はてなキーワード: ゲラとは
最近読み始めた漫画がめちゃくちゃ面白かったんだけど、途中からキャラ増えてきて覚えきれなくて読むのやめたわと、よく行くキャバクラのT子に話したら「ウケるー!アイドルの名前覚えられないやつじゃんー!新しいタイプのおじさんじゃね!?」とタバコに火をつけながらゲラゲラ笑っていた。
笑うT子の金髪のフチをミラーボールの光が照らし、タバコの煙がゆらゆらと横切る光景が妙に神々しく、町田洋の惑星9の休日を思い出したので、安いくせにその場所では高い焼酎のボトルを入れたらT子「神〜!」とテンション上がっていた。
アフターでは鳥貴族(T子指定。もっといい居酒屋あるよとは何度も言った)に行って、カラオケに行って、川で石を拾って、笑って帰った。
蟻のように生き。蝶のように死ぬ。
https://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2022/05/06/235013
orangestarさんは俺なんかより活躍してるし、性の悦びも知ってるし、いいなぁ…、うらやましいなぁ…、と常々思ってるんだけど、
そうかー、ビュイックさん側なのかー、自分はあの漫画読んだとき、まだ人生の残り時間が多かったと思うんだけど、
初めてあのビュイックさんの話を読んでたときに、あー、この人は俺なんじゃないか、と思ったんだよね
一瞬なんだ。一瞬の。でっかいどうにもならないものに対して、意地を通す。そういう瞬間があれば、それは、主観的には、蟻ではなく人間の生き方になるんだと思う。
ノヴァだっけ、マッドサイエンティストが登場するんだけど、彼が生きてる馬でメリーゴーランド作ってるんだよね
メリーゴーランドと馬は繋がってて、それがないと馬は生きていけない
だけど、一頭の馬が自分でその繋がりを断ち切って、自分の意思で思った方向に一歩歩いたぐらいで力尽きて死んでしまう
ノヴァはバカだなぁ、自殺行為だ、要は自分の足の鎖を断ち切って、死と引き換えに自由を手に入れようとして、一歩歩いて死んだ行為は愚かだとゲラゲラ嗤うんだけど、
ガリィは毅然と、それは違うと言い放つんだよな、あの馬も俺だと思ったよ、俺も自由になるためだったら、死と引き換えでもそれを選ぶタイプだから
シロクマ先生の言ってるように、どんなに自己実現しようが、社会的に成功しようが、色々なものを手に入れようが、それも、全部システムの内側で、自分の自由、『真の自己実現』には及ばず、自分たちはアリであることを自覚して、そしてアリであることを自覚して行動するということは自分がアリということを認識しないということであり、おお、ループに入りましたね。現代社会はそういう世知辛い何かでシステムしてるっていう身もふたもない現代。でも、身も蓋もないのは現代でではなくて、中世でも、江戸時代でも、ヨーロッパでも、ナーロッパでも、平安時代でも、いついかなる時代でも多分人間は、役割の中で与えられた中で自分を定義して、そこに押し込まれて、結局何も得ないまま死んでいく。
自分がビュイックだったとしても、俺も「ハロォ、ザレムの『死の天使』さん!勝利者インタビューに答えてよ~!」を言っちゃうと思うし、
まあ、でも、あれは何か自分で計画して、例えば努力してああなったわけではないよね
それに、多分、私に「おまえは晩秋のキリギリスだ、無名のゴミクズとして消えていくという代償で、今まで遊び惚けていたツケを払うことになる」とトラバするような人も、
多分、うしおととらや銃夢に共感できないと思うんだよね、そういう人たちは日本には多くて、みんなマッドサイエンティストのノヴァと同じような思考をしてる
モモの時間泥棒もそうだけど、自分たちがノヴァや時間泥棒みたいに、ある意味狂ってる、ということに気が付かない
でも、本や漫画を読んで、狂ってるんじゃないか、そして、これは自分たちのことを言ってるんじゃないか、と思える人はまだ救いがあると思う
