早いもので大晦日がやってまいりました。
今年も「あつじ屋日記」をお読みくださりありがとうございました。
私は、久々に資料と趣味をかねて車やバイクのプラモでも作ろうかと思い、模型屋(近所はみんなつぶれてしまい、遠くの町までバイクで遠征)で模型用塗料など買いこんできたのですが、スケジュールを見たら一月の末まで何も出来ないことに気がつきました(爆);
我が家の石油ストーブがこの時期に故障。修理を頼んだら年越しになるそうで、この暮れはメインの暖房がありません。とほほと思ったら、同じ日に通販で頼んでおいたサッシの露付き防止用貼り付けシートが届きました。
予備のオイルヒーターに切り替え、ほんのり暖かい仕事場です。
ストーブがないので全然露がありません。年明けにストーブが戻るまでに、心置きなく窓掃除をして貼り付けろという天の配剤のようです(らっきー♪)(笑
同業の友人のお嬢さんが新型インフルにかかりました。
38度超えの熱が出て一日で37度台に下がったそうで、念のため病院で検査したらずばりだったそうです。
全然重篤じゃないけれど、他人に感染させないようお正月は家から出さないで見ていてくださいと言われたそうです。
年越しで新型インフルなんて災難のようですが、仕事で年越しの友人は、おかげでどこにもアイサツ周りに行かずにすみ、執筆に全力投球できると喜んでいます(笑
これも天の配剤でしょうか。
色々な暮れをお迎えの方がいらっしゃると思いますが、どうかそれぞれ、最後までお気を抜かれませず、良い年越しをされますように。
2009年も本当にお世話になりました。
ありがとうございました。
『ガルシアの首』
1974年のアメリカ映画。
私の敬愛する故・サム・ペキンパー監督の傑作。
原題は“BRING ME THE HEAD OF ALFRED GARCIA”
「俺にアルフレッド・ガルシアの首を持って来い」でしょうか(笑)。
なぜ今頃こんな作品を取り上げるかと申しますと
先日ケーブルテレビで、アメリカで製作されたペキンパーに関するドキュメンタリーを見ていて、この映画が公開当時全然ウケなかったという証言を聞いたためです。
えー?ウソー、マジー??
みたいなー;
証言者の一人の
「100点満点で言うなら5点くらいの評価だった」
というのは、誇張があるとしてもあんまりではないか。(証言している当人は大いに評価したと言っているのですが)
ちなみに、内容をご存じない方のためにアマゾンの該当ページの記事を引用しますと
<<キャスト&スタッフ>
ベニー…ウォーレン・オーツ(内海賢二)
エリータ…イセラ・ベガ(此島愛子)
<ストーリー>
メキシコの大地主は自分の愛娘を妊娠させた男、ガルシアに100万ドルの賞金を懸けた。
賞金の匂いを嗅ぎ取った酒場のピアノ引きベニーは、自分の情婦エリータからガルシアが既に死んでいることを聞き、ガルシアの首を求めて旅に出るが・・・。
<ポイント>
●監督は、スローモーションを駆使した究極のバイオレンス描写で観る者を圧倒した鬼才サム・ペキンパー。
●『ワイルド・バンチ』『さすらいのカーボーイ』のウォーレン・オーツ主演で贈るハードコア・バイオレンス。
※日本語吹替音声は現存するテレビ放送当時のものを収録しております。>
ストーリーは見ての通り、若い恋人同士がいっしょに楽しく鑑賞するような作品とは真逆の内容です(笑)。
イケメンでもなんでもない金も名誉も地位もない、うだつの上がらぬ主人公が、必死に生きる姿に、共感できるか、どうでもいい腹の出たただのおっさんだと思うかが、好き嫌いを分けるでしょう。
ネタバレを申し上げるとバッドエンドです。
でも、それしか有り得ない旅に出てしまったことは、話の途中で解ります。
私はペキンパー監督が大好きですが、その中でも心に残る作品ベスト5の一つではないでしょうか。
なぜ、この作品が受けなかったのか。
ミステリやハードボイルドファンの妻は、私と同じくこの作品が好きですが、彼女は
「内容を盛り込みすぎていることも敗因の一つかも」
と言います。
「一般の観客にとっては、泣いていいのか笑っていいのかわからない面があるのかも」
と。
確かに、多くの観客は、エンターテインメントは、わかりやすくシンプルなものを好みます。
しかし、それがすべてでもありません。
ペキンパーは彼が歩いてきた人生を、この作品にこめたようですが、見ていると私にはたくさん響きあうものがありました。
ペキンパーは1925年生まれ。
1984年59歳で亡くなりました。
この映画の完成時には49歳だったということです。
あと数日で51歳になる私とは、年齢的にも近いものがあります。
人生は甘いだけでもなければ辛いだけでも酸っぱいだけでもありません。
様々の要素があって、その渾然一体となったものが味わいです。
少し話はズレますが
以前、私が読者の方からいただいた批判的なお便りに、私の作品は軸がブレているのではないかというものがありました。たとえば、シリアスな作品の主人公の名前が冗談っぽいとか、シリアスな物語の敵役(たとえば『戦闘女神アヌンガ』の一部の怪物)が笑えるものが見受けられるといったものです。
私は、それを「わかってないで(ボケて自覚なく)やっている」のではなく、「自覚して」「意図して」やっています。
なぜならそれが世界であり人生であり、私のリアリズムだからです。
そのことについては、また機会を改めて書きたいと思います。
話は映画に戻りますが
この映画、一件我々とは無縁の無頼な無法者の世界を描いているようで、実はしっかり接点があります。
中でも、大きくうなずいたのが、この物語の大元である大地主のおっさん。
ここ、思い切りネタバレなのでお知りになりたくない方は飛ばしてください。
大地主は、最初、自分の娘を妊娠させたガルシアという男に激怒し、その首をもってこいと言います。
その命令を受けた部下が、知り合いのギャングに仕事を命じ、そのギャングがまた人を雇って・・という形で
主人公は言ってみれば「下請け」の「下請け」・・・みたいな立場です。
報酬も最初1000ドルとか言われ(大地主は100万ドルって言ったんですよ)(笑)、交渉して1万ドルで契約してガルシアを探します。
仲介業者の大幅ピンハネ、どこの業界にも(マンガ界にも)ある話ですよね。
で、そのために主人公はじめ、末端の様々な人間たちが巻き込まれ、右往左往して不幸になります。
クライマックスは、多くの大切なものを失った主人公がブチキレて事件の大元、大地主の屋敷に乗り込むんですが
すると屋敷では何か祝い事をやっている。人々が集まり花火まで上げられています。
なんと、妊娠していた娘は無事子供を出産し、その祝宴なのでした。
あんなに怒っていた大地主は、孫が生まれてご満悦。
にこにこ顔で赤ん坊を抱いています。
そばに付き添う、どこか浮かない顔の娘。
そこへ袋に入ったガルシア(つまり生まれた孫の父親)の首を携えて、主人公がやってきます。
報告を受け、一瞬はっとしますが、すっかり興味を失っている大地主。
どこかで見たような話だと思いませんか。
そう、お上の決めた公共事業に振り回され、右往左往し、それさえなければ存在しなかったトラブルに、身も心も傷ついた下々の人間。自分だけでなく愛する者や本来縁もゆかりもなかった人々までも巻き込んで
やっと命じられた仕事の段取りをつけて、報告に行くと、すっかり「心変わり」した「お上」が待っているという(笑
そこで主人公が怒ります。
「この首のために●●人死んだ」
でも、ある意味、どこかのお上より、この大地主の方がまだ良心的かもしれません。だって、約束の100万ドルはちゃんと払ってくれるんですから(笑)(でも、もはや主人公を止めることはできないんですけどね)。
ひと時の思いつき、感情的、衝動的な言動で、他人を振り回しておいて、その結果がめぐってくるころには、すっかり気が変わっている人、あなたのまわりにもいませんか?
私は人生で、金と権力は別として、この物語の大地主みたいな人に、何度も出会ってきました。
いるいるこういう人、って思わず笑ってしまいます♪
そういうわけで、クライマックスの主人公にわが身を重ねて見たものですが(大地主は、あくまで要素の一つです。この映画には、もっと色々な人生の悲喜こもごもが詰まっています)
私がひっかかった大きな点は、これが受けなかったということ。
だって、私も訴えたい、描きたいテーマを、かくも見事に描ききったペキンパーの労作が、総スカンだったとすれば、自分がどれほどがんばっても、それはお客様に受け入れられないということになります。
えー!!?なんでー!!!??
一瞬目の前が暗くなりました;
でも
ウィキで調べたらアメリカでは惨敗したけど日本では受けたそうですね、この映画。
そうか、日本では受けたのか!
