はてなキーワード: 公道とは
夕飯はグラタン。先日よりも玉ねぎを増やした。小さめの玉ねぎを丸ごと入れた。それから、僕の分だけマッシュルームを乗せた。塩を少し多めに入れてしまったが、やはり半量でよかった。チーズも、セブンイレブンのを丸ごと使ってしまうくらいでちょうどいいようだ。後はサラダとパン。僕はパンを二人前くらい食べてしまった。疲れていたのだろう。
デザートに焼きリンゴとヨーグルトまで食べてしまった。お腹いっぱいである。
ドイツ語の文法書をやっていて、基本的な語彙の性別があまり定着していないことに愕然とした。そうなると、五級から四級のページに移るよりも、その時間を生かして文法や読解に時間をかけたほうがよさそうである。それで、六月に五級、十二月に四級、来年の十二月に三級、順調にいけば来年の十二月に二級、くらいの三か年計画にしてみたら楽しいのではないか。また三年も経てばドイツあたりに行きたくもなるだろう。
さておき、文法書のウェイトを増やすのがよさそうだ。週に一章だと、五級の試験には間に合わない。まさか五級でとても高度な文法的内容が出るとは思わないけれどね。
何日か前から書こうと思っていたが、今度はアメリカがホルムズ海峡を封鎖してイランに通行料を払うなと脅している。まるでどっちの組にみかじめ料を払うかどうかみたいな次元である。
ところで、ドイツ語を始めたのは結構だが、昨年の一月に首を傷めてから、筋トレをずっとサボっている。断続的にスクワットくらいならするんだが、良い習慣を複数続ける良い手立てはないものか。
地元の図書館にないと思い込んでいた丸谷才一の全集があったんで、手元の本を読み終えたら気になっていた巻を借りて読むこととする。これは今日でもなくて構わないのだが、膨れ上がってグーグルドキュメント三十六ページになった読書メモから、優先度の高いものを抜粋して、身軽なメモを作りたい。読み返すのがあまりにもだるいメモは、メモとしてあまり機能していない。あとはラハリの本をもう一冊読みたい気がするが、主張は明確なので飛ばし読みになる気もしている。
今日でなくていいとも買いたが、とりあえず直近で読みたいのを二十冊ほどメモしたが、ついでに、軽くてあまり頭を使わないのも欲しい。というか、いざメモを取ってみたものの、分厚い本に取り掛かるのが久し振りであり、実際読めるか大変心もとない。
シーツを室内で干しているのだが、冬と比べて明らかに乾きが悪い。もちろん湿度が原因だろう。敷パッドも干す時間はあるだろうか? 何とか今晩中には乾いてほしい。何とか今晩中には乾いてほしい。と言うか、乾かないせいでベッドに横たわって仕事の終わりに横になって休めない。
書き忘れていたのだが、昨日の晩、水が常時漏れているような水道の周りの汚れをふき取った。定期的にやらないと、カビだか酵母だかが繁殖してしまうだろう。食品を洗うところなので衛生的にしたい。
そういえば朝食を作っていたら、隣のお嬢さんが帽子をかぶって出掛けて行くような姿が見えた。すりガラス越しだったからわからないが、もしかしたら今年から小学生なのかもしれない。というか隣かさえ分からない。隣の隣かもしれない。ただし住人を見かけたことはない。
仕事が終わってから、家の西の方にある公園まで歩いた。春になって分かったのだが、ここの芝生は緑が濃い。また、思った折も生えている樹木が太く、心癒される。前に来た時には冬だったから気づかなかったのかも。今は一面の緑色の葉で木陰を作ってくれる。
公園の周りには、ここにも白いハナミズキが生えており、それからツツジも咲いていた。実家のそばに咲いていた花を見つけると少し安心する。都内なので緑が少ないと思っていたが、そう感じたのは引っ越したのが秋だったからかもしれない。
