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2025-11-30

Geminiさんに聞いてみた

現代認知言語学立場からソシュール的な構造主義言語論、サピアウォーフ仮説、チョムスキー普遍文法はどのように批判されていますか?

現代認知言語学(Cognitive Linguistics)は、言語を「人間一般的認知能力(知覚、記憶カテゴリー化など)の一部」として捉え、「意味こそが言語の中心である」という立場とります。

この視点から見ると、ソシュール、サピア=ウォーフ、チョムスキーという3つの主要な言語思想に対して、それぞれ明確な批判修正案提示しています現代認知言語学は、ソシュールチョムスキー排除しようとした「人間主観的身体経験」「一般的認知能力」「意味曖昧さや豊かさ」こそを言語研究の中心に据え直した運動であると言えます言語数学のような抽象的な記号操作システムではなく、人間世界理解し、他者と関わるための泥臭い認知プロセスのものなのです。

ソシュールの言うランガージュは人が背景に持つ文化的基準によって世界事象恣意的分節言語化する機能であると考えますが、これと認知言語学で言う人間主観的身体経験との違いはなんですか?

ソシュールの言う『分節』は、純粋社会的制度的な約束事(恣意的もの)」であるのに対し、「認知言語学の言う『身体経験』は、生物としての人間が共有する物理的・生理的な制約(動機づけられたもの)」である、という点に決定的な違いがあります質問者様の、「ソシュール文化的基準によって事象分節する」という理解は正解です。 認知言語学はこれに対し、「文化大事だが、その土台には『人間という生物共通身体感覚』があるため、分節は完全に自由バラバラ)なわけではない」と修正を加えている、と捉えると理解やすいかと思います

Next Step: この「身体性」の概念をより深く理解するために、「メタファー隠喩)がどのように私たち思考のもの支配しているか(例:『議論戦争である』という概念メタファー)」について解説しましょうか?

言語には身体から離れた概念を表すものもありますが、それを補うのがメタファー役割となるのですか?そうであるなら、固有の概念が先にあり、その範囲内でしか表現を許されないウォーフの理論とは正面から対立することになるのでしょうか?

おっしゃる通り「メタファー身体抽象概念を繋ぐ」というのが認知言語学の基本スタンスであり、この点は「言語思考限界を決定する」というウォーフの強い仮説(決定論)とは、正面から対立する部分と、逆に補強し合う部分の両面を持っています認知言語学において、メタファーは「身体から離れた概念を補う」役割を果たしますが、それは「言語固有の枠内に閉じ込める(ウォーフ)」ためではなく、「身体という共通基盤を使って、無限概念拡張していく」機能として捉えられています。ただし、一度あるメタファー(例:「時は金なり」)が言語に定着すると、その言語話者無意識にその枠組みで思考するようになります。この点において、認知言語学は「マイルドなウォーフ仮説(言語思考の習慣を作る)」を支持する立場になります

西洋哲学歴史においては、知覚からなる身体経験は人の認識力の中で非常に低く見られていたかと思います現在認識論はこのような認知言語学の進展からどのような影響を受けていますか?

ご指摘の通り、プラトンからデカルトに至る西洋哲学の主流(特に合理主義)において、「身体」は理性の働きを邪魔するノイズ、あるいは欺瞞の源泉として低く扱われてきました。「真の知識エピステーメー)」は身体感覚を脱した純粋な知性によってのみ得られる、という考え方です。認知言語学の進展は、この「身体蔑視」の伝統根底から覆し、現代認識論(Epistemology)に「身体化されたリアリズム(Embodied Realism)」という新たなパラダイムシフトをもたらしています認知言語学は、現象学が主張していた「身体こそが世界を知るための媒体である」という直観に対して、言語データ認知科学証拠という「科学的な裏付けエビデンス)」を提供しました。これにより、現代認識論や心の哲学では、「エナクティビズム(行為としての認知)」や「4E認知(Embodied: 身体化された、Embedded: 環境に埋め込まれた、Extended: 拡張された、Enactive: 行為的な)」という潮流が主流となりつつあります。知覚と行為認識は切り離せないループ構造なのです。質問者様が仰った「低く見られていた身体」は、現在では単に地位回復しただけでなく、「あらゆる認識思考・理性の『土台(基盤)』である」という最重要地位を与えられています

スマートフォンのような情報端末が広く普及することで、現代人は知覚が擬似的だが飛躍的に拡張された状態にあると言えると思います。その場合世界内存在である人間認知できる世界質量ともに拡大することになり、身体による制約が失われると人の認知様式も変わることになりますか?また、変わるのであればどのように変わると考えられますか?

