朝から歯科で出かけてきました。
冷たい雨に加えて風も強く、久々に傘がおちょこになりました。
街灯のてっぺんで濡れながら鳴いてるカラスを見ました。
野生動物ってすごいですね。あれも「日常」なんですから。
文明に慣れきった人間にはマネができません;
ホームレスの方とか安全なとこにおられるんでしょうか。自分はたまたま運良く紙一重で「そっち側」に行ってないだけの人間だと昔から思っているので、他人事とは思えません。「対岸の火事」ではなく「どこが境界かわからない隣の敷地」のようなものです。
たまたまきょうも暖かい部屋で、おかげさまで床につけます。
創作というのは色んな人の立場、心に分け入る仕事なので、いつも色々考えます。
一人でも多くの人を「閉め出す」のではなく「包み込め」たら、もっと自分も自分の作品も豊かになれます。
私にとって、仕事はひとつの「行(ぎょう)」でもあります。
すべての命が、それなりの時と所を得られますように。
きょうも良き日を。
冷たい雨に加えて風も強く、久々に傘がおちょこになりました。
街灯のてっぺんで濡れながら鳴いてるカラスを見ました。
野生動物ってすごいですね。あれも「日常」なんですから。
文明に慣れきった人間にはマネができません;
ホームレスの方とか安全なとこにおられるんでしょうか。自分はたまたま運良く紙一重で「そっち側」に行ってないだけの人間だと昔から思っているので、他人事とは思えません。「対岸の火事」ではなく「どこが境界かわからない隣の敷地」のようなものです。
たまたまきょうも暖かい部屋で、おかげさまで床につけます。
創作というのは色んな人の立場、心に分け入る仕事なので、いつも色々考えます。
一人でも多くの人を「閉め出す」のではなく「包み込め」たら、もっと自分も自分の作品も豊かになれます。
私にとって、仕事はひとつの「行(ぎょう)」でもあります。
すべての命が、それなりの時と所を得られますように。
きょうも良き日を。
先日の記事「見下ろし目線」で語ることの補足です。
お読みくださった方から、人は自分より優れた人の話を聞きたいもので、師は師らしくあらねば侮られることがあるとのコメントをいただきました。
それはまったくそのとおりだと思います。
髪は伸び放題、ひげはぼうぼうで歯も磨いてないような人が、いくら衛生問題を語ると言われても誰も聞こうとはしません。
人にはそれぞれふさわしいいでたちがあります。
あと時と場合というものもあります。
誰かがたとえば猛毒の虫とかにさわりそうなときに「すみませんがちょっとお話させていただいてもよろしいでしょうか」などと丁重に話しかけている余裕はなく、「よせ!」とか「やめろ!」とか乱暴な言葉で止めることもあるでしょう。それは緊急時でやむを得ないからであって、別のその人を見下しているわけでも自分が偉いと思ってのことでもありません。
ただ、偉い人は偉そうにしているかというとちょっと違うと思います。
本人はただ自然体でいるだけなのに、にじみ出る威厳を持った人もいます(感性が鈍い人には全然わからなかったりしますが)。それは本人が他人を「見下ろして」いるからではありません。
色々な人の書いた本を読んだり講演を聴いて思うのですが、しばしば、非常に押し付けがましい決め付け口調のものがあります。
それは、そういう言い方をしないと今道を踏み外す瀬戸際、という人には必要なものかもしれませんが、そうでない人には違います。
私は自分の不徳で失敗している部分も少なくないとは思うのですが、原則どなたにも敬意を持って接したいと思っています。
わかりやすく言うならば、自分の話を読んでくださったり聞いてくださっている今この瞬間の「あなた」がどんな方かわからない。もしかしたら人間性のカケラもない凶悪犯かもしれないし、もはや人生の課題をすべて終えてしまったような悟りの境地にある方かもしれない。マザーテレサのような人かもしれないし宅間某のような人かもしれない。
どちらかわからない以上「見下ろし目線」では語れないのです(じゃあわかったら語るのかというと、それもまた違うんですが、長い話になるのでまたにします)。
もう30年近く昔になりますが、私がアシスタントをさせていただいていたマンガ家のはるき悦巳先生(『じゃりン子チエ』でおなじみ)が、
「オレはな、初めての人と会うときは相手の人のこと買いかぶって話するんや。自分、低いとこに置いとかんとなんも学べんやろ?」
と言われた。その言葉を今も座右の銘にしています。
