私が昔描いた作品で『シンバッド』というのがあります。
シンドバッドの英語読みは途中のDが省略されて「シンバッド」となるんですが、ハリーハウゼンのシンドバッド映画などに敬意を表して、そういうタイトルにしました♪
主人公のシンバッドはアラビアに暮らす少年です。
と言っても現地人ではなく、東洋から流れ着いた孤児(実は日本人)で、優しいアラビア人の両親に拾われて暮らしています。
しかし彫りの深いイケメンの多いかの地で、三白眼で凹凸に乏しい顔のシンバッド(無論本名ではなく、拾った義理の両親に付けられた名)は、仲間たちからイジメを受けます。
そしてあるとき、ひょんなことから自分のルーツを探す長い旅に出る・・・
そんな話だったように思うのですが、何しろ二十年以上昔に描いた作品ですから、記憶違いがありましたらお詫びします(笑
表現規制の話とそれが何の関係があるんだと思われるでしょう。
あるのです。
と言うか、あったのです。
二年くらい続いたでしょうか、連載が終わりに近づいたころ、ちょうど世間では「マンガにおける黒人の差別表現」に関する問題が巻き起こっていました。
手塚先生や、鳥山明先生など、大家、新人を問わず、その作品中の黒人描写が差別的であるということで、描きなおしや回収の騒ぎが起こっていました。
原因がどういう人びとであったかは、すでに様々なところで言及されていますから、今更ここでは申しません。
ちなみに、私はいかなる差別にも賛成しません。無論黒人差別もです。
黒人はその身体的美しさにおいて特筆すべき人々であり(肉体だけが長所だという意味ではありません)、絵のモデルとして昔から取り上げてきました。最新作の『戦闘女神アヌンガ』は、その一つの成果です。
白人の優越的史観で書かれた古い歴史書には、アフリカの黒人には歴史と呼べるようなものはないだとか、様々な差別的断定が満ち溢れていました。研究が進んだ現在では、それが偏見に過ぎないことが明らかにされています。
もっとも日本における黒人とその文化に関する理解はいまだにお寒いものであり、中には
「アフリカ大使館」
というものが存在すると思っている人さえいる、と何かの本で読んだことがあります(日本も中国朝鮮ベトナムその他アジアの国々も一つにした「アジア大使館」があると思っているようなものです)。
黒人の美術は、ラクガキのような絵や彫刻しかないという偏見もあります。
あれは一つのデフォルメ表現であり、写実的な美術を生み出した黒人文化もちゃんとあります。白人優越史観の学者たちは、こんなものが黒人に作れるわけがない、この土地に流れてきた白人の作ったものだ、とか、中にはアトランティス人の作ったものだなどと言う人までいたそうです。
イフェ文化の精緻なブロンズ像などを見ればその偏見は消えるでしょう。
さて、そういう話題は別の機会に申し上げるとして、表現規制に戻ります。
シンバッドの旅は進んで、舞台はインドに移りました。
言うまでもなく、かの地の人の肌は黒いです(東洋人に比べてですが)。
私もそのように描きました。
すると編集部から電話がありました。
黒人を出すのをやめてくれというのです。
「はあ?」
山本さん、今世の中でどういう運動が起こっているかご存知でしょう、と言うのです。
知っていますがそれが何か?インドで肌の浅黒い人びとが登場することになんの問題がありますか。
シンドバッド映画をご覧になった方なら想像がつかれると思いますが、主人公が異国に行けば、当然その国の悪役がちょっかいを出してきます。悪辣なやつもいれば善人もいるし、道化役のキャラクターもいます。
そういう存在を描くだけで目を付けられるからやめてくれと言うのです。
別にクレーム団体から私に抗議があったわけではありません。
ただ編集部の判断で、臭いものにはフタ、目を付けられるようなものは掲載しないというわけです。
「自主規制」という名の「表現規制」でした。
私はすでに描いていたすべてのコマのインド人の肌を白い肌に描き直させられました。インドには黒い肌の人はいないのです。描き手の意識や表現とは無関係に、存在自体が消されたのです。
インドの人は肌は黒いけれど、アフリカ系のネグロイドとは人種が違います(顔立ちを見れば一目瞭然)。ですので、当時吹き荒れていたもっぱらアフリカ系黒人の差別表現撤廃の運動とは、そもそもピントがずれていたわけですが、そんなことはおかまいなしでした。
もっとも、連載の最初から黒い肌だった乙女のジャリスや、主人公の友人のヒコは、いまさら変更もならず肌は黒いままでしたが(笑)。
そして、インド編を最後に、『シンバッド』は連載終了を言い渡されました。1991年のことでした。
終了は私の不徳のいたすところで、人気不足が原因だったのでしょう。
しかし、この事件は、私に表現規制に関して、少なからぬ印象を残しました。
このときの一連の運動と表現規制は、お上が命じたものではなく、一部の一般市民の起こしたものでした。多くの表現者、出版関係者がそれに動かされ、影響を受けました。
別に恨みなどはありません。
もはや昔の思い出です。
ただ、私は、分別のある客観的な表現規制などというものを、これっぱかりも信じません。
どういう形であろうとも、また同じようなことが起こるでしょう。
ミソも糞もいっしょくたにした、●●叩きが起こるでしょう。
危ないものはまとめて封じこめればいいのだ。
それは、第二次大戦当時の合衆国における「日本人強制収用」のようなものです。嵐が過ぎたずっと後、被害者が亡くなった後で「違法だった」などと認められても、なんの足しにもなりません。
二十年前のテーマは「黒人」でした。
今度は何でやるのでしょうか。
シンドバッドの英語読みは途中のDが省略されて「シンバッド」となるんですが、ハリーハウゼンのシンドバッド映画などに敬意を表して、そういうタイトルにしました♪
主人公のシンバッドはアラビアに暮らす少年です。
と言っても現地人ではなく、東洋から流れ着いた孤児(実は日本人)で、優しいアラビア人の両親に拾われて暮らしています。
しかし彫りの深いイケメンの多いかの地で、三白眼で凹凸に乏しい顔のシンバッド(無論本名ではなく、拾った義理の両親に付けられた名)は、仲間たちからイジメを受けます。
そしてあるとき、ひょんなことから自分のルーツを探す長い旅に出る・・・
そんな話だったように思うのですが、何しろ二十年以上昔に描いた作品ですから、記憶違いがありましたらお詫びします(笑
表現規制の話とそれが何の関係があるんだと思われるでしょう。
あるのです。
と言うか、あったのです。
二年くらい続いたでしょうか、連載が終わりに近づいたころ、ちょうど世間では「マンガにおける黒人の差別表現」に関する問題が巻き起こっていました。
手塚先生や、鳥山明先生など、大家、新人を問わず、その作品中の黒人描写が差別的であるということで、描きなおしや回収の騒ぎが起こっていました。
原因がどういう人びとであったかは、すでに様々なところで言及されていますから、今更ここでは申しません。
ちなみに、私はいかなる差別にも賛成しません。無論黒人差別もです。
黒人はその身体的美しさにおいて特筆すべき人々であり(肉体だけが長所だという意味ではありません)、絵のモデルとして昔から取り上げてきました。最新作の『戦闘女神アヌンガ』は、その一つの成果です。
白人の優越的史観で書かれた古い歴史書には、アフリカの黒人には歴史と呼べるようなものはないだとか、様々な差別的断定が満ち溢れていました。研究が進んだ現在では、それが偏見に過ぎないことが明らかにされています。
もっとも日本における黒人とその文化に関する理解はいまだにお寒いものであり、中には
「アフリカ大使館」
というものが存在すると思っている人さえいる、と何かの本で読んだことがあります(日本も中国朝鮮ベトナムその他アジアの国々も一つにした「アジア大使館」があると思っているようなものです)。
黒人の美術は、ラクガキのような絵や彫刻しかないという偏見もあります。
あれは一つのデフォルメ表現であり、写実的な美術を生み出した黒人文化もちゃんとあります。白人優越史観の学者たちは、こんなものが黒人に作れるわけがない、この土地に流れてきた白人の作ったものだ、とか、中にはアトランティス人の作ったものだなどと言う人までいたそうです。
イフェ文化の精緻なブロンズ像などを見ればその偏見は消えるでしょう。
さて、そういう話題は別の機会に申し上げるとして、表現規制に戻ります。
シンバッドの旅は進んで、舞台はインドに移りました。
言うまでもなく、かの地の人の肌は黒いです(東洋人に比べてですが)。
私もそのように描きました。
すると編集部から電話がありました。
黒人を出すのをやめてくれというのです。
「はあ?」
山本さん、今世の中でどういう運動が起こっているかご存知でしょう、と言うのです。
知っていますがそれが何か?インドで肌の浅黒い人びとが登場することになんの問題がありますか。
シンドバッド映画をご覧になった方なら想像がつかれると思いますが、主人公が異国に行けば、当然その国の悪役がちょっかいを出してきます。悪辣なやつもいれば善人もいるし、道化役のキャラクターもいます。
