歴史をひもとくと、様々な賢人の言葉に共通するものを発見して、ほくそ笑むことがあります♪
ローマ帝国の皇帝で「哲人皇帝」と呼ばれたマルクス・アウレーリウスという人がいました。
有名なので歴史に興味はなくとも、名前くらいは聞いたという方も少なくないと存じます。
生前、彼が自分のために書いた文章をまとめた『自省録』という本があります。その中にこんな下りがあります。
<「この胡瓜はにがい」捨てるがいい。「道に茨(いばら)がある」避けるがいい。それで充分だ>
<最初の知覚が報告する以外のことはいっさい自分にいってきかすな。だれそれが君のことをひどく悪くいっている、と人に告げられた。これはたしかに告げられた。しかし、君が損害を受けた、とは告げられなかった。私は自分の子供が病んでいるのを見る。それは見る。しかし彼が危険に陥っているとは見ない。かように、つねに最初の知覚に留まり、自己の中から何ものもこれに加えないようにすれば、君になにごとも起こらないのである>
『自省録』 マルクス・アウレーリウス・著/神谷美恵子・訳/岩波文庫
実はこれに類する下りが、これまで何度か引用したインドの覚者、ニサルガダッタ・マハラジの対談記録にあります。
<質問者 あなたの子供が病気になったときは気にかけるのではありませんか?
マハラジ 私はあわてない。ただ必要なことをするだけだ。未来について心配したりはしない。あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ。(中略)
それらが何であれ、あるがままだ。もしふたたびそれが起きるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる>
『アイ・アム・ザット 私は在る』
(モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)より
1800年近くの隔たりがある東西の賢者の言葉に、共通するものを感じます。
そしてこれは、以前アップしました記事「朝(あした)に悟りを得れば 夕べに死すとも・・・」の中で引用しました釈迦のことば
「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない(対象にはとらわれないという意味)。内にもいない(心の中にも執着・煩悩が生まれないという意味)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない(解脱の状態)。それは一切の苦しみの終わりである」
『賢い人 愚かな人』 アルボムッレ・スマナサーラ・著/大法輪閣より
とも通じるものではないでしょうか。
マルクス・アウレーリウス(121-180)はストア派の哲学を学んだローマの皇帝。
ニサルガダッタ・マハラジは1981年に亡くなったインドの覚者にして雑貨屋のおじさん。
そして釈迦は紀元前数百年に生きた、同じくインドの覚者です。
彼らが説くのは、状況に対応できない無能な現実逃避の思考停止ではなく、必要なときに必要なことをする(考える)以外、無用な感情や思考、マインドのぐるぐるに一切自分をゆだねないと言うことだと思います。
私は大いに共感し、そうするように努めています(いつも成功するとは限らないのですが)(笑)。
<それらが何であれ、あるがままだ。もしふたたびそれが起きるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる>
<ただ必要なことをするだけだ。未来について心配したりはしない。あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ>
それよりも幸せな生き方があるなら、また別ですけども。
ローマ帝国の皇帝で「哲人皇帝」と呼ばれたマルクス・アウレーリウスという人がいました。
有名なので歴史に興味はなくとも、名前くらいは聞いたという方も少なくないと存じます。
生前、彼が自分のために書いた文章をまとめた『自省録』という本があります。その中にこんな下りがあります。
<「この胡瓜はにがい」捨てるがいい。「道に茨(いばら)がある」避けるがいい。それで充分だ>
<最初の知覚が報告する以外のことはいっさい自分にいってきかすな。だれそれが君のことをひどく悪くいっている、と人に告げられた。これはたしかに告げられた。しかし、君が損害を受けた、とは告げられなかった。私は自分の子供が病んでいるのを見る。それは見る。しかし彼が危険に陥っているとは見ない。かように、つねに最初の知覚に留まり、自己の中から何ものもこれに加えないようにすれば、君になにごとも起こらないのである>
『自省録』 マルクス・アウレーリウス・著/神谷美恵子・訳/岩波文庫
実はこれに類する下りが、これまで何度か引用したインドの覚者、ニサルガダッタ・マハラジの対談記録にあります。
<質問者 あなたの子供が病気になったときは気にかけるのではありませんか?
マハラジ 私はあわてない。ただ必要なことをするだけだ。未来について心配したりはしない。あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ。(中略)
それらが何であれ、あるがままだ。もしふたたびそれが起きるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる>
『アイ・アム・ザット 私は在る』
(モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)より
1800年近くの隔たりがある東西の賢者の言葉に、共通するものを感じます。
そしてこれは、以前アップしました記事「朝(あした)に悟りを得れば 夕べに死すとも・・・」の中で引用しました釈迦のことば
「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない(対象にはとらわれないという意味)。内にもいない(心の中にも執着・煩悩が生まれないという意味)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない(解脱の状態)。それは一切の苦しみの終わりである」
『賢い人 愚かな人』 アルボムッレ・スマナサーラ・著/大法輪閣より
とも通じるものではないでしょうか。
マルクス・アウレーリウス(121-180)はストア派の哲学を学んだローマの皇帝。
ニサルガダッタ・マハラジは1981年に亡くなったインドの覚者にして雑貨屋のおじさん。
そして釈迦は紀元前数百年に生きた、同じくインドの覚者です。
彼らが説くのは、状況に対応できない無能な現実逃避の思考停止ではなく、必要なときに必要なことをする(考える)以外、無用な感情や思考、マインドのぐるぐるに一切自分をゆだねないと言うことだと思います。
私は大いに共感し、そうするように努めています(いつも成功するとは限らないのですが)(笑)。
<それらが何であれ、あるがままだ。もしふたたびそれが起きるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる>
<ただ必要なことをするだけだ。未来について心配したりはしない。あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ>
それよりも幸せな生き方があるなら、また別ですけども。
| ホーム |