Bbmf社のケータイ配信漫画『戦闘女神アヌンガ』
8話めペン入れ完了して薄墨塗ってます。今夜にはスキャンして仕上げにかかりたいと♪
またアヌンガ執筆手順です。
4話16ページの蛇神との戦い。
ご覧のように二枚の元絵を合成しています(フキダシはまた別紙です)。アヌンガのおなかのあたりに出した右手も別レイヤーになっています。
蛇と腕の動きのブレは
パソコンに取り込んでから、フォトショップのフィルタ「ぼかし(移動)」でつけてあります。
「角度」はスキャン前に分度器で計って、何度の角度でぶらすか原稿のハシにメモしておきます。
取り込んで目分量でもできますけど、徹夜でボケてたりする場合もあるので、なるたけ事前に準備しておきます。
移動の「距離」は作業時の目分量です。
ちなみに、「ぼかし」フィルタは、元絵のレイヤーを複製してそちらにかけ、元絵との境目を「消しゴムツール」の「ブラシ」モードでぼかしてやります。
ではではまた~~;
久しぶりにカテゴリ「いささか形而上」です;
「もし、ある人の性格を正しく判定したいと思うなら、彼の大きな行為を見てはなりません。どんな馬鹿でも、ある場合には英雄にもなるものです。人が最も普通の行動をしているのをごらんなさい。それがほんとうに、偉大な人の真の性格を示すものです。大きな機会というものは、最下等の人間をも、ある程度の偉大さにまでは奮いたたせるものです。しかし、どこにいても同じようにその性格が常に偉大である人だけが、真に偉大な人であります。」
スワミ・ヴィヴェカーナンダ著 『カルマ・ヨーガ』 (日本ヴェーダーンタ協会)より
なかなか味わい深い言葉だと思います。昔から抱いていた疑問の答えでもあります。
例えて言うなら、ふだん子ども殴ってばかりの親が、クリスマスに気まぐれでオモチャを買ってくれたから、だからなんだと言うのか?そんなもんでちゃらになったと思うなよ。本当は優しい人だなんて思うなよと、子供の頃より思ったものでした。
というのは、まあ枕で、本題は別なんですが(笑
このスワミ・ヴィヴェカーナンダという人は、インドの覚者で、もう100年くらい昔の人です。
この講演も19世紀のものです。
かの岡倉天心が心酔したこともあり、ご存知の方もけっこういらっしゃるかと思います。
インドのものゆえ、ヒンズー教のバイアスはかかっていますが、それにこだわることなく、特定の宗教宗派を超えた普遍的な真理を語っている部分があります。
彼の僧院では当時から現代に至るまで、異なる宗教(イスラム教キリスト教仏教その他)の信者が、それぞれの神に対して祈りをささげることができるといいます。数年前に岡倉天心の足跡をたどるNHKのドキュメンタリーが放映されましたが、その中で、現在の院長(と言うのでしょうか)がインタビューに答えていました。
「現代の宗教は「争い」に名前をつけただけ」
のモノだらけだと。
今、スワミ・ヴィヴェカーナンダの講演記録を読むと、私には、さすがに昔の倫理観で共感しかねると思う部分と、世紀を経ても色あせない、いやこんな時代だからこそ味わうべきものだと思う部分がそれぞれあります(まあ、たいていの聖賢の教えがそうですけど)。
その中から、今回は、「無執着の行い」について少し引用します。
ちなみに同書のタイトルの「カルマ」は、よく一般に使われる「前世の因縁」とかの意味ではなく「労働」の意味です(誤解のないよう)。「カルマ・ヨガ」は特定の神を拝んだり、教祖を拝んだりではなく、日々の自分の労働を通して真理に至る道のことです。
「ある人が、哲学の一つの法則も学んだことがなくても、いかなる神も信じたことがなくても、全生涯にただの一度も祈ったことがなくても、もし、単なる善い活動の力のひとつが、他者のために自分の生命も他のすべてのものも喜んで捧げる、という境地に彼を導いたのであれば、彼は、宗教的な人が祈りによって、または哲学者が知識によって達するであろう境地と同じ境地に達したのです。ですから皆さんは、哲学者、カルマ・ヨギおよび信仰者、これらすべては自己滅却という一点で合い相会うのだ、ということを知るでしょう」
と彼は言います。
世の中に「善行」を進める教えは色々ありますが、その何割かは、一種の「神との取引(良いことをして天国に行く、とか、地獄へ行くのを免れるとか)」のための方便であったりします。
己の過去への罪滅ぼしであったり
自分の無価値感を補う手段の一つ(自分はこんなに良いことをする善人なんだ、世の中の役に立つ価値ある人間なんだ、自分は無価値じゃないんだ、という自己確認)であったり
中には、自己満足の優越感にひたりたいがため、「善行」にまい進しているケースさえあります。
私は別にそういう人、そういうケースを否定非難するつもりはありません。何より自分の中にも、分析していけばそういう要素(さまざまな打算)はあると思います。。
いわゆる悪行を行うよりはずっとましですし、世の不幸を見て見ぬふりをするよりはいい。
水上勉氏の言われた「たとえ偽善であっても、しないよりはした方がいいものもある」だと思うものです(記憶違いだったらすみません。はるか昔テレビで見ただけの言葉なので)。
ただ、それらは、あくまで一つの「通過点」であって
最終的には、そんな損得勘定やこだわりは捨てて、ただ善のために善をなす、自分はそうありたいからそうあるだけ、であるのが、ベストではないかと思うものです。私もそれを目指しています(目指しているということは全然到達していないということですけど)(笑)。
前置きが長くなりましたが、ヴィヴェカーナンダの講演から、それについての彼の言葉、私の好きな下りを抜粋します。
P.112
「われわれはなぜ、世のために善を行わなければならないのでしょうか。外見は世を助けるためですが、ほんとうは我々自身を助けるためなのです。われわれは常に、世を助けるよう努めなければなりません。それが、われわれの内部の最高の動機であるべきです。
しかしよく考えてみると、この世は決してわれわれの助けなどを必要としてはいない、ということがよくわかります。この世界は、みなさんか私が来て助けなければならないように、できてはいないのです。あるとき私は、つぎのような説教を読みました、「この美しい世界全体は実によい、われわれに他の人びとを助ける時間と機会を与えてくれるのだから」と。これは非常に美しい感情です。しかしこの世界がわれわれの助けを必要とする、というのは冒涜ではありませんか。そこに多くの不幸があることは、われわれも否定することはできません。ですから、出かけて行って他者を助けるのは、われわれにできる最善のことです。
しかし長い間には、他者を助けるのは自分自身を助けているのにすぎないのだ、ということが分かってくるでしょう」
P115
「われわれはみな、自分たちがいなくてもこの世界は十分にうまくやって行くのだから、われわれがそれを助けようなどと頭を悩ます必要はないのだ、ということを、はっきりと知るでありましょう。
しかしわれわれは、善いことをしなければなりません。もしわれわれが、他を助けるのは特典である、ということを常に忘れないのなら、善いことをしたいという願望はわれわれが持つ最高の動機力です。(中略)
貧しい人がそこにいるおかげで、彼にものを与えることによって私は自分を救うことができるのだ、と思って感謝なさい。恵まれているのは貰う人ではなく与える人なのです。自分がこの世で慈悲の力を行使することを許され、それによって、純粋に完全になることができるのを、在り難く思いなさい」
P.117
「われわれは誰かを助けたと思うから、その人が自分に感謝することを期待します。そして彼が感謝しないというので、不幸になるのです。なぜ、自分がすることに対して、お返しに何かを期待しなければならないのですか。あなたが助ける相手に感謝をし、彼を神とお思いなさい。われわれの仲間を助けることによって神を礼拝することを許されるのは、大きな特典ではありませんか。もしわれわれがほんとうに無執着であったなら、空しい期待という、すべての苦痛を逃れ、この世で快活に、善い働きをすることが、できるでしょう。執着なしに行われた仕事を通じては決して、不快や不幸はやって来ません。世界は永遠に、その幸福および不幸を抱えて行きつづけるでしょう」 (太字強調・山本)
私(山本)のつまは、時々うがったことを言ってくれるので私は重宝尊敬しています(笑
昔冗談半分で(マジ半分で)
「どうせオレは(この世に)いらない子だー!」
とふてくされて見せたところ、つまは間髪入れず
「心配するな、おまえだけじゃない。(私もふくめ)みんないらない子だ」
とツッコミを入れ、大笑いしたことがありました。
これはけして、人様の命や存在をあざ笑ったり軽んじようという意味ではありません。
オレがオレがと「自分病」に陥りがちなエゴのあり方を笑い飛ばし、もっと肩の力を抜いて生きようよという意味です。
ある意味、上記のヴィヴェカーナンダの話にも通じるものです。
ヴィヴェカーナンダの説話は、自分が価値ある存在だと思いたくて善行に励んでいたり(自己否定感が強すぎて、それを修正するために、一時的にそういう状態であることは、それはそれでありだと思います)、優越感を感じたくて善行に励む人々に、強烈な一撃を加えます。
「世界は私やあなたの助けなどなにも必要としていない」のだと。
私は私など風の前のチリのようなものだと思っています。
世界は私の助けなど何も必要としていません。
でも、とりあえず命ある限りはできることをして(それがどれくらい良いことでどれくらい悪いことなのか、どれくらい意義あることでどれくらいつまらないことなのか、そんなことを的確に判定する能力はありません。ただ日々試行錯誤して少しでもましな道を探ることしかできません)最後まで歩みたいと思います。
それはあくまで、そうありたい、したいことをするのであって、何かの教義や道徳で奨励されいていたり、義務とされているからではありません(ヴィヴェカーナンダ師の場合、「~ねばなりません」という語り口になっていますけど、それは立場上しかたのないことだと思います)。
仕事に関して言うなら、商売ですから、お客様の反応は無視できませんし、より良い「製品(作品)」を作るための分析検討は不可欠です。万事にこだわらないということと、相手を無視して自閉することを混同するつもりは無論ありません。
「空しい期待という、すべての苦痛を逃れ、この世で快活に」
思うところを為して生きたいと思っています。
とか言って、この腰痛膝痛なんとかならんかな、いててて(湿気がきついのと坐りっぱなしで、なんともはや);
寝覚め良き、ことこそなさめ
世の人の 良しと悪しとは言うにまかせて♪
「もし、ある人の性格を正しく判定したいと思うなら、彼の大きな行為を見てはなりません。どんな馬鹿でも、ある場合には英雄にもなるものです。人が最も普通の行動をしているのをごらんなさい。それがほんとうに、偉大な人の真の性格を示すものです。大きな機会というものは、最下等の人間をも、ある程度の偉大さにまでは奮いたたせるものです。しかし、どこにいても同じようにその性格が常に偉大である人だけが、真に偉大な人であります。」
スワミ・ヴィヴェカーナンダ著 『カルマ・ヨーガ』 (日本ヴェーダーンタ協会)より
なかなか味わい深い言葉だと思います。昔から抱いていた疑問の答えでもあります。
例えて言うなら、ふだん子ども殴ってばかりの親が、クリスマスに気まぐれでオモチャを買ってくれたから、だからなんだと言うのか?そんなもんでちゃらになったと思うなよ。本当は優しい人だなんて思うなよと、子供の頃より思ったものでした。
というのは、まあ枕で、本題は別なんですが(笑
このスワミ・ヴィヴェカーナンダという人は、インドの覚者で、もう100年くらい昔の人です。
この講演も19世紀のものです。
かの岡倉天心が心酔したこともあり、ご存知の方もけっこういらっしゃるかと思います。
インドのものゆえ、ヒンズー教のバイアスはかかっていますが、それにこだわることなく、特定の宗教宗派を超えた普遍的な真理を語っている部分があります。
彼の僧院では当時から現代に至るまで、異なる宗教(イスラム教キリスト教仏教その他)の信者が、それぞれの神に対して祈りをささげることができるといいます。数年前に岡倉天心の足跡をたどるNHKのドキュメンタリーが放映されましたが、その中で、現在の院長(と言うのでしょうか)がインタビューに答えていました。
「現代の宗教は「争い」に名前をつけただけ」
のモノだらけだと。
今、スワミ・ヴィヴェカーナンダの講演記録を読むと、私には、さすがに昔の倫理観で共感しかねると思う部分と、世紀を経ても色あせない、いやこんな時代だからこそ味わうべきものだと思う部分がそれぞれあります(まあ、たいていの聖賢の教えがそうですけど)。
その中から、今回は、「無執着の行い」について少し引用します。
ちなみに同書のタイトルの「カルマ」は、よく一般に使われる「前世の因縁」とかの意味ではなく「労働」の意味です(誤解のないよう)。「カルマ・ヨガ」は特定の神を拝んだり、教祖を拝んだりではなく、日々の自分の労働を通して真理に至る道のことです。
「ある人が、哲学の一つの法則も学んだことがなくても、いかなる神も信じたことがなくても、全生涯にただの一度も祈ったことがなくても、もし、単なる善い活動の力のひとつが、他者のために自分の生命も他のすべてのものも喜んで捧げる、という境地に彼を導いたのであれば、彼は、宗教的な人が祈りによって、または哲学者が知識によって達するであろう境地と同じ境地に達したのです。ですから皆さんは、哲学者、カルマ・ヨギおよび信仰者、これらすべては自己滅却という一点で合い相会うのだ、ということを知るでしょう」
と彼は言います。
世の中に「善行」を進める教えは色々ありますが、その何割かは、一種の「神との取引(良いことをして天国に行く、とか、地獄へ行くのを免れるとか)」のための方便であったりします。
己の過去への罪滅ぼしであったり
自分の無価値感を補う手段の一つ(自分はこんなに良いことをする善人なんだ、世の中の役に立つ価値ある人間なんだ、自分は無価値じゃないんだ、という自己確認)であったり
中には、自己満足の優越感にひたりたいがため、「善行」にまい進しているケースさえあります。
私は別にそういう人、そういうケースを否定非難するつもりはありません。何より自分の中にも、分析していけばそういう要素(さまざまな打算)はあると思います。。
いわゆる悪行を行うよりはずっとましですし、世の不幸を見て見ぬふりをするよりはいい。
水上勉氏の言われた「たとえ偽善であっても、しないよりはした方がいいものもある」だと思うものです(記憶違いだったらすみません。はるか昔テレビで見ただけの言葉なので)。
ただ、それらは、あくまで一つの「通過点」であって
最終的には、そんな損得勘定やこだわりは捨てて、ただ善のために善をなす、自分はそうありたいからそうあるだけ、であるのが、ベストではないかと思うものです。私もそれを目指しています(目指しているということは全然到達していないということですけど)(笑)。
前置きが長くなりましたが、ヴィヴェカーナンダの講演から、それについての彼の言葉、私の好きな下りを抜粋します。
P.112
「われわれはなぜ、世のために善を行わなければならないのでしょうか。外見は世を助けるためですが、ほんとうは我々自身を助けるためなのです。われわれは常に、世を助けるよう努めなければなりません。それが、われわれの内部の最高の動機であるべきです。
しかしよく考えてみると、この世は決してわれわれの助けなどを必要としてはいない、ということがよくわかります。この世界は、みなさんか私が来て助けなければならないように、できてはいないのです。あるとき私は、つぎのような説教を読みました、「この美しい世界全体は実によい、われわれに他の人びとを助ける時間と機会を与えてくれるのだから」と。これは非常に美しい感情です。しかしこの世界がわれわれの助けを必要とする、というのは冒涜ではありませんか。そこに多くの不幸があることは、われわれも否定することはできません。ですから、出かけて行って他者を助けるのは、われわれにできる最善のことです。
しかし長い間には、他者を助けるのは自分自身を助けているのにすぎないのだ、ということが分かってくるでしょう」
P115
「われわれはみな、自分たちがいなくてもこの世界は十分にうまくやって行くのだから、われわれがそれを助けようなどと頭を悩ます必要はないのだ、ということを、はっきりと知るでありましょう。
しかしわれわれは、善いことをしなければなりません。もしわれわれが、他を助けるのは特典である、ということを常に忘れないのなら、善いことをしたいという願望はわれわれが持つ最高の動機力です。(中略)
貧しい人がそこにいるおかげで、彼にものを与えることによって私は自分を救うことができるのだ、と思って感謝なさい。恵まれているのは貰う人ではなく与える人なのです。自分がこの世で慈悲の力を行使することを許され、それによって、純粋に完全になることができるのを、在り難く思いなさい」
P.117
「われわれは誰かを助けたと思うから、その人が自分に感謝することを期待します。そして彼が感謝しないというので、不幸になるのです。なぜ、自分がすることに対して、お返しに何かを期待しなければならないのですか。あなたが助ける相手に感謝をし、彼を神とお思いなさい。われわれの仲間を助けることによって神を礼拝することを許されるのは、大きな特典ではありませんか。もしわれわれがほんとうに無執着であったなら、空しい期待という、すべての苦痛を逃れ、この世で快活に、善い働きをすることが、できるでしょう。執着なしに行われた仕事を通じては決して、不快や不幸はやって来ません。世界は永遠に、その幸福および不幸を抱えて行きつづけるでしょう」 (太字強調・山本)