そういう存在を描くだけで目を付けられるからやめてくれと言うのです。
別にクレーム団体から私に抗議があったわけではありません。
ただ編集部の判断で、臭いものにはフタ、目を付けられるようなものは掲載しないというわけです。
「自主規制」という名の「表現規制」でした。
私はすでに描いていたすべてのコマのインド人の肌を白い肌に描き直させられました。インドには黒い肌の人はいないのです。描き手の意識や表現とは無関係に、存在自体が消されたのです。
インドの人は肌は黒いけれど、アフリカ系のネグロイドとは人種が違います(顔立ちを見れば一目瞭然)。ですので、当時吹き荒れていたもっぱらアフリカ系黒人の差別表現撤廃の運動とは、そもそもピントがずれていたわけですが、そんなことはおかまいなしでした。
もっとも、連載の最初から黒い肌だった乙女のジャリスや、主人公の友人のヒコは、いまさら変更もならず肌は黒いままでしたが(笑)。
そして、インド編を最後に、『シンバッド』は連載終了を言い渡されました。1991年のことでした。
終了は私の不徳のいたすところで、人気不足が原因だったのでしょう。
しかし、この事件は、私に表現規制に関して、少なからぬ印象を残しました。
このときの一連の運動と表現規制は、お上が命じたものではなく、一部の一般市民の起こしたものでした。多くの表現者、出版関係者がそれに動かされ、影響を受けました。
別に恨みなどはありません。
もはや昔の思い出です。
ただ、私は、分別のある客観的な表現規制などというものを、これっぱかりも信じません。
どういう形であろうとも、また同じようなことが起こるでしょう。
ミソも糞もいっしょくたにした、●●叩きが起こるでしょう。
危ないものはまとめて封じこめればいいのだ。
それは、第二次大戦当時の合衆国における「日本人強制収用」のようなものです。嵐が過ぎたずっと後、被害者が亡くなった後で「違法だった」などと認められても、なんの足しにもなりません。
二十年前のテーマは「黒人」でした。
今度は何でやるのでしょうか。
3月15日の日記でも申し上げました、私のエッセイマンガ『マンガ家で行こう』が掲載されている雑誌「カイト」の見本誌が、数日前編集部から届きました。こんな本です。
どこかでお目にかかれましたら光栄です♪
どうぞよろしくお願いします。
表現規制の問題にも関連することで、オススメ書籍を一つ。
10年以上前に邦訳が出た書籍ですので、すでにお読みになった方もおいででしょうが
A.プラトニカス/E.アロンソン=著/社会行動研究会=訳の
『プロパガンダ-広告・政治宣伝のからくりを見抜く』(誠信書房)
前からご紹介したいと思いつつ、あまりに引用したい箇所が多すぎてまとめようがなく、そのままにしていた一冊です。
この中に、おもしろい箇所があります。以下いささか長いかもですが、引用します(同書98ページより)。
<われわれは立派な人の言うことを、そうでない人が言うことよりも完全に、また容易に信じてしまう。(中略)その人の品性は、彼の持つ説得の手段のなかで最も効果的なものといっても過言ではないのである>
<このアリストテレスの観察が科学的研究によって実証されるまでには、ニ、三百年の歳月が必要だった(2,300年の誤植と思われます/山本=注)。研究を実証したのは、ホブランドとワイスであるが、彼らが行ったことはじつに単純である。大勢の人びとに対してある特定の見解--たとえば
「ソ連が近いうちに原子力潜水艦を建造する」
--を論じた情報を提示したのである(この実験は1951年に実施されたが、当時、そのような目的に原子力エネルギーを利用することは夢物語だった)。>
<ある人びとは、その論述が、非常に尊敬され、国民的に知られた原子物理学者オッペンハイマーによるものであると知らされた。別の人びとには、同じ論述が、信憑性の低い情報源--ソ連共産党の機関紙『プラウダ』--のものとされた。もちろん『プラウダ』はアメリカにおいては、その客観性と信頼性の点において評価が低かった。>
<まず実験の参加者は、この話題に関する自分の意見を質問紙に回答するように求められた。その後に、原子力潜水艦に関する前述の論述を読むように求められた。その結果、オッペンハイマーからの情報と信じた人々は、高い割合で意見を変えた。すなわち、彼らは原子力潜水艦が実現すると、より強く信じるようになったのである。>
ここまでは、まあ予想がつきます。
しかし興味深いのは、もう一方の被験者についての部分。
<一方、『プラウダ』からの情報とされた人のほとんどは、その情報の示す方向に意見を変化させることはなかった。>
<彼らの他にも何人かの研究者が、異なる話題を用いても、また情報の送り手を変えても、これと同じ現象の起こることを繰り返し確認してきた。>
これは非常に興味深い、ある意味おそろしい事実だと思います。
人は一度「くだらない」と思い込んだ意見を、変えない傾向があるということです。
中立的な情報、科学的なデータを見せられても「そもそも、あんな連中の言うことだから(信じられない)」
逆に「あんなすばらしい人の言うことだから間違いなはずがない」にもなるわけですが。
なぜ時々人があれほど一度囚われた偏見にしがみつき、頑迷固陋であるのか?ということの、一つの答えがここにあるように思います。
表現規制問題の三回目ですが、長い話ばかりだと打つのもお読みくださるのも大変ですので、今回は手短に。
表現規制を行うには、その客観的な判断の「目安」が必要になります。
そこで思い出すのですが、
あの北野武監督が海外で
「あなたの映画の暴力シーンは怖い」
という意味のことを言われたことがあったように思います。
で、北野氏が
「何を言うんだ、ハリウッド映画なんかもっとたくさんの人がバンバン撃たれたりして死んでるじゃないか」
と返すと、質問者が
「ハリウッドのあれはコミックだが、あなたのはリアルだ」
という意味のことを言ったという。
無論、北野氏の表現も、一つのエンターテインメントの枠内である以上、ある種のお約束の範囲を出ない部分はあるのですが、ハリウッド的な「痛みのない暴力表現」とは一線を画していると思います(だから、どっちが優れているとか下だとか言うのではありません)。
「痛みのない暴力表現」というのは、以前知人のブログで目にした言い回しなのですが、『トランスフォーマー』などのアクション映画で、明らかにたくさんの人が殺されているのに、演出的にまったく痛みが伝わってこない。そんなこと考えないで楽しみましょうよ、な見せ方になっているということです。
無論、ああした作品は戦争の悲惨さを伝えようとかいうものではなく、難しいことは考えずにアクションを楽しむものでしょうから野暮なことを言うつもりはありませんが、私のように、暴力はそれなりの結果を伴うということを念頭においた殺陣が好きな人間には、物足りないものがあります。
それはさておき
北野氏に上記の質問をした人は、殺戮シーンの残酷さが、作中の単純な血のりや人死にの量では量れないこと
問題となるのはその「質」であることがわかっておいでだったわけですが
こういう感覚のない方というのが世の中にはいらして
杓子定規に「量だけ」で表現の判定を行い始めた場合(そういう役職にそういう人物がついた場合)
暴力表現であろうと性表現であろうと、またその他のジャンルに関しても、まったく見当はずれのジャッジが次々と展開されていくことになります。
同様に、その種の感覚のない人同士の間においては、それが確実な「実績」として評価されるでしょうし、お役所仕事の帳簿上のつじつまは合ってしまい、特に問題視されることもなく過ぎていくと、困ったことだなあと思うものです。
それでは続きはまた4で。
表現規制を行うには、その客観的な判断の「目安」が必要になります。
そこで思い出すのですが、
あの北野武監督が海外で
「あなたの映画の暴力シーンは怖い」
という意味のことを言われたことがあったように思います。
で、北野氏が
「何を言うんだ、ハリウッド映画なんかもっとたくさんの人がバンバン撃たれたりして死んでるじゃないか」
と返すと、質問者が
「ハリウッドのあれはコミックだが、あなたのはリアルだ」
という意味のことを言ったという。
無論、北野氏の表現も、一つのエンターテインメントの枠内である以上、ある種のお約束の範囲を出ない部分はあるのですが、ハリウッド的な「痛みのない暴力表現」とは一線を画していると思います(だから、どっちが優れているとか下だとか言うのではありません)。
「痛みのない暴力表現」というのは、以前知人のブログで目にした言い回しなのですが、『トランスフォーマー』などのアクション映画で、明らかにたくさんの人が殺されているのに、演出的にまったく痛みが伝わってこない。そんなこと考えないで楽しみましょうよ、な見せ方になっているということです。
無論、ああした作品は戦争の悲惨さを伝えようとかいうものではなく、難しいことは考えずにアクションを楽しむものでしょうから野暮なことを言うつもりはありませんが、私のように、暴力はそれなりの結果を伴うということを念頭においた殺陣が好きな人間には、物足りないものがあります。
