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2026-04-23

anond:20260423184346

 こうなってくると何をいうても、直ぐそこへ持ってくるので話がゆきつまってしまう。二人の内でどちらか一人が、すこうしほんの僅かにでも押が強ければ、こんなに話がゆきつまるのではない。お互に心持は奥底まで解っているのだから吉野紙を突破るほどにも力がありさえすれば、話の一歩を進めてお互に明放してしまうことが出来るのであるしかしながら真底からおぼこな二人は、その吉野紙を破るほどの押がないのである。またここで話の皮を切ってしまわねばならぬと云う様な、はっきりした意識も勿論ないのだ。言わば未まだ取止めのない卵的の恋であるから、少しく心の力が必要な所へくると話がゆきつまってしまうのである

 お互に自分で話し出しては自分が極りわるくなる様なことを繰返しつつ幾町かの道を歩いた。詞数こそ少なけれ、その詞の奥には二人共に無量の思いを包んで、極りがわるい感情の中には何とも云えない深き愉快を湛えて居る。それでいわゆる足も空に、いつしか田圃も通りこし、山路へ這入った。今度は民子が心を取り直したらしく鮮かな声で、

「政夫さん、もう半分道来ましてしょうか。大長柵おおながさくへは一里に遠いッて云いましたねイ」

「そうです、一里半には近いそうだが、もう半分の余来ましたろうよ。少し休みましょうか」

わたし休まなくとも、ようございますが、早速お母さんの罰があたって、薄すすきの葉でこんなに手を切りました。ちょいとこれで結わえて下さいな」

 親指の中ほどで疵きずは少しだが、血が意外に出た。僕は早速紙を裂いて結わえてやる。民子が両手を赤くしているのを見た時非常にかわいそうであった。こんな山の中で休むより、畑へ往いってから休もうというので、今度は民子を先に僕が後になって急ぐ。八時少し過ぎと思う時分に大長柵の畑へ着いた。

 十年許り前に親父おやじが未だ達者な時分、隣村の親戚からまれ余儀なく買ったのだそうで、畑が八反と山林が二町ほどここにあるのである。この辺一体に高台は皆山林でその間の柵が畑になって居る。越石こしこくを持っていると云えば、世間体はよいけど、手間ばかり掛って割に合わないといつも母が言ってる畑だ。

 三方林で囲まれ、南が開いて余所よその畑とつづいている。北が高く南が低い傾斜こうばいになっている。母の推察通り、棉は末にはなっているが、風が吹いたら溢れるかと思うほど棉はえんでいる。点々として畑中白くなっているその棉に朝日がさしていると目まぶしい様に綺麗だ。

「まアよくえんでること。今日採りにきてよい事しました」

 民子は女だけに、棉の綺麗にえんでるのを見て嬉しそうにそう云った。畑の真中ほどに桐の樹が二本繁っている。葉が落ちかけて居るけれど、十月の熱を凌しのぐには十分だ。ここへあたりの黍殻きびがらを寄せて二人が陣どる。弁当包みを枝へ釣る。天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。着物を一枚ずつ脱ぐ。風を懐ふところへ入れ足を展のばして休む。青ぎった空に翠みどりの松林百舌もずもどこかで鳴いている。声の響くほど山は静かなのだ天と地との間で広い畑の真ン中に二人が話をしているのである

「ほんとに民子さん、きょうというきょうは極楽の様な日ですねイ」

 顔からから汗を拭いた跡のつやつやしさ、今更に民子の横顔を見た。

「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家うちを出る時はほんとに極りが悪くて……嫂ねえさんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」

「僕だって平気なもんですか。村の奴らに逢うのがいやだから、僕は一足先に出て銀杏の下で民さんを待っていたんでさア。それはそうと、民さん、今日はほんとに面白く遊ぼうね。僕は来月は学校へ行くんだし、今月とて十五日しかないし、二人でしみじみ話の出来る様なことはこれから先はむずかしい。あわれッぽいこと云うようだけど、二人の中も今日だけかしらと思うのよ。ねイ民さん……」

「そりゃア政夫さん、私は道々そればかり考えて来ました。私がさっきほんとに情なくなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……」

 面白く遊ぼう遊ぼう言うても、話を始めると直ぐにこうなってしまう。民子は涙を拭うた様であった。ちょうどよくそこへ馬が見えてきた。西側山路から、がさがさ笹にさわる音がして、薪たきぎをつけた馬を引いて頬冠ほおかむりの男が出て来た。よく見ると意外にも村の常吉である。この奴はいつか向うのお浜に民子を遊びに連れだしてくれと頻しきりに頼んだという奴だ。いやな野郎がきやがったなと思うていると、

