人間失格
主人公が対人恐怖と二者択一もできない優柔不断のため、
自分を道化にして他人の不興を買うのを避け続けた結果が、
脳病院への収容で、そのときに発した
「神に問う、無抵抗は罪なりや?」との言葉は
不可抗力だったといいたかったのだろうか。
少なくともガンジーのような強い意志による無抵抗とは思えない。
そういう自分も保護者同伴じゃなくなる頃から対人恐怖は感じ始めて
道化で切り抜けようとしたことは幾度もある。
いま山で暮らしているのも対人恐怖の名残かもしれない。
(でも限界集落でも人里にはちがいなく、逃れられはしない。)
怖いものには近づきたくない― それが自分で、
正直、この本を手に取ること自体怖かった。
自分で選択した人生でなく、
親の言うままに進学し寄宿生活を送り、上京し、
悪友に、組織にひきずられ・・・ということだけど
上京して最初に入った寮生活からは逃げ出し、
雑誌編集担当者の母娘の家からも逃げ出す。
”逃げる”という選択肢はもっている。
親の言うままに進学し寮生活途中で、
行事が多すぎて勉強できないからと逃げ出し、
勉強に行き詰まってさびしくなってまた寮に戻った自分。
劣等性のレッテルを貼った先生の言うがままの就職をして
20年勤めたが、初めて自分の意思でその会社を辞めて
その後はご覧のとおり。
(先生は自分に才能がないことを見抜いていた。)
太宰のいう「実利的」な仕事でこそ生計を立てたいと
思ったにもかかわらず、そっちのほうは”へっぽこ”で
サラリーマン時代みたいに(結果的に人に取り入る)ことで
ポジションを得るようなことにはなりたくない。
(そのためには会社を儲けさせて、実利を示さねばならない。)
主人公よりも人間失格のような人物がいくらでも出てくるのに
身を持ち崩さない。では身を持ち崩さない人のほうが
「悪人」の要素があるということか?それは見たくない世界だ。
自分の父親も酒で身を持ち崩したが、
主人公同様「いいひとすぎたのよ。」と人に言われている。
犠牲になった家族にとってはとんでもない悪人だった。
悪意の有無にかかわらず結果的に悪人だ。
それは
山で石につまづいて、山に悪意があったと思うのと同じだろうか?
一読した後これを書くためもう一度読んだらわけがわからなくなった。
自分が見たくない世界をブロックしているからだと思う。
この主人公は道化といいながら
うそでキスをしたり、うそでほしいお土産を父に知らせたり、
人を喜ばせながら実は裏切っている。
それが自己防衛のためだから始末に終えない。
道化で他人(特に女性)を欺き、相手を意のままにするのは
無抵抗ではなく支配していることではないのか?
彼自身の破滅を彼に欺かれ彼を甘やかせた女性のせいにしてはいないか?
その技が通じなかったのが竹一であり、ヒラメであり、
堀木であり、うその咳を見破った検事であり、寮の学生で、
付け入る隙のない人間も普通にいる。
見たくない、わかりたくないと思うもの、
自分が、自分の親父がこの物語に似ていると思いたくないためか、
もうちょっと生きてみたらわかるときも来るだろうか?