それはさておき
北野氏に上記の質問をした人は、殺戮シーンの残酷さが、作中の単純な血のりや人死にの量では量れないこと
問題となるのはその「質」であることがわかっておいでだったわけですが
こういう感覚のない方というのが世の中にはいらして
杓子定規に「量だけ」で表現の判定を行い始めた場合(そういう役職にそういう人物がついた場合)
暴力表現であろうと性表現であろうと、またその他のジャンルに関しても、まったく見当はずれのジャッジが次々と展開されていくことになります。
同様に、その種の感覚のない人同士の間においては、それが確実な「実績」として評価されるでしょうし、お役所仕事の帳簿上のつじつまは合ってしまい、特に問題視されることもなく過ぎていくと、困ったことだなあと思うものです。
それでは続きはまた4で。
前回に引き続きましてこの問題です。(ここからお読みの方は、なんだかわからない部分もおありかも知れませんので、18日の日記「表現規制の問題に関して1」から、お読みいただけますと幸いです)。
私は本来気性の激しい偏狭な人間です。
偏ってはいますが、ある種の美意識も持っています。
ですので、マンガにせよ他の娯楽にせよ、見ていて、なんでこんなしょーもない見るに耐えない作品があるのだろうと思ったことは何度もあります。
こんなマンガ焚書にしたらいいんじゃないかとか思ったことも多々あります。
ただ、私がそういう感情を抱くことと、それを実行に移していいかどうかはまったく別問題であり、言うまでもなく、私にそんな権利も資格もありません。
「人を呪わば穴二つ」という、いい言葉が東洋にはあります。
誰かにバカと言う者は、己がバカ扱いされ、誰かにクズと言う者は己がクズ扱いされるものです。
西洋には、聖書に、あなたが人を計る計りであなたも計りかえされるであろうという意味の文言があったように思いますが(「計り」じゃなくて「量り」だったかしらん?)、同じことだと思います。
蛇足ですが、そもそも私は自分が、なぜマンガ家と存在し続けていられるのか、よくわかりません。
オレもそう思うとおっしゃる方もおいでのはずです(笑)。
自分は価値あるすばらしい作家だなどとは思っていませんし、むしろ「無」と言うか、いつ消えてもおかしくない、いてもいなくてもいい存在だと思っています。
日々仕事があるのは奇跡だと思いますし、感謝のほかはありません。
この仕事が最後かも知れんなと思いながら、いったい何年過ごしてきたでしょう。
私が誰かに消えろと言うとき、私に誰かが消えろと言うでしょう。
だからと言って、反撃されるのが怖いから無法を見逃そうというような、後ろ向きのことを申し上げているのではありません。
今回の規制問題で、気になるのは、前回の日記「表現規制の問題に関して1」で申し上げた、相手の「矮小化」「藁人形攻撃」が賛成・反対双方の陣営で行われていて、それが大変低レベルであることです。
反対派の人々はなにも、児童ポルノはすばらしいから守り伝えて行こうなどと言ってはいません。いや、一部にはおいでなのかもですが、大半の方が問題視しておいでなのはそこじゃないんじゃないでしょうか。
児童ポルノ規制や、低俗エロマンガ取締りの名の下に、主観的な言論統制の権利を為政者に与える白紙委任状にハンコは押せないと言っているだけではないでしょうか。
その人々に、単なる「児ポ賛成擁護派」のレッテルを貼って笑い嫌悪するのは、『論理病をなおす!』(ちくま新書)で香西秀信氏が言うところの「藁人形攻撃」だと思います。
同書から、その「やや戯画化的な例」を引用します。
<学生「『論理学』の単位がないと看護学校を卒業できないので単位をください」
教師「君は試験で百点満点の五点しかとってないのでとても単位はやれない」
学生「しかし、出席点というものがあるでしょう」
教師「君は授業中、化粧を直したり雑誌を読んだりそんなことばかりしていたではないか。出席点なんかやれるか」
学生「それでは先生は、私に卒業するなと言うのですね。今看護師不足なのは御存知でしょう。一人でも多くの看護師が必要な時に、私に看護師になるなというのですね。病人や怪我人が、看護態勢の遅れで何人死んでも構わないと言うのですね」>
<これは「滑りやすい坂の議論」という詭弁を利用した藁人形攻撃である>
<もしあなたがAを選択すると、それはBという結果につながる。そしてBになれば今度はそれはCをもたらす。CはDに帰結し、最後には一連の因果の連鎖によって破滅的なEに到達してしまう。ゆえに最初のAを選択してはならないという論法である>(同書・97~98ページより)
規制賛成派の方々は、このAに、「現在の一部のマンガ等における目に余る(?)性表現の放置」を入れておいでなわけです。
規制反対派の方々は、このAに、「表現の規制」を入れておいでなわけです。
さて、児ポ規制と思想統制、言論弾圧の間には大きな隔たりがあるように思われるでしょうが、
私は「テロ支援国家に売り渡される、大量殺戮兵器に転用可能な民生機器」を連想します(ときどき新聞記事にもなりますよね)。
悪用された後で「私はただ農機具を売っただけだ、あちらも農業に使うと言っていた」と言っても遅いのです。
これに関しては、知事の人格を揶揄する意見などもお見受けしますが、私は別に、今のお上が「テロ支援国家」だなどと申し上げるつもりはありません(それは一つの「藁人形攻撃」です)。
ただ、「いかなる権力も腐敗する」ということは、おそらくどなたもよくご存知のことだと思います。
たとえ今、人格高邁で優れた知性を持ち、客観的で公平な視点を持った為政者が、その権限を手にしていたとしても、明日はどうだかわかりません。
私の尊敬する昔の賢人の一人に、以前日記でも取り上げました古代ローマの皇帝、マルクス・アウレリウスがいます。
「哲人皇帝」と呼ばれた彼でしたが、後を継いだ息子のコンモドゥスは、マッチョで夜遊び好きの、どうしようもないバカ息子でした(そんな息子に後を継がせたアウレリウスも、その程度のやつだったのだ、という意見や、立派でも所詮人の子、いや人の親だったのだという意見、そうではない、あれは息子に毒殺されたのだなど、様々な説があります)。コンモドゥスの暴君ぶりは、映画『グラディエーター』でも、カリカチュアライズされて描かれていたように思います(記憶違いでしたらすみません)。
どんな英明な為政者であっても、明日の後継者はわかりません。
コンモドゥスかも知れないしネロかも知れないのです。
あれ?それって今言った「滑りやすい坂の議論」じゃないのか?
Aに「規制」を当てはめた、反対派の言い分がまさにその「すべりやすい坂の議論」じゃないのか?
そうとも言えます。
ただ、反対派の人々は、規制すれば絶対思想言論統制になだれこむ、と決め付けておいでなんでしょうか?(意見の内容をすべて吟味してはいませんのでわかりませんが)決め付けておいでの方もいらっしゃるでしょう。そうでない方もおいででしょう。
私としては、そうなる危険性があるからやめておいた方がいいというものです。
「~すれば絶対こうなる」、というのは、神でも預言者でもありませんから、申せません(少なくとも私の知性では)。
ただ、自動車のシートベルトやエアバッグが、その車が絶対事故るからと言って付けられてているわけではありません。
場合によっては致命的な結果を招くこともありうるシステムには、なんらかの安全対策が必要です。
限られた権力者が独断で即断即決して悪を裁き処刑する物語は、マンガやドラマの中では昔から幾百千も作られてきました。
上告に上告を重ねたった一つの悪を裁くにも何十年もかかる現実にうんざりした人々に、それらは痛快な娯楽であったわけですが、娯楽はあくまで娯楽であって、現実世界で自分の有罪を、ご隠居様とその親しい側近数名で短期間に一方的に決められて、刑まで執行されたのでは、たまったものではありません。
蛇足ながら、わたくしごとを申し上げるならば
私の古くからの読者の方はご存知でしょうが、山本は元来成熟した女性が趣味で、たまに読者受けを狙ってかわいい乙女を描いてもほとんど成功したことがなく(例外は四半世紀も昔の、初期作品『エルフ17』くらいでしょうか)未成年エロなどが規制されても何ら失うものはありません。
描きたいものはいくらもあるし、少々何が規制されようが困ることはないでしょう。
人生でエロもグロもナンセンスも描いてきましたが、それは私の一側面であり、表現したいことは、そういった「がわ」とは別にあるものです。
とうわけで、私が懸念するのは、一部で争点になっているような目先の取り締まりのことではなく、
「農機具を大量破壊兵器に転用」された場合のことです。
ちなみに、先の「教師と生徒」のやりとりに、著者(香西氏)はこう書いておられます。
<因果関係や、その連鎖は、それ自体は何ら詭弁ではない。その因果関係に必然性があり、妥当と見なされるのであれば、それは論理的で正当な議論である。だが、その因果関係が「風邪が吹けば桶屋が儲かる」式にこじつけめいていて、明らかに恣意的につなげられているとき、その論法は「滑りやすい坂の議論」になっていると判断される。この学生の議論はその典型と言うべきものだ>