「や政夫さん。コンチャどうも結構なお天気ですな。今日は御夫婦で棉採りかな。洒落しゃれてますね。アハハハハハ」

「オウ常さん、今日は駄賃かな。大変早く御精が出ますね」

「ハア吾々なんざア駄賃取りでもして適たまに一盃いっぱいやるより外に楽しみもないんですからな。民子さん、いやに見せつけますね。余あんまり罪ですぜ。アハハハハハ」

 この野郎失敬なと思ったけれど、吾々も余り威張れる身でもなし、笑いとぼけ常吉をやり過ごした。

馬鹿野郎、実に厭なやつだ。さア民さん、始めましょう。ほんとに民さん、元気をお直しよ。そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉もの、盆正月の外にも来ようと思えば土曜の晩かけて日曜に来られるさ……」

「ほんとに済みません。泣面なきつらなどして。あの常さんて男、何といういやな人でしょう」

 民子襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って三時間ばかりの間に七分通り片づけてしまった。もう跡はわけがいか弁当にしようということにして桐の蔭に戻る。僕はかねて用意の水筒を持って、

「民さん、僕は水を汲くんで来ますから留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』をうんと土産みやげに採って来ます

「私は一人で居るのはいやだ。政夫さん、一所に連れてって下さい。さっきの様な人にでも来られたら大変ですもの

だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水しみずのある所は。道という様な道もなくて、それこそ茨いばらや薄すすきで足が疵だらけになりますよ。水がなくちゃ弁当が食べられないから、困ったなア、民さん、待っていられるでしょう」

「政夫さん、後生から連れて行って下さい。あなたが歩ける道なら私にも歩けます。一人でここにいるのはわたしゃどうしても……」

「民さんは山へ来たら大変だだッ児になりましたネー。それじゃ一所に行きましょう」

 弁当は棉の中へ隠し、着物はてんでに着てしまって出掛ける。民子は頻りに、にこにこしている。端はたから見たならば、馬鹿馬鹿しくも見苦しくもあろうけれど、本人同志の身にとっては、そのらちもなき押問答の内にも限りなき嬉しみを感ずるのである。高くもないけど道のない所をゆくのであるから笹原を押分け樹の根につかまり、崖を攀よずる。しばしば民子の手を採って曳ひいてやる。

 近く二三日以来の二人の感情では、民子が求めるならば僕はどんなことでも拒まれない、また僕が求めるならやはりどんなことでも民子は決して拒みはしない。そういう間柄でありつつも、飽くまで臆病に飽くまで気の小さな両人ふたりは、嘗かつて一度も有意味に手などを採ったことはなかった。しかるに今日は偶然の事から屡手を採り合うに至った。這辺このへんの一種云うべからざる愉快な感情経験ある人にして初めて語ることが出来る。

「民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。これから僕が一人で行ってくるからここに待って居なさい。僕が見えて居たら居られるでしょう」

「ほんとに政夫さんの御厄介ですね……そんなにだだを言っては済まないから、ここで待ちましょう。あらア野葡萄えびづるがあった」

 僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探って、『あけび』四五十と野葡萄一もくさを採り、竜胆りんどうの花の美しいのを五六本見つけて帰ってきた。帰りは下りから無造作に二人で降りる。畑へ出口で僕は春蘭しゅんらんの大きいのを見つけた。

「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、この『あけび』と『えびづる』を持って行って下さい」

「『アックリ』てなにい。あらア春蘭じゃありませんか」

「民さんは町場もんですから、春蘭などと品のよいこと仰おっしゃるのです。矢切百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、皸あかぎれの薬に致します。ハハハハ」

「あらア口の悪いこと。政夫さんは、きょうはほんとに口が悪くなったよ」

 山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。何か生理上の理由でもあるか知らんが、とにかく、山の仕事をしてやがてたべる弁当不思議うまいことは誰も云う所だ。今吾々二人は新らしき清水を汲み来り母の心を籠こめた弁当を分けつつたべるのである。興味の尋常でないは言うも愚おろかな次第だ。僕は『あけび』を好み民子は野葡萄をたべつつしばらく話をする。

