2010.09.30

機械に心は生じるか

新しい記事を、@niftyのココログに載せるのは今回で最後になります。明日以降は、ライブドアブログにのみ掲載いたします。

この世では、どんなものにも終りがあります。
新しい自動車を買って、それまで長く乗っていた古い車を手放したり、長く務めていた会社を辞めたりする時には、誰しも、程度の差こそあれ、寂しいと思うのかもしれません。それを、人間らしい感情と言い、機械との違いであると考えることも出来るかもしれません。

「コレクター・ユイ」という、NHKのアニメにもなった漫画の中で、長く使っていたパソコンを捨てるのが悲しくて、幼い女の子が、夜の廃棄物置き場で、そのパソコンの前で泣いている場面があります。
その時、パソコンはこんなことを考えます。「この子はなぜ泣いているのだろうか?自分は古くなったので、捨てられるのは当然のことなのだが・・・」
パソコンは、この疑問をどうしても解きたくなり、そのことが発端となって、その後、コンピュータネットワークが発達する中で、この女の子の回りで不思議な事件が起こることになります。
他にも、「8(エイト)マン・インフィニティ」という漫画で、幼い少女の姿のアンドロイドに宿った、アンナと名付けられた人工知性体が、自分の命を犠牲にしてまで、このアンドロイドの少女を救った少年の行動にどうしても合点がいかず、少年の行動の謎を解くために、少年にアンドロイドの身体を与えるというものがあります。
ガイナックスの漫画・アニメの「まほろまてぃっく」という作品では、アンドロイドの少女を守ろうとして、強力な戦闘用アンドロイドである自分に敢然と立ち向かってくる14歳の人間の少年の行動に、この戦闘用アンドロイドがパニックを起こします。
こういったお話は、古い時代のものから数多くあると思います。
総じて言えば、人間の感情は、論理的でなく、機械には理解不能ということです。
「スター・トレック」のミスター・スポックの口癖として知られる「人間は非論理的ですね(To error is human)」ということですね。

ところで、機械が意志を持つことが可能かというのは、科学の世界でも大きな論争の的になっているものです。
スティーブン・ホーキングとも並び称せられる世界的数学者・理論物理学者のロジャー・ペンローズは明確な否定派で、人間の脳が意志を生み出す仕組みを解き明かそうとしていますが、科学者の中には、機械が意志を持つというのは、そんなに難しいことでもないと言う人もいるようです。

ただ、こういった問題は、誰の、あるいは、どんな考え方が正解であるかというより、視点の問題に過ぎないという気がします。
自分というものが、皮膚の内側の個別の存在というなら、意志や心はその中にあり、機械に心が生じることはないと思います。しかし、我々は個別の存在として生存することなど全く不可能で、例えば、回りの空気や熱、あるいは、大気層を取り去れば、一瞬でも生きていることはできないことを理解すれば、皮膚の外側のあらゆるものも自分であると考えざるを得ず、意志や心の在りかなど限定できるとも思えません。
脳の中に意志を生み出す量子的な仕組みを見出せるとしても、それは、脳の外を含めた全体との総合的な作用で成り立っていることは間違いないでしょう。

上にあげた漫画作品では、機械が人間の心に興味を持ち、それを解き明かそうとしますが、それは即ち、我々自身が、我々自身の心に興味を持っているというに過ぎません。
物質主義に陥った我々が、その反動で、心に強く惹きつけられていることが、そのような発想が浮かぶ理由なのであると思います。
そして、人の心は大きな謎です。昔から多くの人が言ったように、自分こそが最大の謎というわけです。

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2010.09.29

成り行きに任せる

いろいろな人生訓、座右の銘がありますが、個人的には、究極のものは、

成り行きに任せる

ではないかと思います。
世の中、なるようにしかなりません。どんなに超人的な精力や能力で人生を切り拓いた人でも、結局はそう言うのではないかと思います。
この世はままならぬものですが、それを楽しむことが大切ではないでしょうか。

古代中国の賢者、荘子は、「思慮、分別を捨て、成り行きに任せる」ことが、永遠の道(タオ)と一体化することになると言います。
また、近代インドの聖賢ラマナ・マハルシは、「神の至高の力が全てを動かしていくのに、何を思い煩う必要があろう。汽車に乗ってまで、自分の頭の上に荷物を載せて苦労することはない。荷物を置いて安心しなさい」と言いました。
ニーチェやイェイツは、成り行きによる偶然であっても、それを自分の意志とすることが神に近付くことであることを見出したのだと思います。

成り行きに任せるを英語で言うと、

Let nature take its course.
Let things take their course.
Let things run their course.
Let things drift. ※drift(傾向・動向)1文字で「成り行き任せ」という意味がある
leave something to take its own course.
leave all to chance.