「あなた」が私よりすべてにおいて知識も知恵も優れた方であれば、私の語ることなど無用なものですが、そのときはおそらく「発展途上の人間の一人」として私を眺めてくださるでしょう。
また才能も頭脳も優れていても、いやいなくてもどっちでも、たまたままだ触れていない知恵や知識があるならば、私はその方になんらかの情報を差し上げられるかもしれません。
師が弟子より優れているとは限らず、美術の世界では、あまりの弟子の才能に筆を折った師の話などもあります(笑
そもそも人に貴賎はないと思うので、何かを教えた人が偉いわけでも教わった人が低いわけでもないですが(何かを教えてくださった方には敬意と感謝は忘れません。ただ卑屈になるのとは違います)。
師が師らしくするとはどのあたりのことを言うのか。
たぶん同じものを見ても、よいと思う人とダメだと思う人、同じ人でも時と場所、精神状態で答えは変わると思います。
私はこれまでのブログをご覧いただいてもお解かりかと存じますが、神仏は敬う人間で、唯物主義の社会主義とは立場が異なるものですが、それはそれとして、印象に残っている話があります。
ある人が(蛇足かもしれませんがいわゆる右よりの方です)がたまたま某社会主義国の大臣と話す機会があって、その上着の袖に見えた白い清潔に洗われたシャツのはしが丁寧に繕われていたのを見て、その人物の質朴な人柄がしのばれ感銘を受けたという話があります。
これも、一国の大臣たるもの、そんな貧乏くさい服を着て人に会うとはなんだ、威厳がないではないか、とか、人を馬鹿にしているのかと憤慨される方もおられるかも知れません。
受け取り方は人それぞれだと思います。
もう一つ、おもしろい話があります。
あの一休さん逸話です。
何度か文章を引用させていただいている足立大進氏の著作からまた引用させていただきます。
<京都で指折りのお金持ちが、一休さんに供養を頼んだ>
<ところが。茶目気のある一休さんです。その前日の夕方、一休さんはぼろぼろの雲水法衣を着て、その金持ちの商家の前へ立って托鉢をなさった。
使用人たちは、翌日の準備で忙しい時です。そんなこところへ立っているんじゃないの、早く向こうへ行けというふうにみんながやるわけです。表が騒がしいので、そこの主(あるじ)も出てきて、「そんな乞食坊主、早く追い出せ」と言った。それで、一休さんはその日すごすごと帰った。
次の日、一休さんはきれいな法衣を来て、何人かのお供を連れてその家へお出でになった。すると、主人をはじめ番頭さんたちが>
歓迎するわけですが
<そしたら、一休さんは、「いや、俺はここでいいよ」とおっしゃる。そして、「昨日は大変痛いおもてなしを頂いて・・・」>
<「昨日の夕方坊主が来ただろう。その時、叩き出されたのは、この俺なんじゃ。お前さんたちが用があるのは、このきれいな法衣じゃろう。そんなに法衣が有り難ければ、この法衣にお布施をやってくれ」と言って、その場で法衣を脱いで、家の中に放り込んでお帰りになったという逸話がございます>
(『<ありがとう>の人生』足立大進・著/春秋社より)
まあちょっと意地悪な?一休さんかもですが、世の中にはしばしばこの商人のような人がいます。
人を見ているのではなくその肩書きとか権威を見ているに過ぎません。
それは一つの目の曇りであって、一休さんはそれをさとしたかったのかもしれません。
実は私(山本)は、根はけっこう人が悪い人間です(笑)。
いたずらも大好きです。
だからちょっとだけ乱暴なことを書きますと
私が偉そうに語らないことでその内容に価値がないと思われる方がもしいらっしゃるなら(いや充分おまえは偉そうだとおっしゃる方もおられるでしょう)いいじゃないですかそれで(笑
本当に価値がないなら、それでいい。無駄なものを拾わずにすんで幸いです。
では、もし価値があったらどうか。
それは、そういう「偉そうか偉そうでないか」で相手の値踏みをするという勘違いをした、その結果として、その方は価値ある情報を取り損ねられたわけで、まあ一種の因果応報でしょう。
その勘違いに気づくまで、人生で同じことを繰り返されるだけです。
どっちにころんでも私はかまいません。
人はころんで覚えるものです。
というわけで、きょうもこうして独り言を書いております。
ありがとうございました。
きょうも良き日を♪
お読みくださった方から、人は自分より優れた人の話を聞きたいもので、師は師らしくあらねば侮られることがあるとのコメントをいただきました。
それはまったくそのとおりだと思います。
