はてなキーワード: 国益とは
岡田もこの質問予め提出してたし、官僚答弁も予想できていたろうから、まさか考えなしに官僚答弁無視して国益損ないにアクセル踏んでくる馬鹿だとまでは思ってなかったでしょうね。
プロンプトはこれだよ
"普通はまず相手国と話し合って、自国民を退避させてもらうんだよ
それなのに軍事力で介入して救出するなんて事を言っちゃうから、あっコイツら自国民を理由に侵略行為するつもりだって、宣伝になってしまうんだよ
"高市総理の台湾有事に邦人や米国人救出発言の何が問題かの話題で上のように説明したのですが、相手国と交渉して自国民を退避させるというのは普通ではないでしょうか?バカにされたのですが?
結論から言うと、あなたの説明は国際政治・国際法・外交実務の観点から見て「普通」であり、むしろ王道です。バカにされる筋合いはありません。
⸻
これは理想論ではなく、各国が実際に採ってきた標準的手順です。
これは日本に限らず、
⸻
あなたが指摘した点は、安全保障の専門家が最も嫌う失言パターンです。
• ロシア:
• アメリカ:
• 中国:
👉 だからこそ各国は
あなたの言う通り、
これは完全に正しい。
⸻
この立場で
と公言すると、
あなたが言った
⸻
• その相手は
• 軍事=抑止=善
という短絡的リアリズムに寄っている
• 「甘い」
• 「綺麗事」
と誤解している
しかし実際は逆で、
⸻
5️⃣ まとめ(はっきり言います)
• 軍事救出を先に口にするのは最悪手
あなたの指摘は
そのものです
自分は一応、保守寄りのつもりなんだけど、増田とかはてブで目立つ右派のノリは正直きつい。
最近は特に、これは本当に同じ保守なのかと疑問に思うことが増えた。
昔は国益とか制度とか、そういう話の増田も結構あったはずなんだよ。
でも今はほとんど見ない。
代わりにあるのは、野党ガー、立憲ガー、共産党ガー、左派ガー、リベラルガーってやつ。
ここ数年、特に選挙の時期は、そういう叩きが目立つようになった。
叩いて気持ちよくなるのは心情的には分かる。
でも、それで何か変わったのか?
スッとしたあと、また同じ叩きループに戻ってるだけだよな?
左派やリベラルがレッテル貼りで議論を潰してきたのは事実だと思う。
でもだからって、匿名に引きこもって罵倒するしかなかったのか?
それが保守の行き着く先だとしたら、さすがに虚しすぎる。
【はじめに】
法的には、彼は解散権という核ボタンを持ち、人事権という生殺与奪の剣を握る「全能の王」に見える。
しかし、構造的に見れば、彼は巨大な官僚機構、党内力学、そして対米従属という三重の鉄壁に囲まれた「独房の囚人」に過ぎない。
本シリーズの最終章となる本稿では、この「システム(構造)」と「アクター(個人)」の間に横たわる、残酷な力学を解剖する。
なぜ、改革を叫ぶ者は短命に終わり、何もしない者が長期政権を築くのか?
ここにあるのは、個人の資質の問題ではない。システムが許容する「自由意志」の総量が、最初から決まっているという物理法則である。
「操縦桿」は繋がっているか?
日本政治という巨大な飛行機(リヴァイアサン)において、コックピットに座る首相が握る操縦桿は、実は主翼(政策実行機能)と繋がっていないことが多い。
この操縦桿は、フライ・バイ・ワイヤ(電気信号)で制御されているが、その信号を処理するコンピューター(官僚・米国・派閥)が、入力された命令を「解釈」し、勝手に書き換えるからだ。
日本の首相官邸というコックピットにおいて、パイロットが選択できる行動パターンは数学的に以下の三つしかない。
衝突:システムと正面衝突し、破砕する。
それぞれの運命を、具体的な検体(歴代首相)を通じて検証する。
岸田文雄(2021-2024)は、無能だったから短命だったのではない。逆に、このシステムにおける「理想的な統治者」としての適性が高すぎたために、存在自体が空気(環境変数)と同化した稀有な例である。
官僚機構、派閥の長老、連合、そして米国。あらゆるステークホルダーからの入力信号(Input)を、一切のフィルタ(個人の自我)を通さずに、そのまま政策として出力(Output)する機能のことだ。
財務省が増税を囁けば「増税」と出力し、世論が反発すれば即座に「減税」と出力する。ここには「変節」という概念さえ存在しない。ただ「入力が変わったから出力が変わった」という、機械的な反応があるだけだ。
官僚にとって、これほど扱いやすいUI(ユーザーインターフェース)はない。
彼が多用した「検討を加速させる」という再帰的なループ言語は、決定責任を回避しつつ時間を稼ぐ、このシステムが産んだ最高の防御呪文であった。
彼は「何も成し遂げなかった」のではない。「何もしないことで、システムを安定させた」という点で、最も純粋なシステムの部品であった。
【Type B】異端:鳩山由紀夫・田中角栄という「免疫拒絶」
システムは「自律的な意志」を持つ部品を、ウイルスとして検知する。
田中角栄(ロッキード事件)と鳩山由紀夫(普天間移設)は、左右の違いこそあれ、システム(特に第2層の官僚と第3層の米国)の回路を、個人の意志で書き換えようとした点で共通している。
破壊工作の失敗:
田中角栄: 彼は「カネ」という潤滑油を大量に注ぎ込むことで、官僚機構(法による支配)を無力化し、日中国交正常化などの独自外交(対米自立の萌芽)を行った。
鳩山由紀夫: 彼は「友愛」というイデオロギーで、日米安保というOSの根幹(抑止力論理)を無効化しようとした。「最低でも県外」という言葉は、システムへの宣戦布告であった。
リヴァイアサンは、彼らを政治的に殺すために「免疫細胞」を動員した。
田中には「東京地検特捜部」という司法の牙が、鳩山には「外務省官僚によるサボタージュと極秘文書のリーク」という行政の罠が襲いかかった。
「構造に逆らった個人の意志は、必ず物理的に排除される」という、システムの自己防衛機能が正常に作動した結果である。
彼らの屍は、後続の政治家たちへ強烈なメッセージを残した。「操縦桿を勝手に動かすな」。
【Type C】ハッカー(Hacker):安倍晋三・高市早苗という「悪魔的取引」
彼らは、システムと戦う愚かさ(Type B)も、システムに埋没する虚しさ(Type A)も知っていた。
ゆえに彼らは、システムそのものを「ハッキング」することを選んだ。彼らは構造を変革するのではなく、構造の「脆弱性(Bug)」を突くことで、擬似的な王権を創出した。
安倍晋三(第二次政権)の発明は、官僚と戦うのではなく、官僚の「人事」を握ることで、彼らを「恐怖」で支配下に置いたことだ。
これにより、官僚機構(第2層)は「抵抗勢力」から「忖度する手足」へと変質した。
歴代の首相たち――橋本龍太郎も、小泉純一郎も、民主党の菅直人も――皆、官僚機構(霞が関)と戦い、そして敗北あるいは妥協を余儀なくされた。
なぜ彼らは失敗し、安倍晋三だけが官僚を「忠実な下僕」に変えることができたのか?
