうなのだが、結果が良好なので何も言えないその様子がおかしい。医者は、何とか欠点を見出そうと、「しんどくないですか?」「お腹空かないですか?」と尋ねてくる。私の答えは、「非常に空腹だが、大変に元気だ」である。
医者も世間も、空腹というものを悪いものででもあるように思い込んでいるが、空腹を十分に感じることほど良いことはない。空腹なら、それをすぐに解消しなければならないという奇妙な因習が人々を不幸にしているのだ。

最近、悪玉コレステロールが実は身体に悪いものではなく、特に男性では、むしろ、多い方が長命であることや、善玉コレステロールが必ずしも良い作用をしないという研究結果が発表されて話題になっているが、私は元々医学というものはさっぱり信じていないので、何とも思わない。医学の定説が覆るなんて珍しいことではない。しかし、医学の定説は、覆らない間は、後に「とんでもなくひどく、間違っている」とされることが、権威をもって人々に強制されるのである。
医療の強制は恐ろしいものである。
数年前、私はメニエール病の発作で倒れ、私は行きたくなかったが、医療を崇拝する家族の強い要請で病院に行き、点滴治療を受けた。1回行けば十分と思ったが、診断結果を受け取るためにも次の予約を取らされ、再度行くと、「点滴しますか?」と看護師に聞かれたので、即、断わった。しかし、医者が「点滴しよう」と言い、断わり難く、再度点滴を受けた。私は、点滴が気持ち悪くて仕方がないのだ。この私でさえ断われないところに、医療の強制の恐ろしさを感じた。家族は大騒ぎしたが、私は、ここで断固、病院と縁を切った。そして、自然に治ることはないと言われるメニエール病はゆっくりと沈静し、その後、1日1食の生活を続ける頃には、何ら兆候はなくなった。即ち、完治である。

医者に「運動していますか?」と聞かれるのも何か嫌だ。医者や世間の言う「運動」とは、広い場所でやるようなイメージのものばかりだ。
私は、畳1枚あれば出来ることしかしない。
昨年8月から腕立て伏せをやっているが、10回から始め、今月は140回になった。毎月、10回ずつ回数を増やしている。詳しく書くと、
・朝
スワイソウ600回(300回×2)
腹筋運動50回(50回×1)
・夜
スワイソウ400回(400回×1)
腕立て伏せ140回(140回×1)
腹筋運動50回(50回×1)
スクワット50回(50回×1)
となる。
以前は、ウォーキングをやっていたが、休日しかできないことや、歩くのに良い場所はやはりウォーキングをする人が多く、人の多い場所が嫌いなので、やめてしまった。しかし、現在のような運動の方が私には向いている。
私は、腕立て伏せは、誰が発明したのか知らないが、神秘的とも言える最高の運動だと思っている。多くの優れた格闘家にも腕立て伏せの愛好家が多いが、スポーツ医学的には、特に、回数の多い腕立て伏せは合理的と見なされていない。だが、毎日やれば、素晴らしさは分かると思う。


【武道の力】
ある超人的な合気道家が、90歳の時に、腕立て伏せを軽々と150回やったという話が紹介されています。
著者(武道家)は、50歳を過ぎ、70回しか出来なかったが、その合気道家の「70歳までは鍛えれば筋肉がつく」という言葉に刺激されて、2年かけて200回出来るようになったと言います。

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2010.09.05

悪い夢は幸運をもたらす

眠りの中で悪い夢を見たから不幸だという人はあまりいない。夢は短いし、忘れやすい。

だが、中国の古典「列子」にこんな話がある。
ある王様は、毎晩、夢で奴隷になるので幸福でなかった。ところが、この王様の奴隷の老人は、毎晩、夢で王様になるので、そんなに不幸でなかった。
王様は、奴隷の仕事を減らして楽にし、贅沢を慎むようにしたら、夜の夢もそう悪いものでなくなった。奴隷の夢は、以前ほど豪華ではなくなったかもしれないが、現実が良くなったのだから悪くはないだろう。