私(山本)のつまは、時々うがったことを言ってくれるので私は重宝尊敬しています(笑
昔冗談半分で(マジ半分で)
「どうせオレは(この世に)いらない子だー!」
とふてくされて見せたところ、つまは間髪入れず
「心配するな、おまえだけじゃない。(私もふくめ)みんないらない子だ」
とツッコミを入れ、大笑いしたことがありました。
これはけして、人様の命や存在をあざ笑ったり軽んじようという意味ではありません。
オレがオレがと「自分病」に陥りがちなエゴのあり方を笑い飛ばし、もっと肩の力を抜いて生きようよという意味です。
ある意味、上記のヴィヴェカーナンダの話にも通じるものです。
ヴィヴェカーナンダの説話は、自分が価値ある存在だと思いたくて善行に励んでいたり(自己否定感が強すぎて、それを修正するために、一時的にそういう状態であることは、それはそれでありだと思います)、優越感を感じたくて善行に励む人々に、強烈な一撃を加えます。
「世界は私やあなたの助けなどなにも必要としていない」のだと。
私は私など風の前のチリのようなものだと思っています。
世界は私の助けなど何も必要としていません。
でも、とりあえず命ある限りはできることをして(それがどれくらい良いことでどれくらい悪いことなのか、どれくらい意義あることでどれくらいつまらないことなのか、そんなことを的確に判定する能力はありません。ただ日々試行錯誤して少しでもましな道を探ることしかできません)最後まで歩みたいと思います。
それはあくまで、そうありたい、したいことをするのであって、何かの教義や道徳で奨励されいていたり、義務とされているからではありません(ヴィヴェカーナンダ師の場合、「~ねばなりません」という語り口になっていますけど、それは立場上しかたのないことだと思います)。
仕事に関して言うなら、商売ですから、お客様の反応は無視できませんし、より良い「製品(作品)」を作るための分析検討は不可欠です。万事にこだわらないということと、相手を無視して自閉することを混同するつもりは無論ありません。
「空しい期待という、すべての苦痛を逃れ、この世で快活に」
思うところを為して生きたいと思っています。
とか言って、この腰痛膝痛なんとかならんかな、いててて(湿気がきついのと坐りっぱなしで、なんともはや);
寝覚め良き、ことこそなさめ
世の人の 良しと悪しとは言うにまかせて♪
昨日に引き続き『戦闘女神アヌンガ』作画手順の2です。
1枚目の画像が完成稿です。
2枚目のマジックかサインペンでザクザクッと描いた羽は女神の光る羽の元絵です。
これをパソコンにスキャンしてフォトショップで白黒反転し(ってまたまたデジタル作画に興味のない方にはなんだかな、な話で恐縮ですが)(汗)、「フィルタ」の「放射状」「ズーム」を使って輝く放射状の羽に加工します(三枚目画像参照)。
このレイヤーをスクリーンモードで女神の背中に合成します(白いところは白く、黒いところは透明になって合成されます)。
また後ろの空間も、似たようなやりかたで作成してあります。
4枚目の絵、意外と荒いのに驚かれた方もおいでかもですが、これを羽と同様フィルタの「放射状」「ズーム」で処理したのが5枚目です。
いずれも、ズームの中心点の設定がポイントで、私はあらかじめ、その絵を囲む正方形のわくを書いておき、中心点が、そのど真ん中か、あるいは4スミのどれか、あるいは4つの辺の真ん中あたりにくるよう作図しておきます。これで、フォトショップ内のウィンドウを見て設定するとき、非常にやりやすくなります。
この正方形わくを準備せずに、取り込んでからPCの画面見ながら臨機応変に決めればいいや、などと思っていると、意外と微調整に手間取って苦労して時間もかかるハメになるからです。
ではではまた~~♪
Bbmf社でケータイ配信中の『戦闘女神アヌンガ』ですが
一枚目の画像が完成原稿です(二話め、18ページ)。
下絵はアップを省略しましたが、左側の主人公の少年と後ろの巨大女神の絵を描いて、スキャナでパソコンに取り込んでフォトショップで仕上げてあります。
この一枚を作成するのに、ほかにもご覧のような画像二枚を別途描いてスキャンし、同じようにパソコンで処理し合成してあります(いわゆる「別レイヤー」というやつです)。右側の変身プロセスのコマが、どこまでアナログで描いてあるかおわかりいただけると思います(これ以降はデジタルのPC処理になります)。
従来の雑誌用活版原稿よりも手間がかかっていまして、おかげで慣れるまで5割増しくらいで時間がかかりました(爆
細かなフォトショップ技術については、またおいおいアップさせていただきます♪
「作家と編集部の間で書面による契約を交わす」ことですが
これには良い面と心配な面両方あります(なんでもそうですけど)。
確かに漫画に限らず出版業界は口約束がメインで、いついつから連載スタートだから原稿よろしく、と言われても、その時点でなんら契約書など形に残る取引の証拠はありません。
極端な話、締め切り日に原稿を完成させて持って行ったら
「えー?そんな依頼した覚えはないなあ」
と言われても、反論の証拠はなにもないわけです(さすがにそんな目にあったことはないですけど)(笑)。
以下は知り合いの編集さんからいただいたメッセのコピペです(ご本人の了承を得て一部を掲載します)。
「企画潰れでお流れになった作品を私も担当した事があります。
その潰れたのも、単に交代なった会社の偉い人が
後任に引き継いでいなかったと云うだけで‥。
この時、既に原稿にして200枚出来上がっていたのです。
ネームもさらに200枚程。
全て、流される所でしたが、その企画を始める上で
漫画家さんと相談して、出版社と漫画家さんの間で
稿料、その他保障も含め契約書を交わして貰っていたので
一応は、作成した分の稿料等出してもらいました。
作品として世に出ていないのが残念ですが
それでも何も残らないよりは‥‥。
まぁ私は丸っきりのタダ働きになってしまいましたがw 」
この方は、その後「何とか他の出版社でその作家さんに別のお仕事を見つけて来られ」たそうです。
編集長の交代は、ある種、王様の交代みたいなもので、新しく王位についた王が
「先代のプロジェクトはぜーんぶ白紙」
などということはよくある話です。
こういう出来事があると、契約書のありがたみがしみじみ身に染みます。
連載に当たっての契約はまずない(口約束)ですが、単行本出版に当たってはたいがいの大手出版社では契約書を交わします(ので、そっちの話題は割愛します)。
連載に当たっての契約書は、私の経験ではゲーム会社と交わしたものがあります。
漫画の執筆ではなくゲームのキャラクターデザインですから、「連載」とは少し違うのですが、
1年がかりで100体とか人物やモンスターを描くのに当たり、すべてのギャラを前払いしてもらうわけにはいきませんし(途中で何があるかわかりません)すべてを後払いではこちらの生活が成り立ちません。
そこで3ヶ月ごととかで区切って、○月×日までに30体、とか△月▲日までに40体とか、納品期日を決め、それを守ったら▲0万円を払う、というようなものです。
何本かゲームの製作に関わりましたが、すべてそのシステムで問題なく仕事を終えました。
「あつじ屋」の日記か雑文で書いたことがありますが、ゲームのキャラデで困るのは
こちらが全部仕事をとどこおりなく終えて、納品もすませ、お金もいただいても、自分とは無関係なあちらの都合で企画が中止になり、描いた絵が一点も日の目を見ない場合があることです。
金もらったんなんらいだろうと気楽に言うわけにはいかず、芸能人と同じで漫画家も人様のお目に触れてなんぼの商売で、作品が世に出ない時間が長引くと
「あの作家、最近見ないな」
「仕事がないんだろ。落ち目なんだな」
などと判断されてしまい、営業的には大きなマイナスです。
そんなことが何度かあって、私はさすがにメゲでしまい、しばらくあの業界とは距離を置くことになりました(また機会があればどうかわかりませんけど)(笑
ゲーム会社とは、支払いと納品について、事前にきちんと契約書を交わすわけですが
あるときふっと思ったのが
これって、もしあちらが悪らつな会社で、こちらがきちんと誠実に一定のクオリティの作品を収めても、金を払うのがイヤになって、あくまでリテイクを出し続け
「山本が使用に耐えうる品質の作品を納めなかったから金は払わない」
とか
「期日までに十分な作品を収めなかったから、これまで払った金を返却せよ」
「違約金を払え」
などと言い出したら
どうなるか。
ぶっちゃけ弁護士でも立てて争うしか身を守る方法はないのか。
幸いそんな悪らつな会社とは出会いませんでしたが
これが「契約書」の不安点でもあります。
きちんとした取り決めを事前に行うことで得られる利益、保護される利益もあれば
取り決めを逆手に取って、それを凶器に使われる可能性もある(先の記事でも申しました「下請けいじめ」の一手段にもなりうる)ことです。
漫画連載で言うなら、半日でも締め切りが遅れたら、漫画家が違約金を払わねばならないとかです。
そりゃあ遅れたんなら当然だろうと思われるかもしれませんが、実際の現場では、あきらかに編集サイドの不手際で遅れた原稿を漫画家のせいにすりかえるような理不尽も発生していますから(もっぱら力のない新人さんが犠牲になるわけですが)
その辺もきっちりトラブらないような契約書を作るというのは、かなりな難問ではないかと思います。
法律の専門知識のない私には見当もつきませんが
現場との入念な打ち合わせの上に、双方に不利益のないような契約の形態を模索する必要があると思うものです。
追記
この記事へのお客様のコメントで以下のような情報をいただきました(コメント欄にもありますが、部分抜粋させていただきます。ありがとうございました)。この方は一般の会社にお勤めで、その取引納品のことなのですが
「こちらは納められた品物を見て(検査して)問題が無ければ検収作業(代金支払い処理)を決められた期日までに行わなければなりません。このとき、発注書や契約書に書かなかった範囲でこちらの意図に合わない物が納品されても、文句を言わずに受け取らなければなりません。なぜかというと、商取引の世界では「遅防法(下請け遅払い防止法)」というものがあり、大手の企業は自身の都合で下請けに対する支払いを滞らせてはならない、とされているからです」
これは非常に興味深い話です。
しかし、この「下請け」を漫画家と見た場合、漫画家には利のある制度になりますが
一方で、使用に堪えない内容の作品を納めておいて、原稿料だけを請求する悪質な漫画家もいるかもしれません(私はそれも懸念します)。
一般社会の「製品」と異なり、漫画には、厳密なクオリティの基準などというものはありません(このパーツの精度がこの誤差の範囲内、というような)。
ご存知の通り、漫画のクオリティはひとえにその「おもしろさ」にかかっており
「おもしろさ」というのはまったく主観的なものです。
メガヒットと呼ばれる作品も、掲載する雑誌や時期が少しずれただけで、全然ウケ具合が変わった物になります。有名なヒット作家でも、デビュー誌が違っていたなら人生まったく変わっていただろうという人は何人もおいでです。
それゆえ
この「一定のクオリティの製品(作品)を納める」という問題が
限りなく査定が難しく(つまりは裁判などでも争うことが難しい)
契約書にあいまいな部分を残す(それも核の部分に)ものになるでしょう。
最終的にはやはり、相互の信頼関係を抜きには成り立たないですね;
追記2
横からつまが一言
「(作家が)精神患うほど直させるっておかしいだろ。その時点で契約破棄だよね」
まあね。
ただ
最初から患ってらっしゃる作家さんも中にはおいでですから(ちゃかしてるんじゃありません。まじめな話です)、問題は複雑です;
追記3
mixiでも同じ内容の日記を公開してるんですが
いしかわじゅん先生から以下のコメントをいただきました。
FC2ブログへの転載の可否をうかがいましたところ、ご快諾いただきました。ご自身の著作のあとがきなどでも書いていることだから、とのことです。
この場を借りて御礼申し上げます。
「俺も連載いきなり中止になったことあるなあ。
以前、宝島って本でストーリーものの連載始めることになって、
材料集めて1年分くらいのストーリー考えて、まず第一回のネーム
描いてたら、編集長だった関川ってやつが見たいっていうんで見せたら、
最後のシーンをちょっと変えてくれという。
まあそういう終わりでもいいかなと思ったんで描き換えて、原稿を
渡したんだけど、本が出たら載ってない。いったいどうしたんだろうと
思って連絡したら、こちらの望んでたものと違うから連載は中止した
という。編集長のおまえがネームを見たじゃないかといったら、見た
けどOKといったわけじゃないなんて、わけのわからないことをいう。
連載を一本引き受けるということは、そのぶんの仕事枠をずっと
空けておくということだし、当然資料も集めるし準備もするし、
第一回目を載せてくれるかどうかってことだけじゃあ、当然ないん
だよな。
関川には、おまえは自分がどんなにいい加減なことしてるのかわかってる
のかといったんだけど、関川は自分は別になにも問題のあることは
していないというばかり。まあ編集長が自分の本で連載を始めようが
切ろうが勝手だという意識があったんだろうな。
その後いろいろあって、ずーっと何年も経ってから謝罪にきたけどね。
関川は今、宝島で出世してるらしいが、俺は認めないね」
そういえば私(山本)もそれに近い目にあったことがありますね。
先日の日記で、人生で一人だけなぐってやりたい編集さんがいたと書きましたが、それです。
顔をなぐるとあとが残るので、水月に当て身などですね。武術の取材中に武術家さんに教えていただいたやり方で、こう、体の回転と腕の突き上げをシンクロさせてですね、くらわせて、そんな人間と引き換えに前科モノになるのはイヤなのでやめました(笑)。
なつかしくない昔の思い出です(遠い目
追記4
なんだかいろんな漫画家さんから続々体験談が。
無差別にアップしていてはきりがないのと、信憑性にも問題がありますので、一応以前よりコンタクトさせていただいている方のものに限定していますが。
I先生のお話よりご了解をいただいて抜粋です。
「僕も連載をいきなり中止にされたことがあります。
AとBという二人の副編集長がいて僕の担当はB氏でした。
編集長になったのはAでした。
バッサリやられました。
予告に絵付きでわりと大きく載ってたのに
原稿もちゃんと納めたのに…
そういえば原稿料ももらってません。
僕の代わりに載ってたのはAのお抱えのつまらない漫画が…
あれじゃ僕が原稿落としたみたいだ…
その後Aはパーティで、「○○○○○○○○」でヒットを飛ばした僕に対して握手を求めてきたが僕はこれを拒否… 」
お気持ちよくわかります。
しかし、作家の責任ではないのにまるで作家が落としたかのような扱いで、没られたり切られたり、いろんな雑誌で行われてるんですねえ;
情報ありがとうございました。
色々とアップしていますが、私(山本)は別にコトを荒立てたいとは思っていません。
ただ、こういったことが、出版業界では昔から日常茶飯で行われているということを、一般の方にも広く知っていただきたいからです。
問題を、特定の作家の「被害妄想」や「思い込み」として、闇に葬られてはたまりませんから。
これには良い面と心配な面両方あります(なんでもそうですけど)。
確かに漫画に限らず出版業界は口約束がメインで、いついつから連載スタートだから原稿よろしく、と言われても、その時点でなんら契約書など形に残る取引の証拠はありません。
極端な話、締め切り日に原稿を完成させて持って行ったら
「えー?そんな依頼した覚えはないなあ」
と言われても、反論の証拠はなにもないわけです(さすがにそんな目にあったことはないですけど)(笑)。
以下は知り合いの編集さんからいただいたメッセのコピペです(ご本人の了承を得て一部を掲載します)。
「企画潰れでお流れになった作品を私も担当した事があります。
その潰れたのも、単に交代なった会社の偉い人が
後任に引き継いでいなかったと云うだけで‥。
この時、既に原稿にして200枚出来上がっていたのです。
ネームもさらに200枚程。
全て、流される所でしたが、その企画を始める上で
漫画家さんと相談して、出版社と漫画家さんの間で
稿料、その他保障も含め契約書を交わして貰っていたので
一応は、作成した分の稿料等出してもらいました。
作品として世に出ていないのが残念ですが
それでも何も残らないよりは‥‥。
まぁ私は丸っきりのタダ働きになってしまいましたがw 」
この方は、その後「何とか他の出版社でその作家さんに別のお仕事を見つけて来られ」たそうです。
編集長の交代は、ある種、王様の交代みたいなもので、新しく王位についた王が
「先代のプロジェクトはぜーんぶ白紙」
などということはよくある話です。
こういう出来事があると、契約書のありがたみがしみじみ身に染みます。
連載に当たっての契約はまずない(口約束)ですが、単行本出版に当たってはたいがいの大手出版社では契約書を交わします(ので、そっちの話題は割愛します)。
連載に当たっての契約書は、私の経験ではゲーム会社と交わしたものがあります。