でも、自分が狂ってる、もしくは狂ってると装わないと現代社会で生きづらい、と自覚できてる人も意外と少ないと思うんだよね
そうかー、ビュイックさんなー、自分はシリアルキラーではないけど、性的倒錯者というか屈折したものを抱えて困ってもいるし、
ビュイックさんの3年間みたいなのを今与えられたら、もう身体に限界がある年齢になってしまったけど、でも嬉々として取り組むような気もする
そして、ザレムの死の天使に部隊が全滅される様を観て、うひょー、美しい!死とはこんなに美しいものだったのか!忘れてたよwwwと思っちゃうだろうし、
でも、最後はコヨミちゃんと犬守るために撃たれて死ぬところまでセットだと思う、現実の自分もそうやって死ぬべきなのかもしれない
何者かになる、というのは銃夢の木城ゆきとさんとかorangestarさんが言及しているように、意外とむなしいもので、
というか、こんな自分も、長い人生で達成できたことはいくつかあって、客観的にも自慢できることも色々ありはするのだけど、
それも今はむなしいのよ、むなしくて仕方がない、なんであんなにガムシャラに努力で来たんだろう、いや、努力しちゃったんだろう、って思っちゃう
俺がガムシャラに努力してる間に、ヤンキーたちはセックスとかセックスとか、違法ドラッグとか、バイクやクルマで暴走したりとか、楽しいことをやってただろうし、
今はマイルドヤンキーになって、小学生以前から住んでた場所とずっと変わらない、同じ場所で、同じ家で、30年とか、40年とか楽しく家族で暮らしてるんだろう
俺にはそんなことはできない、俺は彼らに迫害された人間だし、そうでなかったとしても飽き性だから、こんな閉鎖的なクソ田舎からさっさと出たいと思うだろう
田舎から出るときも、出た後もしばらくは、俺は何かにガムシャラに取り組んだし、人生がうまくいかなくなっても勉強することは忘れなかった
ハロワに行くぐらいなら、家でコードを書いてたいし、素晴らしいプログラマーが世界にはいっぱいいる、なれるんだったらジョン・カーマックみたいになりたかった
(文章はここで途切れている)
私は単なる一般人だが、鶴瓶に2度会って話したことがある。どちらも偶然。どちらも鶴瓶さんが出演する落語会に行った時。
出待ちをしたわけでもなく、たまたま偶然会場の近くで鶴瓶を見かけた、その時に。
その先のホールで数時間後に落語をする噺家に遭遇する、というのは、実はそれほど珍しいことでもなかったりするのだが(寄席や落語会場の近くには割とカジュアルに落語家がいる)、私としては出番前の出演者にあまり軽々に声をかけても邪魔だろうと思うので声かけることはない。
鶴瓶さんは目が合うと、というか、こちらが(あれ…?つるべだよな…?)という顔をするかしないか…ぐらいのタイミングで、向こうから近づいてきて声をかけてくる。
例えて言えば、ものすごく人懐こい猫のような感じ。TVなどで見かける顔、姿そのままに、ニヤニヤしながら近づいて話しかけてくる。それでいてサラっとしている。鶴瓶さんが街を彷徨して人に声をかける番組があるがあのままだし、何ならあの番組よりもう少し懐こかった、気がする。
一度目は、「自分、あれやの?この、なあ(今日の落語会の客なのかという意味だと思う)」という感じにぞろぞろっと話しかけてきた。ホールの脇の溜まりのあたり。
(わぁ鶴瓶が!)と思う隙を与えられず話しかけられて「あ、そうです!」となどこちらも答えてしまう。「マネージャーと待ち合わせてたんやけど来ないねん、だから歩いてきたんやけど、楽屋口が分からへん」とかそんな感じことを言われて、わー大変ですねー、と、知り合いのおっちゃんと立ち話をしているような巻き込まれ方をした。
ホールに三々五々集まってくる人たちも「わーつるべだー」となりだんだん人が増えてきたが、鶴瓶さんはそれぞれの人と「知り合いと立ち話しているように」話をしている。そのうちスタッフが飛んできて鶴瓶さんを案内していった。
落語会はとても面白くて、お弟子さんの主催会だったのもあってか和やかなとても良い会だった。
