はてなキーワード: 黒糖とは
anond:20251222225842 を、読んだ。
増田を読んで、「わかるなあ」と思った。 でも同時に、「そこまで悩まなくていいのに」とも思った。
高い店に行っても、正直よく分からない。 フレンチの一皿より、結局マックの方が満足度が高い。 それで「自分は馬鹿舌なんじゃないか」と不安になる。
たぶん、これって誰でも一度は通るやつだ。
まず言いたいのは、『本当に馬鹿舌な人』って、たぶんほとんどいないということだ。
腐ったものを食べたら不味いと分かる。
焦げたら焦げ臭いと分かる。
塩を入れすぎたら、ちゃんとしょっぱいと感じる。
それが分かるなら、味覚は普通に動いている。
「高い料理の良さが分からない」ことと、「味覚が壊れている」ことは、たぶん別物だ。
そもそも味覚って、生き物が「これは食べて大丈夫か?」「栄養はありそうか?」を判断するための機能だ。
まずは生き延びるためのセンサーであって、グルメを楽しむためのものじゃない。
だから、不味いものを不味いと感じられる時点で、味覚としてはもう十分に仕事をしている。
今は、何を食べてもだいたい美味しい時代だと思う。
だから「1000円の飯」と「8000円の飯」の差が、昔ほど分かりやすくない。
これは舌が鈍ったんじゃなくて、世の中の平均点が上がりすぎただけだと思っている。
それでも、「せっかくなら、もう少し美味しさを感じたい」と思う気持ちは分かる。
高い金を払ったなら、できれば感動したい。
ただ、それは「舌を鍛える」とか「通にならなきゃいけない」という話じゃない。
多分、足りないのは才能でも訓練でもなくて、楽しみ方を知っているかどうかなんだと思う。
「楽しみ方を知る」と言うと、なんだか偉そうに聞こえるけれど、
実際にやっていることはそんなに大げさな話じゃない。
誰かが「これが正解だ」と言ったところで、自分の舌がそう感じなければ仕方がない。
だから「美味しさを楽しむ」というのは、新しい正解を覚えることじゃなくて、
たぶん多くの人は、それをもうやっている。
意識していないだけだ。
ハンバーガーでもビッグマックでもなく、サムライマックを選んだとしたら、
それはもう立派な判断だ。
「今日はこっちの方がうまそうだな」と思ったから、そうしたはずで、
それはもう好みが働いている。
実際にはちゃんと選んでいる。
ただ、それを「自分はこういう味が好きなんだ」と
コーヒーなら、苦いのが好きなのか、酸っぱいのが好きなのか。
飲み比べをしてみて、「どっちが好きかな」と自分に問いかけてみる。
例えば、まずは何も入れずに一口飲んでみる。
香りが立つ感じが好きなのか、舌に残る苦味が心地いいのか。
次にミルクを入れてみる。
角が取れて、少し丸くなる。
それが物足りないのか、ちょうどいいのか。
砂糖を入れる人もいるし、
黒糖を入れると、甘さに少しコクが出る。
クリームを入れると、口当たりが一段重くなる。
どれが正しいわけでもない。
正直に言うと、この作業はけっこう難しい。
気分や体調によって、好みは簡単にブレる。
それでも何回かやっていると、
「だいたいこの辺が好きかな」という輪郭は残る。
方向性が見えれば十分だ。
あえて不味いものを食べてみるというやつだ。
例えば、格安でレビューの低いそうめんと、揖保乃糸を食べ比べてみてほしい。
今の外食は、正直言って旨味が強すぎると思う。
ただ、それとは別の軸を知ると、食べるのが少し楽しくなる。
いわゆる、「素材の味を楽しむ」ってやつだ。
そもそも現代の野菜も肉も、「美味しくなるように」改良され続けてきた。
苦味は抑えられ、えぐみは減り、柔らかく、甘くなった。
昔なら下処理が大変だったものも、今はそのままでも十分に食べられる。
実はもうかなり恵まれている。
例えば、新鮮なアスパラガスを塩茹でして、
マヨネーズをほんの少しつけて食べる。
噛むと、すっと歯が入る。
