先日、ある方がこのブログに
「私は感情と意志は相補的なものだと思っています。感情は意志に従うべきだが、しかし意志そのものは、感情が煮詰められることでしか生まれ得ないのではないか」
「煮詰められた意志を持ちうる人は、感情の奴隷にはならないのかもしれない、しかしそこに至るまでが大変なのではないでしょうか」
というコメントをお寄せくださいました。大変鋭いご指摘です(コメントありがとうございました♪)。
また、その方の好きな小説に、こんな一説があったそうです。
「『……あなたのような人は必ず、精神のどこかに「心臓(ハート)」を隠している。「心(ハート)」と「意志」を切り離し、不死身の怪物として振舞う……』 」
『ブライトライツ・ホーリーランド』という小説だそうですが。
確かに。
そういう一見不死身というか強そうな人(いや実生活では確かに「強い」人)はいますし、物語にもしばしば登場します。
コメントをくださった方は「心臓を無くした巨人」の話にも言及されていました。
一見心臓を持たない(つまり誰もそいつを殺せない)ように見えて、実はこっそり秘密の場所に自分の心臓を隠していて、それを見つけ出され破壊されると、他の人と同じように死んでしまう。
私はこの物語の原典は知りませんでしたが、昔から様々なエンターテインメントに使われてきたエピソードで、目にしてきました。
そんな魔法使いのように、自分の急所を人に見えない場所に隠して、ふだんの思考や行動からは切り離し、無敵なようにふるまっている人。
いるいる、いますね。
一般的な(常識的な)感覚ではそれはそうだと思います。
しかし、それとは違う「あり方」もあります。あまり「はやらない」あり方ですが(笑)。
それは「マインドを超えて在る」あり方です。
「身体」が「私」という存在を構成する一要素に過ぎないように、「感情」や「思考」も、所詮はほんの一要素に過ぎず、私という存在は、それらの総和を超えたものだと思うものです。
完全な唯物主義で、体がすべてであるというお考えの方とは、まったく立場が異なるので、そういう方には合意できない思想かもですが、これはあくまで私がそういう視点で世界を捉えているということで、ご理解ください。これが真理だとか決め付けるつもりは毛頭ありませんし、どなたにも押し付ける意思もそんな資格もありません。
感情と思いに捉われて、そこから抜け出られないのが、通常の人間の在り方ですが、それらマインドのぐるぐるを超えて、それらを見守るものとして在る、在り方です。
一般に「その人の人格」と思われている意識のもっと奥底、根源にある「気づき」「観照者」「自我」etc・・・人によって色んな言い方をされますが、言葉では言い表せない存在。
有名なところではデカルトの「我思うゆえに我あり」の「我」、それも「思い」のもう一つ奥、「思う我」を見守っている根源の「我」と申しましょうか、私はそこに足場を置くよう心がけています。
心がけているということは、しばしば失敗しているということであり、むしろ、そこを目指して生きていると言うべきかもしれません(本当に「観照者」に留まれたなら、私はある種の「覚者」です。そんなことはまったくできてません)。
それは「私」という存在の、これ以上分割不可能な究極の「核」のようなものです。
今回の記事は、おそらくこれまで書いた「いささか形而上」カテゴリの中でも最も形而上寄りの、つまりは日常感覚からかけ離れた内容になります。また少々長くなりますが、これを機会にざっとまとめておきたいと思いますので、お時間と余力のある方はお読みくださいませ;
これは奇妙な考えに思われる方もおいででしょうが、けして目新しいものではなく、いにしえのインドに起源を持つ哲学などにあるものです。詳しい説明は長くなるので、また機会を改めます。
一見心臓がないように見えても、こっそりどこかに隠している者は、いくら強そうにふるまっても、いつかその心臓を見つけ出され、それを壊されて死に至ります。
でも、もし、心臓がどこにもなかったらどうでしょうか?
心臓というのは、言うなれば血液の循環を一手に引き受けている中央集権的な器官です。それがなかったとしたら?循環させる機能を全身に分散させていたら?血管それ自体が、血液を循環させる器官として協調して動いていたら?
言葉の「あや」かも知れませんが、私は特定の「心臓」を持たないように心がけています。
いや、そういう思いに至ったのはここ数年のことであって、それまでの四十数年の人生で培われ、形作られた「心臓」は確かにあります。そして機能している部分もあります。
賢者の言葉を模倣するなら、「回り続けた車輪が、それを回転させる動力がなくなっても、慣性でしばらくは回り続けるように」。いや、その他の長年培ったシステム、いわゆる煩悩の類もまだまだいっぱいありますから、完全に動力が絶たれたわけではありません。
しかし、以前に比べて、それを回転させようとする力は明らかに減りました。
言い換えるなら「首都移転」ならぬ「心臓移転」、「心臓閉店」の作業が続いており、かつてそこに置かれていた「備品」のいくつかは、すでに運び出され、その内部は段々とすっきりしてきているように思います(笑)。
私が、自分の生死を気にかけていないことは、すでに何度か触れてきたように思います。
別に自殺願望はありませんし、誰かに襲われれば常識的な範囲で正当防衛は行うでしょうが、突然不治の病の宣告を受けたりしても、別に何もこだわることころはないつもりです。私には、私をこの世に引き止めるべき何物もありません。
と言って、何かの宗教で説かれるような天国とか良き来世といったものにも興味はありません。
私の人生と同義と言ってもいいマンガも、最愛のつまも、私の「心臓」ではありえません。
それぞれ大好きですし、愛していますし、それとともにあるのは大いなる喜びですが、執着しすがりつく対象ではけしてないのです。
私はただ「在る」者として満たされた存在であり、それは生まれながらにして与えられた(形而上的な視点に立つなら生死も越えて)不動の一点であって、別に特別なことでもなんでもなく、今この文章をお読みくださっている皆様も同じようにその一点をお持ちのものです。ただ気づいておられるかおられないかの違いであり、それは特別な能力や恵まれた環境、特殊な修行など何も必要としない、誰でも得られる、いやそもそも奪われていない生得のもの。必要なのはそれに気がつくだけのことです。
私はそう理解しております。
どうやって、それに気づくかは、また別の機会に一項を設けてお話したいと思います(長い話になりますので)。
さて話は元に戻りますが、「心臓」は英語で言うなら「ハート」ですよね。
おまえは心臓がないのか、ということは「ハート」のない人間、ゾンビのようなうつろな存在を目指しているのかと思われる方もおられるかもしれません。
いや、私は別に感情も思考も否定はしていません。マインドを否定はしません。それなしには、人間は何もなしえないでしょう。
ただそこに自分のセンターを置かない。それらを見守る(庭で駆け回る愛犬や愛猫、野鳥を見守るように)位置に己を置くよう心がけているのです。時にはそれらといっしょになって駆け回り、抱きしめ、頬ずりしたりもしますが、「このわんこが私自信だ」とか「このにゃんこが私そのものだ」などとは思わないだけです(分け隔てない一体感というものは肯定しますが)。
無限に長いテコがあれば、地球だって持ち上げてみせると言ったのはピタゴラス?でしたっけ??(記憶違い?間違っていたらすみません.って、あ、アルキメデスだそうです。情報感謝です♪)
大きな仕事をするために、それに比例した大きなな感情というものを、私は必要としていません。
私はそもそも感情の振幅の激しい人間で、今でもちょっとしたことでうるうるしますし(もおネコがゴハン食べてる背中だけでも涙ぐんだり)(笑)その心中に去来する感情を否定せず認めます。ただ無用のものは浮かんでもそれと己を一体化させず、浮かんだ泡のように去るに任せます。誰かに対するネガティブな思いや、不安、恐怖といったものは、それが指し示す意味を理解して、対処が必要であればそれを行い、その後は不要なのです。
人は歩くとき、一歩一歩足のどの筋肉に力を入れるか、どう体のバランスをとるかなど、悩みはしません(何か事故や病気で障害を持たれた方は無論別です。あくまでわかりやすい一般の例として申し上げています)。
同じように、私は日々の多くを、自然に行うようにしています。
物事の多くは、人生が自然に次に進むべき道を示してくれるもので、そこに無理して差しはさむべき我欲というものは、あまりありません。日常のどうでもいいこと、アイスクリームが食べたいとか、この美女のほかの水着写真が見たいとか、は、ありますけど♪
私にも私の個性があり、私なりの願望や欲望は浮かんできますが、そのどれを実現するか、いつどのように実現するかは、私は大半を人生にゆだねています。果報は寝て待っているわけでは、けしてなく、常に誠実にベストを尽くします(その辺の真面目さには、僭越ながらいささか自信があります)が、その結果にはこだわらない。失敗すれば分析し、同じ失敗を犯さないための資料にはします。しかし罪悪感には捉われません。
積み上げては崩される「賽の河原」のような体験は、マンガ家人生で何度も経験してきました。
何ヶ月もタダ働きして、何も得られなかったこともあります。生活費を工面するのに苦労しました。
けれど私は無駄が嫌いなのです。
つっぷして声を上げて泣いても、すぐに顔を上げて
「ダメだ、泣いててもちっとも幸せにならねえ」
と、次に移ってしまうのです。自信があるわけではありません。保証された未来などカケラもありません。ただ無意味なことが嫌いなのです。
ですので、結果がだめなら、また新たに取り組みなおす、。ただシンプルにそうするだけです。
同じことを繰り返しながら、違った結果を望むのは狂気だと、言った方がありますが
まったく同感です。ダメなら違う何かを試す。ほかにどんな人生があるでしょう?
疲れたら休みます。
動けるなら動きます。
ただ、依存したり執着して身動き取れなくなる何かを持つこと、握り締めることに、私はなんの興味も持てなくなりました。
人生が私を導くとき、私は何か心地よい風に包まれているように感じることがあります。
安楽な恵まれた人生とか、幸運ばかりが巡ってくるという意味ではありません。
人生はときに、過酷なカードを差し出します。
命をかけた願いが粉砕されることもあるし、愛する者との長く深い交流が絶たれることもあります。
でも、獲得したものは必ず失われ、登った日は必ず沈みます。必ず移ろい行くものにしがみつくのは、無益なことではないでしょうか。
咲く花の美に無感動でいる「禁欲」などではなく、花を愛でて枯れるに任せるということです。
私は、私を包み、私の中を吹き渡る風を、どう表現していいかわかりません。
「愛」とか「神」とかいう言葉は、あまりに多くの色眼鏡と誤解にまみれているので、あまり安易に使いたくないのですが、「愛」で言うなら、私は「愛」を人間が作り出し生み出している人間メイドの生産物とは思わず、太陽の光線を植物や動物、人間が思い思いに加工してエネルギーとしているように、どこか別の場所から来たエネルギーと捉えています。私がゼロから作り出した愛などというものはなく、誰かから何かから手渡されたものを、ただ自分味に加工してまた世界に手渡しているだけではないかと。
私の言う「風」も、何かそんなものだと思ってください。
蛇足ですが、私にも嫌いな人はいます。
愛せない人はいます。
そういう人に私のできる最大の好意は、その人の不幸を願わないこと。
その人を攻撃したり貶める思いや言葉や行いをしないこと。それがそういう人に対してできる私の最大限の善意であり、それはその時点での私の人間の小ささ、視野の狭さを現すものです。
ネガティブな思いを伴った言動しかとれない相手には、毒を手渡すくらいなら何も語らず何も行わない。それが私流の最大限の好意。別にシカトして傷つけようとかではけしてなく、それ以上の接し方を思い浮かばない己の限界を申し訳なく思いながら、無用に相手を傷つけないよう距離を置くものです。
以前「千の風になって」という歌がはやりましたよね。はやったはやらないと言うより、もはや一つのスタンダードナンバーとして定着しているのでしょうが
あの歌のパロディで言うならば
私の○○の前で泣かないでください。
○○の中には色んなものが入ります。
「誇り」「プライド」でもいいし「マンガ」でもいい。「身体」でも「愛する人」「愛するもの」でもいい。
私がそれらを奪われれたり、失ったりして、傷つき嘆き悲しんでいるのではないかと同情してくださる方、泣いてくださる方に、捧げる歌です。
私の○○の前で泣かないでください。
私は(私の「心臓」、「思い」「執着」は)そんなところにいません(ありません)。どこか特定の場所や何かにこだわるものはありません。
私は千の風になって、吹き渡っていきます。
本来あの歌は、死者から残された生者に捧げる歌の形をとっていますが
私はあえて生きながら、あの歌を、私とともに今を生き、私を思ってくださるすべての方に捧げたいと思います。
私は生きながらにして、思いにおいて「千の風」になりたいと思っています。
私はどこにもいません。無責任に逃げを打つという意味ではけしてありません。果たすべきことは命ある限り最善を尽くします。
ただ、あなたが思っておられる「そこ」にも「どこ」にも、私はいようと思っていません。
身体を持つ一人の人間として、日々の大半を生活に追われているとき、物質的な意味では確かに、「そこ」に私はいます。しかし、それは「私」と言う不動の一点が、世界と接するために現れた一つのアバターのようなものです。私の肉体はもろく傷つきやすく、それは精神にも大いに影響を与えるでしょうが、そのいずれとも、私は完全な同化をしていようと思いません。
できることなら作品や、こうしたメッセージを通して、ご縁のあった方を憩わせる風の一吹きにでもなれたらと思うものです。
風に名前はありません。吹かれて数歩も行かぬうちに、人はそれを忘れるでしょう。風は、それでいいのです。
頭ではなくハートで、このニュアンスをお聞きいただければと思います。
お名前を忘れましたが、日本のあるお坊さんの言葉で
「私は身も心もたよりにせずに生きられる。身も心も弱いゆえに」
というのがありまあした。
マインドは貴重なものです。
しかし、その貴重なものに敬意を払い、大切に取り扱いながら、最後はマインドを越えて在りたい。
それが、快楽と苦痛、幸福と不幸の間で翻弄され、際限も無い出口の見えない悩みのループに閉じ込められた日々から、自分を解き放ち、生き生きと十全に生きる最良の道ではないでしょうか。
私の尊敬するインドの覚者、ニサルガダッタ・マハラジの言葉に
「私はすでに死んでいる」
というのがあります(笑)。
『北斗の拳』も真っ青なセリフですが、これは死体のように無能で役立たずな存在になっているという意味ではけしてなく、キリスト教などで言う「死んで生きる」「死ぬことで永遠の生命を得る」というのに等しい、己の生死を越えて在ることで、いかんなく自由自在に、自分と世界を解放していける存在であるということだと私は思っています。
あなたが、あなたの存在の「核」に気づき、そこに憩われるとき、
どんな悲しい思い出も、どんな辛い出来事も
「核」にあるあなたに、傷一つつけられないことに気づかれるでしょう。
肉体は傷つき、心も傷つく。それは生きている限り避けられません。それらは、うつろいやすく、はかないものです。
しかし、あなたの根本は、誰にも奪われることも汚すこともできません。
そこに自分のセンターを置くとき、実は守るべき何物もなかったことに気がつかれると思います。
体の傷も心の傷も、痛みを取り除き、癒されるべきだと思います。
しかし、あなたをそれと「同化」させないでください。
他に何も考えられなくなるような歯痛も胃の痛みも、確かにそれは現実ですが、歯痛が私でもないし、胃の痛みが私でもありません。人は何かを目の前に引き寄せて視界をふさぎます。小さな10円玉は巨大な太陽さえも隠せます。
私は何事も、たとえ世界が崩壊しようと、それを目の前には置きません。
