はてなキーワード: TikTokとは
基本、表題の通り。
今回の選挙の論点は、もはや「早苗で良いのか?」に尽きるだろう。
本来ならそれ以外に論じるべきことが山ほどあるのだが、本人も言っているのだから、そうなのだろう。
私の場合は解散前から、この人が今後「日本代表ですよ」と世界に情報を発信していくことについて不安があった。
「言うべきことをはっきり言った!」と見ている人もいるようだが、あれは明らかに言っちゃいけないことをうっかり言った、だと思う。
だって、日本はそのことを諸外国に対して明言するべきであったろうか?
もしそうなら、然るべき場を設えるべきではなかったのか?
自民党に関しては、海外の代表を原爆資料館に招いたり、ウクライナ支援を表明したりと、日本ができる平和への提言を一定行なっていたと思う。
しかしながら、総裁が変わってしまっただけでこの体たらく、というところには驚かされる。
なので、早いところ総理が退任してくれることを願う日々だったが、そのチャンスは存外早く、向こうのほうからやってきた。ありがとうサナ。
どころか、彼女は「もし自民が過半数を取ったら、今は言えない国を二分する大事な事柄を頑張って推し進めるぞ、今は信じてくれ」と申してるわけだ。
すごいことだ!!!!
中身は秘密だが、飲んでくれ!
あるいはクーリング・オフの機会があることを実施しようとしているらしい。
国の信任を得た、ということにして!
この秘密ボックスの中身は、これまでの彼女の発言から推測するに
└主には国民主権の記載をとり、緊急事態要項を記載した2012年の案がベースになるだろう。
・徴兵制度
あたりだろうとされている。
いずれも戦争を放棄し、唯一の被爆国としての責務を背負った日本からは脱却することを意味している。
もっとクリティカルに言えば「多分、我々世代の男女が戦争に行くことになる」日本を目指す内容だ。
女は行かない、なんて甘いことはないだろう。
だって、若い世代たりてないし。18〜49くらいが対象になるなら、大学と高校生の子供がいる四人家族が全員招集される、なんてこともあるかもしれない。
いやいや、そんなのあり得ないと思うかもしれないが、「国よりも国民が上」という憲法ごと書き換えてしまえば、いくらでも自由にやれてしまう。
そもそも、高市さんが仰る「強い国」の強さはなんのことやら未定義である。
選挙が明けたあと、🌜🤪🌛<戦争に強い!と言い出されてもお手上げなのだ。
そして極論、みんなが気にする中国が、
敵国条項(第二次世界大戦で負けた国がやらかしそうだったら、非合意で殴っていい)を元に、
あんな総理をまた選ぶってこたぁ、国民もやる気なんですね、と何かを打ち込むことだってできてしまうわけだ。
それだけではない。
このことをしっかりと批判しているのは、れいわ、維新、社民党くらいだろう。
もしもあなたが、戦争に行きたくない!と思うなら、たとえそのほかの考えが少し合わなくても、この辺りに出しておくことを推奨しておく。
実際にどうなるかは私にもわからないが、現状、上に挙げた三つの政党はいずれも小さく、自民党と戦ってくれることは期待できるが、与党になる可能性はほぼない。
なので、共産って言葉が怖い、とか、れいわはないわ、って見た!と思っても、そのまま「よくわからんけど怖い感じ」になることはなく、
現政権のダメなところにツッコミを入れてくれる人が増えるだけだ。
さて。
ここまで丁寧に色々書いてみたのは、この文章の一部が切り取られ、少しでも広まることを期待したからだ。スクショして良い!動画にしたって良い!
好きに使ってくれて構わない。
そして本題の「ダメかも」はここにつながる。
ここから先はこれまでの流れを当たり前に知っていた、と思う人にこそ読んでほしい。
端的に述べるならば、左派はわかりづらい。
前回の選挙戦からtiktokやTwitterなど、各種SNSを見てそれぞれの声を眺めていったが、15秒や140文字のコンテンツに慣れてしまうと、「現在」に連なる過去や未来の文脈が分断されてしまう。
例えば統一教会との繋がりがある!と書かれても、統一教会、というものがなんなのかの情報はその前後になく、またその文面も数秒で流れていくため、次に前後の情報と巡り合っても、なんかことかはもうわからないのだ。
そうなると、最早政治よくわからない、ニュースを見ない、実家にいない若い世代にとって、今の政治の論点がどこにあるかがまずわからない。
これはもう少し前の私もそうだったが、
・統一教会はなんでダメで創価学会系の公明はなんでオッケーなのかわからない
・石破さんおにぎりの食べ方汚いと思う
・外国人なんか怖い
・おじさん同士の区別がつかない
・神谷さん?ははっきりしゃべるので、わかる
・共産はこわい。なんでいんの?