そういえば、ドキュメンタリーの中でも、ベニチオ・デル・トロが
「アメリカ人はナンバー1が好きだからね。でも二番手の人間の方が魅力的なんだよ」
というような意味のことを言ってました。
実のところ私も、最近は超人的な主人公よりもそういうキャラを描いてみたくなっています。
なんだか少し救われた気がしました。
気を取り直して、精進したいと思います♪
というわけで、サム・ペキンパーの『ガルシアの首』でした。
ケータイ配信マンガ『戦闘女神アヌンガ』36話が、12月28日配信されました。
されましたって私のケータイからは見られないので(笑)あくまで予定ですが、きょうご覧になったお客様がいらっしゃるようですのでたぶん配信されたのではないかと。
今年度最後の配信分です。
私はこれから最終話の執筆を年越しでやる予定なのですが
その前にまず年賀状のイラストを完成させないといけません。
最終話は、いつもより7枚増ページ予定です。どうぞよろしくお願いします♪
オニャンコポンズはじめ、アンヌや仲間たちとも、もうすぐお別れかと思うと、少し寂しい生みの親です(笑
きょうは、私の知人で、昔、ゲームのメタルマックス・シリーズの制作でご一緒させていただいたことがあるゲームデザイナーにして小説家、桝田省治先生のブログから、
<「最近、僕は大人になったと思うんだ」
と次男(中2)が言う。
「なんだ、それ。突然どうした?」と訊ねると、次男はこんな話をした。
最近、お母さんと喧嘩をしなくなった。
たとえば、お母さんが電話をしているときは「テレビの音量を下げろ」と言うくせに、僕が電話をしているときはお母さんは「聞こえない。うるさい」とテレビの音量を上げる。
この類の理不尽さに、ちょっと前まではイチイチ頭にきてそのたびに喧嘩になったが、今はもう慣れた。
そういう点が自分は大人になったと感じる。
さらには、お兄ちゃん(長男)の凄さもわかるようになった。
なにしろ、小学生のころから、お母さんの理不尽さや僕や妹の屁理屈に、怒ることもなくかつ相手を怒らせることもなく受け流してきた。
今思えば、これは凄いことだ。
次男の答は、だいたい以上のような主旨だ。
で、今度は次男が僕に訊ねる。
「お父さんは、お母さんの理不尽さを承知していて結婚したのか、それとも結婚してから気づいて慣れたのか、どっち?」
「理不尽さが面白かったから結婚した……と言ったら信じるか?」
「いや、もしそれが本当だとしたら、僕はまだ大人になってないかもしれないね」
ま、大人にもいろいろあるとは思うし、僕のような大人になってほしいともぜんぜん思わないけどな。>
深くて楽しいお話なので、桝田先生のご了解をいただいて、ここに転載いたしました。
昔から、桝田先生の才能と頭脳の切れ(キレた頭ではありません、念のため)には敬服してきたのですが、この親にしてこの子あり(笑)。
すばらしきかな、このご一家。
幸多かれと祈ります♪
ありがとうございました。
<「最近、僕は大人になったと思うんだ」
と次男(中2)が言う。
「なんだ、それ。突然どうした?」と訊ねると、次男はこんな話をした。
最近、お母さんと喧嘩をしなくなった。
たとえば、お母さんが電話をしているときは「テレビの音量を下げろ」と言うくせに、僕が電話をしているときはお母さんは「聞こえない。うるさい」とテレビの音量を上げる。
この類の理不尽さに、ちょっと前まではイチイチ頭にきてそのたびに喧嘩になったが、今はもう慣れた。
そういう点が自分は大人になったと感じる。
さらには、お兄ちゃん(長男)の凄さもわかるようになった。
なにしろ、小学生のころから、お母さんの理不尽さや僕や妹の屁理屈に、怒ることもなくかつ相手を怒らせることもなく受け流してきた。
今思えば、これは凄いことだ。
次男の答は、だいたい以上のような主旨だ。
で、今度は次男が僕に訊ねる。
「お父さんは、お母さんの理不尽さを承知していて結婚したのか、それとも結婚してから気づいて慣れたのか、どっち?」
「理不尽さが面白かったから結婚した……と言ったら信じるか?」
「いや、もしそれが本当だとしたら、僕はまだ大人になってないかもしれないね」
ま、大人にもいろいろあるとは思うし、僕のような大人になってほしいともぜんぜん思わないけどな。>
深くて楽しいお話なので、桝田先生のご了解をいただいて、ここに転載いたしました。
昔から、桝田先生の才能と頭脳の切れ(キレた頭ではありません、念のため)には敬服してきたのですが、この親にしてこの子あり(笑)。
すばらしきかな、このご一家。
幸多かれと祈ります♪
ありがとうございました。
12月の25日はばっちり過ぎてしまいましたが
我が家の年賀状はこれから作ります。
年内に納める最後の原稿が小説すばる誌の『淡雪記』(馳星周・作)の16話のイラストで、25日の昼ごろに完成し編集部に送信(サーバーエラーなどを考えて複数のルートで送信)。
夕方一件打ち合わせをして、帰宅、食事して一息ついたらもう眠くなっちゃって
結局クリスマスケーキを食べたのは、きょう26日の夕方でした(笑
というわけで、今年はクリスマス・イヴに合わせた記事など描くヒマがありませんでした。
まだまだバタバタしてますが、少しだけ一息つけそうです。
今年もあとわずかですが、どうか最後まで、気を抜かず、つつがない年越しをいたしましょう♪
『煩悩力』 (藤原東演・著/リュウ・ブックス アステ新書)
先日、このブログの記事をお読みくださった方から
「自分はなかなか、色々なこだわりを捨てきれない」
という意味の感想をいただきました。
捨てる必要はないと思います(私も捨てられません)。
最終的にすべてを手放すとしても、それはそれらが自然に、熟した木の実が枝から落ちるように、時が来たら手放せばいい。それは意図して手放すものではなく、気がついたら手から放れているような自然な形が望ましい。
私はそう思っています。
だからと言って、たとえばタバコをあきらめられないからと、わざわざヘヴィースモーカーになる必要はありません。
人生には、覚せい剤のように、無理をしてでも手放した方がいいものもあります(もし依存しているならば)。
それは別として、人間が心の中に持っているある種の欲望や志向というものは、無理やり手放すことはできません。
手放したつもりが、ただ抑圧しているだけであり、それは形を変えて現れます。
鼻炎が治ったと思ったら湿疹が出たとか、歯軋りが止んだと思ったら貧乏ゆすりが、というように、まるでエネルギーが熱や運動に形を変えるように、どこまでも付きまとって離れません。
それならいっそ活かしてしまえ。
そう語りかけるのがこの本です。
同感です(笑)。
私など、ほとんど煩悩、リビドーを燃料にここまでマンガを描いてきたようなもので、それなくしてはこの道程の半分いや十分の一も来られなかったことでしょう♪
ただし、あくまで「活かす」ことであって、所かまわず野放しにして「はた迷惑な人になる勧め」ではありません(笑
著者の藤原氏は、臨済宗のお坊さんだそうです。
ある地方大学で「宗教学概論」の講師をしておいでだそうで
<毎年、「自己とは何者か」というレポートを学生に書いてもらう。すると、本音と建前の間をうろつく「いい人」願望がいかに多いか、毎年、浮き彫りにされてくる>
<他人が自分をどう思うか、なにを自分に期待しているか、その場の空気を読めるかどうかをすごく気にしている。だが、ここで言う他人とは自分がかかわりのある人間だけを意味する。
赤の他人に対しては、非常に無神経なのだ>
<逆にかかわりのある相手に対しては、望まない意見を言って、変に思われたり、嫌われたり、相手にされなくなるという孤立感を異常なくらい恐れている。
だから本音をいつも抑えて、建前で人と交わる。つまり「いい人」「いい友」という仮面をつけて、触れ合わないとやっていけない、と思い込んでいるようだ>
<いい人であろうとすると、精神的に疲れてくるし、自分の成長の障害になってしまうのだ。学生たちはそれも気づいているのだ。だったら「いい人」の壁をなんとか乗り越えたらいいのにと思うのだけれど、その勇気が出てこないようだ>
<この「いい人」という風潮は決して若い人に限ったことではない。日本人のあらゆる世代の意識にまん延しているのではないか。その分(中略)活力の感じられない社会になっている現代、自己中心的な、小人物ばかり増えてきたのではないか。
だから仮面のもたらすストレスが増幅し、生きる気力を喪失してしまい、結果、自分とは関係のない人を殺めるような、秋葉原の無差別殺人のような陰惨な事件ばかりがおこるのだ>
私(山本)は、この「いい人」コンプレックスの裏返しが、昨今の、人のちょっとしたアラを見つけて言葉や行動でつるし上げ、まるで西部劇のリンチのように責め立てる風潮に現れているように思います。そのことがまた、うわべだけの「いい人」志向に拍車をかけるという悪循環を生み出しているのではないでしょうか。
<では「いい人」信仰を打破して、本来の自分にある、未開発の能力や活力を伸長させるにはどうしたらいいのか>
<私の言葉で言えば、本来一人ひとりが有する「『煩悩』のパワーを活用することだ」>
「煩悩」と言うと、そもそも仏教の言葉で、<「自分の欲望にふりまわされる悪い心の働き」>といった意味合いで使われますが、それが
<仏教が現代人に嫌われている元凶>だろうと、著者は言います。
<なぜなら、欲望を追求し、満たすことを第一義としてきたのが現代>であり、
<そうなると、仏教は過去の遺物であり、仏教などなくてもいいということになる>
<だが>
と著者は言います。
<仏教は、欲を全面的に否定しているのではない。それどころか「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)すなわち煩悩があるから悟りもあるという言葉があるくらいだ。すなわち煩悩を活かすことこそ仏教といっていい>
大いに同感なのですが、宗教というと「禁欲」という先入観が一般には広く行き渡っていますので、仏教のそういう面は意外と知られていないのかもしれません。
と言うわけで、著者は歴史上の有名な人物がいかに、自分の煩悩を活かして事を成したかを、実例を挙げて分析していきます。
一休、織田信長、小林一茶、親鸞、種田山頭火、野口英世etc・・・
はては野村監督まで♪
目次は以下のとおりです。
<第一章 煩悩力が「生きる力」を倍増させる
~なくすより、活かすことで「煩悩」も生きる
第二章 「欲」の深さが力に変わり、夢を実現する
~むさぼるほどに見えないものが見えてくる
第三章 「怒り」が人を巻き込む魅力になる
~リスクを背負うから人生がおもしろくなる
第四章 「グチ」こそが心を救うクスリとなる
~吐き出すことで、ストレスフリーに生きられる
第五章 「煩悩」とともに歩むと、人生の壁は崩れていく
~「これでいいのだ!」が言えたらもう怖くない>
中には煩悩の代表みたいに言われる性欲も含まれます(当然ですが)。
不自然な禁欲など、一部の性犯罪者などは別として百害あって一利なし。口臭を防ぐために息を吐かないようなもので、すぐに破綻が見えています。
立ってるものは親でも使えと言いますが、使えるエネルギーは全部利用する。それがエコではないでしょうか。
著者は、煩悩を暴走させた場合の危険性にも言及しつつ、その活用例をいくつも並べて解説しています。
読みやすい平易な文章で、買ったその日に読了しました。
ちなみに、いささか形而上な含みもあって本書のメインテーマとは少しだけずれるかも?ですが、私が印象深かったのは以下の下りです。
<(岡本太郎の)『自分の中に毒を持て』(青春文庫)という著書に、僧侶に講演したときの話が出ている。(中略)
