日本人の感じる少女の美
日本人は少女好きである。
とはいえ、本来はロリコンという意味ではない。
欧米で、美しい少女を主人公にした映画などを作ったり、あるいは、ディズニーで白雪姫やシンデレラの舞台をやると、日本人にとっては、ヒロインの少女には、かなりの違和感や落胆を感じるはずだ。つまり、欧米人が考える美少女は、日本人の考える美少女と趣がかなり異なるのである。
欧米的美少女は、単に小型の女である。日本人が思う少女としての美しさはほとんど無い。
ディズニーの白雪姫あたりは、正直言って気色悪いと感じるのではないだろうか?いや、私も、美少女をテーマにした欧米の映画を色々見たが、良いと思ったものはなかった。
キューブリック監督の「ロリータ」(原作はナボコフの小説)は、当時14歳だったスー・リオンにロリータ役に起用して物議を呼んだ。これも、映画としては大変に素晴らしかったのであるが、この映画のロリータも、単に若い馬鹿な女でしかなかった。そもそも、原作を書いたウラジミル・ナボコフ自体、欧米的な美少女のイメージで小説を書いたのかもしれない。
さて、ではなぜ、日本人の美少女感は特別で、おそらくは、深い情緒性があるのはなぜであるかを説明する。
まず、なぞかけのような答を言うなら、
「日本は四季がはっきりしている」
「猛獣がいない」
からである。
「枕草子」にはこのように書かれている。
春は明け方が良い。
夏は夜が良い。
秋は夕暮れが良い。
冬は早朝が良い。
なるほど、そうだとも思う。だが、夏の明け方や夕暮れも素晴らしいだろう。
いや、どの季節だって、明け方や夕暮れは美しいのである。特に日本の自然のある場所では。
日本人には、本来、明け方や夕暮れといった微妙な時の美しさを特に愛でてきたのである。山や海での明け方や夕暮れの美しさに心洗われないはずはない。
この微妙さが、日本人の感じる少女の美しさなのである。日中でもなければ夜でもないが、単にその中間でもない特別な美であるのだ。同じように、子供でも大人でもない、特別な美しさが少女にあることを感じるのが日本の伝統であった。
上に「猛獣がいない」という一見不思議な条件をあげた。ジャングルでも夕暮れは美しいのであるが、そこでは夕暮れは夜行性である猛獣が目を覚ます合図であり、人々にとっては、恐怖や警告の合図でしかない。
自然が豊かで、なおかつ、猛獣がいない。狼がいたとしても、狼は人は襲わない。このような恵まれた中に日本人はいたのであり、そこで独特な情感を発達させた。わび、さび、もののあはれ・・・これらは、欧米人にはなかなか理解できないものである。
そして、現在、日本に少女がいなくなってきた。
年齢的には少女でも、単に大きくなった子供か、若い大人の女でしかない。欧米と同じである。それも、日本人が自然に接しなくなったからというのが大きいと思う。
現在の「萌え」の中に、少女の美しさを捉えている部分は確かにある。上に書いた通り、既に少女の居ない日本で、現実の女の子より、アニメの中の少女の美しさに真の美を感じるのもその表れであろう。しかし、やはり自然に接して情感を磨いていないので、性的魅力にばかり関心が向かってしまっているのである。そのため、萌えとロリコンが非常に近くなってしまっている。
日本人はもっと自然に接し、その中に神秘を見出し、これらを神と感じた古来の感覚を蘇らせることで、再び特別な民族となるであろう。
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