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2025/01/03

0103:平漁港の法界塔の意味がわかった!

鞆の浦のはずれにある平港。小さな漁港であるが、そこの長い防波堤の脇、海中に「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑が立っている。

その碑に歌が刻まれているのだが、意味がよくわからない。




なぜ海中に建てられているのか、なぜ歌が刻まれていて詠み人が鞆の津の「何某」なのか。

何気なくFacebookに写真をアップしたら、

わたしの日本語の師匠である島田教授(二松学舎大学)が解読してくれた。

そこにある三十一文字の歌は、

船乗りに満潮時に座礁しないよう注意を促すもの。

この写真は干潮時だが、満潮時は色が変わっているところまで水没する。

だから、このあたりは水深が浅いので座礁しないよう目印に建てた

ということらしい。

すげーー。

なぜ海に立っているのかずっと疑問だったのだけど、

めっちゃ理解した。島田先生ありがとう。


2024/01/03

0103:鞆の浦2日目

午後から天気が崩れるというので午前中に散歩。



鞆の浦に環境客やツアー客が大勢いて驚く。おかげでいろんなお店が開いてるのはよし。



正月らしくおせち。


夕刻、一足先に福山から東京へ。

福山駅新幹線ホームから見えるライトアップされた福山城が絶品なり。



深夜帰宅。ミルが般若となる。



2024/01/02

0102:鞆の浦で正月

早朝の新幹線で福山へ。今年は指定席を取らねばならなかったこともあり、寝坊はできないのだ。

無事のぞみで西へ。

福山駅で昼飯を食い、バスで鞆港へ。妻の実家が鞆なので帰省である。


終点の鞆港で下りたら、階段を上って大河島城址へ。中世の城址で、今は真言宗の円福寺。

南北朝期からある城で、戦国期は村上水軍の一族が拠点としていたそうな。


円福寺は城址なので眺めがいい。鞆港を一望。

そこから妻の案内で鞆をぶらぶらと歩きながら実家へと向かう。

何度も訪れているのにまだ知らない道があるのがまたたまらん。そしてどの道も細くて狭い。

遊郭建築?

しまなみ信用金庫。最近少ない近代建築。

リアルに昔からあるホーロー看板。お店はもうやってない。

丁字路にある井戸。後ろに石祠に注目。

「水神」と読むようだ。これは難読。

さらに坂を上って医王寺へ。

ここからの眺めは絶景である。

そして平賀源内生祠(せいしと詠むけど、つい「なまほこら」と言っちゃう)経由で平港。




ここまでくれば妻の実家はすぐだ。

到着すると、いつもなら箱根駅伝が映ってるはずのテレビはNHKのニュース。

一緒にニュースに見入っていると、突然、羽田空港の絵に切り替わり、旅客機が炎上する。

びっくりして見入るが、何が起きたのか、NHKのアナウンサーも分かってない。

正月早々なんてこった。

2019/08/14

とんぼ帰りで東京へ

前日は早寝したので
日の出とともに起きだし、
暑くなる前にとカメラを持って
鞆の浦周辺散歩。



もちろん猫撮影がメイン。

勝手知ったる鞆の浦なので、
E-M1 IIとTHETA Z1を持って
ぶらぶらと歩く。

7時すぎるともうめちゃ暑くて
猫もなかなか顔を出してくれない。

いつも港にいた猫は、港が工事中でどこへいったか。

10年前は丘の上の狭い路地周辺に何匹か猫がいたものだが
ここ数年見かけない。

ここ数年必ず猫がいるというスポットへ行ってみるも
朝早いせいかいなくて
しょうがないので階段に座ってコーヒーを飲んで休憩してたら
どこからともなくにゃあとやってくる猫あり。

おお、きてくれたか、とさんざん撫でたり撮ったりして
そろそろ戻るかと階段を降り始めると、下からとことこと上がってくる猫が。

ああ、いつも人の気配があると何かもらえるんじゃないかと
上がってくるのだな。

早朝から観光客がくるようなとこじゃないから、
猫もいなかったのだろう。

路地裏猫と観光地猫の違いである。



ちょっと猫のために寄付をする。

にしても暑い。台風がくるだろうなってのは波や風でわかるが
空は快晴で陽射しに殺されそうである。

鞆の浦と其の周辺はとても面白いところなので
いつかちゃんとまとめたい。

昼過ぎ、
福山駅まで来るまで送って貰う。
義父がこのパターンの台風は豊後水道に行くけん、直撃はせんじゃろ、という。
長年の経験である。

さて、新幹線である。自由席チケットしかない。
明日は計画運休ということで、1日計画をはやめた人たちでごった返し、
駅のホームでは
「自由席は140%の乗車率です、乗れない可能性があるので、指定席のデッキもご利用下さい」と駅員がアナウンスしている。
でも、自由席の前でまち、なんとかデッキに乗り込む。