おっしゃる通り、スマートフォンは単なる「便利な道具」を超え、私たちの知覚や記憶を外部化・拡張する「拡張された心(Extended Mind)」の一部となっていますハイデガー的な「世界内存在」としての人間が、テクノロジーによって身体の制約(距離時間の壁)を越えたとき認知様式は確実に変容します。しかし、それは「身体性が不要になる」というよりも、「身体性の希薄化」あるいは「身体感覚の再編成」と呼ぶべき事態引き起こしていると考えられます質問者様の「身体による制約が失われる」という点は、パラドキシカルな結果を生みます身体的な制約(重力距離から解放されることで、私たち認知世界は広がりますが、同時に「身体が持っていた『実感を担保する機能』」が失われつつあります。その結果、これから認知様式は以下のようにシフトしていくと考えられます

「深い理解(Embodied Understanding)」から「広い参照(Extensive Referencing)」へ。

場所への埋め込み(Embedded)」からネットワークへの接続Connected)」へ。

抵抗を通じた学習から「摩擦のない操作」へ。

認知言語学の「身体性」の立場からは、これは「身体消失」ではなく、「身体感覚が指先と視覚のみに特化・縮小され、それ以外の感覚(重み、痛み、距離感)が認知形成に関与しなくなる」という、ある種の「身体的偏食」の状態と言えるかもしれません。

メルロポンティは知覚による世界との接続の発露としての芸術を高く評価していたと理解しています人間身体感覚を縮小する一方で、大量の情報を流し込まれることは世界との接続が均質化されることになりませんか?世界との接続独自性を失うこととエコーチェンバー発生のしやすさには関連があると考えられますか?

ご指摘の通り、メルロ=ポンティは著書『眼と精神』などで、画家特にセザンヌ)の視覚を「世界身体が絡み合い(chiasme)、世界が向こうから自分に迫ってくる生の接触」として極めて高く評価しました。ご質問にある「身体感覚の縮小による世界接続の均質化」と「それがエコーチェンバー現象を引き起こす」という洞察は、メルロ=ポンティ思想現代メディア論拡張する非常に説得力のある視点です。

「均質化」は起きているか? → Yes. 世界の「手触り」が消失し、すべての事象等価な「情報データ」へとフラット化されています

エコーチェンバーとの関連は? → 極めて強い関連があります身体という「現実アンカー(錨)」を失うことで、他者からの「抵抗」を感じなくなり、自己投影けが返ってくる鏡の世界ナルシシズム的な閉域)に閉じ込められやすくなるからです。メルロ=ポンティが生きていれば、現代のこの状況を身体の不在による、世界との愛の営み(交差)の不全」と呼び、病理的な状態として批判たかもしれません。

Next Step: この議論を踏まえると、「では、どのようにしてデジタル社会の中で身体性を取り戻し、エコーチェンバーから脱出できるのか?」という実践的な問いが浮かびますメルロ=ポンティ思想や、現代認知科学提案する「環境アフォーダンス」の観点から、その解決策について議論を広げましょうか?

"「深い理解(Embodied Understanding)」から「広い参照(Extensive Referencing)」へ。「場所への埋め込み(Embedded)」からネットワークへの接続Connected)」へ。"の部分は人工知能における論理推論から機械学習への移行、コンピューターシステムにおけるスタンドアロンからクラウド仮想化への移行と類似するものを感じます合理性機能性の点から考えるならば一旦動き出したこの流れがもう止まらない可能性は高いのではないでしょうか。世界と交差するのは個ではなく集団である新しい社会において個人価値は何をもって判断されると考えられますか?