最後にマハラジおじさんの名言をもう一つ引用します。
「苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去ったあとも、あなたは残る。
はかないのは苦痛だ。あなたではない」
かなり哲学的な、難解な話かもですが
これが私の目指して歩む道なのです。
マインドを超えて、風と共に風となって。
今生でどこまで行けるかは神の味噌汁。一生かけて試しています。
きょうの皆様にも、良い風が吹きますように。
長文お読みくださりありがとうございました。
「私は感情と意志は相補的なものだと思っています。感情は意志に従うべきだが、しかし意志そのものは、感情が煮詰められることでしか生まれ得ないのではないか」
「煮詰められた意志を持ちうる人は、感情の奴隷にはならないのかもしれない、しかしそこに至るまでが大変なのではないでしょうか」
というコメントをお寄せくださいました。大変鋭いご指摘です(コメントありがとうございました♪)。
また、その方の好きな小説に、こんな一説があったそうです。
「『……あなたのような人は必ず、精神のどこかに「心臓(ハート)」を隠している。「心(ハート)」と「意志」を切り離し、不死身の怪物として振舞う……』 」
『ブライトライツ・ホーリーランド』という小説だそうですが。
確かに。
そういう一見不死身というか強そうな人(いや実生活では確かに「強い」人)はいますし、物語にもしばしば登場します。
コメントをくださった方は「心臓を無くした巨人」の話にも言及されていました。
一見心臓を持たない(つまり誰もそいつを殺せない)ように見えて、実はこっそり秘密の場所に自分の心臓を隠していて、それを見つけ出され破壊されると、他の人と同じように死んでしまう。
私はこの物語の原典は知りませんでしたが、昔から様々なエンターテインメントに使われてきたエピソードで、目にしてきました。
そんな魔法使いのように、自分の急所を人に見えない場所に隠して、ふだんの思考や行動からは切り離し、無敵なようにふるまっている人。
いるいる、いますね。
一般的な(常識的な)感覚ではそれはそうだと思います。
しかし、それとは違う「あり方」もあります。あまり「はやらない」あり方ですが(笑)。
それは「マインドを超えて在る」あり方です。
「身体」が「私」という存在を構成する一要素に過ぎないように、「感情」や「思考」も、所詮はほんの一要素に過ぎず、私という存在は、それらの総和を超えたものだと思うものです。
完全な唯物主義で、体がすべてであるというお考えの方とは、まったく立場が異なるので、そういう方には合意できない思想かもですが、これはあくまで私がそういう視点で世界を捉えているということで、ご理解ください。これが真理だとか決め付けるつもりは毛頭ありませんし、どなたにも押し付ける意思もそんな資格もありません。
感情と思いに捉われて、そこから抜け出られないのが、通常の人間の在り方ですが、それらマインドのぐるぐるを超えて、それらを見守るものとして在る、在り方です。
一般に「その人の人格」と思われている意識のもっと奥底、根源にある「気づき」「観照者」「自我」etc・・・人によって色んな言い方をされますが、言葉では言い表せない存在。
有名なところではデカルトの「我思うゆえに我あり」の「我」、それも「思い」のもう一つ奥、「思う我」を見守っている根源の「我」と申しましょうか、私はそこに足場を置くよう心がけています。
心がけているということは、しばしば失敗しているということであり、むしろ、そこを目指して生きていると言うべきかもしれません(本当に「観照者」に留まれたなら、私はある種の「覚者」です。そんなことはまったくできてません)。
それは「私」という存在の、これ以上分割不可能な究極の「核」のようなものです。
今回の記事は、おそらくこれまで書いた「いささか形而上」カテゴリの中でも最も形而上寄りの、つまりは日常感覚からかけ離れた内容になります。また少々長くなりますが、これを機会にざっとまとめておきたいと思いますので、お時間と余力のある方はお読みくださいませ;
これは奇妙な考えに思われる方もおいででしょうが、けして目新しいものではなく、いにしえのインドに起源を持つ哲学などにあるものです。詳しい説明は長くなるので、また機会を改めます。
一見心臓がないように見えても、こっそりどこかに隠している者は、いくら強そうにふるまっても、いつかその心臓を見つけ出され、それを壊されて死に至ります。
でも、もし、心臓がどこにもなかったらどうでしょうか?
心臓というのは、言うなれば血液の循環を一手に引き受けている中央集権的な器官です。それがなかったとしたら?循環させる機能を全身に分散させていたら?血管それ自体が、血液を循環させる器官として協調して動いていたら?
言葉の「あや」かも知れませんが、私は特定の「心臓」を持たないように心がけています。
いや、そういう思いに至ったのはここ数年のことであって、それまでの四十数年の人生で培われ、形作られた「心臓」は確かにあります。そして機能している部分もあります。
賢者の言葉を模倣するなら、「回り続けた車輪が、それを回転させる動力がなくなっても、慣性でしばらくは回り続けるように」。いや、その他の長年培ったシステム、いわゆる煩悩の類もまだまだいっぱいありますから、完全に動力が絶たれたわけではありません。
しかし、以前に比べて、それを回転させようとする力は明らかに減りました。
言い換えるなら「首都移転」ならぬ「心臓移転」、「心臓閉店」の作業が続いており、かつてそこに置かれていた「備品」のいくつかは、すでに運び出され、その内部は段々とすっきりしてきているように思います(笑)。
私が、自分の生死を気にかけていないことは、すでに何度か触れてきたように思います。
別に自殺願望はありませんし、誰かに襲われれば常識的な範囲で正当防衛は行うでしょうが、突然不治の病の宣告を受けたりしても、別に何もこだわることころはないつもりです。私には、私をこの世に引き止めるべき何物もありません。
と言って、何かの宗教で説かれるような天国とか良き来世といったものにも興味はありません。
私の人生と同義と言ってもいいマンガも、最愛のつまも、私の「心臓」ではありえません。
それぞれ大好きですし、愛していますし、それとともにあるのは大いなる喜びですが、執着しすがりつく対象ではけしてないのです。
私はただ「在る」者として満たされた存在であり、それは生まれながらにして与えられた(形而上的な視点に立つなら生死も越えて)不動の一点であって、別に特別なことでもなんでもなく、今この文章をお読みくださっている皆様も同じようにその一点をお持ちのものです。ただ気づいておられるかおられないかの違いであり、それは特別な能力や恵まれた環境、特殊な修行など何も必要としない、誰でも得られる、いやそもそも奪われていない生得のもの。必要なのはそれに気がつくだけのことです。
私はそう理解しております。
どうやって、それに気づくかは、また別の機会に一項を設けてお話したいと思います(長い話になりますので)。
さて話は元に戻りますが、「心臓」は英語で言うなら「ハート」ですよね。
おまえは心臓がないのか、ということは「ハート」のない人間、ゾンビのようなうつろな存在を目指しているのかと思われる方もおられるかもしれません。
いや、私は別に感情も思考も否定はしていません。マインドを否定はしません。それなしには、人間は何もなしえないでしょう。
ただそこに自分のセンターを置かない。それらを見守る(庭で駆け回る愛犬や愛猫、野鳥を見守るように)位置に己を置くよう心がけているのです。時にはそれらといっしょになって駆け回り、抱きしめ、頬ずりしたりもしますが、「このわんこが私自信だ」とか「このにゃんこが私そのものだ」などとは思わないだけです(分け隔てない一体感というものは肯定しますが)。
無限に長いテコがあれば、地球だって持ち上げてみせると言ったのはピタゴラス?でしたっけ??(記憶違い?間違っていたらすみません.って、あ、アルキメデスだそうです。情報感謝です♪)
大きな仕事をするために、それに比例した大きなな感情というものを、私は必要としていません。
私はそもそも感情の振幅の激しい人間で、今でもちょっとしたことでうるうるしますし(もおネコがゴハン食べてる背中だけでも涙ぐんだり)(笑)その心中に去来する感情を否定せず認めます。ただ無用のものは浮かんでもそれと己を一体化させず、浮かんだ泡のように去るに任せます。誰かに対するネガティブな思いや、不安、恐怖といったものは、それが指し示す意味を理解して、対処が必要であればそれを行い、その後は不要なのです。
人は歩くとき、一歩一歩足のどの筋肉に力を入れるか、どう体のバランスをとるかなど、悩みはしません(何か事故や病気で障害を持たれた方は無論別です。あくまでわかりやすい一般の例として申し上げています)。
同じように、私は日々の多くを、自然に行うようにしています。
物事の多くは、人生が自然に次に進むべき道を示してくれるもので、そこに無理して差しはさむべき我欲というものは、あまりありません。日常のどうでもいいこと、アイスクリームが食べたいとか、この美女のほかの水着写真が見たいとか、は、ありますけど♪
私にも私の個性があり、私なりの願望や欲望は浮かんできますが、そのどれを実現するか、いつどのように実現するかは、私は大半を人生にゆだねています。果報は寝て待っているわけでは、けしてなく、常に誠実にベストを尽くします(その辺の真面目さには、僭越ながらいささか自信があります)が、その結果にはこだわらない。失敗すれば分析し、同じ失敗を犯さないための資料にはします。しかし罪悪感には捉われません。
積み上げては崩される「賽の河原」のような体験は、マンガ家人生で何度も経験してきました。
何ヶ月もタダ働きして、何も得られなかったこともあります。生活費を工面するのに苦労しました。
けれど私は無駄が嫌いなのです。
つっぷして声を上げて泣いても、すぐに顔を上げて
「ダメだ、泣いててもちっとも幸せにならねえ」
と、次に移ってしまうのです。自信があるわけではありません。保証された未来などカケラもありません。ただ無意味なことが嫌いなのです。
ですので、結果がだめなら、また新たに取り組みなおす、。ただシンプルにそうするだけです。
同じことを繰り返しながら、違った結果を望むのは狂気だと、言った方がありますが
まったく同感です。ダメなら違う何かを試す。ほかにどんな人生があるでしょう?
疲れたら休みます。
動けるなら動きます。
ただ、依存したり執着して身動き取れなくなる何かを持つこと、握り締めることに、私はなんの興味も持てなくなりました。
人生が私を導くとき、私は何か心地よい風に包まれているように感じることがあります。
安楽な恵まれた人生とか、幸運ばかりが巡ってくるという意味ではありません。
人生はときに、過酷なカードを差し出します。
命をかけた願いが粉砕されることもあるし、愛する者との長く深い交流が絶たれることもあります。
でも、獲得したものは必ず失われ、登った日は必ず沈みます。必ず移ろい行くものにしがみつくのは、無益なことではないでしょうか。
咲く花の美に無感動でいる「禁欲」などではなく、花を愛でて枯れるに任せるということです。
私は、私を包み、私の中を吹き渡る風を、どう表現していいかわかりません。
「愛」とか「神」とかいう言葉は、あまりに多くの色眼鏡と誤解にまみれているので、あまり安易に使いたくないのですが、「愛」で言うなら、私は「愛」を人間が作り出し生み出している人間メイドの生産物とは思わず、太陽の光線を植物や動物、人間が思い思いに加工してエネルギーとしているように、どこか別の場所から来たエネルギーと捉えています。私がゼロから作り出した愛などというものはなく、誰かから何かから手渡されたものを、ただ自分味に加工してまた世界に手渡しているだけではないかと。
私の言う「風」も、何かそんなものだと思ってください。
蛇足ですが、私にも嫌いな人はいます。
愛せない人はいます。
そういう人に私のできる最大の好意は、その人の不幸を願わないこと。
その人を攻撃したり貶める思いや言葉や行いをしないこと。それがそういう人に対してできる私の最大限の善意であり、それはその時点での私の人間の小ささ、視野の狭さを現すものです。
ネガティブな思いを伴った言動しかとれない相手には、毒を手渡すくらいなら何も語らず何も行わない。それが私流の最大限の好意。別にシカトして傷つけようとかではけしてなく、それ以上の接し方を思い浮かばない己の限界を申し訳なく思いながら、無用に相手を傷つけないよう距離を置くものです。
以前「千の風になって」という歌がはやりましたよね。はやったはやらないと言うより、もはや一つのスタンダードナンバーとして定着しているのでしょうが
あの歌のパロディで言うならば
私の○○の前で泣かないでください。
○○の中には色んなものが入ります。
「誇り」「プライド」でもいいし「マンガ」でもいい。「身体」でも「愛する人」「愛するもの」でもいい。
私がそれらを奪われれたり、失ったりして、傷つき嘆き悲しんでいるのではないかと同情してくださる方、泣いてくださる方に、捧げる歌です。
私の○○の前で泣かないでください。
私は(私の「心臓」、「思い」「執着」は)そんなところにいません(ありません)。どこか特定の場所や何かにこだわるものはありません。
私は千の風になって、吹き渡っていきます。
本来あの歌は、死者から残された生者に捧げる歌の形をとっていますが
私はあえて生きながら、あの歌を、私とともに今を生き、私を思ってくださるすべての方に捧げたいと思います。
私は生きながらにして、思いにおいて「千の風」になりたいと思っています。
私はどこにもいません。無責任に逃げを打つという意味ではけしてありません。果たすべきことは命ある限り最善を尽くします。
ただ、あなたが思っておられる「そこ」にも「どこ」にも、私はいようと思っていません。
身体を持つ一人の人間として、日々の大半を生活に追われているとき、物質的な意味では確かに、「そこ」に私はいます。しかし、それは「私」と言う不動の一点が、世界と接するために現れた一つのアバターのようなものです。私の肉体はもろく傷つきやすく、それは精神にも大いに影響を与えるでしょうが、そのいずれとも、私は完全な同化をしていようと思いません。
できることなら作品や、こうしたメッセージを通して、ご縁のあった方を憩わせる風の一吹きにでもなれたらと思うものです。
風に名前はありません。吹かれて数歩も行かぬうちに、人はそれを忘れるでしょう。風は、それでいいのです。
頭ではなくハートで、このニュアンスをお聞きいただければと思います。
お名前を忘れましたが、日本のあるお坊さんの言葉で
「私は身も心もたよりにせずに生きられる。身も心も弱いゆえに」
というのがありまあした。
マインドは貴重なものです。
しかし、その貴重なものに敬意を払い、大切に取り扱いながら、最後はマインドを越えて在りたい。
それが、快楽と苦痛、幸福と不幸の間で翻弄され、際限も無い出口の見えない悩みのループに閉じ込められた日々から、自分を解き放ち、生き生きと十全に生きる最良の道ではないでしょうか。
私の尊敬するインドの覚者、ニサルガダッタ・マハラジの言葉に
「私はすでに死んでいる」
というのがあります(笑)。
『北斗の拳』も真っ青なセリフですが、これは死体のように無能で役立たずな存在になっているという意味ではけしてなく、キリスト教などで言う「死んで生きる」「死ぬことで永遠の生命を得る」というのに等しい、己の生死を越えて在ることで、いかんなく自由自在に、自分と世界を解放していける存在であるということだと私は思っています。
あなたが、あなたの存在の「核」に気づき、そこに憩われるとき、
どんな悲しい思い出も、どんな辛い出来事も
「核」にあるあなたに、傷一つつけられないことに気づかれるでしょう。
肉体は傷つき、心も傷つく。それは生きている限り避けられません。それらは、うつろいやすく、はかないものです。
しかし、あなたの根本は、誰にも奪われることも汚すこともできません。