二度目もやはり落語会、会場から少し遠い路地でお見掛けした。割と遠目(通りの1区画分より先ぐらい)だったのだが(え?うそ、また鶴瓶うろうろしてんの・・・?)と思うやいなや、やはり鶴瓶さんの方からつかつかと近づいてきて、割と近いところまできて「なー、今日寒いな」とかそんな感じのことを。私は二度目なのでもう笑ってしまって鶴瓶が近づいてくるあたりからずっとゲラゲラだったので「なんや自分どうしたん」と聞かれる。
「すみません笑笑笑、偶然お会いするの初めてじゃなくて笑笑笑」と絶え絶えに伝え、「師匠、今日の落語会楽しみにしてます!」と言うと、「あんま落語うまないねんけどなー、小朝がなー」と込み入った話(落語の修行をしていなかったが小朝に乗せられて勉強する気になったとか、鉄板だけどちょっと長い話)を、会場までの道をなぜか一緒に歩きながら話してくれて、この状態は一体何なんだろう…と面白くてしょうがなかった。師匠にホールの楽屋口を案内して(我々観客とは入口が違う)、そのまま私は席について「「さっき雑談したおっちゃんの、雑談みたいな落語」を聞いた。とても面白かったし、なんかフワフワした気持ちだったな。
実際に会ったことがあって良い印象だったから、悪い人じゃない、悪いことはやってない、と言い切れるとも思っていないつもりなんだけど、鶴瓶さんはまぁ女衒・斡旋周りには関係ないんじゃないかなぁ…。あんな人懐こい猫みたいな人がやれる悪事は、何十年かに一度生放送で局所を露出する、ぐらいまでだと思うんだよ。
セックスする前に勇次郎の動画を見るとムードが壊れてしまうことがよくわかった。
当然夜になるとそういう雰囲気になってそういうことをするんだけど、範馬勇次郎のせいでセックスできなかったことがあった。
その日も、いつも通りお風呂から上がってお布団で転んでぐうたらしていた。大抵2人ともスマホをいじる。お互いがお互いの好きな動画見たり、片方のスマホで一緒に動画を見たりする。
彼は芸人の動画を見るのが好きで、その中でもガーリィレコードという芸人さん達のものをよく見ていた。私もいくつか見たんだけど、キャンチョメとかごついアシㇼパさんのネタが好きだ。彼らはアニメキャラを雑なのに真剣なクオリティで再現するので普通に面白い。
で、このガーリィレコードチャンネルの中でも範馬勇次郎のモノマネが面白い。他のもそうなんだけど、明らかにパチモンなのに本人は真剣に勇次郎やってるから余計に面白い。
彼氏は私の横でいつも通り動画を見て笑っていた。多分開脚する勇次郎の動画だったと思う、知りたい人はYouTubeで調べてほしい。で、その勇次郎はクセが強かった。罠にかかって開脚しながら「俺の子を産め!」しか言わない勇次郎なのだ。私の頭がおかしくなったような証言だけど本当なのだ。
その勇次郎はまっすぐ開脚してこちらをまっすぐ見つめながら腕組みし、俺の子を産め!しか言わない。そんな勇次郎を見て周りが「すげえ!本物だ〜」とか言うだけの動画なんだけど、刃牙を読んでるとハチャメチャに笑えるので困る。
その後歯磨きもして、もう寝ようか、となって部屋の電気を消した。私は直前まで見ていた勇次郎がまだ脳裏にちらついていた。俺の子を産め!やめろ勇次郎、もう出ていってくれ。面白すぎる。インパクトが強い。
さて少しして、隣でもぞもぞ動く気配を感じた。暗くても彼氏が優しく笑ってるのは分かる。これはイチャイチャしようという合図だ。私は普通に彼氏が大好きなので、彼氏とのセックスも好きだし嬉しい。そう、いつもなら。勇次郎が邪魔してこないいつもなら。
俺の子を産め!おい、本当に許してくれ。彼にそっと抱き締められた。しかし私の中にはまだあの勇次郎がいる。目の前の彼のぬくもりや愛しさに集中しようとすればするほど、勇次郎から逃れられなくなっていく。彼は私の異変に気付いてない。ということはこのまま集中できないままセックスする流れになるのか?
いやだ…このまま勇次郎に囚われたまま演技してセックスするなんていやだ!