等となりますが、ものごとは自然に任せると何とかなる、あるいは、ものごとは自然に進むという雰囲気は、東洋思想とさほど変わらないように感じます。

新しい世代のコンピュータプログラミングでは、情報(データ)と動作の方法(ファンクション)が一体となり、その中身を外からは見えないように隠した「オブジェクト」というものがあります。「オブジェクト」とは「もの」程度の意味です。それら(オブジェクト)は、お互いにメッセージを伝え合いながら、つまり、連携はしますが、それぞれ独立して働きます。こういったことを、専門的にオブジェクト指向と言います。
「マトリックス」やアニメの「コレクター・ユイ」のような、バーチャル・ワールドはそのようなもの(オブジェクト)で出来ています(多分・・・)が、この世にだって、我々には分からない「オブジェクト」がいたるところに存在し、我々の魂が発したメッセージを受け取って、それらが情報交換しながら働いています。我々が下手に干渉してはなりません。
つまり、任せて放っておけば良いのです。

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2010.09.26

脳を大切に

量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフが量子物理学の道を志したきっかけは、幼い時の超常現象体験であったようです。その超常現象は、テレポーテーション(瞬間移動)のようなものです。
彼は、「まともな」量子物理学の著作も書いていますが、幻覚剤の使用体験やシャーマン(呪術師)との交流を描いた神秘的な著作もあります。彼のホームページも、なかなかぶっ飛んでいますが、現時点(2010年9月26日)のトップページのGIFアニメが、幼い時のテレポーテーションの体験を表しているように思われます。

テレポーテーションのような不思議な現象は、量子力学が扱う極微な世界では普通に起こりますし、時間の遅れや空間が縮むといった現象は相対性理論が扱う極大な世界で起こります。
ただ、我々が日常体験する範囲では、あまりにわずかな規模でしか起こらないか、あるいは、あまりに稀にしか起こらないために、不思議な現象は存在しないことにされるわけです。
あの頑迷な超常現象否定論者の大槻教授だって、量子力学の中で不思議なことが起こったり、それが日常の範囲でも、あまりに稀にではあるが起こる可能性があることまでは否定していません。

しかし、考えようによっては、不思議な現象は、我々だってよく経験しているかもしれません。
例えば、何かを夢中になってやっている時は時間が速く流れたり、苦痛な時間は非常に遅く過ぎるように感じることです。アインシュタインも、相対性理論のくだけた説明には、こういったことを言ったようです。
また、人間の能力は、一定して進歩するというよりは、しばらくの間変化を見せなかった後で急に進歩する(いわゆるブレイクスルー)場合が多いのですが、これが量子力学で扱われる電子の瞬間移動に似ていると感じることもあるようです。チン・ニンチュウの「誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる」という本で、物理学者でもある経営者が年収をわずか3千万円から3億円にした話にそのようなことが書かれています。ただ、世界的な理論物理学者・数学者のロジャー・ペンローズは、似ているように思うことは慎重に扱うべきと言っているようでもあります。

極微な世界、極大な世界で実際に起こる不思議な現象を日常の体験にもたらすのは、言うまでもなく脳の働きです。
有名な美術教師のベティ・エドワーズは彼女の著作「脳の右側で描け」で、好ましい状態で絵を制作している時に、時間が速く流れるのは、右脳が活性化しているからであることを説明しています。また、ロジャー・ペンローズは、脳が量子的な機能を持つ器官であり、この脳に極微な世界と極大な世界(量子論と相対論)を統合させる鍵があるといったようなことを言っていたと思いますが、直感的洞察力に恵まれた人達もまた、相互に大きな矛盾なく、そのような主張をしているように感じます。
しかし、脳は神秘なものであると同時に物質でもあり、器質的なトラブルがその働きに影響します。インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに、誰かが、老人の聖者の人間性の欠点を指摘しますと、マハラジは、聖者とはいえ、脳の影響は受けるのだと言っていたのが印象的でした。
我々も脳は大切にしなければなりません。脳に悪いのは、まず喫煙や飲酒です。多少の飲酒は良いのではという意見もあると思いますが、ルドルフ・シュタイナーのように、飲酒を厳しく戒める者もいます。
そして、脳に極めて悪いのは、現代の刺激的な映画やテレビの娯楽番組といった、外側からの刺激を一方的に受けて楽しむ遊びや娯楽です。
また、携帯メールやツイッターといった、熟慮なく単純でパターンの決まった言葉ばかり使用したり、ゲームを長時間やって、パターン通りの反応しかしなくなることです。
他にも色々ありますが、現代は、脳の働きを低下させるものばかりが溢れているように感じるのは、闇の勢力の陰謀といった冗談を真面目に疑うほどです(冗談でなく、真面目に言っている人もいるようですが)。
くれぐれも、脳の健康と機能を大切に。
26日9:00AMまで、フレッド・アラン・ウルフのHPへのリンクに問題がありました。申し訳ありませんでした。

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2010.09.18

人間がいるから宇宙がある

次のような奇妙な話が科学の考え方にある。

人間あってこその宇宙。
人間がいるから宇宙がある。

これを「人間原理(Anthropic principle)」と言う。この言い方では正確ではないと言う人もいると思うが、他のどんなに簡単に書かれた人間原理の説明も、抽象的過ぎて意味が分からない。そもそもが、言葉で正確に説明できるようなことでもないので、これで良いと思う。
ところで、上のようなことを聞いたら、大方の反応は、
「そんな馬鹿な!宇宙に無数にある銀河の中の辺境のこの星に、たまたま生命が生まれ、たまたまこんな形に進化したのが人間だろう?」
といったものであろう。
これは、例えてみれば、サルがデタラメにキーボードを叩いたら、ノーベル文学賞を受賞できる小説になる可能性もゼロではないといった考え方だ。我々は、実はそんな考え方をしているのである。