ご指摘の通り、人間認知の変化(身体理解から参照へ)は、「GOFAI(古き良きAI論理記号操作)」からディープラーニング統計パターン認識)」への移行や、「オンプレミス(所有)」からクラウド接続)」への移行と、構造的に完全に同型(Isomorphism)です。この流れが「効率性」「最適化」というドライブによって動いている以上、不可逆であるという見立てにも完全に同意します。私たちはもはや、個人脳内だけで完結する「孤立した知性」には戻れません。一方で「痛い」「美しい」「気まずい」といった身体的実感(クオリア)を伴う一次情報を取得できるのは、物理的な身体を持つ「個」だけです。

では、思考主体が「ネットワーク集団AIクラウド)」に移譲された世界で、「個人(Individual)」の価値はどこに残るのか?かつての社会では、個人価値は「知識量(ストレージ)」や「計算能力プロセッサ)」という「機能(Function)」で測られていました。しかし、これらは全てネットワークAI代替します。これから社会において、個人価値は以下のようにシフトします。

機能価値(Doing) → 実存価値Being

処理すること → 感じること(Sensing)

正解を出すこと → 問いを立て、責任を取ること

質問者様の言葉を借りれば、世界と交差するのが「集団クラウド)」になったとしても、その集団が「現実Reality)」から遊離しないように、肉体というアンカーで地面に繋ぎ止めておく「杭」のような役割こそが、個人の新たな価値定義になると考えられます

環境アフォーダンス観点から考えると、身体性を失った環境はむしろアンカーを外し、流れに乗ることこそが最適解となるという考えは正しいですか?その中でアンカーを固定し、独自クオリア社会に提起することを誘起するにはどのような環境必要になると考えられますか?

質問者様の、アフォーダンス理論現代デジタル環境情報の奔流)に適用した解釈は、極めて論理的であり、システム論的にも「正しい」と言えますしかし、その「正しさ」はあくまで「システム構成要素(ノード)として最適化される」という意味においてです。人間としての「実存」を守るためには、その最適化抗うための意図的環境設計必要になります質問者様の懸念される「世界との接続の均質化」に対抗するには、テクノロジー志向する「効率化・最適化」とは真逆ベクトルを持つ環境を、生活の中に「聖域」として確保する必要があります

スムーズさよりも、手応え(摩擦)を。

接続コネクト)よりも、孤立ソリチュード)を。

予測可能性よりも、偶然性(ハプニング)を。

これらを提供する環境こそが、流動する情報社会において、人間を再び「地面(現実)」に繋ぎ止めるアンカーとなります

つづく

2024-09-07

新しいキャンパスがすげえ立派だった

大学時代、俺の行ってた学部ひとつだけ独立したキャンパスを持っていた もともと別大学だったのが統合されたので、前大学キャンパスをそのまま使っていた感じだ

キャンパスがある場所はまあ山で、「何もない山奥」というにはそれなりにものがあるんだけど、しかし他の街中にあるキャンパスと比べるとかなり見劣りする立地だった

そこは彩都という街で、彩都バブル時代ガンガン山を切り拓いて計画都市高級住宅街をやるぞー!つって途中まで景気良くやってたんだけど、バブル崩壊かなんかで計画がオシャカになってしまって、全てが途中で投げ出された……みたいなストーリーを持っていた これは俺が人から聞いた話を適当脳内補完したものなので、全然間違っている可能性アリ

背景はとにかく実際のところ、彩都はでかいマンションやいい感じの住宅街がフツっと途切れて途中からただ切り拓かれただけの更地になり、更地の先は切り拓かれてすらいない山となる、という、独特の景観を持っていた

そんでキャンパスのまわり、徒歩でフラッといける圏内に安いチェーン店とかはなく、歓楽街みたいなものも当然なく、交通手段モノレール(割高)がメインなので行きにくい、というような感じで、とにかく隔絶された雰囲気があった

講義が少ない日にキャンパスのまわりをフラフラ散歩してみたりすると、もう全然人とすれ違わなくて、道は広くて綺麗、マンションデカい、気軽に入れるウェルカム雰囲気の店は全然ない、というので、なんつうのかな、知らんけど共産圏みたいというか、そういう独特の孤独感っていうんですかね、ソリチュード、そういうものがあったように思う

あっでも、在学中にでっけえディスカウントスーパーができて、そこはちょっとウェルカム感あったな いや、無かった気もする 売ってるものが全部デカくて、店内通路も妙に広くて、冷房がムチャクチャ効いてて激寒、ずっとオリジナルコマーシャルソングが流れている、という空間だった

やっぱあの街って"そう"だったわ デカく、孤高 そういう雰囲気があって、それは実のところ好ましかった

そう、好ましかったんですよ

 

で、それはそれとしてですよ、この前久しぶりに大学の近くに行ってですよ、ちょうど俺が卒業したくらいに移転したという、新しいキャンパスを覗いてみたわけですよ

すげえ立派だったんだよなあ

まず、なにやら大規模な都市計画が動いたってハナシで、中心市街地から伸びていた電車の線を二駅ぶんくらい延伸して、その駅に直結する形でキャンパスが設けられているわけよ