彼がキスしようと、顔を近づけてくる。俺の子を産め!限界だった。私は堪えられなくなって吹き出した。そして慌てて謝る。
全てを理解した彼もまた爆笑し、暫く2人で腹を抱えた。そして私はセックスしたいけど今はどうしても勇次郎が頭をよぎってしまうと弁明し、彼は理解してくれた。その夜はセックスできなかった。だって勇次郎がずっと俺の子を産めって言うから……!あの動画見た後に無理やん!と叫んだら彼氏がヒィーッと腹を抱えていた。多分そこまで気にしてなかったんだろう。
元々そんなにムードとか気にしないタイプだけど、あの勇次郎の動画を見せつけられた後に愛し合う雰囲気にはとてもなれないことは分かった。あれがまだ米津さんのモノマネとかなら耐えられたのに、どうしてまた勇次郎だったのだ。しかも俺の子を産めbotの勇次郎なんだ。目の前の彼とスキンシップとりたいのに集中できなかったんだぞ。
とある展示会
壁に展示品が貼ってある
真ん中に台座に乗った展示品も少しある
順路は決まってない
でもなんとなく流れがある
流れに沿ってゆっくり歩いて壁際の展示品を見てたら
自分の目の前のオタクっぽいカップルがその場に止まって流れをせき止めていた
彼氏が展示品から連想された自分のエピソードトークを彼女にして2人で大きめな声でゲラゲラ笑ってた
おしゃべりに夢中になって前に進むのを忘れている感じ
カップルの目の前の展示を見れない
その展示だけ抜かしてほかを先に見ればいいといえばいいんだけど
なんとなく列になって流れができてる中、最後にこの展示だけ見に来るのがなんかいやだった
私の後ろの人たちも流れが止まっていることにおそらく気づいてる
順路が決まってないので、進まないなら列から離脱して他の場所の展示を見に行けばいいのに
体感としては私の後ろの人達は離脱せずカップルが動き出すのを待ってる人も多かったように思える
女子アナの商品化といえば1990年代末ごろ、雑誌BUBKAは極北だったな。
帯番組でレギュラーもってる女子アナの写真を1ヶ月分並べて、「顔がむくんでる…おそらくこの日は生理!」とか書き散らす「女子アナ月経カレンダー」っていう人気企画があったんだよ。
俺たちはそれをゲラゲラ笑って、バカだねー、とかいって楽しんでた。本気で読んでたやつも中にはいたかもね。でもまあ、「ひぇー、こんなばかみたいな企画まじめにやってるよ、終わってんなー、ゲラゲラ」というトーン狙いだったんじゃないかな。読者も主にはそういう理解だったと思うんだけど。あれですよ、悪趣味ブームですよ。いや、いい時代だったな。
もちろん企画はクソ中のクソだが、同時に、BUBKA読者なんて社会の底辺で悪趣味するしかない一方で、女子アナはすでに成功者&さらにのし上がるクソ気が強いやつらだから、こんなドブの中のクズ企画で女子アナが傷つくはずがない、とも思ってもいた。
まあなんか、女子アナとか権力の象徴で、テレビ局性接待とかはそういうカースト上位の中の権力闘争だと思ってたから、隔世の感があるねえ。
俺がまだ幼かった頃、周りの大人たちはよく「近頃の技術はすごいなあ」とか「昔とはえらい違いだ」と口々に言っていた。けれど、そんな大人たちを尻目に、さらに先を行っていた人がいる。それが俺の祖母——通称“コンピューターおばあちゃん”だ。これは、俺が子どもの頃に祖母と過ごした日々や、彼女が残してくれた大切なものについての回想録。今は亡き祖母への想いを、ここに綴りたいと思う。
1. 祖母と呼ぶより“コンピューターおばあちゃん”
俺がまだ物心ついたばかりの幼稚園児だった頃、祖母はすでにパソコンを自在に使いこなし、テレビやラジオで流れる新しいテクノロジーのニュースには目を輝かせていた。家には分厚い辞書や百科事典が何冊も並んでいたが、さらに机の上には最新のパソコン雑誌や科学雑誌、果てはプログラミング関連の本まで置いてあった。幼い俺が「あれ何?」「これどうして?」と尋ねると、祖母はまるで電子辞書のように即座に教えてくれた。当時の俺にとって、難しい用語も祖母の解説にかかれば、スッと頭に入ってくるから不思議でならなかった。