髪は伸び放題、ひげはぼうぼうで歯も磨いてないような人が、いくら衛生問題を語ると言われても誰も聞こうとはしません。
人にはそれぞれふさわしいいでたちがあります。
あと時と場合というものもあります。
誰かがたとえば猛毒の虫とかにさわりそうなときに「すみませんがちょっとお話させていただいてもよろしいでしょうか」などと丁重に話しかけている余裕はなく、「よせ!」とか「やめろ!」とか乱暴な言葉で止めることもあるでしょう。それは緊急時でやむを得ないからであって、別のその人を見下しているわけでも自分が偉いと思ってのことでもありません。
ただ、偉い人は偉そうにしているかというとちょっと違うと思います。
本人はただ自然体でいるだけなのに、にじみ出る威厳を持った人もいます(感性が鈍い人には全然わからなかったりしますが)。それは本人が他人を「見下ろして」いるからではありません。
色々な人の書いた本を読んだり講演を聴いて思うのですが、しばしば、非常に押し付けがましい決め付け口調のものがあります。
それは、そういう言い方をしないと今道を踏み外す瀬戸際、という人には必要なものかもしれませんが、そうでない人には違います。
私は自分の不徳で失敗している部分も少なくないとは思うのですが、原則どなたにも敬意を持って接したいと思っています。
わかりやすく言うならば、自分の話を読んでくださったり聞いてくださっている今この瞬間の「あなた」がどんな方かわからない。もしかしたら人間性のカケラもない凶悪犯かもしれないし、もはや人生の課題をすべて終えてしまったような悟りの境地にある方かもしれない。マザーテレサのような人かもしれないし宅間某のような人かもしれない。
どちらかわからない以上「見下ろし目線」では語れないのです(じゃあわかったら語るのかというと、それもまた違うんですが、長い話になるのでまたにします)。
もう30年近く昔になりますが、私がアシスタントをさせていただいていたマンガ家のはるき悦巳先生(『じゃりン子チエ』でおなじみ)が、
「オレはな、初めての人と会うときは相手の人のこと買いかぶって話するんや。自分、低いとこに置いとかんとなんも学べんやろ?」
と言われた。その言葉を今も座右の銘にしています。
「あなた」が私よりすべてにおいて知識も知恵も優れた方であれば、私の語ることなど無用なものですが、そのときはおそらく「発展途上の人間の一人」として私を眺めてくださるでしょう。
また才能も頭脳も優れていても、いやいなくてもどっちでも、たまたままだ触れていない知恵や知識があるならば、私はその方になんらかの情報を差し上げられるかもしれません。
師が弟子より優れているとは限らず、美術の世界では、あまりの弟子の才能に筆を折った師の話などもあります(笑
そもそも人に貴賎はないと思うので、何かを教えた人が偉いわけでも教わった人が低いわけでもないですが(何かを教えてくださった方には敬意と感謝は忘れません。ただ卑屈になるのとは違います)。
師が師らしくするとはどのあたりのことを言うのか。
たぶん同じものを見ても、よいと思う人とダメだと思う人、同じ人でも時と場所、精神状態で答えは変わると思います。
私はこれまでのブログをご覧いただいてもお解かりかと存じますが、神仏は敬う人間で、唯物主義の社会主義とは立場が異なるものですが、それはそれとして、印象に残っている話があります。
ある人が(蛇足かもしれませんがいわゆる右よりの方です)がたまたま某社会主義国の大臣と話す機会があって、その上着の袖に見えた白い清潔に洗われたシャツのはしが丁寧に繕われていたのを見て、その人物の質朴な人柄がしのばれ感銘を受けたという話があります。
これも、一国の大臣たるもの、そんな貧乏くさい服を着て人に会うとはなんだ、威厳がないではないか、とか、人を馬鹿にしているのかと憤慨される方もおられるかも知れません。
受け取り方は人それぞれだと思います。
もう一つ、おもしろい話があります。
あの一休さん逸話です。
何度か文章を引用させていただいている足立大進氏の著作からまた引用させていただきます。
<京都で指折りのお金持ちが、一休さんに供養を頼んだ>
<ところが。茶目気のある一休さんです。その前日の夕方、一休さんはぼろぼろの雲水法衣を着て、その金持ちの商家の前へ立って托鉢をなさった。
使用人たちは、翌日の準備で忙しい時です。そんなこところへ立っているんじゃないの、早く向こうへ行けというふうにみんながやるわけです。表が騒がしいので、そこの主(あるじ)も出てきて、「そんな乞食坊主、早く追い出せ」と言った。それで、一休さんはその日すごすごと帰った。