そこに自分のセンターを置くとき、実は守るべき何物もなかったことに気がつかれると思います。
体の傷も心の傷も、痛みを取り除き、癒されるべきだと思います。
しかし、あなたをそれと「同化」させないでください。
他に何も考えられなくなるような歯痛も胃の痛みも、確かにそれは現実ですが、歯痛が私でもないし、胃の痛みが私でもありません。人は何かを目の前に引き寄せて視界をふさぎます。小さな10円玉は巨大な太陽さえも隠せます。
私は何事も、たとえ世界が崩壊しようと、それを目の前には置きません。
最後にマハラジおじさんの名言をもう一つ引用します。
「苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去ったあとも、あなたは残る。
はかないのは苦痛だ。あなたではない」
かなり哲学的な、難解な話かもですが
これが私の目指して歩む道なのです。
マインドを超えて、風と共に風となって。
今生でどこまで行けるかは神の味噌汁。一生かけて試しています。
きょうの皆様にも、良い風が吹きますように。
長文お読みくださりありがとうございました。
私の同業者の友人に、大変オトコマエな女性がいるんですが
旦那さんが近年「うつ」で、とうとう仕事もやめちゃって50代にして引きこもり状態。
私や友人には理解できない「超」がつく「小心」な方で、こういう言い方は申し訳ないかもですが、うつ経験者の私(友人も経験者です)から見てもあまりな○○○っぷりに、かける言葉も、もはや思い浮かばないきょうこのごろ。
家庭はもう長いこと、友人(奥さん)が、がんばって人一倍働いて支えています。
いや、旦那さんの失業保険もあるし、借金もあるしで、完全に一人で支え切ってるわけではけしてないのですが
でも友人はその旦那さんをずっと愛しているし、何よりお嬢さん(まだ小学生!)がパパのこと大好きで
最近パパに音楽CDをねだっていてパパが買ってあげたら
実はお嬢さん、その曲をパパに聞かせたかったらしいんですね。
私(山本)はこれ全然知らなかった(ファンの方すみません)んですが
SEAMOの「Continue」って曲で
「威風堂々」の曲に、ラップで歌詞がついて、これが凄くいいらしいんですね。
「威風堂々」は私も大好きな曲で、仕事中よくかけてます(VERA LYNNの「Land Of Hope And Glory」)。
ニコ動では曲も聴けるそうです(こちらです)。
私はニコ動登録してないんで聴けてません(すみません)(爆)。
パパは「いい曲だ」って喜んでたようです♪
ちなみにこれには「後日談」ならぬ「前日談」がありまして
あいかわらずらちもない繰言を続ける旦那さんに、友人がある日さすがにブチキレて、思わず顔面にパーンチ!ちなみに、友人は中学時代、学校の剣道部が物足りなくて町の道場で腕を磨き、学校では男子も誰もかなわなくなって相手してもらえなくなり、その後は合気道場にも通った猛者。旦那さんはまったくかないません(笑)。
妻に殴られ
「オレなんか死んだ方がいいんだ、生きていてもなんの希望も・・・」
などと落ち込む旦那さんに、お嬢さんが
「パパが本当にそう思うんだったら止めないよ。好きにしていいよ。でも本気じゃないでしょ」
今は考える時間がいるから、そっとしといてあげてママ」
ママそれ以上つっこめなくなっちゃったそうです。
いや、なんと言おうと、結局旦那さんの味方なんですよね奥さんも(パパ大好きなお嬢さんは言うまでもなく)♪
・・・・・・・・。
ええ娘さんや(泣)。
こんな奥さんとお嬢さん、世界中探しても他にどこにもおらへんで(って、なぜ関西弁)。
せかしてもなんにもなりませんから、まあ生暖かい目で見守るくらいしかできないんですが、昨日も夜中まで働くママを手伝って自分から皿を洗う小学生のお嬢さん。幸多かれと祈ります。
パパの復活がいつかは神の味噌汁。
あまり煮過ぎると塩辛くて飲めなくなるから、適当なところで火を止めてー!!
追記
お客様からようつべのURLをお教えいただきました。私にも見れました聴けました。ありがとうございますー♪
旦那さんが近年「うつ」で、とうとう仕事もやめちゃって50代にして引きこもり状態。
私や友人には理解できない「超」がつく「小心」な方で、こういう言い方は申し訳ないかもですが、うつ経験者の私(友人も経験者です)から見てもあまりな○○○っぷりに、かける言葉も、もはや思い浮かばないきょうこのごろ。
家庭はもう長いこと、友人(奥さん)が、がんばって人一倍働いて支えています。
いや、旦那さんの失業保険もあるし、借金もあるしで、完全に一人で支え切ってるわけではけしてないのですが
でも友人はその旦那さんをずっと愛しているし、何よりお嬢さん(まだ小学生!)がパパのこと大好きで
最近パパに音楽CDをねだっていてパパが買ってあげたら
実はお嬢さん、その曲をパパに聞かせたかったらしいんですね。
私(山本)はこれ全然知らなかった(ファンの方すみません)んですが
SEAMOの「Continue」って曲で
「威風堂々」の曲に、ラップで歌詞がついて、これが凄くいいらしいんですね。
「威風堂々」は私も大好きな曲で、仕事中よくかけてます(VERA LYNNの「Land Of Hope And Glory」)。
ニコ動では曲も聴けるそうです(こちらです)。
私はニコ動登録してないんで聴けてません(すみません)(爆)。
パパは「いい曲だ」って喜んでたようです♪
ちなみにこれには「後日談」ならぬ「前日談」がありまして
あいかわらずらちもない繰言を続ける旦那さんに、友人がある日さすがにブチキレて、思わず顔面にパーンチ!ちなみに、友人は中学時代、学校の剣道部が物足りなくて町の道場で腕を磨き、学校では男子も誰もかなわなくなって相手してもらえなくなり、その後は合気道場にも通った猛者。旦那さんはまったくかないません(笑)。
妻に殴られ
「オレなんか死んだ方がいいんだ、生きていてもなんの希望も・・・」
などと落ち込む旦那さんに、お嬢さんが
「パパが本当にそう思うんだったら止めないよ。好きにしていいよ。でも本気じゃないでしょ」
今は考える時間がいるから、そっとしといてあげてママ」
ママそれ以上つっこめなくなっちゃったそうです。
いや、なんと言おうと、結局旦那さんの味方なんですよね奥さんも(パパ大好きなお嬢さんは言うまでもなく)♪
・・・・・・・・。
ええ娘さんや(泣)。
こんな奥さんとお嬢さん、世界中探しても他にどこにもおらへんで(って、なぜ関西弁)。
せかしてもなんにもなりませんから、まあ生暖かい目で見守るくらいしかできないんですが、昨日も夜中まで働くママを手伝って自分から皿を洗う小学生のお嬢さん。幸多かれと祈ります。
パパの復活がいつかは神の味噌汁。
あまり煮過ぎると塩辛くて飲めなくなるから、適当なところで火を止めてー!!
追記
お客様からようつべのURLをお教えいただきました。私にも見れました聴けました。ありがとうございますー♪
今から十年以上も昔、母が長崎を歩いていて見つけた光景。
たこ焼き屋さんの屋台を覗き込み、様子をうかがうネコ。
と、その様子を見守る仲間ネコ(兄弟親子?)。
まだ写メとかない時代(だったと思います)、母は手持ちのフィルムカメラで撮ったものですが、焼き増しを送ってくれて、私は一目で気に入って、額に入れて飾ってました。
ここのところ、当ブログも生真面目な話題が続いたので、少し息抜きにアップしようと、十数年ぶりに額から出そうとしたら、ガラスに貼り付いてべりべり。一枚はなんとかはがしましたが、一部穴があいてしまい、もう一枚は裂けそうなので途中で断念。仕方なくガラスごしにスキャンしました。
今はこのたこ焼き屋さんもどうしておいでか。
猫たちはもしかしたらすでに天国かもしれませんが、私はいつ見てもつい笑ってしまいます。
たこ焼き屋さんにも、このネコたち、あるいはその子孫たちにも、幸多かれ♪
ではでは。
ものの考え方(とそれに伴う生き方、あり方)というのは、身体的な技術(スポーツとか武術とか)といっしょで、一朝一夕に身につくものではありません。
聞いただけ、読んだだけで身につくのなら、子どもたちを集めて説教すれば世界は平和になるでしょう。
昔から色んな聖人・賢者と呼ばれる人が、優れたメッセージを残してますが(無論中にはインチキなものもいっぱいありますが)、人それぞれ相性というか、肌に合うものと合わないものがあります。
合わないものを無理やり実践しようとしても、ストレスが溜まって破綻します。
ただ、何かを身に付けるには、一定期間「お試し」で実践してみないことには、結果は出ません。
車で言うなら「テスト走行」です。
「設計図」を見た段階で、こりゃ走らない(どう見ても実生活で使えない)ものは別として、これで本当にそんなスピードが出るのかとか、快適に走行できるのか、といったことは、実際乗って走ってみるしかありません。
どこかの道場に行って練習風景を見て、こんな武術で本当にそんなに強くなれるのか?という疑問は、体験入門でもするか、通ってみないとわかりません。
無論、その前に、そこの先生や生徒の人間性を見るとか、部外者の評判を聞くとか、可能な情報収集や分析はあります。
で、しばらく通ってみたけどどうも納得いかない、でやめるか
それなりに強くはなったんで、もう少し続けてみるか
ここは納得いくんだけど、ここんとこは納得いかない、説明求むみたいな。
どれを選ぶかは人それぞれだと思います。
学生時代友人から聞いた話で、彼の友人がクラスメートからいじめられて、強くなりたくてある道場に見学と言うか入門希望で出かけたら、その道場の先生の友人である別の流派の先生もいて、その先生が
「キミみたいなきゃしゃな人がこの道場に入門したら、とてもついていけなくて体壊すだけだよ。うちに来た方がいいよ」
って言われて、入門するつもりだった道場主さんも賛成して、彼はそっちの道場に通い
強くなっていじめっ子ボコにしたってのがありました。
「生き方」「あり方」も、人それぞれだと思います。
「未成熟なうちに(無理して何かを)手放せば、それはあらたな束縛を生み出すだけ」
人と争ったり、人を憎んだり恨んだりすることも、本当にそれがこりごり、うんざり、もうイヤだと思うまでは、無理に押さえ込んでも長続きせず爆発するだけだと思います(だからって野放しで犯罪に走りましょうとか言う気はないですけど)。だから、ゆるせない人、ゆるせないことも、ゆるせるようになるまでゆるさないでいい。それは別に恥ずかしいことでもないし、ダメなことでもないと思います。
人にはそれぞれの歩幅があって発達段階があります。
ほかの人と比べて、自分の何かが未熟に見えてたとしても、将来のことはわかりません。
生まれたてのライオンの子は、犬でも殺せますが、一年後はどうでしょうか。
だからと言って犬が偉いわけでもライオンが偉いわけでもありません。
それぞれの道があるだけです。
みんなの行く道と別の道でも、それが合っている場合もあります。
効かないので定評のある抗がん剤が、たまたま合って生還された方の手記もあります。
以前もどこかで触れましたが、アフガニスタンで現地の方々のために尽力されていて、先だってスタッフの中のお一人がゲリラ?だかに殺害され(ご冥福をお祈りします)ニュースにもなったペシャワール会の医師、中村哲先生の話を引用します。
「ペシャワールの現地に赴いたとき、「このイスラム社会で、キリスト教徒のあなたがなぜ?」と訊かれたとき、私は答えた。「ヒンズークッシュの山の頂は変わらない。それは誰にとっても同じである。しかしその光景は、眺める方角で異なるし、登り道もちがう」
たいていのイスラム教徒なら、いたく共感して協力を惜しまなかった」
(NHK知るを楽しむ この人この世界「アフガニスタン・命の水を求めて」より)
どの道が合うかは「神のみぞ知る」です(私は、堅苦しいのがイヤなんで「神の味噌汁」って言うんですが)(笑)。
納得のいく道を歩んで、間違ったときは引き返せばいい。
あみだくじじゃないんですから、後退もありです♪色々試しながら進んでおります。
聞いただけ、読んだだけで身につくのなら、子どもたちを集めて説教すれば世界は平和になるでしょう。
昔から色んな聖人・賢者と呼ばれる人が、優れたメッセージを残してますが(無論中にはインチキなものもいっぱいありますが)、人それぞれ相性というか、肌に合うものと合わないものがあります。
合わないものを無理やり実践しようとしても、ストレスが溜まって破綻します。
ただ、何かを身に付けるには、一定期間「お試し」で実践してみないことには、結果は出ません。
車で言うなら「テスト走行」です。
「設計図」を見た段階で、こりゃ走らない(どう見ても実生活で使えない)ものは別として、これで本当にそんなスピードが出るのかとか、快適に走行できるのか、といったことは、実際乗って走ってみるしかありません。
どこかの道場に行って練習風景を見て、こんな武術で本当にそんなに強くなれるのか?という疑問は、体験入門でもするか、通ってみないとわかりません。
無論、その前に、そこの先生や生徒の人間性を見るとか、部外者の評判を聞くとか、可能な情報収集や分析はあります。
で、しばらく通ってみたけどどうも納得いかない、でやめるか
それなりに強くはなったんで、もう少し続けてみるか
ここは納得いくんだけど、ここんとこは納得いかない、説明求むみたいな。
どれを選ぶかは人それぞれだと思います。
学生時代友人から聞いた話で、彼の友人がクラスメートからいじめられて、強くなりたくてある道場に見学と言うか入門希望で出かけたら、その道場の先生の友人である別の流派の先生もいて、その先生が
「キミみたいなきゃしゃな人がこの道場に入門したら、とてもついていけなくて体壊すだけだよ。うちに来た方がいいよ」
って言われて、入門するつもりだった道場主さんも賛成して、彼はそっちの道場に通い
強くなっていじめっ子ボコにしたってのがありました。
「生き方」「あり方」も、人それぞれだと思います。
「未成熟なうちに(無理して何かを)手放せば、それはあらたな束縛を生み出すだけ」
人と争ったり、人を憎んだり恨んだりすることも、本当にそれがこりごり、うんざり、もうイヤだと思うまでは、無理に押さえ込んでも長続きせず爆発するだけだと思います(だからって野放しで犯罪に走りましょうとか言う気はないですけど)。だから、ゆるせない人、ゆるせないことも、ゆるせるようになるまでゆるさないでいい。それは別に恥ずかしいことでもないし、ダメなことでもないと思います。
人にはそれぞれの歩幅があって発達段階があります。
ほかの人と比べて、自分の何かが未熟に見えてたとしても、将来のことはわかりません。
生まれたてのライオンの子は、犬でも殺せますが、一年後はどうでしょうか。
だからと言って犬が偉いわけでもライオンが偉いわけでもありません。
それぞれの道があるだけです。
みんなの行く道と別の道でも、それが合っている場合もあります。
効かないので定評のある抗がん剤が、たまたま合って生還された方の手記もあります。
以前もどこかで触れましたが、アフガニスタンで現地の方々のために尽力されていて、先だってスタッフの中のお一人がゲリラ?だかに殺害され(ご冥福をお祈りします)ニュースにもなったペシャワール会の医師、中村哲先生の話を引用します。
「ペシャワールの現地に赴いたとき、「このイスラム社会で、キリスト教徒のあなたがなぜ?」と訊かれたとき、私は答えた。「ヒンズークッシュの山の頂は変わらない。それは誰にとっても同じである。しかしその光景は、眺める方角で異なるし、登り道もちがう」
たいていのイスラム教徒なら、いたく共感して協力を惜しまなかった」
(NHK知るを楽しむ この人この世界「アフガニスタン・命の水を求めて」より)
どの道が合うかは「神のみぞ知る」です(私は、堅苦しいのがイヤなんで「神の味噌汁」って言うんですが)(笑)。
納得のいく道を歩んで、間違ったときは引き返せばいい。
あみだくじじゃないんですから、後退もありです♪色々試しながら進んでおります。
最近の日記、ゆるすこととか心をコントロールすること(感情にふりまわされない)について、お読みくださった方のコメントで
「言ってることはわかるけど、自分にはとてもできない。自分はダメだ」