漫画の執筆ではなくゲームのキャラクターデザインですから、「連載」とは少し違うのですが、
1年がかりで100体とか人物やモンスターを描くのに当たり、すべてのギャラを前払いしてもらうわけにはいきませんし(途中で何があるかわかりません)すべてを後払いではこちらの生活が成り立ちません。
そこで3ヶ月ごととかで区切って、○月×日までに30体、とか△月▲日までに40体とか、納品期日を決め、それを守ったら▲0万円を払う、というようなものです。
何本かゲームの製作に関わりましたが、すべてそのシステムで問題なく仕事を終えました。
「あつじ屋」の日記か雑文で書いたことがありますが、ゲームのキャラデで困るのは
こちらが全部仕事をとどこおりなく終えて、納品もすませ、お金もいただいても、自分とは無関係なあちらの都合で企画が中止になり、描いた絵が一点も日の目を見ない場合があることです。
金もらったんなんらいだろうと気楽に言うわけにはいかず、芸能人と同じで漫画家も人様のお目に触れてなんぼの商売で、作品が世に出ない時間が長引くと
「あの作家、最近見ないな」
「仕事がないんだろ。落ち目なんだな」
などと判断されてしまい、営業的には大きなマイナスです。
そんなことが何度かあって、私はさすがにメゲでしまい、しばらくあの業界とは距離を置くことになりました(また機会があればどうかわかりませんけど)(笑
ゲーム会社とは、支払いと納品について、事前にきちんと契約書を交わすわけですが
あるときふっと思ったのが
これって、もしあちらが悪らつな会社で、こちらがきちんと誠実に一定のクオリティの作品を収めても、金を払うのがイヤになって、あくまでリテイクを出し続け
「山本が使用に耐えうる品質の作品を納めなかったから金は払わない」
とか
「期日までに十分な作品を収めなかったから、これまで払った金を返却せよ」
「違約金を払え」
などと言い出したら
どうなるか。
ぶっちゃけ弁護士でも立てて争うしか身を守る方法はないのか。
幸いそんな悪らつな会社とは出会いませんでしたが
これが「契約書」の不安点でもあります。
きちんとした取り決めを事前に行うことで得られる利益、保護される利益もあれば
取り決めを逆手に取って、それを凶器に使われる可能性もある(先の記事でも申しました「下請けいじめ」の一手段にもなりうる)ことです。
漫画連載で言うなら、半日でも締め切りが遅れたら、漫画家が違約金を払わねばならないとかです。
そりゃあ遅れたんなら当然だろうと思われるかもしれませんが、実際の現場では、あきらかに編集サイドの不手際で遅れた原稿を漫画家のせいにすりかえるような理不尽も発生していますから(もっぱら力のない新人さんが犠牲になるわけですが)
その辺もきっちりトラブらないような契約書を作るというのは、かなりな難問ではないかと思います。
法律の専門知識のない私には見当もつきませんが
現場との入念な打ち合わせの上に、双方に不利益のないような契約の形態を模索する必要があると思うものです。
追記
この記事へのお客様のコメントで以下のような情報をいただきました(コメント欄にもありますが、部分抜粋させていただきます。ありがとうございました)。この方は一般の会社にお勤めで、その取引納品のことなのですが
「こちらは納められた品物を見て(検査して)問題が無ければ検収作業(代金支払い処理)を決められた期日までに行わなければなりません。このとき、発注書や契約書に書かなかった範囲でこちらの意図に合わない物が納品されても、文句を言わずに受け取らなければなりません。なぜかというと、商取引の世界では「遅防法(下請け遅払い防止法)」というものがあり、大手の企業は自身の都合で下請けに対する支払いを滞らせてはならない、とされているからです」
これは非常に興味深い話です。
しかし、この「下請け」を漫画家と見た場合、漫画家には利のある制度になりますが
一方で、使用に堪えない内容の作品を納めておいて、原稿料だけを請求する悪質な漫画家もいるかもしれません(私はそれも懸念します)。
一般社会の「製品」と異なり、漫画には、厳密なクオリティの基準などというものはありません(このパーツの精度がこの誤差の範囲内、というような)。
ご存知の通り、漫画のクオリティはひとえにその「おもしろさ」にかかっており
「おもしろさ」というのはまったく主観的なものです。
メガヒットと呼ばれる作品も、掲載する雑誌や時期が少しずれただけで、全然ウケ具合が変わった物になります。有名なヒット作家でも、デビュー誌が違っていたなら人生まったく変わっていただろうという人は何人もおいでです。
それゆえ
この「一定のクオリティの製品(作品)を納める」という問題が
限りなく査定が難しく(つまりは裁判などでも争うことが難しい)
契約書にあいまいな部分を残す(それも核の部分に)ものになるでしょう。
最終的にはやはり、相互の信頼関係を抜きには成り立たないですね;
追記2
横からつまが一言
「(作家が)精神患うほど直させるっておかしいだろ。その時点で契約破棄だよね」
まあね。
ただ
最初から患ってらっしゃる作家さんも中にはおいでですから(ちゃかしてるんじゃありません。まじめな話です)、問題は複雑です;
追記3
mixiでも同じ内容の日記を公開してるんですが
いしかわじゅん先生から以下のコメントをいただきました。
FC2ブログへの転載の可否をうかがいましたところ、ご快諾いただきました。ご自身の著作のあとがきなどでも書いていることだから、とのことです。
この場を借りて御礼申し上げます。
「俺も連載いきなり中止になったことあるなあ。
以前、宝島って本でストーリーものの連載始めることになって、
材料集めて1年分くらいのストーリー考えて、まず第一回のネーム
描いてたら、編集長だった関川ってやつが見たいっていうんで見せたら、
最後のシーンをちょっと変えてくれという。
まあそういう終わりでもいいかなと思ったんで描き換えて、原稿を
渡したんだけど、本が出たら載ってない。いったいどうしたんだろうと
思って連絡したら、こちらの望んでたものと違うから連載は中止した
という。編集長のおまえがネームを見たじゃないかといったら、見た
けどOKといったわけじゃないなんて、わけのわからないことをいう。
連載を一本引き受けるということは、そのぶんの仕事枠をずっと
空けておくということだし、当然資料も集めるし準備もするし、
第一回目を載せてくれるかどうかってことだけじゃあ、当然ないん
だよな。
関川には、おまえは自分がどんなにいい加減なことしてるのかわかってる
のかといったんだけど、関川は自分は別になにも問題のあることは
していないというばかり。まあ編集長が自分の本で連載を始めようが
切ろうが勝手だという意識があったんだろうな。
その後いろいろあって、ずーっと何年も経ってから謝罪にきたけどね。
関川は今、宝島で出世してるらしいが、俺は認めないね」
そういえば私(山本)もそれに近い目にあったことがありますね。
先日の日記で、人生で一人だけなぐってやりたい編集さんがいたと書きましたが、それです。
顔をなぐるとあとが残るので、水月に当て身などですね。武術の取材中に武術家さんに教えていただいたやり方で、こう、体の回転と腕の突き上げをシンクロさせてですね、くらわせて、そんな人間と引き換えに前科モノになるのはイヤなのでやめました(笑)。
なつかしくない昔の思い出です(遠い目
追記4
なんだかいろんな漫画家さんから続々体験談が。
無差別にアップしていてはきりがないのと、信憑性にも問題がありますので、一応以前よりコンタクトさせていただいている方のものに限定していますが。
I先生のお話よりご了解をいただいて抜粋です。
「僕も連載をいきなり中止にされたことがあります。
AとBという二人の副編集長がいて僕の担当はB氏でした。
編集長になったのはAでした。
バッサリやられました。
予告に絵付きでわりと大きく載ってたのに
原稿もちゃんと納めたのに…
そういえば原稿料ももらってません。
僕の代わりに載ってたのはAのお抱えのつまらない漫画が…
あれじゃ僕が原稿落としたみたいだ…
その後Aはパーティで、「○○○○○○○○」でヒットを飛ばした僕に対して握手を求めてきたが僕はこれを拒否… 」
お気持ちよくわかります。
しかし、作家の責任ではないのにまるで作家が落としたかのような扱いで、没られたり切られたり、いろんな雑誌で行われてるんですねえ;
情報ありがとうございました。
色々とアップしていますが、私(山本)は別にコトを荒立てたいとは思っていません。
ただ、こういったことが、出版業界では昔から日常茶飯で行われているということを、一般の方にも広く知っていただきたいからです。
問題を、特定の作家の「被害妄想」や「思い込み」として、闇に葬られてはたまりませんから。
執筆が忙しくて、記事を書く暇がありません(漫画家としては、まあ当然なのかもですが)(笑
久々に車だの海水浴場だの出てくるので時間がかかります。でもヒロインの水着姿は楽しいです♪
昔撮った近所の浜辺の写真でお目汚しです。右端はつまです。
えーと、近況は
先日、いい加減肩こりに辟易して、友人に教えてもらったマッサージ屋さんにでかけました。
ああいう外力でもみほぐす療治は、下手な人にかかるとかえって体を悪くすることがあるので心配してたんですが
懸念していた「張り返し」もなく、とりあえず肩こり首凝り腕凝り治まってます(すごいよ!)。
教えてくれた友人の友人は、そこで治療してもらってよかったので近所のマッサージにでかけたら全然ダメで、1時間以上車を飛ばしてその先生にかかりに通っておいでだそうです。
うーん、来月あたりまた行こうかしらん。
先日から色々と
拍手コメントなどいただきましたものも、ありがたく拝読しております。
皆様もご自愛ください。ではでは♪
なんだかヘヴィな話題が続いたので、この辺でなごみ系のカットを一つ。
以前「猫二題」でアップしました猫のイラストを描いたお嬢さん(友人の女性の娘さん)の新作です。
「私のお尻を見たときのママの笑顔」
友人は漫画家で、尼僧でも主婦でもあるんですが、美しい被写体はなんでも好きで、女性の裸も大好物。
で、自分の娘さんがだんだん年ごろ(11歳)になってウエストもくびれ、ナイスバディになってきて、
入浴時などきれいなお尻に思わずこんな顔になってしまうらしいんですが
パパが大好きなお嬢さんは
「ママ目線がエロい!見ないで!」
とか
「パパなら見ていいけどママはダメ!」
「ママおやじ臭い!エロい!嫌い!」
もおさんざんです。
んでお嬢さんが描いたのがこの絵。
この前の猫の絵もよかったですが、この絵もたまりません。
しかしどんだけうれしいんだママ、という話が・・・(笑
「やあ@さん」
と編集長は言った。
「今度のあなたの担当編集者だがね、Aをつけようと思うんだが」
「Aさんですか」
@先生は答えた。
人並みはずれた頭脳と知識、才能を持ち、並外れた胆力を有している@先生は、編集長の言葉の裏に、何か含むものがあるなと感じた。
「Aさんがどうかしましたか」
「うむ、実はね」
編集長は声をひそめた。
「Aにはすでに3人作家がつぶされているんだよ。
奴がいったい何をしているのか、あなたに探ってもらいたいんだが」
「いいですよ」
さらりと笑って@先生は答えた。
人生でさまざまな修羅場をくぐってきた@先生にとっては、別にどうということもない仕事だった。
本物の暴力団や、裏社会の人々とも取材で何度もつきあいもあり、それに比べれば子供のようなものだ。
はてどんな話が展開するのか、いつもの打ち合わせに行くノリで会合場所へ向かった。
「キミには才能なんてないんだからね」
開口一番A氏は言った。
「どうせオリジナリティあふれる作品なんか作れやしないんだよ」
「そうですか」
淡々と穏やかに@先生は応じた。
「だからキミはすべてボクにまかせておけばいいんだ」
NOとは言わせないという口調でA氏は言った。
「じゃあ私はどんな話を描いたらいいんでしょう?」
と@先生は言った。
「何を言うんだ。それはキミが考えることだろう」
おもしろいヤツだなと@先生は思った。
この調子でこれまでの作家にも当たってきたのだろう。
「わかりました。がんばります」
おだやかに打ち合わせは終わり、一息ついて、@先生はケータイを取り出した。
「もしもし編集長ですか」
「ああ、@さんか。さっきAのやつが戻ってきたよ」
「そうですか、何か言ってました?」
「うん、『@ってのは才能ないですね。自分で話が作れないんですよ、あんなやつは使うことはありませんよ』って言ってたよ」
「そうですか」
@先生の巨大な才能、能力を知っている編集長が、そんなA氏の報告を信じていないのは言うまでもない。
@先生は、A氏との打ち合わせのやりとりを、個人感情を交えず、淡々と報告した。
「なるほどそうか。ありがとう」
と編集長は言った。
「やつぁクビだな」(笑
そしてA氏はクビになった。
それにしても
と@先生は思った。
とりあえず、編集長の慧眼で、問題編集は無事排除されたけど
つぶされた三人はその後どうなったのだろうか。
@先生には知るよしもなかった。
さて
この物語を、潜入捜査刑事モノ、おとり捜査モノの出版業界版パロディだと思われた方もおいででしょう。
いえいえ、ただの実話です。
友人@先生から直に聞いた話です。
私が先日の日記で、主人公とその世界に深く共感して漫画版『不夜城』描いた、と書きました理由が
少しはご理解いただけましたでしょうか。
単純な作家と編集部の対立などという構造で成り立っている世界ではないこともお分かりいただけると思います。
この業界にいれば色々あります(こんな話は氷山の一角です)。
なんてこった、出版業界は魔窟かよ!
そんなことはありません。
こういうことは、一般の会社、社会にもいっぱいあります。学校にだってあるでしょう。
要はそれに翻弄されず、ダークサイドに落ちないことです。
きょうもがんばってまいりましょー!!!♪
追記
この種の魔の手にひっかからないためには、幅広い人間関係を構築することだと思います。
先日書きました、真綿で首をしめるような追い出し策とか、自分も同じ目にあったが、信頼できる昔の担当さんから「編集長が追い出そうとしてるから無理ですよ、さっさと別の雑誌に行った方が得策ですよ」と裏で教えてもらって、傷を深める前に脱出できたという知り合いもおいでです。
漫画家間の横のつながり縦のつながり、人間関係はどの世界でも重要です♪
なお、@やAは今回の話を書くための便宜上の記号で、実名イニシャルやペンネームではありません。念のため;
と編集長は言った。
「今度のあなたの担当編集者だがね、Aをつけようと思うんだが」
「Aさんですか」
@先生は答えた。
人並みはずれた頭脳と知識、才能を持ち、並外れた胆力を有している@先生は、編集長の言葉の裏に、何か含むものがあるなと感じた。
「Aさんがどうかしましたか」
「うむ、実はね」
編集長は声をひそめた。
「Aにはすでに3人作家がつぶされているんだよ。
奴がいったい何をしているのか、あなたに探ってもらいたいんだが」
「いいですよ」
さらりと笑って@先生は答えた。
人生でさまざまな修羅場をくぐってきた@先生にとっては、別にどうということもない仕事だった。
本物の暴力団や、裏社会の人々とも取材で何度もつきあいもあり、それに比べれば子供のようなものだ。
はてどんな話が展開するのか、いつもの打ち合わせに行くノリで会合場所へ向かった。
「キミには才能なんてないんだからね」
開口一番A氏は言った。
「どうせオリジナリティあふれる作品なんか作れやしないんだよ」
「そうですか」
淡々と穏やかに@先生は応じた。
「だからキミはすべてボクにまかせておけばいいんだ」
NOとは言わせないという口調でA氏は言った。
「じゃあ私はどんな話を描いたらいいんでしょう?」
と@先生は言った。
「何を言うんだ。それはキミが考えることだろう」
おもしろいヤツだなと@先生は思った。
この調子でこれまでの作家にも当たってきたのだろう。
「わかりました。がんばります」
おだやかに打ち合わせは終わり、一息ついて、@先生はケータイを取り出した。
「もしもし編集長ですか」
「ああ、@さんか。さっきAのやつが戻ってきたよ」
「そうですか、何か言ってました?」
「うん、『@ってのは才能ないですね。自分で話が作れないんですよ、あんなやつは使うことはありませんよ』って言ってたよ」
「そうですか」
@先生の巨大な才能、能力を知っている編集長が、そんなA氏の報告を信じていないのは言うまでもない。
@先生は、A氏との打ち合わせのやりとりを、個人感情を交えず、淡々と報告した。
「なるほどそうか。ありがとう」
と編集長は言った。
「やつぁクビだな」(笑
そしてA氏はクビになった。
それにしても
と@先生は思った。
とりあえず、編集長の慧眼で、問題編集は無事排除されたけど
つぶされた三人はその後どうなったのだろうか。
@先生には知るよしもなかった。
さて
この物語を、潜入捜査刑事モノ、おとり捜査モノの出版業界版パロディだと思われた方もおいででしょう。
いえいえ、ただの実話です。
友人@先生から直に聞いた話です。
私が先日の日記で、主人公とその世界に深く共感して漫画版『不夜城』描いた、と書きました理由が
少しはご理解いただけましたでしょうか。
単純な作家と編集部の対立などという構造で成り立っている世界ではないこともお分かりいただけると思います。
この業界にいれば色々あります(こんな話は氷山の一角です)。
なんてこった、出版業界は魔窟かよ!