次の日、一休さんはきれいな法衣を来て、何人かのお供を連れてその家へお出でになった。すると、主人をはじめ番頭さんたちが>
歓迎するわけですが
<そしたら、一休さんは、「いや、俺はここでいいよ」とおっしゃる。そして、「昨日は大変痛いおもてなしを頂いて・・・」>
<「昨日の夕方坊主が来ただろう。その時、叩き出されたのは、この俺なんじゃ。お前さんたちが用があるのは、このきれいな法衣じゃろう。そんなに法衣が有り難ければ、この法衣にお布施をやってくれ」と言って、その場で法衣を脱いで、家の中に放り込んでお帰りになったという逸話がございます>
(『<ありがとう>の人生』足立大進・著/春秋社より)
まあちょっと意地悪な?一休さんかもですが、世の中にはしばしばこの商人のような人がいます。
人を見ているのではなくその肩書きとか権威を見ているに過ぎません。
それは一つの目の曇りであって、一休さんはそれをさとしたかったのかもしれません。
実は私(山本)は、根はけっこう人が悪い人間です(笑)。
いたずらも大好きです。
だからちょっとだけ乱暴なことを書きますと
私が偉そうに語らないことでその内容に価値がないと思われる方がもしいらっしゃるなら(いや充分おまえは偉そうだとおっしゃる方もおられるでしょう)いいじゃないですかそれで(笑
本当に価値がないなら、それでいい。無駄なものを拾わずにすんで幸いです。
では、もし価値があったらどうか。
それは、そういう「偉そうか偉そうでないか」で相手の値踏みをするという勘違いをした、その結果として、その方は価値ある情報を取り損ねられたわけで、まあ一種の因果応報でしょう。
その勘違いに気づくまで、人生で同じことを繰り返されるだけです。
どっちにころんでも私はかまいません。
人はころんで覚えるものです。
というわけで、きょうもこうして独り言を書いております。
ありがとうございました。
きょうも良き日を♪
『メタルマックス3』『ダライアスバースト』のライブイベントのお知らせ
です。
すでにネット等で告知されていますが、2011年3月6日に渋谷 O-EAST(東京都渋谷区道玄坂2-14-8 2F)で、上記のライブが開催されます。
メタルマックスはその1部の方で、[開場]14:30/[開演]15:00(16:30終了予定。
途中に宮岡 寛(ゲームデザイン)門倉 聡(サウンド)の両氏に私、山本 貴嗣(アートワーク)が参加してのトークがはさまれます。
興味とお時間のおありな方はどうぞ♪
まずはお知らせまで。ではでは♪
です。
すでにネット等で告知されていますが、2011年3月6日に渋谷 O-EAST(東京都渋谷区道玄坂2-14-8 2F)で、上記のライブが開催されます。
メタルマックスはその1部の方で、[開場]14:30/[開演]15:00(16:30終了予定。
途中に宮岡 寛(ゲームデザイン)門倉 聡(サウンド)の両氏に私、山本 貴嗣(アートワーク)が参加してのトークがはさまれます。
興味とお時間のおありな方はどうぞ♪
まずはお知らせまで。ではでは♪
先日友人と「見下ろし目線で語る人」について話しました。
「見下ろし目線」かどうかは大雑把に二つ重要な要素があると思います。
一つは語る側に聞き手に対しての差別意識があるか。語る側が自分は聞き手より上等な人間であると思っているか。
もう一つは聞く側に被差別意識があるかどうか。劣等感があって話し手より自分は劣った人間だと思っているかどうか。
最初にお断りしておきますが、私は人間の貴賎などというものは一つの錯覚だと思っています(社会が決めた慣習上の身分や階級は地球上のあちこちに存在しますが、それは時と所で変わるものです)。
実は話した友人はお坊さんで、その方が同業者の一般の人々に対して「見下ろし目線で語る」態度に同意しかねるというのがきっかけだったんですが(お釈迦さまが見下ろし目線で説教されただろうか、聞く人の立場に立って話されたんじゃないだろうか、という)
まず、何か悟りに向かって修行が進んだ分、他の人間より自分は上等になったと思うようになった時点でそれは道を誤ってるでしょうから、論外だと思います。
また、お釈迦様の教えに「人を見て法を説け」というのがあったように思いますが、それは百人に百通りの語り方があるということで、吊るしの服のように全員同じ服を着せることではないでしょう。厳しい言い方をした方がためになる人、優しく言った方がためになる人、相手に応じて語り方を変えられただろうと思いますし、それは時代を超えて智慧ある人の態度だろうと思うものです。