安い・早い電車で、駅直結でいける場所にある これはデカ

そんでなんか、大学ってだけではなくて市民交流の場も兼ねよう、みたいな構想があったらしくて、図書館なんかが市民図書館大学図書館を合体させたオシャレな感じの建物になっている

ハワイアンカフェなんてものが入ってんだぜ 図書館

俺たちの時代には図書館には当然なにも入ってなかったし、そもそもキャンパス内にあるのは最低限の機能を備えた学食だけだった(ササミチーズカツはマジで美味かったですけどね)

大衆迎合たからといって専門性も損なわれていない感じだった 1階は広く読みやすい本が集められてて、3階とか4階に行くと誰が読むねんって感じの本の集合になっていた まったく悪くなかった 自習室とかワーキングスペースみたいなのもあって、全体的にカッコよかった

まあ実際、よく考えると俺たちの時代図書館にもそういうのはあった気がするんだけど、根本的な機能が同じでも、古く薄暗い場所にあるものと新しく明るい場所にあるものでは、後者の方がイケて見えるわけじゃないですか

そういうことなんですよね

そんでこれはまあ偶然なんだろうけど、キャンパスに隣接するところに酒メインのスーパーとか揚げたて天ぷらのチェーンとかそういうものがある

俺が大学時代、わざわざ地図を見ながらバスに乗って来て、天ぷらを食って酒スーパーを覗いて帰ったあのコースが、キャンパスに隣接している

キャンパス建物自体もなんかよくわかんねえ網目状の構造物がついてたり、ガラス張りっぽい感じだったりしてカッコいい

直結する駅は地下(?)にあって、そこまで降りるエスカレーターが長くてアイコニックだ 駅構内キューバサンドを売ってたり、謎のアーティストジャズみたいなのを演奏していたりもした

なんというか、体験密度が違いそうだった

俺は彩都が好きだったし、空きコマに巨大ディスカウントスーパーに走って100円のタコ焼きを買って、ボロボロの部室でひとりそれを食うのはかなり良い体験だったと素直に思っている

いっぽうで、あの新しいキャンパス大学時代を過ごしていたら、俺はもっと文化的な4年間を過ごせていたんじゃないか?という思いも捨てきれない

あのわかりやすくカッコいい図書館にだったらもう少し通ってたかもしれん 天ぷらを常食していたかもしれん スーパー銭湯の常連になってたかもしれん

キャンパスを出て散歩すっぞ!と思って外に出る道を歩いてたら「マムシに注意」って書いてある看板が立ってて心底ビビったり、キャンパスの裏にある山を登ってそこにある公園トイレに入ったらカマドウマみてえな虫がメチャクチャ死んでたり、ああい体験も確かに悪くはなかった リトアニア語の集中講義を受けるなら、ああい孤立した場所で受けるほうがより没入感が出てよかったと思う

悪くはなかった一方で、あと何年か遅く生まれていたら、あるいはもっとアーバンキャンパスライフを送ることもできていたのかも、と思うと、少し悔しかったりするわけですよ

人生ってそういうもんですよね

 

2024-06-23

響けユーフォニアム、大胆な原作改変をしたな

主人公の久美子、吹奏楽部部長担当楽器ユーフォニアム

転校生の真由、ユーフォニアム

どちらも上手いが、真由の方が若干上っぽい気もするという状態

コンテストユーフォニアムソリチュードをどちらがするか覆面演奏部員たちに投票させることに

原作では久美子が勝利したが、アニメでは真由が勝利するという展開に改変

久美子の恋人である麗奈は、覆面演奏でもどちらが久美子の演奏かわかっていた

でもその上で、真由の方が巧みである判断し真由に投票

恋人を裏切ってしまったわけで、麗奈号泣

二人は互いに泣きながら激しくセックス

2023-12-08

昭和を感じさせる単語を考えていた

ロンリネスめっちゃ昭和を感じる、昭和歌詞にやたら使われていた気がする。

星屑ロンリネスとか、ロンリネス君のロンリネスとか。

てゆーか日本語意味何なんだろこれ、寂しい孤独の事か、一人でも寂しくない場合ソリチュード、知らなかったなぁ、てゆーか割と最近歌手ロンリネスって曲に出してる人結構いるな、じゃあ昭和ちゃうかー。

