自分とは相容れない友などと、絶交したりして
傷ついたり、心にしこりを残している方に、
<もし誰かがあなたを愛と尊敬をこめて扱わなければ、その人が去ることは、天の贈り物である。
もしその人が去らなければ、その人と長い間苦しまなければならない。
別れは、しばらくの間はつらいかも知れないが、やがては癒される。
その時、あなたは、正しい選択をする時、自分を信じることが必要で、他の人を信じることはそれほど必要ではないことがわかってくるだろう>
(ドン・ミゲル・ルイス『四つの約束』松永太郎・訳/コスモスライブラリーより)
唐突ですが、部屋の掃除をしていたら、メモが出てきました。
何年か昔、私が、ある人と不本意な絶縁をし、そのことで長く悩んでいたとき、心に響いて書き留めておいたものです。誰かに気持ちをわかってもらえなかったり、誰かの気持ちをわかってあげられなかったり。
でも、そんなことは気に病まないことです。
キンタマをぶつけた男性の痛みを理解できる女性はいませんし
子宮検診やマンモグラフィーのつらさを理解できる男性もいません。
人の痛みは想像するだけです。本当の意味で理解できるなどと思うのは、ある種の思い上がりです。
もしかしたら、すでにどこかの記事でアップしたかもですが
改めて、同じような状況の方のご参考になればと僭越ながら掲載しておきます。
<もし誰かがあなたを愛と尊敬をこめて扱わなければ、その人が去ることは、天の贈り物である>
傷ついたり、心にしこりを残している方に、
<もし誰かがあなたを愛と尊敬をこめて扱わなければ、その人が去ることは、天の贈り物である。
もしその人が去らなければ、その人と長い間苦しまなければならない。
別れは、しばらくの間はつらいかも知れないが、やがては癒される。
その時、あなたは、正しい選択をする時、自分を信じることが必要で、他の人を信じることはそれほど必要ではないことがわかってくるだろう>
(ドン・ミゲル・ルイス『四つの約束』松永太郎・訳/コスモスライブラリーより)
唐突ですが、部屋の掃除をしていたら、メモが出てきました。
何年か昔、私が、ある人と不本意な絶縁をし、そのことで長く悩んでいたとき、心に響いて書き留めておいたものです。誰かに気持ちをわかってもらえなかったり、誰かの気持ちをわかってあげられなかったり。
でも、そんなことは気に病まないことです。
キンタマをぶつけた男性の痛みを理解できる女性はいませんし
子宮検診やマンモグラフィーのつらさを理解できる男性もいません。
人の痛みは想像するだけです。本当の意味で理解できるなどと思うのは、ある種の思い上がりです。
もしかしたら、すでにどこかの記事でアップしたかもですが
改めて、同じような状況の方のご参考になればと僭越ながら掲載しておきます。
<もし誰かがあなたを愛と尊敬をこめて扱わなければ、その人が去ることは、天の贈り物である>
作家 栗本薫先生が亡くなられたそうです。
私は御作を全然読んだことがないので(コミカライズされたものはマンガ誌でいくつか拝読しましたが)それに関して語ることはできないのですが、その多作ぶりにはかねがね驚嘆しておりました。
今年の4月21日の読売新聞に掲載されていたインタビュー記事を見ると
<2007年11月にがんが見つかり、半年間、入退院をくり返した後も抗がん剤治療を続ける。副作用で体力が落ち、長時間の執筆ができなくなった。
「以前はコンスタントに月1000枚の原稿を書けたのに、今は200枚台。急がなきゃ、一冊でも先に行きたいと思っている」>
とありました。
栗本先生ほどの方でもそこまで速度が低下されるものかと、印象に残って記事をメモっておいたものです。
まさか一月ばかりで、こういうことになろうとは。
享年56歳だったそうで、50歳の私からするとちょうど兄弟姉妹くらいの間隔でしょうか。
私(山本)は若い頃アシスタントさんを雇っていた時代は、月に100枚以上描いたときもありました。
今は一人で執筆なのと、よる年波で体力も低下し、月に40枚前後が限界です。
しかし栗本先生の上記のインタビューを当てはめると、私で言うなら月産枚数が全盛期の5分の1になっている・・・ということは月産20枚前後?
それはすごいことです。
いかに闘病生活が大変であったか、今更ながらお察し申し上げます。
ファンでもなんでもない私のような者が申し上げるのも、お門違いなのかもしれませんが
最後の最後まで作家として生き抜かれた偉大な先達の
ご冥福をお祈り申し上げます。
栗本先生、お疲れ様でした。
私は御作を全然読んだことがないので(コミカライズされたものはマンガ誌でいくつか拝読しましたが)それに関して語ることはできないのですが、その多作ぶりにはかねがね驚嘆しておりました。
今年の4月21日の読売新聞に掲載されていたインタビュー記事を見ると
<2007年11月にがんが見つかり、半年間、入退院をくり返した後も抗がん剤治療を続ける。副作用で体力が落ち、長時間の執筆ができなくなった。
「以前はコンスタントに月1000枚の原稿を書けたのに、今は200枚台。急がなきゃ、一冊でも先に行きたいと思っている」>
とありました。
栗本先生ほどの方でもそこまで速度が低下されるものかと、印象に残って記事をメモっておいたものです。
まさか一月ばかりで、こういうことになろうとは。
享年56歳だったそうで、50歳の私からするとちょうど兄弟姉妹くらいの間隔でしょうか。
私(山本)は若い頃アシスタントさんを雇っていた時代は、月に100枚以上描いたときもありました。
今は一人で執筆なのと、よる年波で体力も低下し、月に40枚前後が限界です。
しかし栗本先生の上記のインタビューを当てはめると、私で言うなら月産枚数が全盛期の5分の1になっている・・・ということは月産20枚前後?