普通は、このように極端ではなく、夢でも現(うつつ)でも、良いことと悪いことが混ぜ合わさって起こる。
大きな幸福と大きな不幸が交互にくる場合もあれば、大きな幸福の中で多くの小さな不幸が起こる場合もある。
いずれにしろ、良いことだけ、悪いことだけということは絶対にない。
良いことだけを求めるのは、昼だけ求めて夜を消したがるようなものだ。しかし、人間は良いことばかり求める。それで、不幸の息の根を止めようとする。敵は殺してしまう。まさに、夜をなくして昼だけにしようとするような愚かなことだ。
その点、虫や動物は賢い。オスがメスを巡って争っても、敵のオスに致命傷を与えるようなことは決してしない。食べるために殺すとしても、必要以上の狩りはしない。肉食動物も草食動物も、餌がなくなれば適度に滅んで、餌にしている動物、植物を繁殖させる。

この世には、良いことと悪いことの両方が必ずある。昔の中国では、この世は光と闇のせめぎ合いで出来ていると言い、易では、明と暗は繰り返すことを教えている。易は最高の運命学である。
そして、中国やインドの賢者達は、夢と現実は等しいものであると言う。ならば、悪い夢は、良い現実をもたらすものとして喜んで良いはずだ。
また、意図的に不幸を作って幸運を呼ぶ方法もある。願いを叶えるためには、犠牲を伴うものだ。ならば、積極的に犠牲を差し出せば良い。成功したければ、遊ぶ時間を犠牲にする。スーパーモデルになりたいなら、甘い食べ物を楽しむことを犠牲にする。
水野南北は、3食のうちの1食を神仏に奉げれば(ただし、食べるのをやめて心で奉げれば良いとした)願いは叶うと請合った。1食の中で、食べたいものを残すことでも良いのだ。
昔、女優の細川ふみえさんは、3食全てそれで良いほど大好きなチョコレートを絶って願掛けをしたことがあるが、良い方法である。これが正しい生贄、犠牲の奉げ方である。

悪いことが起こったら、良いことが起こると喜べば良い。悪いことと良いことは、昼と夜のように、相伴うのだ。
良いことが起こったら、より慎まなければ不幸になると、昔から賢い人は知っていた。
超念力で知られた石井普雄さんは、「難事は良いこと」という至言を残したが、その意味はもう分かると思う。ただ、彼自身は、病人が自分で消すべき病気を消してやり、自分が闇を引き受けてしまって早死にしたのだが。
誰しも、家族、学校のクラスや部活、会社などで、嫌な人がいるものだが、嫌な人こそ、幸運をもたらす福の神である。
顔を合わせるのも嫌な夫や妻なんて最高の天使である。愚か者はすぐに離婚して、どんどん不幸になっていくのだ。

幸福になるなんて実に簡単なことであることが分かると思う。

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2010.09.04

ニワトリと卵の真相

「ニワトリと卵はどちらが先か?」という歴史的にも世界的にも有名な問題がありますね。
「どっちが先だ」なんて考え方を脱却することが人類の進化です。

「ニワトリと卵のどちらが先か?」なんてのは、「春と秋のどちらが先か?」と言うようなものです。
夜と昼ではどちらが先かなどと言えるでしょうか?

道元は「正法眼蔵」の中で、「薪の後に灰があると思ってはならない」「生の後に死があると思ってはならない」と注意しています。
「薪は薪になりきり、灰は灰になりきっている」
「生は生になりきり、死は死になりきっている」
そのように書かれています。
余計な解説は不要ですが、ただ言っておくと、「薪は薪で固定されたもの」「灰は灰という単独のもの」というのではありません。
「私は私」「あたなはあなた」なんて言いますよね。
英語にも、“I am me”、“You are yoy”という同じ言葉がちゃんとあります。
「自分らしくあれ」という意味なんでしょうが、世間というのは変なところで、そう言っておきながら、「日本人らしく」「クリスチャンらしく」「名門校の生徒らしく」「わが社の社員らしく」「スポーツマンらしく」とか言うのですね。
これは、「自分らしく」の意味を大誤解しているのです。それは何千年も前からかもしれませんけどね。
「ニワトリが先か、卵が先か?」なんて奇妙なことを考えるのも、そんな考え方に凝り固まってしまったことが原因です。

ニワトリはニワトリになりきり、卵は卵になりきっていますが、それらは不可分です。ニワトリは卵を伴い、卵はニワトリを伴っています。同時に存在しています。
夜と昼って不可分でしょう?同時にあるものです。
さらにいえば、夜は世界と不可分だし、昼は世界と不可分です。ニワトリは世界そのもので、卵は世界そのものです。
犯罪者も世界と不可分で、我々とも不可分です。我々もまた犯罪者です。犯罪者が犯罪者を裁けるはずもありません。自分は犯罪者じゃないと思い込んでいる人って、どこかおかしいと思いませんか?