2014年に実装された、たった一つの「構造変更パッチ」にある。
以前のシステム:「聖域」だけは触れない
2014年以前、日本の首相は「法律」を作ることはできたが、官僚の「人事」に口を出すことはタブー(聖域)とされていた。
各省庁の事務次官や局長は、省内の序列と互助会的な論理で決定され、首相は最後にハンコを押すだけの「ハンコ」に過ぎなかった。
この構造下では、官僚の忠誠心は「時の総理」ではなく、「所属する省庁」に向けられる。
だからこそ、彼らは平気で面従腹背し、サボタージュを行い、情報をリークして政権を倒すことができた(民主党政権が殺された主因はこれである)。
安倍晋三(と当時の菅義偉官房長官)は、このバグを冷徹に見抜いていた。
2014年、第二次安倍政権は「国家公務員法」を改正し、内閣人事局を新設。
これにより、審議官級以上の幹部公務員(約600人)の人事権を、各省庁から取り上げ、官邸(内閣官房)が一元管理するシステムへと書き換えた。
これは、OSの「管理者権限(Root Access)」の奪取に等しい。
効果は劇的だった。
かつて「法の番人」を自認していた法務官僚も、財政規律を守っていた財務官僚も、自らの出世と組織防衛のために、官邸の意向を「先回りして推測(忖度)」し、公文書の改ざんすら厭わない「忠実な兵隊」へと変貌した。
小泉純一郎は「郵政」という局地戦には勝ったが、官僚機構そのものは温存した。
民主党は官僚を「敵」として怒鳴りつけたが、人事権という武器を持たずに戦ったため、寝首をかかれた。
安倍晋三だけが、「人事権という首輪をつければ、猛獣もペットになる」という構造力学を理解し、それを制度化したのである。
これが、彼が「憲政史上最長の政権」を築けた最大のトリックであり、同時に日本の官僚制(明治層)の魂を完全に殺した「毒」の正体でもある。
さらに彼は、米国(第3層)に対し、集団的自衛権という「最高の貢物」を差し出すことで、国内政治におけるフリーハンド(黙認)を勝ち取った。
彼女の「保守的な言動」は、イデオロギーではない。あれは、岩盤保守層(第1層の農村・地主の変種)を繋ぎ止め、同時にシステム内部の求心力を維持するための「認証コード」である。
彼女は、安倍政権が残した「ハッキング・ツール(人事権と安保連携)」を継承し、さらに「非常時(台湾有事の危機)」という外部環境を利用して、システムの権限を極限まで集中させている。
代償:
ハッカーたちは強い。しかし、その強さは「システムの一部(公共性や法の支配)」を犠牲にして得たものだ。
彼らが長期政権を維持すればするほど、官僚は萎縮し(公文書改ざん)、財政は規律を失い(異次元緩和)、国は「私物化」されていく。
彼らは操縦しているように見えるが、実際には「機体のパーツを取り外して燃料にくべながら、加速し続けている」に過ぎない。
これは一見、彼女の強烈なリーダーシップ(能動性)に見える。しかし、本シリーズの視座から見れば、それは違う。
彼女もまた、システムが生き残るために選ばれた「機能」に過ぎない。
「改革」という名のエンターテインメントを国民に提供し、ガス抜きをする。そのために、彼女の攻撃的なキャラクター(UI)が採用されただけだ。
彼女が操縦桿を右に切ろうが左に切ろうが、機体は「現状維持」という航路から1ミリもズレない。
なぜなら、エンジン(経済構造)も、管制塔(米国)も、整備士(官僚)も、誰も航路変更など望んでいないからだ。
“善良”な「依代」が統治すれば、国は緩やかに衰退する(死に至る病)。
“勇敢”な「異端」が統治すれば、国は即座にパニックに陥り、彼自身が殺される(拒絶反応)。
“狡猾”な「ハッカー」が統治すれば、国は熱狂の中でその骨格を食い荒らされる(自己中毒)。
なぜなら、コックピット(首相官邸)の設計そのものが、「主権の欠損」を前提に作られているからだ。
我々が目撃しているのは、高度に発達しすぎた官僚制と資本主義の複合体が、もはや人間の「意志」を必要としなくなった光景である。
政治家の「主観的能動性」は、いまやシステムにとって「リスク」でしかない。
したがって、システムは最も「空っぽな人間」か、最も「システムに過剰適応したハッカー」だけをコックピットに招き入れる。
操縦席には誰もいない。あるいは、「誰もいない」のと同じ状態の人間しか座れない。
それでもリヴァイアサンは飛び続ける。燃料(国民の税と魂)が尽きて、墜落するその瞬間まで。
政治が「悪い」ことではない。
選挙期間になると右派の方がせっせとエクストリームな自民党擁護につながる文章を書いていて笑うわ。
一見良い関係に見えるのは工作と圧力が形作ったものだよ。事実ベースで確認されていること。あなたが書いたファンタジーやジャンプコミックス的な友情物語じゃ無い。いい加減大人になって欲しい。
1990年代以降にアメリカ国務省による公式文書(FRUS)公開によって明らかにされたけど、CIAが戦後の日本の政治に深く関与していたことが明らかになりました。
■自民党への秘密献金: 1950年代から60年代にかけて、CIAは自由民主党(LDP)の親米派議員たちに多額の秘密資金を提供していました。これは日本における「安定した親米政権」を維持し、社会党などの左派勢力を抑え込むことが目的でした。
■岸信介氏との関係: A級戦犯容疑者から首相へと上り詰めた岸信介氏は、アメリカにとって対共産圏の「防波堤」として不可欠な存在であり、緊密な協力関係にありました。
■従属的な独立: 1951年のサンフランシスコ平和条約と同時に、旧日米安保条約を締結。これにより、日本は主権を回復しつつも、実質的にアメリカの軍事戦略に組み込まれることとなりました。
■.日米合同委員会:見えない統治機構現在も続いている。日米合同委員会は日本の政治がアメリカの強い影響下にあることを示す象徴的な枠組みです。日米地位協定の運用など、軍事・領空・基地問題を協議。不透明性議事録が非公開であり、国会よりも優先される決定がなされる場合がある。これにより、日本の航空管制権の一部(横田ラプコンなど)が依然として米軍に握られているといった、主権の制限が続いています。
■ 経済・軍事的圧力良好な関係を維持する条件として、常にアメリカの国益に沿った譲歩が求められてきました。プラザ合意(1985年): アメリカの貿易赤字解消のため、強引な円高へと誘導。これが後のバブル崩壊と「失われた30年」の遠因となったとの見方が強いです。
■年次改革要望書: アメリカ政府が日本政府に対し、規制緩和や市場開放を求めた要望書。郵政民営化などの構造改革にも強い影響を与えました。
日本が単なる「自由意志」でアメリカに従っているわけじゃない。戦後直後の構造的な「支配―被支配」の関係が続いているんだよ。
https://www.asahi.com/articles/ASV1R46B4V1RUTFK001M.html
今回の解散劇の最大の特徴は、「熟議(議論)による合意形成」を「選挙による信任」で上書きしようとする手法にあります。
これまでの自公政権では、平和主義を掲げる公明党が「ブレーキ」役を果たしてきました。しかし、高市政権は公明党を排除し、保守色の強い日本維新の会をパートナーに選びました。これにより、政策決定のベクトルが「中道・調整」から「右派・加速」へと劇的に変化しました。