私(山本)は、今回の規制問題に関して、すべての賛成反対意見を吟味しているわけではありません。
ですので、個別にその可不可を言い立てることはできませんが、賛成にせよ反対にせよ、この「滑りやすい坂の議論」に陥らないようにしていただきたいものです。
無論、どれが「こじつけ」かという認識が、双方で異なっていることでしょうから、話はなかなか解決しないと思われます。
ただ、議論の参加者が増えれば増えるほど、そのレベルにもピンキリの幅が広がり、低レベルな意見も増えていきます。
その際(これはこの問題に限らずすべての問題においてそうですが)、相手側陣営を攻撃するのに、その低レベルな意見にフォーカスし
「あの連中はこんなくだらない意見を押し立ててくる愚か者の集団である」
というレッテルを貼って(前回申し上げた「藁人形攻撃」「矮小化」)、レベルの高い上澄みの意見までも、愚かで取り上げる価値もない無用のものであるといっしょくたにして決め付けるのは、一つの「短絡」「思考停止」だと思います。愚か者はどこにでもいますから、賛成派にせよ反対派にせよ、その愚かな部分にのみフォーカスするなら、どちらもともに愚かで馬鹿げていることになります。
一般に人間は感情のバイアスを受けますから、低レベルで不快な反対者が増えれば増えるほど(一杯の飯に石ころが一つ混ざっていても不愉快なように)それがよくよく考えれば少数派であっても、目に付く印象深い存在であれば多数のように感じ、どんどん耳を傾ける気をなくします。
私が高校生のころ(1970年代の話です)学校の服装や髪型の規制に関して、複数の生徒で教師に交渉に行ったことがありました。私も野次馬と言うか、興味を持ってついて行った記憶がありますが、その際、教師に向かって粗野で下品な野次を投げかける生徒がいて、あれは逆効果だなあと思ったものです。
そんなことをしても、ただ相手の印象を悪くし、態度を硬化させるだけです。
そういえば昔、空海が唐に向かった際、船が漂流して目的地とは異なる中国の沿岸に流れ着き、船の者が土地の役人に救済の嘆願を書き送ったが、文章がへたで相手にされず、空海が代わりに書いて送ったところ、即座に態度が変わって丁重なもてなしを受けたという話を読んだことがあります。
どこかのどうでもいい漂流者、ではなく、捨て置けないそれなりの人物であると思わせるだけの何かがあったのでしょうが
手紙にせよメールにせよ、書く人の知性と品格が現れるもので、こんな文章を書いてくる者の意見などどうせロクなもんじゃあるまいと思わせた時点で、その効果は半減どころか、かえってマイナスの場合もあると思われます。
昔から「夜書いた手紙は出すな」という言葉がありますが、感情と勢いにまかせて書いたメッセージは、一回寝て頭を冷やして読み直すくらいがいいのでしょう。
って、私の申し上げたいことはまだ全然途中ですが、今回はここで置きます。
「表現規制の問題に関して3」に続きます。
あいかわらず修羅場の日々で、これが来月上旬まで続きそうな状態で、さっきもきょうの仕事を終えてブログ管理画面にログインしようとして二回パスワードを打ち間違えました(疲れてます)(爆
言葉の足りない部分もあるかと存じますが、お詫び申し上げます。
長文お読みいただきありがとうございました。
きょうも良き日を。ではでは。
私は本来気性の激しい偏狭な人間です。
偏ってはいますが、ある種の美意識も持っています。
ですので、マンガにせよ他の娯楽にせよ、見ていて、なんでこんなしょーもない見るに耐えない作品があるのだろうと思ったことは何度もあります。
こんなマンガ焚書にしたらいいんじゃないかとか思ったことも多々あります。
ただ、私がそういう感情を抱くことと、それを実行に移していいかどうかはまったく別問題であり、言うまでもなく、私にそんな権利も資格もありません。
「人を呪わば穴二つ」という、いい言葉が東洋にはあります。
誰かにバカと言う者は、己がバカ扱いされ、誰かにクズと言う者は己がクズ扱いされるものです。
西洋には、聖書に、あなたが人を計る計りであなたも計りかえされるであろうという意味の文言があったように思いますが(「計り」じゃなくて「量り」だったかしらん?)、同じことだと思います。
蛇足ですが、そもそも私は自分が、なぜマンガ家と存在し続けていられるのか、よくわかりません。
オレもそう思うとおっしゃる方もおいでのはずです(笑)。
自分は価値あるすばらしい作家だなどとは思っていませんし、むしろ「無」と言うか、いつ消えてもおかしくない、いてもいなくてもいい存在だと思っています。
日々仕事があるのは奇跡だと思いますし、感謝のほかはありません。
この仕事が最後かも知れんなと思いながら、いったい何年過ごしてきたでしょう。
私が誰かに消えろと言うとき、私に誰かが消えろと言うでしょう。
だからと言って、反撃されるのが怖いから無法を見逃そうというような、後ろ向きのことを申し上げているのではありません。
今回の規制問題で、気になるのは、前回の日記「表現規制の問題に関して1」で申し上げた、相手の「矮小化」「藁人形攻撃」が賛成・反対双方の陣営で行われていて、それが大変低レベルであることです。
反対派の人々はなにも、児童ポルノはすばらしいから守り伝えて行こうなどと言ってはいません。いや、一部にはおいでなのかもですが、大半の方が問題視しておいでなのはそこじゃないんじゃないでしょうか。
児童ポルノ規制や、低俗エロマンガ取締りの名の下に、主観的な言論統制の権利を為政者に与える白紙委任状にハンコは押せないと言っているだけではないでしょうか。
その人々に、単なる「児ポ賛成擁護派」のレッテルを貼って笑い嫌悪するのは、『論理病をなおす!』(ちくま新書)で香西秀信氏が言うところの「藁人形攻撃」だと思います。
同書から、その「やや戯画化的な例」を引用します。
<学生「『論理学』の単位がないと看護学校を卒業できないので単位をください」
教師「君は試験で百点満点の五点しかとってないのでとても単位はやれない」
学生「しかし、出席点というものがあるでしょう」
教師「君は授業中、化粧を直したり雑誌を読んだりそんなことばかりしていたではないか。出席点なんかやれるか」
学生「それでは先生は、私に卒業するなと言うのですね。今看護師不足なのは御存知でしょう。一人でも多くの看護師が必要な時に、私に看護師になるなというのですね。病人や怪我人が、看護態勢の遅れで何人死んでも構わないと言うのですね」>
<これは「滑りやすい坂の議論」という詭弁を利用した藁人形攻撃である>
<もしあなたがAを選択すると、それはBという結果につながる。そしてBになれば今度はそれはCをもたらす。CはDに帰結し、最後には一連の因果の連鎖によって破滅的なEに到達してしまう。ゆえに最初のAを選択してはならないという論法である>(同書・97~98ページより)
規制賛成派の方々は、このAに、「現在の一部のマンガ等における目に余る(?)性表現の放置」を入れておいでなわけです。
規制反対派の方々は、このAに、「表現の規制」を入れておいでなわけです。
さて、児ポ規制と思想統制、言論弾圧の間には大きな隔たりがあるように思われるでしょうが、
私は「テロ支援国家に売り渡される、大量殺戮兵器に転用可能な民生機器」を連想します(ときどき新聞記事にもなりますよね)。
悪用された後で「私はただ農機具を売っただけだ、あちらも農業に使うと言っていた」と言っても遅いのです。
これに関しては、知事の人格を揶揄する意見などもお見受けしますが、私は別に、今のお上が「テロ支援国家」だなどと申し上げるつもりはありません(それは一つの「藁人形攻撃」です)。
ただ、「いかなる権力も腐敗する」ということは、おそらくどなたもよくご存知のことだと思います。
たとえ今、人格高邁で優れた知性を持ち、客観的で公平な視点を持った為政者が、その権限を手にしていたとしても、明日はどうだかわかりません。
私の尊敬する昔の賢人の一人に、以前日記でも取り上げました古代ローマの皇帝、マルクス・アウレリウスがいます。
「哲人皇帝」と呼ばれた彼でしたが、後を継いだ息子のコンモドゥスは、マッチョで夜遊び好きの、どうしようもないバカ息子でした(そんな息子に後を継がせたアウレリウスも、その程度のやつだったのだ、という意見や、立派でも所詮人の子、いや人の親だったのだという意見、そうではない、あれは息子に毒殺されたのだなど、様々な説があります)。コンモドゥスの暴君ぶりは、映画『グラディエーター』でも、カリカチュアライズされて描かれていたように思います(記憶違いでしたらすみません)。
どんな英明な為政者であっても、明日の後継者はわかりません。
コンモドゥスかも知れないしネロかも知れないのです。
あれ?それって今言った「滑りやすい坂の議論」じゃないのか?
Aに「規制」を当てはめた、反対派の言い分がまさにその「すべりやすい坂の議論」じゃないのか?