人間あるジャンルで他人より学びが深い人はいるのが当然で、だからこそ病気になったら医者に行き、法律で困ったら弁護士に相談に行く。
それはあくまでその分野で自分にない知識と知恵を借りに行くわけで、世間的には相談される側が「先生」などと呼ばれますが、だからといって人間的に上下や高低があるわけではありません(非礼な態度でタメ口で接しましょうという意味ではありません)。
ただ「先生せんせい」などと言われている内に、勘違いして何か自分がエラくなったような錯覚を起こす人はいます。
一方、やたらと劣等感の強い人もいて、ただ他人が自分の知らないたことを語っているだけで、自分が馬鹿にされたような気がしてきて敵意を燃やす。私はこれを「自爆型」と呼んでいます。その手の人は誰も差別していないのに勝手にされたと思い込む。
昔ネットで読んだ記事ですが、夜間学校か何かの先生の書かれたもので、その方がある学校で教え始められたとき生徒さんがなかなか打ち解けてくれない。困っているとあるとき一人の生徒さんが
「ネクタイなんかしやがって」
と言われた。
いわゆるブルーカラーの社会人の多いクラスで、皆さん職場で時には自分より若い上司にただ学歴が違うというだけで馬鹿にされたり差別される。そういう上司はたいがい作業服ではなくネクタイをしてる。そのためネクタイを見ただけで嫌な記憶がよみがえって心を開く気になれなかった。
その先生はそれに気づいて反省され、次からノーネクタイで授業をされるようになり、次第に生徒さんとも距離が近づいたというような記事でした。
この場合、その先生に何も罪はないし見下ろし目線があったわけではないと思うのですが、聞き手の側には劣等感があった。
無論だからと言って生徒さんが悪いわけでもなく、不幸な過去と不幸な思い違いがあったと思うものです。
私が子どもだったころも、人と変わっているというだけで発生するイジメはありましたが、話に聞くと近年それがかなり悪質で過激になっているようです(一々情報の裏をとって確認したわけではないので、実際どこまで本当かはわかりませんが)。
ある人はある人より勉強ができたり、運動ができたり、美貌に恵まれたり、金持ちだったり
違いはいつの世にもありますが
だからと言って上等な人間や下等な人間がいるわけではありません。
卑劣な殺人鬼と聖人賢者を同列に語るのかというツッコミもあるでしょうが、それは社会秩序という点では区別されるでしょうが、おそらく聖人賢者と呼ばれる人々が、「自分はこの犯罪者よりも悟ったエラい存在である」と自負していたとは私には思えません。
悟りは「差を取ること」という話もあるくらいで(笑)
自他の区別なく慈悲を持つことが叡智の道であることを思えば、そこに独善的な優越感などは入る余地がないと思います(毎回補足しますが、人権を名目に犯罪者を野放しにすることとかではありません、念のため)。
それから、世の中には一部に「叱られたい人」というのが存在するようです。
心中自分のあり方に疑問を持っているのだけれど、親や教師には反発していたり、まともな教育をしてくれる親や教師に恵まれなかったり。
で、きちんと叱ってくれる人を心の底では求めている。
そういう人には、ある意味多少の見下ろし目線の説教が、ちょうどいい導きになる場合もあるかも知れません。
一方で、その心のスキマにつけこむ、やたら見下ろし目線で叱り付けるまがい物の説教屋がもてはやされたりもします。
大雑把に言うと、世の中には本当に「見下ろし目線」でそう思われてる人と、全然そんな意識はないのに「見下ろし目線」だと思われてる人がいる。また、その中間の段階の人もいる。自分の心の中には一点の曇りもないほど優越感も差別意識もないと断言できる人はそういないでしょうから。
そういう私も、時々立ち止まって自己点検しますが、ある種のくだらん優越感とか見下ろし目線な意識を見つけて「訂正削除」することがあります。
そういうものは、ただ自分の人間性を下げるだけでなんの得にもなりません。
たぶん一生かけて「掃除」していくことになるのでしょう。
ちなみに、この手の話をアップしているのも、自分が色々道を求めてさまよっていたとき、ご自身の「研究成果」をまとめてアップしておいでの方の記事にずいぶん助けられた経験があるからです。