昼と夜では、それぞれが長過ぎて、一緒にあることが分かり難いかもしれませんね。
でも、例えば、光ってのは、明と暗が凄い速さで交互にやってくる波動なんですよ。音は、それよりはずっと遅いですが、同じく波動です。そのゆっくりしたものが海や池の波で、さらにゆっくりなものが夜と昼です。
光なら、明と暗が一体であるということがイメージしやすいと思います。
子供って輝かしいですね。光と同じで、ちゃんと明と暗があるのですが、その交換が速過ぎて光しか見えないからです。歳と共にその交換が遅くなります。
若い頃に光ばかりを求めた人って、老人になると闇だけです。まあ、それが普通ですけどね。
でも、「レ・ミゼラブル」に出てくる、ミリエル司教の妹のバティスティーヌは、若い時ですら美しくなく、ずっと暗でしたから、老人になってから高貴な輝きをまとったのです。
1人の人に関しても、闇を嫌わなければ光を得られますよ。

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2010.09.03

どのくらいの金持ちが幸せか?

ロンダ・バーンの「ザ・シークレット」にもあったが、「請求書を受け取ったら、それと同額の小切手をもらったと思え。そうすれば、本当にお金が入る」というのは、昔からよく聞く教えである。
これは、本当のことである。ただし、そんなことを本当に信じられる者が滅多にいないというだけのことだ。
請求書と小切手が同じもの・・・これは、「荘子」でいう「万物斉同の理」、すなわち、全て斉(等)しいという真理であるが、「荘子」にも、そんなことを理解できる者がいかに少ないかを、実に美しい言葉で表現しているくらいだ。

正反対に見えるものが実は同じものであるというのは、道元の「正法眼蔵」には一貫して見られると感じる。当然、道元はこのことをよく分かっていて、それをなんとか理解させようとしたのかもしれない。
良寛さんが、縁あって「正法眼蔵」を読んでいたことはよく知られている。当時の日本では、本といえば書き写すしかなかった時代で、良寛さんは大ラッキーだった。
良寛さんは、「荘子」すら読むことができた。
しかし、良寛さんは、ある時期まで、万物斉同の理を完全に悟っていなかった。
真理の理解というのは、練習問題を解いて達成できるものではない。その理解は自然に生じるものであり、直観であり、それを悟りという。
あくまで聞きかじりであるが、良寛さんが悟った様子を書いてみる。
良寛さんが子供好きで、子供たちと一緒に遊んでいたことはご存知と思う。ところが、昨日までそこにいた女の子が今日はいなくなっているということがよくあるようになる。貧しさのために、親に身売りさせられたのだ。
良寛さんは、自分の無力さを嘆き引き篭もって、苦しみ続けた。
そんな時、良寛さんに、「正法眼蔵」の教えが浮かぶ。光と闇は同じもの。コインの裏表は一体であることを、苦しみの中で理解する。
私は、この話を聞いた時、「なぜ、コインの表裏が一体ということと、身売りされた少女のことが関係あるのか」と思ったが、大抵の人もそう思うだろう。しかし、それが理解できるのは悟りによるしかない。
悟りには、苦しむことが必要かもしれない。
それは、強烈な心の不安定を調製するような、大きな反動かもしれない。

