fc2ブログ
あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
200909<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>200911
世界は自分の器(うつわ)です
 原則的に(と言うのは、ごくまれに、世の中には人間離れした規格外の存在がいるからです。ですのであくまで原則的に)
 人は、見たことも聞いたことも経験したこともないことは想像できない生き物です。

 マンガ家などというホラ吹き仕事をしていて、つくづく実感するのですが
 異次元やよその宇宙から来た異形のモンスターなどをデザインするにも、人は自分の知識を組み合わせて空想するしかありません。
 怪物とは何か、というと、昔読んだ本でこういう定義がありました(何十年か前のことでうろ覚えです)

 「過剰」「不足」「置換」

 です。
 なんのこっちゃと言いますと、まず

 「過剰」は「多すぎる」こと。
 手が4っつあるとか、目が百個あるとかですね。 

 「不足」は文字通り「足らない」ことで、一つ目の巨人とかが、そうです。
 体に障碍を持たれる方を揶揄(やゆ)しているとの誤解を受ける場合もありますし、また、そういう偏見(不足を怪物視する)で実際にそういう方々が差別を受けてこられた歴史もあります。
 昔、学研のコミックNORA誌で私が『シンバッド』を描いていたころ、一つ目のかわいい乙女をデザインして(一つ目でかわいいというのは矛盾があるように思われるでしょうが、ちょっとしたニュアンスで可能です。アシスタントさんも不思議がってくれました)(笑)編集部から止められたことがあります。
 アラビアンナイトの世界では珍しくもないと思うのですが、当時、マンガにおける差別表現がマスコミをにぎわせ、鳥山先生や手塚先生の人気作まで槍玉に上がっていたときで、やむをえなかったものです。

 「置換」は「置き換え」です。
 本来なら目のあるところに角があるエレキング(『ウルトラ7』に登場した怪獣)などがそれです。
 昆虫のような肌の宇宙人とかもそうでしょう。

 世の中のあらゆる怪物(ギーガーのエイリアンとかも含めて)は、大雑把に分類すればこの三つのどれか、あるいはその複合技で成り立っているもので、本当に人類が見たことも聞いたこともないような要素で構成されたモンスターというのは、少なくとも私はまだ見たことがありません。
 仮に何かの天啓のようなものを得て、そういうデザインをした人がいたとしても
 人は原則として何かすでに見知ったものに分類仕分けしてものごとを理解しようとするもので、その異形のものを、あるがままに理解はできない確率が高いと思われます。

 マンガ家始め、いわゆるクリエイターと言われる人種は、一般の方よりは発想が飛ぶものですが(何しろそこでお金をいただいているわけですから)それでも、この人類の持つ足かせから自由であることのできる人はなかなかいないと言っていいでしょう。

 人は、ものすごいものを表現するにも、自分の見知ったものの中からセレクトして行ないます。またそれしかできません(原則的に)。
 世界の古い宗教に見られる、神経症的な偏狭な神、などというのもそうではないでしょうか。
 その時の人類の発達段階に応じた「至高」さの表現で、今から見れば、全知全能の存在がそんなに愚かなわけはないだろうという、ある意味逆説的な神の冒涜のような描かれ方さえしている「聖典」があるのは、そういうわけではないでしょうか。
 SF的なたとえで言うと、数千年前の地球にマザーテレサのような異星人が降り立って慈善を行なっても、現地人の後世の伝説には、目から電撃を発して怒りのサバキを下す恐ろしい魔女のような姿で描写される可能性が大いにあるということです。それを根底に勝手な宗教を構築した「聖職者」がでっち上げることもあります。
 この辺の話は、トランスパーソナル心理学の勇、ケン・ウィルバーが説く、人の発達段階に応じた宗教、の話に通じていきますが、それはまたの機会に書くとして♪

 貧しい内面の人には貧しい世界が
 豊かな内面の人には豊かな世界が
 自分に応じて現れる。
 ヴィクトール・フランクルのように、ナチの強制収容所に捕らえられ絶望的な状況にあっても、心と行動において豊かな状態でいられる人もいれば、
 何不自由ない恵まれた環境にいながら、何も生み出さず、ただ不平と不満と怠惰におぼれて、つまらない世界しか見出せない人もいるわけです。