それはすごいことです。
いかに闘病生活が大変であったか、今更ながらお察し申し上げます。
ファンでもなんでもない私のような者が申し上げるのも、お門違いなのかもしれませんが
最後の最後まで作家として生き抜かれた偉大な先達の
ご冥福をお祈り申し上げます。
栗本先生、お疲れ様でした。
昔、入院で大部屋に入っていたときのこと。
病室の片隅に、いささかボケの入り始めたご老人がおいででした。
仮に名前をキムラさんとします。
私が入院していた一週間くらいの間にも、だんだん病状が悪化していき、呼びかけにも反応が鈍くなっていきました。
ある朝、やたら明るい女性看護師さん(日本人です)が朝の病状確認に現れ、老人の枕元に立って呼びかけました。
「ハロー!ミスターキムーラー!♪」
すると、ほとんどレスが見られなくなり始めていたキムラ老人が大声で言いました。
「あんたなにもーん!?」
実話です。
写真は先日、我が家の庭で写した蛾(と思われる)です。
なんという名前かわかりません。
ご存知の方がいらっしゃいましたらお教えいだたけますと幸いです。
昔図鑑で見たような気もするんですが、記憶にありません。思いっきりなデザインで、アヌンガの魔神も真っ青です。
造化の神と言うか天然の美はすごいです。 まだまだ甘いなオレと反省しました;
追記
某所でご教示いただきました。
トビイロトラガというそうです。
感謝ですー♪
久々に「好きなことば」です。
毎度おなじみインドの覚者ニサルガダッタ・マハラジの言葉から。
<質問者 いくつかの絶望的な場合もありうるのでしょうか?
マハラジ 絶望的な人はひとりもいない。障害は乗り越えられるものだ。
生が修繕しなければ、死が終焉させるであろう>
いつも明るく前向きなマハラジおじさんですが、甘いことは言いません。ある意味ハードボイルドと言ってもいいでしょう。
「絶望的な人はひとりもいない」
でも、なにかのご利益とかお気楽な幸せを約束したりはしません。
「生が修繕しなければ、死が終焉させるであろう」
うんうんそうだよね♪
こういうキレのいい台詞、書いてみたいものです。
参考文献
『アイ・アム・ザット 私は在る』
(モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)
追記
誤解を招くといけないので補足しますが
けして自殺のススメではありません。
マハラジさんはヒンズー文化圏の人なので、愚かな死(自殺)は愚かな再誕生を意味するだけだ、というようなことを言っています。
究極行ってしまえば、そういうぐるぐるもひとつの幻だと言ってますが、そう見切れない人が自殺するわけで、見切れない限りはぐるぐるから抜けられないというわけです。
『結局、自分のことしか考えない人たち』
(サンディ・ホチキス著/江口泰子=訳/草思社)
同書によると、著者は
<公認ソーシャル・ワーカー。カリフォルニア州パサディナで開業し、個人、カップル、家族を対象にセラピストとして活躍。カリフォルニア臨床ソーシャルワーク協会会員、南カリフォルニア大学ソーシャルワーク修士課程講師>
だそうです。
<自己愛人間とどうつきあえばいいのか>
という副題が付いてます。
<ときどきこの世は、思いやりなどまるでなく、自分の目的のために相手を利用しようとする、自分本位な人であふれかえっているように見える。彼らは、自分の欲求は他人の欲求より重要で、何事も自分の便宜がはかられて当然と考える。思い通りにならないと、暴君のように怒り狂ったり気の毒なほど落ちこんだりする。そのため、波風を立てないほうが無難に思えて彼らの要求に応じてしまうことも多い。
わたしたちはみな、そのような人を知っている。自分の親やきょうだいや子どもかもしれない。配偶者や恋人や友人、同僚や上司、あるいはクラブや会のメンバーかもしれない。彼らはどこにでもいて、彼らの人生とわたしたちの人生がからみあうほど、惨めな気持ちにさせられる>
<その病はその本質ゆえに、私たちをお互いどうし遠ざけるだけでなく、現実からも遠ざける。そして、わたしたちが手にいれたい、こうありたい、と願うものの実現を妨げる。その病名を自己愛(ナルシシズム)といい、多くの社会悪の裏に潜んでいる>
といった導入で始まるこの本は、5つのパートに別れていて
<第一部では、自己愛人間の思考や行動の特徴を「七つの大罪」として紹介する>
この「七つの大罪」はキリスト教で言うそれ(映画『セブン』などでおなじみ)ではなく、自己愛人間の七つの特徴です。いわく
<恥を知らない
つねに歪曲し、幻想をつくりだす
傲慢な態度で見下す
ねたみの対象をこき下ろす
つねに特別扱いを求める
他人を平気で利用する
相手を自分の一部とみなす>
<第二部では、自己愛が、より完全な人間になる過程で、だれもが幼児期に通過する正常な発達段階であることを説明>
し、(つまり裏返せば、その状態を成人しても持ち続けている人間は正常とは呼べないわけです)
<第三部では、自己愛人間の被害から身を守る四つのサバイバル戦略を紹介する>
<第四部では、とりわけ対処が厄介な状況について詳しく述べ>
<第五部では、将来に視線を据え、わたしたちを取り巻く不健全な自己愛を抑制するためになすべきことを考える>
私(山本)が一読した限りでは、かなり、私たちが人生で出会うその種の困った人々を分析理解し、対処する際の参考になるように思えます。
100%健全な(何を基準にするかでも変わりますが)精神の持ち主というのはそういるものではなく、人それぞれなんらかの問題点、ひずみを抱えているものですが、同書は自分の中に潜む問題点、隠れた思い癖、反応のあり方を見つめなおす、よいガイドブックにもなると思うものです(私にとってはそうでした)。
引用したい箇所は山ほどありますが、とりわけ紹介させていただきたいと思った箇所がこれです。
<相互関係の条件
1 それぞれが提供し、それぞれが利益を守る。与える側と受け取る側が説明しあう必要はなく、まったく同等である必要もないが、重要なのは、提供したものと引き換えに価値あるものを受け取っていると感じられることだ。
2 与える側と受け取る側の役割に柔軟性がある。暗黙の了解にせよ、正式な契約にせよ、与えるタイミングと受け取るタイミングを心得ている仕組みがある。関係が続くかぎり、双方がこの点について公正感をもつ。
3 双方が自分の貢献が評価されたと感じ、受け取ったものにたいし感謝の意がもてる。
4 双方で分離と境界が重んじられる。軋轢(あつれき)が起こった場合は、お互いの感情や立場を尊重しあって、双方が不和の解消に乗り出す。
