握手券と付加価値
「グローバル規模の企業間競争を勝ち抜いてゆくためには、製品に付加価値をつけなければなりません」的な話は好く聞きます。では、経済学における付加価値とはどのように定義されているのでしょうか。ネットで検索してみると、次のような定義が見つかりました。「企業が生産によって生み出した価値であり、企業の総生産額から、その生産のために消費した財貨や用役の価額を差引いた額。付加価値の計算法には控除法と加算法がある。控除法では付加価値を (生産額-非付加価値) または (販売額-非付加価値) として計算する。」
数年前の話題作「デフレの正体」の藻谷浩介氏は、著書のなかで、付加価値について次のように述べています。「企業の利益に、その企業が事業で使ったコストの一部(人件費や賃借料などのように地元に落ちた部分)を足したものです。ちなみに地元というのは地域の場合も国内の場合もありますが、日本のGDPといっている場合には国内全体です。こういう定義なので、企業が最終的に儲かるほど付加価値額は増えますし、最終的にトントンだったとしても途中で地元に落ちるコストをたくさんかけていればやはり付加価値額は増えます。逆に薄利多売でマージンが低く、機械設備ばかり増やして人件費もかけず、しかもその機械設備も原材料も他所から調達しているようでは、儲けも出なければ地元にお金も落ちないので、付加価値額は増えません。 なぜ、利益だけでなく、地元に落ちるコストも付加価値に算入するのでしょうか。地元に落ちるコストとはすなわち、同じ地元の別の企業の売上げや従業員の収入だから、特定の企業にとってはマイナスであっても地域経済全体で見ればプラスになるのです。」
さて、多少なりとも経済学的な匂いのする付加価値の定義を確認したところで、音楽業界の話を少々。浅草社労士が学生の頃は、音楽はまだレコードやカセット・テープで聴く時代でした。LPレコードなど当時の物価で3000円くらいはしていたので、小遣いでしばしば買いにいけるような代物ではなかったのです。ところが、当時でも輸入盤というのが大きな量販店などにいくと売られていて、対象は当然洋楽に限られるのですが、日本で販売するために手が加えられた製品に比べると1000円くらい安かったように記憶しています。昔のことなので記憶が定かではありませんが、とにかく舶来品であるにもかかわらず、LPレコードに限っていえば輸入盤の方がかなり安かったのです。
前述の付加価値の定義に従えば、国内盤には、レコードそのもの以外にいろいろと手がかかっておりました。レコードそのものとそれが納められた紙のケースと厚紙のジャケット、それらには歌詞が英語など現地の言葉だけで(当たり前ですが)印刷してある簡素極まりない輸入盤に対して、国内盤には、英語の歌詞の他に解説や訳詩が施されていたり、歌手のミニ写真集のようなものが付属していたりと、インターネットがない時代にファンの心をくすぐるおまけがいろいろ付いていたのです。これらは、レコード盤を製作する作業の他に、多くの手間ひまをかけて作成され、レコード盤と一緒に売り出されることで、製品に付加価値を加えていたというわけです。
その後、レコードはCDに取って代わられ、そのCDもインターネットの進化及びスマホなどの普及のせいか、かつてのように売れなくなっていると聞きます。そういう浅草社労士も、最近は音楽CDを1年にほんの数回買うか買わないかという感じです。ところが、こういう時代に音楽CDの売上げを伸ばす奇跡を演じているのが、AKBなど女性アイドル歌手の集団です。仄聞するに、彼女達の商法は、CDなど関連商品を「握手券」なるアイドルと握手をする権利証とセットで売るというもので、アイドルたちは、ファンと対面し、多少の言葉を交わし、握手をするというイベントを頻繁に行っています。また、AKBの場合、年に一度総選挙なる行事を開催して、CDにその行事の投票券をつけて売るということをしています。信じられないことに、ファンは、目当てのアイドルがトップ当選するように一人で投票権の対象となるCDを相当枚数買うそうです。AKBのアイドル歌手が、握手会のイベントに参加すること、総選挙の行事を開催することでCDに付加価値をつけている、そういうことなのです。
これらは、ある意味で非常に日本的です。かつて、東京の物価が世界一高いといわれていた時代がありました。規制や関税の影響、人口の一極集中など様々な理由が考えられますが、一つには、洋楽の日本盤レコードに見られたような過剰包装によって価値が異様なまでに付加されることです。これは、日本だけに住んでいるとなかなか氣付かないのですが、欧米などで買物をするとすぐにわかることです。一方で、「神は細部に宿る」を文字通り行っているのも日本人です。缶ジュースは、おそらく世界中で売られているのでしょうが、プルトップの形状にさえ氣を配って、開けやすいように工夫するのが日本人であり、日本文化の際立った特長といえます。このような特長は、過剰包装から一体誰が使うのだろうというような機能まで付加された重装備のガラケーやらに、ごく自然に行き着きます。確かにやり過ぎというのは、あるかもしれませんが、では、欧米流のただ商品を袋に入れるだけのやりかたで満足できるかというと、日本人は物足りなさを感じるはずです。付加価値にも文化が反映されているのかもしれません。
確かに、正確に時を刻むこと、維持管理の容易さなど機械としての性能においてクヲーツ時計に劣るスイスの高級機械時計がとてつもない付加価値をつけられて販売されているのは、ブランドの力であり、ブランドの力とは文化力と言い換えることができそうです。フランスやイタリアのような国が得意とするファッション関係のブランドに付与されている付加価値も各国の文化が反映されているものと見て間違いないでしょう。