後は通れるかどうかわからなかったマンション脇の小道を歩いたが、普通に散歩道になっていた。自転車通行可能の標識があったので、普通に公道で間違いないだろう。
https://togetter.com/li/2677542
この手のを見るたびにクッソ苛立つ
どうしても馬に触らせたくなかったり馬を撮らせたくないならまずは公道沿いの放牧を今すぐやめろ
そのうえで可能なら私道(私有地)と公道は誰が見ても区別できるようにして誤侵入の言い訳を切り捨てろ
明らかに私有地と分かる場所に入ってきてんならさっさと捕まえたうえで不法侵入でしょっぴけ
そういうコストを誰も負担しようともせずモラル啓発やお気持ちだけでなんとかしようとしてるのは今時じゃなくとも高額資産に対するリスク管理が甘すぎる
競馬場や種付け場並とまでは言わないけど牧場以外はちゃんと柵や警備でエリア分けしてやってんだろ
牧場は面積や長さが違う?それでも「何もしてない」と「対策はしようとしてる(けど金とか資材とか金とか金が足りない)」には本気度について大きな差がある
せめて現実的に打てる物理的な対策はポーズだけでもとってからやれ、やることやって最後にモラルに訴えてるならそれをちゃんと示せ
今日も今日とてXでは、またMT/AT論争が巻き起こっている。まるで北緯38度線のように、争いがいつまでも終わらない。停戦状態にあるだけ、38度線の方がマシかもしれない。
私のTLを観測している範囲では、MT派からAT派への攻撃を見かけることが多い。健常者ならMT乗れて当たり前とか、MT挫折してAT限定にしたやつは公道走るなとか、まぁそんな具合だ。
かくいう私も最近ATからMTに乗り換えた。峠を攻めたいとかサーキットでかっ飛ばしたいとか、そういうわけでは全然ない。単に車の運転に刺激が欲しかったのだと思う。
その上で私見を述べるなら、現代日本の道路事情において積極的にMTを選択する必然性は「ほぼ皆無」であるし、AT限定を批難する要素も見出しにくい。
MT派によるAT批判を見ていると、いわゆる老害と共通する部分が多いように感じる。なぜ人間は、便利な新技術の登場をかくも毛嫌いするのであろう。MTにも乗れないなら車をちゃんと動かせないなんて言う奴は、手書きじゃないと心がこもっていないなどと言って電子的に作成した履歴書を否定したり、お腹を痛めて出産しないと母親にはなれないなどと言って無痛分娩を否定する連中と同レベルではないか。幸いなことに現代では、人間がわざわざ手動でギアチェンジしなくても機械がやってくれるようになったのだ。それだけの話だ。便利さ重視でATに乗りたいならATに乗ればいいし、トラディショナルな操作にこだわりたいならMTに乗ればいい。
クラッチを含めた両手両足の操作ができなきゃ安全運転できないという意見もあるが、これではかつての「交通戦争」の事実を全く説明できない。誰も彼もがMTを動かしていた時代であっても、交通事故はそこら中で発生していた。だからMTに乗れるなら安全運転できるということにはならないし、ATだから危険運転を産むというのも短絡的な考えだ。少なくともAT全盛の現代の方が事故発生件数は少ないのである。これはミッション方式というよりも道路事情や安全技術の発達によるところが大きいかもしれないが、
というかATを運転できる程度の身体の自由があるなら、MTだって乗れる人が大半だろう。出だしの飲み込みのスピードは人によって差があるから、初手で苦手意識を植え付けられる人も出てくる。しかし時間をかけて練習すれば克服は決して難しくないし、出だしのペースと最終的な技術の習熟度は必ずしも一致しない。ただ現実的にはいつまでもだらだらと教習所に通えるわけではないから、時間的・経済的・心理的な負担増を嫌ってMT→ATに切り替えている人が多いだけではないかと思う。実際、現代日本のAT比率を考えれば、余計な苦労を背負ってまでMTに固執する必要はどこにもない。あくまでも本来の目的は「自動車免許の取得」であって「MTを動かすスキル」ではない、という人は相当数いるだろうし、MT→ATに切り替えることで無事に本来の目的を達成した人もまた相当数存在する。それできちんと運転できているなら、何も悪いことは無い。
