はてなキーワード: 日生とは
ここ数日、家を買う買わないが盛り上がっていて、みんな大変なのは分かるが正直うらやましい。
23区内住み30代共働きで、最近ずっと引っ越したいと思っている。
不妊治療もあれこれしたけど私の持病が悪化して子供はほとんど望めなくなった。
コロナ禍以降夫はリモート多め、私はずっと23区城東地区にフル通勤(たまにリモート)なので
あと今の家は単純に手狭で不便。
1LDKで夫がリビングでリモート(しかも割と激務なので遅くまで仕事していることもある)
地続きの寝室で朝早く起きる必要がある私は早めに寝たい…と生活習慣が違うのもキツイ。
せめて2LDKとかで書斎、寝室は分けたい、もし条件がかなえば個室がほしい。
子供もいないし将来は分からないから賃貸で良いかなと思ってる。
私が持病もあってしっかり休息しないと潰れてしまう体質なので、
通勤時間はあまり伸ばせないのがキツイが都内ギリギリか川渡って千葉、埼玉ならそんなに通勤時間は今と変わらない。
それらを踏まえて
夫に「もうちょっとQOL上げたいから引っ越そうよ」と言ってもなかなか良い返事が無い。
かなり築年数が古いからで、確かに都心にも出やすく静かで生活環境も良い立地でこの値段はなかなかない。
特にコロナ禍以降都内は庶民が住むのに厳しすぎる価格設定なのだ。
ただ、これから長い夫婦2人の生活を考えた時にお互いの住環境のストレスを軽視してもいいのかな?と悩んでいる。
確かに家賃は安いに越したことはないけれど今は2人とも何とか健康に働いているのだしもう少しだけ心地よく生活したい。
正直私はこのまま平日生活時間もずれ、仕事している人の隣でテレビを見て…という生活に耐えられる気がしない。
神経質な性格もあるけれど平日は相手が夜中まですぐそこのリビングで起きている生活音が気になって寝不足になることも多い。
もちろん家賃が上がれば私が払う生活費も増えるのは承知している。
2人でお金を出し合って今より良くしようよと言っているのに……。
さっきの都内東部端っこあたりや県境は探せば+2万円くらいでも十分広い物件はいくつかある。
男も女も仕事と子育てどっちも頑張りゃええんや。でも時間は有限だし社会はお前らやお前らのガキのママ違うわ。
だから回らん分は両親なり義両親なり頼ればええねん。
なんで今は子育てしづらいかってみーーーーんな核家族で自分らで何もかも回すしかないと思い込んでるからや。そんで実際にはできもしない「僕が私が考えた理想のチームワーク」を押し付けあって逃げてるからや。
有史以来で今ほど家族が細分化した時代はないんや。昔なんてハナクソみたいな労働生産性でカスみたいな食い扶持を得ていたわけや。孤立は死やで。
そんな中でも人間が増えてきたのは地域やら親族やらみんなで次世代をなんとか明日1日生かそうとしてきたからや。
せやけどそれはしがらみが面倒やら自由やらが足りない言うてバラけて行ったんが今や。
昔よりガキを育て上げるのに必要な資源が物的にも心的にも増えてんのに育てるチームを減員したらそら破綻するやろ。その状態を続けていったらガキなんざ減るに決まってるやろ。世の中お前らより能力低い人間の方が多いんや。
少なくとも子育てとキャリアを語る程度の能があるお前らならチームのタスク量と人員配置に例えればすぐ想像できるはずや。
そんな能あるお前らがなんで子育てになった途端に自分らで何でもやらなきゃと勘違いを起こすのか。
簡単な話や。お前らはこの期に及んでまだ自分が人生の主人公だと思ってんねん。頑張ったら認められるべきだと思っとるし苦労は報われると思ってるし誰かがどこかで自分の辛さを分かってくれると思ってんねん。
そのつまらん自己愛とプライドが邪魔をして「自分ら回らんから助けて」の一言すら言えなくしてるんや。
大学の学部選んだ時に漠然とあった好奇心はもう全部使い切っているのに、未だに分からないことだらけで目眩がしてくる。
会社のやってることもなんだか他所と色々違うみたいだから転職してリセットした所で良くなるとは思えん。
ただただ金と時間を交換しているだけなのに、どんどん責任は重くなっていく。
テレビゲームのボムみたいな感じで「とにかく助けてください!」でどうにか出来る年齢じゃなくなってきた。
というか自分がそれをやられる側だ。
頼んできた側の勘違いで実際には簡単なことだった時、物凄いホッとする。
いざ自分がやられる川になったら、俺の時間を奪いやがってなんて気持ちが湧き上がるんじゃないかと思っていたけどそんなことはない。
もうとにかく一番怖いのはチーム全体で死にものぐるいで戦わないといけない怪物の発見報告がやってくることなんだ。
昔は後ろの方でビクビクしながら最前線のサポートだけしてればよかったのが、自分が突っ込んでてよく分からんまま口に手を突っ込んで一か八かでトドメをさせないかとアレコレやらされる。