「コンピューターおばあちゃん」は、子ども向けの音楽番組「みんなのうた」で流れていた歌のタイトルそのままだったが、俺にとってはその呼び名そのものが祖母の姿を表していた。機械に強く、知識に溢れ、しかも子ども相手にやさしく噛み砕いて教えてくれる姿は、歌のイメージそのものだったのだ。たとえば、俺の住んでいる町が他のどの町より暑かった日に、「なんでこんなに暑いの?」と尋ねると、「それはね、地球の自転と公転、それに加えてこの町の地形が影響していてね……」と、クーラーの効いた部屋でわかりやすく教えてくれる。さらにパソコンを立ち上げ、天気予報の画面を見せながら「この等圧線と高気圧の動きがね……」と続けるのだ。幼稚園児の俺でも妙に納得してしまったのを覚えている。
祖母の知識の幅はとにかく広かった。歴史、地理、科学、文学、芸術、果てはゲームまで。どんなジャンルの話題を振っても、少なくともある程度は知っている。まるでいくつもの「電子図書館」が頭の中に入っているようだった。まさに子ども番組で言われる“コンピューターのように何でも知っているおばあちゃん”であり、俺はいつしか自然と彼女をそう呼ぶようになった。
人間誰しも得手不得手はあるはずだが、祖母は「知らないものを知らないままにしておくほうが、私には合わないんだよ」と微笑んでいた。だから気になることがあれば何でも調べ、またはパソコンを使って検索する。俺が「ゲームセンターで見た変な機械、あれは何?」と聞けば、それがどんな仕組みの機械なのか、どのメーカーが作っているのかまで丁寧に教えてくれる。さらには「いつか一緒にゲームセンター行って、じっくり観察してみようか」と、学びの場として遊びに誘ってくれた。その姿勢にはいつも驚かされたし、また「大人ってこんなに遊び心があっていいのか」と思ったものだ。
大人になった今になって思えば、あれはただの“学問”に留まらない、祖母の生き方そのものだったのだろう。常に新しいことを取り入れ、面白がり、わからないことを探求する。その姿勢が、彼女の若々しさを保ち、俺たち孫の世代とも自然につながっていられる原動力だったに違いない。
祖母はよく鼻歌を歌っていた。その中にはもちろん「コンピューターおばあちゃん」を思わせるフレーズもあれば、ほかの子ども向けの曲や懐メロもあった。俺が小学校に上がる頃には、祖母自作の“歌詞の抜粋ノート”が存在し、そこには祖母が好きな歌の一節が手書きで書き写されていた。日付や一言コメントも付いていて、当時の祖母の心境や季節の移ろいが見えるようだった。
ある日、そのノートを見ていた俺は、ふと「この歌詞の意味はどういうこと?」と尋ねた。すると祖母は、歌詞が持つ文脈や背景、そして作詞者の想いや時代性まで話してくれた。まさに“人間コンピューター”の面目躍如である。だが、祖母は決して「理屈」や「知識」だけを語る人ではなかった。必ず、そこに自分の感想や教訓を加える。「このフレーズはね、人生におけるこんな出来事を思い出すなあ……だから〇〇なときには、こんな気持ちでいるといいのかもしれないね」といった具合に、子ども心にもスッと染み込む言葉をかけてくれた。
彼女の持つ叡智の素晴らしさは、学校の成績を上げるためだけの“お勉強”とは違っていた。生活や人生を楽しむための“レシピ”がそこにはあった。たとえば、落ち込んだ日は「お腹から笑うといいよ」と言って、祖母自身がゲラゲラ笑っておどけてみせる。心配事がある日は「眠る前に紙に書き出すといい。それで一旦置いて寝ちゃうんだ」と、実践的なアドバイスをくれる。どれも祖母自身が実際にやってきたことなのだろう。まるで一冊の辞典のように、そして誰よりも暖かい人生の先輩としての言葉をくれた。
祖母はパソコンを扱うだけでなく、インターネットの世界にもかなり明るかった。俺が小学校高学年になる頃には、オンラインで海外の博物館の映像や、世界のニュースを一緒に見たりもした。そこで初めて知ったのは、インターネットが単なる機械的な情報交換の場ではなく、人間同士の交流を広げるための“窓”でもあるということだった。祖母はまさにその窓を巧みに開き閉めしながら、遠い世界を俺の前に見せてくれたのだ。