 ニサルガダッタ・マハラジの言葉に 
「あなたは世界が外界のものだと信じている。だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ」
 というのがあります。昔から多くの賢者が同様のことを語ってきました。
 別に世界を念力で作り出しているという意味ではなく、世界をどう把握しているかはすべて自分にかかっているということです。
 物理的に客観的な世界というのはあっても、それにどういう意味をもたせているかは、自分の問題です。

 人の発想がいかに飛ばないか、既知のワクから出ないかの一つの例に、SF映画に出てくる宇宙船(とか、それに類する飛行機械)のエンジン音があります。
 本来真空の宇宙空間では音は伝わりません。
 『2001年宇宙の旅』のように(大好きです♪)リアルに無音の飛行シーンを作った例外はありますが、大半の映画では、宇宙船はごうごうと豪快なジェット機のようなエンジン音を轟かせて飛んでいます。
 見ているお客に、説得力を持たせるための、嘘なわけですが、人びとがもっとも速く力強いエンジンの音と思うものに似せて作られているわけです。
 では世界にジェット機が現れる前はどうであったのか?
 一度しか見た(聞いた)ことがないので、記憶違いかもしれませんが
 確かアメリカで作られた古いSF映画(『フラッシュゴードン』だったような気がします。無論、クィーンが音楽を担当したカラー版ではなく、はるか太古のモノクロ版です)に出てきた、宇宙人の飛行艇(大気圏内を飛んでいたので音がするのは間違っていません)は
 当時の最先端であった「プロペラ機」のエンジン音を、ブルブルと轟かせて飛んでいたように思います。 

 しかし、そうしてみると、よく言われる、幼いころ親の愛に触れられなかった人や、劣悪な環境で育った人が、大きくなって犯罪を犯す、あるいは良心が乏しい人になるという理屈は、確かに一理あると思われます。なにしろ、自分が見聞きしたものを基準にしか世界を理解できないのですから。
 ただし、それはあくまで「一理」であり、貧民街の出身でも立派な人格者がいるように、すべての人に宿命のように適用されるものではありません。
 極悪犯罪者の責任逃れの言い訳に使うためのものでもありません。

 むしろ、そういう決め付けを運命論のように振りかざし、絶対的に取り返しのつかないことのように言い立てることは、人の可能性にフタをし、不利な生い立ちや環境で育った人たちを誤った絶望に追いやるマイナスの効果があると私は思います。
 絵に描いたモチのような幻の希望は問題ですが、軽はずみな絶望も問題だと思います。
 病気や事故で手足を無くされた方が、以前とまったく同じ状態に戻ることは現代科学では不可能ですが、一方で、特殊な材質の義足などを装着することで、健常者よりも速く走ることができるようになった例もあります(昔そんなことを言ったら、頭がおかしいか詐欺師だと思われたことでしょう)。

 映画やドラマの闘いでよくある、片腕を背中にねじり上げられた人間が動けなくなる状況、
 あれも、実際の武術では、ねじり上げられていない方の腕で相手を倒す技が流派によって何通りもあり、高度な武術になると、体を回してねじり上げられている不利な?方の腕だけで相手を逆に倒してしまうものまであります。
 蛇足を申しますと、マンガのように止まった映像でアクションを表現する際、読者はその場面を自分の見聞きしたアクションに当てはめて解釈する(パソコンなどにおける「ファイルの解凍」に近いものがあります)ことが多いため、見たことも聞いたこともないアクションは、人によって受け取り方にものすごく差が出るものです。
 自分がかつて武術マンガ『セイバーキャッツ』を描いていたとき、もっとも苦労したポイントがそこでした。
 同じ場面を見ても、ある読者さんは数十秒かかった闘いと思われ、別の読者さんは一瞬の戦いだったと思われる。全然意味が違ってしまうんですが、一人一人に会って解説するわけにもいきませんから、少しでも誤解を受けない表現を工夫していくしかありませんでした。
 