まあ新大阪行なので立ってるといってもせいぜい1時間。
新大阪までいき、新大阪発ののぞみの自由席に座って帰ろうという魂胆である。

福山の次は岡山に止まる。
ここで人の出入りがあり、デッキから通路に押しやられる。
次は新神戸である。
ちょうど目の前の席があいたので座る。
ひと駅だけど、座れたのでひとごこち。

新大阪駅も大量の人であふれていたのだが
この時期、東京-新大阪間で臨時の列車がいくつもでるので
ちょっと並べば座れるのだ。
今回はホームで何本か待つことになるかなと思ったが、
ひとりというのは気楽なもので
なんとか座れそうだったのでさっと乗り込んで無事座席を確保。

なんだかんだいってほぼ座って帰れたのであった。
でもまあ、とんぼ返りに近いので疲れたけどな。

数時間のち、妻も無事に帰ってきたので一安心である。

鞆の浦で撮った写真を吸い上げて寝る。


2019/08/13

名古屋経由福山行きの日

早朝起床。
朝6時に家を出て8時頃の新幹線に乗り(もちろん自由席。めちゃ空いてた)、
名古屋に9時過ぎに到着。

実家へ行ってあれこれ挨拶したり食事したりあれこれして
午後には辞去し
ふたたび新幹線で福山へ。

妻の両親が金婚式ということでお祝いの食事会である。
福山駅近くの美味しいお店でゆっくりと美味しい食事をいただく。

問題は台風である。
わたしは明日の新幹線で東京へ戻り、
妻は1日長くいて15日の新幹線で東京へ戻る予定で
わたしはひとりならなんとでもなるだろと自由席の券しか用意しておらず
妻はちゃんと指定席を確保していたのだが、
15日は台風接近のため山陽新幹線が計画運休すると発表されたのだ。

で、福山駅で慌ててチケットを変更、
14日の夜の新幹線指定席をなんとか確保。
ふたり並んだ席はさすがに無理だったので
わたしは予定通り自由席でひとりで帰ることにする。
同じ日に東京に戻るのに
別々で帰るってなんかややこしいがしょうがない。

いずれにせよ慌ただしくなりそうだ。



2018/01/02

鞆の浦正月猫紀行

広島県福山市鞆町。
日の出とともに目覚める。
って冬の日の出なので7時あたり。


警戒したほどの寒さはない。
日が昇ったのでソニーのRX10M4を携えて朝の散歩に出かける。
狭くてくねった坂道をのんびり下りると目の前に漁港が広がる。
正月なので漁に出る船もなく、平日なら魚をさばいてるテントは
無造作に道具ごと放置されている。
長い防波堤とテトラポッドの向こうに瀬戸内海の島が見える。
あの島が何なのかは知らないが、大陽の下をちょうど貨物船が通過したので
RX10M4をF11まで絞り、光芒をわざとらしく出しつつ1枚。

漁港に猫はつきものであり、正月で水揚げはないのだが、何匹かの猫に遭遇する。
防波堤にいる釣り人の釣果を狙っているのかもしれない。
ひときわ若い猫は好奇心にまけてこちらへとコトコト歩いてくるが、
キジトラはちょっと警戒してて、距離をとってこちらと見つめ合うのである。


朝は漁港で3匹、路地で2匹の猫と出会う。
猫連載用の写真を撮りまくる。

さらに淀姫神社方面へ少し散歩してから帰宅。
昼飯。

午後は鞆港方面へ歩くことにする。

そこからはクルマがすれ違うことができない狭い道で鞆港に通じており、
対向車があるときは少ない「離合場所」を利用する。

それを抜けると
古い歴史と風光明媚の鞆の浦である。
午前中、淀姫神社から撮った鞆の浦がこちら。
きれいな湾状になってる。

右側が瀬戸内の海。湾状になってるから古くから港として栄えたのだ。
右奥に見えるのが仙酔島。
その手前に鞆の浦があり、2つの城址が見える。
ひとつは
戦国時代に足利義昭(最後の室町幕府将軍)の居館がおかれ(だから鞆幕府ということもある。将軍がいたところだから)、
江戸時代に鞆城が築かれた台地。