という意味のものがありまして
お、お気持ちはわかりますが、どうか早まらないでくださいと申し上げたくキーに向かいました。
自分で自分の未来を決め付けて「ダメだ」とか「死ぬまで~~だ」とか、どうかおっしゃらないでください。
それは自分で自分に「呪い」をかけるようなものです。
たとえ勘違いのウソでも、毎日毎日そう思って生きていると、潜在意識に刷り込まれ、ウソがホントに思えてきます。
心が萎縮して、自分にブレーキをかけ、自分で自分を檻に入れます。
「なんでもできる」とは言わないでください。人間ですから。
「絶対できない」とも言わないでください。人間ですから。
できるかできないかは、自分で生きてみることでしか結論は出ません。
誰がなんと言おうと、それしかないです。
ちなみに
人が自分で自分に「呪い」をかけるようになるきっかけの最たるものが
他人からかけられた言葉や仕打ちです。
親からおまえはダメだダメだと言われて育った子どもが、自分はそうなんだと思い込んでしまうとか、クラスメートから人格を否定され続けて「自分なんかこの世にいない方がいいんだ」と思い込んでしまう人とか。
子どものころは、冷静で論理的な思考のシステムができていませんから、親や友人、世間の評価が絶対的だと思うのは無理ありませんが、そのうち、それがウソであることに気がつきます。
一つの例は、第二次大戦の終わりと同時に、戦争万歳だったオトナの多くが、平和と民主主義サイコーに一夜にして宗旨替えしたことなど、そのいい例でしょう(そういうオトナを見て人生観が変わったという人、あの時代には少なくないようです)。
人は他人からどんなひどい決めつけを受けても、最終的に自分が同意しない限り、それは効果がありません。
「おまえなんかゴミだ」
と言われて、この人はなにを言っているのかな、どうも機嫌が悪いらしいな、と思うか
そうかオレはゴミなのかと思うか
「同意する書類」に「ハンコを押す」のは自分自身です。どうか「ハンコを押さないで」ください。
あなたの前に、誰かが現れて
「あなたは死ぬまで~~でしょう」
などと言い出したら、インチキ預言者か頭のおかしい人だと思うでしょう(まあ、そう思って、だいたい間違いないと思いますが)。だから同じことを自分で自分になさらないでください。
一寸先は闇
かも知れないし
一寸先は光
かもしれない。
人にはわからない未来のことを、神でも預言者でもない人が決め付けない方がいいと思います(だから私も決め付けません)。いや、たとえあなたの前に、自分は神だとか預言者だとか言う人が現れたとしても、その人の言うことを信じるかどうか、受け入れるかどうか、最終責任はあなたにあります。
私は私の名において私の自己責任で判断し決定します。うかつに「ハンコは押しません」。
あなたがどこまで行けるか、どれほどの力を可能性を秘めた方か、あなたにも誰にもわかりません。
結論は死ぬときまでわかりません。
よく言われる「一生懸命願えばなんでもかなう」とかいった、空手形は申しません。
人には確かに限界があって、身長が足りなくて新弟子検査にパスしないとか、そういう「できないこと」はあります。
でも心の可能性は、深海や宇宙と同じように、まったく未知の部分が大半です。
限界がどこにあったか、証明するのは自分の人生だけです。
どうか自分に「呪い」をかけず、もし過去にかけていたら「ちゃら」にする方向で、過去など気にせず進んでください。
どうしてもやりたいのなら
「呪い」ではなく「祝福」を!
笑う人もいるでしょう。無理だと言う人もいるでしょう。私もずいぶん言われてきました。
でも自分の思う道を行くだけです。
行ってください。
誰かの思うことでなく、あなたの思う人生を。
「言ってることはわかるけど、自分にはとてもできない。自分はダメだ」
という意味のものがありまして
お、お気持ちはわかりますが、どうか早まらないでくださいと申し上げたくキーに向かいました。
自分で自分の未来を決め付けて「ダメだ」とか「死ぬまで~~だ」とか、どうかおっしゃらないでください。
それは自分で自分に「呪い」をかけるようなものです。
たとえ勘違いのウソでも、毎日毎日そう思って生きていると、潜在意識に刷り込まれ、ウソがホントに思えてきます。
心が萎縮して、自分にブレーキをかけ、自分で自分を檻に入れます。
「なんでもできる」とは言わないでください。人間ですから。
「絶対できない」とも言わないでください。人間ですから。
できるかできないかは、自分で生きてみることでしか結論は出ません。
誰がなんと言おうと、それしかないです。
ちなみに
人が自分で自分に「呪い」をかけるようになるきっかけの最たるものが
他人からかけられた言葉や仕打ちです。
親からおまえはダメだダメだと言われて育った子どもが、自分はそうなんだと思い込んでしまうとか、クラスメートから人格を否定され続けて「自分なんかこの世にいない方がいいんだ」と思い込んでしまう人とか。
子どものころは、冷静で論理的な思考のシステムができていませんから、親や友人、世間の評価が絶対的だと思うのは無理ありませんが、そのうち、それがウソであることに気がつきます。
一つの例は、第二次大戦の終わりと同時に、戦争万歳だったオトナの多くが、平和と民主主義サイコーに一夜にして宗旨替えしたことなど、そのいい例でしょう(そういうオトナを見て人生観が変わったという人、あの時代には少なくないようです)。
人は他人からどんなひどい決めつけを受けても、最終的に自分が同意しない限り、それは効果がありません。
「おまえなんかゴミだ」
と言われて、この人はなにを言っているのかな、どうも機嫌が悪いらしいな、と思うか
そうかオレはゴミなのかと思うか
「同意する書類」に「ハンコを押す」のは自分自身です。どうか「ハンコを押さないで」ください。
あなたの前に、誰かが現れて
「あなたは死ぬまで~~でしょう」
などと言い出したら、インチキ預言者か頭のおかしい人だと思うでしょう(まあ、そう思って、だいたい間違いないと思いますが)。だから同じことを自分で自分になさらないでください。
一寸先は闇
かも知れないし
一寸先は光
かもしれない。
人にはわからない未来のことを、神でも預言者でもない人が決め付けない方がいいと思います(だから私も決め付けません)。いや、たとえあなたの前に、自分は神だとか預言者だとか言う人が現れたとしても、その人の言うことを信じるかどうか、受け入れるかどうか、最終責任はあなたにあります。
私は私の名において私の自己責任で判断し決定します。うかつに「ハンコは押しません」。
あなたがどこまで行けるか、どれほどの力を可能性を秘めた方か、あなたにも誰にもわかりません。
結論は死ぬときまでわかりません。
よく言われる「一生懸命願えばなんでもかなう」とかいった、空手形は申しません。
人には確かに限界があって、身長が足りなくて新弟子検査にパスしないとか、そういう「できないこと」はあります。
でも心の可能性は、深海や宇宙と同じように、まったく未知の部分が大半です。
限界がどこにあったか、証明するのは自分の人生だけです。
どうか自分に「呪い」をかけず、もし過去にかけていたら「ちゃら」にする方向で、過去など気にせず進んでください。
どうしてもやりたいのなら
「呪い」ではなく「祝福」を!
笑う人もいるでしょう。無理だと言う人もいるでしょう。私もずいぶん言われてきました。
でも自分の思う道を行くだけです。
行ってください。
誰かの思うことでなく、あなたの思う人生を。
仕事に追われ、なかなか更新ままならず;
申し訳ありません。
先日の日記おめえに費やす○○はねえ!に、たくさんのコメントをいただきありがとうございます。公開コメント以外にも、「拍手コメント」含め非公開でのコメントをいくつかいただきました。ふだんより多い量で驚いております。
この問題について、悩んでこられた方の多さ・・・と言うより、人生で一度も悩まなかった方はむしろ少数派なのではないでしょうか。
私も元来気性の激しい人間でしたもので、若いころから何度も悩んでまいりました。
先日の日記のような心境になったのは、本当にごくごく近年、40代も後半に入ってのことです。
子どものころ~若いころは、当然と言うか、許せないと思った相手に、どう思い知らせてやろうか、あんなやつはひどい目に逢えばいい、などなど、ろくでもない考えがぐるぐる心の中を駆け巡っていました。
歳が進むと、多少の分別が身につくのと体力が低下するのとがミックスして(憎むのも体力がいります)(笑)若いころほど、自分を傷つけた相手を憎むことはなくなりましたが、今度は、どっちが正しかったのか、なぜこういう対立が生まれたのか、その判定を巡ってぐるぐるしました。
相手を憎んだり、相手の不幸を願うのは自分の身上に反するし、自分のためにも人のためにもならない。でもどうしても許せない。
そうなると、アクセルを踏みながらブレーキをかけている自動車のようなもので、二つの相反する力にはさまれて、素直に憎悪していたころより、ある意味ストレスは増加します。
相手も許せない、許せないと言う自分も許せない。
ほとんど一人SMですね(笑)。
結論から言うと、一番いいのは「ゆるす」ことなんですが
そんな理屈どおりに行くなら苦労はしません。
昔から色んな賢者・聖人が、道徳や宗教を通して「ゆるしましょう」と説いています。
でも、そう言われて思うのは
なぜ。傷つけられた自分が(悪くもない自分が)、なお、この上譲歩しなければいけないのか。
相手にゆずって許さなければいけないのか。
そんな理屈に合わない話はない。
でも、本当に自分は正しいのか。相手が間違っていて自分が正義なのか。
その辺を冷静に分析判断できる人間はほとんどいないと思います。
明らかないじめや虐待、犯罪行為の被害者は別として、日常の人間関係のトラブルの大半は、それぞれの常識や解釈の食い違い、ボタンの掛け違い、ちょっとした対立が毎日少しずつ積み重なって積立貯金のように膨れ上がったあげく、ある日がまんが限界に達してのブチキレだったりします。
結局、人は自分が一番かわいいですから(私もです)自分に都合のいい証拠を都合のいい解釈で「被告人不在」の「欠席裁判」で裁いてしまって、自分に有利な「判決」を下す(憎い相手を「有罪」にする)だけです。
自分自身が誰かにそういう目に合わされて悲しい思いをした人は、これまたいっぱいおいでなのではないでしょうか。
じゃあ、せめて自分は誰かに同じことをしないでおこう。
いや、とことん冷静に分析しても相手に非があるのかもしれないけど、感情的になってる今はひとまず置こうと。
前回も書いたとおり、傷つけられた瞬間の痛みよりも、はるかに人を苦しめるのは、そのあとのエンドレスで繰り返される心の中のぐるぐるです。
人は、一回犯した過ちに対しては、一回裁かれ、一回謝罪し罪を償えばいいはずですが
多くの人が、一回犯した過ちに対して何度も何度も他人を裁き、何度も何度も痛めつけ、何度も何度も償わせようとします。そんな理不尽な話はありません。
実際の社会や生活の中でもそうですし、心の中ででもそうです。
個人レベルの問題でもそうですし、集団、国家のレベルでもあります。
ここでは物理的法的な問題ではなく、あくまで心の中での問題について書いています。
ゆるすと言うのは相手の無法を放置するとか自虐のススメではけしてありません。
心の中で相手を痛めつけるのは、その瞬間はある種のうさ晴らしにもなりますが、長い目で見ると結局自分を痛めつけることになります。
何しろ現実の相手にはダメージがないんですから、「夢」からさめるたびにフラストレーションを感じる。何度同じことをしても賽の河原、見果てぬ夢です。
難しい話はすっとばして、ちょっと視点を変えて見てみますと
誰かとの人間関係で疲れ傷ついた人に向かって
「これからあなたは毎日決められた時間、あなたを傷つけた相手のことを考えて暗い気分にならなくてはいけません。怒って憎んで悲しんで、その間はほかのことを考えたり楽しんだりしてはいけません。そうですね、とりあえず毎日○時間必ずそうしてください。できれば半年、いや最低○年は続けてもらいましょう。おいしいものを飲んだり食べたり、何か楽しいことが始まりそうなときには必ずそれを考えて、気分が悪くなるようにしてください。いいですね」
という人物が現れたらどうでしょう。
まず100人が100人、ふざけるな、冗談じゃない、何の権利があって私にそんなことを命令するんだと怒りだすでしょう。
多くの人が自分に対して行っているのは、これと同じことだと思います。
それを止められるのは自分だけです。
私は自分にふりかかるできごと、自分以外の何かを変える力はないかもしれないけれど、自分の思いは自分で変える。
私はあちらを選ばない。私はこちらを選んで生きる。
そう思うことだと思います。
人をゆるすのは素敵なことですが、ゆるせない相手は無理にゆるすことはないし、無理をすればまた、新たな怒りや悲しみが生まれます。
ゆるせない自分への怒り、自分にできないこと(「ゆるせないこと」を「ゆるさなくてはいけない」)を自分に押し付けた「人」や「教え」への怒り。罪悪感とか絶望とかetc・・・;
だからできる範囲で努力して、あとは
熟した木の実がふくらんで、自然に枝から落ちるように
ある日ゆるせるようになっていた自分に気づけばいい。
それまでは、ゆるせないことはゆるせないでほっておく。
でも、そのことに私の「思い」は使わない。
「おめえに費やす感情はねえ!」
で、ひとまずスルーしていくのも手ではないかと思います。
蛇足ですが、昔私がどうしてもハラにすえかね、ケンカ別れではないけれど、それに近い殺伐とした絶縁に至った人がいて、私は飯を食うたびにその人のことを思い出し、ムカついて仕方がありませんでした。
当然おいしさも半減です。
食事は人生の大きな楽しみの一つですから、それを奪われるのは大変な苦痛です。
仏教説話に、食べ物を食べようとするとそれが燃え上がって食べられない地獄なんてのがあったように思いますが、これってある意味それに近いなって、悲しくなっていました。
そんなことが何日も何十日も続いたある日、つまのおいしい手料理を食べていて
「ああ、うまいなあ、これをあの人といっしょに分け合って食べられたら楽しいだろうなあ」
という思いが、突然心に浮かびました。
そしたらなんだか涙がぽろぽろこぼれてきて
「ああ、自分は本当は憎んだり恨んだりしたいんじゃない。ただわかり合いたかっただけなんだ。
本当は仲良く、笑ってともに在りたいだけなんだ」
って気がつきました。
食事のことはただその象徴に過ぎず、心の底を気づかせてくれるきっかけでした。
それを境に、なんだか恨みも怒りも手放して、その人のことで思い悩むことは、風の前に置かれた灰の山のように、消えてなくなっていきました。
もしどこかで再会することがあっても、今は笑って会食できると思います(笑)。
そのことは自分が今のような考えに至る大きなきっかけにもなりました。
だから、私の思い悩んだ日々はけして無駄ではなかったし、そういう機会を与えてくれたその人にもありがとうと思っています。
これを読んでくださっておいでの皆様の、今が、きょうが豊かでありますように。
今あるすべてを十全に活かせますように。
出来る限り多くのの機会を、無駄に捨てることなく、よりよく使うことができますように。
良い追い風が吹きますように。
よしんば逆風であっても、それを斜めに帆に受けて、風上に向かって前進してゆくヨットのように、
めげすに進んでいけますように。
休むべきときには休む勇気と、進むべきときには進む勇気と
その判断ができる英知が宿りますように。
ありがとうございました。
ではではまた♪
申し訳ありません。
先日の日記おめえに費やす○○はねえ!に、たくさんのコメントをいただきありがとうございます。公開コメント以外にも、「拍手コメント」含め非公開でのコメントをいくつかいただきました。ふだんより多い量で驚いております。
この問題について、悩んでこられた方の多さ・・・と言うより、人生で一度も悩まなかった方はむしろ少数派なのではないでしょうか。
私も元来気性の激しい人間でしたもので、若いころから何度も悩んでまいりました。