 民子は笑いながら、

「政夫さんは皸の薬に『アックリ』とやらを採ってきて学校へお持ちになるの。学校で皸がきれたらおかしいでしょうね……」

 僕は真面目に、

「なアにこれはお増にやるのさ。お増はもうとうに皸を切らしているでしょう。この間も湯に這入る時にお増が火を焚たきにきて非常に皸を痛がっているから、その内に僕が山へ行ったら『アックリ』を採ってきてやると言ったのさ」

「まアあなたは親切な人ですことね……お増は蔭日向かげひなたのない憎気のない女ですから、私も仲好くしていたんですが、この頃は何となし私に突き当る様な事ばかし言って、何でもわたしを憎んでいますよ」

「アハハハ、それはお増どんが焼餅をやくのでさ。つまらんことにもすぐ焼餅を焼くのは、女の癖さ。僕がそら『アックリ』を採っていってお増にやると云えば、民さんがすぐに、まアあなたは親切な人とか何とか云うのと同じ訣わけさ」

「この人はいつのまにこんなに口がわるくなったのでしょう。何を言っても政夫さんにはかないやしない。いくらだってお増が根も底もない焼もちだ位は承知していますよ……」

「実はお増も不憫ふびんな女よ。両親があんなことになりさえせねば、奉公人とまでなるのではない。親父は戦争死ぬ、お袋はこれを嘆いたがもとでの病死、一人の兄がはずれものという訣で、とうとうあの始末。国家のために死んだ人の娘だもの、民さん、いたわってやらねばならない。あれでも民さん、あなたをば大変ほめているよ。意地曲りの嫂にこきつかわれるのだから一層かわいそうでさ」

「そりゃ政夫さん私もそう思って居ますさ。お母さんもよくそうおっしゃいました。つまらないものですけど何とかかとか分けてやってますが、また政夫さんの様に情深くされると……」

 民子は云いさしてまた話を詰らしたが、桐の葉に包んで置いた竜胆の花を手に採って、急に話を転じた。

「こんな美しい花、いつ採ってお出でなして。りんどうはほんとによい花ですね。わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになった。おオえエ花……」

 花好きな民子は例の癖で、色白の顔にその紫紺の花を押しつける。やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。

「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」

「政夫さんはりんどうの様な人だ」

「どうして」

「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」

 民子は言い終って顔をかくして笑った。

「民さんもよっぽど人が悪くなった。それでさっきの仇討あだうちという訣ですか。口真似なんか恐入りますナ。しかし民さんが野菊で僕が竜胆とは面白い対ですね。僕は悦よろこんでりんどうになります。それで民さんがりんどうを好きになってくれればなお嬉しい」

 二人はこんならちもなき事いうて悦んでいた。秋の日足の短さ、日はようやく傾きそめる。さアとの掛声で棉もぎにかかる。午後の分は僅であったから一時間半ばかりでもぎ終えた。何やかやそれぞれまとめて番ニョに乗せ、二人で差しあいにかつぐ。民子を先に僕が後に、とぼとぼ畑を出掛けた時は、日は早く松の梢をかぎりかけた。

 半分道も来たと思う頃は十三夜の月が、木この間まから影をさして尾花にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見える様な夜になった。今朝は気がつかなかったが、道の西手に一段低い畑には、蕎麦そばの花が薄絹を曳き渡したように白く見える。こおろぎが寒げに鳴いているにも心とめずにはいられない。

「民さん、くたぶれたでしょう。どうせおそくなったんですから、この景色のよい所で少し休んで行きましょう」

「こんなにおそくなるなら、今少し急げばよかったに。家の人達にきっと何とか言われる。政夫さん、私はそれが心配になるわ」

「今更心配しても追おっつかないから、まア少し休みましょう。こんなに景色のよいことは滅多めったにありません。そんなに人に申訣のない様な悪いことはしないもの、民さん、心配することはないよ」

 月あかりが斜にさしこんでいる道端の松の切株に二人は腰をかけた。目の先七八間の所は木の蔭で薄暗いがそれから向うは畑一ぱいに月がさして、蕎麦の花が際きわ立って白い。

「何というえい景色でしょう。政夫さん歌とか俳句かいものをやったら、こんなとき面白いことが云えるでしょうね。私ら様な無筆でもこんな時には心配も何も忘れますもの。政夫さん、あなた歌をおやんなさいよ」

「僕は実は少しやっているけど、むずかしくて容易に出来ないのさ。山畑の蕎麦の花に月がよくて、こおろぎが鳴くなどは実にえいですなア。民さん、これから二人で歌をやりましょうか」