台地下に有名な常夜灯が見える。
このあたりが観光地で、正月なのにいくつかのカフェは開いて観光客で賑わっている。

もうひとつの城址は右手に。
今は陸続きだが、中世までは独立した島(たいか島)があり
鎌倉時代は遊女が住んでいた(と「とはずがたり」に描かれている)。

南北朝期には1342年に南朝方によって大可島城が築かれたが、落城。
戦国時代は、村上海賊の因島村上氏の一族が拠点として鞆の浦の海上権を持つ。

江戸時代、廃城となり、陸続きとなり、円福寺が建てられた。

鞆港沿いに歩き、狭くて古い路地を入ると、円福寺への長い階段があらわれる。
境内に辿り着くと
猫を膝に乗せたカメラ女子を発見。

許可を得て撮影してます。為念。

鞆港周辺で、以前フィールドワークでご一緒した猫好きの街歩き仲間と偶然遭遇する。
なぜ鞆の浦で埼玉に住んでる人とばったり会うのか、それも正月に(笑)!
面白いもんである。
FBでつながってなかったので、その場でつながる。

鞆の浦を散策しながら猫などを撮ってたら日が暮れてきたので
帰宅することに。


大量に撮った猫写真は、今月の猫連載で披露する予定。

その他、神社やら路地やら斜面やら鞆の浦の写真を撮りまくっているので
いつかその辺をまとめたページでも作ろうと思いつつ作れてない。



面白い町ですよあそこは。
歴史の深みが全然違うから。

何しろ、神功皇后三韓征討の帰途、なんて話がしれっとでてくるのだから。
寺院も鎌倉室町は当たり前だから。
鎌倉時代に書かれた「とはずがたり」にも出てくるくらいだから。
織田信長によって京都から追われた足利義昭(室町幕府の将軍です)が
毛利氏を頼ったとき、居館として与えられたのが鞆の浦だから。

しかも、江戸時代の建物もしれっと残ってるのである。

さすが瀬戸内の天然の良港である。
交易で栄えたのだ。

古くから山陽道が通ってはいたが、
交易に使ったり、使者などが行き来するのは海路だったのだ。
水運は重要なのである。

ここは何度訪れても飽きない。








2018/01/01

富士山と延喜式内社と瀬戸内の牡蠣

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

朝の新幹線で名古屋へ。
想像してたより空いてたので余裕で自由席。
さすがに元旦から帰省って人は少ないか。

DE席を確保できたので富士山。

1枚目はiPhone X。2枚目はSONYのRX10M4で撮ってiPhoneへWi-Fiで転送したもの。
どっちもちょっと補正はしてある。ガラス越しなので補正しないとぬるい。




RX10M4は帰省のおともに……というか、鞆の浦で猫を撮るためにソニーからお借りしたもの。

ソニーのカメラってかなり昔から、
スマホへ転送するとき「オリジナルサイズ」以外は「VGAか2M」という選択肢しかなく、
イマドキ「VGAや2M」はないよなあと思うわけで、
(もうVGAなんていわれても何のことか分からん人多いやろ)
この機能がついたとき「スマホはフルHD解像度が当たり前になるのだから長辺は1920は欲しい。iPadは長辺が2048ピクセルあることを考えると、3Mで送れるべきじゃないか。2Mではスマホで共有するにしても少なすぎる。instagram用に正方計にトリミングしたら、スマホで撮った写真より見劣りするじゃないか」とソニーの人には言ってるのだが
残念すぎる。かといって毎回オリジナルサイズではスマホのストレージを圧迫するわけで。
そろそろ仕様をアップデートしていただきたく思います。

実家で初詣。
直会神社と渋川神社。

渋川神社は延喜式内社。
尾張国山田郡の総社だったといわれるとこで
矢田川が作った低地に条里制の跡も残っていたそうな(今は区画整理で消えてるけど)。

高御産巣日神+七柱が祭神なのだが、どれも古い神様で、
東京の神社ではあまり見かけない。


西の方では多いのかなあ。さすがにそこまでは手が回ってない。

夕方、名古屋から新幹線で福山へ。
夜は妻の実家である。

瀬戸内の漁村で瀬戸内の牡蠣を喰らう。
ああ、この冬最初の本格的な牡蠣だわー。
やっぱ、シンプルに調理した地産地消の牡蠣ってめちゃ旨いわ。
生臭さもないし、歯ごたえもいいし。