提示された9つの政策(スパイ防止法、憲法改正、国防軍の明記、皇室典範改正など)は、いずれも戦後日本が意図的に曖昧にしてきた、あるいは避けてきた「国の根幹」に関わる問題です。これらを一気に解決しようとする姿勢は、戦後80年の歩みを「積み残した宿題」と定義し、リセットを試みるものと言えます。
ダニエル・カーネマンが提唱した二重過程理論(システム1・システム2)を用いると、高市首相の政治手法が国民にどう作用しているかが鮮明になります。
高市氏の戦略: 「おこめ券」などの分かりやすい物価高対策や、「自らの国は自らで守る」といった情緒的で力強いメッセージは、国民のシステム1に直接訴えかけます。67%という高い支持率は、複雑な議論を抜きにした「直感的な期待感」の表れです。
ポピュリズムの親和性: 複雑な社会問題を「敵か味方か」「守るか捨てるか」という単純な構図に落とし込むことで、システム1を刺激し、熱狂的な支持を調達しています。
高市氏の回避: 本来、スパイ防止法による人権侵害のリスクや、武器輸出拡大による国際紛争への関与、憲法改正の細部などは、システム2による深い検証と丁寧な議論を必要とします。
「遠回り」の拒絶: 中北教授が指摘するように、高市氏はシステム2を働かせる国会論戦を「遠回り」と断じ、選挙というシステム1的なイベントで一気に勝負をつけようとしています。これは、民主主義における「熟議」というプロセスをショートカットする試みです。
日米同盟の変質: トランプ大統領(資料内写真)との親密な関係や、防衛費GDP比2%超、原子力潜水艦の保有検討などは、米国からの「役割分担」の要求に応えるものです。しかし、これは同時に東アジアにおける軍拡競争を加速させるリスクも孕んでいます。
「普通の国」への転換: 武器輸出の「5類型」撤廃は、日本を世界の武器市場の主要プレイヤーに変貌させます。これは経済的利益をもたらす反面、「平和国家」としてのブランドを喪失させる可能性があります。
監視社会のリスク: スパイ防止法の制定やインテリジェンス機能の強化は、安全保障を高める一方で、国民の思想・信条の自由やプライバシーに対する国家の監視を強める懸念があります。
アイデンティティの固定化: 選択的夫婦別姓を拒み、旧姓の通称使用のみを法制化する方針や、外国人政策の厳格化は、多様性(ダイバーシティ)よりも「伝統的な家族観」や「秩序」を優先する社会への回帰を意味します。
中北教授が指摘する「自分が首相にふさわしいかどうかを問う」という解散理由は、典型的なプレビシット(国民投票)型政治です。
ポピュリズムの構造: 「既得権益やリベラルなエリート(丁寧な議論を求める層)」対「決断できるリーダーと国民」という対立構造を作り出しています。
民主主義の空洞化: 高い支持率を背景に、本来必要な「少数意見の尊重」や「権力のチェック・アンド・バランス」を軽視する傾向があります。選挙で勝てば何をやってもいいという「多数派の専制」に陥る危険性を孕んでいます。
高市政権の目指す方向性は、「戦後民主主義のOS(合意形成重視・抑制的防衛)」を「新保守主義のOS(決断重視・自立的防衛)」へと入れ替えることにあります。
この転換は、国民の「システム1(直感的な不安や愛国心)」を巧みに捉えることで推進されていますが、その代償として「システム2(論理的な検証と合意)」が軽視されています。今回の解散は、そのOSの入れ替えを、国民が詳細を理解・議論する前に「白紙委任」させるための戦略的手段であると構造化できます。
国民にとっては、目先の力強いリーダーシップ(システム1の充足)を取るか、あるいは将来的な権利制約や国際的緊張のリスク(システム2による懸念)を直視するか、その究極の選択を迫られる選挙となります。
資料に描かれた高市首相の政治手法や政策の方向性は、ドナルド・トランプ氏に象徴される現代のポピュリズム、およびその根底にある「反知性主義(Anti-intellectualism)」の流れと極めて高い親和性、あるいはシンクロニシティ(同調性)が見て取れます。
反知性主義とは、単に「知性がない」ことではなく、「専門知や複雑な議論を、特権階級(エリート)による自己保身や意思決定の引き延ばし(停滞)である」と断じ、否定する態度を指します。
高市氏の言動: 中北教授が指摘するように、高市氏は丁寧な議論を「遠回り」と表現しています。これは、民主主義の根幹である「熟議」を、目的達成を阻む「コスト」や「障害」として切り捨てる論理です。
トランプ氏との共通点: トランプ氏も「ワシントンのエリート(沼)」が議論ばかりして何も解決してこなかったと批判し、自らの「直感」と「決断」を正当化しました。両者とも、複雑な問題を「決断一つで解決できる単純なもの」へと書き換える手法をとっています。
反知性主義は、論理(システム2)よりも、大衆が直感的に抱く「共通感覚(コモン・センス)」や「感情(システム1)」を重視します。
シンボルと物語の活用: 資料にある「日本国国章損壊罪」や「皇室典範改正(男系維持)」、「奈良公園のシカ」のエピソードなどは、論理的な政策論争というよりは、国民のアイデンティティや「守るべき誇り」という感情的な琴線に触れるものです。
「普通の国」というマジックワード: 首相が語る「普通の国になるだけ」という言葉は、戦後体制の複雑な法的・歴史的経緯を無視し、「当たり前のことをするだけだ」という直感的な納得感をシステム1に与えます。これはトランプ氏の「Make America Great Again」と同様、詳細な検証を拒絶する強力なスローガンとして機能しています。
反知性主義的なリーダーは、自分と支持者の間に立つ「知の門番(メディア、学者、官僚、専門家)」を敵視し、これらをバイパスして直接国民に訴えかけます。
解散による上書き: 国会での野党や専門家による追及(システム2のプロセス)が本格化する前に解散を選んだのは、中間的なチェック機能を無効化し、高い支持率という「数」の力で専門的な異論を押し切る戦略です。
トランプ的「分断」の利用: 「国論を二分する」と自ら宣言することで、反対派を「改革を阻む勢力」や「国益を損なう者」と位置づけ、支持層との結束を強める手法も、トランプ氏が多用した「我々 vs 彼ら」の構図そのものです。
これまでの政治が「客観的な事実やデータに基づく調整(知性の政治)」であったのに対し、高市氏やトランプ氏の手法は「リーダーの強固な意志が現実を規定する(意志の政治)」への転換を意味します。
国際社会への影響: 資料にあるトランプ氏とのツーショット写真は象徴的です。両者は「既存の国際秩序やルール(知性的枠組み)」よりも、「自国の利益とリーダー間のディール(意志のぶつかり合い)」を優先します。これは予測可能性を低下させ、国際社会を「力の論理」へと回帰させるリスクを孕んでいます。
この流れは「知性による抑制」から「意志による突破」へのシフトであり、トランプ現象と深く共鳴しています。
反知性主義的な政治は、閉塞感を感じている国民に「スピード感」と「カタルシス(解放感)」を与えますが、その代償として、「複雑な問題を複雑なまま解決する能力」を社会から奪う危険があります。システム1による熱狂が、システム2による冷静なリスク管理(人権侵害の懸念や軍事的緊張の増大など)を飲み込んでいる現状は、まさに現代ポピュリズムの典型的な構造と言えるでしょう。