先日の日記のような心境になったのは、本当にごくごく近年、40代も後半に入ってのことです。
子どものころ~若いころは、当然と言うか、許せないと思った相手に、どう思い知らせてやろうか、あんなやつはひどい目に逢えばいい、などなど、ろくでもない考えがぐるぐる心の中を駆け巡っていました。
歳が進むと、多少の分別が身につくのと体力が低下するのとがミックスして(憎むのも体力がいります)(笑)若いころほど、自分を傷つけた相手を憎むことはなくなりましたが、今度は、どっちが正しかったのか、なぜこういう対立が生まれたのか、その判定を巡ってぐるぐるしました。
相手を憎んだり、相手の不幸を願うのは自分の身上に反するし、自分のためにも人のためにもならない。でもどうしても許せない。
そうなると、アクセルを踏みながらブレーキをかけている自動車のようなもので、二つの相反する力にはさまれて、素直に憎悪していたころより、ある意味ストレスは増加します。
相手も許せない、許せないと言う自分も許せない。
ほとんど一人SMですね(笑)。
結論から言うと、一番いいのは「ゆるす」ことなんですが
そんな理屈どおりに行くなら苦労はしません。
昔から色んな賢者・聖人が、道徳や宗教を通して「ゆるしましょう」と説いています。
でも、そう言われて思うのは
なぜ。傷つけられた自分が(悪くもない自分が)、なお、この上譲歩しなければいけないのか。
相手にゆずって許さなければいけないのか。
そんな理屈に合わない話はない。
でも、本当に自分は正しいのか。相手が間違っていて自分が正義なのか。
その辺を冷静に分析判断できる人間はほとんどいないと思います。
明らかないじめや虐待、犯罪行為の被害者は別として、日常の人間関係のトラブルの大半は、それぞれの常識や解釈の食い違い、ボタンの掛け違い、ちょっとした対立が毎日少しずつ積み重なって積立貯金のように膨れ上がったあげく、ある日がまんが限界に達してのブチキレだったりします。
結局、人は自分が一番かわいいですから(私もです)自分に都合のいい証拠を都合のいい解釈で「被告人不在」の「欠席裁判」で裁いてしまって、自分に有利な「判決」を下す(憎い相手を「有罪」にする)だけです。
自分自身が誰かにそういう目に合わされて悲しい思いをした人は、これまたいっぱいおいでなのではないでしょうか。
じゃあ、せめて自分は誰かに同じことをしないでおこう。
いや、とことん冷静に分析しても相手に非があるのかもしれないけど、感情的になってる今はひとまず置こうと。
前回も書いたとおり、傷つけられた瞬間の痛みよりも、はるかに人を苦しめるのは、そのあとのエンドレスで繰り返される心の中のぐるぐるです。
人は、一回犯した過ちに対しては、一回裁かれ、一回謝罪し罪を償えばいいはずですが
多くの人が、一回犯した過ちに対して何度も何度も他人を裁き、何度も何度も痛めつけ、何度も何度も償わせようとします。そんな理不尽な話はありません。
実際の社会や生活の中でもそうですし、心の中ででもそうです。
個人レベルの問題でもそうですし、集団、国家のレベルでもあります。
ここでは物理的法的な問題ではなく、あくまで心の中での問題について書いています。
ゆるすと言うのは相手の無法を放置するとか自虐のススメではけしてありません。
心の中で相手を痛めつけるのは、その瞬間はある種のうさ晴らしにもなりますが、長い目で見ると結局自分を痛めつけることになります。
何しろ現実の相手にはダメージがないんですから、「夢」からさめるたびにフラストレーションを感じる。何度同じことをしても賽の河原、見果てぬ夢です。
難しい話はすっとばして、ちょっと視点を変えて見てみますと
誰かとの人間関係で疲れ傷ついた人に向かって
「これからあなたは毎日決められた時間、あなたを傷つけた相手のことを考えて暗い気分にならなくてはいけません。怒って憎んで悲しんで、その間はほかのことを考えたり楽しんだりしてはいけません。そうですね、とりあえず毎日○時間必ずそうしてください。できれば半年、いや最低○年は続けてもらいましょう。おいしいものを飲んだり食べたり、何か楽しいことが始まりそうなときには必ずそれを考えて、気分が悪くなるようにしてください。いいですね」
という人物が現れたらどうでしょう。
まず100人が100人、ふざけるな、冗談じゃない、何の権利があって私にそんなことを命令するんだと怒りだすでしょう。
多くの人が自分に対して行っているのは、これと同じことだと思います。
それを止められるのは自分だけです。
私は自分にふりかかるできごと、自分以外の何かを変える力はないかもしれないけれど、自分の思いは自分で変える。
私はあちらを選ばない。私はこちらを選んで生きる。
そう思うことだと思います。
人をゆるすのは素敵なことですが、ゆるせない相手は無理にゆるすことはないし、無理をすればまた、新たな怒りや悲しみが生まれます。
ゆるせない自分への怒り、自分にできないこと(「ゆるせないこと」を「ゆるさなくてはいけない」)を自分に押し付けた「人」や「教え」への怒り。罪悪感とか絶望とかetc・・・;
だからできる範囲で努力して、あとは
熟した木の実がふくらんで、自然に枝から落ちるように
ある日ゆるせるようになっていた自分に気づけばいい。
それまでは、ゆるせないことはゆるせないでほっておく。
でも、そのことに私の「思い」は使わない。
「おめえに費やす感情はねえ!」
で、ひとまずスルーしていくのも手ではないかと思います。
蛇足ですが、昔私がどうしてもハラにすえかね、ケンカ別れではないけれど、それに近い殺伐とした絶縁に至った人がいて、私は飯を食うたびにその人のことを思い出し、ムカついて仕方がありませんでした。
当然おいしさも半減です。
食事は人生の大きな楽しみの一つですから、それを奪われるのは大変な苦痛です。
仏教説話に、食べ物を食べようとするとそれが燃え上がって食べられない地獄なんてのがあったように思いますが、これってある意味それに近いなって、悲しくなっていました。
そんなことが何日も何十日も続いたある日、つまのおいしい手料理を食べていて
「ああ、うまいなあ、これをあの人といっしょに分け合って食べられたら楽しいだろうなあ」
という思いが、突然心に浮かびました。
そしたらなんだか涙がぽろぽろこぼれてきて
「ああ、自分は本当は憎んだり恨んだりしたいんじゃない。ただわかり合いたかっただけなんだ。
本当は仲良く、笑ってともに在りたいだけなんだ」
って気がつきました。
食事のことはただその象徴に過ぎず、心の底を気づかせてくれるきっかけでした。
それを境に、なんだか恨みも怒りも手放して、その人のことで思い悩むことは、風の前に置かれた灰の山のように、消えてなくなっていきました。
もしどこかで再会することがあっても、今は笑って会食できると思います(笑)。
そのことは自分が今のような考えに至る大きなきっかけにもなりました。
だから、私の思い悩んだ日々はけして無駄ではなかったし、そういう機会を与えてくれたその人にもありがとうと思っています。
これを読んでくださっておいでの皆様の、今が、きょうが豊かでありますように。
今あるすべてを十全に活かせますように。
出来る限り多くのの機会を、無駄に捨てることなく、よりよく使うことができますように。
良い追い風が吹きますように。
よしんば逆風であっても、それを斜めに帆に受けて、風上に向かって前進してゆくヨットのように、
めげすに進んでいけますように。
休むべきときには休む勇気と、進むべきときには進む勇気と
その判断ができる英知が宿りますように。
ありがとうございました。
ではではまた♪
前回、感情と意思の話で日記書きましたが
きょうブログ見てたら、知り合いの漫画家さんが仕事してたマイナーな出版社が、原稿料未払いのままトンズラ(倒産か)したみたいで
メゲてらっしゃいました(そりゃメゲるよ!)。
一か月分の生活費くらいにはなる原稿料踏み倒されたみたいで
なんとお慰めしたらよいか。
電話もFAXも通じない、ホームページも消えてる。
完全に逃げたな、と。
私も昔マイナーな出版社でそういうことされたことがあります。
そりゃハラもたちますし、悲しい悔しい、金銭的にも大変です。
でも
ここで本当に大変ですぐに変えられないのは金銭問題で、感情問題は自分の気持ちや考え方次第です。
無理して「いい子」になって、湧き上がる思いを「抑圧」すると、一時的にはいいんですが、長期的に見るとその「抑圧」した感情が身体的な変調(時には痛みや、ホルモンなんかのバランスを崩したり)を起こしたり、精神状態も悪くするので、あくまで可能な範囲で調整することが肝心なんですが
一つ言えるのは、感情も自分の貴重な資源、財産です。
うまく活かせば、建設的な行動を起こす「燃料」にもなるし、逆に翻弄されると考えもまとまらない、行動も支離滅裂、あとで後悔するはめになります。
んで
「あいつのこと赦せない」
とか
「がまんできない」
と思うのは仕方ないとして、その感情が暴走してどうにも止まらなくなり、次の手を考える余裕が無いとか、何も手がつかない状態になられた方に、山本流アドバイス(珍しくセッキョじみたこと書きますが、けしてセッキョじゃなく、実体験からの提案ですので、お許しください)。
その人物がどうしようもなくひどい人だったとして、すでにあなたは十分「被害」を受けていられるわけですよね。
で、その人物のために心が捉われて、大切な「今」を失い、食いつぶされるというのは、実際に発生した被害以降も、新たな被害が拡大再生産されている状態です。
それはもったいないし、悲劇です。
これを止められるのは、自分だけ。
そのひどい人物のために、何かを(もっぱらネガティブな感情になるわけですが)思い続け、ほかのことが出来ないというのは、言って見れば自分の時間と財産をそのひどい人物のために捧げているのと同じことです。
いったいなんのために、そんな人の奴隷になる必要があるのでしょうか。
もうあなたは十分に、そいつのために貴重な時間と労力を奪われてきたはず。
でも、あんなやつは赦せない
なら、無理に赦す必要はありません。
ただ、そんな人物のために、自分の貴重な時間も感情ももう一ミリだって一グラムだって差し出すものかという断固たる決意があればいいだけです。
自分は自分の感情も思考も、よりよい未来と幸せのためにだけ使う。
そんなやつのためにはもう何も差し出さない。
そう思うのも手です。
昔
「おめえに食わせる○○はねえ!」
ってフレーズがはやりましたが
「おめえに費やす感情はねえ!」
そう思ってみられてはいかがでしょうか。
私は自分と自分の愛する人と、大切な未来や幸せのために、大切な感情はとっておくのだ、と。
自分の心も感情も、かけがえのない大切なものだから、くだらないものために浪費するような余分はないと。
苦労して稼いだお金は血の一滴に等しいと言いますが、感情もまた血の一滴です。どうか大切に使ってください。
というわけで
誰かにムカついてそれがぐるぐるして困ったら
「おめえに費やす感情はねえ!」
山本の提案でございます;失礼しました~~;
追記
そういえば、私の友人のお坊さんで、どうしてもハラたったときは、無理せず怒るという方がおいでです。
時間を区切ってその間だけフルスイングで素直に怒る。
んで
「うーん、きょうは気持ちよく怒ったぞ~~!」
って、気持ちを切り替えて仕事にかかるという。
そういうのもまたありですねー♪
きょうブログ見てたら、知り合いの漫画家さんが仕事してたマイナーな出版社が、原稿料未払いのままトンズラ(倒産か)したみたいで
メゲてらっしゃいました(そりゃメゲるよ!)。
一か月分の生活費くらいにはなる原稿料踏み倒されたみたいで
なんとお慰めしたらよいか。
電話もFAXも通じない、ホームページも消えてる。
完全に逃げたな、と。
私も昔マイナーな出版社でそういうことされたことがあります。
そりゃハラもたちますし、悲しい悔しい、金銭的にも大変です。
でも
ここで本当に大変ですぐに変えられないのは金銭問題で、感情問題は自分の気持ちや考え方次第です。
無理して「いい子」になって、湧き上がる思いを「抑圧」すると、一時的にはいいんですが、長期的に見るとその「抑圧」した感情が身体的な変調(時には痛みや、ホルモンなんかのバランスを崩したり)を起こしたり、精神状態も悪くするので、あくまで可能な範囲で調整することが肝心なんですが
一つ言えるのは、感情も自分の貴重な資源、財産です。
うまく活かせば、建設的な行動を起こす「燃料」にもなるし、逆に翻弄されると考えもまとまらない、行動も支離滅裂、あとで後悔するはめになります。
んで
「あいつのこと赦せない」
とか
「がまんできない」
と思うのは仕方ないとして、その感情が暴走してどうにも止まらなくなり、次の手を考える余裕が無いとか、何も手がつかない状態になられた方に、山本流アドバイス(珍しくセッキョじみたこと書きますが、けしてセッキョじゃなく、実体験からの提案ですので、お許しください)。
その人物がどうしようもなくひどい人だったとして、すでにあなたは十分「被害」を受けていられるわけですよね。
で、その人物のために心が捉われて、大切な「今」を失い、食いつぶされるというのは、実際に発生した被害以降も、新たな被害が拡大再生産されている状態です。
それはもったいないし、悲劇です。
これを止められるのは、自分だけ。
そのひどい人物のために、何かを(もっぱらネガティブな感情になるわけですが)思い続け、ほかのことが出来ないというのは、言って見れば自分の時間と財産をそのひどい人物のために捧げているのと同じことです。
いったいなんのために、そんな人の奴隷になる必要があるのでしょうか。
もうあなたは十分に、そいつのために貴重な時間と労力を奪われてきたはず。
でも、あんなやつは赦せない
なら、無理に赦す必要はありません。
ただ、そんな人物のために、自分の貴重な時間も感情ももう一ミリだって一グラムだって差し出すものかという断固たる決意があればいいだけです。
自分は自分の感情も思考も、よりよい未来と幸せのためにだけ使う。
そんなやつのためにはもう何も差し出さない。
そう思うのも手です。
昔
「おめえに食わせる○○はねえ!」
ってフレーズがはやりましたが
「おめえに費やす感情はねえ!」
そう思ってみられてはいかがでしょうか。
私は自分と自分の愛する人と、大切な未来や幸せのために、大切な感情はとっておくのだ、と。
自分の心も感情も、かけがえのない大切なものだから、くだらないものために浪費するような余分はないと。
苦労して稼いだお金は血の一滴に等しいと言いますが、感情もまた血の一滴です。どうか大切に使ってください。
というわけで
誰かにムカついてそれがぐるぐるして困ったら
「おめえに費やす感情はねえ!」
山本の提案でございます;失礼しました~~;
追記
そういえば、私の友人のお坊さんで、どうしてもハラたったときは、無理せず怒るという方がおいでです。
時間を区切ってその間だけフルスイングで素直に怒る。
んで
「うーん、きょうは気持ちよく怒ったぞ~~!」
って、気持ちを切り替えて仕事にかかるという。
そういうのもまたありですねー♪
ネットの記事で見つけた話ですが
やる気のホルモンTRH
記事の信憑性は私の専門分野ではないので判定できませんが、自分の人生での経験(もっぱら仕事であるマンガ執筆)と照らし合わせて少し書きます。
「やる気ホルモン」というのは「TRH(甲状腺刺激放出ホルモン)」のことだそうです。
「分泌されると集中力を増し、次の仕事へとつなげていくはたらきがあるとされる」
とか。ふーん。
ところが
「難点はTRHがとても感情的なホルモンだということ」だそうで。
「TRHが分泌されるのは、好きなこと・興味があることに対してか、実行することによって好ましい報酬(栄誉、お金、快感など)が得られることがわかっているときなのだ。あとは、ひとつのことを実行しはじめて集中力が高まっていかない限り、分泌されない。
つまり、TRHのサポートを受けるには、目の前にある実行しなければならないことを好きになってしまうか、それによって報酬を得られるようにするか、はたまた何も考えずにはじめてしまうかの3つにひとつの選択しかないのだ」
ですとー!
