はてなキーワード: ベビーブームとは
>敗戦直後に大出産ブームが起こっている。これは誰によって対策が立てられたのかといえば、誰も立てていない。ブームは勝手に起こったのである。敗戦国の暮らし向きが快適であったはずもないの に、貧困の中での歴史的ベビーブームである。
>「保育所が増えれば産む」という女は、保育所を増やしてやっても産まない。彼女の条件は「出産したい」ための条件ではなく、「出産したくない」ための言い訳だからである。意欲さえあれば、3畳一間の借家でも産み育てることはできるであろうに。事実半世紀余り前の女たちは、猛烈にそれを実行したのである。
https://web.archive.org/web/20060212055441/http://koywai.hp.infoseek.co.jp/page009.html
この表を見ると、出生数、合計特殊出生率ともに目に見えて減っているのは1966年の丙午なので、迷信が当時の人々の選択与えた影響が大きい事が分かる。
出生数、合計特殊出生率の推移
https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/backdata/01-01-01-07.html
あと、全体的な出生率は割と急に減っているのが1950年代全体と、
のが1970年代前半の終わり頃(第二次ベビーブームの終わり)なんだけど、
わざわざ1989年で1.57ショックとか書かれているのに違和感ある。
1989年頃ってそれ以前から続く微減の途中経過にすぎず、そこだけ特筆するようなものではないのでは。
1960年代には微増しているから、単純に女性の進学率や社会進出で下がった!ってものでもないように思うね。
2000年代半ばからも微増しているけれど、多分バブル世代の駆け込み出産じゃないか?2010年に40歳の女性は1970年のバブル世代生まれなので。
それと、2019年でデータが途切れているからよく分からんけれど、2019年でもガクッと落ちてるように見える。2019年に40歳の女性は1979年生まれの氷河期世代だから、氷河期の効果が出始めるのがこの辺って事なのでは?
また「女性の上昇婚傾向」なる、存在しない幻を叩いているアホが沸いている…。
女がそもそも低賃金なんだから、そんな女よりもさらに低賃金の男と結婚したところで夫婦二人で貧乏暮らしをするより他はなく
子供なんて到底産めないから無視していい存在だよ。馬鹿なのかな?
hunglysheep1 んなー事は昔から出てたよ。でp80の第三次ベビーブームが期待されている時代に起きなかったのは非婚化が原因だが女性の上昇婚傾向に触れられてないんだよね… https://crossacross.org/ky/Tradeoffs+among+gender+equality+and+birth+rate
第二次ベビーブームで人が多かった上に不況でいくらでも代わりがいる使い捨ての労働力扱いしてたから幸福度低いに決まっているし
自分達の世代がそういう扱い受けてきたのに、下の世代がバカでもチヤホヤされるのなんて面白くはないだろうから社畜おじさんが自己責任論で後輩の幸福度を奪っていくのはしばらく変わらないだろう。
そもそも平地面積の少ない島国に1億2000万人は多すぎる、極端な少子化は労働力バランスとしては問題だけど、日本は6000万人くらいでちょうどいいんじゃないかと思う。
どんどん産めよ増やせよで1.5億人とか2億人とかなってもどうにもならないだろ。
国会の議事堂は白熱する議論に沸き返り、各党の議員たちが口角泡を飛ばして意見をぶつけ合う。
だが、どれもこれも的外れだ。
税制をいじっても、保育所を増やしても、何をやっても人々は子どもを産みたがらない。
「こうなったら仕方がない...」総理は秘書官に静かに命じた。
「娯楽を、止めよう。」
その瞬間、場内は凍りついた。記者たちのペンが止まり、議員たちは一様に顔を見合わせた。
しかし誰も反対はしない。今はもうそれしか手がない。皆が分かっていたからだ。
ネット上のすべての娯楽を完全にシャットダウンする。それだけじゃない、テレビはニュース一色、ラジオもお役所が発表するお知らせばかり、出版物はすべて半年間の停止だ。
国民は急に何もすることがなくなった。会社から帰っても、家でできるのはせいぜい家事か、静かに座って窓の外を眺めるくらいだ。