人間原理と関係あると感じるお話に、インドの詩人タゴールがアインシュタインに言ったものがある。
「人が見ているから月がある」
また、「シュレディンガーの猫」という量子物理学の有名な命題は、
「箱の中の猫が生きているか死んでいるかは、人が箱を開けて確認した時に決まる」
といったものだ。
いずれも、やはり、「正確でない」と言われる書き方だが、他のどんな説明も五十歩百歩(ドングリの背比べと同じ意味)と思う。

タゴールは科学は素人であるが、世界的量子物理学者であるハイゼンベルクはタゴールの教えを受けたことがある。
また、江戸時代の禅僧である道元の「正法眼蔵」を見ると、道元も人間原理を直観で分かっていたように感じる。

さて、人間原理であるが、これを提唱(意見を主張すること)する科学者も、これを「馬鹿な」と反発する方も、半分抜けているように思う。それが、両者の意見が合わない理由のように感じるのである。

人間あってこその宇宙。
人間がいるから宇宙がある。

というのは、当然なのだ。しかし、同時に、

宇宙あってこその人間。
宇宙があるから人間がいる。

というのも正しいのである。
ほとんどの人が、人と宇宙の大きさの違いに騙されているように思う。
早い話が、人と宇宙は同じものなのだ。

我々が誤解したものの見方、考え方をしているのは、イエスの次の言葉の捉え方からも感じるのだ。
「人に悪口を言うのは、天に向かってツバを吐くようなものだ。それは自分に返ってくる」
考え方は正しいが、どうも誤解を生むのである。
実際は、地にツバを吐いても、自分にツバを吐いているのと同じなのである。
だって考えてみると良い。
我々は、皮膚の内側を自分と考えているが、自分の周りの空気や熱や、足元の大地を取り去れば、一瞬でも生きられない。人間は根本的に生命であり、あえて感情を交えずに言えば、死体は物だというなら、周りも含めて自分という人間だ。
エコロジーに関しても、大誤解をしながら色々言ってる人が多いが、人と環境は一体であり、相伴うものであり、もっとはっきり言うなら、環境も自分なのだ。
どの範囲の「周り」「環境」が自分かと言えば、宇宙全体としか考えられない。
だから、宇宙が我々の身体であると言っても、さして違和感は無いと思うのである。


【唯脳論】
我々の現実は、本当は脳で感じることだけであるということを理解すれば、世界は変わると思う。ちょっと難しいが重要な書だ。

【涼宮ハルヒの憂鬱】
この本の中で、ちょっと怪しいイケメン高校生の古泉一樹が、主人公のキョンに人間原理を説明している。キョンの反応は「そんな馬鹿な!」である。

【大きく考えるための小さな本】
世界的量子物理学者、フレッド・アラン・ウルフによる、最も優しく面白い量子物理学の入門書。
ウルフが量子物理学を志すことになったきっかけは、幼い時の超常体験であり、エイリアンとの遭遇だった。

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2010.09.11

本当に2番じゃだめなのか?

ある男のところに、ある日、この世のものとも思えぬ絶世の美少女がやってきて、可憐な花のように恥じらいながら、美しい言葉で婉曲(遠回し)に、私はあなたのものなのだから好きにしていいと言う。
こんなことをやった女神が、ギリシャ神話の美の女神アプロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)だ。
男は英雄アンキーセースである。アンキーセースも、彼女の姿を初めて見た時は、あまりに美しいので、女神か、あるいは、ニンフ(妖精)と思ったが、彼女は、自分はただの人間なのだと言う。
なんと言ってもアプロディーテだ。どんな美少女アイドルだろうと足元にも及ばないはずだ。
神々すら、それも大神ゼウスすら抗うことが出来ないと言われる美の女神に、人間であるアンキーセースなどひとたまりもないだろう。

もっとも、日本の古神道に伝わる話では、神が人間の修行者に術を授ける最後の試験が、長い禁欲を守らせた後に、その者の理想とする女を幻術で創り出して誘惑させ、それに耐えなければならないというものがあるらしい。言うまでもなく、合格者が出たためしはない。

さて、アンキーセースがアプロディーテから感じた美がいかほどのものであったかは想像もできない。
だが、仏教には、それをうまく表現した話がある。
お釈迦様の従弟のアーナンダは、16歳の素晴らしい美少女との結婚を控え、心は浮き立っていた。だが、お釈迦様は、アーナンダに、結婚なんかやめて出家しろと言う。当然、アーナンダにそんなことは出来ない。
そこで、お釈迦様は、雪山にアーナンダを連れて行き、よぼよぼに老いたメス猿を見せ、「お前の妻になる女と、この猿ではどちらが美しいか?」と問う。アーナンダは憤慨して、「私の妻になる女に決まっています」と答える。
次に、お釈迦様は、アーナンダを天国に連れて行って天女を見せ、「では、お前の妻とこの天女では?」と問う。アーナンダは、「私の妻になる女とこの天女では、さっきのメス猿と私の妻になる女ほどの違いがあります」と答える。
「アーナンダよ。出家し、修行すれば、この天女はお前のものだ」
アーナンダが、すぐに出家を決意したことは言うまでもない。

