人づきあいのポイントの一つが
「去り際」
だと思います。広くは「去って後」も含みます。
仲良しのときは愛想がいいけど、意見が食い違ったり不仲になると、とたんに掌を返す人がいますが、人間の底と言うか、器を見る思いがします。
人の去り際には人間性が出ます。
いい例(悪い例?)が、強引な訪問販売の人など、えびす顔の猫なで声で近づいてきたのが、だんこ断ったとたん「けっ」という感じで去っていく。そうだとは思っていたけど全部芝居ね、と、しみじみ納得します。
どうせなら芝居でもいいから最後まで礼を尽くせば、またのご縁もあるのでしょうに
まあそんなものはないと割り切っているのでしょう。
蛇足ですが、私は購入した製品その他(インターネット通販のインターフェイスの問題点なども含む)で疑問点があってサービスに問い合わせる際、先に腹をくくっておくことがあります。
それはいかなる対応をされてもケンカごしにならないこと。
売り言葉に買い言葉はけしていないこと。
冷静に疑問点をたずねることに終始し、脅迫的な言動は言うにおよばず、嫌味皮肉当てこすり、捨て台詞など(ある意味で「言質をとられるようなこと」)は一切言わないこと。
そして、仮に双方の合意点が見出せなくとも(消費者センターなどに言うしかないケースは言うべきことは言うにせよ)おだやかに対話を終えること。
もっとも半世紀の人生で、その種の連絡を取ったお店というのは、ほとんどありませんが(何年かに一回という感じでしょうか。いつまでたっても連絡がないまま品物が届かないとか、インターフェイスの表示が不親切で在庫の有無や入荷予定が識別不能とか)
まれにはあります。
中には穏やかに切り出しても、あちらが最初からけんか腰、と言うか、防衛体制で身構えていて、終始不愉快そうに(こめかみにピキピキマークが浮かんでいるような口調で、話のはしばしに嫌味や当てこすりを乗せてくる)ケースもあります。
もしかしたら悪質なクレーマーにひどい目にあって、トラウマになっておいでなのかも知れませんが、それはお客とは(少なくとも私とは)なんの関係もないことです。
そういうお店は二度と利用しませんが、最後まで電話は穏やかに
「お忙しいところありがとうございました。御社のご発展をお祈り申し上げます」
と電話を切ります(笑)。
別にそのままの問題点のある状態で会社が儲かりますようにという意味ではありません。
仏教にサマタ瞑想というのがあります。
「あなたが幸せでありますように
あなたの苦しみがのぞかれますように
あなたの願いがかないますように
あなたに悟りの光があらわれますよに」
というワンセットです。
苦しみがのぞかれますように、はともかく、幸せでありますように、や、願いがかないますようには本当にそれでいいのか?
犯罪者など他者への害意に満ちた人の願いがかなえばいいのか?人を傷つけることが幸せな人はそれでいいのか?