例えば、海外へ投資を行うことはいずれ自国のためになる(資源国との繋がり)だったり、
自分たちだって地震の時に助けてもらった、というような眼差しは、
湿布代金ですら「おかしくない?」とされる昨今では不思議に思えるだろう。
ならばこそ「海外にお金を渡さない!日本人にのみ還元!」という、資源のない我々がやるといずれ自分の首が絞まる政策の方が、はるかにわかりやすいのだ。
そしてそう言った発言をする政党は、今さえ良ければ良い。我々の未来に責任を負わなくていい。
これまでの経緯と文脈を共通する我々にとって、今ここで「平和を」ということの大事さは痛いほどよくわかる。
しかし、文脈のない15秒世界においては「平和を」はなーに当たり前のことを言っているんだ、みんなそれを求めてるだろ、今は平和だろ、くらいで終わってしまう。
なので、平和を脅かすものとして、漠然と外国かな、と考えたりするわけだ。
我々世代は、15秒によって分断されているのだ。
「ばか」「きちがい」「頭おかしい」と言った言葉を使わない、使えない。
このことが実は大きいと考えている。
おや?と思う人もいるだろうので解説すると、これらの言葉は発達に問題がある方に対する侮蔑用語として、使用を避けられる傾向にあるのだ。
しかしながら、サムネイルとツイートの世界では、こういった補足がない限り、どうしたって強い言葉に負ける。
そして、先日各党に対する動画のネガポジ総量を測ったグラフが公開されたが、自民はポジ、左翼はネガが目立つ結果となった。
それはそうだろう。
そのような表現のしがらみを無視した方が、動画はつくりやすく、伸びやすいからだ。
各方位に気を配った文章って伸びない。最強神号泣末路みたいな方が伸びる。伸びる方が収入になるので、そちらに着く。最悪だよ。
ちまちまと動画発信もしてみたが、やはり伸びは苦戦している。
そもそも、本来なら「左翼とは」「右翼とは」「憲法とは」から再インプットしなければならないが、のこされたじかんと、我々世代のSNSの速度感では無理だろう。
どうかこの記事の一部でもくり抜いて、あなたのメディアにそのままのせたり、あるいは動画にしたり。文章を書いてもいい。
投票以外にできることはまだある。
日本公開を考えてタイトルつけれんか~という理不尽なツッコミをしつつ、思ったよりも好きな感じのゾンビものパロディ映画だった、63点
バーでハメを外して知らんイケメンの家で目が覚めたテレビカメラウーマンのデブ(デボラの略称)が男からさっさと家から追い出されると外はゾンビだらけに。イケメンと手を組み逃避行の末、イケメンの家に逃げ込むも実はこの騒動がイケメンの実家の問題だったことが分かり再び逃走、自警団による街の封鎖から逃げ出したりしつつテレビで街の実情を訴えたデブはなんだかんだで助かるのだった。
と、いうわけでデブっていうのは肥満体のデブじゃなくてデボラのデブで日本の配給会社がもうなんでもええわ!とヤケクソになってこのタイトルを付けたわけではなく、原題も「NIGHT OF THE LIVING DEB」という出会いがしらの特大ノイズ。冒頭のバーのシーンでデブ(主人公)とデブ(肥満体)が一緒に飲んでるところから始まるから余計に混乱する。
で、この作品を完走できるかどうかはこのデブをどう感じるかによる。っていうかこの作品に出てくる奴ら全員ちょっとっていうかだいぶおかしくてその中でも主人公であるデブは自信過剰で自意識過剰で空気が読めないイカれたクソポジティブオタクっていうドカ盛り属性でメチャクチャウザい。こいつをウザ面白いと思えなかったら90分もたないと思う。
一方でヒロインになるイケメンも過剰に意識高い系で顔に自信がありすぎるし、なんか常に髪を直してる。これは日本でいうところのアイドル主演映画で顔には汚しが入るのに髪がサラサラみたいなののアメリカ版パロディなんだろうな。
感じ悪い金持ちや権力者、なんか調子乗ってる自警団気取りの奴らと映画あるあるがどんどん登場する。
そんなこんなであるあるネタでカリカチュアされすぎた奴らがゾンビ映画をパロディし続ける映画。
笑いもしょうもない小ネタをひたすら重ねていくスタイルで本当にバカバカしいし不謹慎。
