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2025-08-21

悪魔と交わる魔女について。なぜ女性が主として邪悪迷信に溺れるのか? 悪魔と交わる魔女については、そのような忌まわしい行為いかにして遂行されるかという方法考察するにあたり、多くの困難がある。悪魔の側について:第一に、悪魔が装う肉体がいかなる元素から成るか;第二に、その行為に常に他者から受け取った精液の注入が伴うか;第三に、時と場所について、ある時期に他の時期よりも頻繁にこの行為を行うか;第四に、その行為が傍らに立つ者に見えないものか。そして女性の側について調べるべきは、このような汚らわしい方法で自らが懐胎された者のみが悪魔に頻繁に訪問されるのか;あるいは第二に、出生時に産婆によって悪魔に捧げられた者なのか;そして第三に、そのような者の実際の肉欲の快楽がより弱い種類のものなのか。しかし、我々はここでこれらすべての問題に答えることはできない。なぜなら我々は一般的研究にの従事しており、また本書の第二部において、第四章に現れるように、それらはすべてその働きによって個別説明されるからである。そこでは各々の別々の方法について言及されている。 それゆえ、今は主として女性考察しよう;そして第一に、なぜこの種の不信仰男性よりもかくも脆弱な性により多く見出されるのか。そして我々の探求は、第一女性一般的条件についての一般論、第二に迷信と魔術に身を委ねる女性の種類についての個別論、そして第三に、邪悪さにおいて他のすべてを凌駕する産婆についての特論となろう。 迷信が主として女性に見出される理由 第一問題、なぜより多くの魔女脆弱女性の性に男性よりも見出されるかについて;これは実際、信頼できる証人言葉による証言を別としても、実際の経験によって証明されているのであるから反駁することは無意味である事実である。そして神が常にその威力を広めることにおいて大きな栄光を取られた性を決して貶めることなく、この事実について様々な人々が様々な理由を挙げてきたが、それらは原則において一致していると言おう。それゆえ、女性への戒めのためにこの問題について語ることは良いことであり、それが慎重さをもって説かれる限り、彼女らがそれを聞くことを切望することが経験によってしばしば証明されている。 ある学識ある人々はこの理由提示する;自然界には三つのもの、すなわち舌、聖職者、そして女性があり、これらは善においても悪においても節度を知らない;そして彼らがその状態境界を超えるとき、善と悪の最高点と最低点に達する。彼らが善なる霊に支配されるとき、徳において最も優れているが、悪なる霊に支配されるとき、最悪の悪徳に耽る。 これは舌の場合に明らかである。その働きによって多くの王国キリスト信仰へともたらされ、聖霊キリスト使徒たちの上に火の舌として現れた。他の学識ある説教者たちもまた、死にゆラザロの傷と腫れ物を舐める犬の舌のようであった。言われているように:犬の舌をもって汝らは敵から魂を救う。 この理由で、説教師団指導者で父である聖ドミニコは、口に火のついた松明をくわえて吠える犬の姿で表される。今日に至るまで彼がその吠え声によってキリストの羊の群れから異端の狼どもを追い払わんがためである。 また一人の思慮深い人の舌が群衆の言い争いを鎮めることができるのも共通経験である;それゆえソロモン箴言10章で彼らの賞賛を多く歌うのは当然である:「悟りある者の唇には知恵が見出される。」そしてまた「正しき者の舌は選りすぐりの銀のごとし:悪しき者の心は価値少なし。」そしてまた「正しき者の唇は多くを養う;しか愚か者は知恵の欠如のため死す。」この理由で彼は第16章で付け加える「心の備えは人に属するが、舌の答えは主から来る。」 しかし悪い舌については、シラ書第28章に見出すであろう:「中傷する舌は多くを不安にし、国から国へと追いやった;強固な城を引き倒し、偉人の家を覆した。」そして中傷する舌とは、争う二者の間に軽率にあるいは悪意をもって干渉する第三者意味する。 第二に、聖職者について、すなわち男女を問わず聖職者修道者について、聖ヨハネ・クリュソストモスは「彼は神殿から売り買いする者たちを追い出した」の箇所でこう語る。司祭からすべての善が生まれ、すべての悪が生まれる。ヒエロニムスはネポテアヌスへの書簡で言う:貧困から富へ、低い地位から高い地位へと上った商売をする司祭を疫病のように避けよ。