そうすると、AKBの握手券つきCDも我が国の文化を反映した付加価値なのかもしれませんが、これが国際標準でも付加価値が高いと認定された日本料理のように世界に通用する付加価値商品であるのか、この問題は浅草社労士の判断の埒外なので、コメントは差控えたいと思います。
数年前の話題作「デフレの正体」の藻谷浩介氏は、著書のなかで、付加価値について次のように述べています。「企業の利益に、その企業が事業で使ったコストの一部(人件費や賃借料などのように地元に落ちた部分)を足したものです。ちなみに地元というのは地域の場合も国内の場合もありますが、日本のGDPといっている場合には国内全体です。こういう定義なので、企業が最終的に儲かるほど付加価値額は増えますし、最終的にトントンだったとしても途中で地元に落ちるコストをたくさんかけていればやはり付加価値額は増えます。逆に薄利多売でマージンが低く、機械設備ばかり増やして人件費もかけず、しかもその機械設備も原材料も他所から調達しているようでは、儲けも出なければ地元にお金も落ちないので、付加価値額は増えません。 なぜ、利益だけでなく、地元に落ちるコストも付加価値に算入するのでしょうか。地元に落ちるコストとはすなわち、同じ地元の別の企業の売上げや従業員の収入だから、特定の企業にとってはマイナスであっても地域経済全体で見ればプラスになるのです。」
さて、多少なりとも経済学的な匂いのする付加価値の定義を確認したところで、音楽業界の話を少々。浅草社労士が学生の頃は、音楽はまだレコードやカセット・テープで聴く時代でした。LPレコードなど当時の物価で3000円くらいはしていたので、小遣いでしばしば買いにいけるような代物ではなかったのです。ところが、当時でも輸入盤というのが大きな量販店などにいくと売られていて、対象は当然洋楽に限られるのですが、日本で販売するために手が加えられた製品に比べると1000円くらい安かったように記憶しています。昔のことなので記憶が定かではありませんが、とにかく舶来品であるにもかかわらず、LPレコードに限っていえば輸入盤の方がかなり安かったのです。
前述の付加価値の定義に従えば、国内盤には、レコードそのもの以外にいろいろと手がかかっておりました。レコードそのものとそれが納められた紙のケースと厚紙のジャケット、それらには歌詞が英語など現地の言葉だけで(当たり前ですが)印刷してある簡素極まりない輸入盤に対して、国内盤には、英語の歌詞の他に解説や訳詩が施されていたり、歌手のミニ写真集のようなものが付属していたりと、インターネットがない時代にファンの心をくすぐるおまけがいろいろ付いていたのです。これらは、レコード盤を製作する作業の他に、多くの手間ひまをかけて作成され、レコード盤と一緒に売り出されることで、製品に付加価値を加えていたというわけです。
その後、レコードはCDに取って代わられ、そのCDもインターネットの進化及びスマホなどの普及のせいか、かつてのように売れなくなっていると聞きます。そういう浅草社労士も、最近は音楽CDを1年にほんの数回買うか買わないかという感じです。ところが、こういう時代に音楽CDの売上げを伸ばす奇跡を演じているのが、AKBなど女性アイドル歌手の集団です。仄聞するに、彼女達の商法は、CDなど関連商品を「握手券」なるアイドルと握手をする権利証とセットで売るというもので、アイドルたちは、ファンと対面し、多少の言葉を交わし、握手をするというイベントを頻繁に行っています。また、AKBの場合、年に一度総選挙なる行事を開催して、CDにその行事の投票券をつけて売るということをしています。信じられないことに、ファンは、目当てのアイドルがトップ当選するように一人で投票権の対象となるCDを相当枚数買うそうです。AKBのアイドル歌手が、握手会のイベントに参加すること、総選挙の行事を開催することでCDに付加価値をつけている、そういうことなのです。
これらは、ある意味で非常に日本的です。かつて、東京の物価が世界一高いといわれていた時代がありました。規制や関税の影響、人口の一極集中など様々な理由が考えられますが、一つには、洋楽の日本盤レコードに見られたような過剰包装によって価値が異様なまでに付加されることです。これは、日本だけに住んでいるとなかなか氣付かないのですが、欧米などで買物をするとすぐにわかることです。一方で、「神は細部に宿る」を文字通り行っているのも日本人です。缶ジュースは、おそらく世界中で売られているのでしょうが、プルトップの形状にさえ氣を配って、開けやすいように工夫するのが日本人であり、日本文化の際立った特長といえます。このような特長は、過剰包装から一体誰が使うのだろうというような機能まで付加された重装備のガラケーやらに、ごく自然に行き着きます。確かにやり過ぎというのは、あるかもしれませんが、では、欧米流のただ商品を袋に入れるだけのやりかたで満足できるかというと、日本人は物足りなさを感じるはずです。付加価値にも文化が反映されているのかもしれません。
確かに、正確に時を刻むこと、維持管理の容易さなど機械としての性能においてクヲーツ時計に劣るスイスの高級機械時計がとてつもない付加価値をつけられて販売されているのは、ブランドの力であり、ブランドの力とは文化力と言い換えることができそうです。フランスやイタリアのような国が得意とするファッション関係のブランドに付与されている付加価値も各国の文化が反映されているものと見て間違いないでしょう。
そうすると、AKBの握手券つきCDも我が国の文化を反映した付加価値なのかもしれませんが、これが国際標準でも付加価値が高いと認定された日本料理のように世界に通用する付加価値商品であるのか、この問題は浅草社労士の判断の埒外なので、コメントは差控えたいと思います。
2015年03月31日 18:00 | その他