そんなことはありません。
こういうことは、一般の会社、社会にもいっぱいあります。学校にだってあるでしょう。
要はそれに翻弄されず、ダークサイドに落ちないことです。
きょうもがんばってまいりましょー!!!♪
追記
この種の魔の手にひっかからないためには、幅広い人間関係を構築することだと思います。
先日書きました、真綿で首をしめるような追い出し策とか、自分も同じ目にあったが、信頼できる昔の担当さんから「編集長が追い出そうとしてるから無理ですよ、さっさと別の雑誌に行った方が得策ですよ」と裏で教えてもらって、傷を深める前に脱出できたという知り合いもおいでです。
漫画家間の横のつながり縦のつながり、人間関係はどの世界でも重要です♪
なお、@やAは今回の話を書くための便宜上の記号で、実名イニシャルやペンネームではありません。念のため;
先日から電話やブログのコメントなどで、色んな知り合い、友人から、自分はこんなことがあったという情報をお教えいただきました。
駆け出しのころいつまでたっても原稿を返してもらえないので、編集部に行ったら、編集長の椅子のキャスターに踏みしだかれていたとか(私も徹夜でもーろーとして自分の椅子で自分の原稿うっかり踏みにじってたこと、ありますが)。
某社で仕事していたライターの友人が、その会社と懇意な先輩作家と仲違いしたら、原稿料をわけもなく大幅に減額され、その後他社で名を上げて久々にまた、その減額された会社で書く機会を得たところ、当時の担当さんに
「あの時はすみませんでした。今度の原稿料に上乗せしときますから」
と言われて
「ふざけるな、誰がいるかそんな金」
と、怒った話とか。
叩けばホコリの出る世界で、出るわ出るわあきれるくらいです。
私の場合、圧倒的に作家サイドの友人が多いので、入ってくる情報はどうしてもそっちよりになりますけども
実は逆のトラブル(おかしい作家の編集者いじめとか)もいっぱいあって
ヤバくて書けない話がいくつもあります。
中にはあきらかに精神を病んでいる人もおいでで(具体的病名は伏せますが)それに対応するのはかなり大変なことだと思います。
だいたい、何から何までまともな人が漫画家なんかになるものか、と言う意見もあるくらいで
どっかおかしい人はいっぱいいます(私もその一人です)。
編集者が漫画家に対してにせよ
漫画家が編集者に対してにせよ
コトバでも行動でも、人としてとるべきものかどうか、すべてに神経を張り巡らせて行うのが、まともな大人の付き合いじゃないかと思うものです。
だいたい言質(げんち)を取られるようなセリフや行動はしない方がいい。
裁判の検察と被告およびその弁護士のやりとりを思い浮かべていただけるといいですが
一言でもぼろを出すようなことのないよう、徹底的に注意を払いますよね。
仕事における大人の付き合いには、裁判ほどじゃないにせよ、ある程度そういう神経が必要なんじゃないかと思うものです。
知り合いの編集さんで
「交渉の場では、先にキレた方が負けです」
ときっぱりおっしゃる方もいて、そういう方とはまともに話ができます(無論暴言なんかお互い吐きません)。
新人の漫画家さんが担当さんからひどく感情的威圧的言動をとられてトラウマに・・・みたいな話も聞きますが(私は経験ないんですけど)、怒って相手を侮辱したり威嚇したりするような言動をとる人というのは、相手をそれでコントロールしたいと思っているか、自分の感情のコントロールができない理性を欠いた人かのいずれかだと思うのですが
いずれにせよ、それに反応してこちらまで怒ったり悲しんだり叫んだりすると、状況はどんどん泥沼になります。
SWのヨーダのセリフにもあったように思うのですが、「怒り」の感情の奥にはたいてい「恐怖」の感情が隠れています。むやみと怒っている人を見たら、その人は何を恐れているのか考えてみることです。
地位を失う恐怖、面子(めんつ)をなくす恐怖、生活がおびやかされる恐怖、その他色々隠れています。
自分に何も失うものも奪われるものもない人は、何も恐れることはありません。
バイクに「キル・スイッチ」というのがあります。
転倒した時など車輪がぶんぶん回り続けていると危ないので、そのスイッチを押すとエンジンが切れるんですが
私は近年、自分の中に感情のキル・スイッチを持っているので、いくら相手が感情的になろうと巻き込まれることはありません。ミューティング・スイッチと言ってもいいかもしれません。
別に普段から無感動のゾンビみたいに暮らすという意味ではなく、あくまで非常時の緊急停止用ですが、ストレスたまって思考がぐるぐるで気疲れするときなど、たまにスイッチを切ってリラックスすると癒されます(笑)。
暴力団がおしかけて脅しているとかいうような実際に身体的な危険がある場合は別ですが、そうでない限りいくら相手がほえようが、それは相手の問題であってこちらの関知するところではありません。
せいぜい好きにほえてもらって、一つの観察対象として観察するだけです。
映画などで、人を感情的にゆさぶって拷問するシーンなどで、その人の心の古傷を攻撃したり、恋人や両親を侮辱したり(「おまえのお袋は売春婦だ!」などと言うあれです)して理性の仮面をはぐ、などという下りがありますが、あんな手に乗るのはアマチュアで、本当に肝のすわっている人は反応しません。
多少は理性のある人なら、自分の感情的な攻撃に、いっさい相手が乗ってこないと、ふっと我に返るというか、一人でキレている自分の方がみじめになって、自然とブレーキがかかるものです。
私は若いころから二十年以上に渡り、武術関係の取材をしてきましたが
達人には色々とおもしろい話があります。
ご存知の方も多いと思いますが、世の中には見かけだけ派手で、飛んだりはねたりしてカッコ良さげに見えて、実戦では全然役に立たない使えない格闘技というものがあります(シロウトには受けたりするんですが)。
ある先生が、そういう格闘技の演武を見て、お弟子さんに
「あなたたち、ああいう人が来たらどうする?」
と聞きました。先生いわく
「私はそばで見ているよ」(笑
要するに、勝手に飛んだりはねたりしたいだけさせておいて、相手にしない。
無駄な動きが多いんで、助走をつけてとび蹴りとかしてる間に、先生は十分かわす余裕があるんで
勝負する必要さえ感じないという。
人を脅し、ののしったり侮辱したりする卑しい精神の持ち主や、自分の攻撃的感情のコントロールもできない人は、このむだに飛んだりはねたりしてる使えない格闘家みたいなもので
「私はそばで見ている」
のがいいんじゃないかと思うものです。
そのうち疲れてやめるでしょう。
この辺のことは、お時間のあります方は昨年の日記「小暴君」と「小暴君」追記&自尊心」をご覧ください。
人の侮辱的なコトバは、自分が受け入れなければなんの効果もありません(どこかで嘘の情報を流されるとかはまた別ですが)。
人は何か痛いところを突かれたと思うから痛いのです。
貯金が何億円もある人の前に、誰かが現れて
「おまえは貯金が10万円しかないだろう」
とか言い始めたら
「はいはいそうですよ」
と笑って相手にしないでしょう。
むしろ財布に5000円しか入っていない人が
「おまえは3000円しか持ってないだろう」
と言われてむきになったりするものです。
学校のイジメなどでもそうで、クラスのみんなが「おまえには生きる価値はないゴミだ」とか言っても、最終的に言われた本人が「そうか、自分はゴミなのか」と心の底で同意しない限り、決定的ないじめの構造は完結しません。
みんながゴミ扱いするから自分なんか死んでもいいんだと、ある意味「同意」してしまう(無論本当はそんな同意なんかしたいわけじゃありません。実に痛ましい「同意」に追い込まれてしまうわけですが)から悲劇が起こります。
私も小学校のころ、いじめっ子のグループに何ヶ月も執拗ないじめを受けた体験がありますが
いじめにまつわる悲しいニュースを目にするたびに、どうか愚かな人々の言動に乗って、自分で自分を否定する書類に同意のサインをしないで欲しいと心底願います。
少し話がそれましたが
漫画家と編集者の感情的な対立にも同様の悲劇性があるように私は思います。
さて、それでは、仮に双方が理性的に、いっさいの攻撃的侮辱的な言動を排して礼儀正しくおつきあいできるようになったら問題は解決するのか。
それがそうではありません。
いくらコトバは物柔らかで、言質をとられないようなものであっても
やってることが外道な場合があります。
いわゆる労働争議などにも潜む問題ですが
ダイレクトないじめではなく、何か別の理由をつけたりして、巧妙におこなういじめ、嫌がらせもあります。
「外面如菩薩内心如夜叉 (げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)」
というコトバがあります。
見かけは菩薩のように、もの柔かで美しいけれど、心の中は鬼神のように恐ろしいという意味です。
世間にはそんな人も少なくありません。
そう言えば昔、筒井康隆氏の短編に『如菩薩団』というのがあったように思うのですが(記憶違いだったらすみません)
ものすごく礼儀正しいおば様たちの強盗団で
「まあ、奥様ごめんあそばせ」
みたいな、最初から最後まで丁寧な言葉使いで礼儀正しく、でもしっかり強盗殺人を働いていくという(笑)言ってることとやってることがギャップのあるブラックなコメディでした。
たとえば、編集部によっては、まっこうから「おまえはいらん」と作家に言って、恨みを買うのはイヤなので、もっと絡め手から責める場合があります。
いくつもいくつも新しいネームを提出させて、何度もリテイクを出して採用しないとかですね。
直接の担当さんがそういうハラの場合もあれば、担当さんは誠実で、その漫画家をプッシュしようとしているけれど、上司が嫌っている場合もあります。
真綿でクビを閉めると言いますか、なしくずしに追い出すわけです。
それで編集部を恨んでみても、なんの得もありません。
漫画家は漫画家サイドで冷静に状況を見極め、この編集部と打ち合わせしているこの企画に費やせる時間と労力はどれくらいか。
どこまでつぎ込めば元がとれるか、どの一線を越えたら撤退すべきか
という冷静な判断を常に持っている必要があります。
ジョージ・ルーカスの処女作に『THX-1138』という映画があります。
これまた何十年も昔に見たものでうろ覚えですが、すべてが合理的に管理されている未来世界で、主人公を追跡してきた警官隊が、あるラインまで着て「追跡の予算をオーバーしたのでここで中止」と引き返す下りがあったように思います。
あのクールさが漫画家にも求められます。無論編集サイドにも求められますが、それは釈迦に説法でしょう(笑
蛇足ですが
上記の「何度も新しい案を提出させておいて何ヶ月も採用しない」ケースでも、すべてがイジメなわけではありません。
最初から採用する意思がないのに無駄に提出させたのか、採用する意思はあったけれど結果的に編集部の思うような内容が提出されなかったのか
それはこちらにはわかりません。
私は、想像と事実は区別するよう心がけています。
最近もそういうできごとはありましたが、私の中では
「こちらの意図と編集部の意図が合意に至らなかった」
だけであり、それ以上何か勘ぐったり、相手の意図を邪推したりはけしてしません。
相手の思いは、言葉と行動両方を総合して把握するもので、トータルでどんな意思表示をされたか、です。それ以上でも以下でもありません。
上記のようなできごとがあったとしても
「今の山本は今のその編集部には必要とされていない」
それだけです。
世の中は風向きが変わることが多々ありますから、将来のことはわかりません。
必要とされなければ、よそで働く、それだけです。
以前読んだガンジーの手記で、自分は交渉相手の政治家に裏切られた。しかし、あくまで信じる正しい道を行くだけで、そのためにまただまされることもあるかもしれないが、別に天に恥じることはないという意味の下りがあって
ああ、潔い生き方だなあと思ったものです。
ガンジーは徹頭徹尾アヒムサ(不殺生)を追求した人で、その中に、恨みとか呪いとか、敵の不幸を願う気持ち、こいつらはこんなひどいやつらだから、これくらい叩きのめしてやろう、思い知らせてやろうといったネガティブな思いを持たないように生きていた人です。
人間ですから、たまにはムカつくこともあったでしょうが、少なくともそういう衝動に身をまかせることはなかった。
人間
「寝覚めよき、事こそなさめ」
で生きるなら、自然とそういう生き方に落ち着くように思います。
先日テレビを見ていたら、アフリカの医療現場で奮闘する女医さんのドキュメンタリーで、元国連難民高等弁務官の緒方貞子氏の
「熱い心に冷たい頭」
という言葉を引用していましたが
いい言葉だと思います。
追記
私の申し上げたいことが、うまく表現できているか、いまいち不安なんですが
別に感情を押し殺して、無理に「いい子」になりましょうとか申し上げる気はさらさらありません。
どうしても怒りたいときは怒ればいいし泣きたいときは泣けばいいです。(怒りを抑圧し続けると本当に病気になります)。
ただ、人は感情の奴隷ではなく主人である方が幸せだと思うものです。
そもそも私は人一倍喜怒哀楽は激しい人間で、それに振り回される生き方にほとほとうんざりしたと言うか、自分も周囲も全然幸せにしないと思って人生の半ばで軌道修正したクチです。
いや、それでも自分は感情に身を任せたいとおっしゃる方は、それもそれで生き方だと思います。
人はみなそれぞれ、納得のいく生き方をするしかないと思います。
私の意見に共感してくださる方も、反対の方も、みな少しでも幸せに向かって進まれるよう願っています。
駆け出しのころいつまでたっても原稿を返してもらえないので、編集部に行ったら、編集長の椅子のキャスターに踏みしだかれていたとか(私も徹夜でもーろーとして自分の椅子で自分の原稿うっかり踏みにじってたこと、ありますが)。
某社で仕事していたライターの友人が、その会社と懇意な先輩作家と仲違いしたら、原稿料をわけもなく大幅に減額され、その後他社で名を上げて久々にまた、その減額された会社で書く機会を得たところ、当時の担当さんに
「あの時はすみませんでした。今度の原稿料に上乗せしときますから」
と言われて
「ふざけるな、誰がいるかそんな金」
と、怒った話とか。
叩けばホコリの出る世界で、出るわ出るわあきれるくらいです。
私の場合、圧倒的に作家サイドの友人が多いので、入ってくる情報はどうしてもそっちよりになりますけども
実は逆のトラブル(おかしい作家の編集者いじめとか)もいっぱいあって
ヤバくて書けない話がいくつもあります。
中にはあきらかに精神を病んでいる人もおいでで(具体的病名は伏せますが)それに対応するのはかなり大変なことだと思います。
だいたい、何から何までまともな人が漫画家なんかになるものか、と言う意見もあるくらいで
どっかおかしい人はいっぱいいます(私もその一人です)。
編集者が漫画家に対してにせよ
漫画家が編集者に対してにせよ
コトバでも行動でも、人としてとるべきものかどうか、すべてに神経を張り巡らせて行うのが、まともな大人の付き合いじゃないかと思うものです。
だいたい言質(げんち)を取られるようなセリフや行動はしない方がいい。
裁判の検察と被告およびその弁護士のやりとりを思い浮かべていただけるといいですが
一言でもぼろを出すようなことのないよう、徹底的に注意を払いますよね。
仕事における大人の付き合いには、裁判ほどじゃないにせよ、ある程度そういう神経が必要なんじゃないかと思うものです。
知り合いの編集さんで
「交渉の場では、先にキレた方が負けです」
ときっぱりおっしゃる方もいて、そういう方とはまともに話ができます(無論暴言なんかお互い吐きません)。
新人の漫画家さんが担当さんからひどく感情的威圧的言動をとられてトラウマに・・・みたいな話も聞きますが(私は経験ないんですけど)、怒って相手を侮辱したり威嚇したりするような言動をとる人というのは、相手をそれでコントロールしたいと思っているか、自分の感情のコントロールができない理性を欠いた人かのいずれかだと思うのですが
いずれにせよ、それに反応してこちらまで怒ったり悲しんだり叫んだりすると、状況はどんどん泥沼になります。
SWのヨーダのセリフにもあったように思うのですが、「怒り」の感情の奥にはたいてい「恐怖」の感情が隠れています。むやみと怒っている人を見たら、その人は何を恐れているのか考えてみることです。
地位を失う恐怖、面子(めんつ)をなくす恐怖、生活がおびやかされる恐怖、その他色々隠れています。
自分に何も失うものも奪われるものもない人は、何も恐れることはありません。
バイクに「キル・スイッチ」というのがあります。
転倒した時など車輪がぶんぶん回り続けていると危ないので、そのスイッチを押すとエンジンが切れるんですが
私は近年、自分の中に感情のキル・スイッチを持っているので、いくら相手が感情的になろうと巻き込まれることはありません。ミューティング・スイッチと言ってもいいかもしれません。
別に普段から無感動のゾンビみたいに暮らすという意味ではなく、あくまで非常時の緊急停止用ですが、ストレスたまって思考がぐるぐるで気疲れするときなど、たまにスイッチを切ってリラックスすると癒されます(笑)。
暴力団がおしかけて脅しているとかいうような実際に身体的な危険がある場合は別ですが、そうでない限りいくら相手がほえようが、それは相手の問題であってこちらの関知するところではありません。
せいぜい好きにほえてもらって、一つの観察対象として観察するだけです。
映画などで、人を感情的にゆさぶって拷問するシーンなどで、その人の心の古傷を攻撃したり、恋人や両親を侮辱したり(「おまえのお袋は売春婦だ!」などと言うあれです)して理性の仮面をはぐ、などという下りがありますが、あんな手に乗るのはアマチュアで、本当に肝のすわっている人は反応しません。
多少は理性のある人なら、自分の感情的な攻撃に、いっさい相手が乗ってこないと、ふっと我に返るというか、一人でキレている自分の方がみじめになって、自然とブレーキがかかるものです。
私は若いころから二十年以上に渡り、武術関係の取材をしてきましたが
達人には色々とおもしろい話があります。
ご存知の方も多いと思いますが、世の中には見かけだけ派手で、飛んだりはねたりしてカッコ良さげに見えて、実戦では全然役に立たない使えない格闘技というものがあります(シロウトには受けたりするんですが)。
ある先生が、そういう格闘技の演武を見て、お弟子さんに
「あなたたち、ああいう人が来たらどうする?」
と聞きました。先生いわく
「私はそばで見ているよ」(笑
要するに、勝手に飛んだりはねたりしたいだけさせておいて、相手にしない。
無駄な動きが多いんで、助走をつけてとび蹴りとかしてる間に、先生は十分かわす余裕があるんで
勝負する必要さえ感じないという。
人を脅し、ののしったり侮辱したりする卑しい精神の持ち主や、自分の攻撃的感情のコントロールもできない人は、このむだに飛んだりはねたりしてる使えない格闘家みたいなもので
「私はそばで見ている」
のがいいんじゃないかと思うものです。
そのうち疲れてやめるでしょう。
この辺のことは、お時間のあります方は昨年の日記「小暴君」と「小暴君」追記&自尊心」をご覧ください。
人の侮辱的なコトバは、自分が受け入れなければなんの効果もありません(どこかで嘘の情報を流されるとかはまた別ですが)。
人は何か痛いところを突かれたと思うから痛いのです。
貯金が何億円もある人の前に、誰かが現れて
「おまえは貯金が10万円しかないだろう」
とか言い始めたら
「はいはいそうですよ」
と笑って相手にしないでしょう。
むしろ財布に5000円しか入っていない人が
「おまえは3000円しか持ってないだろう」
と言われてむきになったりするものです。
学校のイジメなどでもそうで、クラスのみんなが「おまえには生きる価値はないゴミだ」とか言っても、最終的に言われた本人が「そうか、自分はゴミなのか」と心の底で同意しない限り、決定的ないじめの構造は完結しません。
みんながゴミ扱いするから自分なんか死んでもいいんだと、ある意味「同意」してしまう(無論本当はそんな同意なんかしたいわけじゃありません。実に痛ましい「同意」に追い込まれてしまうわけですが)から悲劇が起こります。
私も小学校のころ、いじめっ子のグループに何ヶ月も執拗ないじめを受けた体験がありますが
いじめにまつわる悲しいニュースを目にするたびに、どうか愚かな人々の言動に乗って、自分で自分を否定する書類に同意のサインをしないで欲しいと心底願います。
少し話がそれましたが
漫画家と編集者の感情的な対立にも同様の悲劇性があるように私は思います。
さて、それでは、仮に双方が理性的に、いっさいの攻撃的侮辱的な言動を排して礼儀正しくおつきあいできるようになったら問題は解決するのか。
それがそうではありません。
いくらコトバは物柔らかで、言質をとられないようなものであっても
やってることが外道な場合があります。
いわゆる労働争議などにも潜む問題ですが
ダイレクトないじめではなく、何か別の理由をつけたりして、巧妙におこなういじめ、嫌がらせもあります。