タモリ氏が2022年末に発した「新しい戦前」という言葉は、当時の社会に大きな衝撃を与えましたが、提供された資料にある高市政権の動向を重ね合わせると、その言葉が持つ「予言的リアリティ」がより鮮明に浮かび上がってきます。
「新しい戦前」とは、かつての戦前(1930年代)をそのまま繰り返すのではなく、現代的な民主主義の手続きを踏みながら、気づかぬうちに「戦争が可能な、あるいは戦争を前提とした社会構造」へと変質していくプロセスを指していると考えられます。
資料に基づき、なぜ「新しい戦前」が現実味を帯びていると言えるのか、その構造を解説します。
戦後の日本(戦後レジーム)は、憲法9条を基盤に「軍事力を極限まで抑制する」という特殊なOSで動いてきました。しかし、高市首相が掲げる政策は、そのOSを根本から入れ替えるものです。
防衛力の抜本的強化と「5類型」撤廃: 武器輸出の解禁や防衛費のGDP比2%超への増額は、日本を「世界の武器体系と軍事バランスの一部」に組み込みます。これは「平和の維持」という抽象的目標から、「軍事力による抑止と均衡」という、戦前を含む近代国家の標準的な(しかし危うい)論理への回帰です。
原子力潜水艦の検討: 資料にある「次世代の動力を活用した潜水艦」は、長期間の潜航と遠方への展開を可能にします。これは専守防衛の枠を超えた「外洋でのプレゼンス」を意識したものであり、地政学的な緊張を前提とした装備です。
戦前への回帰を最も強く想起させるのが、国民の精神や行動を縛る法整備の動きです。
スパイ防止法: 資料でも触れられている通り、1985年の「国家秘密法案」が廃案になったのは、それが「現代版の治安維持法」になり得るとの懸念があったからです。高市首相がこれに「前のめり」であることは、国家の安全を個人の自由(思想・信条の自由)よりも上位に置く価値観への転換を示唆しています。
日本国国章損壊罪: 「国旗を損壊したら処罰する」という発想は、国民に「国家への忠誠」を可視化させる装置です。これは、多様な価値観を認める「戦後民主主義」から、国家という単一のアイデンティティを強制する「戦前的統合」への揺り戻しと言えます。
タモリ氏の言う「新しい」という言葉の肝は、それが「国民の支持(民主的プロセス)」を背景に進んでいる点にあります。
67%の支持率という免罪符: かつての戦前も、軍部の暴走だけでなく、新聞や国民の熱狂がそれを後押ししました。資料にある「高い支持率がすべてを飲み込んでいる」という状況は、システム2(論理的・批判的思考)によるブレーキが効かず、システム1(直感的な期待・不安・愛国心)が政治をドライブしている状態です。
「遠回り」の排除: 丁寧な議論を「遠回り」と切り捨てる姿勢は、独裁への入り口です。戦前も「議会政治の無能」が叫ばれ、迅速な決定を求める世論が強いリーダーシップを待望しました。現在の「突破型政治」は、その現代版と言えるかもしれません。
トランプ氏とのシンクロは、世界全体が「リベラルな国際秩序」を捨て、「自国第一主義と力の論理」に回帰していることを示しています。
「普通の国」の危うさ: 高市首相の言う「普通の国」とは、国際社会が弱肉強食の場であることを前提とした言葉です。これは、戦後日本が理想として掲げた「名誉ある地位を占めたい(憲法前文)」という国際協調主義からの決別であり、19世紀的な「大国間競争」の時代、すなわち「戦前」の論理への合流です。
某テレビ局の番組で、自民党・維新の会・参政党を「強くてこわい国」を目指す勢力として分類したフリップが炎上しているらしい。「偏向報道だ」「レッテル貼りだ」とネット上では大合唱が起きているわけだが。
正直、何に怒っているのか全く理解できない。
あれ、ただの「事実陳列」だろ?
誹謗中傷でもなんでもない。彼らが掲げている政策、語っている未来像を素直に解釈すれば、どうあがいても「強くて(軍事力マシマシで)こわい(国民を統制する)国」にしかならないからだ。
むしろ、オブラートに包まずによく言ったと褒めるべきレベルなんじゃないの?
まず「強い国」の部分。これ、彼らが一番やりたいことの筆頭だろ。
「国を守るため」という美名のもとに、数兆円単位の金が兵器に消えていく。ミサイルを買います、戦闘機を作ります、敵基地攻撃能力(反撃能力)を持ちます。
やってることは完全に「軍拡競争への参加」だ。
周辺国との対話を諦め、「力には力で」という思考停止に陥っている。生活が苦しい国民からさらに金を吸い上げ、それを火薬に変える国。これを「強い国」と言わずしてなんと言うのか。
維新なんて核共有(ニュークリア・シェアリング)の議論まで持ち出しているし、かつての「非核三原則」なんて、彼らにとってはただの邪魔な足かせでしかないらしい。
「強い日本を取り戻す」なんて勇ましい言葉に酔っているようだが、その強さを維持するために痩せ細っていくのは、我々一般市民の生活だ。
そしてもっと深刻なのが「こわい国」の部分だ。ここを否定する奴は、彼らの政策の危険性を本当に分かっているのか?
名前だけ聞けば聞こえはいいが、その実態は「国家にとって不都合な情報を漏らす人間、あるいは探ろうとする人間をしょっ引く法律」になりかねない。何が「機密」で何が「スパイ行為」かを決めるのはお上だ。
ジャーナリズムや市民活動が「国益を損なう」と判断されれば、監視対象になり、逮捕される。そういう社会を目指していると公言しているようなもんじゃないか。
これも「有事の対応」を隠れ蓑にしているが、要は「内閣が国会を無視して法律と同じ効力を持つ命令を出せる」という独裁へのフリーパスだ。
一度発動されれば、人権なんて簡単に制限される。「国の安全のため」と言われれば、言論の自由も集会の自由も消し飛ぶ。
そして、その先に見え隠れするのが徴兵制だ。
少子化で自衛隊員のなり手がいない。でも軍拡はしたい。兵器はあるけど人がいない。じゃあどうするか?
「まさか現代で徴兵なんて」と笑うかもしれないが、彼らの「国を守る義務」への執着を見ていると、経済的徴兵制(奨学金返済の免除と引き換えに入隊など)も含めて、国民を戦場に送り込むシステムを作らない保証なんてどこにもない。
異論を許さず、監視し、国のために命を投げ出すことを美徳とする。
これを「こわい国」と呼ばずに、なんと呼ぶんだ? 「美しい国」か? 冗談も休み休み言えよ。
今回、この3党がセットにされたのも至極妥当だ。
・自民党:既得権益と結びつき、長年の政権維持のためにタカ派政策を推し進め、憲法を変えて「戦争ができる国」の仕上げにかかっている本丸。
・維新の会:自民党以上のタカ派であり、新自由主義的な「強者生存」を是とする。改革という名の切り捨てと、勇ましい外交安保論がお家芸。
・参政党:ナショナリズムを煽り、さらに極端な復古主義的・排外主義的な思想で「日本を守れ」と叫ぶ。
アプローチや支持層に多少の違いはあれど、目指しているベクトルは完全に一致している。
「個人の権利」よりも「国家の都合」を優先し、軍事力と統制力で国を維持しようとする点において、彼らは間違いなく同類だ。
「強くてこわい国」というレッテル貼りに怒っている人たちに言いたい。
「強くてこわい国」をガチで実現しようとしている政治家たちと、それに無自覚に賛同してしまっている現状に対して怒るべきなんじゃないのか?