万物斉同の理を理解すれば、こういうことが分かると思う。
例えば、あなたは大富豪になれるかどうかだ。大富豪とは、数百億円といった資産持ちのこととするが、そうなることは、可能性はあるが確実ではない。
だが、確実と言うなら確実とも言えるのだ。それはこういう訳だ。あなたが、大富豪を目指して達成できなくても、世の中には大富豪は必ずいるし、これからも現れる。それは確実なのだ。
「そんなんじゃ嫌だ。自分が大富豪にならないなんて」と思うだろうか?しかし、誰が大富豪になっても同じことなのだ。
大富豪なんてのは、そんな良いものじゃない。ウォレス・ワトルズの本にも書いてあるが、お金持ちの大半は悲惨なものだ。特に、家庭や健康に大きな問題を抱えているのが普通だ。必ずしも、金持ちが家庭や健康を損なう必要があるわけではないが、万物斉同の理を理解していないので、そういった問題に対処できないのだ。
かつて、邱永漢さんは「賢者は中金持ちをめざす」(1984)という本で、30年ほど前の時代で、使える現金が月に百万円くらいがベストと書いていた。それは税金の問題もあるが、普通の人間の器では、平安でいられるよう対処できるのは、その程度までと悟っていたのだと思う。
私なら、大富豪にしてやると言われても断わりたい。ビル・ゲイツは数兆円相当の資産があるといっても、それを自分のものとは思っていない。しかし、彼は、 17歳の時からフルタイムで働き、あらゆる苦難に挑んできたし、これからもそうするだろう。しかし、私ならまっぴら御免である。そんな器ではない。
だが、それなりに苦労を知る人なら、数千万円から数億くらいなら、バランスを取りながら持ち続けることも可能かもしれない。それでも、煩い事は多いかもしれず、無い方が良いかもしれないのだ。

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2010.09.02

愛と憎しみは同じものだ

児童ポルノ規制に対する条例改正案では、絵や漫画に関する話がやたら多いように感じる。現代人は活字を読まないと踏んで(見積もって)のことなのだろうか?私には、実質的に文章の力の方がずっと大きいと思えてならない。言葉は潜在意識にまで潜入し、人間自体を根本から変えてしまうことがある。
そこから考えると、児童ポルノ規制の改正法案の趣旨から言えば、ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」は出版禁止だろう。まあ、実際、色々な国で出版禁止になったことがあるようだが、それが正しかったかどうか考え直すことにも意味があるかもしれない。
「ロリータ」には、少女の性的描写は数多いが、超一流の作家の手による表現の力は、読み手にもよると思うが、単に上手い絵や漫画どころではない。

ところで、私は、「ロリータ」は高校生の時に興味本位で読んだが、そういった性的な部分とは全く異なる箇所が最も印象に残った。
それは、ロリータ(ドローレスの愛称)の母親のヘイズ夫人の話で、ロリータが1歳位の時、ベビーベッドからおもちゃを落としては私(母親)に拾わせて喜んでいたというところだ。つまり、それほど、ロリータは生まれつきの性悪であると言いたがっていたのである。
普通に考えると、赤ん坊にそんな意図があるはずがない。
ヘイズ夫人は、自分の子供であるロリータを憎んでいたのだろう。そんな母親は少なくはない。
そして、ヘイズ夫人の望み通り、ロリータは歪んだ精神の持ち主に成長するのである。

「ロリータ」を読んでから、飯田史彦さんの「生きがいの創造」を読むと、ロリータと母親は前世で憎み合っていた者同士が親子になったのだと思ってしまうほどである。
また、内海康満さんの「霊止乃道(ひとのみち)」の中にある話で、子供に手を焼いている母親がいたのだが、内海さんがその子供(男の子)に、「お前はこの人(母親)に復讐するために生まれてきたのだろう?」と言うと、その子が「見透かされたか」という不気味な顔をするというものがある。
あなたも、自分の親や子供、あるいは、兄弟姉妹を見て、そう感じたことがあるかもしれない。
だが、仮に、もしそうであったとしても、そのまま憎み合い続ける限り、来世もその次の生でも、醜く苦しい憎み合いを続けることになるのだろう。

ロリータは母親を愛していなかったのだろうか?
逆に、ヘイズ夫人はロリータを愛していなかったのだろうか?
小説を読む限り、それはほとんど感じられない。
もちろん、ハンバート(小説の主人公である性的倒錯者の中年男性)とロリータの間にもない。
だが、「アイアムザット」という本にこんな話がある。ある母親は、子供がどうしようもない負担で、ひとかけらの愛も示さなかった。子供はこの母親から、「ママを愛しているなら死んで頂戴。それが出来ないなら、ママを愛していないということよ」という無言の責めを受けながら育った。その子は、成長し、著名な産婦人科医になって、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジを訪ねた。マハラジは「あなたは母親を愛しているのだ」と言う。「しかし、母親から愛を受けたことはないのです」と言われても、マハラジは、「それでも、母親への愛を止められなかったのだ」と答えた。