「外面如菩薩内心如夜叉 (げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)」
というコトバがあります。
見かけは菩薩のように、もの柔かで美しいけれど、心の中は鬼神のように恐ろしいという意味です。
世間にはそんな人も少なくありません。
そう言えば昔、筒井康隆氏の短編に『如菩薩団』というのがあったように思うのですが(記憶違いだったらすみません)
ものすごく礼儀正しいおば様たちの強盗団で
「まあ、奥様ごめんあそばせ」
みたいな、最初から最後まで丁寧な言葉使いで礼儀正しく、でもしっかり強盗殺人を働いていくという(笑)言ってることとやってることがギャップのあるブラックなコメディでした。
たとえば、編集部によっては、まっこうから「おまえはいらん」と作家に言って、恨みを買うのはイヤなので、もっと絡め手から責める場合があります。
いくつもいくつも新しいネームを提出させて、何度もリテイクを出して採用しないとかですね。
直接の担当さんがそういうハラの場合もあれば、担当さんは誠実で、その漫画家をプッシュしようとしているけれど、上司が嫌っている場合もあります。
真綿でクビを閉めると言いますか、なしくずしに追い出すわけです。
それで編集部を恨んでみても、なんの得もありません。
漫画家は漫画家サイドで冷静に状況を見極め、この編集部と打ち合わせしているこの企画に費やせる時間と労力はどれくらいか。
どこまでつぎ込めば元がとれるか、どの一線を越えたら撤退すべきか
という冷静な判断を常に持っている必要があります。
ジョージ・ルーカスの処女作に『THX-1138』という映画があります。
これまた何十年も昔に見たものでうろ覚えですが、すべてが合理的に管理されている未来世界で、主人公を追跡してきた警官隊が、あるラインまで着て「追跡の予算をオーバーしたのでここで中止」と引き返す下りがあったように思います。
あのクールさが漫画家にも求められます。無論編集サイドにも求められますが、それは釈迦に説法でしょう(笑
蛇足ですが
上記の「何度も新しい案を提出させておいて何ヶ月も採用しない」ケースでも、すべてがイジメなわけではありません。
最初から採用する意思がないのに無駄に提出させたのか、採用する意思はあったけれど結果的に編集部の思うような内容が提出されなかったのか
それはこちらにはわかりません。
私は、想像と事実は区別するよう心がけています。
最近もそういうできごとはありましたが、私の中では
「こちらの意図と編集部の意図が合意に至らなかった」
だけであり、それ以上何か勘ぐったり、相手の意図を邪推したりはけしてしません。
相手の思いは、言葉と行動両方を総合して把握するもので、トータルでどんな意思表示をされたか、です。それ以上でも以下でもありません。
上記のようなできごとがあったとしても
「今の山本は今のその編集部には必要とされていない」
それだけです。
世の中は風向きが変わることが多々ありますから、将来のことはわかりません。
必要とされなければ、よそで働く、それだけです。
以前読んだガンジーの手記で、自分は交渉相手の政治家に裏切られた。しかし、あくまで信じる正しい道を行くだけで、そのためにまただまされることもあるかもしれないが、別に天に恥じることはないという意味の下りがあって
ああ、潔い生き方だなあと思ったものです。
ガンジーは徹頭徹尾アヒムサ(不殺生)を追求した人で、その中に、恨みとか呪いとか、敵の不幸を願う気持ち、こいつらはこんなひどいやつらだから、これくらい叩きのめしてやろう、思い知らせてやろうといったネガティブな思いを持たないように生きていた人です。
人間ですから、たまにはムカつくこともあったでしょうが、少なくともそういう衝動に身をまかせることはなかった。
人間
「寝覚めよき、事こそなさめ」
で生きるなら、自然とそういう生き方に落ち着くように思います。
先日テレビを見ていたら、アフリカの医療現場で奮闘する女医さんのドキュメンタリーで、元国連難民高等弁務官の緒方貞子氏の
「熱い心に冷たい頭」
という言葉を引用していましたが
いい言葉だと思います。
追記
私の申し上げたいことが、うまく表現できているか、いまいち不安なんですが
別に感情を押し殺して、無理に「いい子」になりましょうとか申し上げる気はさらさらありません。
どうしても怒りたいときは怒ればいいし泣きたいときは泣けばいいです。(怒りを抑圧し続けると本当に病気になります)。
ただ、人は感情の奴隷ではなく主人である方が幸せだと思うものです。
そもそも私は人一倍喜怒哀楽は激しい人間で、それに振り回される生き方にほとほとうんざりしたと言うか、自分も周囲も全然幸せにしないと思って人生の半ばで軌道修正したクチです。
いや、それでも自分は感情に身を任せたいとおっしゃる方は、それもそれで生き方だと思います。
人はみなそれぞれ、納得のいく生き方をするしかないと思います。
私の意見に共感してくださる方も、反対の方も、みな少しでも幸せに向かって進まれるよう願っています。
今回から新しいカテゴリを追加しました。
「好きなことば」です。
私ほどではないですが、心配性だった友人があるご老人から言われた言葉。
「山より大きい熊は出てこないから」(笑)
それでハタと感じることがあったそうです。
そうなんですよ。
最悪のことを想像すれば、もおそれ以上悪いことは起こりませんし、心配性の人は言われなくても最悪な状況ばっかイメージするんで、まあたいがいは「想定以下」のことしか起こらないんですよね。
不安はその対象を引き寄せるという話もあるくらいで(病気になるんじゃないかなるんじゃないかって心配しすぎてストレスで本当に病気になるのもその一つです)
悪いことは思い浮かべ続けていても何もいいことないんで
思い浮かべたら打てる手は打って(打てない手は打てないんだからあきらめて)
できることをして前向きに生きるのがいいと思っています。ではでは~~♪
山より大きい熊は出てこないから
追記
コメント欄に、お客様から「熊」ではなくて「猪」ではないのかというご指摘をいただきました。
ありがとうございます♪
私はこれ、冒頭にも書いたとおり、友人から聞いた話なんで、出典とか原典は全然存じません。
ご存知の方がおいででしたらご教示いただけますと幸いです。どうかよろしくお願いします;
「好きなことば」です。
私ほどではないですが、心配性だった友人があるご老人から言われた言葉。
「山より大きい熊は出てこないから」(笑)
それでハタと感じることがあったそうです。
そうなんですよ。
最悪のことを想像すれば、もおそれ以上悪いことは起こりませんし、心配性の人は言われなくても最悪な状況ばっかイメージするんで、まあたいがいは「想定以下」のことしか起こらないんですよね。
不安はその対象を引き寄せるという話もあるくらいで(病気になるんじゃないかなるんじゃないかって心配しすぎてストレスで本当に病気になるのもその一つです)
悪いことは思い浮かべ続けていても何もいいことないんで
思い浮かべたら打てる手は打って(打てない手は打てないんだからあきらめて)
できることをして前向きに生きるのがいいと思っています。ではでは~~♪
山より大きい熊は出てこないから
追記
コメント欄に、お客様から「熊」ではなくて「猪」ではないのかというご指摘をいただきました。
ありがとうございます♪
私はこれ、冒頭にも書いたとおり、友人から聞いた話なんで、出典とか原典は全然存じません。
ご存知の方がおいででしたらご教示いただけますと幸いです。どうかよろしくお願いします;
今回は少しへヴィな内容です。おまけにちと長いです。
先ごろからの漫画界の問題とも関係がありますし、もっと大きな人生一般の問題でもあります。
シビアな現実は知りたくない、と言う方はお読みにならないでください。
ただ一つお断りしたいのは
私はいついかなる時でも、光と希望を目指しているということです。
シビアな現実を語るのは、自分や読む人をいたずらに不安にさせたり、絶望させて生きる希望をなくさせるためではなく(そういう虚無主義のメッセは絶対送る気がありません)、厳しい現実に対処するにはまず現実を認めることから始める必要があるという前提からです。
現実と向かい合うことは、希望や明日へのプロセスの一つ、始めの一歩にほかなりません。
でも世の中にはどうでも夢が見たいという方もおいでです。
あるコミュニティの書き込みで、漫画やイラスト業界のギャラ問題が取り上げられていて、相場を書いた方に対して、おまえは業界の先輩づらして知識をひけらかし、若者の夢を奪うひどいやつだ、みたいな意見をお見かけしました。
私には、その原稿料の相場を書かれた方が、そんな悪意や後進に対する優越感で書かれたとは、どうしても思えなかったのですが、どうでも現実を見ないで夢を見ることが必要と思われる方もおいでということです。
私には共感できないものですが、その方のお気持ちは尊重しますし、あえて侵害するつもりもありません。そういう方はお読みにならないでください。
読者に夢を与える仕事は、夢だけ見ていても成り立たないと私は思っています。
何も考えないで楽しめる作品は、色々考えないと作れないのと同じです。
私は19歳でデビューしてこれまで30年、生活の基盤をずっと漫画において生きてきました。
私の人生はほとんど漫画と同義語であり、私の知る人生の光と闇は、ほとんどが漫画界に関わるものです。
私が自分の体験をふまえて人生を語れば、それは大半が漫画界の話にもなります。
人生は一寸先はわかりません。
さっきまで楽しそうに笑っていた人が一瞬先には違っていたりします(そういう悲しい事件があります)。
私は若いころから心配性で、つまには「杞の国の住人」と呼ばれていました。
杞の国というのは大昔の中国にあったという国の名前で、そこの住人はみんな心配性で
いつ空が落ちてくるかと不安に思って暮らしていたということです(笑
ごぞんじ「杞憂(きゆう)」(無駄な心配)というコトバの語源です。
何年か前、マスコミをにぎわせた人のセリフで「想定内」というのがありました。
心配性の私は、昔からすべてのことを「想定内」にすることを心がけて生きてきました。
最愛の妻が買い物にでかける後ろ姿を見送りながら
「ああ、この姿を見るのも、もしかしたらこれが最後かもしれないな」
と思いながら、見送ったものです(若いころからです)。
ですんで、たいがいのことにはハラをくくっています。
漫画家は明日をも知れない職業です。
一本連載が終了するたびに「失業」しているのであり
一般のカタギな労働者と違い「失業保険」もありません(自営業の方はみなそうですが)。
なんの保障もなく放り出されます。
連載を終わるからと、出版社が「退職金」をくれるわけでもありません(ささやかですが、それに近い厚意を示してくださった出版社が一つだけありましたが、30年の漫画家人生でその一件だけでした。社長さんのご人徳以外の何物でもありません。私はその方を忘れません)。
ですから、そうなった時のために、余力のある作家は金をためます。
ない作家は貯められません(私もそうです)(笑
私のような、綱渡りの漫画家人生を送ってきた人間にとっては、明日の保障、安心感などというのは
遠く彼方の空に浮かぶ雲のように、はるかな縁遠いものです(そもそも漫画家などという職業を選んだ段階で安定した人生などとはさようならを覚悟するべきですが)。
入った金は、みんな日々の暮らしや、次の作品の取材に消えます。
業界のある大先輩(面識はありませんが、私が学生のころから一線で描いておられた有名な方)は、編集さんからの又聞きですが、膨大な費用を取材につぎ込むそうです。
百万から場合によっては一千万(!)
大変絵のうまい方で、ほとんどを一人で描かれる(技術的に手伝える人がいない)ため量産もきかない。
ただ誠実に作品の完成度を上げることにまい進しておいでです。
「だからうちはいまだに貧乏です」
と奥様が言われたそうですが、えー?あんなすごい先生がそおなの?って、聞いたときは絶句しました。
なんだ、金もうけが下手なヘタレじゃないかと笑う方もおいででしょうが、私は深く敬意を表します。
私にはとてもそこまでやれません(近年、一人で描いてるのは同じですが)。
一般社会と同様に、漫画界も様々な悪意やアクシデントに満ちています。
それは身を持って体験してきました。
少し前になりますが、金城武さん主演で映画にもなった小説『不夜城』の漫画化を請け負ったことがあります(角川書店から全一巻で刊行されました)。
原作の小説は、歌舞伎町に暮らす中国人黒社会と深く関わる主人公が、いくつもの犯罪勢力の間をあの手この手で生き抜いて、大切なものや友人、恋人を失いながらも、明日を目指すという話です。
私はその必死な生き様に、深く共感しました。
犯罪こそ犯しはしませんでしたが、主人公の必死さは自分の生き方そのものに思えたからです。
あっちの組織やこっちの組織、様々なグループと付き合いながら、時には小便ちびりそうになりながらも平静を装い、親分のツッコミをかわしたり、言うこと聞かないチンピラをビビらせたり
ありとあらゆる手段で生き抜く主人公。
ああ、俺も覚えがあるよ!(笑
若いころは色々したし、されたなあ!(黒社会じゃなくて漫画界だけど)
裏切りなんかもいっぱいあったし、そんなことで凹んでたら命がいくつあっても足りないよ!(泣笑
少しネタバレになるので嫌な方は十数行飛ばしてください。
主人公は物語のクライマックスで、恋人の女性に殺されかけます。彼女も生きるのに必死で、そのため主人公に向かって銃の引き金を引くのです。
わけあって主人公は助かるのですが、彼女に言います。
「おまえは正しいことをしたんだ」
そうです。
みんな生きることに必死。裏切りもするでしょう。自分だって同じ立場なら同じように引き金を引いたかもしれない。だからおまえは間違ってない。おれはおまえを恨みもしない。
そして彼女を射殺します。
生きるために。
殺した女を抱いて慟哭する主人公に、私も泣きました。
エルロイの暗黒小説などと同様、『不夜城』の世界には、甘い希望はありません。
ひたすら悪夢の底のようなまとわりつく闇の中を、もがきながら生き抜く主人公の生への姿勢が描かれています。
『不夜城』を漫画化した時点の私には、そこまでしか思いつきませんでした。
あれから十年近くが経過して、今は色々違っています。
人生は、世界は、さまざまな闇や理不尽に満ちている。
その現実は変わりませんが
光もまたある。
一寸先は闇でもあり光でもある。
その現実の中で、自分は何を選び何を目指すか。
闇の中で闇であるのか、闇の中でも輝くか。
私は光でありたいと思います。
闇の中で闇であるのはたやすいことです。
悪意の中で悪意であるのもたやすいことです。
光の中で光であるのもまた同じ。
何から何まで満ち足りた「いい気分」な日には、鬼のような犯罪者でも、ちょっと誰かに親切心を抱いたりすることもあるでしょう。
そうじゃなくて
闇とか光に関係なく、自分は光であろうとする。
いつも成功するとは限りませんが、可能な限り光でありたい。
それはとっても大変な道でもあり、逆に一番ラクでもあります。
光であると言うと大仰ですが、言い換えるなら愛であると言うことです。
愛ってなんだ、恋愛のことか。
そうではなくて、ええと、まあ愛とはこういうことです(先日の日記「愛と心理療法」参照)。
おひまでしたらこちらもどうぞ(「あなたの中の最良のものを」(マザーテレサのことば))。
愛とか優しさと言うとヘタレの妄想くらいに思っておいでの方もおいででしょうが
そんな薄っぺらなもんではありません。
生まれついて愛にあふれる稀な魂の方もおいででしょうが、私のような俗人は、愛は長い長い試行錯誤と修練の道です。愛への長い道。宗教家は神への長い道と言うかもしれません(どっちでもいいです)。
それは人生の闇と向かい合い、深く絶望し、現実の過酷さを認めた上での道です。
ちょっと話がそれますが、田舎に住む私の母はもう四半世紀近くも患っております。
膠原病の一種でして、難病の指定を受けるには、わずかに条件が足りず、行政の補助はありません。
自費で治療を続けていますが、完治するようなものではなく、いかに病状を抑え、進行を食い止めるかが関の山です。
手足の関節の腫れと痛みは一様ではなく、ひどかったころは
トイレでしゃがんで、用を足して立つころには、便器の前の床に、汗と涙で水溜りができていたそうです。
それはもう毎日が苦痛との戦いであり、その苦しみは誰にも(同じような病でお悩みの方以外)わからないと思います(息子の私も推測するだけです)。
その母が、内臓に腫瘍ができたことがあります。
診察を受けて癌かもしれないと医師に告げられ
帰り道、母は
うれしくてうれしくて仕方がありませんでした。
これで長い長い苦しみから解放されるからです。
普通、癌宣告といえば、人生の崩壊とか、耐えられない絶望の代名詞として扱われるものですが
筆舌に尽くしがたい苦しみの中で生きてきた母には、天から指した一条の光でした。
病院からの帰り道、こぼれる笑みを禁じえなかったと言います。
しかし
幸か不幸か
母は癌ではありませんでした。
手術はしましたが
それから十年以上。
母は今も生きています。
幸い、私のつまの紹介した病院の先生の治療が体に合い、最悪だったときに比べればずっとラクに落ち着いた日々です。
母はつまを命の恩人と言います。
同じころ同じ病で通院していた仲間はみんな亡くなってしまいました。
母は平凡なただの田舎のおばさん(いやお婆さん)ですが
彼女なりに前向きに、可能な限り善意で生きています。
私も母も「自殺」には共感しないもので、死が迎えにくる日まで、謹んで今日を生きるでしょう。
細かいことは申しませんが
私の見つめてきた絶望も、母にこそ及びませんが、それに近いものがあります。
過酷な現実も、母にこそ及びませんが、なみなみならぬものがあります。
精一杯ベストを尽くして命ある限り今を生きますが、明日死ぬと言うならそれも良しです。
人生も漫画界も、いっぱい悲しいことがあります。
だからって、自分まで悲しい存在になることはないです。
こういう話はどこまで具体的にしたものか、そのバランスが難しいです。
自分のリスカ体験を告白して、売名行為だと非難されたタレントさんもおいでです(真偽は私にはわかりません。ファンでもないですし、詳細はわかりません)。
自分の不幸をさらすことで、人の注目や同情を買おうという人はいっぱいいます(「痛み」や「不幸」を取引の手段にするわけです)。
じゃあ、反対に、何も不幸はないような顔で、幸せいっぱい、いつもOKでイケイケなふうを装う。
それも何か不自然です。
倒産間際の会社が、順調経営を装っているような
一種の詐欺の臭いさえします。
一番いいのは、裏も表も、過度にさらすことも隠すこともない。
自然体でいることでしょうか。
でも口で言うのは簡単ですが、どこがジャストのバランスか。
なかなか判断できません。
今回ちょこっと私が踏み込んで語りましたのは
愛とか希望とか光とかいうことが、恵まれた人間のきれいごと「机上の空論」だと、決め付けないでいただければという想いからです。
ネタがなくなったところから何かを作り出せてこそプロ(の漫画家)だと言います。
希望の見えない状態で、明日のわからない状態で、どう顔を上げて歩くかがミソです。
何一つ人生にストレスもフラストレーションもない方が、金をはらって娯楽を求めたりはなさいません。
漫画を買って読んでくださるということは、そこに何がしかのお気晴らしを求めておられるということです。
私は、漫画という商品を通じて、お客様の人生に少しでもエールを送れたらと思うものです。
なかなか成功しないことも多いんですけど(爆
人生に絶望していたり
業界関係の方では業界に絶望していたり
色々な方がおいででしょうが
どうかくじけないでいただきたいです。
そこがどうにも息苦しくて、ほかに移るほうが幸せなら移るも良し。
悔いのないよう生きればいいです。
なんだかジジイのセッキョみたいになっちゃったかもですが
私の話はセッキョではありません。
なぜなら「~~すべきです」とか「~~ねばなりません」とかは一切言わないからです。
そんな決めつけを人にするつもりはありません。
ただこんな生き方もありますというデータの一例をアップしているだけです。
お気に召さない方は遠慮なくスルーなさってください。
自分の言ってることはもしかしたらアホでおかしなことかも知れない。その可能性はいつも思っています。
今これを読んでくださった方に、少しでもよい風が吹きますように。
一晩語り明かしても語りつくせないテーマですが、ひとまず今夜はここで置きます。
手を代え品を代えまた語ります。
ありがとうございました。乱文ご容赦。ではでは。
追記
山本は、本当に綱渡りで生き抜いてきた漫画家です。
最近の環境問題のドキュメンタリなんか見ていると、気温がほんの少し変わっただけで絶滅する生物とか出てきますが、まああんなもんです(笑
世界ではきょうも人知れず、多くの生物が絶滅しているそうですが
山本もそんな生物の一つです。
あれ?
そういえば最後に見たのはいつだっけ?