もう嫌だ。
趣味も完全に上手く行ってない。
もう全然楽しくねえ。
膝悪くしてからはスポーツは怖いだけで全然楽しめなくなって、足に負担賭けないようにビクビクしながら筋トレだけやってる。
ゲームも全体的に飽きてきて、大作のとにかく先が見えない感じはもうかったるいし、かといってインディーズのアイディア勝負もちょっと齧った所で昔やった何かと比べてすぐに飽きてしまう。
昔は存在価値の分からなかった「何だか良く分からないものに触ってあっという間に終わってしまうゲーム」の価値が分かるようになってきた。
とにかくアイディアだけサクっと味わえたらもうそれでいいんだって状態なんだ。
映画やドラマも展開は一通り見飽きてるせいで集中力が落ちて話が追えない。
ていうか自分が自分の思ったよりも頭が悪いらしくて難しい話をちゃんと分かろうと思ったら画面に齧りつかなきゃいけないってことを直視できない。
画面の中のテレビショーをちゃんと理解するために必死に画面に食い入ってそれだけやるって人生の使い方がなんだか凄く惨めでやりたくない。
映画館に行って集中して見てたはずでも話が分かってないことが多い。
見終わってから他人の感想を読んで自分が全然話を勘違いしてたことに気づいたりする。
なんだか惨めだ。
私生活も荒れてきて、たまに掃除や睡眠をしっかりやろうと思いつくことがあるけど、そのブームがいつの間にか去って気づくと汚い部屋で夜更かししていることが年の半分ぐらい。
体は膝以外もボロボロで、歯医者で歯石取ってもらってるのにいつも口の中がネバネバしてるような感じとか、ふとしたときに嗅いだ服の匂いの加齢臭みたいなのとか、そういうのもう全部辛くなってきた。
バイキングじゃ全然食べられないのに何でもない日にたくさん食べまくってしまい次の日は夜まで何も食べられずに過ごしたりするような、体のコントロールの効かなさがいろんな所に起きてる。
結婚式や葬式以外でしか合わない従兄弟が今何やってるのか時折気になって、そういやアイツらはこっちよりも大分器用に生きてた気がするなと嫌になる。
人間関係の健全なあり方みたいなのを身に着けられずに来たからとにかく人間と関わりたくない。
いい感じに見下しあえたら友達になれて、一方的にこっちが見下してたら関わりたくない相手、逆に相手から強烈に見下されていると感じたらそのときも逃げていく。
人間が他人と自分を比べるっていうのは当たり前なんだけど、そこにおいて尊重しあうっていうことが道徳的な正しさの上にしか存在してないような感覚がある。
もうなんか人生全部が辛い。
末期がんの患者がモルヒネがいい感じに効いてる時の穏やかな気持ちの中で「じゃあ自分の人生にどういう結論をつけていくか、頭の中だけでも整理してから終わらせたいなあ」と考えているような状態の中をもうずっとずっといつまでも生きてきた気がする。
そこから突然、なにかが変わって人生が好転しだす可能性を信じてた。
世の中じゃこういうのを「人生が始まってることに気づいてない」みたいに言うらしいな。
いつの間にか始まっていた人生がいつの間にか終わっているただそれだけなんだってことを納得しておけばいいっぽいのは分かってる。
生まれた家とか時代とかDNAとか子供時代の過ごし方とか就職先の選び方とか人間関係とかそういうのにたらればを持ち出すのは無意味だってことも分かってる。
少なくとも生まれてきた瞬間に決まるものについてタラレバを考えるのは無駄だ。
「魂の実在を信じているのか?異世界転生するライトノベルみたいに?」って話だ。
科学を進行しているので魂や輪廻転生は信じてませんって考えてるくせに、どこかで「もしかしたらこうだったかも知れない自分」を空想しているのが本当に無駄なんだ。
「生まれ変わったら今度はこういう風に生きよう」みたいなこと館上げるのは、タイムマシンで意識だけを過去に飛ばせる実験がどこかで成功したのを聞いてからにすればいい。
今の時代に生まれた自分たちの意識において、過去に飛ぶとかやりなおすとかは無関係なことなんだ。
空想の中でそれをやって、空想の中で満足するだけならまだしも、そうやって作戦を練ることで人生が好転する可能性を信じているならそれは科学を進行している人間として実に奇妙な状態になる。
なんたらの賭けの亜種として、もしもそんなことが起きる可能性があったならちょっとぐらいは準備しておくのもアリかもって範囲ならまあいんだろうが。
でもなんか自分含めて皆があーだこーだ考えすぎている気がしてならん。
今の自分じゃなかった可能性の今の自分を考慮して何の意味があるんだろう。
「もしも3月31日生まれじゃなくて4月2日生まれだったら学年一位だって取れたかも知れない」みたいに考える時、そもそもその2日違いの生まれの間に意識は全く別物へと変容していて、今の自分とは別の魂で動く別の人間だったはずなのに。
