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平成時代の省察

 エドマンド・バーク著「フランス革命の省察」の翻訳者でもある評論家の佐藤健志さんが、今朝の文化放送ラジオでニュース解説を担当されていました。その中で、「平成とは、パイが縮小する中でずっと椅子取りゲームをしていた時代でした。従って、椅子に坐れない人が出てくるわけですが、それは自己責任と片づけてきた時代でもありました。」と独特の立て板に水的語り口で話しておられました。確かに、日本経済は泡沫経済がはじけて以来、失速し続け、緊縮財政で経済成長も止まったような状態が続いています。特に、1997年の消費税を3%から5%に引き上げて以降の停滞は、ひどいものでした。

 このところ、川崎市登戸で起きた凄惨な通り魔事件、それが引き金になったとも思われる元農林事務次官による殺人事件などとひきこもり問題との間には密接な関連性があるのだろうと推測されます。佐藤氏は、正確な実態がつかめぬゆえに不氣味なひきこもり問題を生み出した社会の背景について「パイが縮小する中での椅子取りゲーム」との比喩を使って指摘しておられたわけです。平成時代の不況は、多くの人を経済的理由による自殺に追い込んだという指摘がありますが、ひきこもりの問題も、雇用の問題と結びついた経済的な側面が相当に大きかったと考えられます。

 小泉政権が誕生する少し前くらいに米国駐在から帰国した浅草社労士も、個人主義の毒がすっかり回っていて、いわゆる日本的経営というものに疑問を抱くようになっておりましたが、小泉首相の有力ブレーンにして政権にも参加された経済学者の言葉を「まさにその通り、自己責任が大事なんだ」と歓迎していた時期がありました。

 しかし、いま振り返れば、米国流の「成果主義」を入れても、日本の会社はかつての輝きを失うばかりだった氣がしてなりません。1980年代、世界を席巻した日本の家電メーカーなども、三洋電機が消滅し、Sharpは外資の傘下に入りました。重電の雄であった東芝でさえ、倒産の危機に見舞われて再建の真っただ中にあえいでいます。個人主義に根差した成果主義というのは、組織を支える個々人が能力を高めていけば、組織全体が活性化し、強くなるという思想・信念に立脚した考え方です。この考え方は、勝者の発想で、組織全体、つまり敗者に対する配慮に欠けるきらいがあります。個人主義が徹底し、自己責任の考え方が貫かれている米国でさえも、あまりに大きくなった経済的格差やそれによってもたらされる社会の分断が問題視されるようになってきています。歴史的に、集団主義的傾向の強かった日本人にはそもそも合っていない構造改革が強引に推進されてしまったという側面が平成時代にはあったのではないでしょうか。

 とはいえ、厳しい時代は強い個人を生み出すということも事実です。野球のイチロー選手、大谷翔平選手をはじめ、個人の能力で突破していく日本人の活躍が散見され、頻繁に話題に上るようになったのも平成時代かもしれません。就職氷河期に社会に出たという女性と話をしたとき、「私のときは就活が本当に大変だったので、とにかく採用してくれた今の会社を絶対に辞めないし、頑張れる。雇用情勢が上向いたときに採用された若者が簡単に辞めてゆくのは信じられない。」という趣旨のことをおっしゃっていたのは印象的でした。厳しい寒さは人を鍛え、ぬるま湯は人を堕落させる、という一面も確かにあるのですが、人というのはつくづく一筋縄ではゆかないものなのです。正解のないところに「解」を求めて彷徨う新たな時代が令和時代の本質になるのかもしれません。そういう省察の機会を与えられている日本という国、そして御代替わりには、感謝しつつ向き合ってゆかねばなりません。

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