 お互に一つの心配を持つ身となった二人は、内に思うことが多くてかえって話は少ない。何となく覚束おぼつかない二人の行末、ここで少しく話をしたかったのだ。民子は勿論のこと、僕よりも一層話したかったに相違ないが、年の至らぬのと浮いた心のない二人は、なかなか差向いでそんな話は出来なかった。しばらくは無言でぼんやり時間を過ごすうちに、一列の雁がんが二人を促すかの様に空近く鳴いて通る。

 ようやく田圃へ降りて銀杏の木が見えた時に、二人はまた同じ様に一種感情が胸に湧いた。それは外でもない、何となく家に這入はいりづらいと言う心持である。這入りづらい訣はないと思うても、どうしても這入りづらい。躊躇ちゅうちょする暇もない、忽たちまち門前近く来てしまった。

「政夫さん……あなた先になって下さい。私極きまりわるくてしょうがないわ」

「よしとそれじゃ僕が先になろう」

 僕は頗すこぶる勇気を鼓こし殊に平気な風を装うて門を這入った。家の人達は今夕飯最中で盛んに話が湧いているらしい。庭場の雨戸は未だ開いたなりに月が軒口までさし込んでいる。僕が咳払せきばらいを一ツやって庭場へ這入ると、台所の話はにわかに止んでしまった。民子は指の先で僕の肩を撞ついた。僕も承知しているのだ、今御膳会議で二人の噂が如何いかに盛んであったか

 宵祭ではあり十三夜ではあるので、家中表座敷へ揃そろうた時、母も奥から起きてきた。母は一通り二人の余り遅かったことを咎めて深くは言わなかったけれど、常とは全く違っていた。何か思っているらしく、少しも打解けない。これまでは口には小言を言うても、心中に疑わなかったのだが、今夜は口には余り言わないが、心では十分に二人に疑いを起したに違いない。民子はいよいよ小さくなって座敷中なかへは出ない。僕は山から採ってきた、あけびや野葡萄えびづるやを沢山座敷中じゅうへ並べ立てて、暗に僕がこんな事をして居たから遅くなったのだとの意を示し無言の弁解をやっても何のききめもない。誰一人それをそうと見るものはない。今夜は何の話にも僕等二人は除のけものにされる始末で、もはや二人は全く罪あるものと黙決されてしまったのである

「お母さんがあんまり甘過ぎる。あアして居る二人を一所に山畑へやるとは目のないにもほどがある。はたでいくら心配してもお母さんがあれでは駄目だ」

 これが台所会議の決定であったらしい。母の方でもいつまで児供と思っていたが誤りで、自分が悪かったという様な考えに今夜はなったのであろう。今更二人を叱って見ても仕方がない。なに政夫を学校へ遣やってしまいさえせば仔細しさいはないと母の心はちゃんときまって居るらしく、

「政や、お前はナ十一月へ入って直ぐ学校へやる積りであったけれど、そうしてぶらぶらして居ても為にならないから、お祭が終ったら、もう学校へゆくがよい。十七日にゆくとしろ……えいか、そのつもりで小支度して置け」

 学校へゆくは固より僕の願い、十日や二十日早くとも遅くともそれに仔細はないが、この場合しかも今夜言渡いいわたしがあって見ると、二人は既に罪を犯したものと定められての仕置であるから民子は勿論僕に取ってもすこぶる心苦しい処がある。実際二人はそれほどに堕落した訣でないから、頭からそうときめられては、聊いささか妙な心持がする。さりとて弁解の出来ることでもなし、また強いことを言える資格も実は無いのである。これが一ヶ月前であったらば、それはお母さん御無理だ、学校へ行くのは望みであるけど、科とがを着せられての仕置に学校へゆけとはあんまりでしょう……などと直ぐだだを言うのであるが、今夜はそんな我儘わがままを言えるほど無邪気ではない。全くの処、恋に陥ってしまっている。

 あれほど可愛がられた一人の母に隠立てをする、何となく隔てを作って心のありたけを言い得ぬまでになっている。おのずから人前を憚はばかり、人前では殊更に二人がうとうとしく取りなす様になっている。かくまで私心わたくしごころが長じてきてどうして立派な口がきけよう。僕はただ一言いちごん、