 怪物イメージの飛び具合の話から、いささか脱線したかもですが
 与えられた人生を楽しみ、しゃぶりつくすためにも、自分の器は大きくしていきたいと思います。
 人は誰しも井戸の中のカエルですが、日々井戸の拡張工事を続け、死ぬまでにどれほどの世界をその井戸の中に取り込めるか。すべてを取り込んだとき、それを悟りというのかもしれません(笑
 ではではまた♪
しろさんの股くぐり
しろさんの股くぐり
 執筆が忙しくてここのところ長い記事が書けません。
 きょうも日々の写真でお茶を濁させていただきます。
 この夏に写した、韓信の股くぐり、じゃなくてしろさんの股くぐりです。
 会うと頭をぶつけて体をこすりつけて、それから足の甲(ご覧のつっかけ)を噛みにきます。
 たまにアキレス腱もやられます。
 彼なりの愛情表現らしいです。
UFO?(ではありません
 ロケハンのネタをもう一つ。
一瞬未確認飛行物体(笑
 今月はじめに撮影した空に、一瞬「?」な物体(画面左すみ)が写ってたんですが、シルエットからしておそらく飛行中の鳥を真横から撮ったものと思われ、PC内で拡大、輪郭線の強調など行なってみました(右上)。
 一見何か小枝のようなものをくわえているようにも見えたのですが、こうしてみると、後ろの雲のラインが重なってそう見えただけのようです♪
 ちぇー(笑)(って私はそっち系は全然興味ないんで別にいいんですけど)
ロケハンより帰還♪
湘南夜景091021
平塚夕景091020
『戦闘女神アヌンガ』の3巻クライマックス資料写真撮影に、またカメラと三脚下げてバイクで駆け回ってました。
 夜景ロケハン大成功♪
 あとは、追加の夜明けのシーンを、日を改めて撮るかなと♪
 一番いい出来のカットは無論こんなとこで公開できませんので、余りカットでお目汚しです。
 二枚目は先日JR平塚駅の駅中渡り廊下より金網入りの窓ガラスをあけて写した一枚。すぐそばで、どこかの高校生も写メ撮ってました(笑
 漫画家は、どんなときにもカメラは必携です!
 さて仕事しますにゃ♪
『超(チャオ)』電子書籍版
『超(チャオ)』
 2009年10月16日より
 拙著『超(チャオ)』(全一巻)の電子書籍版が、イーブックジャパンにて販売開始されました。
 1998年に集英社より発売になった単行本『超-CHAO-』と同じ内容です(アマゾンではすでに古書のみの扱いになっているようです)。
 添付画像は、今回の電子書籍化に当たり、モノクロだったカヴァーに部分的に彩色したもの。

 物語は、現代の東京を舞台に、仙人のヒロイン、超(チャオ)と中国版吸血鬼の蛟(みずち/こちらも中国語読みでは「チャオ」になります)との対決を描いたものです。
 ある意味では、もっかケータイマンガで連載中の『戦闘女神アヌンガ』の母体のような話とも言えるかも知れません(ヒロイン変身しませんが)(笑)。

 これまでも日記や雑文で触れてきましたが、作中ヒロインが、人間を虫けら扱いする女蛟に対して
「人は地の星、たとえ命はまたたく間でも、色も強さもさまざまに、連なりめぐる地の星々」
 と返すシーンがあります。かなり私の想いをこめたセリフなのですが。
 私は昔から、中島みゆきさんの曲が好きで、当時も「泣かないでアマテラス」などをBGMに描いていた覚えがありますが、この作品は平成8~9年にかけてウルトラジャンプ誌に連載したもので、中島さんの「地上の星」(ご存知「プロジェクトX」のエンディングテーマ)よりも先です。
 あの曲を聴いたとき、なんだか似たような感覚をお持ちの方なのかなあと不思議な想いがいたしました。