良くはありません。だから三番目の
「悟りの光があらわれますように」
があるわけです。
この4つは四位一体?になっていて、悟り云々は別に宗教的境地の話ではなく、その人の偏った(ジコチューとか)思考が正気にかえって、穏やかに冷静に建設的にものごとに取り組むことができますようにということでかまいません。
まあ、似たような祈りというのは仏教に限らずきっと色々な文化にあるのでしょう。
あくまでこれは一例です。
人とのつきあいはこれが基本だと思うものです。
世の中には「敵に回すと怖い」人というのがいます。
「味方」のときはいいのですが、何か意見が食い違って袂を分かつと恐ろしいことになる場合があります。
友人の人間性を見るときは、その人が「敵」に対してどのような言動を取るかで判断しないと危ういものです。
実体験で味わったことがありますが、中には、やむを得ずお別れしたあとで、きのうの友はきょうの敵とばかりに、執拗な嫌がらせをしかけてくる例さえありました。そういう人物の本質を見抜けなかった自分の馬鹿さ加減を反省したものですが、思い起こせば、普段のなにげない言葉や反応の端々に「それを思わせる兆候」はのぞいていました。見過ごしていた私の失敗です。
本当に信頼のできる友というのは、たとえ意見が食い違おうと、敵と味方になろうとも
サマタ瞑想の四つの祈りのように、お互いに相手の幸せを願える人です。
おそらくそうであろうと思える友は、めったにいるものではありませんが、いるところにはいます。
私の場合せいぜい「片手」といったところでしょうか(「片手」全部とはいきませんが)(笑)。
そうでない、嫌いになったり「国交断絶」したとたん、相手の不幸を願い始めるような人間を、真の友とすることはできません。
もし誰かがそういう行動に出たら、それは友ではなかったということです。
また、自分が誰かにそういう思いを抱いたら、自分のその人への愛情や友情はまがいものであったと思う(認める)ようにしています。
以前、好意的に面倒をみていた若手の作家さんに後足で砂をかけられて、編集さんがあの人どうしましょうかと言うのを、才能のある人だから大事にしてあげてくださいと言った作家さんの話に触れたことがあったと思いますが、そういうフトコロのある人間とは、胸襟を開けます。
世の中にはときどき悪党がいるもので、対立させたい人間の耳に、とんだ作り話を吹き込むことがあります。歴史ドラマなどである、王様の耳に、だれそれが謀反を企てていますなどと嘘の密告をささやくあれです。
鵜呑みにして処刑したあとで、濡れ衣がわかって頭をかかえる王様、といったお定まりのパターンは、ドラマの中だけで十分です(笑)。
あっ、そういえば、中学時代こんなことがありました(突然思い出した私)。
私が小学校のころイジメを受けていたときの主犯格のIという少年がいました。
中学になって体格が逆転し、私の方が大きくなってしまったためケンカで勝てなくなったIとは、自然にイジメの構図は解消されました(小学校の担任の先生が、私とIを同じクラスにならないよう中学に申し送ってくださったこともあったと思います。そのうち体格差ができてしまったのです)。
その後I君とは昔のことは水に流して友達づきあいを始めていたのですが、弱い者イジメが好きなI君は別の犠牲者、自分より小柄なG君を見つけてイジメていたようです(ようですというのは、人前で露骨にはやらないので、私もそんな正確には把握していなかったのでした)。
ある日、G君が私のところにきて言いました。
「IのやつがW先生に山本がこんなことしたって言いつけていたよ」
それはまったく身に覚えのないことでした。その場はふうんと聞き流しましたが、後で気になってW先生に直接「ボクに関してこれこれのことを言いつけた人がいると、ある友達から聞いたんですが、それは事実ですか?」と聞きにいきました。
「いや、そんなことは聞いていないよ」
とW先生は言いました。
「キミはそんなことをしたのかね?」
「いいえ、してはおりません」
「そうか」
で話はそれっきりになりました。
G君の話は嘘だったのでしょうか。先生が本当のことを伏せておいでだったのでしょうか。
今となってはわかりません。
ただ、そのときふっと思ったのは、G君は、先生に嘘の報告をした彼に怒った私が、I君をやっつけに行ってくれることを願ったのかなと。
I君が私をいじめていた過去のいきさつはG君も知っていました。なんでそのころの仕返しをしないのかと聞かれ、あんな小柄な(絶対勝てる)やつをなぐっても仕方がないじゃないかと答えたように思います(母にも同じことを聞かれて同じように返事したことを、先年母に言われるまで忘れてました)。
すべては私の思い過ごしかもしれませんが、そこでG君の口車に乗って(たとえそれが事実であったとしても)I君を攻撃に行かないで良かったと思います。