別に、奇妙な哲学でも禅問答でもなく、憎しみと愛が同じものであることは真実だ。

愛よりももっと深く愛していたよおまえを
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよおまえを
これは、萩尾望都さんの僅か15ページの傑作漫画「半神」で、双子の妹ユーシーへのユージーの言葉である。

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2010.09.01

「せーの」は偉大なマントラ

「悪魔(デイモス)の花嫁」という漫画は、1975年に連載開始され、いまだ継続中らしい。原作は池田悦子さん、漫画はあしべゆうほさんによる作品だ。
古い時期のお話であるが、悪魔デイモスは、絶世の美少女である女子中学生の美奈子に、死の恐ろしさを見せ付けてから誘惑する。
「美しいお前も、いつかは老いさらばえて死ぬ。私の花嫁になれば、永遠の若さと命を約束する」
しかし、美奈子の迷いは一瞬で消え、明るくおだやかな表情で去る。
「死があるからこそ誕生がある。生まれいずる命は美しい。何にも増して美しい」
美奈子は悪魔に勝ったのである。

生まれいずる命はなぜ美しいか、ご存知だろうか?
「そんなの当たり前じゃない」と言う向きもあるかもしれないが、本当に分かっているのだろうか?それが本当に分かれば、悪魔にも勝てるし、世にも勝てる。
私などは、赤ん坊が美しいと思ったことなど一度もなかった。そして、そう思う人は大変に多いのだと思う。赤ん坊をコインロッカーに捨てたり、殺したりまではしなくても、さして可愛いと思っていない母親も少なくはない。だから、多くの女性が結婚したがらず、子供を産みたがらないのだろう。もちろん、女性だけでなく、男性も同じ傾向にある。

昨日も書いたが、人がこの世に「生れ落ちる」という言い方に人々の持つ奇妙な幻想が感じられるように思う。
人は生れる時に落ちたりしない。それでは、いかにも、地上というモノの世界に孤独に投げ出される感じがある。
もう少しマシな言い方をするなら、この世に生じるのである。
「運命を背負って生まれた」という言い方もあると思うが、これも、「運命と共に生じた」というのが事実に近い。
「運命」という言い方もまた、それぞれの人が孤独な存在である感じが強い。
最適な言い方ではないが、「関係性と共に生じた」というのがより実際を表しており、命の誕生とは、新しい世界が生じることなのである。
あなたは誰でもない。あなたは関係性の存在である。それは全宇宙との関係性だ。関係性の中には、個別の存在などない。あるのは関係性だけだ。あなたは宇宙全体であると確実に言えるのだ。
あなたは生まれもしなければ死にもしなかった。それが事実だ。

「荘子」の「斉物論」は、そのようなことを言っているのだろうと思う。斉とは、「一斉」という言葉に使われるように、等しいという意味だ。
「せーの」という掛け声は、「斉の」であり、「みんな一緒に」という意味だ。それは偉大なマントラだ。なぜなら、その「一緒」とは、宇宙全体を指すのだから。
自分が世界全体であることを自覚するには、「荘子」の斉物論のアドヴァイスを受け入れることは有益と思う。別に難しいことが書かれている訳ではない。一言で言えば、自然にまかせる、つまり、あるがままに受け入れるということだ。
慣れてしまえば、荘子の言う「一本の指も天下であり、一頭の馬も万物である」というのも、そうぶったまげたことではなく、むしろ、他人を出し抜くという考え方に違和感を覚えるだろうと思う。

「あなたは、この子の命を救うために、次元を超える力が欲しい。そうね?」
「はい」
「それには対価がいるわ。あなたはそれを払う気があるかしら?」
「はい」
「・・・。私はそれが何かまだ言ってないわ。それでもいいの?」
「構いません」
「対価は、その人にとって、最も価値のあるものでないといけない。あなたの対価は、この子との関係性」
~CLAMP著「ツバサ」より ※正確な引用ではありません~

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