とか思ったときは、もう滅びてるかもしれません。
機会ある限り
またお会いしましょう♪
先ごろからの漫画界の問題とも関係がありますし、もっと大きな人生一般の問題でもあります。
シビアな現実は知りたくない、と言う方はお読みにならないでください。
ただ一つお断りしたいのは
私はいついかなる時でも、光と希望を目指しているということです。
シビアな現実を語るのは、自分や読む人をいたずらに不安にさせたり、絶望させて生きる希望をなくさせるためではなく(そういう虚無主義のメッセは絶対送る気がありません)、厳しい現実に対処するにはまず現実を認めることから始める必要があるという前提からです。
現実と向かい合うことは、希望や明日へのプロセスの一つ、始めの一歩にほかなりません。
でも世の中にはどうでも夢が見たいという方もおいでです。
あるコミュニティの書き込みで、漫画やイラスト業界のギャラ問題が取り上げられていて、相場を書いた方に対して、おまえは業界の先輩づらして知識をひけらかし、若者の夢を奪うひどいやつだ、みたいな意見をお見かけしました。
私には、その原稿料の相場を書かれた方が、そんな悪意や後進に対する優越感で書かれたとは、どうしても思えなかったのですが、どうでも現実を見ないで夢を見ることが必要と思われる方もおいでということです。
私には共感できないものですが、その方のお気持ちは尊重しますし、あえて侵害するつもりもありません。そういう方はお読みにならないでください。
読者に夢を与える仕事は、夢だけ見ていても成り立たないと私は思っています。
何も考えないで楽しめる作品は、色々考えないと作れないのと同じです。
私は19歳でデビューしてこれまで30年、生活の基盤をずっと漫画において生きてきました。
私の人生はほとんど漫画と同義語であり、私の知る人生の光と闇は、ほとんどが漫画界に関わるものです。
私が自分の体験をふまえて人生を語れば、それは大半が漫画界の話にもなります。
人生は一寸先はわかりません。
さっきまで楽しそうに笑っていた人が一瞬先には違っていたりします(そういう悲しい事件があります)。
私は若いころから心配性で、つまには「杞の国の住人」と呼ばれていました。
杞の国というのは大昔の中国にあったという国の名前で、そこの住人はみんな心配性で
いつ空が落ちてくるかと不安に思って暮らしていたということです(笑
ごぞんじ「杞憂(きゆう)」(無駄な心配)というコトバの語源です。
何年か前、マスコミをにぎわせた人のセリフで「想定内」というのがありました。
心配性の私は、昔からすべてのことを「想定内」にすることを心がけて生きてきました。
最愛の妻が買い物にでかける後ろ姿を見送りながら
「ああ、この姿を見るのも、もしかしたらこれが最後かもしれないな」
と思いながら、見送ったものです(若いころからです)。
ですんで、たいがいのことにはハラをくくっています。
漫画家は明日をも知れない職業です。
一本連載が終了するたびに「失業」しているのであり
一般のカタギな労働者と違い「失業保険」もありません(自営業の方はみなそうですが)。
なんの保障もなく放り出されます。
連載を終わるからと、出版社が「退職金」をくれるわけでもありません(ささやかですが、それに近い厚意を示してくださった出版社が一つだけありましたが、30年の漫画家人生でその一件だけでした。社長さんのご人徳以外の何物でもありません。私はその方を忘れません)。
ですから、そうなった時のために、余力のある作家は金をためます。
ない作家は貯められません(私もそうです)(笑
私のような、綱渡りの漫画家人生を送ってきた人間にとっては、明日の保障、安心感などというのは
遠く彼方の空に浮かぶ雲のように、はるかな縁遠いものです(そもそも漫画家などという職業を選んだ段階で安定した人生などとはさようならを覚悟するべきですが)。
入った金は、みんな日々の暮らしや、次の作品の取材に消えます。
業界のある大先輩(面識はありませんが、私が学生のころから一線で描いておられた有名な方)は、編集さんからの又聞きですが、膨大な費用を取材につぎ込むそうです。
百万から場合によっては一千万(!)
大変絵のうまい方で、ほとんどを一人で描かれる(技術的に手伝える人がいない)ため量産もきかない。
ただ誠実に作品の完成度を上げることにまい進しておいでです。
「だからうちはいまだに貧乏です」
と奥様が言われたそうですが、えー?あんなすごい先生がそおなの?って、聞いたときは絶句しました。
なんだ、金もうけが下手なヘタレじゃないかと笑う方もおいででしょうが、私は深く敬意を表します。
私にはとてもそこまでやれません(近年、一人で描いてるのは同じですが)。
一般社会と同様に、漫画界も様々な悪意やアクシデントに満ちています。
それは身を持って体験してきました。
少し前になりますが、金城武さん主演で映画にもなった小説『不夜城』の漫画化を請け負ったことがあります(角川書店から全一巻で刊行されました)。
原作の小説は、歌舞伎町に暮らす中国人黒社会と深く関わる主人公が、いくつもの犯罪勢力の間をあの手この手で生き抜いて、大切なものや友人、恋人を失いながらも、明日を目指すという話です。
私はその必死な生き様に、深く共感しました。
犯罪こそ犯しはしませんでしたが、主人公の必死さは自分の生き方そのものに思えたからです。
あっちの組織やこっちの組織、様々なグループと付き合いながら、時には小便ちびりそうになりながらも平静を装い、親分のツッコミをかわしたり、言うこと聞かないチンピラをビビらせたり
ありとあらゆる手段で生き抜く主人公。
ああ、俺も覚えがあるよ!(笑
若いころは色々したし、されたなあ!(黒社会じゃなくて漫画界だけど)
裏切りなんかもいっぱいあったし、そんなことで凹んでたら命がいくつあっても足りないよ!(泣笑
少しネタバレになるので嫌な方は十数行飛ばしてください。
主人公は物語のクライマックスで、恋人の女性に殺されかけます。彼女も生きるのに必死で、そのため主人公に向かって銃の引き金を引くのです。
わけあって主人公は助かるのですが、彼女に言います。
「おまえは正しいことをしたんだ」
そうです。
みんな生きることに必死。裏切りもするでしょう。自分だって同じ立場なら同じように引き金を引いたかもしれない。だからおまえは間違ってない。おれはおまえを恨みもしない。
そして彼女を射殺します。
生きるために。
殺した女を抱いて慟哭する主人公に、私も泣きました。
エルロイの暗黒小説などと同様、『不夜城』の世界には、甘い希望はありません。
ひたすら悪夢の底のようなまとわりつく闇の中を、もがきながら生き抜く主人公の生への姿勢が描かれています。
『不夜城』を漫画化した時点の私には、そこまでしか思いつきませんでした。
あれから十年近くが経過して、今は色々違っています。
人生は、世界は、さまざまな闇や理不尽に満ちている。
その現実は変わりませんが
光もまたある。
一寸先は闇でもあり光でもある。
その現実の中で、自分は何を選び何を目指すか。
闇の中で闇であるのか、闇の中でも輝くか。
私は光でありたいと思います。
闇の中で闇であるのはたやすいことです。
悪意の中で悪意であるのもたやすいことです。
光の中で光であるのもまた同じ。
何から何まで満ち足りた「いい気分」な日には、鬼のような犯罪者でも、ちょっと誰かに親切心を抱いたりすることもあるでしょう。
そうじゃなくて
闇とか光に関係なく、自分は光であろうとする。
いつも成功するとは限りませんが、可能な限り光でありたい。
それはとっても大変な道でもあり、逆に一番ラクでもあります。
光であると言うと大仰ですが、言い換えるなら愛であると言うことです。
愛ってなんだ、恋愛のことか。
そうではなくて、ええと、まあ愛とはこういうことです(先日の日記「愛と心理療法」参照)。
おひまでしたらこちらもどうぞ(「あなたの中の最良のものを」(マザーテレサのことば))。
愛とか優しさと言うとヘタレの妄想くらいに思っておいでの方もおいででしょうが
そんな薄っぺらなもんではありません。
生まれついて愛にあふれる稀な魂の方もおいででしょうが、私のような俗人は、愛は長い長い試行錯誤と修練の道です。愛への長い道。宗教家は神への長い道と言うかもしれません(どっちでもいいです)。
それは人生の闇と向かい合い、深く絶望し、現実の過酷さを認めた上での道です。
ちょっと話がそれますが、田舎に住む私の母はもう四半世紀近くも患っております。
膠原病の一種でして、難病の指定を受けるには、わずかに条件が足りず、行政の補助はありません。
自費で治療を続けていますが、完治するようなものではなく、いかに病状を抑え、進行を食い止めるかが関の山です。
手足の関節の腫れと痛みは一様ではなく、ひどかったころは
トイレでしゃがんで、用を足して立つころには、便器の前の床に、汗と涙で水溜りができていたそうです。
それはもう毎日が苦痛との戦いであり、その苦しみは誰にも(同じような病でお悩みの方以外)わからないと思います(息子の私も推測するだけです)。
その母が、内臓に腫瘍ができたことがあります。
診察を受けて癌かもしれないと医師に告げられ
帰り道、母は
うれしくてうれしくて仕方がありませんでした。
これで長い長い苦しみから解放されるからです。
普通、癌宣告といえば、人生の崩壊とか、耐えられない絶望の代名詞として扱われるものですが
筆舌に尽くしがたい苦しみの中で生きてきた母には、天から指した一条の光でした。
病院からの帰り道、こぼれる笑みを禁じえなかったと言います。
しかし
幸か不幸か
母は癌ではありませんでした。
手術はしましたが
それから十年以上。
母は今も生きています。
幸い、私のつまの紹介した病院の先生の治療が体に合い、最悪だったときに比べればずっとラクに落ち着いた日々です。
母はつまを命の恩人と言います。
同じころ同じ病で通院していた仲間はみんな亡くなってしまいました。
母は平凡なただの田舎のおばさん(いやお婆さん)ですが
彼女なりに前向きに、可能な限り善意で生きています。
私も母も「自殺」には共感しないもので、死が迎えにくる日まで、謹んで今日を生きるでしょう。
細かいことは申しませんが
私の見つめてきた絶望も、母にこそ及びませんが、それに近いものがあります。
過酷な現実も、母にこそ及びませんが、なみなみならぬものがあります。
精一杯ベストを尽くして命ある限り今を生きますが、明日死ぬと言うならそれも良しです。
人生も漫画界も、いっぱい悲しいことがあります。
だからって、自分まで悲しい存在になることはないです。
こういう話はどこまで具体的にしたものか、そのバランスが難しいです。
自分のリスカ体験を告白して、売名行為だと非難されたタレントさんもおいでです(真偽は私にはわかりません。ファンでもないですし、詳細はわかりません)。
自分の不幸をさらすことで、人の注目や同情を買おうという人はいっぱいいます(「痛み」や「不幸」を取引の手段にするわけです)。
じゃあ、反対に、何も不幸はないような顔で、幸せいっぱい、いつもOKでイケイケなふうを装う。
それも何か不自然です。
倒産間際の会社が、順調経営を装っているような
一種の詐欺の臭いさえします。
一番いいのは、裏も表も、過度にさらすことも隠すこともない。
自然体でいることでしょうか。
でも口で言うのは簡単ですが、どこがジャストのバランスか。
なかなか判断できません。
今回ちょこっと私が踏み込んで語りましたのは
愛とか希望とか光とかいうことが、恵まれた人間のきれいごと「机上の空論」だと、決め付けないでいただければという想いからです。
ネタがなくなったところから何かを作り出せてこそプロ(の漫画家)だと言います。
希望の見えない状態で、明日のわからない状態で、どう顔を上げて歩くかがミソです。
何一つ人生にストレスもフラストレーションもない方が、金をはらって娯楽を求めたりはなさいません。
漫画を買って読んでくださるということは、そこに何がしかのお気晴らしを求めておられるということです。
私は、漫画という商品を通じて、お客様の人生に少しでもエールを送れたらと思うものです。
なかなか成功しないことも多いんですけど(爆
人生に絶望していたり
業界関係の方では業界に絶望していたり
色々な方がおいででしょうが
どうかくじけないでいただきたいです。
そこがどうにも息苦しくて、ほかに移るほうが幸せなら移るも良し。
悔いのないよう生きればいいです。
なんだかジジイのセッキョみたいになっちゃったかもですが
私の話はセッキョではありません。
なぜなら「~~すべきです」とか「~~ねばなりません」とかは一切言わないからです。
そんな決めつけを人にするつもりはありません。
ただこんな生き方もありますというデータの一例をアップしているだけです。
お気に召さない方は遠慮なくスルーなさってください。
自分の言ってることはもしかしたらアホでおかしなことかも知れない。その可能性はいつも思っています。
今これを読んでくださった方に、少しでもよい風が吹きますように。
一晩語り明かしても語りつくせないテーマですが、ひとまず今夜はここで置きます。
手を代え品を代えまた語ります。
ありがとうございました。乱文ご容赦。ではでは。
追記
山本は、本当に綱渡りで生き抜いてきた漫画家です。
最近の環境問題のドキュメンタリなんか見ていると、気温がほんの少し変わっただけで絶滅する生物とか出てきますが、まああんなもんです(笑
世界ではきょうも人知れず、多くの生物が絶滅しているそうですが
山本もそんな生物の一つです。
あれ?
そういえば最後に見たのはいつだっけ?