友とは話が異なりますが、私が働いてきたマンガ業界で昔から言われる話に、仕事の依頼を断るとあとで仕事を回してもらえなくなる(から断れない)というのがあります。
ある程度は伝説、ある程度は本当といったところでしょうか。
幸か不幸か、私はあまりひどい編集さんというのに当たったことがありません。
上記のような話が本当かな、と思えるケースとしては
いつオファーがあるかわからない不定期連載の続編を締め切り間際になって頼まれ、その時間では無理ですと答えたらそれっきり打ち切りになったケースとか、読みきりの打診を二回続けて(と言っても一回目は次の締め切りでどうでしょう、二回目はその次の締め切りでどうでしょう、という、ほとんど間をおかずの打診でした。いずれも手持ちの連載で無理なスケジュールだったのです)お断りしたら音信不通になった編集さん(メールのレスも年賀状もこなくなった)ケースなどがあります。
できることはできるけれど、できないことはできないと正直にお答えしてるだけなのですが
まあそういうご縁だったのだなあとあきらめるしかありません。
かと思うと、耐え難い事情でこちらから仕事を下りさせていただいた担当さんから何年もして突然電話がかかってきて、他誌の仕事の好意的感想をいただき、感動したケースもあります。
渡る世間には「仏もいれば鬼もいる」といったところでしょうか。
自分の思いや行動を鏡のように返してくる(リアルタイムでなくタイムラグの大小はあろうとも)のが人生だと思うもので
私は近年
自分がしてほしくないことは人にしないように
してほしいことだけするように
心がけて生きています。
いつも成功するとは限らないんですけれども無論(笑
追記
あまりハッピーでない別れ方をした相手を、不快に思うことは今でもあります。
そういう人のことを悪しざまに言ったことも人生を振り返れば山のようにあります。
でも、そこでどれほどその人を攻撃しても、それは実は、すべて自分の(私自身の)人生を傷つけ、泥を塗りたくっていたのに過ぎないということが解って、ある日その種のぐるぐるがイヤになりました。
なんで、いいオヤジになるまで気づかなかったかなあ、と思うものです(笑
「去り際」
だと思います。広くは「去って後」も含みます。
仲良しのときは愛想がいいけど、意見が食い違ったり不仲になると、とたんに掌を返す人がいますが、人間の底と言うか、器を見る思いがします。
人の去り際には人間性が出ます。
いい例(悪い例?)が、強引な訪問販売の人など、えびす顔の猫なで声で近づいてきたのが、だんこ断ったとたん「けっ」という感じで去っていく。そうだとは思っていたけど全部芝居ね、と、しみじみ納得します。
どうせなら芝居でもいいから最後まで礼を尽くせば、またのご縁もあるのでしょうに
まあそんなものはないと割り切っているのでしょう。
蛇足ですが、私は購入した製品その他(インターネット通販のインターフェイスの問題点なども含む)で疑問点があってサービスに問い合わせる際、先に腹をくくっておくことがあります。
それはいかなる対応をされてもケンカごしにならないこと。
売り言葉に買い言葉はけしていないこと。
冷静に疑問点をたずねることに終始し、脅迫的な言動は言うにおよばず、嫌味皮肉当てこすり、捨て台詞など(ある意味で「言質をとられるようなこと」)は一切言わないこと。
そして、仮に双方の合意点が見出せなくとも(消費者センターなどに言うしかないケースは言うべきことは言うにせよ)おだやかに対話を終えること。
もっとも半世紀の人生で、その種の連絡を取ったお店というのは、ほとんどありませんが(何年かに一回という感じでしょうか。いつまでたっても連絡がないまま品物が届かないとか、インターフェイスの表示が不親切で在庫の有無や入荷予定が識別不能とか)
まれにはあります。
中には穏やかに切り出しても、あちらが最初からけんか腰、と言うか、防衛体制で身構えていて、終始不愉快そうに(こめかみにピキピキマークが浮かんでいるような口調で、話のはしばしに嫌味や当てこすりを乗せてくる)ケースもあります。
もしかしたら悪質なクレーマーにひどい目にあって、トラウマになっておいでなのかも知れませんが、それはお客とは(少なくとも私とは)なんの関係もないことです。
そういうお店は二度と利用しませんが、最後まで電話は穏やかに
「お忙しいところありがとうございました。御社のご発展をお祈り申し上げます」
と電話を切ります(笑)。
別にそのままの問題点のある状態で会社が儲かりますようにという意味ではありません。
仏教にサマタ瞑想というのがあります。
「あなたが幸せでありますように
あなたの苦しみがのぞかれますように
あなたの願いがかないますように
あなたに悟りの光があらわれますよに」
というワンセットです。
苦しみがのぞかれますように、はともかく、幸せでありますように、や、願いがかないますようには本当にそれでいいのか?