2016/02/16

鞆の浦の架橋が中止になったそうですが橋を求める人たちもいたんです

朝日新聞の記事。

「鞆の浦」埋め立て計画、広島県が正式断念:朝日新聞デジタル

瀬戸内海景勝地「鞆(とも)の浦」(広島県福山市)の埋め立てと架橋建設計画について、広島県は正式に断念することを決めた。地元住民らが埋め立て免許を県と福山市へ交付しないように県知事に求めた訴訟の進行協議が15日に広島高裁(野々上友之裁判長)であり、県側が免許申請を取り下げる方針を住民側に伝えた。これを受け、住民側は訴えを取り下げた。約9年続いた訴訟が終結した。

だそうである。
鞆の浦はここ。


はじめて鞆の浦架橋問題の話を知ったとき、ステレオタイプな
「公共事業に金を回したい行政や工事をしたい地元の土建業者」
 vs
「景観を大事にしたい地元民」
の争いかと思ってたのである。公共事業&ハコモノ優先行政はいかがなモノか、的な。


でも実際には違ったのだ、という話。

鞆の浦とはちょいと縁があり(妻の実家がこっちなので)、
地元の人と話をするとどうもそうじゃない。
地元でも
「景観が壊れると困る観光エリア」

「橋ができないと道路が狭くて不便すぎるから作って欲しいエリア」
があるのだ。
わかりやすく描くとこうである(地図は「カシミール3D+スーパー地形セット」使用)。


濃い赤い道がすでに完成している県道。
鞆の浦は福山市のはずれにある小さな集落なので、買い物も通勤も他都市への移動も福山市街に出ないと話にならない。
で、上の図の「観光地エリア」は橋がなくても困ってない上に、
道も(広いとはいえないけど)それなりにちゃんとしてる。
橋を作ることで景観が変わるので、架橋反対の人が多いという。
鞆の浦はその湾の眺望が目玉のひとつだから。

でも橋が欲しいエリアの人にとっては事情が違う。
橋がないと、福山の市街地に出るのが大変なのである。
車が通れる唯一の道(上記地図の白い線。特に西半分)が狭くてすれ違いも困難なのだ。
しかも、平日の朝はさらに奥のエリアの人が福山市街への通勤のために
通り抜けようとするので渋滞する。

どのくらい狭いのか。
このくらいである。白く描いてある道の南寄りの方。


これが唯一車が通れる道。
地元の人はよく知ってるので、何カ所か有るすれ違いエリアを使って
うまいことすれ違ってる。
すでに過疎化と高齢化が進んでおり、歩いてるのはほぼ老人。


道幅が広いところでこれ。

他の道はどうかというと、こちらをどうぞ(平地区の路地)。
鞆の浦を訪れたときはこんな道ばかり歩いてるのですっかり覚えてしまった。


狭い土地の斜面に隙間なく家を建てて住んでいた時代そのままなのだ。

もうちょっと地図を拡大してみる。
湾が大きく湾曲(まあだから「湾」なんだが)しているあたり、
土地が僅かで道幅を広げるのも大変なのがわかるかと思う。




土地の人曰く「(架橋に)反対しよるんはみんな外の人間じゃけん」
すみません、わたしも外の人です。
心情的には、奇跡的に残ってるこの古い街並みはなんとか残して欲しい。

ややこしいでしょ。
特に湾の南のエリアは橋がないおかげで
開発に取り残されて自分たちが不便してると思ってる。
確かにめちゃ不便である。コンビニへ行くのも一苦労。

福山駅(新幹線も止まる)からのバスはけっこうマメに出てるけど、
鞆港が終点(上記地図参照)。その先はバスが通れる道がないから。
そこから延々と歩くしかない。
妻の実家は淀媛神社よりさらに南なので
いつもバスの終点からぐるっと鞆港を回って20分以上歩いてる。
個人的には楽しいけど、不便であることに違いは無いのだ。

さてどうするのがいいか、
架橋を求める人の声も聞いているだけに悩ましいのである。
外の人(鞆の浦を観光地として見ている人)はおおむね鞆湾の北側を見てるので
橋なんて無用と思うのだけれども、
南の人たちにとっては重要なのだ。

すでに訪れるたびに空き家も増えているし、
保育園も園児が少なくて閉鎖された(統合された)。
買い物難民化も近い。今は、車を運転できる人が近所の人を乗せて
狭い道を抜けて買い物にいっているそうだが、
みんなかなりの老人なので危険である。

地元の人は橋があれば過疎化が弱まり発展すると思っているけど、
それは高度成長期の話で、今の時代それは望めない。
橋ができようが過疎化は進む。それはもうしょうがない。
たぶん、コストやデメリットに見合うだけのメリットはない。
だから架橋するべきとはいわない。

