1. 去年7月に紹介した”在野の政治学者”竹井隆人サンの新著が出ました。 「社会をつくる自由」(ちくま新書)です。
「今日から”政治”をやってくれ」 ……ただ単に、上司から指示されたとしましょう。ちんぷんかんぷんなりにも、政治の5W1Hについて情報を集めようとしますよね。まあ、Wのうちの”何を”は政治だし、”いつ”は今日だし、”どこで”もまあ”ここ”なのでしょうから、片づかないのは、”誰が(誰と)”、”なぜ”と、”どのように”の考え方を知らなければなりません。といって大部分の人にとって、これらの問題に対処の仕方も見当つかないでしょう。 この本は、そのうちの2つ、”なぜ”と”どのように”とに、非常に具体的なイメージを与えてくれる好著です。 特に注目すべきところは、政治をどのような土台(プラットホーム)のもとで行うかを、まっさらな道を示しています。 日本の民主主義がなぜ根付かないか、いいかえれば日本で「政治」がなぜ胡散臭く見えるかという理由でもあるでしょうが、それを、同調圧力で説明しています。同調圧力により、意志決定しようとする人の集団の内部では馴れ合いが起こり、また、馴れ合いがあるがゆえに、内部での少数者の排除が起こり、おまけに外部に対しても排他的になってしまう、との説明から始まります。 いいかえれば、この壁を越えるために、政治=意志決定の世界において、社会と私との緊張関係を保てる環境を作るように、提案しています(といいつつ、多分に精神的なものなのですが、実は気持ちが大切なのでしょうね)。公の意志決定というのは、何もゴタイソウなことではなく、「私情」を公の世界へ反映させることなのだ、と認識することからはじめるべきなのです。絶対的な正義……云々を考え思い悩むよりも、「私情」を訴え、その訴えをした「私」その人が責任を負うことにより、馴れ合いから脱却できるとしています。……とここまでは、いわば参加者の心のプラットフォーム。 さて、そのような態度で意志決定へいどむとして、議場としては、かれは全員参加の直接民主制を唱えています。といっても、議会の適正サイズもきっちり論じていて、1000人くらいを限度にして、ちょうどマンションの管理組合のような居住区の政治からボトムアップしていくとの方式を示して居ます。 この本の示している政治像自体は、このように単純なところへ集約できます。用語が専門的で小難しい(骨が折れます)のですが、 「なるほど、このような”政治”なら参加できそうだ」と感じた方も多いのでないでしょうか。
2. ところで、冒頭述べた5W1Hのうち、なおも不明になっている点が一つあります。 ”だれ”が政治に関わるのか、という問題です。実は、竹井サンがぼやかしているのがこの点です。 「全員参加」と書いてあるでないか、というなかれ。意志決定に加われない他者と、加わって良い「内なる他者」との境界を考えはじめると、どうも明瞭でないのです。 少し意地悪な例を出しましょうか。 この本でいう私的政府(居住区レベルの政府)として、自分たちが住んでいるマンションの管理組合を発展させたものを使うことにしましょう。その中に、外国籍の家族がいたとしたら、この私的政府へ加わってもらいますか?……原則的には「管理組合」に入れる資格(区分所有者)であるからには、彼こそを「内なる他者」として加えるはずですよね。……が、ここで在来の「政治」との対立が起きてしまいます。近・現代社会における暗黙の合意「政治に加われるのは、”国民”のみである」というドグマと正面からぶつかっているのです。……が竹井サンはひょっとすると、この可能性に気づいていないのかもしれません。 というのは、終章の途中(P192)で、日本社会が馴れ合いの末平和ボケしていて、政府が領土問題へ弱腰な姿勢になっているのを許してしまっている」と唐突に吠えるからなのです。 すくなくとも、「持主(地主サン)」が存在しない竹島については、竹井サンのいう私的政府を作るとしたらどのような人々に参加してもらう必要があるでしょうか。 ……結局は、国籍が指標ではなく、竹島に直接の利害を持つ人々、つまり島根県やUlrun島の漁民の皆さんが参加し、その海域での彼らの権益……竹島近海での漁のルールを定めたり、漁業資源の管理方法を提唱して、韓国・日本両政府へ「自主管理」の権利を認めさせたりする、そんな私的政府の誕生を期待することが、竹井サンの政治論の本旨に沿うことでしょう。なぜなら、居住区レベルの政府というのは、結局日常的な利害関係者の集合体でもあるのですから。
つまり、竹井サンは、「政治を具体的に誰の手で行うべきなのか」をまだ整理できてはらへんのやろな、と思うわけなのです。言い換えれば、ある事柄について議決するときに、どれだけの人が係わって決めねばならないか、という範囲……いわば、全体社会に対する政治が占める範囲が、未確定のまま、この本が書かれているわけです。 (さらにいうと、序章で「社会の必要性を認めないリバタリアン」を「愚昧」と一刀両断していますが、これも、政治が社会に占める範囲を未確定……というより過大解釈しているために、出てくるセリフです。 「社会を不要という」リバタリアンはひとりとしていません。ただ、「人間の営みの中には社会的合意(=政治)を経なくても成立するものが多数あるのだし、政府を社会へ過度に干渉させないでおきましょう」といっているだけだからです。 政治学者である竹井サンは、「政治が係わらない人間の営みを社会と認めたくない」から、社会自体を否定していると誤認してしまうわけです) [READ MORE...]
テーマ:日本が目指したい理想 - ジャンル:政治・経済
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