肉体より先に魂がこの世界にあると信じるならそれでもいいが、それならもういっそ割り切って「ハズレを引いたなりになんとかやっていくループ」として今の人生を生きればいいのに。
前世の記憶が引き継げたりしないルールっぽいのは明白じゃないか。
異世界に行った時に備えて現代知識の勉強をするために現代社会を生きるのは完全に無駄だ。
魂の実在を過剰に信じてたらればに執着して生きるってのはそういう生き方だ。
って頭で分かっているのにそういうのに縋ろうとしている自分に毎日出会う。
どうしようもなくなった人生に逆転のワンチャンスを与えてくれるなにかを信じて。
こうやって自分を説得しまくってもまだまだ魂の実在を信じて脳がタラレバを考える。
だってもうこんなどうしようもない人生を今から立て直そうとするのはしんどすぎるから。
本当にしんどいんだ。
まとま
・フリーレンは老人が若者とイチャイチャする話って言われてるけど、そもそもフリーレンって「老人」ではないよね。
・ということについて1人であーだこーだ考えたけど全然考えがまとまらない。
・こういうのについて書かれている本やブログあったら教えてくれ。
「葬送のフリーレンは「老人が若者にドヤ顔したり介護してもらう漫画である」という意味不明の言説が最近ネットで流行っており、人間性に問題のある人達が「この釣り餌は使えるぞい」と日夜この話題で己の醜い承認欲求を満たすために構ってちゃんを繰り返しています。それ自体の是非は今はどうでもいいので放置します。
私が疑問に思ったのは、「そもそもフリーレンは老人なのか?」ということです。
『老人』の定義は様々でしょうが、私は今回老人を『その種族としての寿命を使い切りつつある(いつ老衰が来てもおかしくない)状態』を意味する言葉として用いたいと思います。
たとえば「10歳の犬」は「種族としての寿命が使い切りつつあると言えるので『老犬』である」と定義されますよね?それと同じ考えです。「老エルフ」のような表現を使うとあとあと面倒になるので、老いた人型種族はまとめて「老人」として扱わせていただきます。
これは作中に登場するゼーリエ というエルフとフリーレンの会話からの推察です。
ゼーリエ はフリーレンと同じエルフ種であり、フリーレンの師匠であるフランメの師匠に当たります。このことから雑に考察すると恐らくゼーリエはフリーレンよりも年上だと思うのですが、人間と関わり始めた時期の違いだけであり実際にはフリーレンが年上である可能性は否めません。ただし、作中の言動を見るにゼーリエがフリーレンと比較して極端に若いということはないと思われます。
そしてこのゼーリエ がフリーレンとの会話中に口にした死生観を見るに、まだまだ彼女達の寿命も尽きそうにありません。
「私達はそれを百年後にやっても二百年後にやってもいい、千年ほったらかしにしたところで何の支障もない。私達の時間は永遠に近いのだから。」
もしもこの二人のエルフが千年、二千年後に死ぬ可能性があるのだとすれば、このような会話をすることは難しいでしょう。
また、彼女たちが100万年の寿命を持ち、これまでに90万年生きてきたとしても、このような会話をすることはないと思われます。
自分たちの永遠に近い時間もいつか尽きるこをまだまだ先だと感じていることが言葉の節々から読み取れます。
そのことから「エルフの基準においてまだ老人ではない」と考えることが出来ます。
フリーレンは「老人」ではないわけです。
でも読者はついつい自分たちの基準を当てはめてフリーレンを「おばあちゃん」のように扱ってしまう。
これはまさしくフリーレンが人間に対して行ってしまった錯誤の真逆なのです。
物語の冒頭、「たった50年先の再開の約束」を果たした「まだ100歳にも満たない若者」と思っていた相手はすっかり老いてしまい、その生命を使い切ってこの世界から旅立ったとき、フリーレンは自分の過ちに気づきます。そして、その後何度となくぶつかる時間感覚の違いが、この作品のテーマの一つとなっているわけです。
私も全く同じだったのです。
フリーレンの寿命はまだまだ先であることを知りながら、彼女をどこかで「おばあちゃん」として扱っていた。
どこの馬の骨とも知らない斜め読みのレス乞食が投じた的はずれな一石が、意外な所で私のフリーレン観の過ちを暴いてしまったのです。
そこから派生して考えていくうちに完全に分からなくなりました。
年齢的には3桁4桁だけど外見年齢相応の精神性の長命種キャラクターもいれば、外見年齢と全く中身が一致していない長命種のキャラクターもいます。
そもそも種族として若者か老人かということは人生経験の有無から独立しているとも考えられます。
およその寿命が10日である生き物が10日生きたら、その精神性は老境に相応しいものとなるのでしょうか?