そして福者ベルナルドゥスは詩篇についての第23説教聖職者について言う:もし公然たる異端者として立ち上がる者がいれば、彼を追放沈黙させよ;もし彼が暴力的な敵であれば、すべての善人は彼から逃れよ。しかし我々は誰を追放し誰から逃れるべきかをいかに知るのか?彼らは親しげで敵対的平和的で好戦的、隣人的で全く利己であるからである。 そして別の箇所で:我らの司教は槍兵となり、我らの牧者は毛を刈る者となった。ここで司教とは、自分では小指で触れることもしない重い労働を部下に課す傲慢修道院長たちを意味する。そして聖グレゴリウスは牧者について言う:聖性の名前位階を持ちながら罪の中に生きる者ほど教会において害をなすはいない;誰も彼の罪を告発する勇気がなく、それゆえ罪が広く広がる。罪人がその位階の聖性のゆえに敬われるからである福者アウグスティヌスもまたドナトゥス派のヴィンセンティウスに修道士について語る:我らの神である主の前で汝の愛徳に率直に告白するが、これは神に仕える者となって以来の我が魂の証人であるが、修道院を飾るか辱めるか以上に良くも悪くもない人々を見出すことが不可能であるという事実において、我が経験した困難は甚大である。 さて、女性邪悪さについてはシラ書第25章で語られている:「蛇の頭の上にある頭はなく、女性の怒りの上にある怒りはない。獅子や竜と住むほうが、邪悪女性と家を保つよりましである。」そして邪悪女性についてその箇所で前後に述べられる多くの中で、彼は結論する:「すべての邪悪女性邪悪に比べれば小さなものである。」それゆえ聖ヨハネ・クリュソストモスは「結婚するのは良くない」(マタイ第19章)の箇所でこう言う:女性とは友情の敵、逃れられない刑罰必要な悪、自然の誘惑、望ましい災い、家庭の危険、魅惑的な害悪、美しい色で塗られた自然の悪以外の何であろうか!それゆえ、彼女を保つべき時に離縁するのが罪なら、それは確かに必要拷問である;我々は彼女を離縁することで姦淫を犯すか、日々の争いに耐えなければならないかであるキケロは修辞学第2巻で言う:男性の多くの欲望は彼らを一つの罪に導くが、女性欲望は彼らをすべての罪に導く;すべての女性悪徳の根は貪欲からである。そしてセネカ悲劇で言う:女性は愛するか憎むかである;第三の段階はない。そして女性の涙は偽りである;真の悲しみからまれることもあれば、罠であることもある。女性が一人で考えるとき彼女は悪を考える。 しかし善い女性については多くの賞賛があり、我々は彼女らが人々に至福をもたらし、国民土地都市を救ったと読む;ユディトデボラエステル場合に明らかなように。コリント第一第7章も参照:「もし女性に信じない夫がいれば、彼女は彼を去らせてはならない。信じない夫は信じる妻によって聖化されるからである。」そしてシラ書第26章:「有徳な妻を持つ人は幸いである。彼の日数は二倍となるであろう。」そしてその章全体を通じて善い女性の優秀さについて多くの高い賞賛が語られている;箴言最後の章でも有徳な女性について同様である。 そしてこのすべては新約聖書においても女性処女とその他の聖なる女性たちについて明らかにされている。彼女らは信仰によって国民王国偶像崇拝からキリスト教へと導いた。ヴィンケンティウス・ベルヴァケンシス歴史の鏡、第26巻第9章)を見る者は、最もキリスト教的なジゼラによるハンガリー改宗と、クロヴィスの妻クロティルドによるフランク族改宗について驚くべきことを見出すであろう。それゆえ、女性に対して読む多くの非難において、「女性」という言葉は肉の欲望意味するために使われている。言われるように:「我は死よりも苦い女性見出した」、そして「肉欲に従う善い女性」。 また他の者たちは、男性よりも迷信的な女性が多く見出される他の理由提示した。第一は、彼女らがより軽信的であること;そして悪魔の主要な目的信仰堕落させることであるから、それゆえ彼はむしろ彼女らを攻撃する。シラ書第19章を参照:「信じやすい者は軽率であり、減ずるであろう。」第二の理由は、女性自然により感受性が強く、肉体のない霊の影響を受ける準備がより整っていること;そして彼女らがこの性質を良く用いるとき彼女らは非常に善いが、悪く用いるとき彼女らは非常に邪悪である。 第三の理由は、彼女らが滑らかな舌を持ち、邪悪な技によって知ったことを仲間の女性たちから隠すことができないこと;そして彼女らは弱いので、魔術によって自らを復讐する簡単秘密方法を見出すことである上記引用したシラ書を参照:「獅子や竜と住むほうが、邪悪女性と家を保つよりましである。すべての邪悪女性邪悪に比べれば小さなものである。」