5 「スコアブック」をつける必要はない。だれが何をし、だれがだれに「借りがある」などと記録するのは、関係が相互的でないと感じるか、ギブアンドテイクの不規則な流れに困っている証拠だ>
この5項目は、自己愛人間と対するときだけでなく、日常の恋人、友達、家族その他の人々と気持ちの良い人間関係を築く際の、よい目安になると思います。
力関係がすべてを決めたりする一部の商売などは別として
心置きなく長い付き合いをしたい相手には、このチェックポイントは大変有用なものではないでしょうか。
私は「愛と敬意と感謝」を持ち合えない相手とは、友情や愛情は成立しないと思うのですが、それをより具体的に表したものとも言えるかもしれません。
この5項目に出会えただけでも、私はこの本を買った甲斐がありました。
ほかにもご紹介したい部分は多々ありますが、それはまた後日。ではまた♪
唐突ですが
テレビの、豚インフル関連の報道で「水際の対策」という単語を耳にするたび、最後の「わ」の音が発音される前に
「みずぎ」
で反応してしまう私はかなりアホかもと思います(爆
もうなんべん聞いたかしれないけど、何度聞いても「水着は」に聞こえてしまって・・・(笑
我ながら業が深いってかなんてえか。
追記
「水着話題作」に聞こえるのは自分だけじゃなかったという知り合いの漫画家さんがおいででした。
よかった私だけじゃないんだ♪
テレビの、豚インフル関連の報道で「水際の対策」という単語を耳にするたび、最後の「わ」の音が発音される前に
「みずぎ」
で反応してしまう私はかなりアホかもと思います(爆
もうなんべん聞いたかしれないけど、何度聞いても「水着は」に聞こえてしまって・・・(笑
我ながら業が深いってかなんてえか。
追記
「水着話題作」に聞こえるのは自分だけじゃなかったという知り合いの漫画家さんがおいででした。
よかった私だけじゃないんだ♪
今朝方(2009年5月16日)見ましたら、拍手ボタンが表示されず、管理画面から入ると「ブログ拍手」のページがエラー表示で入れなくなってます。
一時的な障害かもですが
ご迷惑をおかけします。
FC2ブログからは今のところ障害のお知らせは出ていません;
追記
拍手ボタンが表示されないのは過去の記事だけで、今アップしたこの記事には表示されているようです。はて???
追記2
あ、8時41分現在、修復されてるようですー♪
一時的な障害かもですが
ご迷惑をおかけします。
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追記
拍手ボタンが表示されないのは過去の記事だけで、今アップしたこの記事には表示されているようです。はて???
追記2
あ、8時41分現在、修復されてるようですー♪
自分の作品への思い入れというのは
作家さんによって様々だと思います。
私の場合、古い作品への愛着は、あるかと言えばありますが、どうしようもなく強い思い入れ、といったものはないんですよね。
なぜって、若い頃の作品には確かに、今には無い「パワー」はありますが、
キャラ立てや構成、絵、そこに込められた世界観、哲学、あらゆる面で不備が見え、いかにベストを尽くそうとそれはその時点でのベスト。
今となっては「古い製品」になるのです。
たとえて言うなら、女性はいつまでたっても若い娘が一番、という方と、確かに若い娘は肉体的にはステキかも知れないが、人格も含めてコミュニケートするには物足りないと言うか、肉体的な若さは所詮ひとつの要素に過ぎないと言う方とは、全然価値基準が異なりますよね。
私は後者なので、ただ若いだけの作品にも、執着はないんです(笑)。
だからと言って今の作品が完璧などと言うのではなく、今は今で不備だらけなんですが(笑
ちょっとジャンルは異なりますが、歴史に残る名車などと言われる有名なスポーツカーなども、確かに味わいは深いものがありますが、排気ガスの基準とか安全性などを考えると、現代のそれとは比べられないわけで、今乗るかと言われれば(私の場合四輪免許はないのでバイクに置き換えて考えても)答えはNOです。
その名車を愛しているということと、執着するということは別。
けして旧車愛好家の方を否定してるわけではありません。趣味はそれぞれです。ただ私の志向を語っているに過ぎません。
友人の某有名マンガ家も
「自分の最高傑作はどれかと聞かれれば、過去の作品になる場合もあるが、一番愛しているのはどれかと言われれば今描いている作品だ」
と言っていました。
そもそも、それくらい想いとエネルギーを傾注しないと、執筆は難しいかもしれません。
「一番気にかけているのは」、と言い換えてもいいですね。
たとえば、私が人生でもっとも愛した猫は故・ミケコですが(それは今も変わりませんが)、彼女はもう私の世話の必要の無い世界に旅立ってしまいましたから(笑)毎日寝る前にすべてに感謝をささげるとき感謝の声をかける(無論ほかのときにも思い出しますが)ほかは、私にできることはない。
今一番気がかりな猫は、私の助けを(いささかではありますが)必要としているしろさんなのです。
だからと言って、ミケコよりもしろさんが大切になったとか、ミケコを忘れたわけじゃない。
比べること自体無意味です。
自分の作品もそんな感じです。
私は想い出へのこだわりというのが希薄で、愛する家族の写真とか記念日というものにも興味がありません。最愛のつまはいつも今が一番だけれど、結婚記念日は若いころから記憶にありません。
互いの誕生日はまあ覚えてますが、ときどきお互い失念してます(笑)。
人生で「あのころはよかった」という意識がほとんどない(学生時代の気楽さは人生最高でしたが、その分馬鹿だったので戻りたいとは思いません)ように、作品についてもそんな感じです。
階段の途中を抜かしては上の段がないように、一つ一つすべてが今日を築いた貴重な一段です。
けしておろそかにはしませんが、執着するものはありません。
本来マンガなどと言うものは、世の中にあってもなくてもどうでもいいものです。
別に卑下して言うのではなく本当にそうだと思います。
先日テレビを見ていたら、ある人間国宝の職人さんが、ご自身の作っておられる家具のことを、別に世の中にあってもなくてもどうでもいいものだという意味のことをおっしゃってました。
自己卑下や自虐ではなく、冷静な自己認識だと思います。
芸術は、確かに世の中を豊かにする面がありますが、なかったからといって、それに興味のない人々の生活にはなんの関係もありません。