繊維は柔らかく、
中から水分と甘みがじわっと広がる。
青臭さはほとんどなくて、
塩だけでも十分だけれど、
マヨネーズを少し足すと、
脂のコクが甘さを引き立てる。
派手な味じゃないけれど、
表面は崩れそうで崩れず、
箸で持ち上げると、ぷるっと揺れる。
一口かじると、
だしの味がじんわりと広がって、
これが豆の味かと思う。
噛むというより、
口の中でほどけていく感じだ。
派手な味ではないけれど、
白いご飯と一緒に食べると、
「ああ、落ち着くな」という満足感がある。
自分で作ってみることだ。
例えば、里芋の煮っ転がしを作ってみる。
皮をむいて、下茹でして、ぬめりを取って、
火を強くしすぎると煮崩れるし、
弱すぎると味が入らない。
形は少し不揃いで、
表面もところどころ欠けている。
中はちゃんと柔らかくて、
だしの旨さがじんわり染みている。
「ああ、これはこれでうまいな」と思う。
自分で作った飯のうまさだ。
小ぶりで、大きさがきれいに揃っていて、
角は落とされ、
表面はつるりとしている。
だしは澄んでいて、
口に入れると、
里芋がほどけるように崩れる。
味は強くないのに、
どこを食べても均一で、
そのときにだいたい、
「うわぁ、大変そうだな」と
「うわぁ、どうやってるんだこれ」という二つの感想が出てくる。
高級店で里芋の煮っ転がしが出てくるというのは、
つまり、そういう仕事を全部やってきた、ということなんだと思う。
たぶん、それが高級店の正体だ。
ここは、自分で選ぶよりも、ぜひ聞いてみてほしい。
料理に合わせて、酒が出てくる。
ただ有名な銘柄が並ぶわけじゃなくて、
この一皿のために選ばれた一杯が、そっと置かれる。
さっきまで前に出ていただしの甘さが、
すっと引いて、今度は芋の香りが立ち上がる。
「この組み合わせで食べてほしい」という意思が、
ああ、たまらないな、と思う。
ここまで含めて、
不味いものを不味いと感じられるなら、味覚はちゃんと働いている。
今の時代、何を食べてもだいたい美味しいのは、
舌が鈍ったからじゃなくて、
世の中の食べ物の平均点が上がりすぎただけだ。
舌を鍛えることでも、通ぶることでもなくて、
比べてみる。
作ってみる。
そうやって少しずつ分かってくるのは、
「美味しさの正解」じゃなくて、
「自分の好きな方向」だ。
美味しさが分からない日もある。
それは舌のせいじゃなくて、
体調か、気分か、その店との相性だ。
分からないままでも、
治してもいいし、治さなくてもいい。
まじで、こういう人いるんだな、と思ったのは、うちの会社のK先輩のことだ。
K先輩は私より年下だ。たしか、3歳下だったかな。でも、見た目も言動も、どう見ても私より年上に見える。っていうか、下手したら10個くらい上に余裕で見える時がある。だから、私たちは陰で「歳下ババア」って呼んでる。ひどいと思うかもしれないけど、なんかもうそういう形容詞がぴったりなんだよ。
例えば、朝のコーヒー。絶対マグカップじゃなくて湯飲みなんだよね。しかも、なんか柄がおばあちゃんちにあるようなやつ。デスクの上も、書類はピシッと重ねてあるんだけど、横に置いてあるお菓子がやたら渋い。黒糖かりんとうとか、大福とか。若い子が食べてるキラキラしたお菓子じゃないんだよ。
仕事の進め方も、妙に丁寧で石橋を叩いて渡るタイプ。そりゃ丁寧なのはいいことなんだけど、たまに「それって今そんなにじっくり考えること?」みたいな時があって、もうちょっとスピード感出せばいいのに、と思う。こっちが「これどうしましょう?」って聞くと、「うーん、これはねぇ、昔こういうことがあってねぇ…」みたいな感じで、謎の武勇伝(?)とか、過去の事例を延々と語り出す。それ、私が生まれる前の話じゃないですかね、先輩?って心の中でツッコミ入れてる。
