令和3年を振り返って
令和3年も残すところあと2日となりました。感染症騒動が収束しない中で箱根駅伝があったのがつい先日のことのようですが、今年もあっという間に過ぎた感じがします。今年は、9月に自民党総裁選が行われ、引き続き10月に衆議院議員選挙があったこともあり、改めて我が国がこの20年余にわたり全くといってもよいほど経済成長していないことが問題視されるようになりました。また、衆院選前に禁忌を破って公表された高級官僚によるバラマキ批判論文も、20年以上前の橋本龍太郎政権あたりから顕著になった財政均衡主義や構造改革を主な政策とする新自由主義の経済政策が果たして正しかったのかという議論が本格化する発火材料になったと思います。
2年余り前の令和が始まった年に書いた記事(平成時代の省察)を読み返してみたのですが、次のような下りに目が行きました。
「個人主義に根差した成果主義というのは、組織を支える個々人が能力を高めていけば、組織全体が活性化し、強くなるという思想・信念に立脚した考え方です。この考え方は、勝者の発想で、組織全体、つまり敗者に対する配慮に欠けるきらいがあります。個人主義が徹底し、自己責任の考え方が貫かれている米国でさえも、あまりに大きくなった経済的格差やそれによってもたらされる社会の分断が問題視されるようになってきています。歴史的に、集団主義的傾向の強かった日本人にはそもそも合っていない構造改革が強引に推進されてしまったという側面が平成時代にはあったのではないでしょうか。」
ところで、浅草社労士は今や我が国が世界に誇るといっても過言ではないアニメーションの大ファンです。この一年は、外出の機会が減ったこともあいまってアニメ見まくりの日々でもあったわけです(笑)。その中で、印象に残ったことは、最近の日本アニメも個人の能力を究極まで高めた者よりも集団との絆を強く意識している者が勝つという主題をより明確に打ち出していることです。
例えば、知人の社労士が紹介してくれてアニメを見始め、最近ではもっと先の展開も知りたくなって単行本も読み出した「キングダム」という秦の始皇帝の時代を取り上げた長編があるのですが、今年放映されたアニメ第3季は主に秦国が合従軍と戦う函谷関攻防戦を描いたものでした。ただ、最終の2話は、この間に隊からは離れていたヒロイン羌瘣の仇討ちの話になるのですが、同族で姉同然に慕っていた羌象の仇を探し出し遂に剣を交えることとなり、きたない手を使って羌象を殺めただけと見限っていた相手が個の力としては人の領域を超えた化け物になっていたことを思い知らされ、死を覚悟するところまで追い詰められるのです。最後に、彼女の一族が使う巫舞という独特の呼吸法を伴った超絶的な剣技を極限状態までもって行き、仇討ちに成功します。このときの巫舞は、呼吸法の深さが限界を超えると二度と意識が元に戻らず術者も死に至るというリスクを承知で行ったものでしたが、孤独だった彼女が主人公らの飛信隊に所属してからの月日が彼女に仇討ち後の生きる希望や仲間との絆を意識させるようになり、その絆の意識があれば極限の巫舞を使っても帰ってこられるという確信も一方で持っていたようです。
また、平成30年の作品ながら、今年見たアニメの中で最も印象に残った「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の終盤で、人類が繁栄するはるか以前の太古の時代に人類の文明をも凌駕する高い文明を築いた叫竜人の唯一の生き残り叫竜の姫が宇宙からの侵略者の術中にはまってもなお抗い続ける主人公とヒロインに与えた言葉は「それがお前たちのいう生きるということか、我々(叫竜人)はつながりを捨て、孤独になることで強く完全に成れると信じていた。しかし、つながる者がいることで輝く命があるのかもしれんな。」
どうやら、個人主義や自己責任論は、所属する集団や愛する人と強い絆を持った主人公やヒロインによって否定され、打ち破られるのが我が国アニメや漫画の世界での王道であり、常識と見られます。アニメ・漫画業界からは、そんなことも知らずに構造改革なんて知った風に叫んでいるのかといわれそうです。
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2年余り前の令和が始まった年に書いた記事(平成時代の省察)を読み返してみたのですが、次のような下りに目が行きました。
「個人主義に根差した成果主義というのは、組織を支える個々人が能力を高めていけば、組織全体が活性化し、強くなるという思想・信念に立脚した考え方です。この考え方は、勝者の発想で、組織全体、つまり敗者に対する配慮に欠けるきらいがあります。個人主義が徹底し、自己責任の考え方が貫かれている米国でさえも、あまりに大きくなった経済的格差やそれによってもたらされる社会の分断が問題視されるようになってきています。歴史的に、集団主義的傾向の強かった日本人にはそもそも合っていない構造改革が強引に推進されてしまったという側面が平成時代にはあったのではないでしょうか。」
ところで、浅草社労士は今や我が国が世界に誇るといっても過言ではないアニメーションの大ファンです。この一年は、外出の機会が減ったこともあいまってアニメ見まくりの日々でもあったわけです(笑)。その中で、印象に残ったことは、最近の日本アニメも個人の能力を究極まで高めた者よりも集団との絆を強く意識している者が勝つという主題をより明確に打ち出していることです。
例えば、知人の社労士が紹介してくれてアニメを見始め、最近ではもっと先の展開も知りたくなって単行本も読み出した「キングダム」という秦の始皇帝の時代を取り上げた長編があるのですが、今年放映されたアニメ第3季は主に秦国が合従軍と戦う函谷関攻防戦を描いたものでした。ただ、最終の2話は、この間に隊からは離れていたヒロイン羌瘣の仇討ちの話になるのですが、同族で姉同然に慕っていた羌象の仇を探し出し遂に剣を交えることとなり、きたない手を使って羌象を殺めただけと見限っていた相手が個の力としては人の領域を超えた化け物になっていたことを思い知らされ、死を覚悟するところまで追い詰められるのです。最後に、彼女の一族が使う巫舞という独特の呼吸法を伴った超絶的な剣技を極限状態までもって行き、仇討ちに成功します。このときの巫舞は、呼吸法の深さが限界を超えると二度と意識が元に戻らず術者も死に至るというリスクを承知で行ったものでしたが、孤独だった彼女が主人公らの飛信隊に所属してからの月日が彼女に仇討ち後の生きる希望や仲間との絆を意識させるようになり、その絆の意識があれば極限の巫舞を使っても帰ってこられるという確信も一方で持っていたようです。
また、平成30年の作品ながら、今年見たアニメの中で最も印象に残った「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の終盤で、人類が繁栄するはるか以前の太古の時代に人類の文明をも凌駕する高い文明を築いた叫竜人の唯一の生き残り叫竜の姫が宇宙からの侵略者の術中にはまってもなお抗い続ける主人公とヒロインに与えた言葉は「それがお前たちのいう生きるということか、我々(叫竜人)はつながりを捨て、孤独になることで強く完全に成れると信じていた。しかし、つながる者がいることで輝く命があるのかもしれんな。」
どうやら、個人主義や自己責任論は、所属する集団や愛する人と強い絆を持った主人公やヒロインによって否定され、打ち破られるのが我が国アニメや漫画の世界での王道であり、常識と見られます。アニメ・漫画業界からは、そんなことも知らずに構造改革なんて知った風に叫んでいるのかといわれそうです。
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2021年12月30日 11:00 | 経 営