「はア……」

 と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。

「僕は学校へ往ってしまえばそれでよいけど、民さんは跡でどうなるだろうか」

 不図ふとそう思って、そっと民子の方を見ると、お増が枝豆をあさってる後に、民子うつむいて膝の上に襷たすきをこねくりつつ沈黙している。如何にも元気のない風で夜のせいか顔色も青白く見えた。民子の風を見て僕も俄に悲しくなって泣きたくなった。涙は瞼まぶたを伝って眼が曇った。なぜ悲しくなったか理由は判然はっきりしない。ただ民子が可哀相でならなくなったのである民子と僕との楽しい関係もこの日の夜までは続かなく、十三日の昼の光と共に全く消えうせてしまった。嬉しいにつけても思いのたけは語りつくさず、憂き悲しいことについては勿論百分の一だも語りあわないで、二人の関係は闇やみの幕に這入ってしまったのである

 十四日は祭の初日でただ物せわしく日がくれた。お互に気のない風はしていても、手にせわしい仕事のあるばかりに、とにかく思い紛らすことが出来た。

 十五日と十六日とは、食事の外用事もないままに、書室へ籠こもりとおしていた。ぼんやり机にもたれたなり何をするでもなく、また二人の関係をどうしようかという様なことすらも考えてはいない。ただ民子のことが頭に充ちているばかりで、極めて単純に民子を思うている外に考えは働いて居らぬ。この二日の間に民子と三四回は逢ったけれど、話も出来ず微笑を交換する元気もなく、うら淋しい心持を互に目に訴うるのみであった。二人の心持が今少しませて居ったならば、この二日の間にも将来の事など随分話し合うことが出来たのであろうけれど、しぶとい心持などは毛ほどもなかった二人には、その場合になかなかそんな事は出来なかった。それでも僕は十六日の午後になって、何とはなしに以下のような事を巻紙へ書いて、日暮に一寸来た民子に僕が居なくなってから見てくれと云って渡した。

 朝からここへ這入ったきり、何をする気にもならない。外へ出る気にもならず、本を読む気にもならず、ただ繰返し繰返し民さんの事ばかり思って居る。民さんと一所に居れば神様に抱かれて雲にでも乗って居る様だ。僕はどうしてこんなになったんだろう。学問をせねばならない身だから学校へは行くけれど、心では民さんと離れたくない。民さんは自分の年の多いのを気にしているらしいが、僕はそんなことは何とも思わない。僕は民さんの思うとおりになるつもりですから、民さんもそう思っていて下さい。明日は早く立ちます。冬期の休みには帰ってきて民さんに逢うのを楽しみにして居ります

  十月十六日

政夫

民子

 学校へ行くとは云え、罪があって早くやられると云う境遇であるから、人の笑声話声にも一々ひがみ心が起きる。皆二人に対する嘲笑かの様に聞かれる。いっそ早く学校へ行ってしまいたくなった。決心が定まれば元気も恢復かいふくしてくる。この夜は頭も少しくさえて夕飯も心持よくたべた。学校のこと何くれとなく母と話をする。やがて寝に就いてからも、

「何だ馬鹿馬鹿しい、十五かそこらの小僧の癖に、女のことなどばかりくよくよ考えて……そうだそうだ、明朝あしたは早速学校へ行こう。民子は可哀相だけれど……もう考えまい、考えたって仕方がない、学校学校……」

 独口ひとりぐちききつつ眠りに入った様な訣であった。

 船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個ひとつにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽のどがつまって声が出ない民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫なでたり襟えりを撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。民子今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏いちょうがえしに薄く化粧をしている。煤色すすいろと紺の細かい弁慶縞べんけいじまで、羽織も長着も同じい米沢紬よねざわつむぎに、品のよい友禅縮緬ゆうぜんちりめんの帯をしめていた。襷を掛けた民子もよかったけれど今日民子はまた一層引立って見えた。

 僕の気のせいででもあるか、民子十三日の夜からは一日ひとひ一日とやつれてきて、この日のいたいたしさ、僕は泣かずには居られなかった。虫が知らせるとでもいうのか、これが生涯の別れになろうとは、僕は勿論民子とて、よもやそうは思わなかったろうけれど、この時のつらさ悲しさは、とても他人に話しても信じてくれるものはないと思う位であった。

 尤もっと民子の思いは僕より深かったに相違ない。僕は中学校卒業するまでにも、四五年間のある体であるのに、民子は十七で今年の内にも縁談の話があって両親からそう言われれば、無造作に拒むことの出来ない身であるから、行末のことをいろいろ考えて見ると心配の多い訣である。当時の僕はそこまでは考えなかったけれど、親しく目に染しみた民子のいたいたしい姿は幾年経っても昨日の事のように眼に浮んでいるのである