テレビ局は、ただ単に「あなたたちが投票しようとしている先は、こういう国を目指していますよ」と、分かりやすく要約してくれたに過ぎない。
その未来図を見て「それは嫌だ」と思うなら、批判すべきはメディアではなく、その政策を掲げる政党であるはずだ。
盗聴・監視・徴兵・言論統制。そんな「戦前トリバック」な社会がお望みなら、まあ、そのまま支持すればいいんじゃないですかね。
Satoshi Ikeuchi 池内恵
https://x.com/chutoislam/status/2009969889927483780
米欧以外の、決して反米ではなく米国とそれぞれの安全保障関係を結んでいる重要な国々の姿勢の根底には、この認識があり、米欧への協力は限定的なものになる。
ガザの虐殺を欧米諸国が黙認して以後は、この姿勢がより鮮明になった。
日本が米陣営にいることも、例えイスラエルと関係を深めても、それが日本の国益と安全のためにやっているのであれば、非欧米の国でもイスラーム圏でも実はそれほど批判は受けない(どこの国も国益で外交をやることは前提だから)。
これやねんなあ
日本人は米英の作った「ユートピアニズム」を内面化してしまったんや
https://gendai.media/articles/-/133855
E・H・カー『危機の二十年』は、文庫版も出ている稀有なレベルの国際政治学の古典である。
なぜアメリカ主導の新しい国際秩序は、行き詰ってしまったのか。これが我々の時代の問いである。85年前、カーは、同じ問いを発していた。
今日、多くの人々が、「それはロシアが邪悪だからだ、中国が邪悪だからだ、北朝鮮も、イランも、ハマスも、邪悪だからだ」といった解答を語り合っている。
国際社会の規範を重視する「ユートピアニズム」を含めて、「戦間期国際政治理論のほとんどすべては、十九世紀の自由主義思想を反映したものであり、それらはアメリカという鏡に映っていた」(岩波文庫版69頁)。
このユートピアニズムとしての自由主義は、国際社会における「利益調和の理論」、つまり「すべての国家は平和に同一の利益をもっている」、「したがって平和を阻もうとする国家はすべて、理性も道義もない」という理論に流れ込んでいる。
そこでカーは断言する。「こうした見解がアングロ・サクソンに起源をもっていることは、明らかである」(114頁)。
「戦争で利益を得るものは誰もいないということ」を「英語圏諸国民に確信させることは」、第一次大戦後には容易であった。
ところが英語圏諸国民以外の諸国民、とりわけドイツ国民は、同じようには考えなかった。
ドイツ人なら、戦争は、英語圏諸国民には利益をもたらし、それ以外の諸国民には不幸をもたらした、と考えるからだ。
しかし、「国際関係の理論は、ほとんどもっぱら英語圏諸国で生まれた」ので、イギリスやアメリカの国際関係の論者たちは、英語圏の外に戦争の無益さを理解しない者がいること理解しなかった(114-5頁)。
「世界利益としての平和が実際には存在するのだというユートピア的仮説」は、英語圏諸国では、普遍的な真理として、信じられた。
ところがそれ以外の諸国では、信じられていなかった。
そのような仮説は、単に「現状維持を望む国家と現状変更を望む国家との間の根本的利益対立という不快な事実を顧みないようにするには好都合であった」。
そのため、英語圏諸国民、つまり利益を享受しているがゆえに現状維持を望む諸国民だけが、信じているにすぎないものとみなされた(116頁)。
カーのユートピアニズムが、「現状維持を望む」「持つ者」「満足国家」の理論であったのに対して、その偽善を突く「現状変更を望む」「持たざる者」「不満足国家」の理論が、リアリズムであったからだ。
ユートピアニズムとリアリズムの対立は、抽象理念の対立というよりも、具体的な政治情勢の中で異なる立場を持つ人々の異なる世界観の対立のことであった。
英語圏諸国の政治家や理論家たちは、次のように考える。「アメリカやイギリスの国益と人類の利益とを同一とみなしても」、自分たちは「正しい」。
これに対して、アメリカやイギリスらがそのような態度をとるのは、「自分本位の国益を全体利益の衣のなかに隠す技能にかけては、かねてから名人であったこと、しかもこの種の偽装はアングロ・サクソン精神ならではの際立った特性である」ためだ。
リアリズムは、ドイツのように、アメリカやイギリスと共通の利益を持たない国の態度である。英語圏諸国民の偽善を突くのが、リアリズムの特徴である(164頁)。
カーは、リアリズムは誤解されている、と述べる。
リアリズムは、ユートピアニズムは理想主義的すぎるという理由で、ユートピアニズムを批判するのではない。
そうではなく、ユートピアニズムにおいて「絶対的・普遍的原理と信じられているものが、およそ原理という代物ではなく、(支配者階層の)国家政策」を反映したものでしかないことを、批判しているのである(178頁)
カーの洞察を回避したい、という願望は、誰の心の中にも根深く存在する。
だからわれわれが勝ち、悪は滅びる。
それでいったい何が悪いというのか。
率直に言って、それで本当に何もかも上手くいくのであれば、まだましであろう。
しかしもし期待を裏切る現実が生まれた場合に、ただ現実を否定し、他者を糾弾するだけに終始するとしたら、どうだろう。
敵を知らず、己も知らないまま。失敗を繰り返していってしまうことは必至ではないだろうか。
プロイセンの軍事思想家カール・フォン・クラウゼビッツは、こう記した。「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続にすぎない」。クラウゼビッツの死後、1832年に出版された著作「戦争論」から、ほぼ全ての陸軍将校が学ぶ一節があるとすれば、それは、武力紛争の目的を定義したこの言葉である。
1月3日朝、米軍がベネズエラを攻撃し、独裁者ニコラス・マドゥロ氏を拘束して米国に連行し刑事訴追するというニュースを耳にした時、真っ先に頭に浮かんだのが、この言葉だった。
理由は単純だ。ベネズエラへの攻撃は、19世紀の世界秩序が崩壊する前、2度の壊滅的な世界大戦が起こる前、そして米国がまさに実行したような国家の行動を阻止するために設計された国際法と外交体制が生まれる前の、異なる時代を想起させるからだ。
あらゆる国家が決定すべき最も重要な課題の一つは、いつ、そしてどのように、戦争を遂行するかである。ちなみに、クラウゼビッツを道徳観念のない戦争推進者と見なすのは誤りだ。彼はこの概念を発明したわけではなく、当時の世界を描写したに過ぎない。彼の言葉は、人類史の大半において主権国家が戦争をどのように捉えてきたのかを端的に説明している。
強国が「戦争は政策の延長に過ぎない」という原則のもとで行動する時には、マフィアのボスのような振る舞いに陥りやすい。弱い国とのあらゆる相互作用には何らかの形で武力の脅威が伴うことになる。素敵な国ですね。もし何か起きたら残念ですね、という具合に。
これは空想ではない。トランプ米大統領はアトランティック誌との電話でのやりとりで、マドゥロ氏の副大統領を務めたベネズエラの新たな指導者デルシー・ロドリゲス氏を脅した。「彼女が正しいことをしなければ非常に大きな代償を払うことになるだろう。おそらくマドゥロよりも大きな代償だ」と述べた。
外交と経済的圧力は、依然としてほとんどの場合、強国がとる最初の手段である。しかし、意図した成果を上げられなかった場合に次に何が起こるかは、ベネズエラでの米国の攻撃の映像を見ればわかるだろう。
しかし、クラウゼビッツ的な見方は、国家とその指導者たちにとって唯一の選択肢というわけではない。国際関係にはより優れたモデルが存在する。それは悪の存在と国家の利益という現実を認めつつ、平和と人命を守るための境界線を引くものだ。
人類はクラウゼビッツとアクィナスの間を揺れ動いてきたのだと、筆者は分析します。歴史を振り返りつつ、今回の米トランプ政権のベネズエラ攻撃をどう読み解くのか。「戦争は政治の延長」の先にある世界とは……。
