そういえば、先日亡くなった友人の医師I氏(「さらば友よ」参照)が、昔言っていたことで
多くの患者さんを診てきて思うのだが
農業や漁業といった、自然を相手に働いてこられた方のほうが、自分の病(と間もなく訪れる死)というものを、素直に受け入れて逝かれるような気がする、と。
そういった方々は、この世界には人の力ではどうにもならないものが存在するという事を日ごろから肌身に染みて知っておられるため、無用な取り乱しや現実逃避をする割合が少ない。
むしろ困るのは、政治家とか、ある種のセンセイと呼ばれる方たちで
日ごろから怒鳴ったり下手に出たり、交渉ごとでなんとかなるという感覚が身についているせいか、病に対しても同じ態度でなんとかしようとしてしまう。
怒ろうと言いくるめようと、病も死期もなんともならないのに、と。
その話をしてくれたI氏は、先日の日記にも書きましたとおり、淡々と自分の死期に望み、勤めを果たして逝ってしまいましたが
数限りない人の最後を見て、自分はどう臨むか、自分の病気を知るよりも前に、ハラはくくっていたのだろうと思います。
死に臨んで取り乱すのもそれはそれで人間らしいこととも言えるのでしょうが、I氏が出会った政治家のセンセイのような、見苦しいあり方はしないで逝きたいものだと思うものです。
多くの患者さんを診てきて思うのだが
農業や漁業といった、自然を相手に働いてこられた方のほうが、自分の病(と間もなく訪れる死)というものを、素直に受け入れて逝かれるような気がする、と。
そういった方々は、この世界には人の力ではどうにもならないものが存在するという事を日ごろから肌身に染みて知っておられるため、無用な取り乱しや現実逃避をする割合が少ない。
むしろ困るのは、政治家とか、ある種のセンセイと呼ばれる方たちで
日ごろから怒鳴ったり下手に出たり、交渉ごとでなんとかなるという感覚が身についているせいか、病に対しても同じ態度でなんとかしようとしてしまう。
怒ろうと言いくるめようと、病も死期もなんともならないのに、と。
その話をしてくれたI氏は、先日の日記にも書きましたとおり、淡々と自分の死期に望み、勤めを果たして逝ってしまいましたが
数限りない人の最後を見て、自分はどう臨むか、自分の病気を知るよりも前に、ハラはくくっていたのだろうと思います。
死に臨んで取り乱すのもそれはそれで人間らしいこととも言えるのでしょうが、I氏が出会った政治家のセンセイのような、見苦しいあり方はしないで逝きたいものだと思うものです。
この記事へのコメント
人間は生物ですし、生きているのですから生に対する執着があるのは自然な事なのでしょう。
しかし寿命が尽きる時に際して、あまり見苦しい行動をしてしまっては、来世への旅立ちの瞬間をも汚してしまいそうです。
物事は何事も、始まりがある以上当然終わりがあるのであって、終わりがあるから頑張れるし完結できるのだと思います。
ある漫画家さんが絵日記漫画のなかで、「〆切が迫ってきて大変だ!」と、言いつつ最後には「〆切があるから仕事が終えられる」と書いていました。
正にゴールに到達したならば、躊躇することなく謹んでゴールインするのが正解のように思います。
しかし寿命が尽きる時に際して、あまり見苦しい行動をしてしまっては、来世への旅立ちの瞬間をも汚してしまいそうです。
物事は何事も、始まりがある以上当然終わりがあるのであって、終わりがあるから頑張れるし完結できるのだと思います。
ある漫画家さんが絵日記漫画のなかで、「〆切が迫ってきて大変だ!」と、言いつつ最後には「〆切があるから仕事が終えられる」と書いていました。
正にゴールに到達したならば、躊躇することなく謹んでゴールインするのが正解のように思います。
2009/07/09(木) 02:05:35 | URL | ぬうぼマン #x9c5GV3o[ 編集]
なるほど。おっしゃることはなんとなくわかります。人生というか自然を受け入れる形で生きてきた人と、世の中や人とバトルするように生きてきた人の違いでしょうか。確かに後者の生き方も人間らしいといえばそうかもしれませんが、視野が狭いというような気がします。韓国の前大統領は違うかもしれませんが、政治家はなんでこんなことで…って感じで自殺する人も多いですよね。