 余所から見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣面と見苦しくもあったであろうけれど、二人の身に取っては、真にあわれに悲しき別れであった。互に手を取って後来を語ることも出来ず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、泣きの涙も人目を憚はばかり、一言の詞ことばもかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流を下って早く、十分間と経たぬ内に、五町と下らぬ内に、お互の姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物も言い得ないで、しょんぼりと悄しおれていた不憫ふびんな民さんの俤おもかげ、どうして忘れることが出来よう。民さんを思うために神の怒りに触れて即座に打殺さるる様なことがあるとても僕には民さんを思わずに居られない。年をとっての後の考えから言えば、あアもしたらこうもしたらと思わぬこともなかったけれど、当時の若い同志どうしの思慮には何らの工夫も無かったのである八百屋お七は家を焼いたらば、再度ふたたび思う人に逢われることと工夫をしたのであるが、吾々二人は妻戸一枚を忍んで開けるほどの智慧ちえも出なかった。それほどに無邪気な可憐な恋でありながら、なお親に怖おじ兄弟に憚り、他人の前にて涙も拭き得なかったのは如何に気の弱い同志であったろう。

 僕は学校へ行ってからも、とかく民子のことばかり思われて仕方がない。学校に居ってこんなことを考えてどうするものかなどと、自分自分を叱り励まして見ても何の甲斐もない。そういう詞の尻からすぐ民子のことが湧いてくる。多くの人中に居ればどうにか紛れるので、日の中はなるたけ一人で居ない様に心掛けて居た。夜になっても寝ると仕方がないから、なるたけ人中で騒いで居て疲れて寝る工夫をし

2024-12-11

百舌屋さん、逆上する」という漫画を読んだから感想を書く

本筋に必要のないキャラと話と台詞が多過ぎる

中身はないがちゃんと読まないと話の方向を見失う不親切なテキスト

瞬間風速は出てるので自覚的な尺稼ぎと思われる

掲載誌の都合で多めにページ描かなくちゃならなかった故の弊害

人物感情の推移が不自然。話を続けるための都合で為替介入が入る

ロジック考えるのは得意そうだけど感情の導線作るのはまあまあ苦手なんだろうな

あの世代のオタク寄り作家特有の拗らせがある

指向性迷子なのは意図的らしいし当時のカルチャーではあったけど、誤魔化しにしか思えなかったな。題材がもっと砕けたやつなら何の文句もなかったけれども(まあそれだとそもそも読まなかったと思う)

指向性の両立、扱えてなかったと思う

期待してた部分はギリギリ回収できたかなくらい。つーかギリアウト

作りようによっては聲の形クラス作品になれたはず(架空病気というのがネック。しかしあれが刺さるレンジを広げる意味でもマストだったとは思う)

あれだけ滅茶苦茶やって全体としては破綻してなさそうなのは地力を感じる

故に驕りを感じてしま

それはそれとして自分世間も「遊び」というか「不合理」な部分を受け入れ難くなっているなと感じた

あの世代の美大出の漫画家、スノビってる感じある。そもそも経歴からしてって感じだけど

あいつらが描く「厳しい現実」、けっこうズルくて、理屈は通ってるし視野も狭くないんだけど、そもそもこれ描いてる人たちはそこら辺の問題スキップしてるかもうアガってる立場から描いてるよねっていうのでどう足掻いても説得力に欠ける

2024-10-17

月刊アフタヌーン史上、最重要漫画10

週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ20選  https://anond.hatelabo.jp/20241012181121

週刊ビッグコミックスピリッツ史上最も重要マンガ5選 https://anond.hatelabo.jp/20241014232424

週刊ヤングマガジン史上、最重要漫画10選 https://anond.hatelabo.jp/20241016182953

なんか流れにのって「誰かアフタヌーンやらないのかな?」とか言ってたら、「自分でやっては…?」と言われたので、

そこまで詳しい自信もないが、知らんわけでもないぐらいのところなので、とりあえず書いた

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ああっ女神さまっ藤島康介

アフタヌーン初期の重要作品は、明らかにこれ。Wikipediaにも「看板作家であった藤島康介以外はほとんど無名新人作家作品掲載」と書かれているように、初期のアフタヌーンはこの作品で支えていたという状況だったと理解している。

ブコメで「初期の核はモーニング作家や、園田健一とかあさりよしとおとか方面作家」とのコメントいただいた。あと、トニーたけざきも。

寄生獣岩明均

これは満場一致になると信じている。作品としてのクオリティはもちろん、知名度評価の高さ含めて、総合的に日本漫画史上の傑作の一つでしょう。『ヒストリエ』も入れたいところだが。一人一作ということで。