例えば、隣人の老人の様子を見に行くと死んでいる。それを見たデブは老人の手をそっと胸の上に直して顔に手を置き瞼を引き上げる。イケメンが「なんで目を開けさせたの?普通は閉じるだろ」と突っ込んで目を閉じさせるもデブは「天に昇っていくさまを表している」と目を開けさせる、対抗して閉じさせるイケメン、また開けさせるデブ。といった「死体の目を閉じさせるシーン」パロを延々とやったりする。
他には車で逃げだしたデブがなぜか蛇行運転してわざとゾンビを轢きまくりながら「イエーイ!40ポイント!」とか言いながら爆走するシーンとかもシンプルイカれてるし、そこでイケメンが「もし治療方法が見つかったらどうするんだ!」と諫めるのも、言われてみれば確かにその視点なかったなと思わされる。
パロディ要素を抜くとバカみたいにスカスカの映画なんだけど、撮った人はゾンビ映画好きなんだろうなっていうのがかなり伝わってきてよかった。
スカスカの中でもモテずに生きてきたオタクのデブが逃避行を通じてイケメンといい感じになって気持ちが通じ合い、最終的にテレビ局から街の外にメッセージを送るシーンは結構よくて。いかにもオタク女子みたいな服装だったデブがキャスターのドレスを身にまといヘアメイクもバッチリして(誰がやったんだ)、カメラに挑む。
「コストを払ってまで私たち2人を助ける必要があるのかという疑問はあると思う。でも、こんなひどい状況でも真実の愛を私たちは見つけた。だから最初の疑問への答えはYesよ。みんなは私たちを助けるべきよ」というような演説をする。いや、どういうことだよ!と思いつつも「コスト」じゃなくて「愛」で助け合うのが人間だと、利己的の塊のデブがポジティブを貫き通したメッセージはなんか妙な説得力があってよかった。
しかしその後、後ろから洗われたゾンビにデブは肩を噛まれてしまいその様子もテレビ中継される。
そして街の外ではTikTokやテレビであの映像は本当かどうかを自称有識者らが話し合い、ご意見表明し、助けるべきかどうかの議論が活発化し挙句の果てには「デブの雄姿を見て私も勇気を出して彼にプロポーズしたの!」と隙あらば自分語りはじめるバカまで現れててんやわんや。ここ好きポイント。
で、結局噛まれたデブは助かるんだけど、これ意外にちゃんと考えて作られてたなってなるのが「ゾンビは人を食べる」は描かれてるけど「噛まれた人がゾンビになる」は作中で一切描かれてない。「噛まれること」と「ゾンビになる」は別問題だったという驚愕のオチが出てくるんだけど、これも言われてみれば確かにそうだなって。
そして救助隊に「ゾンビだからって先入観で見ちゃダメだよ。それともゾンビヘイト?」ってイケメンが窘められて、イケメンが「そんなわけないだろ、俺の友達にもゾンビはいるし」とまさかの「I have black friends」構文で返すという展開も嫌いじゃない。
そんなこんなで低予算ながらも徹底的にゾンビ映画や社会をパロディしたいい意味でしょうもない映画。正直、映像としての見応えはあんまないし、特殊メイクは明らかにヘタクソだけど主人公たちを楽しく観察できるならそこまで悪い映画でもなかったかな。
ちょっと物分かりの良い人間だったらこの先日本に良いことなんて無いの分かるんだよ
もうどうなったっていいんだから
分からないなら一生支持を得られないままだよ
本気で言ってるんだよ
木下 2010年代半ば頃は、BuzzFeed JapanやHuffPostのようなメディアがリベラルな記事を取り上げて、ネットでの影響力も強かった。でも、実はそれが届いたのは、いわゆる中央線沿いの大卒の高等遊民がほとんど。全国各地の働く人に届いたり、地域の人を包み込むような「世論の作り方」ができなかった。そこで裾野が広がらなければ、先細りするのは必然だし、実際に共産党や立民、れいわ新選組が支持を減らしていることにつながるんですよね。また、2015年は、共産党と民主党の野党共闘によって、安倍政権に対抗していくという枠組みができた時期。それぐらい安倍政権は強かった。だから、高市さんや高市さんの周りの右派は、「安倍政権の夢よふたたび」と思ってる。一方でリベラルは野党共闘の夢を見てる。だから、右も左も「2015年をもう一度」という、ある種のノスタルジーの中に生きている。そのモードを切り替えるべき時期にきていると思うんですよね。立民としては、「中道」というだけじゃなくて、ちゃんと理念的にチェンジしないと。もう立憲主義という言葉自体が響かないだろうし。
