No 272
Date 2009・10・26・Mon
アニメ【NARUTO】351話感想■351話「発動!仙人モード」2009年10月15日放送
脚本/鈴木やすゆき 絵コンテ・演出/横山彰利 作画監督/田中宏紀 作画監督補/今木宏明 自来也の結界戦術は、敵の動きが結界を張った範囲に入ると感知する『待つタイプ』の術なのに対して、カエルの姐さんのは探知結界といい、生物を使った『攻め!のタイプ』。 いやぁ~~~、強い、強い!!! 伝説の三忍と謳われた自来也さえ手こずらせる『今回のペイン』。 カプセルに入ったペインと入れ替わりに出て来たペイン(ややこしい)は口寄せ専門らしい。 口寄せ動物との契約は、一人一種類だったと思うのですが、『今回のペイン』はアノマロカリスみたいでもありザリガニみたいな甲殻類っぽいのとか、出来損ないケルベロス(笑)、三本足の鳥、サイ( 自来也が仙人モードになるのに口寄せした頭フカサクと姐さんシマを呼び出すのに時間が掛ったのと同じように、最後の最後で六道ペインが出たーーー!!!(でもこれでも半分なのよね;) 今回の作画、一味違った!!! 感想を書き始めて脚本以外お初だと思いますが、多分今まで原画では担当されていたのでしょう。 動きがとても細かいし色あいも抑え気味のマットな感じが、キャラ萌え優先の回とは違ういぶし銀の職人技。 そういう職人技の回は大体はキャラが美しい事よりも(自来也が仙人モードになるから?笑)動きで見せる事を優先とされる様な気がします。 でも表情もとても細部まで描き込んでありました。例えば目を瞬かせるペインや、自来也も焦りや自信ありげな表情も細かい、細かい! ガマケンさんの跳躍や、戦った際に巻き起こる塵、分身するケルベロスもどきの動きや、カメレオンを仕留めるシマの生物探知と止めをさすフカサクの水刀。 キャラが奇麗に描かれている回も勿論好きです。 が、 今回の様に息もつかせぬバトルシーン、感情をあまり表わさないペインが一瞬見せる表情などには「刮目せよ!」 「一瞬たりとも見逃すな!」 「見逃したら損(?)をする」と思わせる回でした。 感謝。 |
No 271
Date 2009・10・19・Mon
アニメ【NARUTO】349話、350話感想「雨隠れ潜入 自来也の覚悟」2009年10月8日放送
■349話「潜入!雨隠れの里」 脚本/吉田伸 絵コンテ/にいどめとしや 演出/小野田雄亮 作画監督・総作画監督/堀越久美子 ■350話「神となった男」 脚本/吉田伸 絵コンテ・演出/木村寛 作画監督/徳倉栄一 総作画監督/徳田夢之介 349話で4分半を使ってのあらすじや、350話の伝説の三忍と謳われるきっかけとなった山椒魚の半蔵とのエピソードは、回想の枠を越さない範囲内での使い回しといえる。 お茶屋で豚まんを注文するシーンや、素顔の綱手を彷彿とさせるらしい(え、そうなの?)手綱ちゃんのシーンなどのオリジナルシーンは原作を邪魔させない。 中でもオリジナルシーンで、自来也がなりすました雨隠れの下忍リュウスイ(という名らしい。相方はユウダチ)は、任務という大義名分で奥さん手綱ちゃんを都合よくあしらっている割には、伝書動物を使って帰るコールするという恐妻家と思いきや、雨宿りの為に寄り道するのも任務の内と言ってのけるよくわからない男(^^;)。 仲間を裏切らない云々言っている割にはカエルになりたくないから口を割ってしまうが、最後の最後で下忍といえども忍者のはしくれであると意地を貫き、そんなところが自来也に感じるものがあったのでしょう。自来也とのやり取りが面白くて、チョイ役だけれど印象に残る憎めないオッサンだ。 前半、自来也のちょっと間の抜けた感じが笑いを誘うが、ペインと対峙してからはシリアスになる一方。ナルトがしばらく出ないので、お笑い担当は自来也が負っているところが大きいけれど、ペインが出てからは一転して重苦しい雰囲気が漂う。 それにしてもペイン(痛み)とはよく名付けたものだと思う。 ペインの言い分はこうだ。 戦争でたくさん人が亡くなり、その痛みがペインを成長させた。痛みを知る事で人へと成長し、それが人となる。そして更に成長して、ペインは神になったと言う。神となれば言うことも考える事も神の御業になるという。 ペインの言う事は屁理屈にしか聞こえないし、人間が神などどいうおこがましさに眉をひそめる自来也に、どうせ自来也は死ぬのだからと恐ろしい計画を話すペイン。 それは戦いだらけの世界に終止符を打つ為に集めた尾獣を使った禁術を造り、使えば一瞬で億単位の人間が絶えてしまう恐怖で、戦いを抑止しようというものだった。 世界はまだ成長途上の子どもだからペインという神の手助けが必要だ、というペインは自らを『平和主義者の神』だと言う。 笑止! いつから自来也とペインの思想がズレてしまったのか… ペインの、危険が及びそうな要因は徹底的に摘んでしまうやり方に、孤児となった当初の長門らに向けた大蛇丸の言葉を思い出す。孤児となった者の行く末は惨いものだから、いっその事大蛇丸の手で葬ってしまおうか、というものだ。 独り立ちできる力を授けて自来也が去った後に何があったのか、 四象封印の真意、 九尾の襲来は天災か果たして人為的なものだったのか、 いろいろと伏線を張った回と言える。 |