無限の住人沙村広明

オタクマーケットにおける、90年代後半のアフタヌーンイメージは『ああっ女神さまっ』『無限の住人』の2つが強かったという記憶がある。次作、『波よ聞いてくれ』もむろん快作で、個人的には『波よ聞いてくれ』のほうが好きだがアフタヌーンという雑誌にとっての重要度という話だと、まあ、順当に『無限の住人』かな、と。

げんしけん木尾士目

げんしけん』がベスト10に入るかどうかは評価基準次第というところがあると思う。ヒット作以外のところで、「アフタヌーン雑誌ブランドのコアとは何かと考えると、サブカル系マンガ表現開拓者ですよね、ということだと思う(四季賞含めて)。そのブランドが熱心な雑誌購読者を育んできた雑誌であることは明らかで、その基準で考えると、本作は順当に重要作品かと思っている。

おおきく振りかぶってひぐちアサ

ひぐちアサは、『おお振り』の前はもっと人間関係がたいへんそうな話を書いていて、ある意味そのときのほうが「いかにもアフタヌーンらしいマンガ」だったが、路線転換をしたのかなと思われた、本作がその後ここまで大きくヒットするのは連載がはじまったときちょっと想像していなかった。

ヴィンランド・サガ幸村誠

少年マガジンで連載がはじまったが、ほとんどの連載はアフタヌーン。幸村先生は『プラネテス』(モーニング連載)も代表作とする人もいるとは思うが、順当に考えたら、もう20年近く連載している『ヴィンランド・サガ』だろうかと思う。まあ、この作品ベスト10に入るも、まあ順当か。

百舌谷さん逆上する篠房六郎

この作品ベスト10かというのも、やや判断割れるとは思うが、基本的には木尾士目げんしけん』とほぼ同じ観点から篠房六郎作品であれば、個人的には他の作品も全部入って良いと思っているが、一つ選ぶなら、ヒット作の『百舌谷さん』になるだろうという判断

茄子黒田硫黄

黒田硫黄存在自体が、若い漫画読みから忘れられつつある印象があるが、2000年前後アフタヌーンを毎月買っていた人間にとって、黒田硫黄存在感が圧倒的だったのは確かなことだったと思う。捻くれたサブカルだったら「黒田硫黄が好き」とか言うのは、ぜんぜん捻くれてないチョイス過ぎて、言うと恥ずかしいぐらいの存在感だった。宮崎駿御大まで「このおもしろさが判る奴は本物だ」とか、はずかしい推薦の言葉を帯に捧げ、ジブリ系のアニメーターである高坂希太郎監督によって作品の一部がアニメ化もされた(制作マッドハウス)。『大日本天狗党絵詞』も衝撃的な作品だったが、黒田硫黄存在感もっとも強かった時期の作品ということで挙げればこれかと、思う。

宝石の国市川春子

個人的市川春子はそんなにハマっていないのだけれども、客観的に見て、支持の厚さ、連載期間、メディア化、受賞状況などから鑑みて、この作品を入れないわけにはいかないだろうということで。

ブルーピリオド山口つばさ

近年の作品から一つ選ぶなら、まずこれですかね、という感がある。作品自体も登場時に衝撃を受けたが、その後のヒットまでうまく繋がり、人気作に育って本当に良かった。

次点

蟲師漆原友紀) 人によっては、こっちを10選にいれる人はけっこういるとは思う。筆頭候補

ラブやん田丸浩史

BLAME!弐瓶勉弐瓶作品10本縛りがなければ、どっちかを入れたいところ。個人的に『BLAME!』はアフタヌーンイメージが強い。

シドニアの騎士弐瓶勉)同上

・ハックス!(今井哲也) 今井作品も一つは入れたいところだが…。

なるたる鬼頭莫宏) 鬼頭作品なら『ぼくらの』(IKKI)の方が一般重要作か、ということで除外

メダリスト(つるまいかだ) 最近作品ブルーピリオド以外にいれるならこれが筆頭か。

スキップローファー高松美咲) 最近作品での上位候補

勇午赤名修/真刈信二) 個人的には大好き。塩漬けなど、ミームになるパワーがある作品だと思う。

Spirit of Wonder(鶴田謙二) 重要作品だとの認識はある

EDEN遠藤浩輝) EDEN入れる人もいるとは思うが、だいぶ意見分かれるかな、という印象。

臨死!!江古田ちゃん瀧波ユカリ

砲神エグザクソン園田健一

GUN SMITH CATS園田健一

青野くんに触りたいから死にたい椎名うみ) 