申し訳ないが、ちがや氏は「メディア」という変数をほぼ無視しているので、かなりピント外れとなっている。SNS言論ばかりを見ている人の(その限りでの解像度は高いが)欠点が集約されている。
左派やリベラルに勢いがあった時代というのは、保守的な価値観の政権与党と、おなじく保守的な価値観の与党の支持基盤である地方・農村や自営に対して、新聞・テレビのメディアが批判していた時代である。テレビにおける、地方の公共事業政治バッシングがその象徴である。
しかし平成中期以降、地方・農村や自営の世界は完全に衰退し、逆にテレビの影響力が絶大なものとなり、自民党もテレビにおける世論を完全に意識するようになった。小泉純一郎は公共事業批判や官僚政治批判というリベラル左派のアジェンダを全面的に取り込んで、テレビで政治を判断および批評する都市の有権者の支持を獲得していった。
1990年代末に登場したインターネットは、長い間政治への影響力は微弱であった。掲示板やブログ、SNSの政治論壇の基調は登場した当初からアンチマスメディアを強いアイデンティティとしており、同時にアンチリベラル左派でもあった。いわゆるネット右翼である。
ネット右翼は00年代初めの2ちゃんねるからおり、「マスコミが伝えない真実」を枕詞にメディア批判を執念深く行なっていた。ネット世論が右傾化したのは、テレビがマスメディアの言論を独占している時代に、右翼の言説の方が明らかに「テレビでは言ってはいけないこと」というカウンターとしての機能を持っていたからである。リベラル左派の言論は、マスメディアをバッシングしたいネット民にとっては、明らかに「穏健」すぎるものだった。
しかし00〜10年代のネット右翼は、政治に対する影響力は微弱であった。彼らの言論にたどり着くには、わざわざ「在日特権」などを検索してクリックする必要があり、政治的無関心層にまでに届かせるのは難しかった。在特会のデモも、政治的無関心層には嫌悪感を抱かせるもので、運動としては完全に失敗だった。
しかし2020年代に入り、YoutubeやTiktokなどの動画SNSの影響力が爆発的に高まって新聞テレビを凌ぐようになり、ネット右翼も主戦場を動画SNSに移すようになってから、風景は一変していく。
「マスコミが伝えない真実」を枕詞にリベラル左派を嘲笑し、在日外国人を敵視・攻撃するというスタイルは、「2ちゃんねる」時代からまったく変わっていない。変わったのは、政治的無関心層にダイレクトに、そして日常的に届くようになったことである。Tiktokで「高市首相」と検索すると、中高年の保守論壇オタクしか読まない「Will」「Hanada」の表紙と一つも変わらないのが象徴的というか皮肉である。
「メディアは都合の悪い真実は隠す」という批判も、かつてそれに共感・同意する人は一部であったが、ジャニー喜多川性加害問題以降は多くの人の基本的認識になっている。かつてはネット右翼のジャーゴンにすぎなかった「マスコミが伝えない真実」が、若い政治的無関心層にまで浸透するようになっている。
もともと社会に対して強い不遇感や疎外感を抱えるネット右翼は、情報発信の熱量についてはリベラル派に比べて圧倒的に強かった。毎日膨大な数のショート動画を投稿するネット右翼に対して、リベラル派は太刀打ちできなくなっている。Youtube上にはリベラル派のチャンネルもあるが、小難しい話を1時間かけて行なっているものが多く、再生回数も登録者数も10分の1程度である。ショート動画については、全くと言って良いほど対応できていない。
以上のように、リベラルな政治勢力の退潮はメディア環境の激変という要因が大きく、実際これは日本だけではなく世界的な趨勢である。もし立憲民主党が完璧にちがや氏の言う通りに頑張ったとしても、せいぜい焼石に水に過ぎない。
タイトルのとおり。
終わったあとに「自分は、いつまでこのライブを楽しめるんだろう」と思ってしまった。