人として冷静に死に向き合うということは、私も最近よく考えるテーマです。
生に執着するというのは、生きてまだやりたいことがあるという証なのだと思います。
それが仕事なのか、愛した人をもっと愛し続けたいということなのか、単なる死への恐怖の裏返しなのかは人によって異なるでしょうが。
逆に死を冷静に受け入れられるというのはどういう状態なのでしょう。
私が思うに、生へのあきらめであったり、自分の夢に対する達成感であったり、自分のすべてを受け継いだ子供の存在かもしれません。
生に執着することも、冷静に死を受け入れることも、実はそんなに大きな隔たりは無いのかもしれません。
数年前に父が直腸がんで亡くなりました。
亡くなる数日前、ふと「まだ死にたくないなぁ・・・」とつぶやいた父。
そして息を引き取る数分前の大変安らかな顔。私たち子供や孫たちの姿を見て微笑んでいるようにさえ見えました。
今思うと、父の心中も大きく揺れ動いていたのでしょう。
死ぬ瞬間、自分が納得できる形で自分が生きた証を残すこと・・・それが生まれてきた最大にして最期の目的かもしれませんね。
最近、私にはそう思えてきています。
生に執着するというのは、生きてまだやりたいことがあるという証なのだと思います。
それが仕事なのか、愛した人をもっと愛し続けたいということなのか、単なる死への恐怖の裏返しなのかは人によって異なるでしょうが。
逆に死を冷静に受け入れられるというのはどういう状態なのでしょう。
私が思うに、生へのあきらめであったり、自分の夢に対する達成感であったり、自分のすべてを受け継いだ子供の存在かもしれません。
生に執着することも、冷静に死を受け入れることも、実はそんなに大きな隔たりは無いのかもしれません。
数年前に父が直腸がんで亡くなりました。
亡くなる数日前、ふと「まだ死にたくないなぁ・・・」とつぶやいた父。
そして息を引き取る数分前の大変安らかな顔。私たち子供や孫たちの姿を見て微笑んでいるようにさえ見えました。
今思うと、父の心中も大きく揺れ動いていたのでしょう。
死ぬ瞬間、自分が納得できる形で自分が生きた証を残すこと・・・それが生まれてきた最大にして最期の目的かもしれませんね。
最近、私にはそう思えてきています。
>病に対しても同じ態度でなんとかしようとしてしまう。
自然の有り様に敬意を払う。
決して蹂躙しようとは思わない。
危害に値するものを遠慮なく排除し殺すが、必要以上の殺生をしようと思わない。
自然に手を加え何かをする時、人の力による部分は全体の3割り以下だろう。(割合表現が適切かどうか・・・難しいけどでも感覚的にそんな感じ)
残りは自然が成し遂げてくれること。
そのことを忘れれば、残りの人生に絶対に解けない問題を抱えてしまうという事に。
それが楽しいって人はそれでも良いですが、そうでないならその手の思考は持たぬが吉。
小春日和。
自然の有り様に敬意を払う。
決して蹂躙しようとは思わない。
危害に値するものを遠慮なく排除し殺すが、必要以上の殺生をしようと思わない。
自然に手を加え何かをする時、人の力による部分は全体の3割り以下だろう。(割合表現が適切かどうか・・・難しいけどでも感覚的にそんな感じ)
残りは自然が成し遂げてくれること。
そのことを忘れれば、残りの人生に絶対に解けない問題を抱えてしまうという事に。
それが楽しいって人はそれでも良いですが、そうでないならその手の思考は持たぬが吉。
小春日和。

2009/07/10(金) 00:09:25 | URL | やすやす #-[ 編集]
>ぬうぼマンさま
〆切があるから仕事が終えられる<至言かもしれません。ないといつまでも手を加え続けたり(笑
ゴールに到達したならば、躊躇することなく謹んでゴールイン<私もそのつもりでおります♪
>てんてんまるどんさま
政治家はなんでこんなことで<なるほど。
中には自殺に見せかけた口封じの場合もあるのでしょうが、いやこれはむしろ政治家本人よりもその罪をかぶせられた秘書のケースなどの方が多いでしょうか?