ATに対するMTの優位性はシーンに応じてドライバーが自由にギアを選択できる点にあるが、そもそも公道ではMTに乗ってまで積極的にギアを変えるべき場面というのがそこまで多くない。ATであってもそうした場面には十分に対応可能だ。たとえば長い坂道を下るときには低めのギアを選択してエンジンブレーキを使い、フットブレーキのみに依存しないことが大事になるが、ATであってもBとかSとかLとかのギアを選択すれば同じ目的を達成できる。なにもMTである必然性はない。普段運転するエリアがアップダウンの乏しい平地であるなら、なおさら些末な問題になる。高速合流時などにおいても、低めのギアで十分に加速することが求められるが、やはりSなどを使えばATでも十分な加速が得られる。
またMTの自由度の高さは、操作の煩雑性や諸々のリスクと表裏一体である。信号待ちからの発進一つとっても、ATはアクセルを踏み込むだけでたちどころに加速していくが、MTは矢継ぎ早に1→2→3と切り替えながらスピードに乗っていかないといけないし、回転数をマッチさせる運転ができないと乗り心地が極端に悪化する。急坂ではサイドブレーキも使わないといけない。シフト操作にミスがあればオーバーレブのリスクも出てくる。交差点のど真ん中でエンストしようものなら、他車の交通を阻害したり追突されたりする要因になる。
そうしたことを考えると、「余計な操作や心配に煩わされずに街中をスムーズに走る」という部分においては、圧倒的にATが有利になる。最近のATは燃費も優秀だから、経済面でのMTの優位性もたかが知れている。新車販売においてはMTの方がATよりも若干安価だが、街中ではATの方がずっと多いのだから、ユーザーはそんな価格差は気にしていないのだろう。車重の軽量化、メンテナンス性の高さなどもあるが、車重全体のわずか数パーセントにしか満たない差を必死に削り出すようなドライバーは稀有であろうし、多少ラフな使い方をしても問題なく長距離を走れるATは多い。やはり、ATはMTよりもずっと便利で取り回しのしやすい機構だという結論になる。
ただ、この利便性の高さがドライバーの思考力を奪っている点は否定できない。余計な操作や心配に悩まされない状態というのは、必要な操作や心配までをも忘れてしまうリスクを跳ね上げる。上述した下り坂でのエンブレの件にしても、ブレーキランプを煌々と照らしながらダウンヒルする車を見かける機会は少なくない。上り坂で先行車が後退してくるリスクを考えず、車間距離をビタビタに詰めてくる車もいる。現代の先進技術は、考えなくても車を動かせる状態をも産んでいるため、このような事態が発生する。利便性を求めた結果であるから、それ自体は悪ではないのだが、車に乗られている人たちを大量生産しているのも事実だ。
考える必要が無い状況での運転は、ドライバーにとって油断の原因にもなってしまう。走行中につい眠気に襲われる...というのは誰しもが経験するだろうが、AT車は要求される操作が少ない分、どうしても注意が散漫になりがちだ。集中力の低下や居眠り運転を防止するなら、変な先進安全技術を搭載するよりもMT車に乗った方がよっぽど良いのではないかと思わなくもない。雑な操作をすればすぐさまシフトショックやエンストが発生するから、舟をこいでいるドライバーを叩き起こしてくれる。そもそもシフトレバーをギコギコやっているうちは体にも脳にも刺激が入るから、眠気を誘発しにくい。高速に乗って6速固定のクルコン、みたいな運転の場合はどうしようもないが...