今回のライブが最高で、楽しかったというオタクはこの記事を読まないことをおすすめする。
ただ、一人の古参オタクが歳を取ったことを認めたくなくて、ぼやいているだけというのが高いためである。
このままだと、界隈全体が緩やかに衰退するんじゃないかなと思った日記です。
■
まず前提として、自分は30代。
初音ミク歴は2007年のニコ動全盛期からで、つまり小6か中1の頃からどっぷり浸かってる。
ただ、ライブ歴は浅い。
マジカルミライが始まった2013年頃は受験や就活の時期だったし、昔は「高校生が一人で飛行機に乗って県外遠征」なんてハードルが高すぎた。
初参加は2016年の地方ツアー。そこから数年後、やっと金銭的に余裕が出てきたため、2023年からマジミラ札幌以降、2024年福岡マジミラ・地方ツアー、武道館(ミクフェス)、マジミラ仙台と通っている。
■
正直、「マジミラ」じゃない冠がついている以上、何か新しいことをやるライブだと思っていた。
結論から言うと、「焼き回しパレード」を見せられた気分だった。
今回のコンセプトがマジミラ2013年リスペクトだったのは分かる。
でも、それって「当時の感動を、今の技術で再構築する」から意味があるんじゃないのか。
(だいたい、2013年リスペクトを匂わせつつ、なんで兄さんだけ最近の曲なんだ?)
(探せばもっと当時の曲だってあるだろ!このへんの「とりあえずやっとくか感」にしか感じられなかった)
ステージを見ていて、新衣装のモデルと昔のモデルの映像の差がどうしても気になった。
解像度なのか、モデリングなのか、理由は分からないけど、チグハグな映像が流れるたびに現実に引き戻される。
モデルを変えないことが「愛」なのか?
私には「古くから参加している人に文句を言われないようにしている」ようにしか見えなかった。(言い方が悪くてごめんね)
一般のアーティストのライブと比べて、バックダンサーもいない、生身の人間がステージにいない分、視覚的な情報量が圧倒的に足りない。
我々大人がチケット代なんていくらでも払う。多少上げたっていい。
だから、「今のライブはこんなに進化しましたよ」というのを見せてほしかった。
※後から知った話だが、にじさんじのライブでは1年以上前に透過スクリーンをトロッコ移動させるものがあったらしい。
初音ミクのライブの方が「最先端」として走り出したのに、どこでこんな差が生まれてしまったのだろう。
■「今」のボカロはどこに行った?
一番キツかったのは、会場の空気だ。
アンコール、静かすぎないか?あれがライブ初参加の層が多かったからなのか、古参が「いつものね」と地蔵化していたのかはわからない。
でも、演者が休憩するタイミングが、過去の踏襲すぎて視野が狭まってないか?
ミクフェス(武道館)のときみたいに、DJ入れて繋ぐとか、飽きさせない工夫はいくらでもできるはずだ。
あんなアンコールを聞くくらいなら「休憩中」と途中札を入れてくれた方がまだマシだと感じるくらいには悲しい気持ちになった。
■
そして何より言いたいのは、「今の曲」へのリスペクトのなさだ。
ボカロは今も進化してる。YouTubeやTikTokでバズり散らかしてる新曲がいっぱいある。
ただ、まだライブでやられていない良い曲が山ほどある中で、なんでライブで流れるのは「いつもの曲」ばかりなんだ?
何度も見た曲がまた選ばれているのは、自分には「懐古」ではなく「惰性」にしか感じなかった。
いや、それならそれでいいけど、私たちは「2026年の初音ミク」を見に来てるんだよ。
新しいボカロPはどんどん生まれてる。新しい名曲も生まれてる。
それを取り込まずに、「昔はよかったね」だけで回すようになったら、それはもう新陳代謝が止まった「死」と同義なのではないか?(白熱してしまいましたね、失礼)
新曲で発表されてた「アイドル戦士」も「シアンブルー」も予習して、コール完璧にして行ったんだよ。
でも、周りの反応の薄さ。スペシャルシートですら、やや盛り上がりにかけるコールとペンラ振り。
(※スペシャルシートが外れたオタクは、涙のスタンド席だったけれど、周りでコールが聞こえることはなかった)
熱意を持って「新しいもの」を楽しもうとしている層は、どこに行ったんですか…?