そのものズバリは表現できなくても、何かの比較とで想像をさせる話の技術である。一種の類推(アナロジー)で、説法の名人には、これを上手く使う者が多い。イエスも優れたたとえ話を多用したことは知られているし、「20世紀最大の詩人」と言われるW.B.イェイツも、イエスの比喩(たとえを使った表現)の才能を高く評価していたらしい。

尚、アプロディーテの偉いところは、彼女自身、アンキーセースに恋したのだが、執着しなかったことだ。
彼女は、アンキーセースに「キュテレイア(アプロディーテの別名)と寝たなどと公言してはただではすまぬぞ」と言って去り、この時のアンキーセースの息子で、後のトロイア王アイネイアースを産む。
女神でも、月の女神セレーネは羊飼いの少年エンディミオンに、曙の女神エーオースはティトノスという人間の男に恋し、結局は不幸なことになった。執着したからだ。
(武内直子さんの「美少女戦士セーラームーン」では、セーラームーンことセレニティと、タキシード仮面ことエンディミオンは、このギリシャ神話のお話を基にしている)
アプロディーテもエーオースの失敗を教訓にしたと思われるところがある。
ところで、アプロディーテは、ヘパイストスという夫がありながら、この姿の醜い夫を厭って、男神の中でも1、2を争うイケメンのアレス(英語ではマーズ)と浮気してフォボスとディモスという神を産むが、アレスはエーオースと浮気する。
ギリシャ神話の神々は実に奔放である。

さて、アプロディーテは最も美しく、このお話のように思慮もあるが、神々の王ゼウスの正妻ヘラや、知恵の女神アテーナとなると、その賢さはいかばかりかと思う。
ところが、こんな話がある。
争いの神エリスが、神々の宴(海の女神テティスと人間の英雄ペレウスの結婚式)の中に、黄金の林檎を贈った。「世界一美しい女へ」とのメッセージを添えて。
この林檎を、アプロディーテ、ヘラ、アテーナが争う。「私が一番美しい」と。これがトロイア戦争の原因を作った(実際は、その後の複雑な経緯で戦争に至る)。

一番にこだわるとロクなことはない。
蓮舫議員の事業仕分けの時の「2番じゃだめなんですか?」として記憶に残ったスーパーコンピュータの研究開発であるが、スーパーコンピュータというのは、クレイ・リサーチ社のシーモア・クレイが徹底して世界最高性能にこだわったことも関係していると思うが、1番には大きな価値が感じられるものである。
ただ、クレイは、天才的な開発者であると共に、事業家であり、研究開発費は自分で賄い、そして破産した。しかし、復活し、さらに開発に情熱を注いだ。そして、彼の業績は偉大であった。彼が1番にこだわったからだ。

蓮舫議員のは、白雪姫の継母の王妃に、魔法の鏡が「1番じゃないといけないのですか?2番じゃだめなんですか?」と言ったようなものだろう。
ちなみに、アーナンダは、修行するうちに天女のことは忘れた。
仏道の修行を積むと、美と醜は同じものであることを悟る。そして、1番は2番と、そして最下位とすら共にあるものであることも理解する。それが分かってこその1番である。


【四つのギリシャ神話】
日本の古事記もだが、ギリシャ神話の神々も実に個性的で人間味に溢れている。特に、こういった伝承の話は面白い。しかし、奥深くもあり、興味は尽きない。ヘルメースの悪知恵は今日の西洋世界に影響しているし、また、ある専制国家が、意外に外交上手なのも、これに学んだとも思えるくらいである。

【あなただけができることをやりなさい ソフトウェア界の偉人23人の名言集】
コンピュータ世界の偉人達の実に興味深い物語である。これを読むと、コンピュータに対する認識が大いに変わり、達人になるかもしれない。

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2010.09.07

われはロボットという自覚

突飛に感じるだろうが、もしあなたが、自分は人間でなく、アンドロイドだということが分かったら、どう感じるだろうか?
ショックだろうか?おそらく、そうだろう。
しかし、なぜだろう?
自分の身体が血肉でない、機械だからか?
それとも、自分の心というものが、コンピュータプログラミングに過ぎないからだろうか?
その身体が、人間以上だとしても駄目だろうか?
心とは、コンピュータプログラミングと比べ、そんなに優るものだろうか?
慶応大学大学院教授で、ロボットや人工知能などを研究している前野隆司さんは、著書の中で、自分が機械だと分かったとしても、どうということはないし、そんな時代は来るだろうと著書に書いている。人の心(クオリア)は、今は作り方が分からないが、そんなに難しいものと思えないという。