「パソコンの画面を通して見る世界は、ただの映像じゃなくて、“人”がいるところなんだよ」と祖母は言った。「画面の向こうにも誰かがいて、きっと同じように息をして、ご飯を食べて、笑ったり泣いたりしている。そこに興味をもてば、お友達になれるかもしれないし、いろんな考え方を学べるかもしれないね」。まだ子どもだった俺にとって、それは驚くほどスケールの大きい話に感じられたが、祖母は「一歩ずつでいいの」と笑った。実際、海外の子どもたちが作ったというWEBサイトを一緒に覗いて、俺が英語がわからなくても、祖母はサクサクと辞書を引きながら一緒に解読してくれた。その過程がとても楽しかったのを覚えている。
そんな祖母の探求心に刺激を受け、俺自身ももっと世の中を知りたいと自然に思うようになった。中学生になってからは、祖母と一緒にインターネットでさまざまな情報を探したり、調べ学習の資料をまとめたりするのが習慣になっていた。夏休みの自由研究でも、祖母が遠慮なくアイデアをどんどん出してくれるから、いつもクラスでも評判の出来になったっけ。まさに“コンピューターおばあちゃん”との共同作業。あの頃の夏休みは特別に充実していた気がする。
5. “悩み”も解析? コンピューター越しの優しさ
祖母は機械だけでなく、人間の心にもとても敏感だった。そんな祖母に“悩み”を打ち明けると、まるでコンピュータの検索をかけるように、じっくりとヒントを探してくれた。といっても機械的な冷たいやり方ではなく、温かく、しかもときにユーモアを交えながら、俺が自分で答えに気づくまで導いてくれるのだ。
高校生になると、友達関係や部活、将来の進路……いろいろな悩みが増え、俺の心は常にモヤモヤしていた。祖母はそんなとき、まず俺の話を黙って聞き、「なるほどねぇ」と目を細めながらうなずく。そして「ここにデータがあるとしたら、どんなふうに整理する?」と、まるでコンピューターのフォルダ分けをイメージさせるような問いかけをするのだ。「まずは心配事をカテゴリごとに分類してみよう。友達とのことは友達フォルダ、将来のことは将来フォルダ、と。そこから、もっと細かくファイルに分割して、どれくらいの優先度があるか考えてみるんだよ」と。
そんなふうに、一見堅苦しそうな“整理術”を教わるうちに、俺自身の頭の中もすっきりしてきて、不思議と問題が大きく見えなくなっていった。「つまり人生って、ひとつの巨大なデータベースみたいなものかもしれないね」と祖母は微笑む。「たくさんの情報がごちゃごちゃに入っているときは、まずはちゃんと仕分けて検索しやすいようにすればいい。大事なのは、どうタグ付けするか、そしてどのデータが今の自分にとって本当に必要かを見極めること」。それは小難しそうな言葉だけれど、祖母の口から語られると、なぜかすんなりと腹落ちした。まるで大きなやさしい手で、俺の悩みを丸ごと包んでくれているようだった。
6. そして別れの日
俺が大学に進学してしばらくすると、祖母は少しずつ身体の不調を訴えるようになった。ただ、それでも祖母の知的好奇心は衰えず、入院先でもタブレット端末を使いこなし、看護師さんたちと仲良くなっていた。担当のお医者さんが口にする専門用語もほぼ理解できるし、わからないことはすぐに調べる。周りの家族が心配そうに「無理しないで」と言っても、「何もしないでボーッとしてるより、私にはこっちのほうがずっと元気が出るんだよ」と笑っていた。
そんな祖母の容態が急変したのは、俺が大学四年生の夏だった。夜遅くに病院から連絡を受けて駆けつけると、祖母はベッドの上で小さく息をしていた。もう思うようには口がきけない状態だったが、俺を見て微かに笑ってくれたように見えた。その笑顔はまさにいつもの“コンピューターおばあちゃん”の面影で、俺は涙が止まらなかった。
祖母はそのまま、静かに旅立った。最後まで、頭の中にはきっといろんな知識や、俺たち家族への思いが溢れていたのだろう。「みんなのうた」で聴いた“コンピューターおばあちゃん”は、まさに祖母そのものだった。お別れは悲しかったが、祖母が教えてくれたことは俺の胸に深く根を下ろしていると実感した瞬間でもあった。