開式の挨拶で、ある僧侶が臨在禅師には「道で仏に逢えば、仏を殺せ」という名句があると話した。岡本は違和感を持った。いくら有名な一句を念仏の如く唱えても意味がない。
禅は、一般の人がおやっと驚かせるような言葉をひねくりまわして、それを是(ぜ)とし、その言葉の上に胡坐(あぐら)をかいていないか、というのだ。
岡本は壇上に上がると、いきなり聴衆に問う。
「道で仏に逢えば、と言うが、みなさん今から何日でもいい、京都の街角に立っていてご覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください」と。
誰も手を上げないので、
「逢えっこない。逢えるはずがないんです。ではなにに逢うと思いますか」
と畳みかけた。やはりシーンとして誰も答えない。
そこで岡本は激しい言葉をぶつけた。
「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」
その岡本の発言に会場がどよめいたが、次の瞬間、拍手喝采となった>
さすがは岡本氏。
本職のお坊さん相手にナイス切り込み(笑
お決まりのパターンで権威ある名句を引用して分かったつもりになっている人や、虎の威を借る狐状態で悦にって入る状態の人は、まずその「オレが」をこそ殺すべきでしょう。
よくぞ言ってくれました(笑)。
落語に、ある男が、さっき町でこんなバカなできごとを見た、とその当事者たちをあざ笑って仲間に語る話があります。なんでそんなにくわしいんだと聞かれ、オレはそばでずーっと見てた(笑)。
見てたおまえもバカだろうという。
これでいいのだ
今日も善き日を♪
時代劇専門チャンネルで、今月は鶴田浩二が近藤勇を演じた『新撰組』をやってます。
土方はいわずと知れた栗塚旭さん。
番組の後で、栗塚さんが新撰組にまつわる史跡を訪ねる小コーナーもあって楽しみに見ています。
栗塚さんは、若いころもかっこいい役者さんでしたが、すてきな老け方をなさって、笑顔のさわやかなかっこいいお爺さんになられていて、感嘆します♪
それはさておき
新撰組の敵役と言えば、尊王倒幕の長州、薩摩、土佐などの浪士たちですが
新撰組が主役のドラマ、映画において、彼らは一般的にはあくまで悪役。
新撰組の隊士たちが斬り殺すところに爽快感が生まれるよう、どこまでもひどいキャラクターに描かれることが大半です。
山口県生まれの私は、苦笑しながら見ていますが♪
野蛮で下品で乱暴者で、口先だけは天下国家を論じ、実際は罪もない京都の町の人々に迷惑をかけまくる誇大妄想で小心者のテロリスト・・・みたいな(笑
政権打倒を狙って動いているテロリストと言えば否定はできませんが、全員が全員ああいう人たちではなかったと思うのですが
最近ふと気づいたことは、長州人の場合、あの長州言葉(「わしは~~じゃ」)が、その乱暴で粗野なイメージに拍車をかけているのかもと。
山口弁は広島弁に大変似たところがあって、おそらく他県の方にはほとんど区別がつきません。
広島弁は、かつての東映ヤクザ映画などで危ない人たちの使う乱暴な言葉というイメージが全国的に広まり(あくまで一般の先入観の話で、実際の広島の方がそうだという意味ではありません、念のため)、その後もそれ系のドラマで使われる定番アイテムみたいになってしまったところがあり、それと重ねて長州弁も誤解を受けている面があるのではないでしょうか。
薩長が政権を握ってからは、軍隊言葉(「~であります」)などにも使われるようになった長州弁ですが、どうも幕末ドラマでは印象が悪いようです(笑
そういえば、遠い他県の友人があちら方面に旅行した際、ちっちゃな子どもが追いかけっこをしながら
「待て~ブチ殺しちゃるけん」
とか叫んでいるのを聞いて仰天したとか、嫁いできた友人のお母さんが、山口県人同士の日常会話を聞いてケンカをしているのかと思ったといった話があります(笑
かくいう私は、マンガ家デビュー間もないころ、あとがきなどで自分の一人称を「わし」と書いていたら、歳のいったおじさんかと勘違いされたこともありました(幼少時、当地では幼稚園児でも男は「わし」でした。今はどうだか知りませんが)(笑)(ちなみに女性は「うち」です)
当面、新撰組マンガを描く予定はまったくありませんが、万一原作付きなどで描くことになった場合
アホで野蛮な長州人を描くのは、ご先祖様に対していかがなものかと、いらぬ心配をしたりもいたします(笑)。
土方はいわずと知れた栗塚旭さん。
番組の後で、栗塚さんが新撰組にまつわる史跡を訪ねる小コーナーもあって楽しみに見ています。
栗塚さんは、若いころもかっこいい役者さんでしたが、すてきな老け方をなさって、笑顔のさわやかなかっこいいお爺さんになられていて、感嘆します♪
それはさておき
新撰組の敵役と言えば、尊王倒幕の長州、薩摩、土佐などの浪士たちですが
新撰組が主役のドラマ、映画において、彼らは一般的にはあくまで悪役。
新撰組の隊士たちが斬り殺すところに爽快感が生まれるよう、どこまでもひどいキャラクターに描かれることが大半です。
山口県生まれの私は、苦笑しながら見ていますが♪
野蛮で下品で乱暴者で、口先だけは天下国家を論じ、実際は罪もない京都の町の人々に迷惑をかけまくる誇大妄想で小心者のテロリスト・・・みたいな(笑
政権打倒を狙って動いているテロリストと言えば否定はできませんが、全員が全員ああいう人たちではなかったと思うのですが
最近ふと気づいたことは、長州人の場合、あの長州言葉(「わしは~~じゃ」)が、その乱暴で粗野なイメージに拍車をかけているのかもと。
山口弁は広島弁に大変似たところがあって、おそらく他県の方にはほとんど区別がつきません。
広島弁は、かつての東映ヤクザ映画などで危ない人たちの使う乱暴な言葉というイメージが全国的に広まり(あくまで一般の先入観の話で、実際の広島の方がそうだという意味ではありません、念のため)、その後もそれ系のドラマで使われる定番アイテムみたいになってしまったところがあり、それと重ねて長州弁も誤解を受けている面があるのではないでしょうか。
薩長が政権を握ってからは、軍隊言葉(「~であります」)などにも使われるようになった長州弁ですが、どうも幕末ドラマでは印象が悪いようです(笑
そういえば、遠い他県の友人があちら方面に旅行した際、ちっちゃな子どもが追いかけっこをしながら
「待て~ブチ殺しちゃるけん」
とか叫んでいるのを聞いて仰天したとか、嫁いできた友人のお母さんが、山口県人同士の日常会話を聞いてケンカをしているのかと思ったといった話があります(笑
かくいう私は、マンガ家デビュー間もないころ、あとがきなどで自分の一人称を「わし」と書いていたら、歳のいったおじさんかと勘違いされたこともありました(幼少時、当地では幼稚園児でも男は「わし」でした。今はどうだか知りませんが)(笑)(ちなみに女性は「うち」です)
当面、新撰組マンガを描く予定はまったくありませんが、万一原作付きなどで描くことになった場合
アホで野蛮な長州人を描くのは、ご先祖様に対していかがなものかと、いらぬ心配をしたりもいたします(笑)。
拍手ボタンを押しても反映されないトラブルの件
FC2に問い合わせメール出そうとしたら、サポートコーナーに2009年12月18日の告知として下記のような記事がありました。
とりあえず様子を見守ることにします。
お客様にはご迷惑をおかけして申し訳ありません。
追記
2009年12月21日夕方、コメント欄でお客様から「管理画面で拍手の入った記事を再保存すると反映されます」とのアドバイスをいただき、試して見たら反映されました。これからしばらく、時々これでいってみます。貴重な情報ありがとうございました!
FC2サポートです。
平素はFC2をご利用いただきありがとうございます。
現在、FC2ブログ( http://blog.fc2.com/ )の
コミュニケーションツール「ブログ拍手」において
ブログ管理画面の拍手数とボタン上の拍手数が一致しない問題が発生しております。
現在こちらで調査中ですので、今しばらくお待ち頂ければ幸いです。
ご迷惑をお掛けし、申し訳ございません。
お気づきの点等ございましたら
サポートまでお知らせ頂けましたら幸いです。
以上、宜しくお願い致します。
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FC2, inc
FC2に問い合わせメール出そうとしたら、サポートコーナーに2009年12月18日の告知として下記のような記事がありました。
とりあえず様子を見守ることにします。
お客様にはご迷惑をおかけして申し訳ありません。
追記
2009年12月21日夕方、コメント欄でお客様から「管理画面で拍手の入った記事を再保存すると反映されます」とのアドバイスをいただき、試して見たら反映されました。これからしばらく、時々これでいってみます。貴重な情報ありがとうございました!
FC2サポートです。
平素はFC2をご利用いただきありがとうございます。
現在、FC2ブログ( http://blog.fc2.com/ )の
コミュニケーションツール「ブログ拍手」において
ブログ管理画面の拍手数とボタン上の拍手数が一致しない問題が発生しております。
現在こちらで調査中ですので、今しばらくお待ち頂ければ幸いです。
ご迷惑をお掛けし、申し訳ございません。
お気づきの点等ございましたら
サポートまでお知らせ頂けましたら幸いです。
以上、宜しくお願い致します。
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FC2, inc
あいかわらずサーバーの都合かなんか、このブログ
拍手ボタンの反映されるのが遅いです。
きょうも0時過ぎて何件かあるのに、一個も反映されてません。
これじゃ押してくださるお客様も意欲が失せますよね。もうしわけありません。
数時間差?で反映されてるようですので、気長におつきあいくださいませ~;
追記
ううむ、管理画面にログインするとすでに10件拍手があるのに、ブログ上は一件もまだ反映されてません。
土曜日で混んでるんでしょうか;(2009年12月19日14時50分現在)
拍手コメント、非公開コメントなどはちゃんと拝読できます。ありがとうございます。
追記2
2009年12月20日午前7時現在
「『戦闘女神アヌンガ』36話完成♪」の記事には、昨日だけで5件拍手いただいたにも関わらず、ブログ画面では一件も表示されてませんね。ピザトーストの方は数時間遅れで表示されたのに。謎です;ボタンをクリックしてくださった皆様、申し訳ありません。
拍手ボタンの反映されるのが遅いです。
きょうも0時過ぎて何件かあるのに、一個も反映されてません。
これじゃ押してくださるお客様も意欲が失せますよね。もうしわけありません。
数時間差?で反映されてるようですので、気長におつきあいくださいませ~;
追記
ううむ、管理画面にログインするとすでに10件拍手があるのに、ブログ上は一件もまだ反映されてません。
土曜日で混んでるんでしょうか;(2009年12月19日14時50分現在)
拍手コメント、非公開コメントなどはちゃんと拝読できます。ありがとうございます。
追記2
2009年12月20日午前7時現在
「『戦闘女神アヌンガ』36話完成♪」の記事には、昨日だけで5件拍手いただいたにも関わらず、ブログ画面では一件も表示されてませんね。ピザトーストの方は数時間遅れで表示されたのに。謎です;ボタンをクリックしてくださった皆様、申し訳ありません。
ケータイ配信マンガ『戦闘女神アヌンガ』の36話を完成しました。配信はイレギュラーですが、Bbmf社年内営業最終日の12/28(月)になる予定です(すべりこみセーフ!)♪
いよいよ残すはあと一話!最終回!