1973年の永井豪さんの漫画作品「キューティーハニー」は、何度もアニメ化、映画化される人気作品だが、この作品の画期的なところは、16歳の女子高生である如月ハニーが、ある日突然、自分がアンドロイドだったと知るが、ごく普通の感性を持つ彼女が、ほとんど葛藤を起こさないというところだ。彼の父親は、「ロボットが何だ、人間が何だ。お前は私の可愛い娘だ」と言い、ハニーも納得する。そして、回りの人達や、彼女を愛する人間の青年ですら、全くこだわらないのだ。
一方、古いアメリカのテレビドラマ「トワイライトゾーン」では、やはり、ある日突然、自分がロボットだと知った男は、自分を作った科学者を殺す。
このテーマのお話は、実際は大変に多いのだろうが、ハニー型とトワイライトゾーン型に分かれると言えるかもしれない。すなわち、アンドロイドの心がおだやかである場合と、非常な動揺や葛藤を起こす場合だ。
こういったお話が興味深いのは、そこには、人間の心の奥に潜む、重大な疑問があるからだ。
「私はいったい何者なのだ?」である。

そして、人は薄々は気付いているのだ。自分が本当はロボット、あるいは、コンピュータのようなものであることに。
そんな馬鹿なと思うだろうか?
我々は、自分の心というものが、自分固有の特別な何かだと思っている。考え方、好み、信念、主義こそが自分であり、それは何者にも侵すことのできない大切なものであると。
しかし、それは、ただの作りものかもしれない。普通は、多くの部分を母親が作る場合が多く、その他の家族がいくらかの個性を与え、学校や社会といった世間に押し付けられた考え方や感じ方を保持しているだけのことではないのか?
嫌なことに感じるかもしれないが、その嫌だと感じること自体が、作られた感性だ。あなたに、自分とは、良く言えば独立した、しかし、言い方を変えれば、孤立した頼りない存在だと思わせるのは、単に社会の都合からである。

だが、安心して良い。作り物の個性や自我を取り去ったら、大変なことが起こる。
あなたは、「歓喜の歌」を歌う。それは、ベートーヴェンの名曲にもなったシラーの詩の通りだ。「神の火花、楽園の乙女が、世間が引き割いたものを、再び1つにする」のだ。
私は、自分がアンドロイドであると諦めているのだ。「生きながら死人となり果てて、思いのままになすわざぞよき」(至道無難)である。


【われはロボット】
ロボットに心はあるのか?ロボットと人間の友情や愛情は成立するのかを初めて問うた歴史的傑作。
1950年の作品であるが、その価値は全く衰えないばかりか、現在において、ますます重要になってきたと感じる。

【脳はなぜ「心」を作ったのか】
現代科学が解明してきた脳の働きは意外なところも多く、我々の持つ、思考や感情の概念を修正してくれると思う。それは、一時的にはショックなところもあるが、我々が真の進化をするのに重要なヒントを与えることになるかもしれない。

【脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ】
世界的脳神経学者が説く、脳と心の驚異の新事実。天才、精神病から、聖者の体験まで説明してしまう現代科学は凄い。
しかし、だからこそ、分からない部分の神秘への畏敬は増すばかりではないだろうか?

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2010.09.04

ニワトリと卵の真相

「ニワトリと卵はどちらが先か?」という歴史的にも世界的にも有名な問題がありますね。
「どっちが先だ」なんて考え方を脱却することが人類の進化です。

「ニワトリと卵のどちらが先か?」なんてのは、「春と秋のどちらが先か?」と言うようなものです。
夜と昼ではどちらが先かなどと言えるでしょうか?

道元は「正法眼蔵」の中で、「薪の後に灰があると思ってはならない」「生の後に死があると思ってはならない」と注意しています。
「薪は薪になりきり、灰は灰になりきっている」
「生は生になりきり、死は死になりきっている」
そのように書かれています。
余計な解説は不要ですが、ただ言っておくと、「薪は薪で固定されたもの」「灰は灰という単独のもの」というのではありません。
「私は私」「あたなはあなた」なんて言いますよね。
英語にも、“I am me”、“You are yoy”という同じ言葉がちゃんとあります。
「自分らしくあれ」という意味なんでしょうが、世間というのは変なところで、そう言っておきながら、「日本人らしく」「クリスチャンらしく」「名門校の生徒らしく」「わが社の社員らしく」「スポーツマンらしく」とか言うのですね。
これは、「自分らしく」の意味を大誤解しているのです。それは何千年も前からかもしれませんけどね。
「ニワトリが先か、卵が先か?」なんて奇妙なことを考えるのも、そんな考え方に凝り固まってしまったことが原因です。

ニワトリはニワトリになりきり、卵は卵になりきっていますが、それらは不可分です。ニワトリは卵を伴い、卵はニワトリを伴っています。同時に存在しています。
夜と昼って不可分でしょう?同時にあるものです。
さらにいえば、夜は世界と不可分だし、昼は世界と不可分です。ニワトリは世界そのもので、卵は世界そのものです。
犯罪者も世界と不可分で、我々とも不可分です。我々もまた犯罪者です。犯罪者が犯罪者を裁けるはずもありません。自分は犯罪者じゃないと思い込んでいる人って、どこかおかしいと思いませんか?