最初の一週間はパニックだった。ネットカフェや図書館には長蛇の列ができ、裏ルートで娯楽コンテンツを手に入れようとする連中が現れた。
だが政府の監視は厳しい。アンダーグラウンドの娯楽マーケットもすぐに摘発され、密かに楽しんでいた者たちは「娯楽依存者」として社会的に抹殺された。
人々は絶望し、娯楽を渇望した。
彼らは朝起きて仕事に行き、帰ってくればYouTubeを見るか、またはお気に入りのドラマを見ながらお酒を飲むのが日常だったのだから。
しかし、今やそれがすべて奪われた。もうやることがない。誰もが手持ち無沙汰に過ごす毎日が続いた。
やることがなくなった国民は、そのうち奇妙な行動に出始めた。
最初は手芸やDIYを始める人が増えた。次に家庭菜園がブームになり、自宅のベランダでトマトを育てたりする人々が増えた。
でも、それも飽きるのに時間はかからなかった。何かもっと根本的な「刺激」が必要だと、人々は感じ始めていた。
そして、半年後、街角ではこんな光景が普通に見られるようになった。
「暇だし…セックスでもする?」
「うん、そうだね」
実際、半年の禁娯楽期間が終わった後、日本中の産婦人科は赤ん坊の泣き声で溢れかえった。
https://www.ipsos.com/sites/default/files/ct/news/documents/2024-08/IEI_2024_Global-Charts-ja.pdf
毎日新聞の記事ではZ世代の男性の意識について話してるけど、興味深いのは女性の意識調査についてだ。
自国における平等を推進する試みは、「やり過ぎだ」と回答した人の割合でZ世代の世界平均は
・男性27%
・女性16%
で、女性はミレニアル世代の17%より下がってる。つまり世代を経てもっと平等を推進すべきだと思ってる人が増えてる。
ただ、日本人女性は興味深いことにミレニアル世代が16%で、Z世代は20%になって平等を推進する試みをやりすぎだと思う人が増えてる。
しかも、最初のベビーブーム世代は13%でそこからどんどん右肩上がりで増えてる。
これは世界の潮流と全く逆で、どうしてこういう推移になってるんだろうか。
アニメは近年とてもスタイリッシュになり、より万人に見られるようになった。
年齢が上の人は昔のアニメの方がという人もいると思うが、表現技術はアニメ畑の人たちが一生懸命耕した結果格段に向上しているように感じる。
しかし、その一方でスタイリッシュさが必須になったとも感じる。
ストーリーは入り組んだもの、作画は高精細、主題歌はおしゃれな人気バンド。
現代において「ダサい」というものはもうあまり許される余地はないように感じる。
勿論それは人間社会においてもそれは適応されており、要求される容姿はこの10年間でうなぎ上り、マルチタスク必須、長時間労働必須など世の中の「普通」の水準がどんどん向上している。
正直自分もZ世代に適応できるように頑張ってはいるけれど、要領や容姿のいい人にどれだけ努力しても置いて行かれる。勝てない。
そして昔の人と違って今の人は洗練されている人が多い。またそういう人たちは性格が良い人が多い。二重につらい。
自分のような人間は昭和では「宇宙」を求め、平成では「超能力」を求め、令和では「異世界」を求めていたけれど、この先どこに行きつくのだろうか。
自己責任論大好きでパワハラ気質なのも氷河期世代だし、いつまでも恨み言ばっかりで下の世代から疎まれてるのも氷河期世代
なんでズレるかっていうと、氷河期世代は国主催のイス取りゲームで正社員のイスに座れたやつと座れなかったやつに二分されてるから
違うんだよ
氷河期世代のときにはわざわざ非正規雇用を拡大してまで負け組の枠を増やして、半分は負けるようにルール設定されたんだ
なんでそうしたかっていうと色々あるんだけど、団塊世代が勝ち逃げするためと、第三次ベビーブームを防ぎたかったのと、人件費が高いのが日本企業の国際競争力低下の原因という思い込みがあったというあたりが大きかった
とにかく、イス取りゲームの負けの規模が大きかった
運良くイスに座れたやつは自分は頑張ったから実力で勝ち取ったと思い込みがちで、自己責任論で夥しい数の負け組を切り捨ててきた
負け組は、あまりに理不尽なルールを強制されて敗者復活のチャンスもなかったから、諦めの感情が強く、多分死ぬまで不平不満を言い続ける