懐かしい曲で盛り上がるのも悪くない。
隣に居た2010年のミクパ以来ライブに行ったことないオタクは感動していた。
そういう初見の人でもいつでも参加しやすいものであり続け、感動して帰ってもらう。それも大事だ。
ライブ、いつの間にか「惰性」と「安心できる行事」になってないか?
「いつもの曲」を聴いて、「いつもの動き」をして、「ああ、今年もミクに会えたな」と満足して帰る。
それはそれで幸せなことかもしれないけど、それって盆踊りや初詣と同じじゃない?
でも、初音ミクのライブって、そんな「伝統芸能」を守るための場所だったっけ?
テクノロジーと音楽の最先端を走って、クリエイターとただのオタクたちの架け橋を用意してくれて、度肝を抜くような「未来」を見せてくれる場所じゃなかったのか?
武道館のミクフェスにはそれがあった。ボカロPが登壇して、演奏して、DJがフロアを沸かせて、「これが今のボカロだ!ついてこれるか!」っていう熱気があった。唯一無二の体験があった。
今回のローソンライブには、その「ヒリつくような挑戦」がなかった。
※だからといってマジミラにあるかと言われたら、ギリまだあるくらい。
私はまだこれだけ文句を言いながら通う。
来月のDECO*27の単独ライブも行くし、ポケミクも行く。地方開催があれば旅行ついでに行く。
でも、もし本丸である「マジカルミライ」までもが、今回のような「安心安全な懐古イベント」であり続けるなら、わざわざ東京まで遠征するのをやめるかもしれない・・・。
「これでいいや」って思ったら、そこが衰退の始まりじゃないか?
我々には、金はあるけど、時間は有限なんだ。
とりあえず、スモーク焚きすぎてミクが見えなくなるのだけは、そろそろ改善できるんじゃないですかね…!
■追記
今回、TLがローミクライブについて、とてつもない賞賛のあらしだった。
それを見て、私は自分の感覚がズレているのか思った。 「焼き回しだ」「進化がない」と感じたのは私だけなのか? と。
ということを考えた時にひとつ考えに至った。
恐らく、今新曲を聞いている層は「プロセカ」にいるのではないかと。
今の10代〜20代前半のファンにとっての「リアルライブ」は、初音ミクのライブではなく、「セカライ」なのかもしれない。
・若者層: 「セカライ」で、自分たちの世代のヒット曲と演出を楽しむ。
・30代以上(我々): 「マジカルミライ」や「今回のライブ」で、過去の遺産を楽しむ
金払いのいい古参ファン(我々)向けにチューニングせざるを得ない。
その結果、会場は「同窓会」化し、新規が入りにくいガラパゴス化が加速していく。
私はプロセカもプレイしているし、新曲を追うために課金もしている。
けれど、私が好きなのはあくまで「初音ミク」という存在そのものだ。だからこそ、ゲームのライブではなく、マジミラに足を運び続けている。
しかし、TLの反応を見る限り、今のここのファンが求めているのは「未来」ではなく、安心できる「同窓会」なのかもしれない。
結局、いろいろ御託を並べたけれど。
周りが純粋に楽しんでいる中で、一人で腕組みして「進化がない」「未来がない」なんて文句を言っているのは、変化を受け入れられない老害の始まりなのかもしれない。
tiktok使ってるけどちゃんと使っていけば動物と食べ物の動画しか流れてこないよ
ネトウヨの動画とかすぐいなくなるしエロダンス女の動画もだんだん消えてく(こっちはめっちゃバズるので音源とかで関連付けられてどうしても混ざってくる)
安全だよ
最近あるバンドにハマり、YouTubeやX、ブログ、匿名掲示板などネット上の情報をひたすら漁っている。ライブハウスに行ったことがないので不安だがワンマンも申し込んだ。
シャッフル再生で適当に曲を流していたらたまたま彼らの最近バズった曲が流れてきたことがきっかけでハマったのだが、そのバズりとはTiktok発らしく、そのバンドはTiktokへの動画投稿にかなり力を入れている。その動画を見たいという気持ちが募り、Tiktokなんて中国製で怪しい上に時間を無駄にするアプリなんぞ入れてたまるかという今までの抵抗が揺らいできている。
韓国に個人情報が漏洩しうると知りつつLINEも普段使っているし、アプリ入れる程度で流出するような情報なら別に漏れても困らないのではとか、自分ごときの情報抜いて何になるんだよとか思うものの、やはりTiktokへの抵抗感は拭いきれない。でもバンドの動画は見たい。頼むからあらゆる活動者は西側のプラットフォームを使ってくれ。
まず「陰謀論やデマを発生させるのがYouTube」って言ってますけど、発生と拡散を混同してません?