宮沢賢治の虎十公園林で
丹精こめて植えた杉林を、意地悪な男に伐れといわれて
いままで誰にも抵抗しなかった虎十がはじめて抵抗したため
殴られて雨に打たれて死んだような、なにかがんとした意思のある
話のほうが、同じ死ぬのでも自分は好きなのだけれど・・・
それはリアルじゃない作り話の世界なのか・・・
今気がついたのですが、
虎十(けんじゅう)の名は賢治(けんじ)に似ています。
偶然かもしれないが、遠藤周作の「海と毒薬」に出てくる
戸田という男の生い立ちで、根っから罪悪感の乏しい男でありながら
小さい頃から「よいこ」を演じて、先生も友達もそれにだまされていたのが
ある日、東京からの転校生に欺瞞を見破られる場面があり、
なんだか似ている気がした。
自分を道化にして他人の不興を買うのを避け続けた結果が、
脳病院への収容で、そのときに発した
「神に問う、無抵抗は罪なりや?」との言葉は
不可抗力だったといいたかったのだろうか。
少なくともガンジーのような強い意志による無抵抗とは思えない。
そういう自分も保護者同伴じゃなくなる頃から対人恐怖は感じ始めて
道化で切り抜けようとしたことは幾度もある。
いま山で暮らしているのも対人恐怖の名残かもしれない。
(でも限界集落でも人里にはちがいなく、逃れられはしない。)
怖いものには近づきたくない― それが自分で、
正直、この本を手に取ること自体怖かった。
自分で選択した人生でなく、
親の言うままに進学し寄宿生活を送り、上京し、
悪友に、組織にひきずられ・・・ということだけど
上京して最初に入った寮生活からは逃げ出し、
雑誌編集担当者の母娘の家からも逃げ出す。
”逃げる”という選択肢はもっている。
親の言うままに進学し寮生活途中で、
行事が多すぎて勉強できないからと逃げ出し、
勉強に行き詰まってさびしくなってまた寮に戻った自分。
劣等性のレッテルを貼った先生の言うがままの就職をして
20年勤めたが、初めて自分の意思でその会社を辞めて
その後はご覧のとおり。
(先生は自分に才能がないことを見抜いていた。)
太宰のいう「実利的」な仕事でこそ生計を立てたいと
思ったにもかかわらず、そっちのほうは”へっぽこ”で
サラリーマン時代みたいに(結果的に人に取り入る)ことで
ポジションを得るようなことにはなりたくない。
(そのためには会社を儲けさせて、実利を示さねばならない。)
主人公よりも人間失格のような人物がいくらでも出てくるのに
身を持ち崩さない。では身を持ち崩さない人のほうが
「悪人」の要素があるということか?それは見たくない世界だ。
自分の父親も酒で身を持ち崩したが、
主人公同様「いいひとすぎたのよ。」と人に言われている。
犠牲になった家族にとってはとんでもない悪人だった。
悪意の有無にかかわらず結果的に悪人だ。
それは
山で石につまづいて、山に悪意があったと思うのと同じだろうか?
一読した後これを書くためもう一度読んだらわけがわからなくなった。
自分が見たくない世界をブロックしているからだと思う。
この主人公は道化といいながら
うそでキスをしたり、うそでほしいお土産を父に知らせたり、
人を喜ばせながら実は裏切っている。
それが自己防衛のためだから始末に終えない。
道化で他人(特に女性)を欺き、相手を意のままにするのは
無抵抗ではなく支配していることではないのか?
彼自身の破滅を彼に欺かれ彼を甘やかせた女性のせいにしてはいないか?
その技が通じなかったのが竹一であり、ヒラメであり、
堀木であり、うその咳を見破った検事であり、寮の学生で、
付け入る隙のない人間も普通にいる。
見たくない、わかりたくないと思うもの、
自分が、自分の親父がこの物語に似ていると思いたくないためか、
もうちょっと生きてみたらわかるときも来るだろうか?
宮沢賢治の虎十公園林で
丹精こめて植えた杉林を、意地悪な男に伐れといわれて
いままで誰にも抵抗しなかった虎十がはじめて抵抗したため
殴られて雨に打たれて死んだような、なにかがんとした意思のある
話のほうが、同じ死ぬのでも自分は好きなのだけれど・・・
それはリアルじゃない作り話の世界なのか・・・
今気がついたのですが、
虎十(けんじゅう)の名は賢治(けんじ)に似ています。
偶然かもしれないが、遠藤周作の「海と毒薬」に出てくる
戸田という男の生い立ちで、根っから罪悪感の乏しい男でありながら
小さい頃から「よいこ」を演じて、先生も友達もそれにだまされていたのが
ある日、東京からの転校生に欺瞞を見破られる場面があり、
なんだか似ている気がした。
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