大増ページで年越し執筆の予定です。
添付画像は35話のもの。
二枚目のカット、パキケファロサウルス様の魔鳥は尻尾の先端も頭部同様鉄球もどきの武器になっています。一撃をかわしても、でんでん太鼓のように連続して攻撃をしかけてきます。これ、『ウル●ラ7』の最終エピソードの怪獣パンドンへのオマージュで(パンドンはくちばしが二つでしたが)、拳骨のかわりに頭突きでアヌンガの頭部に大ダメージを与えます(笑
三枚目の魔獣は光鞭虫。
子どものころ、縄跳びやロープを振って遊んだ方はご記憶があると思いますが、ああいう感じのうねる光のムチを繰り出してアヌンガを圧倒します。
ではでは新年公開のクライマックスをお楽しみに♪
年末進行ってやつですか
連載中のケータイ配信マンガ執筆、タイムアタック状態で今週は動きがとれません。
週の始めに毎年恒例集英社の手塚賞赤塚賞パーティ(別に自分がもらうわけじゃないですが)(笑)があって、確か出欠はがきにも出席に○つけて投函した覚えがあるんですが
行けそうにありません(泣
また今年も「狼少年」状態です(お会いしたい編集さんやマンガ家さんがいっぱいいらっしゃるんですが。いや、そもそもマンガ家にとってパーティは遊びじゃなくて一種の「営業」ですから)
でも、ファンの方から先日も『戦闘女神アヌンガ』年内にもう一話配信あるんですか、などというコメントをいただいては、出来る限りの努力はせずにおけません。間に合うか合わないか微妙なスケジュールなんですが
がんばりまーす。
皆様も暮れで何かとお忙しいでしょうが、どうかご自愛くださいませ~♪
この秋の話ですが
通い猫のしろさんが、妙な歩き方をしていました。
左後足をぴょこぴょこ痛そうに浮かせて、びっこを引いているのです。
特に出血などもなく、どうやら関節を痛めたようです。よく見ると、痛めた足の外側から二番目の指が伸びていました。
猫に興味のない方はご存じないでしょうが、いや、飼っておいでの方でも意外と気にしておられない場合がありますが、本来猫の指は、前足がぱっと見て内側から二本目の指が一番前に出た左右非対称の形をしている一方、後足は両側二本と中央二本がそれぞれ同じ長さの左右対称の形をしています。
原則前足が5本、後足が4本(うちの子4本しかない!奇形か?と驚かれる方が時々おいでです)です。
ただ、前足の親指に当たるツメは、地面についた4本より少し上についているので、接地しているところを人間目線から見ると、前足も4本に見えたりします。
しろさん、万一重症だとヤバいので、写真を撮って行きつけの獣医さんに見せに行きました。
白鳥雛子(拙著『最終教師』シリーズのヒロイン)(笑)が細面になってナイスな中年になったような美人女医さんで、私はお会いするのがいつも楽しみなんですが、それはともかく
写真を見ていただくと、おわかりかと思いますが、しろさん、左後足のツメと言うか指と言うか、本来同じ長さの真ん中の二本のうち、外側の一本が少し長くなっています。
これは脱臼か何かでしょうか。
猫はよくツメを網などに引っ掛けたまま引っ張ってしまうことがあります。
そうして痛めた場合、人間ならテーピングや添え木などして固定し、治るのを待つのですが、野良で暴れん坊のしろさん、とてもそんなことはさせてくれません。
果たして、麗しの女医さんも同意見で、つかまえて檻にも入れられないとなると、投薬でこのまま様子を見るしかないということになり、炎症を抑える薬(痛み止めも含む)をもらって帰りました。
すると数日で足も引きずらなくなり、指の長さも元通りになりました。
今は元気に駆け回っています。
あっぱれ野良の回復力。安心しました♪
『探すのをやめたとき愛はみつかる』
バイロン・ケイティ・著/水島広子・訳/創元社
前回の記事『探すのをやめたとき愛は見つかる』その1よりの続きです。
未読の方はそちらを先にお読みください。
タイトルから、若い人の恋愛相談本のように思われる方もおいでかと思いますが、副題の
「人生を美しく変える四つの質問」
というフレーズにもありますとおり、これは人の抱えるあらゆる方面の心理的な問題を見直す、シンプルで有効な手法についての本です。
質問2までは前回の日記をご覧ください。
<質問3)その思考について考えるとき、あなたはどう反応するでしょうか。
「ポールは私を理解すべきだ」
と考え、彼がそうしないとき、何が起こりますか。リストを作ってください。
彼をどう扱うでしょう。肉体はどんな感じですか。そう考えるとき、どんな影響があるのかに、よく気づいてください。そして、自分にきいてみてください。
「その考えは、私の人生にストレスをもたらすだろうか、安らぎをもたらすだろうか」>
<質問4)その思考がなければ、あなたは誰でしょう。
目を閉じて。あなたが変えたいと思っているその人が目の前にいるところを思い描いてみましょう。
そしてほんの一瞬でも、その思いなしに、その人を見つめているところをイメージしてください。何が見えますか。 そして、あなたを理解すべきだというストーリーとともにあなたが行為するとき、相手をどう扱うでしょうか。この考えがなければ、あなたの人生はどんなでしょうか>
<ここでのゴールは、自分の反応の仕方を変えようとしたり、人生を違った目で見ようとすることではありません。これは、あなたが内側に入って、あなたの考えと、それがもたらす結果をシンプルに問い直し、見直す機会なのです。
あなたがこの関係をクリアに見ると、その結果、人生は自動的に変わります。そうならざるを得ません。
というのも、いったん精神的な苦しみが世界そのもののせいではなく、世界に対する自分の考えのせいだということが分かれば、問題は自分を理解するための機会となり、生はギフトとなるからです>
人生の幸不幸は誰にとっても同じ絶対的な基準などありません。
生死でさえも、ある人にとっては希望であり、ある人にとっては絶望です。
その価値を決めているのは自分の心です。
著者のバイロン・ケイティは、こうして四つの質問に対して書き出された回答を「ひっくり返し」てみることを勧めます。
<ひっくり返す
4つの質問で自分が書いた文章を見直すと、それをひっくり返す準備ができました。
ひっくり返しは、あなたが真実だと思っていることの反対を体験するための機会です。
例えば、
「私はポールに対して怒っている。なぜなら彼は私を理解しないから」
は、ひっくり返すと、
「私は私に対して怒っている。なぜなら私を理解しないから」
となります。これも同じぐらい真実か、あるいはより真実に近いでしょうか。
私が私を理解しないので、同じことに関して、ポールにくり返し頭に来るということもあるでしょうか。
もしも私が私を理解しないなら、ポールが私を理解しないかどうかが、私に分かるでしょうか。
もうひとつのひっくり返し方は、
「私は私に怒っている、なぜなら私はポールを理解しないから」
分かりますか>
<ひっくり返しでは、クリエイティブになってください。
これらは啓示であり、他者があなた自身に見えていない自分の一面を見せてくれるものなのです。2つか3つ以上のひっくり返し方が見つかることもありますが、そのどれもあなたが書いたものと同じぐらい、あるいはそれ以上に真実でしょう。内側に入り、そのひとつひとつをじっくり見てください。あなたにとって、どれが真実でしょうか。自分に感じさせてあげてください。
私がこのひっくり返しとともに生き始めたとき、「あなた」と呼んでいたものはすべて、自分だということに気づきました。あなたは私の思考が現実として投影されたものに過ぎなかったのです>
<今は、まわりの世界を変えようとする代わりに(これはうまくいきませんでした。43年間、ずっと)、思考を紙に書き取り、それを見直し、ひっくり返し、あなただと思っていた当のものが自分だということを見つけます>
<あなたは優しくないと私が思う瞬間、私は優しくないのです。
もしもあなたは戦いをやめるべきだと私が信じているなら、私は自分のマインドのなかで、あなたに戦いをしかけてはいないでしょうか。もしそうならば、私は戦争を教えているのです。
あなたがもっと「ワーク」になじんでくると、ひっくり返しをする機会にどんどん気づいていくでしょう。
たとえば、あなたがある人に会い、傲慢な人だなあと思ったとしましょう。そしたら、自分にたずねてみてください。
「私も同じぐらいそうだろうか。ときには私もそうだろうか。他の人がどうすべきだとか、どうすべきでないと考えるとき、私は傲慢だ、と言えるだろうか」
このひっくり返しは、あなたの幸せへの処方です。
あなたが他の人に処方してきた薬を自分で取ってみてください。
私たちは、たった一人の生きた教師を待っています。それはあなたなのです>
そして、ひっくり返すことで、どのような理解がもたらされるか、いくつかの例があげられています。ここは少しだけ、私(山本)流に改変(「誰が」の部分を)したものをアップします。
「彼女は私を理解すべきだ」は、ひっくり返すと
・彼女は私を理解すべきではない。(ときには、これが現実です。)
・私は彼女を理解すべきだ。
・私は私を理解すべきだ。
「私は友人に優しくしてもらう必要がある」は、ひっくり返すと、
・私は友人に優しくしてもらう必要はない。
・私は友人に優しくする必要がある。(そうできますか。)
・私は私に優しくする必要がある。
「彼は私に愛情がない」は、ひっくり返すと、
・彼は私に愛情がある(彼のできる最大限で)。
・私は彼に愛情がない。(分かりますか。)
・私は私に愛情がない。(ジャッジをして、それを問い直さないとき)
「同僚は私に怒鳴るべきでない」は、ひっくり返すと、
・同僚は私に怒鳴るべきだ。(明らかにそうだ。同僚は実際そうなのだから。)
・私は同僚に怒鳴るべきでない。
・私は私に怒鳴るべきでない。(頭のなかで、同僚が怒鳴っているのをくり返しくり返し反芻している
のでは?)
なんとなく、要領がお分りいただけたでしょうか?