とか思ったときは、もう滅びてるかもしれません。
機会ある限り
またお会いしましょう♪
Bbmf社のケータイ配信漫画『戦闘女神アヌンガ』の打ち合わせより帰還。
8~9話コンテOKいただきました♪(担当さん、雨の中遠路はるばるお疲れ様でした)。
きょう初めて配信中の画像を見せていただいたのですが
色々見せ方に工夫があって感激しました。
すでに三話目まで配信されています(一体目の敵、魔神ヴガジ編完結)。
徹夜でコンテやって、本当は10話までプリコンテ完成してたんですが、清書(担当さんに解読可能なコンテに直す)が9話までしか間に合いませんでした。ので10話はこれから寝て起きてからやります。
漫画家と編集者問題その他について、色々な知り合い、友人などから情報をいただいてます。
漫画誌における広告のありかたについても、大変興味深い話を聞きましたので、また後ほどアップいたします。ではでは~~;
漫画家の原稿料はいくらぐらいが妥当か
という問題は、一概に答えの出せない問題で
その苦労に見合った代金をマジに請求した場合、正直拒否される確立が高いように思うのですが(笑
たとえば市販の車だとか様々な製品には、その開発費用とか広告費用(テレビCMなど含む)が上乗せされて価格設定されていますよね。
漫画の場合、その取材費、画材などの材料費、期日に間に合わせるために必要なアシスタント代、徹夜続きで製作するための光熱費などなど・・・
全部上乗せして妥当な額をもらってる作家がどれくらいいるのか。
正直少数じゃないかと思うものです(笑
私なども、正直はらっている労力を思えば、これくらいは・・・という額はあるのですが、私の人気度を考えれば論外な額なことは議論を待たないので、そんな額は請求しません(笑われるだけですから)。
私の場合はだいたいの上限下限を幅を持たせて設定してまして、依頼を下さる出版社さんの体力に応じて請求額を代えることにしています。
大手の出版社さんとマイナーな出版社さんとは数千円の差があります。
数千円安ければ数千円分手を抜くというわけではなく、乗ってしまえば関係ありません(だいたい執筆しながら、この1コマでいくらの金とか考えながら描く漫画家さんっているんでしょうか?いないとは言いませんが少数派じゃないでしょうか)。
で、今回の本題ですが
原稿料の額は安すぎても困るのですが高すぎても困る。
高過ぎると依頼が来なくなる恐れが、という話は、すでにあちこちで書かれていますが、
もう一歩踏み込んで
出版社サイドがこの原稿料を、作家を囲い込むための手段として使う場合があります。
他誌にその先生を取られないために原稿料を値上げするわけで
業界のことを知らない新人漫画家さんは
「やった!この編集部は自分のことをこんなに評価してくれてるんだ!」
と感激されるでしょうが、
なんのことはない金でバリアを張られたわけで
人気がなくなれば放り出されて、誰もそんな高い原稿料の人気のない作家なんか仕事を頼みに来ないというシビアな現実に直面します。
大出版社の方からそういう例を聞いたことがありますし、
マイナーな出版社の方からもあります。
昔あるマイナー出版社の編集さんだった友人は
若いころ、すごく才能のある新人さんと出会い、売り上げを伸ばして上司からも評価されたのですが
会社が高額の原稿料でその漫画家を囲いこもうとするのを見て
その漫画家さんに
「あなたは、うちみたいなマイナー誌で終わる才能の人じゃない。もっとメジャーな雑誌で活躍されるにふさわしい人です」
と、有名メジャー誌に送り出してしまった。
社内ではそのためバカ無能呼ばわりされて、結局いづらくなって辞めることになりました。
編集者と言うとみんな漫画家のことなんか考えてない会社の手先みたいに思っておいでの方もいらっしゃいますが
そういう「誠(まこと)」のある方もおいでなわけです(だから信頼できる友人なんですが)(笑)。
ちなみにその漫画家さんはいまだに一線で活躍しておいでの有名作家さんです。
漫画家の原稿料の低さは問題だと思いますが
上がったら上がったで身を滅ぼす場合もある。
これまた難しい問題を抱えているものです。
追記
居酒屋さんなどで、土曜日○○半額セールみたいなのありますよね。
漫画家も依頼を受けるために、土曜日原稿半額セールとかやったら仕事が来るんじゃないかって冗談考えたことがあります。
ただしお一人様二枚まで、とか。
アクション漫画とかどうすんだよ(話なんにも入らなくて商品になりません)(爆
追記2
原稿料の高さでは、いわゆる大家と呼ばれる方々
一ページが二桁になるわけですが
私がこれまで聞いた最高額は30万円台でした。どなたとは申しませんが、聞けば知らない方はいらっしゃらない方です(イニシャルだけでバレるのでそれも伏せます)。ちなみに私の聞いた範囲では二人いらっしゃいます。
もう異次元の価格です(笑
という問題は、一概に答えの出せない問題で
その苦労に見合った代金をマジに請求した場合、正直拒否される確立が高いように思うのですが(笑
たとえば市販の車だとか様々な製品には、その開発費用とか広告費用(テレビCMなど含む)が上乗せされて価格設定されていますよね。
漫画の場合、その取材費、画材などの材料費、期日に間に合わせるために必要なアシスタント代、徹夜続きで製作するための光熱費などなど・・・
全部上乗せして妥当な額をもらってる作家がどれくらいいるのか。
正直少数じゃないかと思うものです(笑
私なども、正直はらっている労力を思えば、これくらいは・・・という額はあるのですが、私の人気度を考えれば論外な額なことは議論を待たないので、そんな額は請求しません(笑われるだけですから)。
私の場合はだいたいの上限下限を幅を持たせて設定してまして、依頼を下さる出版社さんの体力に応じて請求額を代えることにしています。
大手の出版社さんとマイナーな出版社さんとは数千円の差があります。
数千円安ければ数千円分手を抜くというわけではなく、乗ってしまえば関係ありません(だいたい執筆しながら、この1コマでいくらの金とか考えながら描く漫画家さんっているんでしょうか?いないとは言いませんが少数派じゃないでしょうか)。
で、今回の本題ですが
原稿料の額は安すぎても困るのですが高すぎても困る。
高過ぎると依頼が来なくなる恐れが、という話は、すでにあちこちで書かれていますが、
もう一歩踏み込んで
出版社サイドがこの原稿料を、作家を囲い込むための手段として使う場合があります。
他誌にその先生を取られないために原稿料を値上げするわけで
業界のことを知らない新人漫画家さんは
「やった!この編集部は自分のことをこんなに評価してくれてるんだ!」
と感激されるでしょうが、
なんのことはない金でバリアを張られたわけで
人気がなくなれば放り出されて、誰もそんな高い原稿料の人気のない作家なんか仕事を頼みに来ないというシビアな現実に直面します。
大出版社の方からそういう例を聞いたことがありますし、
マイナーな出版社の方からもあります。
昔あるマイナー出版社の編集さんだった友人は
若いころ、すごく才能のある新人さんと出会い、売り上げを伸ばして上司からも評価されたのですが
会社が高額の原稿料でその漫画家を囲いこもうとするのを見て
その漫画家さんに
「あなたは、うちみたいなマイナー誌で終わる才能の人じゃない。もっとメジャーな雑誌で活躍されるにふさわしい人です」
と、有名メジャー誌に送り出してしまった。
社内ではそのためバカ無能呼ばわりされて、結局いづらくなって辞めることになりました。
編集者と言うとみんな漫画家のことなんか考えてない会社の手先みたいに思っておいでの方もいらっしゃいますが
そういう「誠(まこと)」のある方もおいでなわけです(だから信頼できる友人なんですが)(笑)。
ちなみにその漫画家さんはいまだに一線で活躍しておいでの有名作家さんです。
漫画家の原稿料の低さは問題だと思いますが
上がったら上がったで身を滅ぼす場合もある。
これまた難しい問題を抱えているものです。
追記
居酒屋さんなどで、土曜日○○半額セールみたいなのありますよね。
漫画家も依頼を受けるために、土曜日原稿半額セールとかやったら仕事が来るんじゃないかって冗談考えたことがあります。
ただしお一人様二枚まで、とか。
アクション漫画とかどうすんだよ(話なんにも入らなくて商品になりません)(爆
追記2
原稿料の高さでは、いわゆる大家と呼ばれる方々
一ページが二桁になるわけですが
私がこれまで聞いた最高額は30万円台でした。どなたとは申しませんが、聞けば知らない方はいらっしゃらない方です(イニシャルだけでバレるのでそれも伏せます)。ちなみに私の聞いた範囲では二人いらっしゃいます。
もう異次元の価格です(笑
漫画編集部の原稿紛失ですが
私も何度か経験があります。
私のサイト「あつじ屋」で以前書きました内容と一部重複しますが、改めて申し上げますと
私が駆け出しのころアシスタントをさせていただいた友人や先輩漫画家さんにも被害者はおいででした。
当時売れっ子の漫画家さんでも、連載漫画の途中の何枚かをなくされてコピーを渡され
「すまないね」
で済まされたという話も聞きました(その雑誌社のドル箱ですよ)。
私も丸々一話単位でなくされた原稿があります。
あまりに古い作品で、賠償請求もせずにすませました(そういうおまえみたいな奴がいるから、漫画界の体質が変わらないんだ!と言われれば、返す言葉もありません)。
ずいぶん昔の話です。
また、某社から返却されたカラー原稿が何枚も、画面の端が水にぬれてカラーインクが滲んで修復不能というケースもありました(おそらく編集部に保管中に暖房の結露かなにかでやられたと思われます)。
電話を入れると、編集長と担当さんがお詫びに見えられ、いくばくかのお金をいただきました。
誠心誠意謝ってくださいましたし、修復不能と言っても画面の端でしたし、それ以上追い込むつもりもなく、終わりました。
蛇足ですが、私の代表作『エルフ17』(最初の白泉社版のほか、二社から復刻版が出ています)も、途中原稿が何枚が紛失しており、もはや完全な形では残っていません。幸い、フィルムが残っていたので復刻版が出せているのです。これも私は紛失原稿の賠償請求はしませんでした、なくした出版社(どの出版社かは伏せます)にも責任はあるでしょうが、返却を要請せず何年も放置していた私にも責任があると思ったからです。
私が昔聞いた紛失原稿の賠償額の相場は
白黒が原稿料の三倍
カラーが五倍というものでしたから
今回問題となっている編集部の提示額は、おそらくそのライン(業界の常識というのでしょうか)に沿ったものと推察されます。
それが妥当かどうかは、私には判断できません。
私の場合、執筆はどんなときも全力投球で行っていますが(体調や精神状態の良し悪しで出来不出来が変わります)これは自分でも気に入った改心の作というのはめったにありません。
別に手を抜いてるのではなく、限られた時間内で限られたことしかできないのが商業誌の宿命で、もっと手を入れたかったけど仕方ないなあという残念な想いがたいてい残るからです。
しかしたまに、自分でもベストの(その時点での)できだったなあという絵もあり
それが傷つけられたり無くされたら
他の絵とは違ったショックを受けると思います。
それがいったい賠償額とどう結びつくのか、専門知識がないのでわかりません。
業界には色々謎の事件があり
これも10年以上昔のことで記憶があいまいなんですが
ある先生など単行本一冊分の原稿をまるまる無くされ
付き合いのあった誠実で力の在る編集さん(問題の原稿の担当ではない)に相談したところ、少し動きがあったところで
差出人不明でまるまる原稿が送りつけられてきたという話を聞いたこともあります。
作家さんも相談を受けた編集さんも「???」なまま終わった事件でした。
想像ですが、返却を忘れた編集さんか誰かが、バツが悪くて(謝るのも面倒で)無記名で送り返されたのではないかと・・・;
ちなみに
私はここ数年、手描き原稿をスキャンしてパソコンに入れ、フォトショップで仕上げたものを完成稿にしています。
プリントアウトでお渡しする場合とデータでお渡しする場合とありますが(編集部によります)
いずれにしても原稿紛失の問題はもはや発生しません。
ただ、まだまだデジタル導入作家は業界では少数派で、週間連載の作家さんは大半がアナログ手描き原稿ですから、まだ当分は今回のようなトラブルは絶えないものと思われます。
これは私の知り合いの受け売りですが、原稿を受け取った編集部がソッコーでスキャン、データ化して、生原稿をすぐに作家に返却することで、かなりのものが防げるはずです。
業界のデジタル化がいくら進んでも、自分はどうしてもアナログで描くという方はおいででしょうから、早急な対策が望ましいと思うものです。
追記
漫画家のデジタル化を阻む原因が二つあると思われます。
新人さんの場合はお金です。
いわゆる初期投資というやつがかかります。
専門学校で漫画講師をしている友人(複数)の証言だと、やはり生徒さんでデジタル作画を導入している人はまだ少数派だそうです。
うちはメインのパソコンとスキャナ、タブレット(タブレットペン含む)、プリンタでワンセットですが、プロの刑事や殺し屋がバックアップと言って予備の銃を別に持つように、急な故障に備えて予備のマシンをもうワンセットそろえてあります(プロとしての勤めだと思いますので)。
締め切り間際でクラッシュしても即予備システムに切り替えられるのと、格システムを家庭内LANで結び外付けのハードディスクにデータを保存、どのマシンからもアクセス可能なため、原稿をスキャンする際はメインと予備を同時に起動して高速で取り込んでいける強みもあります。
ただ、漫画の原稿はB4サイズが基本であり、それに対応したスキャナとなるとA3しかありません。
私はもっともコストパフォーマンスと信頼性を考慮して推奨するのはEPSONのA3スキャナです。
うちの機種はもう何年か前の旧型機ですが、スキャナ一台で十数万円、追加のパーツで取り込み高速化を計るのにもう数万かかってます。
システムひとセットが数十万となります。
そういうシステムをそろえる資金を、これから漫画家を目指す貧しい学生さんなどが調達するのはかなり大変だと思われます(うちも貧しい漫画家なんで苦労しました)(爆
蛇足を言うと、A3スキャナは巨大で、大変場所をとります。ほとんど机の半分以上(へたすればまるまる一個)を占領します。
これもネックの一つでしょう。
A4サイズのスキャナで1ページを分割して取り込んでPC内で合成してる方もおいでですが、締め切り間際のタイムアタック状態では辛いものがあります。
一方、雑誌でばりばり執筆中の財力に余裕のある漫画家さんの場合は別の問題点があります。
先生もアシスタントさんも、新しい技術を学んでいる暇がないことです。
デジタル対応のシステムを導入したのはいいけど、不慣れでその週の原稿が間に合いませんでしたでは、本末転倒。
出版社のパーティなどで話をすると、えっ?あんな若手で流行の先端っぽい先生が、完全アナログ?みたいなケースにしばしば出会うのですが、そういう理由もあるのではないかと思います。
無論根っからデジタル嫌いアナログが好きという方もおいでで
それはそれでありだと思うものです。
デジタルを導入している漫画家さんの中には、パソコン技術のあるアシスタントさんしか雇わないという方もおいでですし、授業料を払ってアシスタントさんをパソコン講座に通わせる人までいます。
若い方の中には、十代からデジタル専門で、はなからタブレットでしか絵を描かないという方も出て来ていらっしゃいますし
本当に色々な方がおいでです。
私も何度か経験があります。
私のサイト「あつじ屋」で以前書きました内容と一部重複しますが、改めて申し上げますと
私が駆け出しのころアシスタントをさせていただいた友人や先輩漫画家さんにも被害者はおいででした。
当時売れっ子の漫画家さんでも、連載漫画の途中の何枚かをなくされてコピーを渡され
「すまないね」
で済まされたという話も聞きました(その雑誌社のドル箱ですよ)。
私も丸々一話単位でなくされた原稿があります。
あまりに古い作品で、賠償請求もせずにすませました(そういうおまえみたいな奴がいるから、漫画界の体質が変わらないんだ!と言われれば、返す言葉もありません)。
ずいぶん昔の話です。
また、某社から返却されたカラー原稿が何枚も、画面の端が水にぬれてカラーインクが滲んで修復不能というケースもありました(おそらく編集部に保管中に暖房の結露かなにかでやられたと思われます)。
電話を入れると、編集長と担当さんがお詫びに見えられ、いくばくかのお金をいただきました。
誠心誠意謝ってくださいましたし、修復不能と言っても画面の端でしたし、それ以上追い込むつもりもなく、終わりました。
蛇足ですが、私の代表作『エルフ17』(最初の白泉社版のほか、二社から復刻版が出ています)も、途中原稿が何枚が紛失しており、もはや完全な形では残っていません。幸い、フィルムが残っていたので復刻版が出せているのです。これも私は紛失原稿の賠償請求はしませんでした、なくした出版社(どの出版社かは伏せます)にも責任はあるでしょうが、返却を要請せず何年も放置していた私にも責任があると思ったからです。
私が昔聞いた紛失原稿の賠償額の相場は
白黒が原稿料の三倍
カラーが五倍というものでしたから
今回問題となっている編集部の提示額は、おそらくそのライン(業界の常識というのでしょうか)に沿ったものと推察されます。
それが妥当かどうかは、私には判断できません。
私の場合、執筆はどんなときも全力投球で行っていますが(体調や精神状態の良し悪しで出来不出来が変わります)これは自分でも気に入った改心の作というのはめったにありません。
別に手を抜いてるのではなく、限られた時間内で限られたことしかできないのが商業誌の宿命で、もっと手を入れたかったけど仕方ないなあという残念な想いがたいてい残るからです。
しかしたまに、自分でもベストの(その時点での)できだったなあという絵もあり
それが傷つけられたり無くされたら
他の絵とは違ったショックを受けると思います。
それがいったい賠償額とどう結びつくのか、専門知識がないのでわかりません。
業界には色々謎の事件があり
これも10年以上昔のことで記憶があいまいなんですが
ある先生など単行本一冊分の原稿をまるまる無くされ
付き合いのあった誠実で力の在る編集さん(問題の原稿の担当ではない)に相談したところ、少し動きがあったところで
差出人不明でまるまる原稿が送りつけられてきたという話を聞いたこともあります。
作家さんも相談を受けた編集さんも「???」なまま終わった事件でした。
想像ですが、返却を忘れた編集さんか誰かが、バツが悪くて(謝るのも面倒で)無記名で送り返されたのではないかと・・・;
ちなみに
私はここ数年、手描き原稿をスキャンしてパソコンに入れ、フォトショップで仕上げたものを完成稿にしています。
プリントアウトでお渡しする場合とデータでお渡しする場合とありますが(編集部によります)
いずれにしても原稿紛失の問題はもはや発生しません。
ただ、まだまだデジタル導入作家は業界では少数派で、週間連載の作家さんは大半がアナログ手描き原稿ですから、まだ当分は今回のようなトラブルは絶えないものと思われます。
これは私の知り合いの受け売りですが、原稿を受け取った編集部がソッコーでスキャン、データ化して、生原稿をすぐに作家に返却することで、かなりのものが防げるはずです。
業界のデジタル化がいくら進んでも、自分はどうしてもアナログで描くという方はおいででしょうから、早急な対策が望ましいと思うものです。
追記
漫画家のデジタル化を阻む原因が二つあると思われます。
新人さんの場合はお金です。
いわゆる初期投資というやつがかかります。
専門学校で漫画講師をしている友人(複数)の証言だと、やはり生徒さんでデジタル作画を導入している人はまだ少数派だそうです。
うちはメインのパソコンとスキャナ、タブレット(タブレットペン含む)、プリンタでワンセットですが、プロの刑事や殺し屋がバックアップと言って予備の銃を別に持つように、急な故障に備えて予備のマシンをもうワンセットそろえてあります(プロとしての勤めだと思いますので)。
締め切り間際でクラッシュしても即予備システムに切り替えられるのと、格システムを家庭内LANで結び外付けのハードディスクにデータを保存、どのマシンからもアクセス可能なため、原稿をスキャンする際はメインと予備を同時に起動して高速で取り込んでいける強みもあります。
ただ、漫画の原稿はB4サイズが基本であり、それに対応したスキャナとなるとA3しかありません。
私はもっともコストパフォーマンスと信頼性を考慮して推奨するのはEPSONのA3スキャナです。
うちの機種はもう何年か前の旧型機ですが、スキャナ一台で十数万円、追加のパーツで取り込み高速化を計るのにもう数万かかってます。
システムひとセットが数十万となります。
そういうシステムをそろえる資金を、これから漫画家を目指す貧しい学生さんなどが調達するのはかなり大変だと思われます(うちも貧しい漫画家なんで苦労しました)(爆
蛇足を言うと、A3スキャナは巨大で、大変場所をとります。ほとんど机の半分以上(へたすればまるまる一個)を占領します。
これもネックの一つでしょう。
A4サイズのスキャナで1ページを分割して取り込んでPC内で合成してる方もおいでですが、締め切り間際のタイムアタック状態では辛いものがあります。
一方、雑誌でばりばり執筆中の財力に余裕のある漫画家さんの場合は別の問題点があります。
先生もアシスタントさんも、新しい技術を学んでいる暇がないことです。
デジタル対応のシステムを導入したのはいいけど、不慣れでその週の原稿が間に合いませんでしたでは、本末転倒。
出版社のパーティなどで話をすると、えっ?あんな若手で流行の先端っぽい先生が、完全アナログ?みたいなケースにしばしば出会うのですが、そういう理由もあるのではないかと思います。
無論根っからデジタル嫌いアナログが好きという方もおいでで
それはそれでありだと思うものです。
デジタルを導入している漫画家さんの中には、パソコン技術のあるアシスタントさんしか雇わないという方もおいでですし、授業料を払ってアシスタントさんをパソコン講座に通わせる人までいます。
若い方の中には、十代からデジタル専門で、はなからタブレットでしか絵を描かないという方も出て来ていらっしゃいますし
本当に色々な方がおいでです。
先日から、某有名漫画家さんと出版社の問題(原稿紛失に対する処遇に端を発する様々な問題)が一般のニュースでも取り上げられ、話題になっております。
へたに憶測を交えて語っても益がありませんので私はあえて言及しないでおりましたが、昨日はまた、ほかの有名少女漫画家さんも援護射撃をなさっていたようで、大変興味深く拝読しました。
今回の事件はほんの氷山の一角で、漫画業界の一部にそういう問題が昔から根深くあることは事実です。
幸いと言っていいのかどうか、デビュー30年になる私は、今回の事件で語られているようなひどい編集さんには出会ったことがありません。
理由は色々考えられますが、私が特定の出版社で子飼いになっている漫画家ではなく、いわゆる一匹狼というか一匹猫だったことがあるかと思います。
こいつはうちでデビューさせてやったんだ、うちで育ててやったんだというスタンスで付き合われていなかったということですが。
だいたい、これまで接してきた編集さんはほとんどが礼儀正しく、暴言を吐いたり不誠実な対応をする方はおいでになりませんでした。
むしろ困ったのは、あちらも誠実で一生懸命やってくださる、こちらも出来る限り精一杯努めている、でも、どうにも考えが食い違っていて「物別れ」に終わった、というようなケースです。
連載中は私もストレスで体調を崩したりしましたが(もしかしたら編集さんも同様だったかもしれません)これはどちらが「悪」とか「愚か」とか判定できるものではなく、お互い接点が見いだせなくて残念でした、というようなもので
その編集さんとは今でもお付き合いがあります(もはやその方も部署が変わり、私も最近はその編集部で仕事はしていませんが)。
ただ、中には確かに本当に怒りを禁じえない編集さんもおいでで、
こいつは一回なぐってやりたいなと思った人も一人だけありました(なぐりませんでしたけど)(笑
でも、その人も、けしてわけのわからぬ「悪人」だったわけではなく、血も涙もないやり方でこっちとしては大変「痛い」経験だったけど、編集者としてはけして「間違った判断ではない」よなと思ったものです。
一部の出版社における子飼いの漫画家への接し方というのは
いささか極端なたとえかもしれませんが、どこかの植民地における支配者サイドの現地人被支配層へのそれに近いものがあります。
「こいつらは俺たちが支配してやらないと、まともなことなんかできやしないんだ。俺たちが支配してやっているから、こいつらは生活できるんだ。だからこの支配は正義だし、こいつらはこれが幸せなんだ」
それを錦の御旗にして、あらゆる差別、侮辱、非人間的な行為が正当化され、うやむやのうちに葬られていくわけです。
今回の問題は、特定の漫画家の個人的問題ではなく
漫画界の一部に根強く残る、漫画家の「人権問題」と言うことが出来るかもしれません。
日本には労働基準法というものがあるようですが
そんなものはこの世界にありません(存在できるとも思っていませんでしたが)(笑
ちなみにネットで検索した労働基準法の冒頭部を少しコピペします。
「労働基準法
第1条 労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。
この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。(労働条件の決定)
第2条 労働条件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである」
そんなものは漫画界のどこにもありません。
漫画家はだいたい一匹猫であり、団結して「組合」なんか作りません。
私も作りたいと考えたことはないですが、それがまたいいように使われる一因でもあるでしょう。
ちなみに私はいわゆるマルクス・レーニズムには共感しませんので、それにのっとった「労働争議」というものにもあまり興味がありません。
ただ、当面それ以外、上に意見を通す方法が見当たらず、自分たち(あるいは他の方)の生活を守るために真剣に苦心なさっている方がたを否定はしませんし、その想いがかなうことを祈ります。またそのご苦労には敬意を表します。
政治や宗教問題の論争をブログで行うつもりがありませんので、それ以上踏み込んで是非を語ることはしませんが
ぶっちゃけ事実として申し上げますと
この業界には
一種の「下請けいじめ」体質があります。
面倒なことはすべて末端に(つまり作家とそのアシスタントに)押し付け、雇うサイドは責任はなしというものです。
上記の漫画家さんの体験談に
「おれたちは土日休みたいんだ、おまえらはいい金もらってるんだから土日も働け」
という編集さんの話がありましたが
「いい金もらってる」のはほんの一部の売れっ子先生であり、新人は連載をこなすためにアシスタントを何人も雇い、休息もとれず、非人間的スケジュールをこなしたあげく連載が終わったときは借金だけが残ったなどという笑えないケースもままあります(業界用語で言う「連載貧乏」というやつです)。
それがイヤなら漫画界に来るなということなのかもしれませんが
それが健全な体質とはどう考えても思えません。
ちなみに、今回の問題にからんで、漫画家の原稿料のこともあちこちのブログで話題になっていましたが
出版社が新人の賃上げ交渉で使う断りの言い訳の最たるものが
「(大家の)○○先生や××先生でもこの原稿料なんですよ(だから君みたいな新人が何を言う)」
というものです。
これは一見筋が通っているようで、実は逆で
売れっ子の大先生は印税で大金が入るため、原稿料なんかそんなに高額である必要がないのです。
むしろ、印税のあまり入らない新人こそ、まともに暮らせるような最低限の原稿料収入というものが必要なわけです。
また
「ほっておけば毎年1000円ずつ上がる原稿料」
などというのは、ごく限られた恵まれた人のもので、そんな恩恵には浴したことがない作家の方が多いと思います(そういう私も浴していません)(笑
とりあえず、思いついたことのほんの一部をアップしました(全部書いていると仕事が落ちます)(爆
私は、インドの独立運動に一生をささげたガンジーを尊敬するものですが(彼もまた人間であり、多くの欠点や問題もあったことも踏まえた上で、です)
彼が支配者である英国に対してとった
敵にもけして敬意を忘れない
敵の不幸を願うのではなく、ともに生きる道を模索する態度に共感するものです。
敵だ味方だ、正義だ悪だではなく
すべての人が、ともにより良く生きる道を見出せるよう強く強く願っています。
追記
過労死しそうで休みをくれと言ったら罵倒された、といった問題ですが
私がお付き合いのあった編集部は(私が売れっ子でなかったせいもあるでしょうが)(笑)そういうことはありませんでした。
編集さんは誠実に調整を図ってくださいました(異なる複数の出版社で)。
あ、でも知り合いの売れっ子さんは、入院中の集中治療室まで原稿の催促に「侵入」して出入り禁止になった担当さんの話してましたね。やはり超売れっ子になるとそういう目に逢うのかはてさて・・・?