そのかわり、
橋や道路を作る以外の手は打てないかと思う。
一番困ってるのは買い物と医療なので、
行政が採算度外視で金を出して、
コンビニをひとつ誘致するとか(そうするとわたしも助かる)、
医療機関を整備するとか、
住民の足となるコミュニティバスをマメに走らせるとか
とりあえずなんかできませんかねえ。

淀媛神社からの眺望






2015/09/07

[鞆の浦]鞆の浦のさらに裏を散歩する朝。

朝、雨が上がってたので鞆の浦を2時間ほど散策。
観光ルートは無視して、
斜面の細い路地をカメラ持って散歩……ええ、これでも公道です。
もうすっかり覚えてしまい、
鞆を訪れたときの定番ルートと化してます。

今回は路地と民間信仰を中心に写真をば。

こういう斜面の狭い路地を歩くと

お地蔵様にあたり、
斜面の狭い道を上ると
お地蔵様が鎮座し、
斜面の狭い路地を下ると、
路傍の石仏に出会い、
という具合。

好きな人にはたまらんでしょう。

さて、上の写真、小さな山の上に神社がある。淀姫神社である。
神功皇后の妹である淀媛が祀られている。
(実際にそういう妹がいたかどうかはわからないが、鞆の浦は神功皇后伝承の宝庫なのだ。三韓征伐ののち、都へ戻る途中、鞆に立ち寄ったと地元ではいわれている。

淀姫神社は高台にあるので眺めがよいわけだが。
さらに社殿の奥に回り、岩の上に建つと、鞆の浦を一望できる。
足を滑らせて海に落ちない限り、絶景スポット。
こんな光景が見えるのだ。

湾をぐるっと回り、大可島を目指す。
ここ、今でこそ陸続きだが、江戸時代以前は単独の島で、
鎌倉時代の日記文学「とはずがたり」では、二条が厳島神社へ向かう途中、
船で鞆に立ち寄っている。たいそう賑わっていたようである。
「そこここと漕ぎ進んで行くうちに、備後国、鞆という所に着いた。
 なんとなく賑やかな港とみえるが、たいか島といって離れた小島がある。遊女が世を遁れ庵を並べて住まっている所であった。」(「とはずがたり 全訳注」講談社学術文庫より現代語訳)
と描かれている。賑わっていたのである。離れた小島だったのである。
大可島城は1342年に築かれたと伝わってるそうで、(→備後・大可島城(城郭放浪記)
二条が立ち寄ったのが1302年であるから、その後、
立地の良さから城として使われるようになったのだろう。
南北朝時代には南朝方が篭もったが落城。

その後村上水軍一族の拠点として使われた。

対して、鞆城は戦国時代の1576年、
織田信長に追い払われた足利義昭の居城として毛利氏によって築かれた
のだそうな。

淀姫神社を下りて、湾沿いに大可島城址を目指す。
道ばたでは穴子を焼いて売っている。

山沿いの道に対し、海沿いの道は海に向いた祠や神社が多く残るわけで、
これなどは航海の無事を祈るものだろうし、
(今ではいつも近所のじいさんばあさんが煙草を吸いながらここでくつろいでる)

渡守神社跡は鳥居と碑だけ残るが、ここはかつて渡守神社があった場所で神功皇后伝承が残っている。詳細を語ると長くなるが、とても大事な場所である。

やがて街中に入ると、
路地のそこかしこに地蔵尊がある。これは旧家(残るホーロー看板をみるに、薬屋だったか)脇に隣接する子守地蔵尊。

ここから右におれ、大可島城址に向かう。
古い石の階段を上ると視界がぐっと開け、猫が現れる。
今は円通寺というお寺である。猫は基本である。

そろそろ戻ってこいとメッセージがはいったので
帰途につく。
飛行機の時間があるので遅刻するわけには行かないのだ。

帰りは福山駅まで車で送って貰い、
リムジンバスで広島空港へ。
そこからANAで羽田へ。
はじめての787なのでちょっとうれしい。

悪天候なので富士山は諦めてたが、
雲の上にちょろっと頭を出しててありがたや。
頭を雲の上に出し、とはこのことか。

羽田からはバスで新宿へ。
バス→飛行機→バスとシートベルトしっぱなしで疲れたけど、
いやあ確かに、首都高中央環状線のおかげでめちゃ速く到着。
まあ、トンネルばかりで地下鉄に乗ってるようではあったけど、
これはよいですな。