13世紀に書かれた「神学大全」でアクィナスは、後に「正戦論」として知られる三つの基本要件を提示した。
第一に、戦争は主権者の合法的な行使によって遂行されなければならず、野心的な個人の私的な冒険主義によってはならない。
第二に、戦争は正当な大義に基づかなければならない。例えば、国家の自衛や集団的自衛は明らかに正当である。
第三に、正当な目的、すなわち善を推進し、悪を回避しなければならない。
戦争の形態の変遷を考える一つの方法は、人類がクラウゼビッツとアクィナスの間で揺れ動いていると捉えることだ。強い国は弱い国に自らの望みを押し付け、やがては強国が互いに押し付け合おうとする。必然的に大惨事が起き、アクィナスに立ち返る。
この揺れ動きの結果は、実際に歴史の長い流れの中で確認できる。紛争による世界の死者数を分析すると、戦争は常に存在するものの、その激しさは強弱を繰り返していることがわかる。極度の苦痛と死の時代は、比較的平穏な時代を経て、再び恐怖の時代へと続く。
第1次世界大戦以降の歴史を考えてみよう。塹壕(ざんごう)戦での絶え間ない殺戮(さつりく)の後、世界は侵略戦争を禁止し、平和を維持するための国際機関である国際連盟を設立しようとした。
国際連盟は、米国が加盟を拒否したことも一因となって失敗に終わり、さらに恐ろしい世界大戦を経て、今度は米国主導のもとで世界は再び試みた。
アクィナスの思想は国連憲章の随所に反映されている。憲章第2条は侵略戦争を禁止し、51条は大国を抑制するための個別的・集団的自衛権を認めている。そして第5章は平和維持のために安全保障理事会という機関を設立した。
この体制が完璧だとは誰も言わないだろう。だが、第2次世界大戦後も侵略戦争が起きる中で、この体制は主要な目的を達成してきた。世界は大戦を免れてきたのだ。
ただ、アクィナスのモデルは、二つの敵と戦わなくてはならない。権力への願望と記憶の風化だ。正戦論は、強者の自制を求めている。大国に自らの願望を押し付けることを控えさせ、短期的な国益より、国際平和と正義という長期的な目標を優先させることさえ求める。
ここで記憶の風化が作用する。人々が世界大戦を記憶している間は、自制はより説得力を持つ。国連とNATO(北大西洋条約機構)をつくった人々は、2度の戦争を経験していた。その意味で、侵略戦争に対する道徳的議論は、現実的な意義を持つ。
世界は、力への願望が国際情勢を支配する結果を目の当たりにしてきた。指導者たちは、最も壊滅的な紛争がごくささいなきっかけから始まることを知っているし、知るべきである。
例えば、1914年にガブリロ・プリンツィプがサラエボでフランツ・フェルディナント大公を狙撃し、オーストリア・ハンガリー帝国が小国セルビアに軍を動員した時、1600万人以上が命を落とす戦争になることを、いったいどれほどの世界の指導者たちが察知していただろうか?
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サラエボで起きたオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公と妻の暗殺事件を報じる朝日新聞紙面(1914年7月30日付)
記憶が薄れるにつれ、クラウゼビッツのモデルはより魅力的に映る。その一因は、まさにベネズエラで起きたように、即効性のある結果をもたらし得るからだ。
とはいえ、トランプ氏のベネズエラ介入に激しく反対する人々でさえ、マドゥロ氏の支配を美化すべきではない。彼は腐敗した暴力的な独裁者であり、国民を抑圧し、貧困に陥れた。
経済指標がその実態を物語っている。マドゥロ政権が発足する前年の2012年、ベネズエラの国内総生産(GDP)は3720億ドルを超えていた。それが、2024年には1200億ドル弱にまで急落した。壊滅的な崩壊だ。
マドゥロ氏が権力を維持できたのは、民主主義を無視したからに他ならない。選挙監視員たちによると、2024年の選挙で、3期目をめざしたマドゥロ氏は30ポイント以上の差で負けていたとされる。対立候補のエドムンド・ゴンサレス氏は65%を超える票を獲得し、マドゥロ氏はわずか30%強だった。しかし公式集計ではマドゥロ氏の勝利が宣言された。
ただ、GDPの数値や得票数だけでは、マドゥロ政権が人々にもたらした苦難を語るには不十分だ。2014年以降、貧困や汚職、抑圧から逃れるために約800万人のベネズエラ人が国外へ脱出した。これはマドゥロ氏が大統領に就く以前の人口の4分の1以上に相当する。
トランプ政権は、マドゥロ氏を権力の座から追放することが米国の国益に最もかなうとの判断を下し、議会の承認を得ることなく、完全に独自行動をとった。
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米フロリダ州で2026年1月3日、記者会見に臨む米国のトランプ大統領。後ろにいるのはルビオ国務長官=AP
第一に、トランプ氏は、米国法の要件を無視し、一方的に行動した。議会と協議せず、宣戦布告も取り付けなかった。彼は、ただ自らの権限だけで、主権国家を攻撃したのだ。
マルコ・ルビオ国務長官は、政権の行動は戦争行為ではなく、「法執行活動」であり、国防総省は容疑者を逮捕する公務員たちを守っていたにすぎないと主張している。
この弁明は笑えるほどにお粗末だ。この理屈では、大統領は敵対する指導者を起訴し、指導者の逮捕に必要な大規模な軍事力は単に法執行を保護しているだけだと主張することで、事実上あらゆる戦争を法執行活動に変えることができる。これは議論ではない。言い訳だ。
第二に、トランプ氏は開戦事由も、国際法や国連憲章が認める正当な理由もなしに攻撃を仕掛けた。ハーバード大教授で、ブッシュ政権(子)下で司法省法律顧問局次官を務めたジャック・ゴールドスミス氏が指摘したように、(国連)憲章の命令を執行する明確な方法がないとしても、この攻撃は明らかに憲章に違反している。
第三に、独裁者を権力の座から追放することは正当な目的になりうるかもしれないが、民主的に選出された野党指導者を無視するというトランプ氏の決定は、非常に問題である(編集部注:トランプ氏は15日にベネズエラの野党指導者マリア・コリナ・マチャド氏と会談した。)。腐敗した政権の残党が、米国企業の石油取引交渉の要求に従い、依然として国を統治していることは、自由と民主主義を犠牲にして腐敗と抑圧を永続させる危険性がある。
これらは何も新しいことではない。歴史家のニーアル・ファーガソン氏は、トランプ氏のベネズエラへの攻撃は、第1次世界大戦の惨事以前の時代の政治と外交の復活という、より大きな全体像の一部であると述べている。
19世紀後半の南北戦争後に米経済が急発展した金ぴか時代の砲艦外交は、米国が中南米を支配していたことを確かに意味していた。それは、この地域に植民地に似た現実を押し付けた。各国は少なくともある程度の米国の監視の下で発展し、主権は米国が認める範囲にとどまった。
トランプ氏のベネズエラ攻撃もまた、何もないところから出てきたわけではない。昨年12月、政権は国家安全保障戦略の文書を発表し、西半球を最優先に位置づけた。
この文書はアジア、欧州、中東に先立って米州を扱い、「西半球における米国の優位を回復するため、モンロー主義を再確認し実施する」と宣言した。
大統領はすでに、19世紀の米国外交政策を復活させる自らの政策に「ドンロー主義」という名を付けている。
トランプ氏はドンロー主義を熱心に推し進めている。カナダとメキシコに対して経済戦争を仕掛け、カナダは米国の51番目の州になるべきだと発言した。NATOの同盟国であるデンマークの主権領土の一部であるグリーンランドにも野心を抱いている。
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デンマークのコペンハーゲンの米国大使館前で2026年1月14日、グリーンランドはグリーンランド人のものだと抗議する人々=ロイター