視野狭窄で人生に絶望するのはもったいないことだと思います。
>にゃんさま
生に執着するというのは、生きてまだやりたいことがあるという証<そう思います。本当に心の底からこの世に絶望してたら、死ねる時が来たら喜んで死ぬことでしょう。
死にたくないというのは、まだこの世になんらかの希望を残していることの裏返しとも思えます。
私の場合、一言では言えないんですが(またいずれ一項設けます)
生きた証を残したいという気すらないです。
ただ、実際問題として、作品が形になって残っているではないかというツッコミもあるかもしれません。そう言われるとそうでもあるんですが、何十年と読み継がれる漫画などそうあるものではなく、自分の作品がそうなるとは思っていないので、別にどっちでもいいやと(笑
手に取ってくださった方の気持ちをひととき慰められればそれで十分で、あとに残るかどうかはおまけみたいなものです。
ただ、道に転がった石ころがバイクを転倒させることもありますから、いい意味で、人の人生に追い風を送れたらという願いはいつもあります。
お父様のお話、ありがとうございました。
>やすやすさま
残りは自然が成し遂げてくれること<そう思います。そこを忘れると、無用な悩みまで一人でしょいこむことになって、人生大変だと思います;
〆切があるから仕事が終えられる<至言かもしれません。ないといつまでも手を加え続けたり(笑
ゴールに到達したならば、躊躇することなく謹んでゴールイン<私もそのつもりでおります♪
>てんてんまるどんさま
政治家はなんでこんなことで<なるほど。
中には自殺に見せかけた口封じの場合もあるのでしょうが、いやこれはむしろ政治家本人よりもその罪をかぶせられた秘書のケースなどの方が多いでしょうか?
視野狭窄で人生に絶望するのはもったいないことだと思います。
>にゃんさま
生に執着するというのは、生きてまだやりたいことがあるという証<そう思います。本当に心の底からこの世に絶望してたら、死ねる時が来たら喜んで死ぬことでしょう。
死にたくないというのは、まだこの世になんらかの希望を残していることの裏返しとも思えます。
私の場合、一言では言えないんですが(またいずれ一項設けます)
生きた証を残したいという気すらないです。
ただ、実際問題として、作品が形になって残っているではないかというツッコミもあるかもしれません。そう言われるとそうでもあるんですが、何十年と読み継がれる漫画などそうあるものではなく、自分の作品がそうなるとは思っていないので、別にどっちでもいいやと(笑
手に取ってくださった方の気持ちをひととき慰められればそれで十分で、あとに残るかどうかはおまけみたいなものです。
ただ、道に転がった石ころがバイクを転倒させることもありますから、いい意味で、人の人生に追い風を送れたらという願いはいつもあります。
お父様のお話、ありがとうございました。
>やすやすさま
残りは自然が成し遂げてくれること<そう思います。そこを忘れると、無用な悩みまで一人でしょいこむことになって、人生大変だと思います;
>にゃんさま
>自分が生きた証を残すこと
私は、生きた証を残すことをあまり望んでいないです。排水処理とか生業だと、その時によい状態を保つことが意味を持つので、何かの作品を作る様に後に残るものでもないです。経済を含む生存競争は常に隙あらば殺すぞと迫り来るし、種としての優位を争う競争に人と言う生き物も余念がない。いずれの競争も勝つものあらば負けるものもありまする。(そういう競争という点では、自身はまあ負けに近いかなって少し思います。)
敗者は大概証を失うのです。
そう思い周りを見渡すと実際生命の死は、辺り一面に見ることが出来、特に証を残すこともなく無為と思える存在は無量大数。
食卓の湯気立ち上る白米の上の雑魚を眺めしばし感慨に浸る。こいつが広大な海で泳いでいる時に夢にもこんなところで俺に食われるなんて思わなかっただろうな・・・・って。
私的には雑魚は栄養。雑魚的には?・・・・。
我は、地球という無機質な星に生命の祭典に参加するため現れた生の人。
生命の祭典はでかい方がいいってのが生けとし生けるものの願いなんじゃないかなと勝手に納得しています。盛大なお祭りって点で結構がんばってるのです。
それでも、何がそれぞれの目的かは、最終的には各々に依存することではありましょう。
>自分が生きた証を残すこと