そうとも言えます。
ただ、反対派の人々は、規制すれば絶対思想言論統制になだれこむ、と決め付けておいでなんでしょうか?(意見の内容をすべて吟味してはいませんのでわかりませんが)決め付けておいでの方もいらっしゃるでしょう。そうでない方もおいででしょう。
私としては、そうなる危険性があるからやめておいた方がいいというものです。
「~すれば絶対こうなる」、というのは、神でも預言者でもありませんから、申せません(少なくとも私の知性では)。
ただ、自動車のシートベルトやエアバッグが、その車が絶対事故るからと言って付けられてているわけではありません。
場合によっては致命的な結果を招くこともありうるシステムには、なんらかの安全対策が必要です。
限られた権力者が独断で即断即決して悪を裁き処刑する物語は、マンガやドラマの中では昔から幾百千も作られてきました。
上告に上告を重ねたった一つの悪を裁くにも何十年もかかる現実にうんざりした人々に、それらは痛快な娯楽であったわけですが、娯楽はあくまで娯楽であって、現実世界で自分の有罪を、ご隠居様とその親しい側近数名で短期間に一方的に決められて、刑まで執行されたのでは、たまったものではありません。
蛇足ながら、わたくしごとを申し上げるならば
私の古くからの読者の方はご存知でしょうが、山本は元来成熟した女性が趣味で、たまに読者受けを狙ってかわいい乙女を描いてもほとんど成功したことがなく(例外は四半世紀も昔の、初期作品『エルフ17』くらいでしょうか)未成年エロなどが規制されても何ら失うものはありません。
描きたいものはいくらもあるし、少々何が規制されようが困ることはないでしょう。
人生でエロもグロもナンセンスも描いてきましたが、それは私の一側面であり、表現したいことは、そういった「がわ」とは別にあるものです。
とうわけで、私が懸念するのは、一部で争点になっているような目先の取り締まりのことではなく、
「農機具を大量破壊兵器に転用」された場合のことです。
ちなみに、先の「教師と生徒」のやりとりに、著者(香西氏)はこう書いておられます。
<因果関係や、その連鎖は、それ自体は何ら詭弁ではない。その因果関係に必然性があり、妥当と見なされるのであれば、それは論理的で正当な議論である。だが、その因果関係が「風邪が吹けば桶屋が儲かる」式にこじつけめいていて、明らかに恣意的につなげられているとき、その論法は「滑りやすい坂の議論」になっていると判断される。この学生の議論はその典型と言うべきものだ>
私(山本)は、今回の規制問題に関して、すべての賛成反対意見を吟味しているわけではありません。
ですので、個別にその可不可を言い立てることはできませんが、賛成にせよ反対にせよ、この「滑りやすい坂の議論」に陥らないようにしていただきたいものです。
無論、どれが「こじつけ」かという認識が、双方で異なっていることでしょうから、話はなかなか解決しないと思われます。
ただ、議論の参加者が増えれば増えるほど、そのレベルにもピンキリの幅が広がり、低レベルな意見も増えていきます。
その際(これはこの問題に限らずすべての問題においてそうですが)、相手側陣営を攻撃するのに、その低レベルな意見にフォーカスし
「あの連中はこんなくだらない意見を押し立ててくる愚か者の集団である」
というレッテルを貼って(前回申し上げた「藁人形攻撃」「矮小化」)、レベルの高い上澄みの意見までも、愚かで取り上げる価値もない無用のものであるといっしょくたにして決め付けるのは、一つの「短絡」「思考停止」だと思います。愚か者はどこにでもいますから、賛成派にせよ反対派にせよ、その愚かな部分にのみフォーカスするなら、どちらもともに愚かで馬鹿げていることになります。
一般に人間は感情のバイアスを受けますから、低レベルで不快な反対者が増えれば増えるほど(一杯の飯に石ころが一つ混ざっていても不愉快なように)それがよくよく考えれば少数派であっても、目に付く印象深い存在であれば多数のように感じ、どんどん耳を傾ける気をなくします。
私が高校生のころ(1970年代の話です)学校の服装や髪型の規制に関して、複数の生徒で教師に交渉に行ったことがありました。私も野次馬と言うか、興味を持ってついて行った記憶がありますが、その際、教師に向かって粗野で下品な野次を投げかける生徒がいて、あれは逆効果だなあと思ったものです。
そんなことをしても、ただ相手の印象を悪くし、態度を硬化させるだけです。
そういえば昔、空海が唐に向かった際、船が漂流して目的地とは異なる中国の沿岸に流れ着き、船の者が土地の役人に救済の嘆願を書き送ったが、文章がへたで相手にされず、空海が代わりに書いて送ったところ、即座に態度が変わって丁重なもてなしを受けたという話を読んだことがあります。
どこかのどうでもいい漂流者、ではなく、捨て置けないそれなりの人物であると思わせるだけの何かがあったのでしょうが
手紙にせよメールにせよ、書く人の知性と品格が現れるもので、こんな文章を書いてくる者の意見などどうせロクなもんじゃあるまいと思わせた時点で、その効果は半減どころか、かえってマイナスの場合もあると思われます。
昔から「夜書いた手紙は出すな」という言葉がありますが、感情と勢いにまかせて書いたメッセージは、一回寝て頭を冷やして読み直すくらいがいいのでしょう。
って、私の申し上げたいことはまだ全然途中ですが、今回はここで置きます。
「表現規制の問題に関して3」に続きます。
あいかわらず修羅場の日々で、これが来月上旬まで続きそうな状態で、さっきもきょうの仕事を終えてブログ管理画面にログインしようとして二回パスワードを打ち間違えました(疲れてます)(爆
言葉の足りない部分もあるかと存じますが、お詫び申し上げます。
長文お読みいただきありがとうございました。
きょうも良き日を。ではでは。
複数の方からメールでお問い合わせをいただいております、もっか物議をかもしております表現規制の問題について。
私は原則、ブログ等で政治向きの話題は書かないことにしております。
問題意識がないのではなく、あっても触れないだけです(一表現者として、大いに問題意識は持っております)。
理由の第一は、すべての(は無理としても、多くの)方に誤解のないよう、思うところをご説明申し上げることが困難であり、誤解が誤解を生んで大変双方にとって不愉快で不幸な結果に終わる例を多く(他の方のブログ、BBSなどで)見てきたこと。
私はいかなる議論、ディベートにも興味がないこと(若いころは大好きでしたが)。
議論ではなく対話は受け入れますが、私が思うような基本的な対話の姿勢を持っておられる方が、世間的にはほとんどいらっしゃらないこと、などです。
基本的な姿勢とは何かと言うと、相手に対する敬意です。
たとえそれが敵(だと自分が思っても)であってもです。
かのガンディーは、征服者であるイギリスに非暴力で抵抗した際、イギリス人を侮辱したり攻撃するのではなく、敬意を持って不服従を貫きました。
別に彼が完全無欠な聖人だなどと言うつもりはなく、欠点や問題点も多々あった一人の人間ですが、私は彼のその姿勢に共感するものです。
人は、愛と敬意と感謝のないアプローチに、心を開くことはありません。
怒り、嫌悪、侮蔑、そういったネガティブな感情を伴ったコンタクトには、人は反射的に身構え、かたくなになるか攻撃の姿勢(多くは好意的でない感情を伴う)を取ります。
それは、ほとんど無意識不随意の護「身」反射ならぬ護「心」反射と言ってもいいものだと思います。
それは、自我、あるいは自己のパーソナリティを防衛したいという衝動から起こります。
自我の確立も達成していない未成熟な段階としてではなく、確立したのちにそれを手放した人だけが、その衝動から自由にいられます。
無論、物質的な肉体を持ち、生物としての本能や、多くの化学物質の影響下にある人間が、完全にニュートラルな心を持てるかというと、まあ不可能と言っていいでしょう。
完全にそれらを達成した状態を、いわゆる悟りと言うのかもしれませんが、そんな境地に至ったことのない私にはわかりません。
ただ、その方向に向かって日々歩み、途上にある人とは、多少の対話が可能かもしれません。
人間のニュートラルな対話を妨げる性癖の最たるものの一つが
敵視、あるいは蔑視する相手の「単一化」「矮小化」があります。
心理学の実験でも結果が出ていたと思いますが、たとえば学生に複数の知らない学生の写真を見せて、その好みや性格などを想像させると、写真の人物が自分と同じ学校や好意的に思っている学校の生徒だと聞かされると、非常に多様性に富んだ性格を想像するのに対し、自分がバカにしている学校の生徒だと聞かされると、非常に型にはまった画一的な回答が返ってくるのです(あんな学校の生徒なんてこんなもんだろ、ですね)。
興味がない対象、嫌いであったりバカにしている対象には、よく考えないで単一のレッテルを貼るわけです。
それから「矮小化(わいしょうか)」は、その一変形とも言えますが、相手を低くくだらない存在だと決め付けることです。
特に、議論などにおいて顕著ですが
言葉には幅というものがあります。一つの言葉でもピンからキリまで様々な意味と解釈が含まれます。
気に入らない相手の言動は、常にその中でもっともくだらない、馬鹿げた方の意味を当てはめて解釈し、いかに相手が愚かでくだらない人間であるかと決め付けます。
私はこれを「矮小化」と呼んでいるのですが、もっとやわらかい親しみやすい表現はないかと悩んでいました。
私が読んだ、この種の問題を解析した名著の一つに香西秀信・著『論理病をなおす!』(ちくま新書)があります。
香西氏は私の言う「矮小化」を「藁人形攻撃」と表現しておいでです。
<藁人形攻撃とは、相手の主張を、こちらが反論しやすいように(故意に)歪めて表現する詭弁である>(同書78ページより)
これは日常のささいな口ゲンカから、国会などの政治討論の場まで、あらゆる所で使われています。
相手の言った言葉尻をとらえて、もっとも愚かしい解釈を当てはめ、おまえはこんなに馬鹿なコトを言っているくだらない人間であると「判決」を下します。
一方で、自分や自分の賛同者、自分の尊敬する人物の言動には、可能な限り意味深いすばらしい解釈を当てはめます。
人間は、自分につごうのいい情報はウソであっても信じたがる生き物であり、つごうの悪い情報は真実であっても認めたがらない生き物です(そこに様々な詐欺師がつけこむわけですが)。
そして、人間は自分に対して、しばしば大いなる嘘つきです。