その辺を勘違いして、自分はこの世でなにがしかのものである、などと思い始めると、気付くと傲慢の道を歩んでいたりするもんじゃないかと思うものです。
蛇足になりますが、よく、自分が死んだ後も自分のことを覚えておいてほしい、忘れないで欲しいと願う方がいらっしゃいますが
私はそういう願望は希薄です。
ないと言ってもいいくらい、少なくとも顕在意識にはありません(潜在意識は知りませんが)。
仏教にも、川を渡り終えたら船は無用という説話があったように思いますが
私が死んだら、いったい私に何が必要でしょうか。
私のことをもし覚えておいてくださる方がいらしたとしても、その方もいずれ亡くなります。
忘れられるのは時間の問題で、歴史を超えて語り継がれる人などというのは稀(まれ)な例。
よしんば継がれたとしても、本当の意味でその人を知る人がいるでしょうか。
教科書に書かれたデータを読んで、私たちが秦の始皇帝について何を知るでしょうか。
流れに浮かぶうたかた、咲いては散っていく花を永遠にしようとするくらい虚しい努力はありません。
それはどうでもいいことです。
むしろ私は忘れていただきたい。
コンピュータでもっとも重要な機能はDeleteだと言う話があります。
この機能なしには、メモリはあっと言う間にいっぱいになってパンクして、コンピュータは使えなくなります。
過ぎ去った不要なものはどんどん消し去る。
それが人生ではないでしょうか。
もっとも人間の記憶容量は膨大ですから、かなりのことはとっておけるようですが、少なくとも過去のアーカイブにしまいこんで、今使用するドキュメントは整理する必要があります。
てなことを書いていると結局作品の話から死生観にまでいっちゃうんですが
ある意味当然というか、死生観や人生観はすべての行動の根底にあるものなので、無縁ではありえないんですよね。
と、なんだかとり止めがなくなってしまいましたが今回はこれで。
今の私にとっては一番気がかりな作品は『戦闘女神アヌンガ』なのでした♪
追記
あ、同人版でも出しておりますアーニス・シリーズは、確かに他の作品に比べてとりわけ思い入れがあります。一時は「これを描かずに死ねるか」と思ったこともあります(笑)。
しかしいろんな方々と運命に助けられて7冊まで進めることができました。
最終話60枚のコンテはとうに出来上がっていますが、果たして完成させる機会を得られるか否かは神の味噌汁。
時の流れに身を任せるつもりです。ではでは。
作家さんによって様々だと思います。
私の場合、古い作品への愛着は、あるかと言えばありますが、どうしようもなく強い思い入れ、といったものはないんですよね。
なぜって、若い頃の作品には確かに、今には無い「パワー」はありますが、
キャラ立てや構成、絵、そこに込められた世界観、哲学、あらゆる面で不備が見え、いかにベストを尽くそうとそれはその時点でのベスト。
今となっては「古い製品」になるのです。
たとえて言うなら、女性はいつまでたっても若い娘が一番、という方と、確かに若い娘は肉体的にはステキかも知れないが、人格も含めてコミュニケートするには物足りないと言うか、肉体的な若さは所詮ひとつの要素に過ぎないと言う方とは、全然価値基準が異なりますよね。
私は後者なので、ただ若いだけの作品にも、執着はないんです(笑)。
だからと言って今の作品が完璧などと言うのではなく、今は今で不備だらけなんですが(笑
ちょっとジャンルは異なりますが、歴史に残る名車などと言われる有名なスポーツカーなども、確かに味わいは深いものがありますが、排気ガスの基準とか安全性などを考えると、現代のそれとは比べられないわけで、今乗るかと言われれば(私の場合四輪免許はないのでバイクに置き換えて考えても)答えはNOです。
その名車を愛しているということと、執着するということは別。
けして旧車愛好家の方を否定してるわけではありません。趣味はそれぞれです。ただ私の志向を語っているに過ぎません。
友人の某有名マンガ家も
「自分の最高傑作はどれかと聞かれれば、過去の作品になる場合もあるが、一番愛しているのはどれかと言われれば今描いている作品だ」
と言っていました。
そもそも、それくらい想いとエネルギーを傾注しないと、執筆は難しいかもしれません。
「一番気にかけているのは」、と言い換えてもいいですね。
たとえば、私が人生でもっとも愛した猫は故・ミケコですが(それは今も変わりませんが)、彼女はもう私の世話の必要の無い世界に旅立ってしまいましたから(笑)毎日寝る前にすべてに感謝をささげるとき感謝の声をかける(無論ほかのときにも思い出しますが)ほかは、私にできることはない。
今一番気がかりな猫は、私の助けを(いささかではありますが)必要としているしろさんなのです。
だからと言って、ミケコよりもしろさんが大切になったとか、ミケコを忘れたわけじゃない。
比べること自体無意味です。
自分の作品もそんな感じです。
私は想い出へのこだわりというのが希薄で、愛する家族の写真とか記念日というものにも興味がありません。最愛のつまはいつも今が一番だけれど、結婚記念日は若いころから記憶にありません。
互いの誕生日はまあ覚えてますが、ときどきお互い失念してます(笑)。
人生で「あのころはよかった」という意識がほとんどない(学生時代の気楽さは人生最高でしたが、その分馬鹿だったので戻りたいとは思いません)ように、作品についてもそんな感じです。
階段の途中を抜かしては上の段がないように、一つ一つすべてが今日を築いた貴重な一段です。
けしておろそかにはしませんが、執着するものはありません。
本来マンガなどと言うものは、世の中にあってもなくてもどうでもいいものです。
別に卑下して言うのではなく本当にそうだと思います。
先日テレビを見ていたら、ある人間国宝の職人さんが、ご自身の作っておられる家具のことを、別に世の中にあってもなくてもどうでもいいものだという意味のことをおっしゃってました。
自己卑下や自虐ではなく、冷静な自己認識だと思います。
芸術は、確かに世の中を豊かにする面がありますが、なかったからといって、それに興味のない人々の生活にはなんの関係もありません。
その辺を勘違いして、自分はこの世でなにがしかのものである、などと思い始めると、気付くと傲慢の道を歩んでいたりするもんじゃないかと思うものです。
蛇足になりますが、よく、自分が死んだ後も自分のことを覚えておいてほしい、忘れないで欲しいと願う方がいらっしゃいますが
私はそういう願望は希薄です。
