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2008.12.02

「求めよ、さらば与えられん」の本当の意味

新約聖書の有名なイエスの言葉「求めよ、そうすれば与えられるであろう」はとんでもなく誤解されています。
そもそもが、「誰に」「何を」求めれば、「何が」与えられるのか、肝心なところが全て省略されています。
いくらでも勝手な解釈が可能です。これは、日本語の聖書も英語の聖書もほとんど同じです。
なぜ、こんな曖昧な表現になったのか不思議ですが、英語や日本語に訳する時に誤訳した可能性もあります。
最もひどい解釈は「神様に求めれば、欲しいものを与えて下さる」というものです。何とも馬鹿な解釈ですが、ひょっとしたら、最も一般的な解釈かもしれません。また、多くの成功哲学がこの解釈を基にしていたりもします。

この言葉の本当の意味は、「神を求めよ。そうすれば信仰が与えられる」といったものです。
イエスは、「天の父は、あなた方に必要なものはとっくにご存知だ。それらは願わずとも与えられる」と言っているのです。だから、物質的なものを求める必要はないのです。それを求めよとイエスが言うはずがありません。

では、「神を求めよ」とはどういうことでしょうか?
これは、一般の理解とは全く逆で、「何も求めるな」という意味です。
何も求めないことが、神を求めることになるのです。
神を求めるとは、そういうことなんです。
そうすれば、信仰、即ち、何かを信じることができるのです。

ただ、我々普通の人間に、何も求めるなと言われても戸惑ってしまうかもしれません。
お金、地位、名誉、愛、恋人、友情、成功、さらに命・・・これら一切を拒否しなければなりません。
そして、それが出来れば、信仰が得られますが、信仰とはいかほどのものでしょうか?
信仰とは、信じる心です。
イエスは「信じる者には何でもできる」と言っています。すなわち、信仰があれば不可能はないわけです。

ここで、昔から聖者達がよく引用する言葉にたどり着いたことになります。
「全てを諦めれば、全てを得る」
「無限の代償は有限全て」
「無になりきれば不可能は無い(思いのままだ)」
「欲望を捨てれば、この世に不可能はない」

しかし、表向きで「全てを諦めた」と思っても、「どうせ後で全て得られるのだから」という下心があっては、当然意味はありません。

ではどうすればいいかと言うと、最も諦めたくないものを諦めるというアプローチは如何でしょう?
そして、それは命です。
命を捨ててかかれば奇跡が起こるというのは、多くの人が実証してくれています。
しかし、別に生贄になれとか、切腹しろと言っているのではありません。
他人にしろ、自分にしろ、「殺すな」というのは、最も重要なことで、モーセの律法にあるくらいですから。
命を諦めればいいのです。言い換えれば、命を捧げれば良いのです。
そして、命を捧げるなら、その他の一切を捧げたことになるのです。

命の元は食です。この食を節すれば、命を捧げることになるのです。
しかし、食を節するのは辛いものです。だから命は捧げにくく、結果として信仰は得にくいのです。
我々は過度な断食、絶食をする必要はありません。また、一定期間の断食などわけのないことです。私も10日連続の断食をしたことがあります。そうではなく、生涯に渡って少食をすることの方がはるかに尊いのです。
そうすれば、信じる心、即ち、信仰、信念が与えられます。

水野南北は、観相(身体や顔の相で運命を鑑定する術)を極めましたが、それは完全ではなく、人の運命を完全に知ることができませんでした。それで、困っている人全員を正しく導いてあげることができなかったのです。
そこで、50日に渡る水行と断食の荒行に挑みました。
その時、「食が全てだ」という天啓を得ました。
まさに、南北が命を捨てて求めた時に、答えが得られ、しかもそれを堅く信じたのでした。
しかもそれは、神を求める誰にでもできる正しい方法として南北に与えたのでした。
南北の運命鑑定、そして、アドバイスは万に1つも外れなくなりました。
当然、我々も、食を厳しく節することで信じる心を獲得し、何でもできるのです。

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Comments

こんにちは。始めまして。

 kayさんは、「求めない」を求めたのですね?
すると「信仰」が与えられた。

 聖書を読むと、どこか“試されている”気がします。

『求めよ、さらば与えられん』

・心の平安を求めると、心が平安になるもの?があたえられる。
・戦争を求めると、戦争に必要な道具?が与えられる。
・もっと人間として強くなりたい、と求めると、、、

何を求めるかで、与えられるものが変わる。

 解釈するようなものではないと、私は思います。
 
 

Posted by: 庵木瓜 | 2009.06.11 07:54 PM

★庵木瓜さん
はじめまして。
貴方が何かを考える機会を与えることができたなら幸いです。

Posted by: Kay | 2009.06.11 09:36 PM

マタイ7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 7:9あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 7:10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 7:12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

この箇所では7:12が要点だと思います。

Posted by: Tom | 2010.03.23 01:19 PM

★Tomさん
何の要点かいまひとつ不明ですが、その黄金律や1割献納といった、キリスト教の「与える」精神は良いと思います。

Posted by: Kay | 2010.03.23 09:40 PM

わたしはまったく宗教を信じていません。もちろんキリスト教もです。今まで聖職者が人民を治めるための道具くらいに思っていました。けれどもあなたがたの意見交換を読んで、宗教もそんなに捨てたもんじゃないなと思いました。宗教の教えは確かに人生をより良くするための、人間がみな互いに幸せに暮らすための一つの方法を示している。現在の、自分が何に依存しているかも分からないような複雑化した社会において、明らかに人々の心に欠けているものを示している。古代の賢人の叡智が表れている。そう思いました。
ただここで一つ問題提起をしておきたいと思います。宗教を信仰している人々は、自分はその宗教の教えを十分に理解していると思っている。神の教えをその通りに理解し、実践していると思っている。しかし、本当にそうでしょうか。これまででも明らかなように、神の教えを伝える言葉は含蓄に富んでおり、逆に言えば曖昧で、多様な解釈が可能です。それを、本当に理解していると言い切れるでしょうか。ここで特に言及しておきたいのは、異宗教を信仰する人々を悪と考えるような人々についてです。神は、本当にそのような考え方を信者に求めているでしょうか。人間の対立を、神が求めるでしょうか。また、善や悪とは一体何なのでしょう。誰にとってのものなのでしょう。この世に普遍的な善や悪は存在するのでしょうか。
そのような視点で世界を眺めることは、決してマイナスにはならないはずです。
わたしは神が戦争や差別を望むとはとても思えません。
どうも長文失礼いたしました。

Posted by: JP | 2010.04.17 12:17 AM

★JPさん
非常に良い問題提起ですね。
是非、深くお考えになって下さい。

Posted by: Kay | 2010.04.17 12:23 PM

素晴らしい。 
有難う御座います。 

Posted by: gbd666 | 2011.02.01 03:48 PM

これに続きがあるのはご存じかと思います。
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」。
努力すれば、何でもできるという意味でよく使われている言葉ですが‥。
本当の意味は、親は子の求めには、それ以上を与えようとするのと同じように、神様も心からの祈りに応えて「良い物」を下さるという意味もあるようです。
良い物はこの場合は聖霊。宗教的なのかもしれません。

人それぞれの解釈があり、面白いですね。


Posted by: BATA | 2011.09.26 03:05 PM

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