へたに憶測を交えて語っても益がありませんので私はあえて言及しないでおりましたが、昨日はまた、ほかの有名少女漫画家さんも援護射撃をなさっていたようで、大変興味深く拝読しました。
今回の事件はほんの氷山の一角で、漫画業界の一部にそういう問題が昔から根深くあることは事実です。
幸いと言っていいのかどうか、デビュー30年になる私は、今回の事件で語られているようなひどい編集さんには出会ったことがありません。
理由は色々考えられますが、私が特定の出版社で子飼いになっている漫画家ではなく、いわゆる一匹狼というか一匹猫だったことがあるかと思います。
こいつはうちでデビューさせてやったんだ、うちで育ててやったんだというスタンスで付き合われていなかったということですが。
だいたい、これまで接してきた編集さんはほとんどが礼儀正しく、暴言を吐いたり不誠実な対応をする方はおいでになりませんでした。
むしろ困ったのは、あちらも誠実で一生懸命やってくださる、こちらも出来る限り精一杯努めている、でも、どうにも考えが食い違っていて「物別れ」に終わった、というようなケースです。
連載中は私もストレスで体調を崩したりしましたが(もしかしたら編集さんも同様だったかもしれません)これはどちらが「悪」とか「愚か」とか判定できるものではなく、お互い接点が見いだせなくて残念でした、というようなもので
その編集さんとは今でもお付き合いがあります(もはやその方も部署が変わり、私も最近はその編集部で仕事はしていませんが)。
ただ、中には確かに本当に怒りを禁じえない編集さんもおいでで、
こいつは一回なぐってやりたいなと思った人も一人だけありました(なぐりませんでしたけど)(笑
でも、その人も、けしてわけのわからぬ「悪人」だったわけではなく、血も涙もないやり方でこっちとしては大変「痛い」経験だったけど、編集者としてはけして「間違った判断ではない」よなと思ったものです。
一部の出版社における子飼いの漫画家への接し方というのは
いささか極端なたとえかもしれませんが、どこかの植民地における支配者サイドの現地人被支配層へのそれに近いものがあります。
「こいつらは俺たちが支配してやらないと、まともなことなんかできやしないんだ。俺たちが支配してやっているから、こいつらは生活できるんだ。だからこの支配は正義だし、こいつらはこれが幸せなんだ」
それを錦の御旗にして、あらゆる差別、侮辱、非人間的な行為が正当化され、うやむやのうちに葬られていくわけです。
今回の問題は、特定の漫画家の個人的問題ではなく
漫画界の一部に根強く残る、漫画家の「人権問題」と言うことが出来るかもしれません。
日本には労働基準法というものがあるようですが
そんなものはこの世界にありません(存在できるとも思っていませんでしたが)(笑
ちなみにネットで検索した労働基準法の冒頭部を少しコピペします。
「労働基準法
第1条 労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。
この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。(労働条件の決定)
第2条 労働条件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである」
そんなものは漫画界のどこにもありません。
漫画家はだいたい一匹猫であり、団結して「組合」なんか作りません。
私も作りたいと考えたことはないですが、それがまたいいように使われる一因でもあるでしょう。
ちなみに私はいわゆるマルクス・レーニズムには共感しませんので、それにのっとった「労働争議」というものにもあまり興味がありません。
ただ、当面それ以外、上に意見を通す方法が見当たらず、自分たち(あるいは他の方)の生活を守るために真剣に苦心なさっている方がたを否定はしませんし、その想いがかなうことを祈ります。またそのご苦労には敬意を表します。
政治や宗教問題の論争をブログで行うつもりがありませんので、それ以上踏み込んで是非を語ることはしませんが
ぶっちゃけ事実として申し上げますと
この業界には
一種の「下請けいじめ」体質があります。
面倒なことはすべて末端に(つまり作家とそのアシスタントに)押し付け、雇うサイドは責任はなしというものです。
上記の漫画家さんの体験談に
「おれたちは土日休みたいんだ、おまえらはいい金もらってるんだから土日も働け」
という編集さんの話がありましたが
「いい金もらってる」のはほんの一部の売れっ子先生であり、新人は連載をこなすためにアシスタントを何人も雇い、休息もとれず、非人間的スケジュールをこなしたあげく連載が終わったときは借金だけが残ったなどという笑えないケースもままあります(業界用語で言う「連載貧乏」というやつです)。
それがイヤなら漫画界に来るなということなのかもしれませんが
それが健全な体質とはどう考えても思えません。
ちなみに、今回の問題にからんで、漫画家の原稿料のこともあちこちのブログで話題になっていましたが
出版社が新人の賃上げ交渉で使う断りの言い訳の最たるものが
「(大家の)○○先生や××先生でもこの原稿料なんですよ(だから君みたいな新人が何を言う)」
というものです。
これは一見筋が通っているようで、実は逆で
売れっ子の大先生は印税で大金が入るため、原稿料なんかそんなに高額である必要がないのです。
むしろ、印税のあまり入らない新人こそ、まともに暮らせるような最低限の原稿料収入というものが必要なわけです。
また
「ほっておけば毎年1000円ずつ上がる原稿料」
などというのは、ごく限られた恵まれた人のもので、そんな恩恵には浴したことがない作家の方が多いと思います(そういう私も浴していません)(笑
とりあえず、思いついたことのほんの一部をアップしました(全部書いていると仕事が落ちます)(爆
私は、インドの独立運動に一生をささげたガンジーを尊敬するものですが(彼もまた人間であり、多くの欠点や問題もあったことも踏まえた上で、です)
彼が支配者である英国に対してとった
敵にもけして敬意を忘れない
敵の不幸を願うのではなく、ともに生きる道を模索する態度に共感するものです。
敵だ味方だ、正義だ悪だではなく
すべての人が、ともにより良く生きる道を見出せるよう強く強く願っています。
追記
過労死しそうで休みをくれと言ったら罵倒された、といった問題ですが
私がお付き合いのあった編集部は(私が売れっ子でなかったせいもあるでしょうが)(笑)そういうことはありませんでした。
編集さんは誠実に調整を図ってくださいました(異なる複数の出版社で)。
あ、でも知り合いの売れっ子さんは、入院中の集中治療室まで原稿の催促に「侵入」して出入り禁止になった担当さんの話してましたね。やはり超売れっ子になるとそういう目に逢うのかはてさて・・・?
先日つまが、ぶっかけそばを作ってくれました。
普通の冷たいざるそばを丼に入れて、大根おろしと刻みノリをかけて、そばつゆを好きなだけかけて食べるんですが
それはそれで美味しいんですが
なんだかちょっと物足りなかった私は、賞味期限のキムチがあったな、と思い出し
そのキムチといっしょに食べてみました。
うまい♪それもどこか懐かしい味?
なんだろなー、この感じ??と思って食べててふと気づいたのが
「ああ、冷麺だ!」
なんとなく焼肉屋さんで昔食べた冷麺に似てるんですね。
卵もお肉も入ってませんが、あの「面影」のある食感と言うかなんと言うか・・・
いや、私の気のせいかもしれません。だからマネされて「全然違うじゃん、嘘つき!」とか怒らないでください。
キムチのインパクトで蕎麦の香りが飛ぶからいかん!とおっしゃる方もおいででしょう(正論です)。
おやりになる方はあくまで自己責任でトライなさってください。
私は気に入ったのでまたやります。
と言うわけでまたキムチを買ってきました。
わくわくわくわく♪
普通の冷たいざるそばを丼に入れて、大根おろしと刻みノリをかけて、そばつゆを好きなだけかけて食べるんですが
それはそれで美味しいんですが
なんだかちょっと物足りなかった私は、賞味期限のキムチがあったな、と思い出し
そのキムチといっしょに食べてみました。
うまい♪それもどこか懐かしい味?
なんだろなー、この感じ??と思って食べててふと気づいたのが
「ああ、冷麺だ!」
なんとなく焼肉屋さんで昔食べた冷麺に似てるんですね。
卵もお肉も入ってませんが、あの「面影」のある食感と言うかなんと言うか・・・
いや、私の気のせいかもしれません。だからマネされて「全然違うじゃん、嘘つき!」とか怒らないでください。
キムチのインパクトで蕎麦の香りが飛ぶからいかん!とおっしゃる方もおいででしょう(正論です)。
おやりになる方はあくまで自己責任でトライなさってください。
私は気に入ったのでまたやります。
と言うわけでまたキムチを買ってきました。
わくわくわくわく♪
「あつじ屋」の画廊『戦闘女神アヌンガ』の「初期ラフ」にイメージスケッチ5点追加しました。
ページ中ほどのサムネイルの列がそれです(クリックすると拡大します)。
ところで
『戦闘女神アヌンガ』の名前の由来ですが
インド神話に詳しい方は「アナンガ(Ananga)」を連想されるかも知れません。
しかし拙著のアヌンガというネーミングはまったく別の由来のものでして♪
スワヒリ語で「神」を意味する「Mungu」と
ヒロインの名前「Anne」を足して2で割って(そうしたらどうかとアドバイスくれたのはつまです♪)
「アヌング」という名前を考え、女神らしく語尾を変形させて「アヌンガ」にしたものです。
スワヒリ語の「神」には「Mola」というのもありますが、「アモーラ」ではフランス語の「アモール」を連想させてアフリカ的な響きが失われてしまうと思い取りませんでした(「愛の神」とするにはいいのかもですが♪)。
「アヌーラ」ではいささかエロっぽくなり過ぎで没(笑)
ちなみにインド神話の「アナンガ」は「愛欲の神」カーマの別名で、「体を持たぬ者」の意味です。
シヴァ神によって、その体を焼かれてしまったからついた名前のようですが
私の描いている戦闘女神アヌンガは、依巫(よりまし)であるアンヌに憑依することで一時的に実体化する、言うなれば「体を持たぬ者」です。
不思議な附合に驚きました。
ではでは
8話のコンテにかかりますー!♪
追記
お客様からアヌンガの故郷「シャンヴフトゥ」はアフリカの地名「チンブクトゥ」と理想郷の「シャンバラ」とか「シャングリラ」の合成かと思いましたとコメントいただきました。
私はアフリカの地名「チンブクトゥ」に有名なSFノースウエスト・スミスシリーズに出てくる魔性の美女「シャンブロウ」(スペルはVでなくBですが)の合成で考えたものでしたが
お客様のご指摘どおり「シャンバラ」や「シャングリラ」も明らかに入ってますね♪(私の潜在意識にばっちり入ってますから)
ありがとうございました。
ページ中ほどのサムネイルの列がそれです(クリックすると拡大します)。
ところで
『戦闘女神アヌンガ』の名前の由来ですが
インド神話に詳しい方は「アナンガ(Ananga)」を連想されるかも知れません。
しかし拙著のアヌンガというネーミングはまったく別の由来のものでして♪
スワヒリ語で「神」を意味する「Mungu」と
ヒロインの名前「Anne」を足して2で割って(そうしたらどうかとアドバイスくれたのはつまです♪)
「アヌング」という名前を考え、女神らしく語尾を変形させて「アヌンガ」にしたものです。
スワヒリ語の「神」には「Mola」というのもありますが、「アモーラ」ではフランス語の「アモール」を連想させてアフリカ的な響きが失われてしまうと思い取りませんでした(「愛の神」とするにはいいのかもですが♪)。
「アヌーラ」ではいささかエロっぽくなり過ぎで没(笑)
ちなみにインド神話の「アナンガ」は「愛欲の神」カーマの別名で、「体を持たぬ者」の意味です。
シヴァ神によって、その体を焼かれてしまったからついた名前のようですが
私の描いている戦闘女神アヌンガは、依巫(よりまし)であるアンヌに憑依することで一時的に実体化する、言うなれば「体を持たぬ者」です。
不思議な附合に驚きました。
ではでは
8話のコンテにかかりますー!♪
追記
お客様からアヌンガの故郷「シャンヴフトゥ」はアフリカの地名「チンブクトゥ」と理想郷の「シャンバラ」とか「シャングリラ」の合成かと思いましたとコメントいただきました。
私はアフリカの地名「チンブクトゥ」に有名なSFノースウエスト・スミスシリーズに出てくる魔性の美女「シャンブロウ」(スペルはVでなくBですが)の合成で考えたものでしたが
お客様のご指摘どおり「シャンバラ」や「シャングリラ」も明らかに入ってますね♪(私の潜在意識にばっちり入ってますから)
ありがとうございました。
先日の記事『つまと「しろさん(猫)」』
のしろさん近影、ファイルの中から発見したのでアップします。
やさぐれっぷりが野良してます。
この子が触らせてくれた、しかも自分から「なでれ」と言ってきたなんて嘘みたいです。
一回きりの奇跡でした♪
さてさて、私は今朝方原稿やっとアップ、担当さんに発送しまして5時間ばかり寝て起きたとこです。
さすがに疲れたんで今夜は呆けて暮らすとしますー;♪
ケータイ漫画『戦闘女神アヌンガ』本日より配信開始に合わせて
公開サイト「あつじ屋」のトップ画像を更新しました。
私は7話の後半アナログ作業を完了しまして
スキャンした原稿のフォトショップ作業中です。
週末原稿アップしましたら、また画像追加したいと思います。
どうぞよろしくお願いします♪
追記
実はこの記事も「あつじ屋」も、最初アップした画像が荒くて肌荒れぎみになってしまったもので、再度密度を上げてアップしなおしました。本当はもっとキメ細やかなんですが、実際の原稿データでアップすると重すぎて閲覧不能な方もおいでになるでしょうし・・・
どのあたりで妥協するか難しいです~~(汗
先日アップしました予告の補足ですが
いよいよ6月3日スタートの『戦闘女神アヌンガ』は
Bbmf社の
「ケータイ☆まんが王国」サイト内の「コミックGA」というところに掲載予定です。
担当さんのメールですと以下の方法でアクセス可能だそうです。
[DoCoMo]
i-Menu → メニューリスト → コミック/書籍 → コミック → ケータイ★まんが王国【上から2つめ】
[KDDI]
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メニューリスト → 書籍・コミック・写真集 → 電子コミック → ケータイ★まんが王国
上記方法で、各キャリアの公式メニューから行くことが出来ます。
どうぞよろしくお願いします。
私は7話のクライマックス製作中ですー。
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