ないと言ってもいいくらい、少なくとも顕在意識にはありません(潜在意識は知りませんが)。
仏教にも、川を渡り終えたら船は無用という説話があったように思いますが
私が死んだら、いったい私に何が必要でしょうか。
私のことをもし覚えておいてくださる方がいらしたとしても、その方もいずれ亡くなります。
忘れられるのは時間の問題で、歴史を超えて語り継がれる人などというのは稀(まれ)な例。
よしんば継がれたとしても、本当の意味でその人を知る人がいるでしょうか。
教科書に書かれたデータを読んで、私たちが秦の始皇帝について何を知るでしょうか。
流れに浮かぶうたかた、咲いては散っていく花を永遠にしようとするくらい虚しい努力はありません。
それはどうでもいいことです。
むしろ私は忘れていただきたい。
コンピュータでもっとも重要な機能はDeleteだと言う話があります。
この機能なしには、メモリはあっと言う間にいっぱいになってパンクして、コンピュータは使えなくなります。
過ぎ去った不要なものはどんどん消し去る。
それが人生ではないでしょうか。
もっとも人間の記憶容量は膨大ですから、かなりのことはとっておけるようですが、少なくとも過去のアーカイブにしまいこんで、今使用するドキュメントは整理する必要があります。
てなことを書いていると結局作品の話から死生観にまでいっちゃうんですが
ある意味当然というか、死生観や人生観はすべての行動の根底にあるものなので、無縁ではありえないんですよね。
と、なんだかとり止めがなくなってしまいましたが今回はこれで。
今の私にとっては一番気がかりな作品は『戦闘女神アヌンガ』なのでした♪
追記
あ、同人版でも出しておりますアーニス・シリーズは、確かに他の作品に比べてとりわけ思い入れがあります。一時は「これを描かずに死ねるか」と思ったこともあります(笑)。
しかしいろんな方々と運命に助けられて7冊まで進めることができました。
最終話60枚のコンテはとうに出来上がっていますが、果たして完成させる機会を得られるか否かは神の味噌汁。
時の流れに身を任せるつもりです。ではでは。
長いことずーっと仕事で引きこもりでしたが、今日は久々に外出してきました(近所のマーケットとかは別として)。
今年の初めに伊勢原でギャオスの怪光線みたいなゴーストが撮れた日記をアップしましたが
今回は錯覚ではなく実体があります。
ただし石ですが(笑
伊勢原にある某石材店の店先。
走るバスの中からでいささかブレてますが、これ
怪獣か恐竜か
いずれにせよ珍な見本です。
普通石材店というと石灯籠とか観音様とか割と似通ったブツが多いんですが、こういう商品見本を置いてるとこは初めて見ました。
金持ちで庭が広い家でも持ってたら買いたいところです♪
あと二枚目は濡れた青葉が朝日にきれいだったお寺(の中の鐘突き堂)の屋根。
三枚目は小田急線の駅前で写した富士山(部分)。
五月というのに真っ白ですが、昨日までの雨が山では雪だったんですね♪
人が人の(あるいは、ものごとの)価値判断をすることの愚かさを、歳をとるほどに感じます。
誰の何が価値があるとか価値がないとか、
限られた特定の範囲で何らかの評価を下すことは可能ですが(そうしないと仕事が先に進みませんし)、一見長所に見えることが短所であったり、また逆であったり、いやそもそも長所と短所は表裏一体なもので、
一見問題点に見えることが、長い人生で見渡した場合、まったく別の長所であったり
すばらしい幸運に思えたことが、とんでもない災難の始まりであったり
そういうことを言い表して
「人間万事塞翁が馬」
とか
「禍福はあざなえる縄の如し」
などと昔の人は言いました。
それはまったくその通りだと、歳をとるにつれてしみじみ思います。
そういうものを、自分の欲望や偏見を手放して、高い視点から冷静に判断するだけの能力を持つ人が、どれほどいるでしょうか。
少なくとも私にはないです。
「なんじ裁(さば)くなかれ」
という教えがありますが、そういう何かの教えがあるから裁かないのではなく、裁くだけの能力も資格もないから裁かない。
そういえば、少し話がわき道にそれますが、先日ケーブルテレビで映画『ミスト』を見ました。
スティーブン・キングの原作をフランク・ダラボン監督が映画化したやつです。
どうも、原作と違うエンディングが、一部のお客様方にものすごく不評で、金返せとか見なきゃよかったとか、やってはいけないエンディングとか、はては意味が分らないなど、散々なレビューを目にしました(無論高評価の方もおいででしたが)。
かなりのアンハッピーエンディングになってるらしいとは想像できたんですが、果たして、確かにアンハッピーエンディングでした。
でも別に衝撃の結末でもハラ立つようなものでもなく、私にとっては、うんうんあるよね時々こういうこと人生で、という、ごく普通の内容でした(一緒に見ていた妻も同感だったようです)。
ここから、かなりネタバレなので、これから見るんで予備知識は得たくないという方はお読みにならないでください。
とはいえ、そのままエンディングを書くのは、さすがに創作者の仁義に反するかもですので
一つの例えとして書きます。
映画『ミスト』は、立ち込める霧の中に潜むモンスターたちと戦う人々が、四面楚歌の中、いかにサバイバるかという話ですが、その結末をちょっと別の状況に置き換えて解説しますと
借金をかさね、もはや闇金さえ金を貸してくれなくなった主人公が、同じような借金苦で悲惨な死(餓死は苦しいそうですね)を迎えた知り合いのことを思って、自分の家族にはそんな地獄は見せられないと一家心中をくわだて、家族全員殺したあと自分は車にでもひかれようと道に出たら、ちょうど向こうから来た郵便屋さんに、親戚のおじさんの巨額な遺産があなたに転がり込むことになりましたという手紙を手渡され、絶叫して終わるというような
まあそんなエンディングです(ちょっと違うぞという方もおいででしょうが、ニュアンスだけ御汲み取りください)。
巨額な遺産がぶっとび過ぎというなら、不渡りだと思っていた手形が無事有効だったとか、入らないと思っていた退職金が入ることになったとか
とにかく心中の必要はなかったということです。
いやー、よくある話ですよ人生で。
戦争中など、それで亡くなった方がどれほどおいでだったでしょう。
「絶望は愚か者の結論である」とも言いますが、予言者でも霊能力者でもない人間が、自分の一瞬先の未来さえわからない人間が、勝手な想像で未来を決め付けて結論を出した結果です。
