ジッポ
一瞬の雨上がりに作った薪を屋根の下に置いておいたが
乾いた薪がなくなったので仕方なく使ってかろうじて燃えました。
そのとき、どのマッチも湿気て点かなかったので
100円ライターでマッチに火を点けてそれで焚付を燃やしましたが
心もとない思いをしたので
従業員休憩室を片付けて出てきた不要品を
押し付けられてしまったのです。
その中にジッポライターがありました。
雨の中でも点くというのでオイルを買ってみました。
2〜3回点いたと思ったらすぐ壊れました。
ジッポーには無料修理サービスがあるそうです。
修理に出す前によく調べるとライターの石がありませんでした。
仕方なく石も買いました。
でもライターから直接杉葉に着火するのは難しい。
結局、新品のマッチ一本で火がつきました。
バカを見たなあ。
蛙の子は蛙
タライの中に手足の生えたおたまは余りいません
すぐに旅立ってゆくのでしょうか。
たまたま地面にいる蛙の子を見ました。
(ガンバレー)
アカハライモリのいたタライは空き家になっています。
以前、イモリとおたまを一緒にしてみたらイモリはおたまに追いつけませんでした。
もう、落ちてる卵を取れなくなったからでしょうか、
いつまでもタライにとどまってくれはしませんでした。
ハイエクと今西錦司の対談の続きを読んでいますが
難しいことを話しているようでも
我々の先祖はすでに気づいていたことを言っているように思えてきました。
「蛙の子は蛙」
生命というのは自分と同じものをコピーできる。
ある意味蛙の子が蛙であることは素晴らしいことです。
「どんぐりの背比べ」
今西錦司が力説していたのは、同じ種であれば新種が出るほどの
個体差なんてない。個体の優劣によって適者生存するのではなく
生き残るのはたまたま。偶然によるものだと。
「鳶が鷹を生む」
では鳶が鷹を生むのは突然変異によるものなのか?
アメリカは原爆を落とした後、放射能の影響で遺伝子が書き換えられ
突然変異した人間が現れないかサンプルを収集したがめぼしい収穫はなかったらしい。
核実験で突然ゴジラが出てくるように、
一つの遺伝子が書き換わったくらいで
猿から人が生まれることがあるだろうか
四足歩行していた猿が、ある遺伝子を持っただけで同じ種族の中で
4足の猿と2足の猿に分かれるのか?
両親から分けてもらった遺伝子のバランスがたまたま良ければ
優秀な子ができるかもしれない。でも鷹の子がトンビなことはよありそうだ。
「氏より育ち」
育ちを生育環境と読み替えれば
生き残れる可能性はDNAの差ではなく、偶然によるとも考えられる。
自分の山により価値を見いたしたいと
ビオトープ資格の本を読んでみた。
生物多様性を大切にし維持するためには
生殖活動があって遺伝子を残さなければ話にならないように思えた。
遺伝子を後世に残せないことは自分が負け組であり、
人間として生物多様性に貢献する以前の話に思えた。
ビオトープに限らず自然保護の考え方の根底にある生物多様性について
ウィルソンの本から学ぼうと思った。
ブラジルの原生林伐採の現場で林業労働者との共同キャンプにいながら
その臭気を嫌い、ひとり夜の森に佇んで夜間飛行のジェット機の光を
眺めて自分は人類の一員で孤独ではないと実感するのだというエリート意識、
一本の木の生き物をまるごと殺虫剤で殺して種類と数を調べるジェノサイド
みたいな研究手法。いかに優秀な著作か知らないが自分の肌に合わない。
自分の存在が多様性の中で許容されると思っていたが子孫を残せない自分の
遺伝子に意味はないように思えていた。
でも少し考えが変わってきた。
自分はなんの特別の遺伝子も持っていない。
多くの人と同じものを共有しているだけ。
ただ遺伝子プールの裾野を広げるためにだけ、
可能性として自分が存在していた。それでいい。
世の中を生存競争の世界と見るか
共存の世界と見るか、それはその人の主観であり
心の持ちようで科学と云うより禅であり宗教であり
敵を愛そうが敵を憎もうが自由なんだ。
生まれた時に与えられた遺伝子によって選別され
優れたものが生き残り劣ったものは子孫を残せない。
「自然選択」という言葉で生き残ったものは
大自然(≒神)の意思にかなう者のように思われたが
意思なんか働いていない偶然だと思ったほうが
気持ち的に救われる。
自然は自己マネジメントシステムかと云う話にしても
何か目標とか意思とかがあってマネジメントするのだとすれば
自然には本来行き着くべき理想形というのがあるということになる。
その議論は科学の範疇ではないように思えてきた。
茗荷
先週、4連休に時間は戻ります。
食べ尽くしたかと思ったツユクサがまた茂りました。
「一日350g野菜を食べましょう」というので
野菜不足を補おうと採ってみると200gになりました。
但し、口当たりがいいのは茎の先から第二関節までで、
それ以上になると食べられはするが抵抗感がありました。
食べたところで腸内で食物繊維として働いてくれるので構わないのですが。
茹でたツユクサは胡麻和えにすると更に美味しくなりました。
が、
今日はミョウガの話です。
ツユクサに導かれて家の裏手に回ると
狭い段々畑に待ちわびたミョウガが出ていました。
野草(雑草)を気にするようになって、ミョウガの茂るのも気づいていたので
毎年のように花が咲いてからでなしに
中がスカスカになる前に採ることが出来ました。
それと、旺盛な茎の周りを一周確認すると取りこぼしがなくなりました。
刻んだミョウガを醤油に漬けました。
これまで味噌漬け梅酢漬けいずれもカビてしまったので、
諦めていましたが本にあった醤油漬けを試してみました。
洗った水をよく切るため根元を持って一、二度振りました。
数日して瓶の蓋が鳴るので見ると気泡が発生していました。
まずいと思って焼酎を少し入れました。
連日の湿気で出しっぱなしにしていたきゃらぶきもカビたので
やっぱり野菜は大量に取らないほうがいいと思ったのですが、
採れてしまうものは仕方ありません。
でもこの醤油漬け、以前試作した柴漬けの味に似てきました。
どうやら気泡は乳酸発酵によるもので、食べても大丈夫なようです。
これ、最初に柴漬けを作った人の追体験をしてるみたい。
土用芽
銀杏
よもぎ茶
壊れた炊飯器の機能が
「蒸してから干す」能力だとわかったら
これでよもぎ茶が作れないか?と思いました。
よもぎご飯をする時に茹で汁が鮮やかな緑だったので
一口飲むとまさによもぎの味でした。
それで塩抜きで茹でた茹で汁をペットボトルで
持ち歩いたのですが、ほんとうのよもぎ茶は
一度蒸してから干す。とあったので
(蒸すのはいいが乾かないだろうな)
と思い試さないでいましたが
壊れた炊飯器なら蒸した後乾くところまで行けそうです。
出来たよもぎ茶は
生のよもぎの煮汁のような青臭さがなく
これはお茶として飲めると思いました。
柿の葉茶やイチョウ茶よりぜんぜん飲めます。
すぐに飲みきってしまいました。
炊飯器でよもぎを炊いているあいだ
ずっといい匂いがしていました。
また作ろうと思います。