デマ自体は昔から2ちゃんねるでもTwitterでも雑誌でもテレビでも普通に生まれてましたよね。YouTubeができる前からオカルトも陰謀論も山ほどあったわけで。
あと「レコメンドがデマでもおすすめする」って言うけど、正確にはデマかどうかじゃなくて、見られるかどうかでおすすめしてるだけなんですよ。
これ、YouTubeに限らずSNS全部そうで、XもTikTokもまとめサイトも同じ仕組みです。
「金になることが全ての原因」って言ってますけど、じゃあ金にならない陰謀論は存在しないんですか?
現実には、趣味で信じて拡散してる人も大量にいますよね。そこ無視して「全部プラットフォームが悪い」はちょっと楽な考え方かなと。
デマに走って成功するのは一部で、大半は伸びずに終わってます。
あと「広告ついたら最悪が訪れる」って言うけど、
広告がついてない時代から既に最悪な情報は普通に広まってましたよね。
人間が「刺激の強い話を信じたがる」問題を、全部Googleのせいにするのは無理があると思います。
要するに、
実際は
・見る人
・信じる人
・拡散する人
この3つが揃わないとデマは広がらないんですよ。
そこを無視して「会社が金儲けしてるから全部悪」って言うのは、
皮肉な話ですけど。
2020年代に入り、特にコロナ禍を経てからのポップスのコード進行や楽曲構造の複雑化には、目を見張るものがあります。
コロナ禍で物理的なセッションが制限されたことで、アーティストが一人でPCに向き合い、情報量の限界に挑むような楽曲制作に没頭した影響は非常に大きいと感じます。
なぜこれほどまでに複雑化したのか、いくつかの視点で整理してみます。
かつての作曲は楽器を持って「手」の癖でコードを探していましたが、現在のDAW(音楽制作ソフト)上では、ピアノロールという画面を見ながらパズルを組み立てるように音を配置します。
非直感的な音の配置: 楽器が弾けなくても、画面上で半音ずらしたり、テンションノートを積み上げたりすることが容易になりました。
有名な複雑な進行(例:丸サ進行やIV-V-iii-viなど)をテンプレート化し、そこからさらに「裏コード」や「分数コード」をパッチワークのように繋ぎ合わせる手法が一般的になりました。
コロナ禍でリスナーの音楽視聴スタイルが「じっくり聴く」から「SNS(TikTok等)で秒単位で消費する」へと加速しました。
わずか2〜3分の曲の中に、転調、拍子変更、激しいコードチェンジを詰め込むことで、脳に強烈なフックを残そうとする「ハイパーポップ」や「ボカロ文化」の影響がメインストリームに逆輸入されました。
ライブでの再現性を無視できる環境だったからこそ、人間が弾くには難解すぎるジャジーで複雑なボイシングが多用されるようになりました。
特にJ-POPにおいては、Official髭男dismやKing Gnu、Vaundyといった、ブラックミュージックの素養を持ちつつDTMを駆使するアーティストが覇権を握った時期とも重なっています。
切なさを強調する和声が好まれ、さらにそこにブルーノートやテンションが加わることで、かつての「J-POP=王道3コード」という図式は完全に過去のものになりました。
アーティストが「内省」と「実験」に費やした時間 コロナ禍で外の世界との繋がりが断たれた結果、多くのクリエイターの関心は「自分にしか作れない、極限まで磨き上げた緻密な世界観」に向かいました。それが結果として、1曲あたりのコードの数や、予測不能な転調の多さとして表れているのは、音楽史的に見ても非常に興味深い現象です。