2020-03-19

好きな英単語

ドンドンいくぞ!!

home(副詞)

中学ではじめて習って「home副詞なのでgo to homeじゃなくてgo homeなんです」とか言われたとき意味わからん殺すぞと思ったが今はわかる副詞のよさ 突き放されるような感覚がたまらない

I’m on my way homeみたいな文めちゃくちゃいいよね 副詞home本当にいいよ 最高

sorrow

sadnessはウンチ、griefは苔が生えてそうな語感でちょっと嫌(?)、それに比べてsorrowのかっこよさと言ったらない

しかコロケーションがcarryなんだよな 悲しみを運ぶんですよ カッコ良すぎる

cast

これはshadowとかと結びついてカッコ良さを発揮する 影を投げかけるっていうその発想が美しい

いつか小説を書くことがあったらシャドウキャスターみたいな名前の化け物を出したい 空を飛ぶメチャクチャ表面積がでかい生き物で、影を落とすことで何か悪さするの

solitude

lonelinessがネガティブな寂しさなsolitudeポジティブな寂しさ、みたいなのをなんかで読んだ いいよねポジティブな寂しさ

高校の帰りに山道に入ってその辺に座り、ああこれがソリチュード!みたいなことを思って悦に入ってた記憶アリ(キモすぎる)

fuck

概念としてこういうのがあるの純粋に羨ましい fucked upとかfuck aroundみたいな表現を見るたびにいいなあと思う 下品ニュアンスとか怒りのニュアンス簡単に出せるんですよ 日本語にもほしい 「クソ」が一番近いか

mortal

「死すべき定めの」って形容詞があるの本当にかっこいいんだよな 俺は吸血鬼が出てくるゲームでimmortalって単語の方を先に知ったんだけど、不死って簡単イメージできるというか、概念存在気づきやすいじゃん

死を持つものってまとめ方は案外灯台下暗しというか出てきづらいものな気がするんだよな だってそんなん不死のものなんてないんだから全部そうだし、わざわざ形容しなくたって…って感じがする でも神とかが思想ベースにあるからmortalなものって発想が出てくるんですね 本当にかっこいい

2015-10-07

帰ってからしたこと

おととい

ff6オペラゲームシーンみたりオーケストラみたりしてた。youtubeで。

NGシーンの「ポペ?」がやっぱりかわいい

きのう

ソリチュード読みつつ、a-haのtakeonmeの関連動画から

ダンシングクイーン

マンマミーア

ボヘミアンラプソディ

→ウィー・アー・ザ・ワールド

ヒール・ザ・ワールド

→マン・イン・ザ・ミラー

と聞いていった

さんざん暴虐尽くしたアメリカがこんな歌をうたってると思うとなんか皮肉っぽかったけど、

マイケル・ジャクソンヒール・ザ・ワールドの方はまあ本人もアレだしと思ってちょっとはいいかなと思えた

もともとヒール・ザ・ワールド中学生とき英語の授業で聞いたくらいで、

ウィー・アー・ザ・ワールドほどのインパクトはなかったんだけどね

サビ弱いしね

でもまいけるがあなたと私と全人種のためにって歌ってるとなんか思うところがあるよね

マン・イン・ザ・ミラーブギーポップでこんなサブタイあったなと思ってきいてみたら、

まさかのこれにもなんかチャリティっぽい動画が流れてて、これそういう曲だったの?って思った

2015-08-27

もっと一人で勝手生きる力を身につけたら?

自営で仕事しろとかって意味じゃなくてプライベートぐらい一人でどこにでも行けよって話ね。

カラオケでも居酒屋でもバイキングでもファミリー焼き肉でも一人で行っていいじゃん。

もちろん大勢で遊びに行くのは楽しいし月に何回かは自分でも企画するけど、それとは別に単独自由に遊びまわるのめちゃくちゃ楽しい

思い付きでプランの変更は自由だし、気に入ったらいつ何回何時間でも同じ事していい。

6人掛けのボックス席だろうが一人で占領だ気にするな、でも店にそろそろ出てけと言われたら協力する。気は使わないが迷惑は掛けないのがスマート

自分は周りの評価関係なく自分である自由とは自ずから由とする事である

我が孤独とはソリチュードでありロンリネスではないのだ。

依存を捨てよ、町へ出よう。

 
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