昼と夜では、それぞれが長過ぎて、一緒にあることが分かり難いかもしれませんね。
でも、例えば、光ってのは、明と暗が凄い速さで交互にやってくる波動なんですよ。音は、それよりはずっと遅いですが、同じく波動です。そのゆっくりしたものが海や池の波で、さらにゆっくりなものが夜と昼です。
光なら、明と暗が一体であるということがイメージしやすいと思います。
子供って輝かしいですね。光と同じで、ちゃんと明と暗があるのですが、その交換が速過ぎて光しか見えないからです。歳と共にその交換が遅くなります。
若い頃に光ばかりを求めた人って、老人になると闇だけです。まあ、それが普通ですけどね。
でも、「レ・ミゼラブル」に出てくる、ミリエル司教の妹のバティスティーヌは、若い時ですら美しくなく、ずっと暗でしたから、老人になってから高貴な輝きをまとったのです。
1人の人に関しても、闇を嫌わなければ光を得られますよ。

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2010.08.27

虹の根元の宝物

「虹の根元には宝物が埋まっている」という伝説があるらしい。「らしい」というのは、私は、これを、立川恵さんの漫画「怪盗セイント・テール」と、そのアニメで知っただけだからだ。
それがとてもロマンチックな話だった。
雨上がりの早朝、空には虹が出ていた。風邪で高熱を発していた14歳の少年アスカJr(ジュニア)は、虹の根元には宝物が埋まっているという話をどこかで聞いたことを思い出す。しかし、科学的に虹の根元などあるはずがないと苦笑しながら、ついに倒れる。ところが、顔を上げた時に、虹の根元の方向に少女が現れる。クラスメイトの芽美(めいみ)だ。驚いて駆け寄る芽美に、意識が朦朧としたアスカJrは普段なら絶対に言いそうにないことを言う。「お前が好きだ。嘘じゃない」。気の強いところもあるが、本質的に純情な芽美は呆然自失し、身動きも出来なくなる。彼女もアスカJrを愛しているのだ。虹の根元には、本当に宝物があったのである。

あまりに有名な、ジュディ・ガーランドが歌った「虹の彼方(Over The Rainbow)」の古い音源から作られたCDを私は持っているが、虹の彼方には、全ての願いが叶う夢の国があるといった歌と思う。
昔から、人類は虹という神秘的な現象に様々な想いを馳せた(気持ちや考えを遠くに至らせること)ようだ。言い換えれば、虹は人類の想像力を発達させたとも言える。

ところで、虹というのは面白いものだ。
虹は滅多に見られない。もちろん、噴水の近くに言ったり、ホースでシャワー状の水を降らせたり、あるいは、ガラスコップを使えばそこそこの虹を見ることが出来る。だが、最も感動的なのは、予期せずに空に現れる自然現象としての虹で、これに遭遇することはあまりない。一生に何回かしか見られないかもしれないし、「最後に虹を見たのは10年前」なんて人も珍しくはないだろう。
だが・・・。
実をいうと、虹はどこにでもあるのだ。
虹というのは、光(太陽光)と水滴と観測者の位置関係で出現するもので、この3つが存在する時はありふれている。ただ、観測者である人間の位置が悪いだけのことだ。
言い換えれば、虹というものは、人間と関係なく、独自に存在する訳ではない。ある意味、人間が虹の存在に大きく関与している。
それを科学的と言うなら、あらゆる現実に人間が関与しているというのも科学的なことだ。

さて、虹の根元にたどり着こうとしても必ず失敗する。上に述べたような理由で、あなたが動けば虹も動くからだ。
しかし、虹は本当はどこにでもある。なら、今、ここが虹の根元である。それは、ロマンチックな空想ではなく事実であり、幸運も、あると思えばあるというのも、レトリック(美辞麗句。巧言)ではなく、絶対に本当のことだ。
ただ、ちょっとしたコツはある。
最初に私が、長々と「怪盗セイント・テール」の話をしたのも、そのヒントがうまい具合にそこにあったからだ。
アスカJrは高熱のため、芽美は精神的な衝撃のため、いずれも自失、つまり、我を忘れた。
我を忘れる・・・忘我を英語でエクスタシーと言う。数多くの芸術家や賢者、あるいは、最高の科学者は、エクスタシーが人と神が一致する瞬間であることを見抜いていた。その実例だけで私は何時間でも話ができるほどだ。
我を失くせば幸運はいたるところにある。いや、我々自体が幸運なのである。

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2010.08.15

私(君)のために世界はある

熱愛中の2人には、世界は2人のためにあると感じるものらしい。
何をのぼせ上がってと思われるかもしれないが、物理学、あるいは、哲学において、宇宙は人間のためにありとする「人間原理」という考え方がある。宇宙がこのようなものであるのは、人間が存在するためだという、人間本意の考え方である。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の中で、古泉一樹(こいずみいつき。高校1年生)が、主人公の1人であるキョン(高校1年生)に、この人間原理を長々と説明するシーンがある。古泉はこう言う。「我、観測す。ゆえに宇宙あり」。これは、デカルトの「我、思う。ゆえに我あり」をもじった(真似て言い換えること)ものだろう。