きょうはナイスな女体が描けるぐへへへへへ、って日は執筆前からやる気まんまんですが。
それにしても、そういうものがない場合、記事の言うところの三番目の「まず始め」ないとどうにもならんというのは、そのとおりだと思います。
んで、そのとにかく始めるしかない日は、やる気があろうがあるまいが乗ろうが乗るまいがとにかく始めてきたわけで、だから何十年も締め切り守って(虫垂炎で落としたこととか稀にありますが)きたわけで
これは「感情」とは関係ないんです。
無論「落として仕事を失う恐怖」
なども最初はあったですが、もはや、そういう喜怒哀楽とは無関係に、必要なことを必要なときにする。それは感情ではなく「意思」に属するものです。
そう言えば私が18歳のとき小池一夫先生の劇画村塾に入塾した際、最初に師匠から言われたことの一つが、プロのマンガ家になるためには
「一日何時間か(最低一時間だったかもしれません。30年以上昔で記憶定かならず)必ず机の前に坐ることができるようになること」
でしたが、そんなことは自分にとっては当たり前のことで、プロ野球選手を目指すのにキャッチボールができること、とか言うのと同じくらいデフォルトのものでしたが、今思えば貴重なアドバイスだったなあと(笑)。
最近見たディスカバリーチャンネルの番組で、ある科学者が
「幸福とは感情をコントロールできることだ」
と言っていましたが、これまた同感で
私は近年、喜怒哀楽は自己の行動を決定する補助的な要素とみなしています。
悲しみや怒りも、自分の本心を示す一種の警報のようなもので、火災報知器が鳴ったら、現場にかけつけて消火する間中鳴り響かせておく必要が無いのでOFFする(住人を非難させる必要があれば別ですが)ように、無用な感情はOFFして必要なことをする。
それが「抑圧」になって新たな病理を発生させるようなら、あえて抑圧はしませんが、そうでない場合、無用なものは切る。
少なくとも感情に自己の行動の最終決定権は渡さないようにしています。
その回路を自己に築き上げてきたからこそ、何年か前「うつ」で通院中も一度も落とさずに仕事をしてこれたのだと思います。
やる気が起きない(気分が出ない」ので、動けないという方の中には、無論重篤で本当に行動不能な方もおいででしょうが、何割かの方は、その感情と別の回路で行動することができるのをご存じないか認めたくない方が確実に混じっておいでなように思います。
ほかのテーマともかぶってくる話なんですが
人から攻撃されて、反撃する勇気のない人は、まず怒りブチキレでもなんでもして(感情を燃料にして)対抗する方法を学ぶ必要があるでしょうが、それはあくまで通過点であって、武術の達人は、たとえば私が突然襲いかかっても、そんなことで激怒したりブチキレる必要はなく、ただ人が目の前の蚊を叩くように、感情とは無関係に必要なことをただ行って私を叩きのめすと思います。
つまり意思を発生させ、行動するのに、いちいち感情の助けはいらないということです。
てなわけで毎度くりかえしのテーマになりますが
人は感情の奴隷ではなく
感情の主人であった方が、生き易い。
感情は「私」に仕える召使いの一人に過ぎず、私=感情ではないし、私という存在は、感情や思考の総和を超えたもっと大きなものです。
感情が傷ついたからといって、自己の全存在が否定されたように錯覚して感情的になっておいでの方がいられますが、それは勘違いだから大丈夫だから、あなたの本質には傷一つつかない、大海の表面に浮かぶ波の一つが砕けたようなものだから、ということを、どううまく伝えて慰めたらいいか、よく悩むことがあります;
やる気のホルモンTRH
記事の信憑性は私の専門分野ではないので判定できませんが、自分の人生での経験(もっぱら仕事であるマンガ執筆)と照らし合わせて少し書きます。
「やる気ホルモン」というのは「TRH(甲状腺刺激放出ホルモン)」のことだそうです。
「分泌されると集中力を増し、次の仕事へとつなげていくはたらきがあるとされる」
とか。ふーん。
ところが
「難点はTRHがとても感情的なホルモンだということ」だそうで。
「TRHが分泌されるのは、好きなこと・興味があることに対してか、実行することによって好ましい報酬(栄誉、お金、快感など)が得られることがわかっているときなのだ。あとは、ひとつのことを実行しはじめて集中力が高まっていかない限り、分泌されない。
つまり、TRHのサポートを受けるには、目の前にある実行しなければならないことを好きになってしまうか、それによって報酬を得られるようにするか、はたまた何も考えずにはじめてしまうかの3つにひとつの選択しかないのだ」
ですとー!
きょうはナイスな女体が描けるぐへへへへへ、って日は執筆前からやる気まんまんですが。
それにしても、そういうものがない場合、記事の言うところの三番目の「まず始め」ないとどうにもならんというのは、そのとおりだと思います。
んで、そのとにかく始めるしかない日は、やる気があろうがあるまいが乗ろうが乗るまいがとにかく始めてきたわけで、だから何十年も締め切り守って(虫垂炎で落としたこととか稀にありますが)きたわけで
これは「感情」とは関係ないんです。
無論「落として仕事を失う恐怖」
なども最初はあったですが、もはや、そういう喜怒哀楽とは無関係に、必要なことを必要なときにする。それは感情ではなく「意思」に属するものです。
そう言えば私が18歳のとき小池一夫先生の劇画村塾に入塾した際、最初に師匠から言われたことの一つが、プロのマンガ家になるためには
「一日何時間か(最低一時間だったかもしれません。30年以上昔で記憶定かならず)必ず机の前に坐ることができるようになること」
でしたが、そんなことは自分にとっては当たり前のことで、プロ野球選手を目指すのにキャッチボールができること、とか言うのと同じくらいデフォルトのものでしたが、今思えば貴重なアドバイスだったなあと(笑)。
最近見たディスカバリーチャンネルの番組で、ある科学者が
「幸福とは感情をコントロールできることだ」
と言っていましたが、これまた同感で
私は近年、喜怒哀楽は自己の行動を決定する補助的な要素とみなしています。
悲しみや怒りも、自分の本心を示す一種の警報のようなもので、火災報知器が鳴ったら、現場にかけつけて消火する間中鳴り響かせておく必要が無いのでOFFする(住人を非難させる必要があれば別ですが)ように、無用な感情はOFFして必要なことをする。
それが「抑圧」になって新たな病理を発生させるようなら、あえて抑圧はしませんが、そうでない場合、無用なものは切る。
少なくとも感情に自己の行動の最終決定権は渡さないようにしています。
その回路を自己に築き上げてきたからこそ、何年か前「うつ」で通院中も一度も落とさずに仕事をしてこれたのだと思います。
やる気が起きない(気分が出ない」ので、動けないという方の中には、無論重篤で本当に行動不能な方もおいででしょうが、何割かの方は、その感情と別の回路で行動することができるのをご存じないか認めたくない方が確実に混じっておいでなように思います。
ほかのテーマともかぶってくる話なんですが
人から攻撃されて、反撃する勇気のない人は、まず怒りブチキレでもなんでもして(感情を燃料にして)対抗する方法を学ぶ必要があるでしょうが、それはあくまで通過点であって、武術の達人は、たとえば私が突然襲いかかっても、そんなことで激怒したりブチキレる必要はなく、ただ人が目の前の蚊を叩くように、感情とは無関係に必要なことをただ行って私を叩きのめすと思います。
つまり意思を発生させ、行動するのに、いちいち感情の助けはいらないということです。
てなわけで毎度くりかえしのテーマになりますが
人は感情の奴隷ではなく
感情の主人であった方が、生き易い。
感情は「私」に仕える召使いの一人に過ぎず、私=感情ではないし、私という存在は、感情や思考の総和を超えたもっと大きなものです。
感情が傷ついたからといって、自己の全存在が否定されたように錯覚して感情的になっておいでの方がいられますが、それは勘違いだから大丈夫だから、あなたの本質には傷一つつかない、大海の表面に浮かぶ波の一つが砕けたようなものだから、ということを、どううまく伝えて慰めたらいいか、よく悩むことがあります;
先日の日記「誇りは徳ではありません」→「前個」と「超個」についてで、少しずつ補足記事をアップさせていただきますと書きました「前個」と「超個」のお話です。
とにかく、モノがわからなくて「個」が確立されていない(区別がつかない)のか、わきまえた上で「個」を「超えて」いるのかを判別することが重要で
唐突ですが私は山口県人ですけれど、故郷の有名人に、幕末の久坂玄瑞(くさかげんずい)という人がいます。
この人のことばに、
「失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても、大儀なれば苦しからず」
というのがあります。
日本の国の行く末のためであるなら、あなたの藩(土佐)が滅ぼうが、私の藩(長州)が滅ぼうが、いっこうにかまわない、という意味です。
これは無論、自分の利益や欲望のために国を売ろうという意味ではなく、己の命など日本のためには投げ出すし、自分の藩もあなたの藩もどうなろうと気にしないという、ハラをくくった決意の表明なのですが
ジェットに乗ればあっと言う間に地球を回れる現代と異なり、自分の国といえば自分の藩という意識が濃かった当時の日本を考えれば、このセリフは、例えて言うなら現代において、地球のためなら日本だろうがアメリカだろうが中国だろうがなんだろうが、どうなろうとかまわんと言ってるようなものです。
今から見れば、日本が西欧列強の食い物にされ分裂、植民地化の危機さえあった当時、玄瑞の言葉はしごく当然なもののように思われますが、あの時代の伝統を重んじる一部の人々からすれば、とんだ危険思想のテロリスト、裏切り者の売国奴と思われたかもしれません。(まあ幕末の志士は多かれ少なかれ反体制のテロリストとも言えますが)(笑)。
ただ、きちんとした己という個を確立する以前の段階にしか至っていなくて、めちゃくちゃを言ってるだけなのか、個は確立した上で、それを超えた話をしてるかで、内容は大きく異なるわけでして
その感覚について、百年以上昔、インドの覚者のスワミ・ヴィヴェーカーナンダという人がこんなおもしろいことを言っています。
少し長いですが、興味深いので引用します。
「国(インド)にいたとき、私はある非常に愚鈍な男にあいました。彼は何も知らず、知ろうともせず、獣のような生活をしている、ということを私はすでに知っていたのでした。彼が私に、神を知るにはどうしたらよいか、どうしたら解脱できるのか、と尋ねました。「あなたはうそをつくことができるか」と私は尋ねました。「いいえ」と彼は答えました。そこで私は言ったのです、「ではまずそれを学ばなければいけない。獣か丸太のようでいるよりは、うそをつく方がましである。あなたは無活動だ。しかし決してすべての活動を超越した、静かで穏やかな最高の境地に達しているわけではない。悪いこともできないほど、怠けものなのだ」と。これは極端なケースであって、私は彼をからかったにすぎません。しかし私が言おうとしたのは、人は活動を通り越して完全な静寂の境地に至るには、活動的でなければならないということでした。」
(『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』スワミ・ヴィヴィエカーナーンダ/日本ヴェーダーンタ協会 より)
大変味わい深い話だと思います。
ヴィヴィエカーナーンダは、いわゆる無抵抗、非暴力の理想についても触れていて(この問題は、昔から多くの論争の種になってきました。理想か机上の空論かなどなど)こんなことを言っています。
「ブッダは王位をすてて彼の地位を放棄しました。それは真の放棄でした。しかし、すてるべき何物も持たない乞食の場合には、放棄の問題は起こりようがありません。ですから、この無抵抗と理想的愛について語る場合は常に、われわれはその真の意味を注意深く考えなければなりません」
要するに抵抗するだけの力を持ちながら、それを使わず、愛の行為を行っているのか、ヘタレの臆病者で何もできないだけなのに、それを愛の行為だと言いつくろっているのか、きちんと区別しないといけないと彼は言います。
「カルマ・ヨギ(「労働を通して理想の道を歩む人」の意味/山本・注)は、最高の理想は無抵抗である、ということを理解している人です。そしてまた、この無抵抗は実際に持っている力の最高の表現である、ということを、そしてまた、悪への抵抗というのは、この最高の力の表現、すなわち無抵抗へ向かう道の、一段階に過ぎないのだ、ということを知っている人です。
この最高理想に到達する前には、人の義務は悪に抵抗することです。彼をして働かしめよ、敢然として行かしめよ。そうして初めて、彼が抵抗するだけの力を獲得したとき、無抵抗は一つの徳になるでありましょう」
つまりヴィヴェカーナーンダは、人にはそれぞれの発達成長の段階に応じた義務と理想があるのである、と。これは彼のバックボーンであったヒンズー教の中にある思想でもあるのですが
例えて言うと、非暴力に殉じたガンジーと、正義のために戦って死んだ勇者はどちらが正しかったか、どちらが悪か、いずれが賢者でいずれが愚か者であったかというような不毛な論争を取らず
それぞれに歩むべき道を歩んだのだと。
みなさんも、それぞれの選んだ道で、すべきことをなさいと言っているわけです。
前にも引用したときお断りしましたが、彼はすでに一世紀も昔の人であり、今読むと現代の感覚では共感できかねる内容(自分の両親に対してはらう礼儀の内容とか)もあるのですが、私は別に彼の信者でもありませんし、そういうことはスルーして、
自分の共感できること、心中思い続けてきたことを明快に言葉にしてくれているところなどを
見繕ってアップしています。
「「誰々を憎むな、悪にさからうな」と言うのは大変にやさしいが、実際にはその種の事柄が何を意味するか、われわれは知っています。社会の目が自分に向けらているときには、無抵抗のふりをするかも知れません。しかし常に心中は痛烈な悩みです。われわれは無抵抗の静けさなどはまったく感じません。抵抗する方がまだましだと感じるでしょう。もし富を欲していても、同時に、富をめざす人を世間は非常に悪い男とみなす、と知っているなら、あなたはおそらく富の獲得に身をささげるようなことはしないでしょう。それでも、あなたの心は昼夜、金の後を追いかけているでしょう。これは偽善であって、何のためにもなりません。世間にとびこみなさい。そして、時がたち、そこにあるものすべてを苦しみ、また楽しみつくしたとき、真の放棄がやって来るでしょう。そのとき、静寂がやってくるでしょう。ですから、力およびその他一切のものに対するあなたの願望を、満足させなさい。願望が満たされたら、それらはほんとうにつまらないものである、と知るときが来るでしょう。」