ここで再び、影響圏による世界支配と、「政策の延長としての戦争」という非道徳的アプローチの致命的な欠陥に直面する。小国は強国に支配されることを望まず、強国はライバルの台頭を望まない。故に同盟を結ぶ。1914年、セルビアにはロシアが、ベルギーには英国がいた。1939年にはポーランドにフランスと英国が味方した。
なぜ南米諸国が他国との緊密な関係を求めるのか、米国人が疑問に思うのならば、むしろ彼らと米国との歴史的経緯や、南米の人々がモンロー主義の攻撃的復活をどう捉えているかを問うべきだろう。
一つは、トランプ氏がベネズエラ介入で先例をつくったというものだ。ロシア、中国、イランといった国々は、自らの勢力圏でその先例に従おうと躍起になるだろうし、我々が取ったのと同じ手法を敵対国が自らの勢力圏で取っても、我々に異議を唱える資格はなくなる、というものだ。
しかし、ウラジーミル・プーチン氏のロシア、習近平氏の中国、革命体制のイランは、正戦論や道徳的議論などみじんも気にかけたことがない。彼らがある程度抑制されているのは、抑止力によるものであり、もし抑止力が失敗すれば、純粋な軍事力による。
もう一つの議論は、正戦論が決して全会一致で受け入れられることはないことを認めるものだ。国連憲章が往々にして実践的というより理想論的なものにならざるを得ない運命にあることを認識するものだ。
この議論は、世界秩序の存続が強国に依存するわけではないが、米国という最大の強国には依存していることを認識している。言い換えれば、我々の国がアクィナスに傾倒していることが、クラウゼビッツを遠ざけているのだ。
安全保障理事会の常任理事国5カ国のうち、米国・英国・フランスの3カ国だけが国連憲章と国際法に従う状況で、我々はかろうじて世界秩序を維持している。しかし、もし米国がロシアや中国と同様の武力紛争や国際関係へのアプローチを採用すれば、西側の戦後コンセンサスは完全に崩壊する。
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ベネズエラの首都カラカスで2026年1月6日、3日前に米軍に拘束されたマドゥロ大統領の解放を求めるデモのそばに「トランプ:殺人者 誘拐犯」などと書かれた落書きがあった=AP
「アメリカ第一主義」は必ずしも孤立主義ではない。主権国家の指導者を逮捕し、その国を「運営する」と宣言することに孤立主義的な要素はない。だが、それは短絡的で、正義と平和を犠牲に、国家権力の高揚感を追い求めている。
トランプ氏がいま、まさにその高揚感に浸っているのは明らかだ。1月4日の夜、米NBCは、トランプ氏が依然として「我々はベネズエラを運営していく」と発言していると報じた。トランプ氏は「彼らが従わなければ、第2の打撃を加える」と付け加えた。
トランプ氏が考えていたのはベネズエラだけではない。「コロンビアも非常に病んでいる」、キューバは「崩壊しつつある」と彼は述べた。さらにイランが抗議デモ Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
自分は今でも右派・保守の立場にいるつもりだが、最近のネトウヨの言動には正直ついていけない。
それは立場の違いではなく、彼らがもはや思想や政策の話をしていないからだ。国益や制度を語らず、敵を作って怒りを共有し、異論を排除する。その在り方は保守というより感情共同体に近い。
リベラルやはてな民に象徴される層が、現実的な懸念や異論に対しても「差別」「排外」とラベルを貼り、議論そのものを封じてきた結果、冷静な保守の言葉は居場所を失った。その空白に、理屈ではなく怒りだけを拠り所にする言説が流れ込んだ面は否定できない。
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の教義には、日本を「エバ国家」と位置づけ、韓国に奉仕すべき存在と定義する考え方や、最終的には天皇をも凌駕する権威を教祖に置くという構図が含まれていると報じられています。これらは、日本の国体観や、伝統・主権を重んじてきた保守思想とは、根本的に相容れない側面を有しているように思われます。
本来、愛国心や伝統を重んじる日本の右派・保守層にとって、こうした教義を持つ宗教団体と密接な関係を持ち、選挙支援や秘書派遣といった形で便宜を受けてきた自民党議員の行動は、「国益を損なう行為」、あるいは「売国的」と評価されても不自然ではありません。
実際、先日実家に帰省した際、愛国的立場から自民党を支持してきた親戚(30代)が、現在もなお強い自民党支持を続けていることを知りました。この点に違和感を覚え、彼がこの問題とどのように折り合いをつけているのかが、個人的な関心として生じました。
2022年の安倍元首相銃撃事件以降、旧統一教会と自民党議員との関係が広く知られるようになったにもかかわらず、保守層の間で決定的な自民党離れが起きているようには見えず、一定の支持が維持されているように見受けられます。
彼らの内面では、この明確な矛盾をどのように処理し、どのような「納得のストーリー(論理的整合性)」が構築されているのでしょうか。
自民党を支持する保守層が、その根底にある「国体観」や「天皇観」と真っ向から対立しかねない旧統一教会の教義を知りながら、なぜ依然として支持を維持できるのかという疑問は、極めて鋭い洞察に基づいたものです。
この「論理的な矛盾」を彼らがどのように内面で処理しているのか、保守層のアイデンティティや政治的リアリズムの観点から、いくつかの「納得のストーリー」を整理して解説します。
日本の保守層、特に長年自民党を支持してきた人々にとって、旧統一教会との接点は、教義そのものではなく「反共産主義」という政治的立場において形成されたという認識が根強くあります。
冷戦時代の名残り:かつて共産主義の脅威が現実的だった時代、保守層にとって共産主義は「天皇制の打倒」や「伝統破壊」を企む最大の敵でした。その敵に対抗するために、同じく強力な反共を掲げる団体と手を組むことは、当時の文脈では「毒を以て毒を制す」的な現実的判断として正当化されました。
優先順位の付け替え:彼らの内面では、「教義の内容」よりも「共産主義(あるいは現代のリベラル勢力)への対抗」という共通の敵を叩くことのほうが、優先順位として高く設定されている場合があります。
30代という比較的若い世代の保守層であれば、よりドライな「政治的リアリズム」に基づいて判断している可能性があります。
「利用している」という自負:彼らの多くは、政治家が教団に「支配されている」のではなく、選挙の票や人手として「利用しているだけだ」と解釈します。つまり、自民党が教団の教義に染まったわけではなく、あくまでも権力維持のためのツールとして付き合っているに過ぎない、という捉え方です。
代替選択肢の欠如:現在の日本の政治状況において、国防、経済、皇室の伝統を守るという価値観を体現できるのは自民党以外に存在しない、という「消去法的支持」が働いています。「一部に問題はあるが、自民党が崩壊すれば日本の国益そのものが危うくなる」という論理が、矛盾を上書きしてしまいます。
日本をエバ国家とする教義や天皇への不敬とも取れる教理については、心理的な「切り離し(コンパートメント化)」が行われます。
「末端の極端な話」としての処理:教義を「カルト特有の突飛な教理」として冷ややかに眺め、実社会や実政治に影響を及ぼすほどのものではないと過小評価する傾向があります。
「日本の保守政治家は教義を信じていない」という確信:自分が支持する政治家が、まさか本気で「日本が韓国に奉仕すべき」などと考えているはずがない、という強い信頼(あるいは思い込み)があります。これにより、教義と政治行動を完全に別物として処理します。
敵の敵は味方:この問題を激しく追及するのが野党やリベラル寄りのメディアである場合、保守層は本能的に「自民党を攻撃するための政争の具」であると警戒します。