No 270
Date 2009・10・01・Thu
アニメ【NARUTO】「ド根性忍伝~ 自来也忍法帖」感想「ド根性忍伝~ 自来也忍法帖」2009年9月24日放送
■347話 前編 脚本/武上純希 絵コンテ/久城りおん 演出/渡部周 作画監督/田中ちゆき ■348話 後編 脚本/武上純希 絵コンテ・演出/高橋滋春 作画監督/小林弘美 忍の長くて辛く、厳しい戦いの連鎖を、原作にオリジナルを織り交ぜ、1時間枠で放映。 原作では飛び飛びのエピソードをアニメではある程度まとめてあり、短期で見せるのであればその方が視聴者には分かりやすいけれど、私の住んでいる地域では1週開けてその続きを放映。果たしてこの効果が持続するのか、それとも時間が経ち過ぎて回想といった形を取って、今回放送したものを次回以降再び使い回さねばならなくなるでしょうか?(^^;) 何にしてもあまりインターバルはおいて欲しくないです<(_ _)> 自来也が『変革者を導く者』であり、やがて安定か破滅かの選択を迫られる予言を大ガマ仙人にされる。 これってすごく重大な役割ではないですか! 予言の子は表裏一体のコインの様で、どっちに結果をもたらすか分からず、そのどちらの可能性をも秘めた者を探し出して導かなくてはならないのですから。 世の中の平和や安寧を求めるのならば自来也で良いではないですか!と言いたくなります、というか、適任!(ビシッ)なのですが、彼は『導く者』なんです。 創造と破壊 破壊してから創造せよ、とどこかで聞いた様な気もしますが(アームストロングだ!)。 偶然(後で、これは“運命だったのかも”と思うのですが)戦争孤児長門らと出会って、彼らが自立できる能力を身につけるまで面倒を見ようと思った自来也。 憎しみは新たな憎しみを生むから…といっそ殺してしまうおうか、と提案する大蛇丸。 ちょっと話が逸れますが、 【平家物語】の池の禅尼の命乞いを思い出します。 本来なら有無を言わず処刑されるところを、平清盛の継母・池の禅尼の命乞いで助かった源頼朝は、自分を脅かす危険があるものは赤子だって殺してしまった。 池の禅尼的発想は自来也、 頼朝的発想は大蛇丸。 気持ち的には自来也でありたいけれど、過酷な人生を歩んで来た者からしたら、頼朝というか大蛇丸的な考えは有なんでしょうね。危険分子になりえる存在は、芽の内に摘んでしまおうと。 痛み分けをしなくては分かり合えないという弥彦。 それに対して反論はしなかった自来也ですが、仲間を傷つけられ無意識のうちに敵を倒してしまった長門には痛みを知っているから人にやさしく出来る場合もあるのだと話します。それには異論はないですし、長門を予言の子と意識したからこその自来也の言葉なのだと思います。 この時期はいろいろと並行して出来事が起こっていて、綱手の弟・縄樹が戦争で命を落としたりしています(以前もこのシーンがあったので、今後もこういった形で、今回放映されたシーンを使い回されるかもしれないです)。 それから、四代目波風ミナトの子、ナルトが渦の国のくノ一うずまきクシナのお腹に居た時期もこの頃。 ここでも感じるのが、忍として、また人望が厚く世の安寧をもたらすという点では、この波風ミナトが良かった筈。 でも彼は予言の子ではなかった。 ということは、やはり一旦『無』にする必要があった、という事でしょうか。 ちょっと気付いたのですが、 自来也が予言の子を探して旅先で出会った人物に、ペインが含まれていたと思ったのは私だけでしょうか。 1.雨宿り先で会った傀儡師~修羅道 2.酒場で会った教師~人間道 3.辻説法師~地獄道 4.風魔の忍~畜生道 で、ちょっとまとめ。 六道仙人は忍の祖。 すべての忍術はその輪廻眼を持つ仙人により生み出されたらしい。 世が乱れた時、天から遣わされる創造神ともすべてを零に戻す破壊神とも言われている。 そして、輪廻眼とは三大瞳術の中でも最も崇高である。 三大瞳術とは、輪廻眼、白眼、写輪眼の事か。 六道についてはいづれまた。 |
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