犯罪者など他者への害意に満ちた人の願いがかなえばいいのか?人を傷つけることが幸せな人はそれでいいのか?
良くはありません。だから三番目の
「悟りの光があらわれますように」
があるわけです。
この4つは四位一体?になっていて、悟り云々は別に宗教的境地の話ではなく、その人の偏った(ジコチューとか)思考が正気にかえって、穏やかに冷静に建設的にものごとに取り組むことができますようにということでかまいません。
まあ、似たような祈りというのは仏教に限らずきっと色々な文化にあるのでしょう。
あくまでこれは一例です。
人とのつきあいはこれが基本だと思うものです。
世の中には「敵に回すと怖い」人というのがいます。
「味方」のときはいいのですが、何か意見が食い違って袂を分かつと恐ろしいことになる場合があります。
友人の人間性を見るときは、その人が「敵」に対してどのような言動を取るかで判断しないと危ういものです。
実体験で味わったことがありますが、中には、やむを得ずお別れしたあとで、きのうの友はきょうの敵とばかりに、執拗な嫌がらせをしかけてくる例さえありました。そういう人物の本質を見抜けなかった自分の馬鹿さ加減を反省したものですが、思い起こせば、普段のなにげない言葉や反応の端々に「それを思わせる兆候」はのぞいていました。見過ごしていた私の失敗です。
本当に信頼のできる友というのは、たとえ意見が食い違おうと、敵と味方になろうとも
サマタ瞑想の四つの祈りのように、お互いに相手の幸せを願える人です。
おそらくそうであろうと思える友は、めったにいるものではありませんが、いるところにはいます。
私の場合せいぜい「片手」といったところでしょうか(「片手」全部とはいきませんが)(笑)。
そうでない、嫌いになったり「国交断絶」したとたん、相手の不幸を願い始めるような人間を、真の友とすることはできません。
もし誰かがそういう行動に出たら、それは友ではなかったということです。
また、自分が誰かにそういう思いを抱いたら、自分のその人への愛情や友情はまがいものであったと思う(認める)ようにしています。
以前、好意的に面倒をみていた若手の作家さんに後足で砂をかけられて、編集さんがあの人どうしましょうかと言うのを、才能のある人だから大事にしてあげてくださいと言った作家さんの話に触れたことがあったと思いますが、そういうフトコロのある人間とは、胸襟を開けます。
世の中にはときどき悪党がいるもので、対立させたい人間の耳に、とんだ作り話を吹き込むことがあります。歴史ドラマなどである、王様の耳に、だれそれが謀反を企てていますなどと嘘の密告をささやくあれです。
鵜呑みにして処刑したあとで、濡れ衣がわかって頭をかかえる王様、といったお定まりのパターンは、ドラマの中だけで十分です(笑)。
あっ、そういえば、中学時代こんなことがありました(突然思い出した私)。
私が小学校のころイジメを受けていたときの主犯格のIという少年がいました。
中学になって体格が逆転し、私の方が大きくなってしまったためケンカで勝てなくなったIとは、自然にイジメの構図は解消されました(小学校の担任の先生が、私とIを同じクラスにならないよう中学に申し送ってくださったこともあったと思います。そのうち体格差ができてしまったのです)。
その後I君とは昔のことは水に流して友達づきあいを始めていたのですが、弱い者イジメが好きなI君は別の犠牲者、自分より小柄なG君を見つけてイジメていたようです(ようですというのは、人前で露骨にはやらないので、私もそんな正確には把握していなかったのでした)。
ある日、G君が私のところにきて言いました。
「IのやつがW先生に山本がこんなことしたって言いつけていたよ」
それはまったく身に覚えのないことでした。その場はふうんと聞き流しましたが、後で気になってW先生に直接「ボクに関してこれこれのことを言いつけた人がいると、ある友達から聞いたんですが、それは事実ですか?」と聞きにいきました。
「いや、そんなことは聞いていないよ」
とW先生は言いました。
「キミはそんなことをしたのかね?」
「いいえ、してはおりません」
「そうか」
で話はそれっきりになりました。
G君の話は嘘だったのでしょうか。先生が本当のことを伏せておいでだったのでしょうか。
今となってはわかりません。