そしてこれに加えて、彼女らは非常に感受性が強いので、それに応じて行動する。 また説教者が用いることについて非常に注意すべき他の理由提示する者たちもいる。旧約聖書において聖書女性について悪く語ることが多いのは真実であり、これは最初の誘惑者エヴァとその模倣者たちのためであるが;その後新約聖書においては、(聖ヒエロニムスが言うように)エヴァからアヴェへというような名前の変化を見出しエヴァのすべての罪がマリアの祝福によって取り去られた。それゆえ説教者は常に可能な限り彼女らの賞賛を語るべきであるしかし、この時代においてこの不信仰男性よりも女性により頻繁に見出されることを我々が実際の経験によって学ぶのであるから、もし誰かがその理由を知りたがるなら、我々は既に述べたことに以下を付け加えることができる:彼女らは心身ともにより脆弱であるから、魔術の呪文の下により陥りやすいのも驚くことではない。 知性について、すなわち霊的なことの理解について言えば、彼女らは男性とは異なる性質であるように思われる;これは聖書からの様々な例によって裏付けられた権威者論理によって証明される事実である。テレンティウスは言う:女性知性的子供のようである。そしてラクタンティウス(教育、第3巻):テメステを除いて哲学理解した女性はいない。そして箴言11章は、まるで女性描写するかのように言う:「豚の鼻の金の輪のように、美しいが思慮のない女性である。」 しか自然理由は、彼女男性よりもより肉的であることであり、これは彼女の多くの肉的な忌まわしさから明らかである。そして最初女性形成に欠陥があったことが注目されるべきである彼女は曲がった肋骨、すなわち胸の肋骨から形成されたからであり、これは男性に対して反対の方向に曲がっている。そしてこの欠陥により彼女は不完全な動物であり、常に欺く。カトーが言うように:女性が泣くとき彼女は罠を編む。そしてまた:女性が泣くとき彼女男性を欺くために労苦する。そしてこれはサムソンの妻によって示される。彼女は彼がペリシテ人提示した謎を告げるよう彼を騙し、彼らに答えを教え、かくして彼を欺いた。そして最初女性信仰が少なかったことは明らかである;蛇がなぜ彼らは楽園のすべての木を食べないのかと尋ねたとき彼女は答えた:「すべての木について、等々-恐らく我らが死ぬことのないように。」それによって彼女は疑い、神の言葉への信仰が少ないことを示した。そしてこのすべては語源によって示される;フェミナ(女性)はフェ(信仰)とミナス(より少ない)から来るからであり、彼女信仰を保持し保存することにおいて常により弱いかである。そしてこれは信仰に関して彼女の本性である恩寵自然の両方によって、キリスト受難の時、すべての人において失われた時でも、祝福された処女において信仰は決して失われなかったが。 それゆえ邪悪女性は、その性質により信仰において動揺しやすく、結果として信仰を棄てやすく、これが魔術の根である。 そして彼女の他の精神性質、すなわち自然意志について;彼女が以前愛していた誰かを憎むとき、海の潮流が常に波立ち沸騰するように、彼女の魂全体で怒りと性急さで煮えたぎる。多くの権威者がこの原因について言及する。シラ書第25章:「女性の怒りの上にある怒りはない。」そしてセネカ悲劇、第8巻):炎の力も膨らんだ風も、致命的な武器も、結婚の床から離縁された女性欲望憎悪ほど恐れられるものはない。 これはヨセフを偽って告発し、彼女との姦淫の罪に同意しなかったために彼を投獄させた女性においても示される(創世記第30章)。そして魔女の増加に寄与する最も強力な原因は、既婚者と未婚の女性男性の間の嘆かわしい競争である。これは聖なる女性の間でさえそうであるから、他の者の間ではいかばかりであろうか!創世記第21章でサラがハガルの懐妊に対していかに性急で嫉妬深かったかを見よ:ラケル子供がいないためにレアいか嫉妬たか創世記第30章):そして不妊であったハンナが多産なペニンナを(列王記上第1章):そしてミリアムがモーセについてつぶやき悪く言い、それゆえらい病に打たれたか民数記12章):そしてマルタマリア・マグダレナ嫉妬たか彼女が忙しく働いている間にマリアが座っていたかである(ルカ第10章)。この点についてシラ書第37章:「彼女嫉妬する女性について、彼女相談してはならない。」つまり彼女相談することは無駄である邪悪女性には常に嫉妬、すなわち妬みがあるからである。そして女性が互いにこのように振る舞うなら、男性に対してはなおさらであろう。