どんな方の記事も、限られた知識と経験に基づくその方なりの見解ですから、けして妄信することなく、一つの手がかり足がかりとして参考にさせていただきました。今もそうです。
今はネットが発達して、昔はあちこちに話を聞きに言ったり書物を調べに駆け回らなくてはならなかったものが、自分の部屋で居ながらに短時間で知ることができます。
私も、そういう過程でお世話になった見知らぬ方に、なにもご恩返しもできないかわり、同様に道を模索しておいでの方の、何か踏み台になれたらと思うものです。
きょうも良き日をお過ごしください。
ありがとうございました。
「見下ろし目線」かどうかは大雑把に二つ重要な要素があると思います。
一つは語る側に聞き手に対しての差別意識があるか。語る側が自分は聞き手より上等な人間であると思っているか。
もう一つは聞く側に被差別意識があるかどうか。劣等感があって話し手より自分は劣った人間だと思っているかどうか。
最初にお断りしておきますが、私は人間の貴賎などというものは一つの錯覚だと思っています(社会が決めた慣習上の身分や階級は地球上のあちこちに存在しますが、それは時と所で変わるものです)。
実は話した友人はお坊さんで、その方が同業者の一般の人々に対して「見下ろし目線で語る」態度に同意しかねるというのがきっかけだったんですが(お釈迦さまが見下ろし目線で説教されただろうか、聞く人の立場に立って話されたんじゃないだろうか、という)
まず、何か悟りに向かって修行が進んだ分、他の人間より自分は上等になったと思うようになった時点でそれは道を誤ってるでしょうから、論外だと思います。
また、お釈迦様の教えに「人を見て法を説け」というのがあったように思いますが、それは百人に百通りの語り方があるということで、吊るしの服のように全員同じ服を着せることではないでしょう。厳しい言い方をした方がためになる人、優しく言った方がためになる人、相手に応じて語り方を変えられただろうと思いますし、それは時代を超えて智慧ある人の態度だろうと思うものです。
人間あるジャンルで他人より学びが深い人はいるのが当然で、だからこそ病気になったら医者に行き、法律で困ったら弁護士に相談に行く。
それはあくまでその分野で自分にない知識と知恵を借りに行くわけで、世間的には相談される側が「先生」などと呼ばれますが、だからといって人間的に上下や高低があるわけではありません(非礼な態度でタメ口で接しましょうという意味ではありません)。
ただ「先生せんせい」などと言われている内に、勘違いして何か自分がエラくなったような錯覚を起こす人はいます。
一方、やたらと劣等感の強い人もいて、ただ他人が自分の知らないたことを語っているだけで、自分が馬鹿にされたような気がしてきて敵意を燃やす。私はこれを「自爆型」と呼んでいます。その手の人は誰も差別していないのに勝手にされたと思い込む。
昔ネットで読んだ記事ですが、夜間学校か何かの先生の書かれたもので、その方がある学校で教え始められたとき生徒さんがなかなか打ち解けてくれない。困っているとあるとき一人の生徒さんが
「ネクタイなんかしやがって」
と言われた。
いわゆるブルーカラーの社会人の多いクラスで、皆さん職場で時には自分より若い上司にただ学歴が違うというだけで馬鹿にされたり差別される。そういう上司はたいがい作業服ではなくネクタイをしてる。そのためネクタイを見ただけで嫌な記憶がよみがえって心を開く気になれなかった。
その先生はそれに気づいて反省され、次からノーネクタイで授業をされるようになり、次第に生徒さんとも距離が近づいたというような記事でした。
この場合、その先生に何も罪はないし見下ろし目線があったわけではないと思うのですが、聞き手の側には劣等感があった。
無論だからと言って生徒さんが悪いわけでもなく、不幸な過去と不幸な思い違いがあったと思うものです。
私が子どもだったころも、人と変わっているというだけで発生するイジメはありましたが、話に聞くと近年それがかなり悪質で過激になっているようです(一々情報の裏をとって確認したわけではないので、実際どこまで本当かはわかりませんが)。
ある人はある人より勉強ができたり、運動ができたり、美貌に恵まれたり、金持ちだったり
違いはいつの世にもありますが
だからと言って上等な人間や下等な人間がいるわけではありません。
卑劣な殺人鬼と聖人賢者を同列に語るのかというツッコミもあるでしょうが、それは社会秩序という点では区別されるでしょうが、おそらく聖人賢者と呼ばれる人々が、「自分はこの犯罪者よりも悟ったエラい存在である」と自負していたとは私には思えません。