まあなんとなく言いたい事はわかる
わかるっていうのは「あなたの思っている気持ちを理解できていて、それを会話で証明できる」ではないからね
一応、合わせて同じ方向で会話ができるとこちらが判断したという意思表明を「わかる」という単語でしていることを伝えておかないと
勘違いして「自分を複製を作って行動予測ができるってことなのか?それとも上辺だけの形だけの懐柔するためだけの添え物のうすっぺらい言葉なのか?」って
柄のついた何でもいい、とかそういうのと比較するべくもない全然別物なので思い出の切れ端みたいなメモリーとして、記念碑的なものとして入れたり
コスプレの一環とまでは言わないけどなにかとつながっている感じを思い出すマークとして入れるっていうのは、あるとおもう
それは自傷行為も同じ面があって、全部が完全に同じだから代替ができるってわけではもちろんないし、選択肢の候補として二つが同時にあがってくるわけでもないけど
それを言い出せばコスプレもメイクも柄もののTシャツも同じだろうけど、自傷行為には近い状態で得られる感覚が別のところでも一致してるという点でわりと似てると思う
裸になったときについてるそれっていう事が、その思い出を振り返るときに使える場所や雰囲気、状況みたいなものが似てると思う
自傷行為って、もちろん全部じゃないけど一部として、自分の体が無痛な時間それはそこにあるのかって不安になるみたいなものもある、もちろんそうじゃないものもある
その傷をつけるのが所有者としての印をつける安心感みたいなものじゃないって場合もあるわけで、その痛みを感じたという感覚の持ち主が自分である事に安心して、またその傷をあらためて見ることで
自分の体がそこにあったと確認したなあと、過去の自分との連続性を感じて安心感をえようとしたりするんだ
もちろんそうじゃない場合もあるし、タトゥーだって全部が一致しているのは「皮膚にプリントする」以外は全部が違っていて同じ理由や同じものは一つとしてないことは前提にしていてほしい
男性は物を貰って喜ぶとか記念品に物を贈って残す、それに実用的価値があることが多くあるし、もちろんそうじゃない男性も多数いることは承知だけど、ここで話題にしたい方向性として男性は物がプレゼントとして嬉しい
女性は花でその場が和んだとか言葉をかけたとか、体に受ける刺激の記憶なんかで思い出として記念を時点で残すことが多く、物の価値は変動するわけだからとくに拘りがないという方向性も多くある
そういう感じで記念を記憶するか記録するか、物として所持するかの一つだろうから、表現として一時的なメイクとか服装で代用するというのとは、方向性として違うと思うんだよね
自分の体をメモ帳にするという意味で、それをメモる意味というのが日本ではまだ有用性が、というか今後もその有用性を持ってくる意義がないと思うのでそんな文化が出てくるとは思えないけど
メモを記載するという事は社会的にどう扱うか、どう扱われたいかという表明になると思うんだわ
入れ墨の意図や方向性の主体が入れた本人個人ではなくて、社会的にその入れた、入れているという事についての意味や意義になるから一般的に「悪い・ダメなこと」のマークとして使われていて
そういう判断で見られるというのが現状だと思うし、実際それをそれ以外の方向に使う必要性がまったくないから今後もかわっていかないと思うんだよね
バーコードで実際に活用されるとか、入れている模様の種類とか色で何に属しているか表現できるとか、自分がなにものなのか、っていうのは移民とか入植者とかで人種や地域がわからなくなり
仲間の見つけ方とか見分け方もわからなくて、それを知る時間のうちに命がつきてしまう状況とかでないと活用できないと思う
それが日本にはないんだよね
どこに属するも何を信じるのも自由で、それを人に押し付けられたり押しのけられたりしないからしたければしたらいいじゃんで終わるので自分を入場券やメモ帳替わりにする必要がない
だけど核家族ももう一世紀ちかく続いてベビーブームも人口的ピークに終焉を迎えて各個人がそんなに人生の選択肢を自由に選べなくなって属するため条件とか、自分の記録や経緯をどこにも残せなくなっていくと
それなりに意味とか意義とかでてくるかもしれないと思う
そんなことはないと思っている人に聞きたいのですが、ではなぜ実質賃金が下がっているのでしょうか?