2022-11-20

猫焼き(ねこやき)は、18世紀以前のヨーロッパで行われていた、厄除けと娯楽を兼ねて猫を焼き殺す催しである五月祭や、もともと夏至祭りである聖ヨハネの日の前夜祭などに、数十匹の猫が網に詰め込まれ焚火の上に掲げられた。中世から近世にかけて、猫は虚栄や魔術と関連づけられており、悪魔象徴として焼かれることがあった[1]。

猫を焼く儀式はかつてヨーロッパ全域で一般的であり、ポルトガルバスク地方フランスドイツイングランドで報告されている。この慣習は紀元前ケルト人風習までさかのぼることができ、ストラボンやカエサルは生贄として動物や人が火に奉げられたことを記している。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E7%84%BC%E3%81%8D

2022-08-11

anond:20220811130651

そんなん弱者の戦略というお題目なら適当相手しとけば良いじゃない

共産アレルギーがあるなら創価公明でも良いぞ

宗教とか私設のセーフティネットみたいな面もあるから

創価公明アレルギーがあるならカトリックもやってる

社会福祉法人聖ヨハネ会| 東京都地域公益活動推進協議会

https://www.tcsw.tvac.or.jp/koueki/sanka/seiyohane.html

 

あんシニシズム拗らせてると必要な助けが貰えんぞ

あと自分イデオロギーのために助けが必要な人の邪魔をするはあっちゃいけないことだと思うよ

2022-06-24

[] そのさんびゃくさんじゅうはち

バアクーッス

 

本日聖ヨハネの日ということで、この日の前日には不思議なことが起こるという逸話から禿山の一夜だとか夏至祭りの前夜に行われる夏の夜の夢だとかが産まれたみたいです。

話題サロメさんもこの人の斬首された首を持った女の子ということで有名ですね。

やはり首がなくなると生きていけませんから

急所があるのでそこは守らないといけませんね

 

ということで本日は【急所の防護よいか】でいきたいと思います

急所の防護よいか急所の防護ヨシ!

 

それでは今日も一日、ご安全に!

2019-10-22

冒険者ギルドができるまで

冒険者ギルドができるまで、魔物退治の仕事冒険者と村人の間で自由報酬が決められていた

その村では、かつて夏の長雨のあと、吸血羽虫のモンスター大量発生に悩まされていた

ある日若い男の冒険者がふらっと現れ、アースノーマットの魔法を使ってモンスターを一夜のうちに退治した

男は「僕のいた世界では普通のことです」「報酬なんかいりませんよ」などと言い、報酬を受け取ろうとしなかった。村人はみな喜んだ

 

それから数年たち、村では冬の旱魃のあと、バケネズミモンスター大量発生に悩まされた

その時現れた冒険者は、村のモンスター退治の報酬として帽子一杯の金貨要求した

結果その冒険者魔法の笛の魔力を使い一夜のうちにモンスターを退治した

だが、夏の長雨の時の冒険者の無欲を思い出した村人は

報酬を払う時期になって文句を言い出した

 

「前の冒険者無償でやってくれたのに」

「対して苦労もせずに仕事をやってのけ、多くの報酬を望むなんてひどい」

冒険者は何も受け取らず立ち去るしかなかった

 

悲劇はしばらく後の冬の朝に起こった

報酬の代わりを受け取りに来た」

冬の冒険者はそう言うと魔法の笛を使い村中の子供を連れ去り、東の地へと消えていった

村人たちは深く悲しみ、ニュースは国中に広まった

 

この話の教訓はこうだ

人はある仕事にかかる準備や技能習得コストを正しく計ることができない

無償で、あるいは廉価でやってくれた仕事記憶が残ると、その経験コスト計算基準になり

結果として価格の叩き合い合戦となり、市場は荒れ果ててしま

この事例の結果を重く見た全国の冒険者は、仕事報酬バランスを正しく決めるようギルドを制定し

報酬が適正な値になるよう調整することになった

 