 ご興味を持たれました方は、ご覧くださいませ♪URLは下記のとおりです。
http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/14647.html
「情けは人のためならず」
 言わずと知れた「情けは他人のために『持ち出し』になるだけのものではない、巡りめぐって己のためにもなるものである」という意味の言葉ですが
 近年、間違った理解の人が増えて、「人に良くしてあげることは、相手のためにならない(から、人に思いやりを持ってはいけない)」などという解釈がまかり通っているとか言われます。
 半分都市伝説のような話ですがマジなようです。

 あの言葉はざっくり分けて二通りの意味があると思うんですが
 一つは一般的な
 「人に情けをかけておくと、相手からいつかお返しを受けたり、ほかの人からでも何か自分にいいことが帰ってくるから」
 というもの。
 なんだ、善意じゃなくて打算じゃん、と反抗期の子供だった私は思ったものです(笑)。

 しかし、長じて思うようになったもう一つのことは
 人は思うこと、言うこと、することで、リアルタイムに「自分」というものを「更新」している存在で
 誰かに善意を持つということは、先々何か見返りがあるなしに関わらず、その時点である意味十分「報われて」いるということ。
 悪を(他者に害意を)為す人は、罪に問われるとか罰せられるとか以前に、そもそもそのことが世間にバレるバレないに関わらず、その時点ですでに己を貶(おとし)めてネガティブな「報い」と言うか「結果」「報酬」を得ているということ。ケダモノのような人は、そのケダモノのようであるということ自体ですでに報いを受けているというわけです。
 そのことに気づいてから、社会秩序を維持するために必要な処罰などは別として、不善やそれを為す人に対して、過度に感情的になることがなくなりました。

 もう一つ付け加えるなら、善意や好意とは「報酬」を目当てに為すものではなく、報われているかどうか、などと言うのは本当は実はどうでもいい、あくまで途中の方便のようなものです。
 ただ小さな親切大きなお世話で、他者の迷惑になっていないかどうかのチェックは忘れないようにしないとなんですが(汗


 話は戻りますが
 以前、私の母があることで外科手術を受け、リハビリで何ヶ月も入院していたことがありました。
 最初は自分で食事も取れず、父が毎日病院に出向いて食べさせていたようです。
 けして夫婦仲の良い両親ではなく、むしろ気が合わない犬猿の仲に近い二人だったのですが、その辺はまじめで人のいい父の本領発揮で、最初は一日車でニ往復して欠かさず母の面倒を見ていました。隣の市の病院に移ってからもそれは変わらず、片道数十分の道を最後まで日参しました。
 母は昔からの色々で父に思うところもあったようですが、その甲斐甲斐しさに感激し、すべて「怨讐のかなた」になってしまったようです。
 おもしろかったのは、その思わぬ副作用で
 父の後頭部にあった白髪が、どうしたことか母が退院するころにはなくなってしまったそうです。
 
 まこと、情けは人のためならず、と思いました(笑
江畑謙介さんとウサギ
 すでにご存知の方も多いと思いますが、軍事評論家の江畑謙介氏が10日、呼吸不全でお亡くなりになりました。まだ60歳でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 湾岸戦争はじめ、多くの軍事関連のできごとで、我々庶民に貴重な情報を伝えてくださいました。

 実は私は氏に関して、どうでもいいことかもですが、忘れられないエピソードがあります。ネットをうろついて見ても、今のところどなたも触れてらっしゃらないようので、忘れ去られる前に書いておこうとキーボードに向かいました。

 何年も前になりますがテレビを見ていたら、確か日本在住の外国のご婦人だったと思うんですが、ペットのウサギにエバータという名前をつけてらして、
 由来は?と聞かれて
 「テレビで拝見する軍事評論家の方のお名前をいただいて・・・」
 と答えられました。
 そのウサギを見ると、かたっぽの耳が斜めに頭に乗っかってまして、
 江畑氏のあの独特の髪型を連想させるものでした。
 いかに氏がお茶の間にまで親しまれていたかを物語る象徴的なエピソードだと思います。