「各人が、彼みずからの理想をとり上げて、それを成就するよう努力すべきです。これが成功の見込みのない他の人びとの理想をとり上げるよりも確実な進歩の道です」
もっとも
世界中の「願望」の充足をはかっていては、地球が幾つあっても(人類が住める環境という意味で)足りないでしょうから
2、3回やけどすれば、煮えたお湯はさました方がいいと学んでもいいとは思うし、あえて飲もうという人には忠告してもいいと私は思います(笑)。
しかし可能な限り、人それぞれが納得のいく試行錯誤を行っていくことが理想だと思います。
前個→個→超個の道も
どんな道も
私がもっとも尊敬する覚者(イエスや釈迦は別として、現代あるいはそれに近い時代の人で)に
インドのラマナ・マハルシという人がいます。彼もまた、こんなことを言っていました。
「まだ成熟しないうちに放棄する人は、ただ新たな束縛を作りだしてしまうだけだ」
(『ラマナ・マハルシの伝記』アーサー・オズボーン著/福間巌・訳/ナチュラル・スピリット)より
「われわれの務めは、誰もが彼自身の理想に従って生きるように人々を励まし、同時にその理想を真理に近いものにするよう、努力することです」
というスワミ・ヴィヴェカーナーンダの言葉に、私は賛成です。
もっとも「真理」という言葉も、使い方しだいでは戦争の種にもなり、危ないカルトの名称にさえ使われる世の中ですから、
私は
「神が真理であるというよりも、真理が神である」
と言ったガンジーのスタイルに習いたいと思っています。
とにかく、モノがわからなくて「個」が確立されていない(区別がつかない)のか、わきまえた上で「個」を「超えて」いるのかを判別することが重要で
唐突ですが私は山口県人ですけれど、故郷の有名人に、幕末の久坂玄瑞(くさかげんずい)という人がいます。
この人のことばに、
「失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても、大儀なれば苦しからず」
というのがあります。
日本の国の行く末のためであるなら、あなたの藩(土佐)が滅ぼうが、私の藩(長州)が滅ぼうが、いっこうにかまわない、という意味です。
これは無論、自分の利益や欲望のために国を売ろうという意味ではなく、己の命など日本のためには投げ出すし、自分の藩もあなたの藩もどうなろうと気にしないという、ハラをくくった決意の表明なのですが
ジェットに乗ればあっと言う間に地球を回れる現代と異なり、自分の国といえば自分の藩という意識が濃かった当時の日本を考えれば、このセリフは、例えて言うなら現代において、地球のためなら日本だろうがアメリカだろうが中国だろうがなんだろうが、どうなろうとかまわんと言ってるようなものです。
今から見れば、日本が西欧列強の食い物にされ分裂、植民地化の危機さえあった当時、玄瑞の言葉はしごく当然なもののように思われますが、あの時代の伝統を重んじる一部の人々からすれば、とんだ危険思想のテロリスト、裏切り者の売国奴と思われたかもしれません。(まあ幕末の志士は多かれ少なかれ反体制のテロリストとも言えますが)(笑)。
ただ、きちんとした己という個を確立する以前の段階にしか至っていなくて、めちゃくちゃを言ってるだけなのか、個は確立した上で、それを超えた話をしてるかで、内容は大きく異なるわけでして
その感覚について、百年以上昔、インドの覚者のスワミ・ヴィヴェーカーナンダという人がこんなおもしろいことを言っています。
少し長いですが、興味深いので引用します。
「国(インド)にいたとき、私はある非常に愚鈍な男にあいました。彼は何も知らず、知ろうともせず、獣のような生活をしている、ということを私はすでに知っていたのでした。彼が私に、神を知るにはどうしたらよいか、どうしたら解脱できるのか、と尋ねました。「あなたはうそをつくことができるか」と私は尋ねました。「いいえ」と彼は答えました。そこで私は言ったのです、「ではまずそれを学ばなければいけない。獣か丸太のようでいるよりは、うそをつく方がましである。あなたは無活動だ。しかし決してすべての活動を超越した、静かで穏やかな最高の境地に達しているわけではない。悪いこともできないほど、怠けものなのだ」と。これは極端なケースであって、私は彼をからかったにすぎません。しかし私が言おうとしたのは、人は活動を通り越して完全な静寂の境地に至るには、活動的でなければならないということでした。」
(『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』スワミ・ヴィヴィエカーナーンダ/日本ヴェーダーンタ協会 より)
大変味わい深い話だと思います。
ヴィヴィエカーナーンダは、いわゆる無抵抗、非暴力の理想についても触れていて(この問題は、昔から多くの論争の種になってきました。理想か机上の空論かなどなど)こんなことを言っています。
「ブッダは王位をすてて彼の地位を放棄しました。それは真の放棄でした。しかし、すてるべき何物も持たない乞食の場合には、放棄の問題は起こりようがありません。ですから、この無抵抗と理想的愛について語る場合は常に、われわれはその真の意味を注意深く考えなければなりません」
要するに抵抗するだけの力を持ちながら、それを使わず、愛の行為を行っているのか、ヘタレの臆病者で何もできないだけなのに、それを愛の行為だと言いつくろっているのか、きちんと区別しないといけないと彼は言います。
「カルマ・ヨギ(「労働を通して理想の道を歩む人」の意味/山本・注)は、最高の理想は無抵抗である、ということを理解している人です。そしてまた、この無抵抗は実際に持っている力の最高の表現である、ということを、そしてまた、悪への抵抗というのは、この最高の力の表現、すなわち無抵抗へ向かう道の、一段階に過ぎないのだ、ということを知っている人です。
この最高理想に到達する前には、人の義務は悪に抵抗することです。彼をして働かしめよ、敢然として行かしめよ。そうして初めて、彼が抵抗するだけの力を獲得したとき、無抵抗は一つの徳になるでありましょう」
つまりヴィヴェカーナーンダは、人にはそれぞれの発達成長の段階に応じた義務と理想があるのである、と。これは彼のバックボーンであったヒンズー教の中にある思想でもあるのですが
例えて言うと、非暴力に殉じたガンジーと、正義のために戦って死んだ勇者はどちらが正しかったか、どちらが悪か、いずれが賢者でいずれが愚か者であったかというような不毛な論争を取らず
それぞれに歩むべき道を歩んだのだと。
みなさんも、それぞれの選んだ道で、すべきことをなさいと言っているわけです。
前にも引用したときお断りしましたが、彼はすでに一世紀も昔の人であり、今読むと現代の感覚では共感できかねる内容(自分の両親に対してはらう礼儀の内容とか)もあるのですが、私は別に彼の信者でもありませんし、そういうことはスルーして、
自分の共感できること、心中思い続けてきたことを明快に言葉にしてくれているところなどを
見繕ってアップしています。
「「誰々を憎むな、悪にさからうな」と言うのは大変にやさしいが、実際にはその種の事柄が何を意味するか、われわれは知っています。社会の目が自分に向けらているときには、無抵抗のふりをするかも知れません。しかし常に心中は痛烈な悩みです。われわれは無抵抗の静けさなどはまったく感じません。抵抗する方がまだましだと感じるでしょう。もし富を欲していても、同時に、富をめざす人を世間は非常に悪い男とみなす、と知っているなら、あなたはおそらく富の獲得に身をささげるようなことはしないでしょう。それでも、あなたの心は昼夜、金の後を追いかけているでしょう。これは偽善であって、何のためにもなりません。世間にとびこみなさい。そして、時がたち、そこにあるものすべてを苦しみ、また楽しみつくしたとき、真の放棄がやって来るでしょう。そのとき、静寂がやってくるでしょう。ですから、力およびその他一切のものに対するあなたの願望を、満足させなさい。願望が満たされたら、それらはほんとうにつまらないものである、と知るときが来るでしょう。」
「各人が、彼みずからの理想をとり上げて、それを成就するよう努力すべきです。これが成功の見込みのない他の人びとの理想をとり上げるよりも確実な進歩の道です」
もっとも
世界中の「願望」の充足をはかっていては、地球が幾つあっても(人類が住める環境という意味で)足りないでしょうから
2、3回やけどすれば、煮えたお湯はさました方がいいと学んでもいいとは思うし、あえて飲もうという人には忠告してもいいと私は思います(笑)。
しかし可能な限り、人それぞれが納得のいく試行錯誤を行っていくことが理想だと思います。
前個→個→超個の道も
どんな道も
私がもっとも尊敬する覚者(イエスや釈迦は別として、現代あるいはそれに近い時代の人で)に
インドのラマナ・マハルシという人がいます。彼もまた、こんなことを言っていました。
「まだ成熟しないうちに放棄する人は、ただ新たな束縛を作りだしてしまうだけだ」
(『ラマナ・マハルシの伝記』アーサー・オズボーン著/福間巌・訳/ナチュラル・スピリット)より
「われわれの務めは、誰もが彼自身の理想に従って生きるように人々を励まし、同時にその理想を真理に近いものにするよう、努力することです」
というスワミ・ヴィヴェカーナーンダの言葉に、私は賛成です。
もっとも「真理」という言葉も、使い方しだいでは戦争の種にもなり、危ないカルトの名称にさえ使われる世の中ですから、
私は
「神が真理であるというよりも、真理が神である」
と言ったガンジーのスタイルに習いたいと思っています。
小林まこと先生の自伝的回想録で、久々に少年マガジンに連載された作品です。
先日知り合いの方の日記で知りました。
さっき書店で見たら、最終話の掲載された号のマガジンがまだありました。
1978年というと今からちょうど30年前、私もデビューした年で、思えば漫画家としては同世代と言ってもいいのかもしれません(歩んだ道や立ち居地は天地の差がありますが)(笑)。
私が読んだのはまだ最終回だけなので、現時点での論評は差し控えますが、読まれた方のお話では、あの時代を駆け抜けた漫画家たちのほろ苦い苦闘記になっているもようです。
大和田夏稀先生、小野新二先生が亡くなっていられたとは存じませんでした。
謹んで哀悼の意をささげます。
ページの横の読者投稿メッセージに
「漫画家とは大変な仕事なのだなあ、と思いました」
などという十代の方のコメントが載っていて、思わず微笑んでしまいました。
12月17日(水)に単行本化の予定らしいので、出たら買おうと思います。
先日知り合いの方の日記で知りました。
さっき書店で見たら、最終話の掲載された号のマガジンがまだありました。
1978年というと今からちょうど30年前、私もデビューした年で、思えば漫画家としては同世代と言ってもいいのかもしれません(歩んだ道や立ち居地は天地の差がありますが)(笑)。
私が読んだのはまだ最終回だけなので、現時点での論評は差し控えますが、読まれた方のお話では、あの時代を駆け抜けた漫画家たちのほろ苦い苦闘記になっているもようです。
大和田夏稀先生、小野新二先生が亡くなっていられたとは存じませんでした。
謹んで哀悼の意をささげます。
ページの横の読者投稿メッセージに
「漫画家とは大変な仕事なのだなあ、と思いました」
などという十代の方のコメントが載っていて、思わず微笑んでしまいました。
12月17日(水)に単行本化の予定らしいので、出たら買おうと思います。
昔友人の漫画家さんから聞いた言葉ですが
その人が好きでやっていたゲーム。なんというタイトルだったか忘れました。
色々な「徳」を集めて世界を回るシナリオだったか、ある街に行くと
「あなたは『誇り』がありますか」
と問われ
「はい」
と答えると
「誇りは徳ではありません」
と言われる。
なかなか至言だと思ったものですが、それから十年以上いやもしかして二十年近く?も生きてきて
そのセリフの意味するところに、しみじみ笑みがこぼれます。
今回も、少々長い話になります。
お暇な方はお読みください。
いきなり結論から申しますが
「誇り」や「プライド」を抱きしめている人とは、真実を語り合うことは難しいです。
なんでも心置きなくハラを割って語り合えるのは、己のプライドを捨てた人だけです。
これは、ともすると誤解を招く表現で、いささか解説が必要なのですが
よく卑劣な犯罪者や、無責任きわまりない人物に対して言われる
「あなたに人間としての誇りはないのか」「プライドはないのか」
という段階の、誇りやプライドの有無を言っているのではありません。
そういう段階は通り過ぎた、つまり他者への思いやりや責任感はわきまえた人が、次に進む段階の話です。
トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーが用いる分類に、「前個」「超個」というのがあります。
とりわけ形而上的な問題を語る場合、この問題は避けて通れないことだと私も思うのですが、
たとえば荒っぽい例で言いますと、
幼児や反社会的な人格の人間が、自分のものも人のものも区別がつかず、平気で人の品物に手を出す、というのと
分別は十分にわきまえた人格者が、自他の区別をつけず、人の苦しみも自分の苦しみと同様に考えて、困っている人に自分の財産を見返りを求めず分け与える、ということは
言うまでも無くまったく別のことなわけですが
自他の区別が無い、という一点にのみフォーカスして、これをいっしょくたに狂気や愚かさとしてしまう論法が、世の中にはよくあります。
「ミソもクソもいっしょ」というやつですが
人は他人を非難攻撃する際、よくこの混同をする、と言うか、意図的に相手を低いレベルに「分別」してあざ笑ったり侮辱したりします。
ウィルバーの言い方で言うなら
自分のものと人のもの区別がつかないで犯罪的行為に及ぶ人はきちんとした「個」を確立する以前の「前個」段階であり
分別をわきまえた上で慈悲の心から自他の区別無く尽くす人は「個」を超えた「超個」の段階にあるわけです。