ただ、そのときふっと思ったのは、G君は、先生に嘘の報告をした彼に怒った私が、I君をやっつけに行ってくれることを願ったのかなと。
I君が私をいじめていた過去のいきさつはG君も知っていました。なんでそのころの仕返しをしないのかと聞かれ、あんな小柄な(絶対勝てる)やつをなぐっても仕方がないじゃないかと答えたように思います(母にも同じことを聞かれて同じように返事したことを、先年母に言われるまで忘れてました)。
すべては私の思い過ごしかもしれませんが、そこでG君の口車に乗って(たとえそれが事実であったとしても)I君を攻撃に行かないで良かったと思います。
友とは話が異なりますが、私が働いてきたマンガ業界で昔から言われる話に、仕事の依頼を断るとあとで仕事を回してもらえなくなる(から断れない)というのがあります。
ある程度は伝説、ある程度は本当といったところでしょうか。
幸か不幸か、私はあまりひどい編集さんというのに当たったことがありません。
上記のような話が本当かな、と思えるケースとしては
いつオファーがあるかわからない不定期連載の続編を締め切り間際になって頼まれ、その時間では無理ですと答えたらそれっきり打ち切りになったケースとか、読みきりの打診を二回続けて(と言っても一回目は次の締め切りでどうでしょう、二回目はその次の締め切りでどうでしょう、という、ほとんど間をおかずの打診でした。いずれも手持ちの連載で無理なスケジュールだったのです)お断りしたら音信不通になった編集さん(メールのレスも年賀状もこなくなった)ケースなどがあります。
できることはできるけれど、できないことはできないと正直にお答えしてるだけなのですが
まあそういうご縁だったのだなあとあきらめるしかありません。
かと思うと、耐え難い事情でこちらから仕事を下りさせていただいた担当さんから何年もして突然電話がかかってきて、他誌の仕事の好意的感想をいただき、感動したケースもあります。
渡る世間には「仏もいれば鬼もいる」といったところでしょうか。
自分の思いや行動を鏡のように返してくる(リアルタイムでなくタイムラグの大小はあろうとも)のが人生だと思うもので
私は近年
自分がしてほしくないことは人にしないように
してほしいことだけするように
心がけて生きています。
いつも成功するとは限らないんですけれども無論(笑
追記
あまりハッピーでない別れ方をした相手を、不快に思うことは今でもあります。
そういう人のことを悪しざまに言ったことも人生を振り返れば山のようにあります。
でも、そこでどれほどその人を攻撃しても、それは実は、すべて自分の(私自身の)人生を傷つけ、泥を塗りたくっていたのに過ぎないということが解って、ある日その種のぐるぐるがイヤになりました。
なんで、いいオヤジになるまで気づかなかったかなあ、と思うものです(笑
この記事へのコメント
はじめまして。
「去り際」のお話。興味深く拝読させていただきました。
学生時代から考えると、出会いは簡単だけど「別れは難しい」。いつも思っていることです。
最近「気(波長)が合わない人に執着していも仕方ない」とも思うようになりました。
「学生時代(OL時代)あんなに親しかったのに」と思えるような人と連絡も途絶えたり…などと悲しいこともありますが。
人に対して行なっていること、人様が自分に対して行なっていることは、すべて「因果応報」なのですよね。
自分というものを常に見つめながら(時に客観視しながら)、良き出会いと関係を構築し、継続していきたいなーと、改めて考えさせられました。
「去り際」のお話。興味深く拝読させていただきました。
学生時代から考えると、出会いは簡単だけど「別れは難しい」。いつも思っていることです。
最近「気(波長)が合わない人に執着していも仕方ない」とも思うようになりました。
「学生時代(OL時代)あんなに親しかったのに」と思えるような人と連絡も途絶えたり…などと悲しいこともありますが。
人に対して行なっていること、人様が自分に対して行なっていることは、すべて「因果応報」なのですよね。
自分というものを常に見つめながら(時に客観視しながら)、良き出会いと関係を構築し、継続していきたいなーと、改めて考えさせられました。
>Marilaさま
はじめまして、ようこそいらっしゃいました。