実質賃金というのは言うなれば「資本主義的な支配者層が考える労働者一人辺りの価値」となります。
それが下がってきているということは、人間の価値が下がってきているということです。
少なくとも、特別な技能を持っていない人間、特別でなくともその業界で重要視されるだけの経験を持っていない人間の価値は下がっています。
資本主義における価値とは需要と供給で決まるわけですから、人間の需要に対して供給が上回っているわけです。
多くの企業が人手不足を語ってはいますが、実態としては「十二分なスキルを持った人間が突然低賃金で雇われて欲しい」という意味でしかなく、能力のない新卒を雇う意思はほとんどありません。
過去の栄光でダラダラと失われた50年を食いつないでいる日本とは比べ物にならないほどに成長している国家が近隣にはあります。
日本はベビーブーム時代の栄光を忘れられず「子供が沢山生まれると社会が活性化する」とよく分からない思想に染まっていますがそんなことはありません。
むしろ逆です。
中国が経済的に成長した時期と出生率の相関を考えていけば、見えてくるのは「人口増加∝経済成長 の幻想を断ち切ることが重要」という現実でしょう。
事務所の中でおじさんたちが鉛筆で必死に契約書類を書いていたような50年前に成功したパターンを自動化・IT化の進んだ現代で繰り返そうという発想が愚かしい。
年金政策のようなネズミ講によって見せかけの福祉を維持することはいい加減やめましょう。
そもそも、多くの若者が社会から「金を稼げない社会のお荷物は死んでしまえ」とばかりに扱われているのに、老人たちだけが昔払ったわずかな年金を頼みに「寝たきりの役立たずだけど大切に扱ってあげよう」とされているのがおかしいのです。
若者に「弱者は死ね。金を溜め込めないなら死ね」と語るなら、老人に対しても「年金だけで暮らしていけないとか舐めたこと言ってるんじゃねえ。溜め込んでこなかったお前たちが悪いんだから死ね」と言って回るべきではないでしょうか?
というか、「働けなくなった奴は自分や身内の貯金で食い投げる範囲を超えたら死ね」というのを半端にオブラートに包んで誤魔化そうとするから歪みが生まれるのです。みんな本心ではそう思っているんですから。
ある時は「老人は偉いから俺の言う事を聞け」と騙り、ある時は「老人は可愛そうだから助けない奴は地獄に落ちる」「と脅す。
こんなことはいい加減辞めましょう。
老人が若年層に依存することを前提とした社会構造を変革させなければ話にならない。
答はシンプルです。
それは経済に回すべきエネルギーを目先の少子化対策や福祉政策に回しているからです。
今、目の前で困っている誰かを助けるために、種籾を食べ尽くしてしまっているのが今の日本です。
直近5年の誤魔化しのために使っているお金を、20年後40年後の社会のために使おうとしていないのです。
貧困国に井戸を作っても、明日のパンを買うために部品をバラし売ってしまうような状態ですね。
目の前にある出生率を一度諦めましょう。
もし本当に50年後の事を考えているなら、一時的に出生率を犠牲にしてでも経済を立て直すほうが正しいことに思い当たりませんか?
結局のところ、出生率を上げようとしている多くの人が口で「何十年後」と言っていながら実際には「直近数年の出生率」しか考えていないのですよ。