bistroで、、、ええじゃないか。
先日行ったお店にて。美味しかった。。。
帯状疱疹で安静にしておくようにといわれたので、ベッドで本を読んでそのまま眠りに落ちていたのですが、やっぱり日ごろから寝ることに慣れていない為か、夜中に目が覚めてしまい、リビングに上がって雑誌を手にしてしまいました。その雑誌の特集にbistroがでていたのですが、そこにbistroの語源がロシア語だということを書いていました。本当かなぁ。この説は有名だそうで物語は、以下のようなもの。「ナポレオン戦争末期、1814年3月31日に連合軍はパリに入城。そのときに連合国側にあったロシアの兵士らが、食事をするときに「急げ」という意味合いの言葉が語源となった」というもの。
でも、Bistroという言葉の使用が19世紀後半まで現れないのは、不自然に感じますね。その時期に流行ったのならどこかに残らないかなぁ。その言葉、当時は使われなかった?!
ナポレオン戦争の後のフランスは、ルイ18世、シャルル10世による王政に戻りそのシャルル10世は1830年の7月革命により王位を追われ亡命。(レミゼラブルでいけば、ジャン・バルジャンが出所してから学生たちの革命が起こる直前2年前ごろにあたります。この7月革命は成功したのですが、銀行資本家の支持によるものであったため、学生たちにとっては納得のいくものではなかった、というのがあのバリケードに繋がっていきます。)
その後に王位についたルイ・フィリップも1848年の2月革命で王位を追われフランス第二共和制が成立し、その第二共和制の大統領に選ばれたルイ・ナポレオン(ナポレオン・ボナパルトの甥)がクーデターにより第二共和制に幕を引きナポレオン3世として皇帝に就任(1852年、第二帝政)。ここからが19世紀後半のフランスなのですが、ロシアとフランスはどんな関係だったのでしょうか。
その時期はフランスも産業革命期を向かえる一方、ロシアはいまだ農奴制で産業化が進まない状況にあった時期です。東地中海に位置する衰退期のオスマン帝国をめぐって、ロシア、フランス、イギリスがつばぜり合いをやっていたころです。そしてとうとう、1853年から1856年クリミア戦争が勃発します。ロシアの南下を阻止したいイギリスとフランスがオスマン帝国と同盟を結び開戦。近代化が遅れたロシアは苦戦し、最終的に1856年パリ条約で事実上敗北しました。(ナイチンゲールが活躍したのはこの戦争)その後ロシアは農奴開放に向かっていきます。そんな19世紀後半にフランスでロシア語が引用されて、広く使われるようになるかなぁ。
フランスでもこのbistro、ロシア語源を否定する説もあるようですね。まあbistroについて調べて、世界史で満腹、ええじゃないか、ええじゃないか。
*ええじゃないか、の騒動は、江戸末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけてで、ちょうどこの時期のお話です。ご馳走様でした。