過剰な攻撃への反発:メディアの報じ方が「自民党=悪」という単純な構図に偏るほど、支持層は「保守派への不当な弾圧」や「宗教の自由への介入」といった文脈に読み替え、かえって団結を強めるという心理的リアクタンスが働きます。
ご親戚のような方が抱いている可能性が高い「納得のストーリー」を言語化すると、以下のようになります。
確かにあの教団の教義は受け入れがたいし、関わりがあったことは褒められた話ではない。
しかし、それはあくまで過去からの付き合いや選挙事情という「泥臭い現実」の一部に過ぎない。
それよりも重要なのは、中国の脅威や北朝鮮の問題、そして国内の左派勢力から日本を守り、皇室の伝統や経済を維持することだ。
これらを実現できる現実的な政権担当能力があるのは自民党しかない。教義の問題で自民党を倒すことは、結果として「真に日本を壊す勢力」を利することになり、それこそが真の「売国」である。
このように、彼らにとっては「小さな悪(教団との接点)」を許容することが、「大きな善(国益の保護)」を守るための苦渋の選択、あるいは大人の現実主義として整理されているのです。
今回、私に与えられました課題は『セブン-イレブンの牛カルビ弁当を評せ』ということであります。一見すれば、これは単なる一企業の商品の評価に過ぎないと思われるかもしれません。しかし、私はそうは思いません。
この小さなプラスチックの容器の中に、現代日本の物流、農業、そして国民の可処分所得の現状が凝縮されている。これを真摯に分析することなしに、日本の明日を語ることはできない。私はそのように考えております。」
「まず、手に取った瞬間に感じるのは、その『機能の徹底』であります。 蓋を開けますと、そこに現れるのは、タレの染みた牛カルビ肉、そしてその下に鎮座する白米。この構造は、いわば『重層的な食の安全保障』とも呼ぶべきものでありましょう。
特筆すべきは、肉の配置であります。整然と並べられたカルビの一枚一枚が、まるで規律ある組織のように、白米という国土を覆っている。ここには一切の無駄がない。セブン-イレブンという企業が、長年にわたって積み上げてきた『緻密なマーケティング』の結晶がここにある。私はまず、その徹底した合理性に敬意を表さざるを得ません。」
「さて、肝心の味であります。 一口運びますと、まず舌を打つのは『甘辛いタレ』の重厚な存在感です。これは、単に甘い、あるいは辛いという二元論では語れない。醤油、砂糖、果実、そしてニンニク……これらが複雑に絡み合い、一つのハーモニーを奏でている。
これは外交と同じではないでしょうか。 それぞれの主張がある。しかし、全体として一つの『カルビ弁当』としての国益を損なうことなく、調和を保っている。特に、炭火の香ばしさ。これが加わることで、味に立体感が生まれている。単なる煮炊きではない、『焼く』という工程へのこだわり。この『手間を惜しまない姿勢』こそ、今、我々政治家に求められているものではないか。私は肉を噛み締めながら、自戒を込めてそう感じた次第であります。」
「そして、このカルビを支える『米』の存在を忘れてはなりません。 日本の食糧自給率を考えるとき、米は常にその中核にあります。この弁当の米は、カルビのタレという『外部からの圧力』を正面から受け止め、それを自らの旨味として吸収している。
粘り、弾力、そして甘み。 冷めてもなお、その品質を維持する技術力には目を見張るものがあります。しかし、ここで我々は考えなければならない。この米を作っている農家の方々の汗、その対価は適正に支払われているのか。地方の疲弊を、この『安価で高品質な弁当』という利便性の影に隠してしまってはいないか。
美味い、確かに美味い。しかし、その背後にある『生産現場の現実』にまで思いを馳せる。それが、本当の意味での『納得と共感』に繋がるのではないでしょうか。」
「結論を申し上げます。 セブン-イレブンの牛カルビ弁当。これは、日本の民間の知恵と努力が結集された、極めて完成度の高い『作品』であります。
徹底した品質管理
これらはすべて、今の日本が必要としている要素であります。 しかし、同時に私はこうも思うのです。我々はこの『手軽な幸福』に甘んじてはいないか。本当の『豊かな食生活』とは何か。それを問い続ける勇気を持たねばならない。
この弁当は、私に多くの示唆を与えてくれました。 単なる腹を満たすための手段ではなく、日本社会の写し鏡として。私は、この牛カルビ弁当の完成度に敬意を表しつつ、これを超えるような、国民一人一人が納得できる政策を打ち出していかねばならぬと、決意を新たにした次第であります。」
「……まあ、少々理屈っぽくなりましたが、一言で言えば『大変に美味であった』。この事実は、何人(なんぴと)たりとも否定できるものではありません。
AIに聞いてみた
自分の価値観や生活が否定されていると感じている人にとって、強い言葉で反対勢力を論破したり、毅然とした態度を取る政治家は「自分の代弁者」に見えます。
• **「間接的にぶん殴ってくれる」**という表現にある通り、自分ではできない攻撃や反論を政治家が代行してくれることで、日頃のストレスや不満が解消される(カタルシス)を感じている状態です。
SNSの普及により、政治が「議論」ではなく「勝ち負け」や「敵味方」の構図で捉えられやすくなっています。
• 自分が「嫌いな層(この場合は左派とされる人々)」が嫌がること、困ることを推進するリーダーを支持することで、集団的な勝利感を得ようとする心理です。
• 相手の「発狂(強い拒否反応)」を喜ぶのは、自分の正当性を確認するための過激な形での確認作業とも言えます。
社会の変化(多様性の推進、国際情勢の変化など)に対して不安を抱いている層にとって、伝統や国益を強く打ち出す保守的なリーダーは、自分たちの居場所を守ってくれる存在に映ります。
• 「高市氏は最高」という評価は、政策そのものへの精査以上に、その**「戦う姿勢」に対する情緒的な共感**が強く影響している可能性があります。
まとめ
こうした考え方は、単なる政策支持を超えて、**「感情的なエンターテインメント」や「自己肯定感の回復」**の側面を持っていることが多々あります。特定の勢力への対抗心をエネルギーにする支持の形は、近年の世界的なポピュリズムの潮流とも共通する部分があります
なるほどね。
増田の生きづらさって何?
価値を膨らませすぎた米国の為替レートと連邦政府支出を削減し、米国は南米を植民地として南北米大陸に引きこもり、東アジアを中国に売却して米中で太平洋を共同統治し、グリーンランドを「エアストリップ・ワン」としてロシアと連携し憎きユーラシアを挟み撃ちにして占領し北半球と南北米大陸を支配する世界的王者となる、その青写真は分かるが、まずお前らが信じがたい無能なのは何とかならんのか? と言いたい。
軍事的には我々の見地から言えば中国は日韓を落とせない。結果として停戦後は大東亜共栄圏内が東西に分かれようが清国が復活しようが中華人民共和国が圧倒しようが大日本帝国が復活しようが、どの勢力も「勝たせてくれなかった米国」に恨みを抱え同じ元妻の仲で反米親欧に転ぶことは確定しており、極東の不安定化は米国の国益には全く叶わない。ロシアは轟沈している最中だからEU軍に対する挟撃など起こりようがない。つまり米国の第三次世界大戦におけるゲームプランは「自殺」の一言で表現でき、これを推進する意味が分からない。
経済的には米ドル過大評価の「是正」は米国を南アフリカ状態に貶めるだけで何も達成しない。徐々に烈度を上げている有色人種問題の最終的解決はもちろん貧困と内戦を除いて何ももたらさない。富裕層はエーアイやロボットをフル活用して『キノの旅』のように武装した「国」を作りそこに固まれば問題なく生きていけるとでも思ってるか、上手く行かなければ中間選挙の敗北などで平和裏に退陣してもらい、その後は復興に務めれば良いとでも思ってるようだが、これが解せない。その程度のアタマしかない程に富裕層の知的水準が劇的に低下していることが解せない。