だからといって、その方たちを非難するつもりは毛頭ありませんし、愚か者呼ばわりするものではけしてありません。極限状態では人は冷静な判断を失うものであり、自分も同じ立場になれば、どんなことをするかわかりません。
これまでにも書いてきましたが、人の一瞬先は闇かもしれないし光かもしれない。
闇だと決め付けるのは運命でも神で悪魔でもない、ほかならない自分自身です。
人は自分のしたことの結果を受け取るだけで、それは花の種をまいて花が咲くことや、解けかけた雪山で大きな音を立てて雪崩に巻き込まれるのと同じです。
白か黒かわからないので、とりあえずこっちに賭けてみた、ということもありますが、それは賭けの結果がいい目にでるか悪い目に出るか、神の味噌汁で、どっちにころんでも甘んじて受け取るしかありません。
ネットの映画評を検索していたら、『ミスト』に高評価を下した上で、あれは「裁く資格は人にはなく神のみにある」という思想の一神教の欧米人ならではの作品だという評論を見ましたが、私は別に一神教を奉じてはいませんが、人に裁く能力がいかにないかは人生で痛感していますので、なんの違和感も感じません。
「私を他の連中と比較しないでいただきたいね。第一にあなたは私という人間を知っていない。
――それに、他の連中のことも知っていない」
というポール・ヴァレリーの言葉がありますが
これを自分に置き換えるなら
「私は、あなたを他の人々と比較し裁きたくない。第一に私はあなたという人間を知っていません。そして他の方のことも知っていません」
そしてもう一文付け加えて
「私は私自身のこともよく知りません」(笑
私のブログに、他者や出来事への批判批評があまりなく、自分はこうした、こう思ったという内容が多いのに、こいつナルシストか批判能力がないのではと思われる方もおいでかも知れませんが、知りもしない他人の批評をする愚を冒したくない私としては、自分が目にし耳にし感じたことを語るのが、もっとも誤りの少ない道なだけなのです。
『ミスト』にこめられたメッセージは明確で、まあもっともなことに私には思えます。
mixiのレビューを検索していて一つ興味深かったものに(それは好意的な評価をしておいでの方でしたが)あの映画は、自動車教習所や免許更新の警察で見る、こんなことしたらこんな悲惨な目に合いましたという映画に通じる効果があるかもというのがありました。言いえて妙かも知れません(笑)。
誰かをあれこれ批判したり、何かを決め付けたくなったら、上記のヴァレリーの言葉を思い出すのもいい手かも知れません。
何かにカギカッコつきの「仮の判断」をすることはできます。
でもそれはあくまで仮の判断であり、新たなデータが入ったり、今あるデータを再検討したらまったく別の結論になるかもしれない。私の判断などその程度のもであり、誰も裁く資格も能力もないと思っています。
私が家に鍵をかけるのは、門の外を歩く人が泥棒かもしれない危険性を感じるからであり、門の外を通過する人々が実際はどういう人で何を考えているか、泥棒なのか仏様のような人格者なのか、本当のことを知ることは一生ないのです。
誰の何が価値があるとか価値がないとか、
限られた特定の範囲で何らかの評価を下すことは可能ですが(そうしないと仕事が先に進みませんし)、一見長所に見えることが短所であったり、また逆であったり、いやそもそも長所と短所は表裏一体なもので、
一見問題点に見えることが、長い人生で見渡した場合、まったく別の長所であったり
すばらしい幸運に思えたことが、とんでもない災難の始まりであったり
そういうことを言い表して
「人間万事塞翁が馬」
とか
「禍福はあざなえる縄の如し」
などと昔の人は言いました。
それはまったくその通りだと、歳をとるにつれてしみじみ思います。
そういうものを、自分の欲望や偏見を手放して、高い視点から冷静に判断するだけの能力を持つ人が、どれほどいるでしょうか。
少なくとも私にはないです。
「なんじ裁(さば)くなかれ」
という教えがありますが、そういう何かの教えがあるから裁かないのではなく、裁くだけの能力も資格もないから裁かない。
そういえば、少し話がわき道にそれますが、先日ケーブルテレビで映画『ミスト』を見ました。
スティーブン・キングの原作をフランク・ダラボン監督が映画化したやつです。
どうも、原作と違うエンディングが、一部のお客様方にものすごく不評で、金返せとか見なきゃよかったとか、やってはいけないエンディングとか、はては意味が分らないなど、散々なレビューを目にしました(無論高評価の方もおいででしたが)。
かなりのアンハッピーエンディングになってるらしいとは想像できたんですが、果たして、確かにアンハッピーエンディングでした。
でも別に衝撃の結末でもハラ立つようなものでもなく、私にとっては、うんうんあるよね時々こういうこと人生で、という、ごく普通の内容でした(一緒に見ていた妻も同感だったようです)。
ここから、かなりネタバレなので、これから見るんで予備知識は得たくないという方はお読みにならないでください。
とはいえ、そのままエンディングを書くのは、さすがに創作者の仁義に反するかもですので
一つの例えとして書きます。
映画『ミスト』は、立ち込める霧の中に潜むモンスターたちと戦う人々が、四面楚歌の中、いかにサバイバるかという話ですが、その結末をちょっと別の状況に置き換えて解説しますと
借金をかさね、もはや闇金さえ金を貸してくれなくなった主人公が、同じような借金苦で悲惨な死(餓死は苦しいそうですね)を迎えた知り合いのことを思って、自分の家族にはそんな地獄は見せられないと一家心中をくわだて、家族全員殺したあと自分は車にでもひかれようと道に出たら、ちょうど向こうから来た郵便屋さんに、親戚のおじさんの巨額な遺産があなたに転がり込むことになりましたという手紙を手渡され、絶叫して終わるというような
まあそんなエンディングです(ちょっと違うぞという方もおいででしょうが、ニュアンスだけ御汲み取りください)。
巨額な遺産がぶっとび過ぎというなら、不渡りだと思っていた手形が無事有効だったとか、入らないと思っていた退職金が入ることになったとか
とにかく心中の必要はなかったということです。
いやー、よくある話ですよ人生で。
戦争中など、それで亡くなった方がどれほどおいでだったでしょう。
「絶望は愚か者の結論である」とも言いますが、予言者でも霊能力者でもない人間が、自分の一瞬先の未来さえわからない人間が、勝手な想像で未来を決め付けて結論を出した結果です。