相手がつまらない、まともに応対する必要もないくらい低俗で愚劣な人間であると「判決」を下せば、後は気楽なものであり、ずっと「高み」から(自分で勝手にそう思っているだけなのですが)見下ろして石を投げることができます。
人間にこうした偏向傾向があることは、幼いころから日常生活の中で、自分がそういう目に合うことでいくらでも学び気づく機会があり、振り返れば自分も他人に対して同じことをしていると気づくことで、いくらでも改める機会があります。
そうしていない人というのは、精神と知性の発達途上でまだその段階に到っていないか、到っているがあえて無視してそのスタイルを取り続けているか、どちらかでしょう。
後者について、同書に興味深い事例があります。
村田宏雄という人の『オルグ学入門』という本の中の、理論闘争の場における手法の例を引用して、こうあります。
<(ロ)争点操作
この原型は、質問の意味を勝手にすりかえ、オルグにとって回答し易い質問に直し、それに長々と答え、それを聴く相手があきれると共に聴くことで疲労退屈し、再度の質問をする意欲を失わせるようにする方法である。「今の質問は、このような意味かと考える」などといって答えるような時、この争点操作を再度行っている場合が多い。この方法は相手がそれでは質問の回答にならぬと、再度回答を促してきた場合にも、相変わらず同じような的外れの回答を続けるのが秘訣である>
それに関して著者の香西氏は
<ここで村田が、悪いことをしているという意識が皆無であることを見落とすまい。正義はこちらにあり、オルグという崇高な任務を遂行しているのであるから、「悪」である相手をどのような手段で打ち破ってもそれは正しいのである>
とコメントしておいでです。
オルグという単語は、今の若い方にはなじみがないかもしれませんが、私と同世代かそれ以前の世代の方には大変なじみの深い言葉だと思います。(「組合や政党を組織したり、労働者・大衆に働きかけて組織の強化・拡大を図る活動を行ったりすること。また、その人。」の意。<明鏡国語辞典>/同書より)
この場合、「矮小化」あるいは「藁人形攻撃」は自覚の上に行われているわけで、それに論理的に反論してもそもそも「聴く耳を始めから持っていない」わけです。それは、冤罪を作り出してやろうと心に決めている捜査官に、自分の無実を訴えるようなものです。
「そんなことはわかっている、わかっているが自分はおまえを有罪にすることにしたのだ」(とは言わないでしょうけれど)
こういう偏向攻撃は、左の人に限らず、右であろうとノンポリ(死語か?)の人であろうと、皆使います。
そういう困難をかいくぐって「闘う」のが「政治」の世界なのでしょうが、私は、対話する意志のない人と対話したいとは思いません。
もう一つ。
人と人との対話を妨げている問題の一つが、人は勝手な「物語」を作り出し、それを通して世界を(他者を)見ていることです。
「物語」とは私なりの表現なのですが、いわゆる「偏見」などより、もっと大きな範囲の事を指します。
「判断」「予断」といったさまざまなことがらです。
人はそれなしに生きていくことはできません。
そこにやってくる自動車はあの速度とコースだから、自分が横断歩道を渡るころにはこの辺に来ているな、というのもそうですし、今私に話しかけているこの人物は、口調や目元の表情、そしてこれまでに聞いた評判などから考えて、心の中ではこういうことを考えているにちがいない、というのもそうです。
問題は、それらがすべて実際の真実ではなく、自分が限られた知識と知性で作り上げた個人的なストーリィ、ただの「物語」に過ぎないことを、人はしばしば忘れているということです。
「おまえがなんと言おうとオレにはおまえの意図などお見通しだ」
と言うのは(しばしばそう言い切る人がいます)「自分は神だ」とか「超能力者だ」というのと同じことであり、そういう人と言い争っても時間の無駄です。
そうですか、あなたは神ですか。ではあなたの世界を治めておられるがいいでしょう。ただ私はあなたという神の信者ではありませんから、あなたの「お告げ」を受け入れることはできません。
ここに、どのような意志の疎通が可能でしょうか。
自分は限りある知識と知性、限られた判断力しか持たない一個の人間であり、今語ること、思うこと、すべて今この瞬間の仮の判断に過ぎない。
あなたと意見は異にするかもしれないが、私はあなたの思い、言葉、行動の自由を尊重し、敬意を払う。
もしかしたら、私にはあなたの言動が馬鹿げて見えるかもしれない(あなたにも私がそうかもしれない)。
しかし私にそう見えているだけで、真実は異なるかもしれない。
私は私の「物語」を通してあなたを見ているが、それはただの仮の「物語」に過ぎないことを自覚し、その「物語」をひとまず脇に置いて、私はあなたの話を真摯に聞こう。
そう言える人と人とだけが、互いに語り合えるのではないでしょうか。
リングに上がり、相手の股間を蹴り、目に指を突っ込んでおいて、相手が自分につばを吐きかけたと言って抗議する人と、いったい何を話し合えるでしょうか。
私が若いころ、アシスタントに行っていたマンガ家のはるき悦巳先生は、大のジャズ好きで、中学のころからジャズしか聴かないという人でした。
あるとき、とある業界の先達とジャズの話になり、その先達は随分わかったようなことを言っておいででした。
しかし話すうちに、実は全然わかってなくて、ただの知ったかぶりな人だったことがわかりました。
後でがっかりしておいででしたが、そりゃ残念でしたねという私にはるき先生はこう言いました。
「オレはなあ、初めての人と会うときは、その人のこと一応買いかぶって話すんや」
はあ、それは?と聞く私に、はるき師匠はこう続けました。
「人間、自分を低いとこに置いとかんと、なんも学べんやろ?(笑)」
30年以上経っても、忘れられない一言です(本当に、いい師匠でした)。
そいうわけで、本題に入る前に長い前置きになってしまいましたが(だからなかなか書けないんですが)(汗)
「表現規制の問題に関して2」に続きます(多忙のため、更新に多少時間がかかります)。
きょうも良き日を。
私は原則、ブログ等で政治向きの話題は書かないことにしております。
問題意識がないのではなく、あっても触れないだけです(一表現者として、大いに問題意識は持っております)。
理由の第一は、すべての(は無理としても、多くの)方に誤解のないよう、思うところをご説明申し上げることが困難であり、誤解が誤解を生んで大変双方にとって不愉快で不幸な結果に終わる例を多く(他の方のブログ、BBSなどで)見てきたこと。
私はいかなる議論、ディベートにも興味がないこと(若いころは大好きでしたが)。
議論ではなく対話は受け入れますが、私が思うような基本的な対話の姿勢を持っておられる方が、世間的にはほとんどいらっしゃらないこと、などです。
基本的な姿勢とは何かと言うと、相手に対する敬意です。
たとえそれが敵(だと自分が思っても)であってもです。
かのガンディーは、征服者であるイギリスに非暴力で抵抗した際、イギリス人を侮辱したり攻撃するのではなく、敬意を持って不服従を貫きました。
別に彼が完全無欠な聖人だなどと言うつもりはなく、欠点や問題点も多々あった一人の人間ですが、私は彼のその姿勢に共感するものです。
人は、愛と敬意と感謝のないアプローチに、心を開くことはありません。
怒り、嫌悪、侮蔑、そういったネガティブな感情を伴ったコンタクトには、人は反射的に身構え、かたくなになるか攻撃の姿勢(多くは好意的でない感情を伴う)を取ります。
それは、ほとんど無意識不随意の護「身」反射ならぬ護「心」反射と言ってもいいものだと思います。
それは、自我、あるいは自己のパーソナリティを防衛したいという衝動から起こります。
自我の確立も達成していない未成熟な段階としてではなく、確立したのちにそれを手放した人だけが、その衝動から自由にいられます。
無論、物質的な肉体を持ち、生物としての本能や、多くの化学物質の影響下にある人間が、完全にニュートラルな心を持てるかというと、まあ不可能と言っていいでしょう。
完全にそれらを達成した状態を、いわゆる悟りと言うのかもしれませんが、そんな境地に至ったことのない私にはわかりません。
ただ、その方向に向かって日々歩み、途上にある人とは、多少の対話が可能かもしれません。
人間のニュートラルな対話を妨げる性癖の最たるものの一つが
敵視、あるいは蔑視する相手の「単一化」「矮小化」があります。
心理学の実験でも結果が出ていたと思いますが、たとえば学生に複数の知らない学生の写真を見せて、その好みや性格などを想像させると、写真の人物が自分と同じ学校や好意的に思っている学校の生徒だと聞かされると、非常に多様性に富んだ性格を想像するのに対し、自分がバカにしている学校の生徒だと聞かされると、非常に型にはまった画一的な回答が返ってくるのです(あんな学校の生徒なんてこんなもんだろ、ですね)。
興味がない対象、嫌いであったりバカにしている対象には、よく考えないで単一のレッテルを貼るわけです。
それから「矮小化(わいしょうか)」は、その一変形とも言えますが、相手を低くくだらない存在だと決め付けることです。
特に、議論などにおいて顕著ですが
言葉には幅というものがあります。一つの言葉でもピンからキリまで様々な意味と解釈が含まれます。
気に入らない相手の言動は、常にその中でもっともくだらない、馬鹿げた方の意味を当てはめて解釈し、いかに相手が愚かでくだらない人間であるかと決め付けます。
私はこれを「矮小化」と呼んでいるのですが、もっとやわらかい親しみやすい表現はないかと悩んでいました。
私が読んだ、この種の問題を解析した名著の一つに香西秀信・著『論理病をなおす!』(ちくま新書)があります。
香西氏は私の言う「矮小化」を「藁人形攻撃」と表現しておいでです。
<藁人形攻撃とは、相手の主張を、こちらが反論しやすいように(故意に)歪めて表現する詭弁である>(同書78ページより)
これは日常のささいな口ゲンカから、国会などの政治討論の場まで、あらゆる所で使われています。
相手の言った言葉尻をとらえて、もっとも愚かしい解釈を当てはめ、おまえはこんなに馬鹿なコトを言っているくだらない人間であると「判決」を下します。
一方で、自分や自分の賛同者、自分の尊敬する人物の言動には、可能な限り意味深いすばらしい解釈を当てはめます。
人間は、自分につごうのいい情報はウソであっても信じたがる生き物であり、つごうの悪い情報は真実であっても認めたがらない生き物です(そこに様々な詐欺師がつけこむわけですが)。
そして、人間は自分に対して、しばしば大いなる嘘つきです。