精神年齢は役割によって決定するという考え方も出来ますし、死が迫ることで価値観が変化していくという見方も出来ます。
私達が一般に使う精神年齢はおおよそ「人生において失敗や成功を繰り返した結果、少々のことに動じなくなる程度」のように扱われている側面が強く見受けられます。
そうなると長命種の種族的な寿命から考えたライフステージとは無関係に、実年齢の高さがそのまま精神年齢となるのでしょうか?
これは大いに疑問です。
そもそもキャラクターに与えられた役割によって決まるという身も蓋もない答はあるにはあります。
江戸前エルフのヨルデが600歳超えの年齢に関わらず全体として言動が幼いのは、そういう設定のキャラクターであるからだと結論づけて考察を止めることは可能でしょう。
でも本当にそれでいいのでしょうか?
分からない。
もう分からない。
10歳の老犬を擬人化した時、その精神年齢は人間の60歳に相当するものであるべきなのか、人間の10歳にそうとうするものであるべきなのか、その答を延々と探し求めるようなものです。
「答えなんてない」で終わりにすべきだという方向に直感は動いています。
でも試しに人に聞いてたり、本を開いてみれば別の答えが返ってくるかも知れない。
聞くべき相手も開くべき本も分かりません。
誰か助けてくれ~~~~。°(´ฅωฅ`)°。
「イックル」だぜ?
誕生日のせいで最初「オナニー」だったのが、いつの間にか8桁表記で「イク・クル・オナニー」になり「イククル」を経由して「イックル」になったんだぜ。
流石にコレはイジメだろってことで「イッ君」に落ち着いたけど、俺の姓名に「イ」は一文字もないから。
生年月日の最初の1文字でしかない上に、同じ教室にいる奴らの半分ぐらいが同じ年に産まれているのに俺だけが産まれた年度由来のあだ名っていう異常事態が発生してるからな。
同じ月日に産まれた女がいてソイツも流れ弾食らって、太っちょだったのもあって「ぷっちょ」ってあだ名になった。
これがマジで飛び火しまくって、最終的に「イククルが07月21日に産まれたのが悪い」みたいな話になったからな。
意味不明すぎるだろ?
子どもがいて幸せなこと。まず子どもがとても愛してくれる。産む前は、親が子に愛情を注ぐものだと思っていた。もちろんそうなんだけど、与えてる愛情より受け取る愛情の方が大きいんじゃないかと思う。子どもは親が好きだ。生きるためにそうなってるんだろう。「ママ大好き」「一緒に遊ぼうよ」「抱っこして」と甘えられる。かわいい。愛されてるなと感じる。そして、私もこんな風に親のことが好きだったのかな、とか親も私から愛されてる実感があったのかな、とか思ったりする。
子どもがいなかったら知らなかったであろうことをたくさん知る。
これはまぁ子の発達段階、世の中の仕組み、プリキュアのことなど様々である。プリキュアとかディズニーとか何の興味もなかったため子どもと一緒に見て学習しているところ。今も興味が沸いてるわけではないが、こういうのが好きなんだな〜へーと思って見ている。
大変なこと。
時間がない。子どもに対応する時間が増えるわけだから当然他の全てにおいて出産前と同じ時間をかけることはできない。睡眠、家事、仕事、趣味。予定立ててもそれ通りにいかないことも多々ある。消化不良でストレスたまる。最初は。次第にあきらめる。子どもが生きてりゃなんでもいいかぁと思う。そういう経験があるから子どもがいる人は他人そして自分に対する「諦め」が早いと思う。あくまで主観だけど。
気をつけていること。
夫婦仲良くいること。これ一番大事だと思ってる。私の両親は不仲で、私が学生時代は会話は私通してしかしてなかった。離婚しないのは自分がいるからで、両親を不幸にしているのは私だと思っていた。母が父の悪口を言っていたので父が嫌いだった。結局今も離婚せず悪態つきながら2人でやってるので今となってはそんな思い悩むことなかったよなと感じるが、思春期のアイデンティティの形成にはかなり影響あったと思う。
なので、夫婦仲良く、夫の愚痴は子どもには言わない。いないところでたくさん褒める、を、心がけている。実際そんな不満もない。