その間に無論、その過渡期に当たる「個」の段階もあるわけです。
私は特にウィルバーのファンというわけではなく、と言うより、彼の学説すべてに共感するわけではないのですが、彼のこの視点は、多くの問題を語るに有益なものだと思っています(彼の「前」「超」の区別にもいささか異論もあるのですが、今回は置きます)。
今回、触れた「誇り」「プライド」も、同様に私は思っています。
一般に「プライドがない」というのはネガティブな意味で使われることが多く、人として最低限の気構えが無いとか、覇気が無い、ヘタレなどと同じ意味で、使われることが多いように思うのですが
確かにそういう人もいますが、似て非なる人もいる。
ポジティブな意味で、もはや己のプライドなどというものは捨て去った人。
「なにがあろうと、自分は人間としてのプライドは捨てたくない」
というと、逆境にあっても己を見失わない立派な人の決意表明として見られることがありますが、それはある視点ではその通りですが、もう一つ上の視点に立てば、無用なものとも思われるのです。
人は自分を律するのに、いつまでも誇りやプライドに依存する必要はありません。
自分のメンツや自分の属する集団のメンツなどとは無関係に、ただ自然体でなすべきことをなす、もっともベストと思われることにベストを尽くす。
そういう境地もありますし、またそれさえも、自己の進化向上の段階の一つに過ぎないのかもしれません。
人として、まっとうな自我の確立もできない(最低限の誇りもプライドもない)段階にあることが、人格の成長の一段階に過ぎないように
そして、そういう段階を脱して、いわゆる「人としての誇り」「矜持」を持って、己を律して生きる(道を踏み外しそうになると、その誇り、プライドを手がかりに踏みとどまる)ようになった状態も、また、人が歩む成長の一段階にすぎないし
一つの通過点に過ぎないのではないかと思うものです。
プライドにすがっているということは、まだ「オレが」や「オレたちが(家族、集団、国家など)」という、偏狭なエゴがある証拠であって、言うなれば「我欲」なわけです。
オレのプライド、などというものを握り締めている限り(って、、これは机上の空論ではなく、己の人生を振り返って、実体験として思うのですが)人は、冷静にものを見たり判断したりすることが難しい。
その人のプライドが傷つかない問題では、知的であったり思いやり深かったりできるのですが、こと問題がプライドに関わると、とたんに反射的に心と思考が防衛体勢をとり、それはすぐに他者への(ぶっちゃけ、自分のプライドを傷つけた相手への)攻撃行動に移ることになります。
わかりやすい例としては、偏狭な民族主義に凝り固まっている国の人々と、二つの国にまたがる領土問題について、冷静な対話が成立しないというものがあります(おそらく、この記事をお読みの方も、ニュースなどでイヤと言うほど眼にしてこられたと思います)。
民族の誇りを汚された→悪→敵→攻撃、そして自分たちは正義で善である→なんの反省も再点検の必要も無い、という、ほとんど自動装置のような閉じた反応に陥って、そこから抜け出ることができません。
これは、国家間の対立というような大きな問題から、日常のささいな人間関係まで、多くの無意識的な人々を支配しているルールです。
「集団中心主義、自民族中心主義」というやつで、そういう意味でおそらく世界の7割がたの人間は、それかそれ以下の発達段階にあり、ある意味ナチスと変わらないとウィルバーは言います。
これまた誤解のないように補足しておきますが、これは自分が生まれ、自分を育んでくれた共同体や国家、人々、国土への感謝の念(ポジティブな意味での愛国心とでも申しましょうか)を否定しているのではなく、オレの仲間さえよければ他の集団はどうなってもいい、他の国も民族もどうなってもいい、自分の仲間の利益に反する者は全部敵であり悪であり無条件で攻撃の対象にするというような、ネガティブな意味での集団主義を指していると思われます。
じゃあ、その次に何が来るのかと言えば、世界中心主義とでも言いましょうか。
自国の利益だけでなく、グローバルな視点で全体の利益のバランスを追求する視点になります。
って、言うと話がどんどん大きくなるので、今回は置きますが
少なくとも、自分や自分の属する集団のプライドを引きずっていては(からめとられていては、と言うべきでしょうか)そういう視点に進むことは難しい。
いや、別に世界の環境問題を考えるとかいうレベルに行かなくとも
身の周りのさまざまな人間関係に生じる問題を解決するのにも、冷静、客観的な視点には立てません。
以前アップしました記事「傷つけば正義?」にも通じる話です。
そう言えば昔どこかで書いたことがあったように思いますが(このブログではないですが)
ある作家が、好意的に面倒を見ていた新人作家に、後足で砂をかけられるような裏切り行為をされ、それを知った編集さんが
「あの人、どうしましょうか」
と尋ねた(含みの在る質問ですね)のに対し
「いや、あの新人さんは才能のある人だから、大事に育ててあげてください」
と答えたことがありました。
そういう反応は、己のプライドを握り締めて、感情的に反応している段階では難しい。
「オレの顔に泥をぬりやがって」とか「恩をあだで返しやがって」から、すぐに
「どうしてくれようか」「どう思い知らせてくれようか」
になってしまいます。
このテーマは実に多くの問題を含むもので、どう書けば多くの方に多少なりとも共感していただけるかと思いあぐねて、以前から書こうとして果たせませんでした。
実はこの記事も、一ヶ月も前から書きかけて思案し、アップしかねていたものです。
結局、完璧を期していては永久にアップできないと踏んで、このたび見切り発車いたしました(笑)。
今後もちょこちょこ補足記事を追加したいと思います。
冒頭にかかげました「誇りは徳ではありません」の言葉
言い換えて
「誇りを超えて」
と言うのもいいかなと思うものです♪
ではではまた。
その人が好きでやっていたゲーム。なんというタイトルだったか忘れました。
色々な「徳」を集めて世界を回るシナリオだったか、ある街に行くと
「あなたは『誇り』がありますか」
と問われ
「はい」
と答えると
「誇りは徳ではありません」
と言われる。
なかなか至言だと思ったものですが、それから十年以上いやもしかして二十年近く?も生きてきて
そのセリフの意味するところに、しみじみ笑みがこぼれます。
今回も、少々長い話になります。
お暇な方はお読みください。
いきなり結論から申しますが
「誇り」や「プライド」を抱きしめている人とは、真実を語り合うことは難しいです。
なんでも心置きなくハラを割って語り合えるのは、己のプライドを捨てた人だけです。
これは、ともすると誤解を招く表現で、いささか解説が必要なのですが
よく卑劣な犯罪者や、無責任きわまりない人物に対して言われる
「あなたに人間としての誇りはないのか」「プライドはないのか」
という段階の、誇りやプライドの有無を言っているのではありません。
そういう段階は通り過ぎた、つまり他者への思いやりや責任感はわきまえた人が、次に進む段階の話です。
トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーが用いる分類に、「前個」「超個」というのがあります。
とりわけ形而上的な問題を語る場合、この問題は避けて通れないことだと私も思うのですが、
たとえば荒っぽい例で言いますと、
幼児や反社会的な人格の人間が、自分のものも人のものも区別がつかず、平気で人の品物に手を出す、というのと
分別は十分にわきまえた人格者が、自他の区別をつけず、人の苦しみも自分の苦しみと同様に考えて、困っている人に自分の財産を見返りを求めず分け与える、ということは
言うまでも無くまったく別のことなわけですが
自他の区別が無い、という一点にのみフォーカスして、これをいっしょくたに狂気や愚かさとしてしまう論法が、世の中にはよくあります。
「ミソもクソもいっしょ」というやつですが
人は他人を非難攻撃する際、よくこの混同をする、と言うか、意図的に相手を低いレベルに「分別」してあざ笑ったり侮辱したりします。
ウィルバーの言い方で言うなら
自分のものと人のもの区別がつかないで犯罪的行為に及ぶ人はきちんとした「個」を確立する以前の「前個」段階であり
分別をわきまえた上で慈悲の心から自他の区別無く尽くす人は「個」を超えた「超個」の段階にあるわけです。
その間に無論、その過渡期に当たる「個」の段階もあるわけです。
私は特にウィルバーのファンというわけではなく、と言うより、彼の学説すべてに共感するわけではないのですが、彼のこの視点は、多くの問題を語るに有益なものだと思っています(彼の「前」「超」の区別にもいささか異論もあるのですが、今回は置きます)。
今回、触れた「誇り」「プライド」も、同様に私は思っています。
一般に「プライドがない」というのはネガティブな意味で使われることが多く、人として最低限の気構えが無いとか、覇気が無い、ヘタレなどと同じ意味で、使われることが多いように思うのですが
確かにそういう人もいますが、似て非なる人もいる。
ポジティブな意味で、もはや己のプライドなどというものは捨て去った人。
「なにがあろうと、自分は人間としてのプライドは捨てたくない」
というと、逆境にあっても己を見失わない立派な人の決意表明として見られることがありますが、それはある視点ではその通りですが、もう一つ上の視点に立てば、無用なものとも思われるのです。
人は自分を律するのに、いつまでも誇りやプライドに依存する必要はありません。
自分のメンツや自分の属する集団のメンツなどとは無関係に、ただ自然体でなすべきことをなす、もっともベストと思われることにベストを尽くす。
そういう境地もありますし、またそれさえも、自己の進化向上の段階の一つに過ぎないのかもしれません。
人として、まっとうな自我の確立もできない(最低限の誇りもプライドもない)段階にあることが、人格の成長の一段階に過ぎないように
そして、そういう段階を脱して、いわゆる「人としての誇り」「矜持」を持って、己を律して生きる(道を踏み外しそうになると、その誇り、プライドを手がかりに踏みとどまる)ようになった状態も、また、人が歩む成長の一段階にすぎないし
一つの通過点に過ぎないのではないかと思うものです。
プライドにすがっているということは、まだ「オレが」や「オレたちが(家族、集団、国家など)」という、偏狭なエゴがある証拠であって、言うなれば「我欲」なわけです。
オレのプライド、などというものを握り締めている限り(って、、これは机上の空論ではなく、己の人生を振り返って、実体験として思うのですが)人は、冷静にものを見たり判断したりすることが難しい。
その人のプライドが傷つかない問題では、知的であったり思いやり深かったりできるのですが、こと問題がプライドに関わると、とたんに反射的に心と思考が防衛体勢をとり、それはすぐに他者への(ぶっちゃけ、自分のプライドを傷つけた相手への)攻撃行動に移ることになります。
わかりやすい例としては、偏狭な民族主義に凝り固まっている国の人々と、二つの国にまたがる領土問題について、冷静な対話が成立しないというものがあります(おそらく、この記事をお読みの方も、ニュースなどでイヤと言うほど眼にしてこられたと思います)。
民族の誇りを汚された→悪→敵→攻撃、そして自分たちは正義で善である→なんの反省も再点検の必要も無い、という、ほとんど自動装置のような閉じた反応に陥って、そこから抜け出ることができません。
これは、国家間の対立というような大きな問題から、日常のささいな人間関係まで、多くの無意識的な人々を支配しているルールです。
「集団中心主義、自民族中心主義」というやつで、そういう意味でおそらく世界の7割がたの人間は、それかそれ以下の発達段階にあり、ある意味ナチスと変わらないとウィルバーは言います。
これまた誤解のないように補足しておきますが、これは自分が生まれ、自分を育んでくれた共同体や国家、人々、国土への感謝の念(ポジティブな意味での愛国心とでも申しましょうか)を否定しているのではなく、オレの仲間さえよければ他の集団はどうなってもいい、他の国も民族もどうなってもいい、自分の仲間の利益に反する者は全部敵であり悪であり無条件で攻撃の対象にするというような、ネガティブな意味での集団主義を指していると思われます。
じゃあ、その次に何が来るのかと言えば、世界中心主義とでも言いましょうか。
自国の利益だけでなく、グローバルな視点で全体の利益のバランスを追求する視点になります。
って、言うと話がどんどん大きくなるので、今回は置きますが
少なくとも、自分や自分の属する集団のプライドを引きずっていては(からめとられていては、と言うべきでしょうか)そういう視点に進むことは難しい。
いや、別に世界の環境問題を考えるとかいうレベルに行かなくとも
身の周りのさまざまな人間関係に生じる問題を解決するのにも、冷静、客観的な視点には立てません。
以前アップしました記事「傷つけば正義?」にも通じる話です。
そう言えば昔どこかで書いたことがあったように思いますが(このブログではないですが)
ある作家が、好意的に面倒を見ていた新人作家に、後足で砂をかけられるような裏切り行為をされ、それを知った編集さんが
「あの人、どうしましょうか」
と尋ねた(含みの在る質問ですね)のに対し
「いや、あの新人さんは才能のある人だから、大事に育ててあげてください」
と答えたことがありました。
そういう反応は、己のプライドを握り締めて、感情的に反応している段階では難しい。
「オレの顔に泥をぬりやがって」とか「恩をあだで返しやがって」から、すぐに
「どうしてくれようか」「どう思い知らせてくれようか」
になってしまいます。
このテーマは実に多くの問題を含むもので、どう書けば多くの方に多少なりとも共感していただけるかと思いあぐねて、以前から書こうとして果たせませんでした。
実はこの記事も、一ヶ月も前から書きかけて思案し、アップしかねていたものです。
結局、完璧を期していては永久にアップできないと踏んで、このたび見切り発車いたしました(笑)。
今後もちょこちょこ補足記事を追加したいと思います。
冒頭にかかげました「誇りは徳ではありません」の言葉
言い換えて
「誇りを超えて」
と言うのもいいかなと思うものです♪
ではではまた。
| ホーム |