飲み会の幹事とかやらせると、もう完璧主義炸裂で、お店選びから予約、当日の仕切りまで、無駄なくそつなくこなす。それはすごいなと思うんだけど、二次会のカラオケとか行っても、最近の曲全然知らないの。十八番が山口百恵とか河合奈保子とかでさ。いや、私も別にめちゃくちゃ詳しいわけじゃないけど、さすがにジェネレーションギャップ感じちゃう。
でもね。
なんだかんだ言って、仕事はできるんだよ、これが。地味なんだけど、ミスがない。細かいところに気づく。あと、誰に対しても態度を変えないというか、偉い人にもペコペコしないし、かといって新人にも上から目線じゃない。淡々としてるんだけど、なんか信頼できる。
私がうっかりミスした時も、「ドンマイ!次気をつけようね」みたいな軽い感じじゃなくて、「あー、これはね、ここをこうすれば防げたよ。次はこうしてみよう」って、冷静に、でもちゃんと改善策を具体的に教えてくれる。それが、なんか年上の頼れる上司みたいなんだよね。
最初は「なんだこの妙に落ち着いてる年下は…」って思ってたけど、一緒に仕事してると、ああ、この落ち着きとか、慎重さとか、経験に裏打ちされた物言い(経験って言ってもそんなに年上じゃないはずなんだけど)が、この人の強みなんだなって思うようになった。
「ババア」って呼んでるけど、それは多分、彼女の持つ年齢不詳の落ち着きとか、妙な貫禄に対する、こっちの照れ隠しみたいなもんなのかな、って最近は思う。
ふむ……至高のコーヒーか。愚問よな。コーヒーとは、何かを足して工夫する飲み物ではない。むしろ、いかに余計なものを削ぎ落とし、素材の本質を引き出せるかにかかっている。多くの者は、焙煎や抽出方法にこだわるが、それらはすべて「豆」「水」「温度管理」の前には些事に過ぎぬ。
まず豆。コーヒーにおいて最も大事なのは、豆の輪郭を崩さず、なおかつ繊細な香りと甘みを生かすことだ。深煎りはコクが強いが、豆本来の個性が埋もれやすい。浅煎りは果実のような酸味が際立つが、雑味が出やすい。では、どう選ぶべきか。
答えは水との相性で決まる。あるとき、名店でコーヒーを飲んだ際、店主が「今日は中煎りがいい」と言った。私は深煎り派だったが、「今日の水なら、深煎りだと重たくなりすぎる」と言われ、試してみるほかなかった。結果、その判断に納得せざるを得なかった。水の違いが、コーヒーの味わいまでも左右するのだ。
水は、コーヒーの形を決める。コーヒーの水に求められるものは、ただの「名水」ではない。軟水であること、ミネラルが適度に含まれていること、そして温度を加えたときに雑味を生まないこと。あるカフェで、湧き水を使ったコーヒーを飲んだことがある。豆の甘みが際立っていたが、それ以上に印象に残ったのは、供された湯の澄み切った味わいだった。あのとき初めて、コーヒーとは「淹れる」飲み物ではなく、「水の力を借りて豆の本質を引き出す」飲み物なのだと気づいた。
温度管理は、コーヒーの質を決める。湯の温度が高すぎれば苦味や渋みが際立ち、低すぎれば十分な香りが引き出せない。適温は90℃前後——だが、それも豆や焙煎度による。浅煎りならやや高めに、深煎りならやや低めに。火加減ではなく、湯の温度こそがすべてを左右する。これを軽視する者は多いが、コーヒーとは「水の力を借りて豆の本質を引き出す」飲み物であり、適切な温度を保つことこそが最も重要なのだ。
砂糖やミルクもまた、慎重に選ぶべきものだ。黒糖、きび砂糖、生クリーム、オーツミルク——確かに、それぞれに良さはある。だが、最もシンプルな答えを挙げるならば、「何も入れない」ことだ。試しに丁寧に淹れたブラックコーヒーをひと口飲む。舌の上で豆の甘みと酸味がほどけ、鼻に抜ける香りが広がる。そのとき、「なるほどな」と思った。砂糖やミルクとは「味を足す」ものではなく、「豆の輪郭を引き立てる」ものなのだと。
結局のところ、至高のコーヒーとは、特別な道具を揃えることではない。己の舌を研ぎ澄まし、豆の声を聞くこと。そこに至ったとき、初めて「本当のコーヒー」が見えてくるのだ。