相手がつまらない、まともに応対する必要もないくらい低俗で愚劣な人間であると「判決」を下せば、後は気楽なものであり、ずっと「高み」から(自分で勝手にそう思っているだけなのですが)見下ろして石を投げることができます。
人間にこうした偏向傾向があることは、幼いころから日常生活の中で、自分がそういう目に合うことでいくらでも学び気づく機会があり、振り返れば自分も他人に対して同じことをしていると気づくことで、いくらでも改める機会があります。
そうしていない人というのは、精神と知性の発達途上でまだその段階に到っていないか、到っているがあえて無視してそのスタイルを取り続けているか、どちらかでしょう。
後者について、同書に興味深い事例があります。
村田宏雄という人の『オルグ学入門』という本の中の、理論闘争の場における手法の例を引用して、こうあります。
<(ロ)争点操作
この原型は、質問の意味を勝手にすりかえ、オルグにとって回答し易い質問に直し、それに長々と答え、それを聴く相手があきれると共に聴くことで疲労退屈し、再度の質問をする意欲を失わせるようにする方法である。「今の質問は、このような意味かと考える」などといって答えるような時、この争点操作を再度行っている場合が多い。この方法は相手がそれでは質問の回答にならぬと、再度回答を促してきた場合にも、相変わらず同じような的外れの回答を続けるのが秘訣である>
それに関して著者の香西氏は
<ここで村田が、悪いことをしているという意識が皆無であることを見落とすまい。正義はこちらにあり、オルグという崇高な任務を遂行しているのであるから、「悪」である相手をどのような手段で打ち破ってもそれは正しいのである>
とコメントしておいでです。
オルグという単語は、今の若い方にはなじみがないかもしれませんが、私と同世代かそれ以前の世代の方には大変なじみの深い言葉だと思います。(「組合や政党を組織したり、労働者・大衆に働きかけて組織の強化・拡大を図る活動を行ったりすること。また、その人。」の意。<明鏡国語辞典>/同書より)
この場合、「矮小化」あるいは「藁人形攻撃」は自覚の上に行われているわけで、それに論理的に反論してもそもそも「聴く耳を始めから持っていない」わけです。それは、冤罪を作り出してやろうと心に決めている捜査官に、自分の無実を訴えるようなものです。
「そんなことはわかっている、わかっているが自分はおまえを有罪にすることにしたのだ」(とは言わないでしょうけれど)
こういう偏向攻撃は、左の人に限らず、右であろうとノンポリ(死語か?)の人であろうと、皆使います。
そういう困難をかいくぐって「闘う」のが「政治」の世界なのでしょうが、私は、対話する意志のない人と対話したいとは思いません。
もう一つ。
人と人との対話を妨げている問題の一つが、人は勝手な「物語」を作り出し、それを通して世界を(他者を)見ていることです。
「物語」とは私なりの表現なのですが、いわゆる「偏見」などより、もっと大きな範囲の事を指します。
「判断」「予断」といったさまざまなことがらです。
人はそれなしに生きていくことはできません。
そこにやってくる自動車はあの速度とコースだから、自分が横断歩道を渡るころにはこの辺に来ているな、というのもそうですし、今私に話しかけているこの人物は、口調や目元の表情、そしてこれまでに聞いた評判などから考えて、心の中ではこういうことを考えているにちがいない、というのもそうです。
問題は、それらがすべて実際の真実ではなく、自分が限られた知識と知性で作り上げた個人的なストーリィ、ただの「物語」に過ぎないことを、人はしばしば忘れているということです。
「おまえがなんと言おうとオレにはおまえの意図などお見通しだ」
と言うのは(しばしばそう言い切る人がいます)「自分は神だ」とか「超能力者だ」というのと同じことであり、そういう人と言い争っても時間の無駄です。
そうですか、あなたは神ですか。ではあなたの世界を治めておられるがいいでしょう。ただ私はあなたという神の信者ではありませんから、あなたの「お告げ」を受け入れることはできません。
ここに、どのような意志の疎通が可能でしょうか。
自分は限りある知識と知性、限られた判断力しか持たない一個の人間であり、今語ること、思うこと、すべて今この瞬間の仮の判断に過ぎない。
あなたと意見は異にするかもしれないが、私はあなたの思い、言葉、行動の自由を尊重し、敬意を払う。
もしかしたら、私にはあなたの言動が馬鹿げて見えるかもしれない(あなたにも私がそうかもしれない)。
しかし私にそう見えているだけで、真実は異なるかもしれない。
私は私の「物語」を通してあなたを見ているが、それはただの仮の「物語」に過ぎないことを自覚し、その「物語」をひとまず脇に置いて、私はあなたの話を真摯に聞こう。
そう言える人と人とだけが、互いに語り合えるのではないでしょうか。
リングに上がり、相手の股間を蹴り、目に指を突っ込んでおいて、相手が自分につばを吐きかけたと言って抗議する人と、いったい何を話し合えるでしょうか。
私が若いころ、アシスタントに行っていたマンガ家のはるき悦巳先生は、大のジャズ好きで、中学のころからジャズしか聴かないという人でした。
あるとき、とある業界の先達とジャズの話になり、その先達は随分わかったようなことを言っておいででした。
しかし話すうちに、実は全然わかってなくて、ただの知ったかぶりな人だったことがわかりました。
後でがっかりしておいででしたが、そりゃ残念でしたねという私にはるき先生はこう言いました。
「オレはなあ、初めての人と会うときは、その人のこと一応買いかぶって話すんや」
はあ、それは?と聞く私に、はるき師匠はこう続けました。
「人間、自分を低いとこに置いとかんと、なんも学べんやろ?(笑)」
30年以上経っても、忘れられない一言です(本当に、いい師匠でした)。
そいうわけで、本題に入る前に長い前置きになってしまいましたが(だからなかなか書けないんですが)(汗)
「表現規制の問題に関して2」に続きます(多忙のため、更新に多少時間がかかります)。
きょうも良き日を。
以前日記で触れました、私のエッセイマンガですが、掲載誌に関する情報が公開可能になりましたのでお知らせいたします。
誌名は「カイト」。
小池書院からこの3月23日に発売になります。
発行ペースは現段階では、不定期発行となっております。
定価は500円(税込)、ページは200前後、B5判、平綴じ。
担当さんの話で、創刊号は<主に紀伊國屋書店さんとか、ジュンク堂書店さんとかの、アニメ雑誌が充実している店鋪をメインにおいてある>そうです。
<雑誌のメインテーマは
「ゲーム、アニメ、マンガ──次世代キャラクター創造マガジン」です。
創刊号の特集は
「未来を創るキャラクター学」
「これがゲームの未来形」です。
主な掲載者は
富野由悠季先生、藤子不二雄A先生、板垣恵介先生、
堀井雄二先生、小池一夫(インタビュー対談など)
『戦国BASARA3』のプロデューサーなど>
作品執筆者は、私(山本)のほかは
<石ノ森章太郎先生、内田かずひろ先生
ほか、新人さんもデビューします>
とのことです。
石の森先生というと、何か昔の作品を再掲載されるのでしょうか。私にはよくわかりません(情報がわかったら、またお伝えいたします)。
というわけで、ご興味のおありな方はご覧くださいませ♪
どうぞよろしくお願いします。
誌名は「カイト」。
小池書院からこの3月23日に発売になります。
発行ペースは現段階では、不定期発行となっております。
定価は500円(税込)、ページは200前後、B5判、平綴じ。
担当さんの話で、創刊号は<主に紀伊國屋書店さんとか、ジュンク堂書店さんとかの、アニメ雑誌が充実している店鋪をメインにおいてある>そうです。
<雑誌のメインテーマは
「ゲーム、アニメ、マンガ──次世代キャラクター創造マガジン」です。
創刊号の特集は
「未来を創るキャラクター学」
「これがゲームの未来形」です。
主な掲載者は
富野由悠季先生、藤子不二雄A先生、板垣恵介先生、
堀井雄二先生、小池一夫(インタビュー対談など)
『戦国BASARA3』のプロデューサーなど>
作品執筆者は、私(山本)のほかは
<石ノ森章太郎先生、内田かずひろ先生
ほか、新人さんもデビューします>
とのことです。
石の森先生というと、何か昔の作品を再掲載されるのでしょうか。私にはよくわかりません(情報がわかったら、またお伝えいたします)。
というわけで、ご興味のおありな方はご覧くださいませ♪
どうぞよろしくお願いします。
先日もお伝えしました『戦闘女神アヌンガ』3巻ですが、私のところに著者献呈本が届きました。
厚い!
2.5cmもあります。
ご覧のとおり、よく立ちます(笑)。
自分で読み直して思ったのですが、
ケータイ配信と雑誌掲載の「間(ま)」の違いと言いますか、紙媒体で読むと感じが変わりますね;
ゲラ(編集部から渡される印刷された掲載部分)がないため、通読して流れを確認することが難しく、単行本化作業に入ってからの白焼き(全頁をプリントされた見本)だけでは、バランスを取りきれないところがありました。
条件は1~2巻も同じですが、2巻までが割と独立した怪獣退治ならぬ魔神退治の繰り返しだったのに比べ、3巻は同じ魔神退治でも、連続した一つのドラマになっている分、その辺のギャップが少し目立ったかもです。
月一や月ニでダウンロードしてくださるお客様のために、読み応えを・・と思って、いささか詰め込みすぎた部分があるのですが、通して読むとぎゅうぎゅうで遊びが足りません。
もう少しゆったりキャラの気持ちを追う回とか作ればよかったと反省しております。申し訳ありません。
もっともっと修行します;
なお、アクションと絵のクオリティは今の私のベストと言っていいです♪
装丁とか綺麗にできてて、編集さんにも感謝です♪
また次回作、がんばります~~~;
昨日は仕事の合間を縫って横浜の歯科にお出かけ。
霙(みぞれ)交じりの雨の中、傘を忘れました(爆)。
頭は大丈夫かと言われるかもですが
歯科の帰り、バス停前の郵便局に寄って傘立てに傘を置いて買い物をし、出るとすぐ屋根つきのバス停。
わあ、すぐに来たよバス、ラッキー♪
飛び乗ってしばし。JRの駅の前に下りて、さすべき傘がないことに気がつきました(笑)。
すぐ戻りのバスに乗って取りに行こうかと思いましたが、実は、郵便局で買ったのは、今月で廃止されるというエクスパックの封筒。
「今なら三枚お買い上げで、サランラップ一本差し上げます」
という局員さんの甘言に乗せられ、二枚のところ三枚購入。
だから
ここでバスに乗って往復すると、
せっかくもらったサランラップが足が出るうううう!!!