 本当にいっぱいいっぱいいろんなことをお教えいただきました。
 お疲れ様でした。ありがとうございました。
アヌンガ最終章
『戦闘女神アヌンガ』33話14ページより
 Bbmf社のケータイ配信マンガ『戦闘女神アヌンガ』も、いよいよ最終章。
 クライマックスの4話80数ページをまとめて構成、先ほどノリノリでプリコンテを完成させました。
 これから清書して、担当さんにお見せするコンテにします。
 あとわずかになりましたが、お楽しみいただけるよう知力と体力を尽くします。
 ではでは~♪
母校
 高校時代の同窓生から手紙が来ました。
 私の出身高校は、山口県防府市の防府高校(ほうふこうこう)です。
 1977年の卒業です。
 楽しい思い出がいっぱいの、愛すべき母校です(恥ずかしい思いでもな)。
 手紙の趣旨は、近々、先日の防府市の豪雨災害の復興支援チャリティコンサートが開かれるというもので、そのピアニストが同期の方だという。
 手紙をくださった方は、懐かしいお名前の同窓生ですが、卒業以来一度としてお会いしたこともなく、手紙のやりとりもない方です。
 残念ながら、スケジュールの都合でその日は動きがとれません。
 
 さて、私と母校のつながりはどんなものでしょうか。
 同窓会の東京支部などもあるようですが、私は一度も会合などに参加したことはありません。
 自分の履歴には最終学歴である中央大学のことしか書いていない(って普通そうだと思うんですが、まさか幼稚園、小学校、中学校、高校全部書くというわけにも)せいか、グーグルでの検索ヒット数は
 「山本貴嗣 中央大学」
 が1760件
 「山本貴嗣 防府高校」
 が96件(!)
 しかも、、私と出身高校の関連を示すものは一切出てきません。
 「山口県出身の人物一覧」
 などには名前がありますが、高校と関連付けたものはゼロ。
 おまけに、防府高校のウィキを見ると、出身者リストに私の名前はありません(上記のピアニストさんや、同期の文筆家下関マグロ氏(高校時代よくだべったなあ)の御名前はあるんですが)。
 十年ちょっと前の同窓会会報には依頼を受けてインタビュー記事も載ってるんですが、どうやら忘れ去られた存在のようです(笑)。

 今後もナントカヒマなしで出身者の集まりに顔を出す予定もなく、本当に仲のいい同窓生とは卒業後もずっと親交がありますから(最たるものはゲーム「メタルマックス」のゲームデザイナー、ミヤ王こと宮岡氏。あ。彼の名前もなかったな母校のウィキ)、このまま時の流れに身を任せ、忘れ去られて行こうと思います(笑)。
台風一過
台風一過の湘南の浜(2009年10月8日)
台風一過の富士と夕暮れ(2009年10月8日)
台風18号が過ぎて晴れた午後、さっそく仕事の合間を縫ってロケハンにでかけました。
湘南の浜辺と、富士の傍らに沈んだ夕日のあとです。
お目汚しにどうぞー♪
「彼らが彼らであることに何の過ちもない」
ニサルガダッタ・マハラジ模写
 当ブログで毎度おなじみインドの覚者、タバコ屋の聖者ニサルガダッタ・マハラジが、質問者から

<もし西洋であなたがこのように話したら、人びとはあなたを狂人だと思うでしょう>

 と聞かれて、応えて曰く。

<もちろん、彼らはそう思うだろう!無知なる人びとにとって、彼らに理解できないことはすべて狂気なのだ。それが何だというのだろう?>

彼らは彼らのままでいい。
 私が私であることに何の益もなく、
 彼らが彼らであることに何の過ちもない


 聖人とか覚者とかいうと、すぐ人を裁いて善悪を決め付ける独善的な人を想像しがちですが、マハラジさんはそんなことどうでもいい。誰がエライでも優れているでもない。
<あなたが愛するものを愛しなさい>
 という人で(笑
 それが結局、上記の言葉になっています。
 座右の銘に私はしてます♪
 誰かと意見の食い違いでトラブルになりそうなときは(って、最近そういうことでのトラブルはほとんどありませんが)思い出すことにしています(トラブった相手が「無知なる人々」という意味ではありません。相手には相手の立場と理由があって、自分が絶対正しいとか上だとか思わないということです)。