私は、生きた証を残すことをあまり望んでいないです。排水処理とか生業だと、その時によい状態を保つことが意味を持つので、何かの作品を作る様に後に残るものでもないです。経済を含む生存競争は常に隙あらば殺すぞと迫り来るし、種としての優位を争う競争に人と言う生き物も余念がない。いずれの競争も勝つものあらば負けるものもありまする。(そういう競争という点では、自身はまあ負けに近いかなって少し思います。)
敗者は大概証を失うのです。
そう思い周りを見渡すと実際生命の死は、辺り一面に見ることが出来、特に証を残すこともなく無為と思える存在は無量大数。
食卓の湯気立ち上る白米の上の雑魚を眺めしばし感慨に浸る。こいつが広大な海で泳いでいる時に夢にもこんなところで俺に食われるなんて思わなかっただろうな・・・・って。
私的には雑魚は栄養。雑魚的には?・・・・。
我は、地球という無機質な星に生命の祭典に参加するため現れた生の人。
生命の祭典はでかい方がいいってのが生けとし生けるものの願いなんじゃないかなと勝手に納得しています。盛大なお祭りって点で結構がんばってるのです。

それでも、何がそれぞれの目的かは、最終的には各々に依存することではありましょう。

2009/07/10(金) 01:18:25 | URL | やすやす #-[ 編集]
やすやすさま、こんにちは。
正直、貴殿のお言葉の意味するところ、あまりよく解りませんでした。すみません^^;
自分の人生を「勝ち負け」で評価することは客観的なモノの見方だと私は思います。(それが悪いとは申しません^^;)
ただ、自分の人生は自分のものなので、私は主観で考えても良いと思っています。
私が言いたいことは、自分が負けと思えば負けであり、勝ったと思えば勝っているのではないか、他人がどう思おうとも。ということです。
まあ、これは私の人生観なので、もちろん他のかたにお薦めするようなシロモノではありませんが。
また、他者との生存競争の件も否定するものではありませんが、それだけで世界が成り立っているものでもありませんし、そう思って生きていくのも余りに諸行無常過ぎてつまらないと私は感じます。
他があるために我有り、我があるために他有りと、自他が連携していることも事実ですし。
最期のときに、自分の人生を振り返る機会が得られ、そして自身の価値観に従ってこれまでの自分にプラスの評価を出せたとき、きっと主観的に「わが人生に悔い無し」と思えるのかな、と想像してます。
「自身の価値観」は人それぞれで、私の場合はそれが「自分が納得できる形で自分が生きた証を残すこと」なのかなと思っていますが^^
私にとっての生きた証って何だろう???
私自身が親の人生を証す者だと思うから、やはり子供かなぁ・・・・???
先生、長文レス、スミマセン・・・orz
正直、貴殿のお言葉の意味するところ、あまりよく解りませんでした。すみません^^;
自分の人生を「勝ち負け」で評価することは客観的なモノの見方だと私は思います。(それが悪いとは申しません^^;)
ただ、自分の人生は自分のものなので、私は主観で考えても良いと思っています。
私が言いたいことは、自分が負けと思えば負けであり、勝ったと思えば勝っているのではないか、他人がどう思おうとも。ということです。
まあ、これは私の人生観なので、もちろん他のかたにお薦めするようなシロモノではありませんが。
また、他者との生存競争の件も否定するものではありませんが、それだけで世界が成り立っているものでもありませんし、そう思って生きていくのも余りに諸行無常過ぎてつまらないと私は感じます。
他があるために我有り、我があるために他有りと、自他が連携していることも事実ですし。
最期のときに、自分の人生を振り返る機会が得られ、そして自身の価値観に従ってこれまでの自分にプラスの評価を出せたとき、きっと主観的に「わが人生に悔い無し」と思えるのかな、と想像してます。
「自身の価値観」は人それぞれで、私の場合はそれが「自分が納得できる形で自分が生きた証を残すこと」なのかなと思っていますが^^
私にとっての生きた証って何だろう???
私自身が親の人生を証す者だと思うから、やはり子供かなぁ・・・・???
先生、長文レス、スミマセン・・・orz
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