これらのひっくり返しの文章が、全部正しいというわけではありません。
そういう視点もあるというだけであり、それをどう受け止めるかは自分の自由です。
このあと、ケイティはもう一歩踏み込んだ考え直しを提案しています。
自分がワークシート(前回の記事参照)の6番目に書いた、困った相手と二度と体験したくないことを、ひっくり返して見るのです。
たとえば「私は同僚と二度とケンカしたくない」なら「私は是非もう一度同僚とケンカしたい」というように(笑
<6番目はあらゆるマインド、それゆえにあらゆる生の側面を、恐れることなく抱きしめ、現実に開いていくものです。
もしあなたが頭のなかだけでも、もう一度ポールとケンカを始めたら、いい機会です。それがもし痛みに満ちているなら、それを紙に書きとめ、調べ直してください。不快なフィーリングは、自分にとって真実ではない思考にしがみついているということを思い出させてくれるでしょう。それは「ワーク」のときだと知らせてくれるのです>
<あなたが、敵を友人と見なせるまで、あなたの「ワーク」は終わりません。
こう言ったからといって、その人たちを夕食に招待する必要はないのです。
愛は内面の体験です。あなたは決して彼らに会うことはないかも知れませんが、あなたが彼らのことを思うとき、ストレスを感じるでしょうか。それとも安らぎですか>
<不快な感情を楽しみにすることを勧めたいと思います。
それは、あなたが、問い直していないある信じ込みにしがみついていて、「ワーク」をするときだ、と教えてくれる、目覚まし時計のアラームのようなものです。
問い直しを通して、明晰さを手に入れてください。
理解を持って、不快な感情と出会ってください。
どうして外の誰かが満足と平和をもたらしてくれることを待っているのですか。安らぎはいつも、あなたの内側、4つの質問のすぐ先にあるのです>
以上かいつまんで、バイロン・ケイティの推奨する「ワーク」についてご紹介いたしました。
その1でも申し上げましたとおり、冒頭の書籍は出版社が引用を拒否していますため、同じくケイティの出しました小冊子(商業利用でない限りコピー、引用OK)からの転載です。
<現実と争うときあなたは負ける。必ず>
というケイティの言葉は名言だと思います。
<全世界には三つの物事しかないということを私は見つけました。
私の物事、
あなたの物事、
神(あるいは、高次のパワーと言い換えてもけっこうです。私にとっては、現実が神です。なぜなら、それが統治しているのですから)の物事。
もし、あなたが自分の人生を生きていて、私がマインドのなかであなたの人生を生きているならば、誰がここで私の人生を生きることになるのでしょうか。
もちろん、私は孤独でしょう。マインドのなかで、人の物事に首を突っ込むことで、私は自分を留守にしてしまいます。
他の人の最善の道が自分には分かるというのは、傲慢というものです。
長い目で見て、あなたの人生において何がベストか、あなた以上に本当に私に分かるのでしょうか。この傲慢が、緊張や心配や寂しさをもたらします。次の機会に孤独や分離感を感じたならば、自分にきいてみてください。「私は誰の物事に首を突っ込んでいるのか」と>
今回の記事に関して、あまり私(山本)から付け加えるべきことはありません。
先にお断りしましたとおり、ケイティの方法は一つのツールであって、何か確実な正しさなどを提供するものではないのです。
彼女の方法にも足らない部分はあります。
トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーも、それを指摘しつつ、しかし彼女の「ワーク」には、形而上的知性に対するすばらしい技巧と、仏教で言うところの「空(くう)」に通じる思想があり、大いに意義あるものであると評価しています。
人間にとっての「現実」リアリティというものは、個人とそれ以外の世界が互いに影響しあって形作られるものであり、100%自己と無関係に存在するものでもなければ、100%自己が形作るものではありません(形而上的に高次の視点に立てばまた別かもしれませんが、それは置きます)。
人の思考と言うのは、白紙の上に一から「私」が書きこんでいくものではなく、それ以前に知らぬ間に決定付けられた多くのものが存在します。それはまた心理学の話題として別の機会に触れたいと思います。
ケイティは、その方面に関して今ひとつ理解が足りない、とウィルバーは言っているようなのですが、それは、我々一人一人が自分で補って読めばいいと思っています。
最後に、ケイティ語録からいくつか引用して終わります。
<私を好きになるのはあなたの仕事ではない--それは私の仕事だ>
<正気はけして苦しまない>
<人格は愛さない--それは何かを手に入れようとする>
<自分の進化の程度を偽らないように>
<あなたが必要としている教師は、あなたが一緒に住んでいる人です。あなた、きいていますか>
<私は自分の観念を手放しはしない。私はそれと出会い、問い直す、するとそれが私を手放す>
この記事の「その1」で、最近、どこかのお坊さんが、人の真の幸せというのは
「愛されること
ほめられること
人の役に立つこと
人に必要とされること」
と話しておいでなのをテレビで見ました、と申し上げました。
しかし、ケイティの「ワーク」についてお知りになると、けしてその限りではないことが垣間見えるのではないでしょうか。
ケイティは言います。
<私に祈りがあるとしたら、それはこうなるだろう:
「愛されること、認められること、感謝されることを望まないでいられますように、アーメン」>
『探すのをやめたとき愛はみつかる』
バイロン・ケイティ・著/水島広子・訳/創元社
タイトルから、若い人の恋愛相談本のように思われる方もおいでかと思いますが、副題の
「人生を美しく変える四つの質問」
というフレーズにもありますとおり、これは人の抱えるあらゆる方面の心理的な問題を見直す、シンプルで有効な手法についての本です。
原題は
“I Need Your Love-Is That True?”
色恋におけるLoveだけではなく、人が生きていくうえで他人に求める好意、リスペクト、その他広い範囲の内容を扱っています。
最近、どこかのお坊さんが、人の真の幸せというのは
「愛されること
ほめられること
人の役に立つこと
人に必要とされること」
と話しておいでなのをテレビで見ました。
ある視点ではその通りなのですが、もう少し高い視点から見れば、それもある段階の一つの方便、仮の真実に過ぎないように思うのです。
「人の役に立」てること、は確かに幸せですが、その他の三つ
「愛されること
ほめられること
必要とされること」
は、誰でもいつでもどこででも得られるものではありません(人の役に立つこと、は自分で動けば得られるかも知れませんが、あとの三つは、他人次第です。いや厳密には、自分が頑張っても迷惑がられる場合もあり、そういう意味ではすべてが自分ひとりでは獲得できないものでもあります)。
では、それが得られない人は、真の幸せは得られないのでしょうか?
そうではないかもしれないと、ケイティは語ります♪
ということで、同書からいくつかポイントを抜粋したいところなのですが、同書には出版元の創元社の
<出版社の許可なく一部にせよ全部にせよ、いかなる形においてもこの本の転載を禁ずる>
という意味の注意書きがあります(珍しいですね、こういうの)。
通常、商業利用などを除いて、出展を明記した部分引用は問題ないはずですが、ここは一応その意見を尊重し、著者であるケイティの別の文献から引用して、同書と重なる内容をご紹介したいと思います。今回かなりな長文になりますので、お時間のおありな時にご覧ください。
ケイティは彼女が「ワーク」と呼ぶ、自分自身への問い直しのプロセスを提唱します。
<あなた以外に、あなたを自由にできる人はいない>
と彼女は言います。まず序文から。
ネット上の画面で読みやすいように一部の改行や強調太字など私(山本)が変更した箇所を覗いて、訳文ママです。
<1986年に私は、現実と言い争う思考を信じるときにのみ、人は苦しむということを発見しました。
現実がそうであるのに、そうであって欲しくないと思っても、無駄なことです。
それは猫に「ワン」とほえろと教えるようなもので、死ぬまでがんばっても、やはり猫はあなたを見上げて、「にゃ~」と鳴くでしょう>
<これは一見、当然のことのように見えます。けれども、もしよく見てみるならば、こういったたぐいの思考が一日のうちに山ほど現れることに気づくでしょう>
「人はもっと優しくあるべきだ」
「こどもは行儀よくあるべき」
「隣の人はもっときちんと庭の手入れをすべきだ」
「あの人は私を捨てるべきじゃなかった」
「もっとやせなくては(あるいは、もっと魅力的にならなくては、もっと成功しなくては)」
こういった思考は、今のままの現実に対し、そうあってほしくないと期待する声です。こうして、あらゆるストレス、欲求不満、落ち込みが生まれます>
<「ワーク」になじみのない人は、よく私にこう言います。
「でも、現実に抗議することをやめたら、私は力をなくしてしまうでしょう。ただ受け入れてしまったら、消極的な人生になってしまう」
-それに対し、私は答えます。
「ほんとうにそうだと、あなたに分かりますか」
いったいどちらの方があなたに力を与えるでしょうか。
「あの人は私を捨てるべきじゃなかったのに」
か、
「あの人は行ってしまった。さて、私はどうしようか」
か。
現実をありのままに見ることで、知性的な選択をすることが可能になります。抗議することは、あなたを制限します>
<「ワーク」は、起こるべきでなかったのに、とあなたが考えていることは、起こるべきだったということを明らかにします。それは起こるべきだったのです。というのも、それは起こってしまったのですから。そして、この世のどんな思考もそれを変えることはできません。
だからといって、それを大目に見るとか、認めるということではないのです。
消極的になるのではありません。それはただ、物事を抵抗なしに、内面の葛藤というストレスなしに見るということなのです>
<だれも自分のこどもに病気になって欲しくはありません。だれも自分のパートナーに去ってもらいたくはありません。けれども、そういったことが起きたとき、マインドのなかでそれに抗議することが何の助けになるでしょうか。私たちは無邪気にそうしていますが、それはそれ以外のやり方を知らないからです>
<「ワーク」は現実とのあいだのつらい戦いをやめ、物事をクリアに見る方法を提供します。特定の、鋭い質問を用い、私たちの思考を調べ、自分の混乱に気づきます。これは自己認識です。マインドが自分に出会い、自分を紙の上にとどめ、それを問い直すことで、「あるがまま」に抗議をすることがもたらす因果関係を理解します>
さて、ケイティが提唱するのは簡単な「四つの質問」です。
その前の準備として、今自分の抱えているストレス、現実に対する抗議を紙に書き出す必要があります。
昔から、多くの宗教や道徳が、人を責めてはいけないとか裁いてはいけないと説いてきました。
しかし、それは一旦脇に置き、それらを手放すためにこそ、まず自分の中の責める心、裁く心を否定せず、ありのままに認めて紙の上に吐き出すのです。
<まわりの人たちという鏡を通して、自分でまだ理解していない自分自身を発見していくのです>
<「まわりの人をジャッジする」ワークシートの文章を完成させましょう。まだ自分のことは書かないように>
<あなたのマインドに、表現の機会を与えてあげてください。あなた以外、これを読む人はいません>
<(1) あなたはだれのせいで怒ったり、がっかりしたりしているのでしょう。そしてそれは、なぜですか。あなたが気に入らないのは何なのでしょうか。
例)私は、ポールのせいで怒っている。なぜなら彼は私を理解しないから。私を怒鳴りつけ、嫌な気分にさせるから。
私は-----のせいで怒っている(いらいらしている、がっかりしている)。
なぜなら、------------------------------だから。
(2) その人にどう変わってほしいのですか。その人に何をしてほしいのでしょう。
私は-----に---------------------------してほしい。