だからといって、その方たちを非難するつもりは毛頭ありませんし、愚か者呼ばわりするものではけしてありません。極限状態では人は冷静な判断を失うものであり、自分も同じ立場になれば、どんなことをするかわかりません。
これまでにも書いてきましたが、人の一瞬先は闇かもしれないし光かもしれない。
闇だと決め付けるのは運命でも神で悪魔でもない、ほかならない自分自身です。
人は自分のしたことの結果を受け取るだけで、それは花の種をまいて花が咲くことや、解けかけた雪山で大きな音を立てて雪崩に巻き込まれるのと同じです。
白か黒かわからないので、とりあえずこっちに賭けてみた、ということもありますが、それは賭けの結果がいい目にでるか悪い目に出るか、神の味噌汁で、どっちにころんでも甘んじて受け取るしかありません。
ネットの映画評を検索していたら、『ミスト』に高評価を下した上で、あれは「裁く資格は人にはなく神のみにある」という思想の一神教の欧米人ならではの作品だという評論を見ましたが、私は別に一神教を奉じてはいませんが、人に裁く能力がいかにないかは人生で痛感していますので、なんの違和感も感じません。
「私を他の連中と比較しないでいただきたいね。第一にあなたは私という人間を知っていない。
――それに、他の連中のことも知っていない」
というポール・ヴァレリーの言葉がありますが
これを自分に置き換えるなら
「私は、あなたを他の人々と比較し裁きたくない。第一に私はあなたという人間を知っていません。そして他の方のことも知っていません」
そしてもう一文付け加えて
「私は私自身のこともよく知りません」(笑
私のブログに、他者や出来事への批判批評があまりなく、自分はこうした、こう思ったという内容が多いのに、こいつナルシストか批判能力がないのではと思われる方もおいでかも知れませんが、知りもしない他人の批評をする愚を冒したくない私としては、自分が目にし耳にし感じたことを語るのが、もっとも誤りの少ない道なだけなのです。
『ミスト』にこめられたメッセージは明確で、まあもっともなことに私には思えます。
mixiのレビューを検索していて一つ興味深かったものに(それは好意的な評価をしておいでの方でしたが)あの映画は、自動車教習所や免許更新の警察で見る、こんなことしたらこんな悲惨な目に合いましたという映画に通じる効果があるかもというのがありました。言いえて妙かも知れません(笑)。
誰かをあれこれ批判したり、何かを決め付けたくなったら、上記のヴァレリーの言葉を思い出すのもいい手かも知れません。
何かにカギカッコつきの「仮の判断」をすることはできます。
でもそれはあくまで仮の判断であり、新たなデータが入ったり、今あるデータを再検討したらまったく別の結論になるかもしれない。私の判断などその程度のもであり、誰も裁く資格も能力もないと思っています。
私が家に鍵をかけるのは、門の外を歩く人が泥棒かもしれない危険性を感じるからであり、門の外を通過する人々が実際はどういう人で何を考えているか、泥棒なのか仏様のような人格者なのか、本当のことを知ることは一生ないのです。
先日、友人と電話していたら、最近何十本か立て続けにわけあってゾンビ映画(レンタルDVDなど)を見たとの話。
それで、ゾンビ映画にも、微妙にお国柄の違いがあるようだと。
友人が感じたことには
やはり一番戦闘的なのはアメリカ。
中でも歯を向き出して戦うキャラは、イギリスや日本のゾンビ映画に比べて多いように思うと。
と言っても別に正確な学術論文を書こうってんじゃないですし、あくまで限られた範囲での印象で、世の中にはゾンビ映画は見てないものはない、などとおっしゃる超マニアの方もおいででしょうから、そういう豪傑には、また別の分析がおありかも知れません。
あくまで、アバウトな話として読み流してください。
さて、そこで日本のゾンビ映画。
友人が言うには、迎え撃つ人間が弱くて、それに呼応してか襲い掛かるゾンビも少々弱めなものが見受けられる。
そして、欧米のものに比べて特徴的なのが、襲われてゾンビが強いと見ると戦わないで、頭をかかえてしゃがみこんだり、へたりこんでしまう人間。
どこまでも対抗するアメリカ製などには見られなかった反応だそうで、そういうヘタレ人間を日本製の複数のゾンビ映画で見た。
日本人は心が折れやすいのでしょうか。
何事にも例外はあって、途中であきらめるキャラも欧米にもいると思いますが
ひとつのパターンとしては考えられるように私も思います。
そもそも、脳科学的にもそういう東西の差はあったように思います。
30年近く昔の話ですが、友人が大学の授業で聞いた話で、子どもが襲われたときの母親の反応。
アメリカなどでは、子どもを背中に隠して敵に正面を向けて立ちはだかるのに対し、日本では子どもを抱きかかえるようにして敵に背中を向けてしまう。
それじゃいいように殴られたり刺されたりして危ないだろうとも思うんですが、それが民族性なんだから仕方がないです。どうせケンカじゃ勝てないから精一杯守ろうという母心でしょうか。気持ちはわかります。
30年も昔の授業のことで、今は心身ともに当時よりも欧米化が進んでるかもですから、そのまま当てはまるかどうかは不明ですけど。
ただ、それに類する話で私にも思い当たることがありまして
昔武術の取材をしていて聞いた話で、日本人はすぐあきらめる。
Aという技(たとえば前進しながら敵の腕を巻き込むとか)をかけて相手が倒れないと、あ、これはダメなんだと、やめてしまう。
たとえば、その同じ技をそのまま前進しながら三回連続すれば倒れるのに、一回でやめてしまう。
これは無駄な技をゴリ押しで繰り返すのとは意味が違います。
銃器にも三点バーストというのがありますね。同じ銃の弾丸でも、集中して三発、連続してほぼ同じポイントに叩き込むことでより確実に威力を増す。
いさぎよいというのは、ある種の美徳、美点ではあるのでしょうが、それがTPOを誤ると軽はずみな絶望になってしまう。
一を聞いて十を知ったつもりになるのは危険ですが、
この「潔さ」をはき違えた「軽はずみな絶望」は、今の日本社会を覆う多くの精神面の病理に関係があるのではないか。
私の集められるデータではあまりに限りがあって、なんらかの結論を出すのは無理なんですが
何かそういう機会のある方は、お調べになってもおもしろいかもと思いました♪
ではではまたー。
それで、ゾンビ映画にも、微妙にお国柄の違いがあるようだと。
友人が感じたことには
やはり一番戦闘的なのはアメリカ。
中でも歯を向き出して戦うキャラは、イギリスや日本のゾンビ映画に比べて多いように思うと。