別に難しい話をしようという気はない。そもそも、私は難しい話が苦手だ。
ただ、上に述べた、古泉の「我、観測す。ゆえに宇宙あり」と、デカルトの「我、思う。ゆえに我あり」は非情に面白いものだ。

「我、観測す。ゆえに宇宙あり」と聞いたキョンは、「そんな馬鹿な」と言う。人間が観測しようがすまいが、宇宙は変わらないだろうという考え方だ。
「我、思う。ゆえに我あり」については、英国の作家コリン・ウィルソンは、「思おうが思うまいが、我はある」と著書で書いている。

これに関連した話として、有名なアインシュタインと、インドの詩人タゴールの対話がある。
タゴールは、「人が月を月として認識しなくても、本当に月があると言えますか?」と尋ね、アインシュタインは「ある」と言った。
もっと簡単に言うと、人が見ていない時に、本当に月は存在しているのかということだ。
現代の科学でも、何を観測しようとしているかによって、観測結果が変わってしまうことは明らかになっている。
つまり、人間の意志によって、世界のありようが変わってしまうのだ。
人が、月を月と認識しなければ、月は存在しない。
かっぱ寿司のCMで、グレイ型宇宙人が宙から降りてくるが、人間の若者はそれに全く関心を示さずに、寿司に夢中になるといったギャグがある。しかし、私が子供の頃、天使と話をしていたら、母親は、「あら、お友達?」と言って、無関心に行ってしまったこともよくあった。もっと現実的な話をするなら、コロンブスがアメリカ大陸に到着した時、現地の人には、彼らが船と認識できないコロンブスの巨大な船が全く見えなかった。彼らには、コロンブスの船は存在しなかったのだ。

真に重要な問題は、意志とは、あるいは、意識とは何かなのである。
人間の意志と限定すると、それは、表面の心、すなわち、自我になる。フロイトが確信した通り、自我は幻想である。よって、世界もまた幻想と言わざるをえない。これは、インドでは太古の昔から言われてきたことだ。
だが、著名な心理学者や精神分析学者にも信じない人がいるし、一般にも信じられていないかもしれないが、自我を超えた意識というものがあれば、その意識が観測する世界は幻想ではなく、真の世界である。

吉本隆明氏の有名な「共同幻想論」というものがある。人間は、個人の幻想や、家族など親しい間で共有する幻想の他に、団体、地域、国家、あるいは、人類といった規模で共有する幻想を持つ。そもそも、国家は幻想で成り立っている。
では、その共同幻想を共有する人々の間では、世界の在り様は同じであるが、同じ幻想を持っていない者にとって、世界は異なったものである。

「涼宮ハルヒの憂鬱」では、世界はハルヒという1人の少女の都合によって、このようなものになっている。
ハルヒが考え方を変えてしまえば、世界は全く違ったものになってしまうというわけだ。
おそらく、彼女は、直接的なコミュニケーションを介さずに、世界に共同幻想を送り込む能力でも有しているのだろう。ハルヒってのは、著者も言ってないと思うが、「張る霊(ヒ)」、つまり、膨張する霊だ。春は「張る」から来ている。漢字できれいに書くなら「春陽」だ。実際に、この名前の少女を知っているが、大した名であると思う。
上にあげた古泉は、ハルヒの能力を恐れる者達の1人だ。
だが、私に言わせれば、ハルヒなど全く恐れるに足りない。自我を超えた純粋な意識には、世界の在り様など、些細なことである。マジックショーと言った聖者もいたし、子供の劇だと言った賢者もいた。
あえて言えば、良いマジックショーや劇であるかどうかは、自我のあり方次第である。ちょうど、映画が良いかどうかは、フォルムの在り方次第であるのと同じだ。自我の様子を知るには、自分の世界を見れば良い。
「燃えよドラゴン」で、リーは、「良い戦いは、少人数で真剣に演じる劇に似ている」と言ったのが面白い。「戦い」と限定すれば、ほぼその通りだからだ。
もう少し広く言えば、ビートルズの“Nowhere Man”の歌詞にあるように、“the world is at your command”(世界は君の意のまま)だ。
だが、自我を打ち破るまでは、釈迦も言った通り、この世は縁起で成り立つ。つまり、我々は因果(カルマ)に縛られる。何事も思い通りにならない。だから、自我の奥にある純粋な意識を見つけなければならない。およそ昔からある、宝探しに関するお伽噺や伝説は、全て、この純粋な意識を探す物語なのだ。


【涼宮ハルヒの憂鬱】
本文に書いた、古泉の人間原理の話はこのシリーズ最初の巻である本書に全て収録されている。
50代の、ある大手教育会社の社長は、この本の面白さは認めながら、読み通せなかったそうだ。感性を測る一つのバロメーターであるかもしれない。大人が読んでも良い本と思う。