(3) その人は何をすべきか、どうあるべきでしょうか、どう考え、どう感じるべきなのでしょう。
あるいは、どうあるべきでないのでしょうか。あなたのアドバイスはどんなものでしょうか。
-----は、--------------------------べきだ。あるいは、べきではない。
(4) あなたはその人から何かを必要としていますか。あなたが幸せでいるために、その人は何をする必要があるのでしょうか。
私は-----に、-----------------------------してもらうことが必要だ。
(5) あなたはその人のことをどう思っていますか。リストを作ってください。
-----は-------------------------------である。
(6) その人とのあいだで、あなたが2度と体験したくないことは何でしょうか。
私は------------------------------------はもう嫌だ。体験したくない。>
これらを書き出した時点で一息ついてください。そこでケイティはこう問いかけます。
<あなたが、正しくあること(そしてそれにともなうストレスと)か、自由であることを選ぶとしたら、どちらを取りますか。
そしてあなたは、何が自分のストレスや痛みの原因になっているのか、本当に真実を知りたいですか>
そしてこれからが、肝心な「四つの質問」です。
<1) それは本当ですか。
2)それが絶対に本当だと、あなたに分かるでしょうか。
3)その思考について考えるとき、あなたはどう反応するでしょう。
4)その思いがなければ、あなたは誰でしょうか。>
そんなこと聞くまでもない、答えは出ていると思われる方も少なくないと思います(「ほかにどんな答えがあるというんだ?」)でもケイティは言います。
<「ワーク」を体験するための鍵は、知的な部分からやってくる即答を超えて、より深い知恵に身を浸すということです。問いかけてから、じっとして、ハートの声が応えるのを待ってください。より深い答えが現れるのにまかせましょう。腰をすえて見ることで、自分自身の体験に信頼をもつことができるでしょう。
あなたは、自分にとっての真実は何なのか、外の世界の答えではなく、自分の答えを頼りにすることを学んでいるのです。
例:ポールは私を理解すべきだ。
質問1)それは本当ですか。
ポールがあなたを理解すべきだというのは本当でしょうか。現実はどうでしょうか。
静かにして。答えを待ってください。
もしもあなたが本当だと感じるなら、質問2に移ってください。
もしも本当ではないと感じるなら、3番に移ってください。
質問2)それが絶対に本当だと、あなたに分かるのでしょうか。
この質問は、あなたが内側に入って、それが本当にそうだということが、いったいあなたに分かるもの
か、もう一度問い直すための機会です。
ポールがあなたを理解すべきかどうか、あなたにいったい分かるものでしょうか。この瞬間、彼が何を理解するのがベストなのか、彼の道において、どんな理解を彼が持つべきなのか、あなたに分かるのでしょうか。いったい他の人が何を理解すべきなのかを決めるのは、あなたなのでしょうか。そして、現実はどうなのでしょう。彼はあなたを理解していますか。
世間はよってたかって
「彼はあなたを理解すべきだ、夫は妻を理解すべきだ」と言うかもしれませんが。
今は、あなたにとっての真実はどうなのか、自分の体験を調べ直し、見出してください。
私は1986年に、真実は、世間で言われている理想やおとぎ話ではないということが分かりました。
真実とは、現実において起こっていることです。
「ポールは私を理解すべきだ」
それは本当ですか。私の体験では、ノーです。ポールは私を理解すべきではないというほうが、より真実に近いでしょう。それがときには、現実なのです>
<「ワーク」になじみのない人はよく、私の「べき」ということばの使い方に戸惑います。
「オーケー、ケイティ。現実には彼はあなたを理解していないってことね。でも彼はそうすべきでしょ? つまり、あなたはそうするように彼に働きかける必要があるってこと」
というわけです。
私は何年もそうしようとがんばって、そのあげくに得たのが、落ち込みと怒りでした。彼に理解してもらいたいと思った唯一の理由は、そうなれば私が幸せになれるだろうと思ったからです。けれども、彼は私を理解すべきだという言葉を信じるのをやめたとき、私は幸せになりました!世界と戦うことによって、自分に安らぎをもたらすことができるだろうという気違いじみた思い込みを捨てたのです。起こるべきことは、当然ながら、現に起こっていることであり、本当に今起こっていることなのです。それ以外のことは、たんなる空想、ストーリーであるにすぎません>
ケイティの提唱するのは、徹底したリアリズムです。彼女の使う「べき」という言葉を上っ面で誤解なさらないでください。ひどい犯罪に合われた方などに、あなたはひどい目に合って当然だ、などと言っているのではありません。起こってしまったことを、いくら思考や言葉で「起こるべきではなった」と否定し嘆こうと、何も状況は変わらないし、幸せにもならないということです。
冒頭で引用したように
<いったいどちらの方があなたに力を与えるでしょうか。
「あの人は私を捨てるべきじゃなかったのに」
か、
「あの人は行ってしまった。さて、私はどうしようか」>
です。
ケイティの「ワーク」は彼女の決める「押し付け」ではありません。その種の人格改造セミナーや宗教の類ではなく、あくまで答えの決定権は自分にあります。彼女は言います。
<そう私が言ったからといって、それを信じないでください。
もしも2番目の質問の答えが「イエス」であってもいいのです。
間違った答えはありません。
問い直しのプロセスを続けてください。質問で、思考のあとにやってくる感情を見直していきます>
随分長くなりましたが、引用文はバイロン・ケイティの小冊子『苦しみの終わり』(PDFファイル/「商業的使用をしない限り、コピー、配布、引用を許可する」とあります)からです。
『探すのをやめたとき愛は見つかる』その2に続きます。
「好きなことば」のカテゴリに入れますが、きょうは具体的に好きな言葉と言うより、言葉全般の傾向のことです。
人にNOと言う言葉よりYESと言う言葉を。
誰かの何かを否定する言葉よりは肯定する言葉を。
平たく言うと、けなすよりほめるって話ですが♪
日本には古くから「言霊(ことだま)」という思想があります。
言葉には魂が宿っている。
どうせ宿らせるなら良い魂を宿らせたいと思います。
わざと心と裏腹な言葉を使う場合は別として、言葉にはその裏に、発する人の思いがありますから、どんな思いを乗せた言葉を使うか、その前段階からが大切だと思います。
人の思いは言葉になり、行いになって世界に影響を与えます。そして自分に返ってきます。
体の癖と同じように、人の思いにも癖がありますから、日ごろから良い癖をつけるよう心がけています。
有名な中村天風氏の言葉に
<いやしくも人を傷つける言葉、勇気を挫(くじ)くような言葉、あるいは人を失望させるような言葉、憎しみ、悲しみ、嫉(ねた)みの言葉を遠慮なくいっている人間は、悪魔の加勢をしているようなものだ!そういう人間は、哲学的にいえば、自他の運命を破壊していることを、平気でしゃべっている。だから何遍もいうように、
人の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、何ともいえず、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互いに話し合うようにしよう>
というのがありますが、
まことにそうだと思うものです。
でも時には毒も吐きたいじゃないか!とおっしゃる方も少なくないでしょう。
私もそう思うときが時々あります。
それについては以下のような話があります。
『なぜあの人はあやまちを認めないのか』(キャロル・ダリウス&エリオット・アロンソン・著/戸根由紀恵・訳/河出書房新社・刊)より
「暴力の連鎖、善の循環」
という章から
<精神分析では、感情の解法による魂の浄化すなわちカタルシスは精神衛生上よろしいものだとされて(中略)私たちの文化ではひとつの根強い思い込みが生まれた。腹が立ったときは、どなったり暴れたりして発散すると怒りがおさまるという思い込みだ。>
<しかし現実には、何十年もの研究の成果からまったく逆の結果が出ている。>
なぜかと言うと、人は、自分の行為を正当化する、そのために偏った考えに流れていく傾向があるからです。
私(山本)の意見を加えるなら、人間の持っているエネルギーには限りがありますので、誰かにムカついたとき、その相手をののしったり殴りつけたりすれば、無限に続けるエネルギーはありませんから、そのうち疲れてやめる時がきます。
そこだけ見ると、一見、問題は解決した(カタルシスによって解消された)ようには見えます。
ただ、そのあとに別の問題が残ると同書は言います。
<大学院生としてハーヴァードで臨床心理学を学んでいたマイケル・カーンは、カタルシスのすばらしさを実証するはずの巧妙な実験を考えついた。彼は医療技術者に扮し、医学実験の一環だとして学生をひとりずつポリグラフにかけ、血圧を測定した。測定をしながらカーンはわざといらいらして、学生に(それぞれの母親に対して)失礼な言葉をぶつけた。学生は腹を立て、血圧は上昇した>
そして、その後、カーンは学生たちを二つのグループに分けました。
一つは、カーンの無礼をカーンの上司に報告できる人たちのグループ。
もう一つは、そういう機会を与えられないグループ。
カーンは、彼の無礼を上司に報告してカタルシスの機会を与えられた方の学生が、怒りが解消されやすいと思っていました。ところが
<フロイトを信奉していたカーンは結果に驚いた。カタルシスなど大嘘だった。カーンのことを告げ口して怒りを表出できた学生は、その機会のなかった学生よりも、彼に対してはるかに大きな憎しみを抱くようになっていた。さらに、すでに高かった血圧は怒りをあらわすとさらに上昇し、一方で告げ口のできない組の高い血圧はそのうちに平常値に下がっていった>
<この予想外のパターンをどう説明しようかと考えたカーンは、当時まだ注目を集め始めたばかりの不協和理論に出会い、すっきりと説明がつくのを了解した。
カーンを困らせてやったと思った学生は、この仕打ちを正当化するために、あの男はこうされて当然だと思いこむ必要があり、怒りはさらに強まり、血圧もますます上がってしまったのだ>
誤解のないように申し上げますが、これは、上司や同僚、クラスメートからひどい目に合っても、黙って泣き寝入りしましょうというススメではありません(笑
人間の感情と行動の傾向の分析です。
同書には、有名なドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を引用してこう書いてあります。
<彼はかつて『なぜそれほどまでに憎むのか』と訊かれたことがあった。そこで彼はお得意のあつかましさで答えたものだ。
『教えてやろうか。あいつはおれに何も悪いことなどしていない。なのに、おれはあいつを汚い手で、はめたんだ。だからあのときから、おれはあいつを憎むことにしたのさ』>
さすがは大文豪、みごとな人間観察です。
今このブログをお読みの方の中にも、これまでの人生で、なぜあの人は自分にああまで悪意を持つのか、ああまで憎しみを抱くのか、私が何をしたというのだろうかと、悩まれた方がたくさんいらっしゃると思います。
無論中には、知らぬ間に相手を傷つけてしまわれた方もおいででしょうが、何割かは、この『カラマーゾフの兄弟』に出てくる登場人物のような人に、意味不明の逆恨みなどを買われたケースがあるのではないでしょうか。
また、自分自身が、誰かを嫌いで嫌い続けているうちに、それを正当化し強化するため、ますます相手への嫌悪感をつのらせて苦しまれた方もおいでかと思います。
<弱い者いじめをする少年たち、従業員を虐待する雇用者、互いを傷つけ合う恋人たち、抵抗をやめた容疑者をいつまでも殴り続ける警官、マイノリティの人々を投獄し拷問にかける独裁者、一般市民に残虐な行為を行う兵士にも、同じメカニズムがはたらいて>おり