自由市場デフレ合戦犠牲となった村には

このような碑文が建てられ、今の時代にも教訓を残している

聖ヨハネパウロ記念日

色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に

130人の子供らが誘い出され

コッペンの近くの処刑場所でいなくなった

2018-04-08

聖ヨハネとか聖パウロの聖って

今日知ったんだけどセイントことなだってね。

それなら最初から聖闘士ヨハネとか聖闘士パウロって書いた方がわかりやすいのにね。

2018-02-05

[]ドレミの歌いろいろ

イタリア語:

ドレミ音階ルーツが、1024年イタリア僧侶が、

聖ヨハネ賛歌から考え出したとされ、

Ut Re Mi Fa Sol La」に

17世期Sancte Ioannesの頭文字の Si が加わり、

さらに後、Ut発音しにくいので、

DominusのDoに変更されたそうです。

ドレミの歌」

DO se do qualcosa a te

RE e`il re che c`era un di`

MI e`il mi per dire a me

FA la nota dopo il MI

SOL e`il sole in fronte a me

La se proprio non e`qua

SI se non ti dico no

e cosi` ritorno al DO

Tutti insieme appassionatamente)

(訳)

あげる  君になにかをあげるなら

王様  昔いた王様

私    私にと言うためのmi

FA ミの次の音

太陽 私の目の前の太陽

あっち  こっちでないなら

はい   いいえと言わないなら

さあこれでドに戻ります

英語

Do-Re-Mi

Doe, a deer, a female deer

Ray, a drop of golden sun

Me, a name I call myself

Far, a long, long way to run

Sew, a needle pulling thread

La, a note to follow sew

Tea, a drink with jam and bread

That will bring us back to Doe

(訳)

ドゥは 鹿、雌鹿

レイは 金色太陽の光

ミーは 自分自分を呼ぶとき名前

ファーは 遠い、走っていく長い道のり

ソーは 針で糸をひくこと

ラは ソに続く音符

ティは ジャムパンに合う飲み物

そしてまたドゥに戻る(最初からやり直そう!)


フランス語

Do, le Do, il a bon dos

Re, rayon de soleil d'or

Mi, c'est la moitie d'un tout

Fa, c'est facile a chanter

Sol, la terre ou vous marchez

La, l'endroit ou vous allez

Si, c'est siffler comme un merle

Et comme ca on r'vient a Do-o-o-o

(訳)

Do Doは

Re 黄金の太陽の光

Mi 全体の半分

Fa 歌うのは易しい

Sol 貴方の歩く大地

La 貴方の住んでいる場所

Si 黒鶫(くろつぐみ)のさえずり

さあ Doに戻りましょう


トルコ語

Do dir kullah(*) dondorma

Re masmavi bir dere

Mi denizde bir demi

Fa denizde bir tayfa

Sol papatyali(*) bir yol

La yagmurdan(*) bir damla

Si ilknurun kedisi

Do bir kulalr dondorma

(*)トルコ語文字化けするといけないので、u 、i 、g で代用

(訳)

ドは 1カップの アイスクリーム

レは 真っ青な 1つの渓流

ミは 海に 一隻の船

ファは 海に 一人の船員

ソは 真白菊の咲く 一本の道

ラは 雨から 一滴のしずく

シは イルクヌル女性名前)の 猫


英語直訳版:

do wa mesu no shika

re wa hi no hikari

me wa watashi desu

fa wa tooi no koto

so wa hari de nuu

ra no tonari wa so

ti wa pan to tomo ni

soshite mou ichido

三重県公立中学校英語教材として用いられた。

https://web.archive.org/web/20071005084349/http://danceart-web.hp.infoseek.co.jp/doremi.htm

2015-07-20

函館に行って驚いた7つのこと

横浜生まれ東京住まい20代会社員。先日有休がとれたので、ふと思い立って人生初の函館旅行に行ってきた。親しい人を誘っての気楽な二人旅だ。

しかったこと、残念に思ったこと、多々あったので書いてみる。長いよー。

1.東京から案外近い

今回は羽田空港から函館空港へと空の旅だった。

で、しみじみ思ったんだけど、函館って結構近いのな。は~るばるきたぜは~こだって~!というフレーズあまりにも有名なのでもっと遠いイメージだった。案外気軽に行けるんだなぁ、と目からウロコが落ちた。