私が私であることに何の益もなく、
 彼らが彼らであることに何の過ちもない


 参考文献
『アイ・アム・ザット 私は在る』
 (モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)
古代ギリシャのイケメン部隊(『アナバシス』より)
『アナバシス』
 洋の東西を問わず、昔から古典はネタの宝庫です。
 私が人生で出会ったその種の本のベスト100(いや50とか30とかでもいいか)を作るとしたら、はずせない一冊がこれ

 『アナバシス-敵中横断6000キロ』 クセノポン・著/松平千秋・訳/岩波文庫

 ご存知の方もおいでしょうが、著者のクセノポンは紀元前400~300年代のギリシャ人で、プラトンとともにソクラテスに学んだ人。
 この本は、彼が傭兵として参加した対ペルシア戦争と、その後の6000kmに及ぶ敵中を抜けての脱出行のことを書いたもの。
 大変おもしろい読み物であると同時に、当時のギリシャや周辺の兵士と戦いぶり、その他様々なことを知るための、貴重な資料としても欠かせない一冊です(これが一冊わずか数百円で買えるのは絶対安い!!)。

 実は私が昔、『猟姫(リョウキ)ナジャ』という作品を描いた際、ヒロインの好敵手に投石器使いの男を出したのですが、彼の投石器に関するメインの資料となったものの一つがこの本でした(そもそもは、この本の巻末の訳者注にもあります<『別冊サイエンス(Scietific American 日本版)特集考古学、文明の遺産』(日本経済新聞社、1976,11,20)に収載の、M・コルフマン「古代の“ミサイル”-投石器(THE SLING AS A WEAPON)」>が最初の手がかりでした)。

 投石器と言うと、一般に知られるものとしては、有名な聖書の伝説、ゴリアテを倒したダビデのそれか、中米のインディオの人々が使うようなものしかなく、今一ドン臭い原始的兵器のように思われる方も少なくないでしょうが、どうして侮りがたいもので、当時は弓矢部隊よりも後ろに控える長射程で、大きなダメージを与える優秀な兵器でした。
 当時の医学マニュアルには、体内に食い込んだ投石を取り出す手術の方法もあったと言います。
 ま、それはさておき

 この本は、ほかにもおもしろいネタの宝庫でして
 きょうは、その中でも白眉の一つ。
 古代ギリシャのイケメン部隊の話をご紹介いたします。

 古代ギリシャに少年愛はじめ男性同士の同性愛があったことは有名ですが、現代のようなテンションでの蔑みや嫌悪の対象となるものではなく、それなりに認知されていたものでした。そもそもわが日本の昔、戦国武将などにも衆道があり、現代のようなタブー感が築かれたのは時代が下ってからのことです(もっとも、今は一時よりも薄れてきていますが)。
 さて『アナバシス』に、それに関する記述が出てくるのはほんのわずか1ページくらいなのですが、非常にわかりやすくコンパクトなエピソードとして語られています。

<さてオリュントス出身で男色の性癖のあるエピステネスなる男がいたが、漸く青年になりかかった年頃で、小盾を持った美少年が殺されようとしているのを見ると、クセノポンのところへ駆け寄って、美貌の少年の命を助けてやってくれと嘆願した。そこでクセノポンはセウテスの傍へ行って、少年を殺さぬように頼み、エピステネスの性癖を説明して、この男が嘗(かつ)て隊を組織した時、隊員が美貌かどうかということだけしか考えなかったこと、その隊を率いて見事な働きをしたことなどを話した。>
                   (同書 P.330より)

 顔だけで部下を選んだと言うと、個人的趣味に暴走してなんの役にも立たない見てくれ部隊、というのを反射的にイメージしますが、この場合すごいのは、
 「隊を組織した時、隊員が美貌かどうかということだけしか考えなかった」
 にもかかわらず
 「その隊を率いて見事な働きをした」
 点です。
 無論、美貌で選ぶと言っても、通りすがりの貧弱な若者を手当たり次第に顔で選んで集めたのではなく、一応兵士として訓練された一定ラインを超えた中からと思われます、それならあり得ることかもです(笑
 私も作品で、美青年部隊ではなく美女部隊などを描くことがありますが(娯楽アクション映画やヒーローものにも、よくありますよね)あれは有り得ないことではないのだなあ、と、この本を読んだ時うなずきました♪