<攻撃的行為が自己正当化を生み、自己正当化がさらなる攻撃的行為につながる>
と、同書は警告します。
これが「悪の連鎖」とすれば、「善の循環」はないのでしょうか。
それがあるのです。
<幸いにも、誰かへの寛大な行為が善意と憐れみの連鎖を生むという、悪循環ならぬ「善の循環」をつくりだすメカニズムがあることも、不協和理論は教えてくれる>
<誰かに善いことをすると、特にそれがふとした気まぐれや偶然によるものである場合は、人は自分の寛大な行為をあたたかく見つめるようになる。その人物に善行を施したという認識は、相手に抱いていたかもしれない否定的な感情との間に不協和を生み出す。善いことをしたあとで、「私としたことが、どうしてあんな嫌なやつに、善いことをしてしまったのだろう。ということは、あいつは、思っていたほど嫌なやつではないのかな。いや、実は仲直りしてやっていい好人物かもしれないぞ」と論理が回っていくのである>
これを実証する実験も複数あるようですが、ここでは割愛します。
人間の「自己正当化機能」というのは、無意識のレベルでかなり根深いものがあり、それが悪い形で発動すると、詐欺商法やいんちき宗教に泥沼のようにはまり込んだりする危ない面もあります。
しかし、上記のような、善い思い、善い言葉、善い行動をめぐらせていくきっかけとして
<人を傷つける言葉、勇気を挫(くじ)くような言葉、あるいは人を失望させるような言葉、憎しみ、悲しみ、嫉(ねた)みの言葉>
を使わないようにし
<人の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、何ともいえず、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互いに話し合うように>
していくことは
けして自分や世の中に、マイナスにはならんと思うものです。
人にNOと言う言葉よりYESと言う言葉を。
誰かの何かを否定する言葉よりは肯定する言葉を。
平たく言うと、けなすよりほめるって話ですが♪
日本には古くから「言霊(ことだま)」という思想があります。
言葉には魂が宿っている。
どうせ宿らせるなら良い魂を宿らせたいと思います。
わざと心と裏腹な言葉を使う場合は別として、言葉にはその裏に、発する人の思いがありますから、どんな思いを乗せた言葉を使うか、その前段階からが大切だと思います。
人の思いは言葉になり、行いになって世界に影響を与えます。そして自分に返ってきます。
体の癖と同じように、人の思いにも癖がありますから、日ごろから良い癖をつけるよう心がけています。
有名な中村天風氏の言葉に
<いやしくも人を傷つける言葉、勇気を挫(くじ)くような言葉、あるいは人を失望させるような言葉、憎しみ、悲しみ、嫉(ねた)みの言葉を遠慮なくいっている人間は、悪魔の加勢をしているようなものだ!そういう人間は、哲学的にいえば、自他の運命を破壊していることを、平気でしゃべっている。だから何遍もいうように、
人の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、何ともいえず、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互いに話し合うようにしよう>
というのがありますが、
まことにそうだと思うものです。
でも時には毒も吐きたいじゃないか!とおっしゃる方も少なくないでしょう。
私もそう思うときが時々あります。
それについては以下のような話があります。
『なぜあの人はあやまちを認めないのか』(キャロル・ダリウス&エリオット・アロンソン・著/戸根由紀恵・訳/河出書房新社・刊)より
「暴力の連鎖、善の循環」
という章から
<精神分析では、感情の解法による魂の浄化すなわちカタルシスは精神衛生上よろしいものだとされて(中略)私たちの文化ではひとつの根強い思い込みが生まれた。腹が立ったときは、どなったり暴れたりして発散すると怒りがおさまるという思い込みだ。>
<しかし現実には、何十年もの研究の成果からまったく逆の結果が出ている。>
なぜかと言うと、人は、自分の行為を正当化する、そのために偏った考えに流れていく傾向があるからです。
私(山本)の意見を加えるなら、人間の持っているエネルギーには限りがありますので、誰かにムカついたとき、その相手をののしったり殴りつけたりすれば、無限に続けるエネルギーはありませんから、そのうち疲れてやめる時がきます。
そこだけ見ると、一見、問題は解決した(カタルシスによって解消された)ようには見えます。
ただ、そのあとに別の問題が残ると同書は言います。
<大学院生としてハーヴァードで臨床心理学を学んでいたマイケル・カーンは、カタルシスのすばらしさを実証するはずの巧妙な実験を考えついた。彼は医療技術者に扮し、医学実験の一環だとして学生をひとりずつポリグラフにかけ、血圧を測定した。測定をしながらカーンはわざといらいらして、学生に(それぞれの母親に対して)失礼な言葉をぶつけた。学生は腹を立て、血圧は上昇した>
そして、その後、カーンは学生たちを二つのグループに分けました。
一つは、カーンの無礼をカーンの上司に報告できる人たちのグループ。
もう一つは、そういう機会を与えられないグループ。
カーンは、彼の無礼を上司に報告してカタルシスの機会を与えられた方の学生が、怒りが解消されやすいと思っていました。ところが
<フロイトを信奉していたカーンは結果に驚いた。カタルシスなど大嘘だった。カーンのことを告げ口して怒りを表出できた学生は、その機会のなかった学生よりも、彼に対してはるかに大きな憎しみを抱くようになっていた。さらに、すでに高かった血圧は怒りをあらわすとさらに上昇し、一方で告げ口のできない組の高い血圧はそのうちに平常値に下がっていった>
<この予想外のパターンをどう説明しようかと考えたカーンは、当時まだ注目を集め始めたばかりの不協和理論に出会い、すっきりと説明がつくのを了解した。
カーンを困らせてやったと思った学生は、この仕打ちを正当化するために、あの男はこうされて当然だと思いこむ必要があり、怒りはさらに強まり、血圧もますます上がってしまったのだ>
誤解のないように申し上げますが、これは、上司や同僚、クラスメートからひどい目に合っても、黙って泣き寝入りしましょうというススメではありません(笑
人間の感情と行動の傾向の分析です。
同書には、有名なドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を引用してこう書いてあります。
<彼はかつて『なぜそれほどまでに憎むのか』と訊かれたことがあった。そこで彼はお得意のあつかましさで答えたものだ。
『教えてやろうか。あいつはおれに何も悪いことなどしていない。なのに、おれはあいつを汚い手で、はめたんだ。だからあのときから、おれはあいつを憎むことにしたのさ』>
さすがは大文豪、みごとな人間観察です。
今このブログをお読みの方の中にも、これまでの人生で、なぜあの人は自分にああまで悪意を持つのか、ああまで憎しみを抱くのか、私が何をしたというのだろうかと、悩まれた方がたくさんいらっしゃると思います。
無論中には、知らぬ間に相手を傷つけてしまわれた方もおいででしょうが、何割かは、この『カラマーゾフの兄弟』に出てくる登場人物のような人に、意味不明の逆恨みなどを買われたケースがあるのではないでしょうか。
また、自分自身が、誰かを嫌いで嫌い続けているうちに、それを正当化し強化するため、ますます相手への嫌悪感をつのらせて苦しまれた方もおいでかと思います。
<弱い者いじめをする少年たち、従業員を虐待する雇用者、互いを傷つけ合う恋人たち、抵抗をやめた容疑者をいつまでも殴り続ける警官、マイノリティの人々を投獄し拷問にかける独裁者、一般市民に残虐な行為を行う兵士にも、同じメカニズムがはたらいて>おり
<攻撃的行為が自己正当化を生み、自己正当化がさらなる攻撃的行為につながる>
と、同書は警告します。
これが「悪の連鎖」とすれば、「善の循環」はないのでしょうか。
それがあるのです。
<幸いにも、誰かへの寛大な行為が善意と憐れみの連鎖を生むという、悪循環ならぬ「善の循環」をつくりだすメカニズムがあることも、不協和理論は教えてくれる>
<誰かに善いことをすると、特にそれがふとした気まぐれや偶然によるものである場合は、人は自分の寛大な行為をあたたかく見つめるようになる。その人物に善行を施したという認識は、相手に抱いていたかもしれない否定的な感情との間に不協和を生み出す。善いことをしたあとで、「私としたことが、どうしてあんな嫌なやつに、善いことをしてしまったのだろう。ということは、あいつは、思っていたほど嫌なやつではないのかな。いや、実は仲直りしてやっていい好人物かもしれないぞ」と論理が回っていくのである>
これを実証する実験も複数あるようですが、ここでは割愛します。
人間の「自己正当化機能」というのは、無意識のレベルでかなり根深いものがあり、それが悪い形で発動すると、詐欺商法やいんちき宗教に泥沼のようにはまり込んだりする危ない面もあります。
しかし、上記のような、善い思い、善い言葉、善い行動をめぐらせていくきっかけとして
<人を傷つける言葉、勇気を挫(くじ)くような言葉、あるいは人を失望させるような言葉、憎しみ、悲しみ、嫉(ねた)みの言葉>
を使わないようにし
<人の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、何ともいえず、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互いに話し合うように>
していくことは
けして自分や世の中に、マイナスにはならんと思うものです。
「良し悪し」と「好き嫌い」
それが、なんで「ゆるすこと」のカテゴリーに?と思われるかも知れません。
本当はむしろ「裁かない」ことに分類されるかと思いますが、「裁かない」ことと「ゆるすこと」は言うなれば表裏。
とりあえずこちらに入れておきます。
子供は感情に正直で、自分にとって嫌なものが悪い、好きなものが良いからスタートします。
そのうち、分別がついて自分の好き嫌いと世の中のいい悪いは別物であると、多少は知恵がついてきます。
自他の区別がつかない状態から、少しは客観性を身に着けてくるわけですが
それが大人になっても未分化なままな人がいます。
彼ら(彼女ら)にとって、嫌いなものは×であり、好きなものは○です。
自分は世の中の平均的な人間であるから、自分の好悪は世論を代弁していると思いこんでいる場合もあります。
これを心理学では「フォールス・コンセンサス効果」といいます。
自分の規格に合わない人間は変わり者か欠陥人間と決め付けるのです。
逆に自分は世の中で特別な人間であると過度に思い込むことを
「フォールス・ユニークネス効果」といいます。
で、その好悪の感情がいかに一時的であてにならないかの実体験をお話します。
一つ目は音楽です。
音楽などというと、良し悪しは聴く者の主観であって、それで終わりだろうと思われるかもですが、私はそうは思いません。
昔『猟姫(リョウキ)ナジャ』という中東を舞台のヒロイ(ニ)ック・ファンタジーを描いていたころ(まあ、私のいつものお色気アクションですが(笑)それでも、一通りそっち方面の資料に当たって、世界観を構築していました)、仕事中のBGMによく聴いていた女性ヴォーカルに、オフラ・ハザがいました。
ご存知の方もおいででしょうが、イスラエルの歌姫です。その美声にもかかわらず、残念ながら今は故人となってしまいました。
当時は好きで彼女のアルバムは全部買っていました。
で、第一印象だと、ノリのいい口当たりのいいサウンドが心地よいんです。ダンサブルな曲はペンも走るし、楽しく鑑賞できる。
一方で、民族色の濃いナンバーは、なんだかもたついて執筆の際の自分の波長やリズムと合わない。
あー、このアルバムはつまらん、買って失敗だったなーと思ったものがあります。平たく言うと「ダメな一枚」ですね。
しかし、それが一変する時が来ます。