だって飛行機乗って1時間20分で着くんだもん。めちゃくちゃ早い。しかも、飛行場市街地から車で20分程度とアクセスが良く、超便利。そう、函館ってコンパクトな街なんだよな。関東平野のど真ん中に住む身としては山も海も温泉も非日常なので自宅のすぐそばにそういったものがある環境というのは羨ましい。


2.JR函館駅とその周辺の寂れっぷりがヤバい

JR函館駅シャトルバスをおり、その駅前のあまりの茫漠とした様子に衝撃を受けた。

土曜の昼だったが、ほとんど人影がない。駅舎は新しくて立派だし駅前ロータリーも広く、周辺には大きなビルホテルが林立していて、ハードが整っているだけに主役となる人間がいなくてまったく賑わっていないのがなんだか異様な感じ。ロータリーを囲む唯一の店らしい店といえば小さなサンクスだけだし。

自分の住む関東の某ベッドタウンは、知名度は低く駅も小規模で周辺にも函館駅ほど大きなビルホテルが林立している訳ではない。でも、駅前には複数コンビニ飲食店フィットネスジム銀行パチンコ屋、スーパー病院学習塾がそろっていて人通りが絶えない。チェーン店地元資本の小型店が競合し、学生や主婦やおっさんやじいちゃんばあちゃんがワラワラ路上を歩いていたりスイスイ自転車で進んでいる。

地方車社会と聞く。だからJR函館駅駅前はこんなに人影が見えないのか? みんな車で移動していて歩かない? でもそれにしたって人いなさすぎじゃないか? 別に山奥とかじゃなくて、街の中なんだからさ。

夜にも駅周辺を通りかかった。そしたら20時台だというのにしーんと静まり返っていて真っ暗なんだよ。うちの地元じゃ23時レベルの閑寂さ。普通、土曜の夜といったらどの繁華街も賑わう時間帯だろうに、大門地区もほとんどの店のシャッター下りていてポツンポツンと小規模なお店がやっているだけだった。観光客としてお金を落とす気満々で夜の函館に繰り出したのに、静まり返っていてお金を落としたいと思える場所がないんだわ。

まりにも異様に感じたので、その場でスマホで函館についてぐぐってみたら、「2014年に市域全域が過疎地域指定された」という情報を得た。ドーナツ化現象典型的な例だ、とも。

函館って過疎地だったのか! そんなのるるぶに書いてなかったよ!

どおりで、函館駅周辺をウロウロしているのは観光客ばかりで地元民の姿はなかなか見えないはずだ。函館朝市行ってみても観光客だけだったし、その客足自体も少なかったし(これは行った日時が良くなかったのかもしれんが)。値段も安くないわ、客引きの口上が胡散臭いわ強引だわで怖かったんだけど、やっぱり地元民が買いに来ないから観光客頼みになってしまい、少ない客を逃すまいと必死になってるんだろうな。


3.八幡坂は超良い感じだよね!

気を取り直して良かった函館観光について書いてみる。夜景が有名だが、今回一番気に入ったのは晴れた日の早朝に行った八幡からの眺めだった。この坂は観光で訪れたい坂の名所ベスト1に輝いた坂なんだそうな。海へと伸びる真っ直ぐな広い道で、そして坂の上から見える海の青さが実に鮮やかで、晴空の青さと相俟って素晴らしい景観だ。ああ、やっぱり港町って良いなぁ!凄く良い!と思わされる。これは嬉しい驚きだったな。

余談ながら、なぜこんなにも函館の坂の道幅が広く直線なのかというと、何度も大火に見舞われた歴史を踏まえて火除けを意図しているのだそうだ。ブラタモリの函館の回を見たとき知った。


4.キリスト教文化面白い

八幡坂を登って右に折れると、大三坂とぶつかる十字路がある。この十字路、面白いよ。4つの角のうち3つが、

とそれぞれ宗派の違うキリスト教教会敷地となっているんだ。

ちなみに、十字路には面していないけれど、近くには日本基督教団函館教会プロテスタント)や船魂神社東本願寺函館別院などもある。なんじゃこの宗教激戦区!

