つる、という古典落語がある。 一昨日の土曜日、大阪の天満天神繁昌亭で行われた、露の団六さんによる第二回の「バリアフリー寄席」で、団六さんが高座にかけた題目はこれだった。 このバリアフリー寄席は、ダウン症の当事者が、気兼ねなく、舞台や映画を見られる機会を作りたい、と催されたもの。
「家族にはわかるんですわ、これは、喜んで笑うてるんやな、というのがね。 けれど、他の人にとっては、大きな声やし、奇声にしか聞こえんのやないやろうか。 そう思うと、寄席やら映画には、どうしても行かれへんようになる。 今日は、騒がしなっても、多少暴れてもろても、かまへん、てことで、楽しみましょ」 最初に団六さんが、趣旨を説明して、楽屋に下がられた。
客席を見ると、ストレッチャー状の車椅子の人もいる。その他車椅子の方が4人、車椅子スペースが2人分しかなく、職員さんが慌ててた。 さらに、聴覚過敏でヘッドホンみたいな耳栓をつけてるかわいい男の子もいたりで、かなり多様な人が客席にいて、席を埋め尽くす勢いで、集まってました。まさに、人それぞれ、どこからが障がいで、という区切りも滲んでしまうほどの、曼荼羅世界だった。 (この男の子が、また可愛かった。舞台に呼ばれて、脈絡もなく飛行機ポーズを決めたり、てあたりが、私の子供の頃そっくり。思わず、帰りに一声かけてしまいった)。
さて。 トリの団六さんが高座にかけた、古典落語「つる」のはなし。 古典落語「つる」のはなし。 ストーリーは、例によって、 物知りぶりたいオーラを日頃から出してて煙たがられてるご隠居さんと、物覚えの悪い若い人とが出てきて、 首の長いあの鳥、鶴になぜ「つる」の呼び名がついたか、の問答があって、 ご隠居さんが知らないとも言えず、珍妙な答えをでっち上げていったところ、若い人がそれを間に受けて、幼馴染へ披露しに行く、という流れ。 さらに例によって、問答が再現できず、若い人が混乱しするあたりも、例の如し。
この若い人も、ご隠居さんも、私の中にもいるキャラクタ。ちょっと、キャラが強調されてますがね。
そんな、私の分身が、疎まれながらも居場所を作り、出かけて、何と無く、周りに溶け込んでいる その様子を、団六さんが伝えようとしているのが、見えた時、 彼の願い、その場にいた人の願いが、私にも痛切に響いた。
何なのでしょうね。 自主規制、自粛が起きがちなのは。 ビジネスの場でもないのに、「効率化の為にあるべき姿」を意識しないといけない、同調圧力。 そして反面、ビジネスの場でさえ忍び込んでしまう「本質論的な人格評価」の強さ
みんな本当は生きてるだけで、みっけもんなはずなのに、 気づけば、寄席でさえ、「お静かに!」と言われかねない、潔癖さの押し付け合い。 みんな自分の首を締めてるだけなのに、 だからこそ、自分が攻撃対象にならないように、相互監視までしている、ありさま。 私もそれに取り込まれて、 自分の人格を疑い拘束しないと、「周りに悪い。気を悪くする人がいるから!」 となって、神経が参ってしまう現状。 解放されたい。 そして、ここにいている、あの子もこの子も含めて、解放したい。
そんなことを思ううち、涙が出ました。
今から50年ほど前、 この子たちを、世の光に と言った人が、滋賀の児童障がい者支援の世界におられた。 私が育った頃の滋賀県では、わりと知られていた言葉で、とりたてて障がい者支援と関わりのなかった私でさえ、何度も聞いた言葉。
それに対して、この40年以上、私が何か応答できてただろうか?
先に書いたように、私もその「曼荼羅」の中にいる。今までなら障がい者であるかどうか、でラインをひいていたけれど、もう、行政もそのライン引きには、力を入れなくなりつつあるくらいだ。 (私が自身のことを、障がい者支援センターに相談したとき、係の人が非常にありがたいことを言ってくださった。「診断はどう出るにしても、それを問いません。お困りのことが出ましたら、いつでもいらして下さい」と)
自分が自覚持って、光に、光になれないならエネルギー源に、触媒に、なるのが務めなのだな、と思ったのでした。
テーマ:がんばれ自分! - ジャンル:ヘルス・ダイエット
|