確かに別れは難しいですね。
ただ、自分ができる範囲でベストの選択をして、あとそれをどう取るかは相手の問題と割り切れば、かなり気楽にもなるように思います。
どんな善意も逆恨みする人はいますし
それはこちらの問題じゃないです。
先だって、「もし誰かがあなたを愛と尊敬込めて扱わなければ、その人が去ることは、天の贈り物である」というドン・ミゲル・ルイスの文章を引用しましたが、彼はその辺のことをわかりやすいたとえで
「誰かがあなたの頭にピストルを当てて殺すと言っても、それはあなたの問題ではないのである(その人の問題である)」
という意味のことを言ってます。
無論「死にたくない」と思うかどうかは「私の問題」なんですが(笑
波長の合わない人に執着するのは、苦しみですよね。
「因果応報」はまったくそうだと思います。また「人は鏡」(「鑑」とする言葉もありますけど)だとも思います。
どうにも困った人と関係ができたら、自分の何が人生でこれを引き寄せたのかを分析することにしています(答えの出ないことも多いですが)。
コメントありがとうございました♪
はじめまして、ようこそいらっしゃいました。
確かに別れは難しいですね。
ただ、自分ができる範囲でベストの選択をして、あとそれをどう取るかは相手の問題と割り切れば、かなり気楽にもなるように思います。
どんな善意も逆恨みする人はいますし
それはこちらの問題じゃないです。
先だって、「もし誰かがあなたを愛と尊敬込めて扱わなければ、その人が去ることは、天の贈り物である」というドン・ミゲル・ルイスの文章を引用しましたが、彼はその辺のことをわかりやすいたとえで
「誰かがあなたの頭にピストルを当てて殺すと言っても、それはあなたの問題ではないのである(その人の問題である)」
という意味のことを言ってます。
無論「死にたくない」と思うかどうかは「私の問題」なんですが(笑
波長の合わない人に執着するのは、苦しみですよね。
「因果応報」はまったくそうだと思います。また「人は鏡」(「鑑」とする言葉もありますけど)だとも思います。
どうにも困った人と関係ができたら、自分の何が人生でこれを引き寄せたのかを分析することにしています(答えの出ないことも多いですが)。
コメントありがとうございました♪
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2009/06/19(金) 22:54:17 | | #[ 編集]
ブログと拙著、お読みくださりありがとうございます。
殺してやろうかと思った相手、私も覚えがあります(無論、殺さないでよかったんですが)。
私どもマンガ家のような締め切りさえ守れば普段は誰とも逢わずに仕事のできる人間は特殊な例で、一般のご職業の方はどうしても気の合わない同僚上司、お客様と、人間関係のストレスは避けられませんよね。本当にお疲れ様です。
セイバーキャッツで描きました「心の放松」は、とても重要なように思います。
自分で描いておいて、それから10年以上の歳月が流れ、描いた当時よりも、より深い意味でそのことを実感するようになっております。
「赦すこと」は人生の重要なキーポイントで、それがクリアできればほぼ今生の宿題はめどがついたようなものではないでしょうか。
また思うところを語っていきたいと存じます。
どうぞよろしくお願いします。
殺してやろうかと思った相手、私も覚えがあります(無論、殺さないでよかったんですが)。
私どもマンガ家のような締め切りさえ守れば普段は誰とも逢わずに仕事のできる人間は特殊な例で、一般のご職業の方はどうしても気の合わない同僚上司、お客様と、人間関係のストレスは避けられませんよね。本当にお疲れ様です。
セイバーキャッツで描きました「心の放松」は、とても重要なように思います。
自分で描いておいて、それから10年以上の歳月が流れ、描いた当時よりも、より深い意味でそのことを実感するようになっております。
「赦すこと」は人生の重要なキーポイントで、それがクリアできればほぼ今生の宿題はめどがついたようなものではないでしょうか。
また思うところを語っていきたいと存じます。
どうぞよろしくお願いします。
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