我々が件の十字路付近を歩いていたのは日曜日の10時頃だったんだけど、突然十字路の方から「ガランゴロンガランゴロン」と元気の良い鐘の音が辺り一帯に鳴り響いた。

「あ、教会の鐘だね」「三つの教会のうちのどこのだろうね」と同行者と話しながら歩いていると、「ガランゴロン」の鐘の音は数分程度で止み、すぐ後に今度は落ち着いた「ゴーンゴーンゴーンゴーン」という違う鐘が聞こえてきた。

どちらの音も「今から日曜礼拝やるよ!信者の皆さんは教会にいらっしゃい!」という合図の鐘なんだろうけど、何しろ3つも教会が隣接しているのであえて違う鐘の鳴らし方をして各々の信者に伝えていえうんだろうな。

自分は特に信仰は持っていないが、旅の同行者は日本人には珍しく成人洗礼をしているガチのカトリック教徒で、「せっかくだから函館のミサにぜひ行きたい」と言い出した。時間に余裕はあったので一緒に元町教会の日曜礼拝に出席してみることになった。

同行者からミサの間の注意点として①携帯の電源は必ず切っておく②信者じゃないので「アーメン」は言わない③信者じゃないので十字は切らない④信者じゃないので聖体拝領は望まず神父からは「祝福」を受ける、の4点は気をつけてほしい、と言われた。

元町教会の中に入って世話役さんのような方に旅行者だがミサに参加したい旨を伝えると、普段はどこの教会に通っているのか等あれこれ気さくに話しかけてくれ、ミサ最中も「今歌っているのは聖歌集〇〇ページですよ」等と親切に教えてくれた。さらにミサの後には全員の前で同行者を「本日は東京の〇〇教会所属の〇〇さんが来てくれました」と紹介までしてくれた。ありがたいことだ。

その際、我々の他にも「京都の〇〇教会からは~」「福岡の〇〇教会からは~」「シンガポールの〇〇教会からは~」と紹介されてる人たちがおり、国内外から観光で来函したカトリック教徒が多数ミサに参加していたのだとわかった。

同行者曰く、こういう風にわざわざ紹介する習慣は他のカトリック教会にはないそうな。「さすが港町。オープンだな~」と他所者を受け入れることに慣れている様子に感心していた。一方で、女性信徒がみんな頭に白いベールを被っていることにも驚いたようで「都内のいつも通っている教会ではベールを被っている人はもうあまりいないんだよね」と言っていた。

カトリック教会場合信者でなくてもミサに参加することは拒まれない。しかし、キリスト教信仰に興味のない観光客は単なる物見遊山のつもりで参加すると気がひけると思う。やはりミサというのは信徒の真摯な祈りの場だからね。教会内部は淡い水色のアーチが連なるデザイン天井で、ミサに参加しなくても建築を見るだけで充分信者以外も楽しめる。信徒や信仰に興味のある人の場合は、歓迎してくれるので行ってみるのも良いだろう。同行者は大変満足したようだった。

函館でキリスト教文化というと元町教会群だけではなく修道院も有名だ。トラピスチヌ女子修道院にも行ってきた。通常の見学者が入れるエリアは非常に限られており内部には入れないし、修道女も出てこない。しかし開放されている前庭は隅々まで掃除が行き届いて美しかった。展示物はボリュームは少ないものの中身は色々と興味深かった。

このトラピスチヌ修道院修道女は広大な内部で自給自足生活を送り、基本的に外部との接触は断つそうだ。はー、凄いなー、現代日本にそういう生活をしている人がいるとはとしみじみ感じ入っていたら、近くにいた観光客おっさんが「ドローン飛ばして内部の様子を撮ってみたいわー、ガッハッハ」と下品な声で笑っていてげんなりした。きもい痴漢かよ。今後、本当にそういうことやりだす奴がいたら嫌だな。

まぁ、自分も、ここの前庭を見学しているとき以下のコピペを思い出してしまい、ぐふふふふwwwwwと1人込みあがる笑いをかみ殺していたので、下品さではあまりひとのことは言えないが。

524 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2005/04/16(土) 00:36:24 ID:/3DgV0R00

函館トラピストクッキーバターどんだけ使ってるか知らんが、

めちゃくちゃうまい

型に入れてオーブンで焼くんだが、生地を作るまでの工程は

15歳~18歳くらいの修道女見習いたちが素手でこねて作っていると聞いた

 

527 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2005/04/16(土) 00:47:21 ID:m6sYxkhI0