戻るのはやめて家路に着きました。
いいんだ、明日郵便局に電話をかけて、次回の歯科の帰りに取りに寄るんだ!
自宅の最寄りのバス停からは、傘なしで氷雨のなか小走りに家に戻りました。
昨夜のアホな体験でした。
霙(みぞれ)交じりの雨の中、傘を忘れました(爆)。
頭は大丈夫かと言われるかもですが
歯科の帰り、バス停前の郵便局に寄って傘立てに傘を置いて買い物をし、出るとすぐ屋根つきのバス停。
わあ、すぐに来たよバス、ラッキー♪
飛び乗ってしばし。JRの駅の前に下りて、さすべき傘がないことに気がつきました(笑)。
すぐ戻りのバスに乗って取りに行こうかと思いましたが、実は、郵便局で買ったのは、今月で廃止されるというエクスパックの封筒。
「今なら三枚お買い上げで、サランラップ一本差し上げます」
という局員さんの甘言に乗せられ、二枚のところ三枚購入。
だから
ここでバスに乗って往復すると、
せっかくもらったサランラップが足が出るうううう!!!
戻るのはやめて家路に着きました。
いいんだ、明日郵便局に電話をかけて、次回の歯科の帰りに取りに寄るんだ!
自宅の最寄りのバス停からは、傘なしで氷雨のなか小走りに家に戻りました。
昨夜のアホな体験でした。
大変長らくお待たせしました。
拙著『戦闘女神アヌンガ』3巻が、この2010年3月16日発売予定、予約受付中です。
発売はBbmfマガジン社(グリーンアロー出版社だと思ってましたが、旧名だそうです、申し訳ありません、お詫びとともに訂正します)。
B6版、336ページ(厚いです)(笑)税込み¥780(本体・¥744)
どうぞよろしくお願いします♪(画像はカヴァーの人物のみの未完成段階です。完成品はまだ手元にありません)
追記
担当さんから単行本の画像が届きました(下記の画像です)。重ねて訂正いたしますが、発売はBbmfマガジン社です。どうぞよろしくお願いします♪
本日が公式情報公開解禁日なのですが、すでにフライングでネットに漏れていてお知りになった方からメッセいただいたりもしておりました。
私がスタッフとして参加しておりますゲーム『メタルマックス3』の制作が進んでおります。
ハードは、ニンテンドーDS。
メインスタッフのT氏の日記を一部転載させていただきますと
<「鋼の季節」で不評だったシステムは、ほとんど破棄! オリジナルに近いシステムです。
戦車も3台。タッチペンはなし!
装甲タイルも復活です。
で。
もちろん、新システムも満載です。
お楽しみに♪>
だそうです。
2010年3月4日のファミ通.comを見ますと、私の役職?はアートワークとなっていますが、私はおもにモンスターデザインの作製とそれに関連した映像にアドバイスをさせていただいております。100%私の担当ではなく、他の方の手になる部分もありますのであしからず。
私の担当部分はすでに追加注文含めすべて納品し終わっています。
順調にお目にかけられることを願っています。
また公開可能な情報ワクが広がり次第お知らせいたします。ではでは~♪
追記
公式ティザーサイトはこちらです♪
追記2
メタルマックス関連の記事は今後も随時アップしてまいります。記事の下のカテゴリー『メタルマックス』をクリックされますと、ご覧いただけるかと存じます。どうぞよろしくお願いします。
私がスタッフとして参加しておりますゲーム『メタルマックス3』の制作が進んでおります。
ハードは、ニンテンドーDS。
メインスタッフのT氏の日記を一部転載させていただきますと
<「鋼の季節」で不評だったシステムは、ほとんど破棄! オリジナルに近いシステムです。
戦車も3台。タッチペンはなし!
装甲タイルも復活です。
で。
もちろん、新システムも満載です。
お楽しみに♪>
だそうです。
2010年3月4日のファミ通.comを見ますと、私の役職?はアートワークとなっていますが、私はおもにモンスターデザインの作製とそれに関連した映像にアドバイスをさせていただいております。100%私の担当ではなく、他の方の手になる部分もありますのであしからず。
私の担当部分はすでに追加注文含めすべて納品し終わっています。
順調にお目にかけられることを願っています。
また公開可能な情報ワクが広がり次第お知らせいたします。ではでは~♪
追記
公式ティザーサイトはこちらです♪
追記2
メタルマックス関連の記事は今後も随時アップしてまいります。記事の下のカテゴリー『メタルマックス』をクリックされますと、ご覧いただけるかと存じます。どうぞよろしくお願いします。
他人のふんどしで相撲を取ると申しますが、他人のブログで記事を書かせていただきます(笑
友人(と言ってもエンターテインメント業界では先達であり、年齢的にも7つくらい上)のさくまあきら氏の仕事人裏日記(2010年2月27日)をご覧ください♪
私が小池一夫劇画村塾の門下生であることをご存知の方もおいでと思います。
先日、その同窓会(といっても1~8期生まで。人数多すぎて一挙にやるのは難しいため)が渋谷で開かれ、行ってまいりました。
さくま氏の記事の下のほうにある当時の新聞記事は私が持参したコピーです。
集合写真では、首からカメラを提げて左のほうにしゃがんでます。
懐かしい顔と(無論師匠の小池先生とも)お会いできて楽しいひと時でした。
さくまあきら氏や高橋留美子氏とは同じ一期の同期生です。
1977年の開塾当時、私はまだ18歳でした。
みんないつの間にか歳をとったものです。
村塾の後輩に当たるとがしやすたか氏や山本直樹氏、みなさん頭に白いものが混じっていて、流れた歳月を感じます。
そういえば、直樹氏は1~2回、若いころアシスタントに来ていただいたことがあったのですが、さすが大物というか豪傑というか、手伝いに来たのに延々と爆睡して起きなかった覚えがあります。
今回久々に話したら、ご本人も覚えてらして
「あのときは10時間も寝ちゃって、気がつくと山本さんがオレにモデルガンを突きつけていて『起きろ』って言ったんですよね(笑)」
全然忘れてました私(笑)(たとえ、おもちゃであっても、銃口を人に向けてはいけません);
まだメールもネットもない時代、遠く離れた仲間とは長電話が一番のコミュニケーション手段でした。
いや、実は1977年当時は、大学生でも自室に全員が電話を持ってはいない時代でした。同じアパートの仲間に借りたり、公衆電話でかけたり。私が電話を入れたのは、デビューが決まった1978年のことです。
日本経済がまだ右肩上がりだった最後の時代、マンガ界の「黄金の日々」だったかもしれません。
「あの時代の村塾のこととか、誰かが書かないとみんな消えてっちゃうよ」
とさくま氏。
近いうちにスタート予定のエッセイマンガでは、その辺の話もおいおい描いていこうと思っています。
もう一週間くらいしたら発表可能になると思いますので、今しばらくお待ちくださいー;
友人(と言ってもエンターテインメント業界では先達であり、年齢的にも7つくらい上)のさくまあきら氏の仕事人裏日記(2010年2月27日)をご覧ください♪
私が小池一夫劇画村塾の門下生であることをご存知の方もおいでと思います。
先日、その同窓会(といっても1~8期生まで。人数多すぎて一挙にやるのは難しいため)が渋谷で開かれ、行ってまいりました。
さくま氏の記事の下のほうにある当時の新聞記事は私が持参したコピーです。
集合写真では、首からカメラを提げて左のほうにしゃがんでます。
懐かしい顔と(無論師匠の小池先生とも)お会いできて楽しいひと時でした。
さくまあきら氏や高橋留美子氏とは同じ一期の同期生です。
1977年の開塾当時、私はまだ18歳でした。
みんないつの間にか歳をとったものです。
村塾の後輩に当たるとがしやすたか氏や山本直樹氏、みなさん頭に白いものが混じっていて、流れた歳月を感じます。
そういえば、直樹氏は1~2回、若いころアシスタントに来ていただいたことがあったのですが、さすが大物というか豪傑というか、手伝いに来たのに延々と爆睡して起きなかった覚えがあります。
今回久々に話したら、ご本人も覚えてらして
「あのときは10時間も寝ちゃって、気がつくと山本さんがオレにモデルガンを突きつけていて『起きろ』って言ったんですよね(笑)」
全然忘れてました私(笑)(たとえ、おもちゃであっても、銃口を人に向けてはいけません);
まだメールもネットもない時代、遠く離れた仲間とは長電話が一番のコミュニケーション手段でした。
いや、実は1977年当時は、大学生でも自室に全員が電話を持ってはいない時代でした。同じアパートの仲間に借りたり、公衆電話でかけたり。私が電話を入れたのは、デビューが決まった1978年のことです。
日本経済がまだ右肩上がりだった最後の時代、マンガ界の「黄金の日々」だったかもしれません。
「あの時代の村塾のこととか、誰かが書かないとみんな消えてっちゃうよ」
とさくま氏。
近いうちにスタート予定のエッセイマンガでは、その辺の話もおいおい描いていこうと思っています。
もう一週間くらいしたら発表可能になると思いますので、今しばらくお待ちくださいー;
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