伊勢志摩ウィンターステイに同行し、その間に、福島・飯舘村で起きつつあることや、お子さんたちがおかれている状況を、お聞きすることができた。 その上で、私の思うことを書き留めておこう。
今回とりわけ考えたことは、 子どもさんたちに、今の状況をどう伝えるか という問題だった。
今回来られた方たちは福島市などの周辺の都市へ避難中で、そこにあっても、親御さんたちは相当に警戒しておられる。 飲用水を産地がはっきりしているミネラルウォーターに限っているだとか、 子どもを外で遊ばせない、とか。
‥‥言葉は悪いが、「籠城」であり、周辺からの隔絶を行うことで、安心を確保しているのだ。 象徴的だったのは、この呼びかけの言葉 「お子さんから、あとで『どうしてあの時逃げてくれなかったの?』と言われることになったら、悔いが残るでしょう?」
その悔いとは、重病の恐れや、遺伝での次世代へ影響が現れることを予測し、それを前提にしたものだ。
私としては、そこまでの悪影響は出ない…と書いてはいけないな…悪影響を背負う人は確かに出てくるが、その人が負うハンディキャップは、社会で包摂できるレベルに抑え込めると結論しているけれど (たとえば、この地域でのガンの発生リスクが現状50%だったのが、50.1%に上がる程度の影響は出るが、それならば、がん検診の頻度をあげて、早期発見で死亡率を下げる努力をすれば、補えますよね、と言ったニュアンスです)
安心を求める人たちを前に、私のような考えは、意味をなしそうにない。
現に、現地・飯舘では、アザミが人間の背丈を越えるほどに生育する異常が出ている。 が、この『異常』が、われわれの生活に落とし込んで考えた時に、 どの程度に危ないものなのか、という考察が、まだない。 いや、それ以前の問題として、 異常なアザミが、どの程度の発生頻度なのか、 どのようなものなのか‥‥在来種からの突然変異なのかどうか、だとすれば、それが外部からの放射線照射による染色体異常によるものなのか‥‥といった事実確認もできていない。 そのことを放ったまま、数字がひとり歩きしていないだろうか?
だからこそ、と、私は考えてしまう。 今、子たちに身につけてもらうべきは、 『ヤバそうなことから逃げる』術ではなく、 『ヤバさ度合いを見極める』目利きの術でないのか、と。
確かに面倒な事態になってしまったし、 大人のひとりとして、また物理を大学で専攻してた身として、 このような事態に、全く無関係であった次世代のひとたちを巻き込んでしまったことが心苦しい。 だが、 やはり、いま起きつつあることを単純にヤバイとおそろしがらせるだけでなく、 兆候をしっかり観察する、‥その気構えとか方法などを、伝えることから始めたい、と、私は思い始めている。
テーマ:ほっとけない原発震災 - ジャンル:政治・経済
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