【共同幻想論】
素晴らしい本だが、はっきり言って、文章的に読みにくい。1つの行でも、その意味を限定できないという箇所がよくある。これをもって、「おそろしく抽象的」と評した人もいる。
「遠野物語」と「古事記」くらいは事前によく読んでおいた方が良い。

【ものぐさ精神分析】
「唯幻論」で有名な精神分析学者、岸田秀氏の代表的著書。
フロイト精神分析学の範囲に限定するなら、人間の持つ幻想に関して興味深く、また、吉本隆明氏の「共同幻想論」と比較にならないほど分かり易く書かれている。
尚、岸田氏のサイトは、以前、トロイの木馬に感染していた。私が発言しなくなってから、あまり更新のないサイトだったが、どうなったのだろう。恐くてアクセスできないのだが。

【方法叙説】
「我思う、ゆえに我あり」という言い方は、どうもデカルトの考えをよく表していないように思う。彼は、神や存在、宇宙に関する、非常に深遠な洞察を行っていたのだ。
おそらく、「方法叙説」は、とても簡明に書かれているのに(デカルトは、12歳の子供に読めるように書いたと言っている)、これまでは学者達が小難しく翻訳してしまい、一般にあまり読まれなかった。本書は読みやすい。ただ、養老孟司氏の解説が長過ぎるように思う。

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2010.08.04

余計なことを考えない

自信を持って断言するが、古代から現代にいたるまで、そして、未来永劫同じと思うが、本物の聖者、賢者の教えの絶対的に共通することは、「思考を止めろ」だ。
ただ、彼らは、この同じことを、ほんの少しずつ異なった表現をする。
宗教的な聖者は、概ね、「心を静めよ」という言い方を好む。
ちょっと理屈を言いたい者は、「頭の中のおしゃべりをやめろ」と言う。
さらに理屈っぽくなると、「左脳を止めろ」と言う場合もある。
「腹を創れ」とか「腹で考えろ」というのも、つまるところ、頭の思考を止めろという意味だ。

「思考しなければ頭がボケる」と心配する人も多いと思う。私もそう思うことがある。
しかし、思考しないことでボケたりしない。下らないことを考えることでボケるのだ。
「よく考える」というのは、本当は「余計な思考を頭から追い出す」ということだ。理屈っぽく言うなら、意識できない右脳、あるいは、潜在意識の情報を左脳に伝えるということだ。左脳(顕在意識)がつまらないことを考え過ぎると右脳(潜在意識)の情報が入ってこないのだ。
本来、思考というのは、直観や内奧の叡智の受信機能として少し必要なだけである。
もちろん、世の中には理屈で考えないといけないような仕事も沢山ある。しかし、そんな仕事はストレスがたまり、やがて心が壊れる。それは、「風の谷のナウシカ」のように、毒のある空気の中で行動するようなもので、そこそこにやるとか、毒を防ぐ工夫をしないと死んでしまう。人間らしくない仕事をやるなら、いい加減にやるか、他人にでもなったつもりでやることだ。でないと、人間性が破綻する。

さて、思考を止める優れた方法が瞑想だ。
そして、瞑想というのは、思考を止めるために行うのでなければ意味はない。
座禅の流派によっては、公案と言って、座禅中に考える問題を与えられ、一見、座禅(瞑想と言えると思う)中に懸命に考えているようであるが、公案というのは、考えても答が分からない問題であり、思考が停止した時に答が分かるよう工夫されたものだ。いずれにせよ、素人には難しく、真面目にやると害になる、つまり、考え過ぎてしまう恐れがある。これを禅病と言い、そんな言葉が出来るほどよくあることのようだ。
TM(超越瞑想)という瞑想は、思考を呼び起こさない短い言葉(マントラ)を心の中で反復することで思考を止めるという論理的なものだ。そのマントラは指導者から一人一人に適切なものが与えられないといけない。ただ、やってみれば、確かに、想念を起こす恐れのないマントラが与えられていることが分かり、その唱え方も細かく指導してもらえるので、手っ取り早く間違いのない瞑想をやりたいならTMをやれば良いのではないかと思う。

「ナ・ダーム」という本がある。人間の潜在力を発揮させる方法について書かれた本で、奇跡的な事例が示されている。例えば、メスで患部を開いた医者が、即座に助手に縫合を命じた・・・つまり、一瞬で見放したほどの末期癌患者を、薬も手術も無しで、全く正常な状態にするような話がある。この本では、何の想念も起こさせないマントラとして、研究の末、「ナ・ダーム(NA-DAHM)」を選んだ。面白いことに、翻訳者の川口正吉氏の考案と思われ、この本には書かれていない方法なのだが、息を吸いながら「ナー」と(心の中で)唱え、息を吐きながら(同じく心の中で)「ダーム」と唱えるという方法が実に良い。これは、いつでもどこでも出来るし、実際、思考が停止することで、心も身体も爽やかになる。私に関して言えば、コンピュータプログラミングで疲れた視神経が癒され、その影響で重かった頭がすっきりした。川口氏を賞賛したい。

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