中東の資料を読み込んで、その時代(と言っても私の作品は厳密な時代考証のものではなく、あくまでお気楽な娯楽映画のアラビアンな世界でした。ただイスラム教と抵触しないため、ムハンマド以前の「無明時代」を漠然と念頭においていましたが)の人びとの暮らしぶり、息づかいなどをリアルに思い浮かべようとすると、最初聴いて「いい」と思った曲では合わないんですね。それでは現代的過ぎて、観光地の立て看板と言うか、描きわりのようなイメージしか浮かんでこないんです。
逆に、最初聴いてつまんないと思った泥臭い曲の方が浮かぶ。
街にひしめく人々、物売りの声、畑を耕す駄獣と人の姿、ゆっくりと砂漠を進む隊商etc・・・。
そういうものが脳裏にすーっと広がっていきます。
なんてステキなアルバムだろう。
最初の印象は180度転換しました。
これはどういうことでしょうか。
最初の感想が間違っていたのでしょうか。それとも私の錯覚でしょうか。
いえ、どちらも間違いではないのです。要は、視点が異なれば、人の思いも違ってしまう。
どちらが正しいとか間違いではなく、ダメだった曲が突然名曲になったのでもない。また、最初ステキだと思った曲がダメな曲だったわけでもない。
どちらも「あり」。
私の視点が変わっただけです。
音楽などと言う主観がすべてなモノでは、個人的感情がすべてだという意見もありますが、私は逆に、一時の個人的感情などというもので、たとえ音楽であろうとその是非を決め付けることはできない。それは人それぞれの違いなどと言う以前に、このように私と言う個人の中でも、変動し、絶対的な評価が下せないものだと思うからです。
人が言えるのは「自分は今この曲に感情移入できない」「わからない」「今の私にはつまらない」といった一時的な感想であり、それ以上は語ることができないのではないか。
無論伝統的な音楽では、アーティストがその伝統の枠組みを踏み外していることによる誤りなどを指摘することはできます。しかし、そういう枠組みに捕らわれないポップミュージックにおいて、私と言う個人がその音楽やミュージシャンの是非を決め付けるのは僭越としか言いようがないと思ったものです。
音楽とは別のジャンルでも経験があります。
以前も日記で触れたことがありますが、私は武術に関して調べることが好きで、その中にある棒術がありました。色々な国の色々な人が、書籍やビデオを出しています。
或るとき、二本のビデオを見比べて
ある一本は、大変おもしろく、バラエティに富んでいてお買い得なものでした。
もう一本は、なんだかもたついた展開で、退屈で、正直買って損したなあというものでした。
ところが、その感想が一変する日が来ました。
私が作品でその流派の棒術をきちんと描きたいと思い、久々に取り出して二本を見比べたのです。
すると、第一印象で良いと思った方は、見た目は派手でおもしろいけれど、その流派の基本をきちんと押さえて理解するにはまったく適さない。言うなればただのプロモーションビデオに近いような内容でした。
一方、最初つまらんと思った一本は、よく見ると実に丁寧に基礎から解説されており、あれ?今のところはよくわからなかったな、もう一度きちんとみたいな、と思うような部分までフォローされている、良心的な作品でした。
これも、どちらが正しくて間違いとか、最初の私とあとの私のどちらが正解というようなものではなく
ビデオもそれぞれの用途が違い、私も視点が違っただけです。
一時の個人的感想や感情で、誰かや何かの是非を決め付けることの愚かさを、思い知らせてくれた出来事でした。
「無知の知」 自分は無知であると知っていると言ったのはソクラテス。
「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」と言ったのは孔子です。
私は知らない。私はわからない。だから私は裁かない。
万引きを見かけても見てみぬふりの話ではありません。
わからないことをわかったような気になって裁かないという意味です。
昔、私に「裁かないこと」や「殺生と不殺生」の深い意味について教えてくださった先生(私の親よりご高齢で、すでに故人です)がおっしゃったことがありました。
「私はビートルズの曲を聴いても、どこがいいのかわかりません。私の心が貧しいからです」
テーマからして、何か道徳の話と思われた方もいらっしゃるかもですが、これは道徳と言うより、むしろ科学と言ってもいいかとさえ思います。
主観と客観を混同しない。
私がどんな感情を持とうと、そのもの、その人の価値とはなんの関係もない。
ただ、その瞬間の私にとってのピンポイントの評価に過ぎないことを常に忘れなければ、日々世の中に吐かれる毒のかなりな量、トラブルのかなりの量が、削減されると思うものです♪
追記
誤解されると困るのですが
私の作品をお買いになって、お気に召さなかった方が
「つまらん!」「二度と買わない!」
とか言われるのは、率直なご感想ですから全然かまいません(笑)
そういう表現の自由とはあくまで別の話です。
それが、なんで「ゆるすこと」のカテゴリーに?と思われるかも知れません。
本当はむしろ「裁かない」ことに分類されるかと思いますが、「裁かない」ことと「ゆるすこと」は言うなれば表裏。
とりあえずこちらに入れておきます。
子供は感情に正直で、自分にとって嫌なものが悪い、好きなものが良いからスタートします。
そのうち、分別がついて自分の好き嫌いと世の中のいい悪いは別物であると、多少は知恵がついてきます。
自他の区別がつかない状態から、少しは客観性を身に着けてくるわけですが
それが大人になっても未分化なままな人がいます。
彼ら(彼女ら)にとって、嫌いなものは×であり、好きなものは○です。
自分は世の中の平均的な人間であるから、自分の好悪は世論を代弁していると思いこんでいる場合もあります。
これを心理学では「フォールス・コンセンサス効果」といいます。
自分の規格に合わない人間は変わり者か欠陥人間と決め付けるのです。
逆に自分は世の中で特別な人間であると過度に思い込むことを
「フォールス・ユニークネス効果」といいます。
で、その好悪の感情がいかに一時的であてにならないかの実体験をお話します。
一つ目は音楽です。
音楽などというと、良し悪しは聴く者の主観であって、それで終わりだろうと思われるかもですが、私はそうは思いません。
昔『猟姫(リョウキ)ナジャ』という中東を舞台のヒロイ(ニ)ック・ファンタジーを描いていたころ(まあ、私のいつものお色気アクションですが(笑)それでも、一通りそっち方面の資料に当たって、世界観を構築していました)、仕事中のBGMによく聴いていた女性ヴォーカルに、オフラ・ハザがいました。
ご存知の方もおいででしょうが、イスラエルの歌姫です。その美声にもかかわらず、残念ながら今は故人となってしまいました。
当時は好きで彼女のアルバムは全部買っていました。
で、第一印象だと、ノリのいい口当たりのいいサウンドが心地よいんです。ダンサブルな曲はペンも走るし、楽しく鑑賞できる。
一方で、民族色の濃いナンバーは、なんだかもたついて執筆の際の自分の波長やリズムと合わない。
あー、このアルバムはつまらん、買って失敗だったなーと思ったものがあります。平たく言うと「ダメな一枚」ですね。
しかし、それが一変する時が来ます。
中東の資料を読み込んで、その時代(と言っても私の作品は厳密な時代考証のものではなく、あくまでお気楽な娯楽映画のアラビアンな世界でした。ただイスラム教と抵触しないため、ムハンマド以前の「無明時代」を漠然と念頭においていましたが)の人びとの暮らしぶり、息づかいなどをリアルに思い浮かべようとすると、最初聴いて「いい」と思った曲では合わないんですね。それでは現代的過ぎて、観光地の立て看板と言うか、描きわりのようなイメージしか浮かんでこないんです。
逆に、最初聴いてつまんないと思った泥臭い曲の方が浮かぶ。
街にひしめく人々、物売りの声、畑を耕す駄獣と人の姿、ゆっくりと砂漠を進む隊商etc・・・。
そういうものが脳裏にすーっと広がっていきます。
なんてステキなアルバムだろう。
最初の印象は180度転換しました。
これはどういうことでしょうか。
最初の感想が間違っていたのでしょうか。それとも私の錯覚でしょうか。
いえ、どちらも間違いではないのです。要は、視点が異なれば、人の思いも違ってしまう。
どちらが正しいとか間違いではなく、ダメだった曲が突然名曲になったのでもない。また、最初ステキだと思った曲がダメな曲だったわけでもない。
どちらも「あり」。
私の視点が変わっただけです。
音楽などと言う主観がすべてなモノでは、個人的感情がすべてだという意見もありますが、私は逆に、一時の個人的感情などというもので、たとえ音楽であろうとその是非を決め付けることはできない。それは人それぞれの違いなどと言う以前に、このように私と言う個人の中でも、変動し、絶対的な評価が下せないものだと思うからです。
人が言えるのは「自分は今この曲に感情移入できない」「わからない」「今の私にはつまらない」といった一時的な感想であり、それ以上は語ることができないのではないか。
無論伝統的な音楽では、アーティストがその伝統の枠組みを踏み外していることによる誤りなどを指摘することはできます。しかし、そういう枠組みに捕らわれないポップミュージックにおいて、私と言う個人がその音楽やミュージシャンの是非を決め付けるのは僭越としか言いようがないと思ったものです。
音楽とは別のジャンルでも経験があります。
以前も日記で触れたことがありますが、私は武術に関して調べることが好きで、その中にある棒術がありました。色々な国の色々な人が、書籍やビデオを出しています。
或るとき、二本のビデオを見比べて
ある一本は、大変おもしろく、バラエティに富んでいてお買い得なものでした。
もう一本は、なんだかもたついた展開で、退屈で、正直買って損したなあというものでした。
ところが、その感想が一変する日が来ました。
私が作品でその流派の棒術をきちんと描きたいと思い、久々に取り出して二本を見比べたのです。
すると、第一印象で良いと思った方は、見た目は派手でおもしろいけれど、その流派の基本をきちんと押さえて理解するにはまったく適さない。言うなればただのプロモーションビデオに近いような内容でした。
一方、最初つまらんと思った一本は、よく見ると実に丁寧に基礎から解説されており、あれ?今のところはよくわからなかったな、もう一度きちんとみたいな、と思うような部分までフォローされている、良心的な作品でした。
これも、どちらが正しくて間違いとか、最初の私とあとの私のどちらが正解というようなものではなく
ビデオもそれぞれの用途が違い、私も視点が違っただけです。
一時の個人的感想や感情で、誰かや何かの是非を決め付けることの愚かさを、思い知らせてくれた出来事でした。
「無知の知」 自分は無知であると知っていると言ったのはソクラテス。
「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」と言ったのは孔子です。
私は知らない。私はわからない。だから私は裁かない。
万引きを見かけても見てみぬふりの話ではありません。
わからないことをわかったような気になって裁かないという意味です。
昔、私に「裁かないこと」や「殺生と不殺生」の深い意味について教えてくださった先生(私の親よりご高齢で、すでに故人です)がおっしゃったことがありました。
「私はビートルズの曲を聴いても、どこがいいのかわかりません。私の心が貧しいからです」
テーマからして、何か道徳の話と思われた方もいらっしゃるかもですが、これは道徳と言うより、むしろ科学と言ってもいいかとさえ思います。
主観と客観を混同しない。
私がどんな感情を持とうと、そのもの、その人の価値とはなんの関係もない。
ただ、その瞬間の私にとってのピンポイントの評価に過ぎないことを常に忘れなければ、日々世の中に吐かれる毒のかなりな量、トラブルのかなりの量が、削減されると思うものです♪
追記
誤解されると困るのですが
私の作品をお買いになって、お気に召さなかった方が
「つまらん!」「二度と買わない!」
とか言われるのは、率直なご感想ですから全然かまいません(笑)
そういう表現の自由とはあくまで別の話です。
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