悟りは「差を取ること」という話もあるくらいで(笑)
自他の区別なく慈悲を持つことが叡智の道であることを思えば、そこに独善的な優越感などは入る余地がないと思います(毎回補足しますが、人権を名目に犯罪者を野放しにすることとかではありません、念のため)。
それから、世の中には一部に「叱られたい人」というのが存在するようです。
心中自分のあり方に疑問を持っているのだけれど、親や教師には反発していたり、まともな教育をしてくれる親や教師に恵まれなかったり。
で、きちんと叱ってくれる人を心の底では求めている。
そういう人には、ある意味多少の見下ろし目線の説教が、ちょうどいい導きになる場合もあるかも知れません。
一方で、その心のスキマにつけこむ、やたら見下ろし目線で叱り付けるまがい物の説教屋がもてはやされたりもします。
大雑把に言うと、世の中には本当に「見下ろし目線」でそう思われてる人と、全然そんな意識はないのに「見下ろし目線」だと思われてる人がいる。また、その中間の段階の人もいる。自分の心の中には一点の曇りもないほど優越感も差別意識もないと断言できる人はそういないでしょうから。
そういう私も、時々立ち止まって自己点検しますが、ある種のくだらん優越感とか見下ろし目線な意識を見つけて「訂正削除」することがあります。
そういうものは、ただ自分の人間性を下げるだけでなんの得にもなりません。
たぶん一生かけて「掃除」していくことになるのでしょう。
ちなみに、この手の話をアップしているのも、自分が色々道を求めてさまよっていたとき、ご自身の「研究成果」をまとめてアップしておいでの方の記事にずいぶん助けられた経験があるからです。
どんな方の記事も、限られた知識と経験に基づくその方なりの見解ですから、けして妄信することなく、一つの手がかり足がかりとして参考にさせていただきました。今もそうです。
今はネットが発達して、昔はあちこちに話を聞きに言ったり書物を調べに駆け回らなくてはならなかったものが、自分の部屋で居ながらに短時間で知ることができます。
私も、そういう過程でお世話になった見知らぬ方に、なにもご恩返しもできないかわり、同様に道を模索しておいでの方の、何か踏み台になれたらと思うものです。
きょうも良き日をお過ごしください。
ありがとうございました。
『ヒトはなぜ拍手をするのか-動物行動学から見た人間-』小林朋道・著/新潮社
著者は鳥取環境大学教授で専門は動物行動学、人間比較行動学。
<私はこの本で、人間の日常的な生活のなかに見られる「動作」や「行動」「心理」「感情」について頭に浮かぶものをいくつかあげ、進化の仕組みに照らして「なぜそうなのか」について分かりやすく解説してみようと思う>
とまえがきにあります。
<解説といっても、科学的に充分証明された知見を並べたわけではなく、これまでの研究成果も踏まえた、現時点での推察をふんだんに入れた内容にした>
と、ことわっておられる点が好感が持てます。
たまに科学の名を借りて、充分に証明認知されていない手前味噌な学説を、さも普遍的真理であるかのように述べておいでの先生も見かけますから、最初にこう書かれているとほっとします。
内容は読んでいただくしかありませんが、定価1000円(税別)でこの内容は私にはお買い得でした。
以下は目次です。
<第一部
1 なぜ女性は“内股”、男性は“外股”なのか?
2 なぜ友好的な気持ちを示すとき拍手をするのか?
3 出会いや別れの挨拶が、相手と同じ動作になりやすいのはなぜか?
4 なぜサングラス姿や「ポケットに手」は生意気に見えるのか?
5 葛藤状態のとき、頭を掻くのはなぜか?
6 怒りの表情と友好的な表情は、なぜあの表情になったのか?
第二部
7 並んで歩くカップルは、なぜ女性が左側になることが多いのか?
8 なぜ電話で謝るときにも頭を下げるのか?
9 上司はなぜ、椅子に座って部下を呼びつけるのか?
10 なぜ赤ん坊は「高い、高い」で笑うのか?
11 デート中でも、男がきれいな女性を見てしまうのはなぜか?
12 なぜ男子と女子とでは、動物に対する接し方が違うのか?
13 病院への見舞いに、なぜ花を持っていくのか?
第三部
14 なぜ振り込め詐欺にだまされるのか?
15 スポーツの有名人に“品格”を求めるのはなぜか?
16 なぜ幽霊を怖がるのか?
17 なぜ映画やテレビのドラマを見たがるのか?
18 快い風景が、男女で異なるのはなぜか?