葬儀が終わり、祖母の遺品を整理していると、昔家族で撮った写真やノート、そして祖母のパソコンが出てきた。パソコンの中には、家族の写真データや日記のようなファイル、さらには雑多なフォルダに分けられた学習ノートのデジタル版が保存されていた。そこには祖母自身が調べてまとめた、さまざまなジャンルの知識や観察メモがあって、見ているだけで祖母と会話しているような気持ちになった。
そのファイルの一つに「大切な人たちへ」とタイトルがつけられたテキストがあった。開いてみると、そこには「私が得たものは、すべてあんたたちに残していくから、どうか自分の好きなように使ってほしい。知らないことに心おどらせるのは、本当に素敵なことだよ。これからもずっと、学びを楽しんでね」というような内容が書かれていた。文章を読み終えたとき、俺は思わず涙が零れ落ちた。そこにはいつも笑顔で知識を授けてくれた、あの祖母の姿が確かにあった。
さらにパソコンのデスクトップには、「コンピューターおばあちゃん」に関する記事や、祖母なりに歌詞をアレンジして書き溜めたノートもあった。そこには、あの歌がもたらす夢や希望について、彼女が感じ取ったことがびっしり綴られていた。「なんでも知っていて、なんでも教えてくれるおばあちゃん、それは私の理想じゃなくて、私自身の生き方そのものだ」と。祖母にとって「コンピューターおばあちゃん」はまさに人生の象徴だったのだろう。
8. 受け継がれる“好奇心”と“優しさ”
祖母を失って寂しい気持ちは今でも消えない。それでも、祖母が残してくれた“調べること”“学ぶこと”“遊ぶように知識を楽しむこと”は、今の俺の人生を豊かにし続けている。職場でも「どうしてそんなにいろんなことを知っているの?」と聞かれることがあるが、俺は胸の中で「祖母の血かもしれないな」と思っている。実際、祖母から学んだ“分からないものは楽しみながら調べる”という姿勢が、仕事でも役立っていると感じるのだ。
そして何より大きいのは、祖母の“人を思いやる優しさ”を忘れないようにしていること。どんなに新しい技術や情報を知っていても、そこに相手への気遣いがなければ独りよがりになってしまう。祖母が俺に常に教えてくれたのは「相手の立場や気持ちを想像しながら、一緒に探求していく喜び」だった。だから今、俺が後輩に教えるときや、友達と話をするときには、決して上から目線や押し付けにならないように気をつける。そして「もしよかったら一緒にやってみよう?」と声をかける。その方がずっと楽しいし、きっと祖母も喜んでくれるに違いない。
もう祖母の肉声を聞くことはできない。あの独特の優しい笑い声も、パソコンに向かう姿勢も、そばに座っていたときの温もりも、すべて思い出の中にしか存在しない。それでも、祖母が残してくれた言葉やファイル、そして一緒に過ごした時間の記憶は、今でも俺を支えてくれる。人生において何か新しいことに挑戦するとき、あるいは壁にぶつかったとき、「そういえば、おばあちゃんはこんなとき何て言ってたっけ?」と心の中で問いかける。すると不思議なことに、祖母の声がスッと降りてきて、「それを調べてみるのは面白そうだね」と背中を押してくれる気がする。
歌には「どんなことでも教えてくれる不思議なおばあちゃん」が登場するけれど、俺にとっての祖母はまさに“完璧なおばあちゃん”だった。彼女のように何でも知っていて、優しくて、そしていつだって俺の好奇心を歓迎してくれる存在がいたからこそ、今の俺がいる。そして祖母のような生き方を少しでも真似できるなら、それは最大の感謝の表し方かもしれないと思う。
祖母がいなくなっても、その“コンピューターおばあちゃん”の精神は俺の中で生き続けている。何かを調べたり、新しいものに触れたりするとき、祖母の姿が脳裏に浮かぶのだ。俺はこれからも、祖母が示してくれた「好奇心と優しさ」を糧に、歩んでいきたい。それが“俺の祖母はコンピューターおばあちゃんだった”と胸を張って言える、何よりも大きな証なのだから。