ヨコハマ買い出し紀行芦奈野ひとし

天国大魔境(石黒正数) 

フラジャイル 病理医岸京一郎の所見恵三朗/草水 敏)

・あっかんべェ一休坂口尚

越後荒川堂夜話(石坂和道)

黄色い本高野文子

・来世は他人がいい(小西明日翔

ハトのおよめさんハグキ

同一作家の別作品を入れたので除外

ヒストリエ岩明均) ごく順当に重要作品だとは思う。

波よ聞いてくれ沙村広明) 同上。

大日本天狗党絵詞黒田硫黄

・あたらしい朝(黒田硫黄

四年生木尾士目

・五年生(木尾士目

ぢごぷり木尾士目

空談師(篠房六郎

 

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まとめる作業してて思ったが、

「あれ、これアフタヌーンじゃなくて、IKKIなんだっけ?」っていう記憶の間違いがけっこうあった。

2024-10-18追記ブコメ対応):

・『アンダーカレントふつう意識の外だったけど、雑誌買ってなかった時期に、単行本で読んだので、アフタヌーンという認識ぜんぜんなかった。大変失礼いたしました。位置付け的に確かに入っておかしくない作品だと思う。

「・「ガロからアックス」の境目だったから、ああいテイスト避難地になってた印象。」とのコメントも、なるほどと思ったので確認したら、ガロがほぼ休刊になったのが、97年7月で、アックスが98年なので、97年~98年スタート作品ということかな?ちょっとよくわかってない。

植芝理一ディスコミュニケーション』が魅力のある作品だとは個人的にも思うが、周囲でこの作品の話してた人ほぼいなかったんだよね。観測範囲問題かとは思う。

・『大合作』について複数コメントあり、扱いどうすればいいんですかね…

・『神戸在住』もコメント多めで、ここらへんも確かに好きな人多いですよね。

・『地雷震』(髙橋ツトム)の適切な位置付けはあまりよくわかってない。読んではいた。

・『カラスヤサトシ』『ワッハマン』も同様。

・『菫画報』はふつうに好きだけど、こういう選のなかに入るような層の厚い評価文脈ってあるの…?

・『ワンダンス』を次点ぐらいには入れてほしいとのこと。ちなみに、個人的に好きというだけだけで言うと、次点にも入れなかったけど、『リンガフランカ』(滝沢 麻耶)は好き。個人的気持ちとしては清家雪子とかも、もっと売れてほしいなと思っている。

五十嵐大介は、代表作は『リトル・フォレスト』より、『海獣の子供』(IKKI)のほうなのかな?とぼんやり認識なので、入れなかったけど、認識ぼんやりしてる

とよ田みのるは、『『これ描いて死ね』』(ゲッサン)のほうが代表作になるかなと思って、いれてない。

・冬目 景は四季賞デビューアフタヌーン作品複数あるが、『羊のうた』(コミックバーガーコミックバーズ)『『イエスタデイをうたって』』(ビジネスジャンプグランドジャンプ)いずれも他誌

四季賞受賞したデビュー作の衝撃がすごかったという人が、けっこういるのは完全に同意四季賞は、他誌の新人作家向けの賞とは明らかに位置けが異なる賞だと思う。

あらためて思ったが、アフタヌーン作品評価文脈はいろいろあって複雑だな、と感じる。ブコメでも書いていただいたが、アフタヌーンは、他の雑誌よりも10選とかやったら、合意とりづらいのはそうだと思う。「これがヒット作です」的な基準の外側に「この文脈ではすげー評価されてるし…!」というような文脈が、いろんな形で存在しているので、合意とりづらいところが、アフタヌーンの良さなんじゃないかとは思っている。

2024年11月28日追記

熱量のある反応をいただいていたので。ありがとうございます

https://msknmr.hatenablog.com/entry/2024/11/20/123000

ちなみに、完全に個人的に10選ぶなら、こんな感じだろうかと思う。

滝沢 麻耶リンガフランカ

黒田硫黄大日本天狗党絵詞

銀峰瑞穂清家雪子)『孤陋』(四季賞作品

岩明均ヒストリエ

篠房六郎空談師』

沙村広明波よ聞いてくれ

山口つばさブルーピリオド

真鍋昌平スマグラー

木尾士目ぢごぷり

赤名修真刈信二勇午

 
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