19 なぜヒトには、リズム感があるのか?>
15の“品格”に関しては、朝青龍を例に解説されています。
もっとも相撲はスポーツとはやや異なりますが、その辺は著者の専門外のこととしてお読みいただければと思います(ジャンルは異なりますが、戦車と装甲車、自走砲の区別が一般の方にはつきません。キャタピラ履いて大砲がついてれば全部戦車と思われがちで、ときには報道番組でも勘違いされた解説がつきます)。
この本は、ただ読み物として楽しめるだけでなく、人が日ごろ感じる多くのもやもや
「あいつはどうしてああなのか」
に、ある程度の分析解説を与えてくれます。
ストレスと自分の間にワンクッション置いて、ちょっと一息入れて考えるきっかけになるんじゃないかと思うものです(原因の一つがわかったからって、即ストレスの大元が変わるわけじゃないですけど)。
蛇足ですが、この中に、腕時計を文字盤が手の外側にくるようにはめるか内側にくるようにはめるかの話があって、筋骨の付き方の関係で女性の何割かは内側にはめるけれど、著者の教え子で男性でそうはめる人は一人もいなかったと。
えー?
実は私、若いころから内側派。
ひじを外側に張って手の甲側の文字盤を見るより、ひじを正中心よりに持ってきて手首の内側の文字盤を見る方が好みなんです。
もっとも最近は腕時計字体はめることがなく、カラビナ時計をバッグにつけてるんですが。
別にトランスセクシュアルでもないんですが、そうかオレって男性としてはかなり変わった習性なのか、とこの本を読んで知りました。
しかし男性で内側に文字盤つける例はないのか?
そう思って先日ツイッターでつぶやいていたら、ドラマ『24』の主人公ジャック・バウアーがそうだと教えていただきました。
確かに!(笑
外側につけると文字盤の反射などが暗闇で敵に見つかる危険があるんですよね。
いや、色々興味深いです♪
追記
なぜ腕時計を内側にしてたか理由の一つを思い出しました。
外側だとうっかり何かにぶつけて文字盤傷つけるのがいやだったんです。
そのくせうっかり者で、ちょいとはずしてはなくすのに嫌気がさして、ずっとカバンに付けっぱなしのカラビナ時計にしたんです。
<あなたはひとりで倒れることを恐れないが、どうしてまた一人で起き上がれると、うぬぼれているのか?二人がいっしょの時は、どれほど多くのことができるかを考えるがよい>
十字架の聖ヨハネ(『愛への道』カルメル修道会編・聖母文庫より)
十字架の聖ヨハネ(『愛への道』カルメル修道会編・聖母文庫より)
昨年秋、ミッケルさんこと三毛波志乃とその子二匹(しろはな、くろはなの兄姉、通称はなはなズ)一家に乗っ取られたしろさんの寝箱ホワイトハウス1号館に代わり、業者に頼んで作製した二号館、冬が来ても断固として拒否してたしろさんが、ついに入ってくれました!
うれしー!
この幸せ顔を見よ♪(T貴T)
何度か抱っこして入り口まで連れて行ったりしたんですが、見知らぬ箱は絶対イヤ!と唸り声を上げて逃げてました。
でも
いつの日かきっと戻ると信じて、家出息子の部屋を整える親のように、妻と二人で毎晩箱の中に敷いたフリースの下に充電式電気アンカを入れていました。
空っぽの箱を眺める日々が何ヶ月も続きましたが
周囲をうろうろする内、だんだんに慣れて、ここのとこの冷え込みも手伝ったのかついに、自分のおうちと認識してくれたようです♪
今朝起きて雨戸を開けると、うにゃーと鳴いて箱から出てきました。
大きくのびをしてごはんの元へ。
報われました。
おかえりしろさん♪
先日新聞記事で、いしいしんじさんが紹介されてた小林一茶の句です。
「露の世は 露の世ながら さりながら」
死んだ娘にすがる妻を見て一茶が詠んだそうですが、この世の無常はよくよくわきまえているが、だが・・という。
世界で起こっている悲しいことも自分の人生のできごとも、言葉にすればこうかもと。
さすがは一茶、よく限られたこれだけの文字でこうも簡潔に表せるものだと・・・
「露の世は 露の世ながら さりながら」
死んだ娘にすがる妻を見て一茶が詠んだそうですが、この世の無常はよくよくわきまえているが、だが・・という。
世界で起こっている悲しいことも自分の人生のできごとも、言葉にすればこうかもと。
さすがは一茶、よく限られたこれだけの文字でこうも簡潔に表せるものだと・・・
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