免許の区分に関係なく、運転中に思考が鈍る事態は避けねばならない。AT限定ではこの部分が問題になりやすい。運転中の突然の眠気などはどうしようもない(眠気の発生自体は根絶しようがない)が、MTに関する座学および実技教習は、教習の区分とは無関係に実施してもらいたい。先進技術は過去の技術を土台として生まれるのだから、MTのようなプリミティブな機構を理解することは決して無駄ではない。どころか先進技術を理解するための助けになる。
色々書いたが、個人的にはAT限定のドライバーがただちに危険運転をするとは思わない。むしろ逆で、今この時代にわざわざMTを選択するような人間の方にこそ、何をしでかすかわからない危険性・変態性を感じる。MT乗りはスポーツ走行が好きな連中も多いだろうから、法定速度をガン無視したり、峠を攻めたり...ちょっと前にマジキテル連合の一件が問題になったが、変にMTを乗り回す連中の方がAT限定ドライバーよりもよっぽど危険ではないか?
昔ならいざ知らず、今はどこを取ってもATはMTを凌駕してしまう。MT派の立ち位置はまさに砂上の楼閣である。国産スポーツカーの雄として長い歴史と高いブランド力を有するGT-Rでさえも、最後にはMTを切り捨てた。AT技術の進化とMTの衰退を端的に表している事例である。現在では教習所でのMT教習時限も大幅に削減されてしまったし、世界はEV化へと舵を切っているし、MTに乗ることはますます困難になるだろう。しかし繰り返しになるが、ドライバーの思考力は利便性と反比例するように低下するリスクを抱えている。車をただの移動手段としか見ていない人もいるだろうが、自分がアクセルやブレーキを踏むとき、あるいはハンドルを切るときに、各パーツがどう反応して車全体がどう動くのか、自分の車と他の車の挙動はどう違うのか...免許を有し運転する限りは決して放棄してはいけない思考である。思考放棄ドライバーの割合は、MT派よりもAT派に多いだろうということは想像に難くない。
ATは基本的に、なにもせずとも車が進んでいく。なにもしなくても車が進んでしまうとも言える。それは確かに便利なのだが、人間は時に利便性を度外視して楽しさを求めたくなる生き物だ。素人が手間暇をかけてつくった料理は冷凍食品にすら及ばないかもしれないが、単純な味の優劣だけでは語れない満足感がある。生成AIは短時間でクオリティの高いイラストを出力するが、画材や構図やシチュエーションについて、悩みに悩んで生み出した手描きの絵を眺めることでしか得られない感覚がある。令和の時代にMTに乗るという選択は、理屈だけ考えれば全く筋が通っていない。だが筋が通っていないことは、不正解だということにはならない。シフトレバーとクラッチペダルを操るあのドライビングフィールは、ATでは決して味わえない。
だからATが好きならATに乗ればいいし、MTが好きならMTに乗ればいい。本当にたったこれだけの話のはずなのだが...お互いもっと柔軟に考えようぜと思わずにはいられない。そうすれば無駄な論争も発生しないのにね。
ドキュメンタリー映画「ブラックボックスダイアリー」での裁判資料利用の件を、(映画のことをよく知らないとした上で)上野千鶴子が、モラルと正義(ジャスティス)の衝突の問題と論評していたのが、興味深かった。
社会思想の研究者は、しばしば思想家になってしまって、自分の価値観でしかない己の思想を規範(の論理的帰結)と認識する。(まあ、そうじゃないと思想が自分にとって客観的存在にならないので、学問の対象にできない。)
だから映画公開の目的に対して「ジャスティス」という評価が出てくる。そうすると、他人から借りた裁判資料や録音の利用範囲についての私的合意(法律的には契約)の遵守はモラルになる。(ただし、報道での録音の公開に事前同意が必要かは知らない。)
思想や価値観を主観とみなす一般のマス層には、モラルと(法)正義の対象が逆になるので、認識のギャップが生じる。
話は飛ぶが、左派系の選挙運動(蓮舫のRシールとか、抗議活動での公道の占拠とか)が、マス層に忌避されるのは、この認識のギャップが理由。
もっと話は飛ぶが、中道の落選議員で左派でない人は、旧民主党左派と組むのは諦めて、一から新党を作る方がマス層にリーチしやすくなるので、彼らにとっての未来がある気がする。