と言っても別に正確な学術論文を書こうってんじゃないですし、あくまで限られた範囲での印象で、世の中にはゾンビ映画は見てないものはない、などとおっしゃる超マニアの方もおいででしょうから、そういう豪傑には、また別の分析がおありかも知れません。
あくまで、アバウトな話として読み流してください。
さて、そこで日本のゾンビ映画。
友人が言うには、迎え撃つ人間が弱くて、それに呼応してか襲い掛かるゾンビも少々弱めなものが見受けられる。
そして、欧米のものに比べて特徴的なのが、襲われてゾンビが強いと見ると戦わないで、頭をかかえてしゃがみこんだり、へたりこんでしまう人間。
どこまでも対抗するアメリカ製などには見られなかった反応だそうで、そういうヘタレ人間を日本製の複数のゾンビ映画で見た。
日本人は心が折れやすいのでしょうか。
何事にも例外はあって、途中であきらめるキャラも欧米にもいると思いますが
ひとつのパターンとしては考えられるように私も思います。
そもそも、脳科学的にもそういう東西の差はあったように思います。
30年近く昔の話ですが、友人が大学の授業で聞いた話で、子どもが襲われたときの母親の反応。
アメリカなどでは、子どもを背中に隠して敵に正面を向けて立ちはだかるのに対し、日本では子どもを抱きかかえるようにして敵に背中を向けてしまう。
それじゃいいように殴られたり刺されたりして危ないだろうとも思うんですが、それが民族性なんだから仕方がないです。どうせケンカじゃ勝てないから精一杯守ろうという母心でしょうか。気持ちはわかります。
30年も昔の授業のことで、今は心身ともに当時よりも欧米化が進んでるかもですから、そのまま当てはまるかどうかは不明ですけど。
ただ、それに類する話で私にも思い当たることがありまして
昔武術の取材をしていて聞いた話で、日本人はすぐあきらめる。
Aという技(たとえば前進しながら敵の腕を巻き込むとか)をかけて相手が倒れないと、あ、これはダメなんだと、やめてしまう。
たとえば、その同じ技をそのまま前進しながら三回連続すれば倒れるのに、一回でやめてしまう。
これは無駄な技をゴリ押しで繰り返すのとは意味が違います。
銃器にも三点バーストというのがありますね。同じ銃の弾丸でも、集中して三発、連続してほぼ同じポイントに叩き込むことでより確実に威力を増す。
いさぎよいというのは、ある種の美徳、美点ではあるのでしょうが、それがTPOを誤ると軽はずみな絶望になってしまう。
一を聞いて十を知ったつもりになるのは危険ですが、
この「潔さ」をはき違えた「軽はずみな絶望」は、今の日本社会を覆う多くの精神面の病理に関係があるのではないか。
私の集められるデータではあまりに限りがあって、なんらかの結論を出すのは無理なんですが
何かそういう機会のある方は、お調べになってもおもしろいかもと思いました♪
ではではまたー。
先日ニュースで知ったのですが、最近の学校ではアルファベットの筆記体を教えなくなって久しいんですね。
びっくりしました。
そもそも本場の米英でも、いまどき筆記体で書く人はあまりいないようです。
私の世代(1950年代生まれ)は学校できっちり練習させられた世代でした。
私は、子供の頃から大きくなったらマンガ家になるんだと思ってましたから、マンガ家になったらサインもするもんなと、一生懸命筆記体で名前書いてました(笑)。
中学高校のころのノート(押入れのすみっことかにたまたま残ってる)とか見ると、たまに漢字じゃなくてアルファベットの筆記体で名前が入ってます。
二十代の半ばに新婚旅行で行ったグアム島でトラベラーズチェックにサインして渡したら、現地の人が「おまえのサインはどこにした」と言うので、ここだ、と指したら「きれいなんで印刷と間違えた」と言われました。
たぶん英語慣れしてない日本人の書くサインって、すごいカナ釘流でぎこちないのが普通なんでしょうね。
今でも、自分の描いた原稿のすみに、小さくサイン入れてますし、色紙とか頼まれればやはり筆記体で名前を入れます。
ニュースを見ますと、もはや過去の文化なんですね。
私も50代で、いまさらサインを変えるつもりもありません。
死ぬまで筆記体で行くでしょう(笑
そう言えば、つまが以前、ハリウッドの有名スターにファンレターを送ったら、帰ってきた返事の手紙が筆記体でした。
「だからあれは老人ホームの老人のバイトの代筆だと思う」
とつまは笑ってました。
そうそう
先年、友人の娘さん(当時小学生)に頼まれて色紙を描いたのですがもしかしてあれに入れたサインも娘さんは読めてらっしゃらない?(今は中学生)と友人に尋ねたら
「娘は山本文字だと思ってるようです」
とのことでした(笑)。ちゃんちゃん♪
、
びっくりしました。
そもそも本場の米英でも、いまどき筆記体で書く人はあまりいないようです。
私の世代(1950年代生まれ)は学校できっちり練習させられた世代でした。
私は、子供の頃から大きくなったらマンガ家になるんだと思ってましたから、マンガ家になったらサインもするもんなと、一生懸命筆記体で名前書いてました(笑)。
中学高校のころのノート(押入れのすみっことかにたまたま残ってる)とか見ると、たまに漢字じゃなくてアルファベットの筆記体で名前が入ってます。
二十代の半ばに新婚旅行で行ったグアム島でトラベラーズチェックにサインして渡したら、現地の人が「おまえのサインはどこにした」と言うので、ここだ、と指したら「きれいなんで印刷と間違えた」と言われました。
たぶん英語慣れしてない日本人の書くサインって、すごいカナ釘流でぎこちないのが普通なんでしょうね。
今でも、自分の描いた原稿のすみに、小さくサイン入れてますし、色紙とか頼まれればやはり筆記体で名前を入れます。
ニュースを見ますと、もはや過去の文化なんですね。
私も50代で、いまさらサインを変えるつもりもありません。
死ぬまで筆記体で行くでしょう(笑
そう言えば、つまが以前、ハリウッドの有名スターにファンレターを送ったら、帰ってきた返事の手紙が筆記体でした。
「だからあれは老人ホームの老人のバイトの代筆だと思う」
とつまは笑ってました。
そうそう
先年、友人の娘さん(当時小学生)に頼まれて色紙を描いたのですがもしかしてあれに入れたサインも娘さんは読めてらっしゃらない?(今は中学生)と友人に尋ねたら
「娘は山本文字だと思ってるようです」
とのことでした(笑)。ちゃんちゃん♪
、
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