<セウテスが訊ねて言うには
 「エピステネスよ、君はこの少年のために死ぬ覚悟があるか」
 エピステネスはセウテスに頸をさし伸べて言うには、
 「この子がそうせよと言い、それで私に恩を感じてくれるのであれば、斬って下さい。」
 セウテスが今度は少年に向って、彼の身代わりにこの男を斬ろうかと訊ねると少年は、それは止めて欲しい、二人とも殺さないで下さい、と嘆願した。この時、エピステネスが少年を抱いて言うには、
 「さあセウテスよ、この子をとるかとられるか、今こそ私ととことんまで戦うべき時ですぞ。私は絶対にこの子を離さぬからな。」
 セウテスは笑って、その件はそのままにして話を打ち切ってしまった。>

 エピソードはこれだけなのですが、当時のギリシャ人の感覚を知る、大変興味深く重要な描写だと思います。
 これを想像たくましくしてマンガ化しようとすると、最近の児童●●ノ問題などにも触れるため、執筆不可能になります。未成年者への性的虐待は言うまでもなくNOですが、あくまで性描写抜きでも問題なのか、それともそれなら(非性的描写だけなら)OKなのか。当面描く予定もないし、急ぎ知る必要もないのですが、後学のために知りたいところです。
 蛇足ですが、私の作品で美少年?というと、トランスセクシュアルな潜入刑事の『Mr.ボーイ』の坊クンですが、彼はあくまで見てくれが少年なだけで、刑事というくらいで成人です(「こまわりくん」ではありません)(笑)。
 ではではまた♪

追記
 同書は、このほかにも紹介したい下りが何点かあります。
 また改めてアップいたします。

『Mr.ボーイ』より・女装の主人公・坊
『紅壁虎(ホンピーフー)』36話より・李彦(レイジン)と美女軍団
『戦闘女神アヌンガ』配信情報(2009年10月現在)
『戦闘女神アヌンガ』31話2ページ製作途中
 Bbmf社のケータイ配信マンガ『戦闘女神アヌンガ』について

 まず、32話は原稿はとうに納めてあるのですが、シルバーウィークの関係で他作品が後ろ倒しになったため、10月6日配信だそうです。お待ちくださっていられるお客様、申し訳ありません。

 それから電子書籍として、1巻2巻がこの10月7日からYahoo!コミックスで購入可能になるそうです。
 リンクのサイトで「山本貴嗣」で検索していただければとのことです(本日2009年10月1日現在はまだアップされていません)。
 購入された方はパソコン上でお読みいただけます。
 
 お気が向かれました方はどうぞ~♪
新型インフル一例
 いささか重要情報に属すると思われるので緊急アップします。

 友人の知人(おそらく私と同世代か少し若いかくらい)の方が急死されました。
 プライバシーの保護のため無論お名前は明かせません。

 前夜まで元気で、夜眠っているうちに高熱を発し、意識不明となり救急車で運ばれた時には手遅れだったそうです。
 新型インフルエンザによる急性肺炎の敗血症だそうです。

 特に患っておられたという話は聞いていません。
 まるで小松左京氏の『復活の日』の一場面のようです;
 ご家族の方々のお悲しみいかばかりかと存じますが
 こういうケースがあるんですね。
 過剰反応は避けねばいけませんが、甘く見るのも禁物だと痛感いたしました。
 ご参考までにアップさせていただきます。
 皆様もくれぐれもご自愛ください。


追記
 先日見たテレビでは、新型で重症化するケースは1%くらいだとのことでした。強毒化していないことを祈ります。
 上記の方も、ご家族の方は発症されてないわけですし。


追記2
 今回お亡くなりになった友人の知人の方は、昔事故で脊椎を損傷され、免疫系の病気をお持ちだったそうです。床に就かれるときは何の変わりもなく、明け方ご家族の方が、気づかれたときは高熱で意識がなかったそうです。
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.