>>524

トラピストクッキー作ってる)は男子修道院

女人禁制なので修道女が居るわきゃない

女子修道院はトラピスチヌ

ここでクッキーは作ってないはず

 

528 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2005/04/16(土) 00:49:42 ID:/3DgV0R00

もう二度と食わない



5.北海道食べ物はやっぱり美味しい

トラピスチヌ修道院の近くに牧場がある。タクシーの運転手さんに「入場料無料だし、函館牛乳の会社がやっているところだから」と勧められて寄ることにした。函館牛乳の会社と言われても正直ピンとこないが、地元ではブランドなのだろう。牧場では牛が見れた。周辺は北海道っぽい広々とした畑が広がっていて景観もいい。野外の牧場の売店でバニラソフトクリームを食べてみたら大変美味だった。北海道ソフト牧場ソフト!というシチュエーションがより美味しく感じさせたのかもしれないが、美味いものは美味いのだ。

ホテルの朝食バイキングも良かった。今回泊まったのは函館国際ホテルなんだが、ここは「朝食のおいしいホテル2015日本全国第5位」なんだとか。実際美味くて満腹になるまで食べた。イクラとか甘海老とか海鮮盛り放題なのが嬉しい。米も粒がたっていてツヤツヤで美味くて感動。あと、じゃがバターも美味かったな。あの芋なんだろ?独特のネッチョリ感があって甘かった。バターの塩気と組み合わさって、口の中が幸せになる。「空き部屋があったので」と部屋も自動的ランクアップしてくれていたし、サービスにも満足だ。

ホテルの徒歩圏内に「まるかつ水産」という回転寿司屋があったので昼食を取りに行った。ネタは新鮮でやっぱり美味い。ただ値段は観光地価格だわな。

北海道土産は色々充実しているので試食しながらあれこれ選ぶのも楽しい職場へのお土産用に買うのはもちろん、自分用にも色々買ったわ。白い恋人ウマー!ロイズポテチチップチョコレートウマー!とうきびチョコウマー!カリカリまだあるウマー!チーズオムレットウマー!!


6。金森赤レンガ倉庫は惜しい

函館のお洒落スポットとしてどのガイドブックにも載っているのが金森赤レンガ倉庫。外観は大きくて迫力もあって異国情緒もあり良かった。少し色あせたレンガが歴史を感じさせるし、夜のライトアップされた姿はロマンチックで綺麗だ。写真映えするスポットだと思う。

でも肝心のテナントショップちょっと惜しいな。1棟丸ごと使って北海道土産物屋をドドン!と大容量で販売している棟があるのは観光客には便利なのでありがたいが、その他の棟には小さな店がゴチャゴチャ雑多に入っていて清潔感がないし、しかも何処でも買えるような、函館の匂いどころか北海道っぽさの欠片もない、わけのわからん雑貨屋とか多くてしょぼい。やたら安っぽいプラスチックのテカテカした感じの商品ばっかり置いている雑貨屋もあったが、あれは修学旅行小中学生向けなんだろうか??

ぶっちゃけ地元イオンの方がまともな店が入っていて楽しめる気がしたわ……

結構中国やら韓国やら外国人が多かったんだけど、わざわざ海外から来てくれた人はあのテナントラインナップにはちょっとがっかりしたんじゃなかろうか、と函館人でもないのに勝手申し訳なく思ってしまった。

もうちょっと赤レンガの中は洗練されたお洒落な空間になるといいと思うんだけどな。

7.函館のくびれの正体

函館といえば、陸繋島というあの特徴的な地形があげられると思う。まるで女性の腰のような見事なくびれ

で、今回我々はあのくびれの正体を勘違いしていた、と気付いた。つまり、あのくびれ北海道尻尾みたいに突き出ている渡島半島のことだと思っていたんだ。馬鹿だよねw 我ながらこんな酷い勘違いを30年弱もしていたなんて凄いビビったw

このことに気付いたのは、ロープウェイ函館山に上って展望から函館の街を一望した時だ。本当は夜景を見たかったんだけど、その日の夜は天気予報が芳しくなかったので晴れていた昼間のうちに展望台に上ったのだった。澄み切った水色の空の下、青い海も見えて、市街地の一つ一つの建物も肉眼ではっきり見えて、五稜郭函館山こんもりとした緑も見えて、とても綺麗な眺望だったので満足している。

 
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